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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

       第 二 部         vol.20(不定期発行)  
                    2007年02月28日発行

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こんにちは。阿部です。
「西行の京師」はこの号が今年初めての発行となります。予定して
いたよりも大幅に遅れてしまいました。
不定期発行とはいえ、休まずに、しかし急がずに、無理をせずに、
私なりに発行を続けていきます。よろしくお願いいたします。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第20回 ◆

  目次 1 相模の国の歌(1)
      2 相模の国の推定順路
      3 相模の国の主な歌枕
      4 西行と頼朝
      5 雑感
   
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 先回の19号で東海道の支路である甲斐路をたどりました。今号
 では東海道本路に戻って相模(現在の神奈川県)の歌を2回にわけ
 て紹介いたします。

   (1)相模の国の歌(1)
 
1 雪とくるしみみにしだくから崎の道行きにくきあしがらの山
    (岩波文庫山家集16P春歌・新潮975番・松屋本山家集・
                西行上人追而加書・夫木抄)

2 箱根山こずゑもまだや冬ならむ二見は松のゆきのむらぎえ
   (岩波文庫山家集233P聞書集・西行上人追而加書・夫木抄)

(参考歌)

3 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
      (岩波文庫山家集154P恋歌・新潮695番・夫木抄)

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○雪とくる

 雪が溶けるということ。

○しみみにしだく
 
 (しみみ)とは(繁みに)の文字を当てて「限られた場所にぎっ
 しり一杯に詰まって」の意味になります。
 (しだく)は(したき)の活用形で、踏み折る、踏み固めるの
 意味です。室町時代頃から(しだく)と濁音で用いられるように
 なりました。類題本では「したく」ですから佐佐木信綱氏が
 「しだく」に改めたものでしょう。新潮版では「拉く=しだく」
 としています。
 (しみみ)は転じた形で使われ、合わせると、しきりに踏みしめ
 る、一杯に強く踏みしめる・・・という意味になります。

○から崎

 琵琶湖西岸の地名。大津市唐崎のことと見られています。
 「から崎」は夫木抄や新潮版では「かささき」となっています。
 地名ではなく「風先き」の意味です。
 鳥の「カササギ」の可能性も考えましたが、なお意味不明のもの
 になりますから、「風先き」でよいのでしょう。

○足柄山

 箱根にある山の一つで箱根外輪山の金時山の北に位置する足柄山
 のことです。金時山はまた足柄山ともみなされています。足柄峠
 は標高736メートル。坂田の金時伝説や、山姥伝説があります。
 更級日記には足柄山の遊女の記述があります。深い山の中に遊女
 と言うのも不思議な気もしますが、東海道本路としてそれなりに
 賑わっていた証明でしょう。 
 松屋本山家集では「あしがらの山」は「しがらきの山」となって
 いて「から崎」とは同じ近江なので距離的に合います。

○箱根山

 静岡県と神奈川県の県境にある山です。温泉地として著名です。
 最高峰は神山の1438メートル。少し北西に日本最高峰の富士山が
 そびえています。
 東海道は天下の険の箱根の山を越えることになります。
 東海道本路は北回りの足柄峠を越えていましたが、南回りの箱根路
 「湯阪道」も造られていました。802年に富士山が噴火して、その
 噴石が足柄路を不通にしたために、変わって箱根路が開かれたそう
 ですから、箱根路そのものも古くから通行できていたようです。
 西行よりほぼ100年後の、十六夜日記の作者である阿仏尼の鎌倉
 下向は箱根路を利用しました。1279年10月のことです。
 
○あひの中山

 「あひの中山」は伊勢、駿河、相模、陸奥などにあり、どこと
 特定することはできません。伊勢には「間の中山」の俗謡もあり
 ます。
 和歌文学大系21では相模の国の歌枕としています。
 神奈川県津久井郡相模湖町の正覚寺には、この歌の歌碑があり
 ます。

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(1番歌の解釈)

 ゆきとつるしみみにしたくかささきのみちゆきにくきあしからのやま
                      (夫木抄7298番)

 雪解くる しみみに拉(しだ)く かざさきの 道行きにくき 足柄の山
               (新潮日本古典集成山家集975番)

この歌は松屋本にもある歌ですが、不可解な歌です。「から崎」を
滋賀県大津市の唐崎とすれば、神奈川県(相模の国)にある足柄山
とは距離的に整合しません。夫木抄にあるように「から崎」を「風先」
と解釈するのが自然かと思います。(新潮版は夫木抄にしたがって、
「から崎の」から「かざさきの」に書き換えたものです。)

「から崎」とするなら松屋本にある「しがらき(信楽)の山」が合い
ますが、しかし唐崎と信楽も少し距離があります。
どちらにしても二つの地名を詠み込むことの必然なり、おもしろさ
なりを感じさせてくれません。
 
和歌文学大系21によると「生涯に二度足柄越えをした可能性が
あるが、これは現地詠ではない。」と記述されています。

箱根を往還するには、坂がきついけど近道である南の箱根路と、
ゆるやかだけど遠回りになる北の足柄路があります。
二度の陸奥旅行の往路は冬の季節ではないですし、帰路は東海道
ではなくて東山道や北陸道をたどった可能性が強いと思いますので、
やはり冬に足柄越えをした可能性はほぼないだろうと思います。

 「解けかかった雪をぎしぎしと踏み固めながら足柄峠を越えて
 行くが、風上に向かう道はとてもあるきにくい。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 (2番歌の解釈)

 「箱根山は木々の梢もまだ冬だろうか、ここ二見浦は春が来て
 松の上の雪がまばらに消えている。」
 「春は東方より来るが、箱根山の高所ではまだ冬だろうかと
 二見浦の居所から思いやって詠む。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「あづまの国(東国)に向う道の道中にある「あひの中山」の
 その間が狭くてものの見えないように、恋人の心が見えない
 のだが、その見えない恋人の心のおくが見えたら、それこそ
 うれしいのだが、見る方法もない。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
    
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    (2)相模の国の推定順路

東海道甲斐路は横走駅(静岡県御殿場市)から北上して甲斐の国府
(山梨県東八代郡御坂町)にまで通じていましたが、東海道本路は
足柄峠を越えてから相模、武蔵、上総と過ぎて常陸国府(茨城県
石岡市)にまで伸びていました。
今号では相模の国の順路を紹介します。

 横走駅(静岡県御殿場市)→坂本駅(神奈川県南足柄市)→
 小総(おぶさ)駅(小田原市)→箕輪駅(平塚市)→浜田駅
 (海老名市)→店屋(まちや)駅(東京都町田市)

(江戸時代東海道の相模の国の宿場)

 箱根→小田原→大磯→平塚→藤沢→戸塚

駿河の横走駅からは箱根の山を登るルートになります。「足柄山の
金時は・・・」という童謡でも有名な足柄峠を越えてから海辺の町の
小田原市に入ります、小田原市からは海岸線を少しのみたどり、現在
の中郡二宮町あたりから内陸部に入って、神奈川にと向かいます。
陸奥までの初めの旅はこのルートをたどったものと思います。
ところが初度の旅においても東海道を外れて海岸線を進んだのでは
なかろうかという思いを捨て切れません。そのことについては次回
に言及します。

東海道ルートは鎌倉には行きません。鎌倉に入るためには小田原市
を過ぎて二宮あたりから東海道を外れて大磯、茅ヶ崎、江ノ島、
七里ケ浜、稲村ケ崎と海岸線の道をたどって行くことになります。
西行は再度の陸奥までの旅では、このルートをたどって鎌倉に入り、
1186年8月15日に源頼朝と会談し、翌日には陸奥へと歩を運んだもの
と推察できます。

平安時代の東海道の基点である京都の羅城門から鎌倉までのおおよそ
の距離は470キロメートル。伊勢の度会駅からは400キロメートル。
鎌倉から常陸国府まではなお160キロメートル。陸奥までは550キロ
メートル程度あります。再度の旅では高齢でもありますので、一日
平均20キロメートルしか進まないとしても9月の半ばには陸奥に到着
したものと思います。

余談ですが、東海道の順路は、奈良時代には相模の国から東京湾を
船で渡って房総半島に上陸し、上総の国から常陸国府まで北上して
いました。この渡海のルートを廃して、武蔵の国が東海道ルートに
組み込まれたのは771年のことです。

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    (3)相模の国の主な歌枕

 箱根山・足柄山・こゆるぎの磯・鎌倉山など。

○箱根山(神奈川県足柄下郡)

◎ ふたつなき心にいれてはこねやまいのる我身をむなしがらすな
                   (相模 相模集)

◎ はこねやまふたごの山も秋深みあけくれ風にこのはちりかふ
                  (曾丹好忠 曾丹集) 

○足柄山(神奈川県南足柄市)

◎ 忘られぬ人の面影たちそへどひとりぞ越ゆるあしがらの山
                  (藤原為家 為家集)

◎ ゆかしさよそなたの雲をそばだててよそになしつる足柄の山
                 (阿仏尼 十六夜日記)

◎ 足柄の関を夜さへ越ゆるかな空ゆく月に駒をまかせて
                    (慈円 拾玉集)

○小動(こゆるぎ・こよろぎ)の磯(神奈川県鎌倉市小動)

◎ こゆるぎのいそたちならしよる波のよるべもみえずゆふやみの空
                  (藤原家隆 壬二集)

◎ こよろぎのいそたちならし磯なつむめざしぬらすな沖にをれ波
                (作者不詳 古今集1094番)

注 (小動の磯=小余綾の磯)
 「酒匂より大磯までの磯辺をいうなるべし。『方角抄』には
 大磯・小磯のほとりと記せり。『鎌倉志』には腰越と七里ガ浜
 との間を小動」とあり。」
              (東海道名所図会から抜粋) 

○鎌倉山(神奈川県鎌倉市)

◎ 薪伐る鎌倉山の木垂る木をまつと汝が言はば恋ひつつやあらむ
                 (作者不詳 万葉集巻14)

◎ かき曇りなどか音せぬほととぎす鎌倉山に道やまどへる
                   (藤原実方 実方集) 

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    (4) 頼朝と西行

吾妻鏡には、文治2年(1186年)8月15日条に西行が源頼朝と会談
したことが記載されています。

「佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行。仍奉幣以後、心静謁見
 可談和歌事・・・」

とあり、翌16日に頼朝から銀製の猫をもらったこと、すぐに誰とも
わからない子供に譲り与えたことも記述されています。

頼朝と西行の年齢差はほぼ30歳です。西行が1140年23歳の年に出家
してから、7年後に頼朝は生まれたということになります。
西行と頼朝が鎌倉で会談するより以前に二人は逢ったことがあるか
どうかは確証がありません。1159年のうちにあるいは面識ができて
いたかもしれません。
とはいえ1159年では西行の生活の拠点は高野山でしたから、おそ
らくは鎌倉で逢った時が初めてなのでしょう。

ただ源義朝の子息として、また上西門院のゆかりの者として頼朝の
名前だけは西行は知っていたはずです。
保元の乱のときは現場に居合わせていて、つぶさに知っていたわけ
ですが、それに続く平治の乱のことも西行は殆ど知っていたものと
思えます。とするなら、平治の乱で敗れて近江で捕縛された頼朝が
池禅尼の口添えによって一命を助けられて伊豆に配流となったこと
も当然に知っていたでしょう。

源氏の棟梁として頼朝が関東の武士団から推戴されて、平氏との
争乱が始まったのが1180年。頼政、平等院で自刃が同年の5月。
平重衡による南都焼き討ちで、東大寺、興福寺の焼亡が12月。
この年の4月から5月ころにかけて西行は高野山から伊勢二見浦に居
を移しています。

源平の争乱のさなか、国家の事業として東大寺の再建は直ちに着手
されました。1181年1月にはすでに大仏の螺髪の鋳造が始められ、
6月には再建のための造寺・造仏長官に藤原行隆を任命。
東大寺勧進職に俊乗房重源が任じられました。1185年8月、一応の
再建を見、後白河上皇のもとで大仏の開眼供養がなされました。
ただしこの時にはまだ大仏の鍍金はされていませんでした。
重源は1186年に二度伊勢に赴きました。どちらかの時に西行と面談
して、奥州藤原氏に金の拠出を要請するために、その困難な役目を
西行に懇願したものでしょう。

西行がもしも昔に頼朝と面識があったとしたら久闊を叙しあいながら、
上西門院のこととか東大寺再建のことについても親しく話し合った
ものと思います。
頼朝は1185年に東大寺に対して砂金1千両など、たくさんの寄進を
しています。むろん政治的な配慮からでしょう。西行の陸奥行きや、
その目的も当然に知っていたはずであり、鎌倉で会談する前にも
両者で書類のやり取りはしていたものと考えられます。つまり、
京都の後白河帝及び鎌倉の頼朝の公認の元で西行は大役を果たす
ために老体でありながら陸奥の国まで歩を運んだものと思います。

ちなみに西行は平氏びいき、源氏嫌いという評価もありますが、
ちょっとそれには同意できません。結果としてそのように見えたと
しても、断定するだけの根拠はきわめて薄弱と思います。
以下に頼朝の簡単な略歴を記しておきます。

(源頼朝)
1147年〜1199年。53歳。
義朝の三男。1158年、12歳で皇后宮権少進。1159年1月、左兵衛尉を
兼任。2月、上西門院の蔵人。6月、二条天皇の内蔵人。
1159年12月、平治の乱が起き、敗れた義朝は1160年1月、尾張にて
憤死。2月、頼朝は近江で捕縛され、池禅尼の口添えがあり3月に
伊豆に配流。1180年、頼朝挙兵。1185年3月、平氏滅亡。
1186年8月、頼朝、西行と面談。1189年、源義経自刃。同年、奥州
藤原氏滅亡。1192年、鎌倉幕府開府。1199年、頼朝死去。
 
(吾妻鏡=あずまかがみ)
「東鑑」とも表記。鎌倉幕府が編纂した歴史書です。平安末期の
1180年、源頼政の挙兵から書き起こされ、1266年までの出来事を
日記体で記述しています。全52巻。ただし45巻目が散逸していて、
遺されているのは51巻です。

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    (5) 雑感

月日はすでに三月になろうとしています。桃や梅の花が満開です。
早咲きの桜の花も咲いているという報もある昨今です。

今年は降雪量もとても乏しく、冷気の塊がぎしぎしと身体を押し
包んで来るというほどの寒さには見舞われませんでした。
暖冬です。暖かいのは助かります。
とはいえ、この冬は私にとってはかつてない厳しい冬でした。
前年から持ち越していた風邪がいつまでたっても抜けず、それに
手指足指の感覚が乏しくなって就眠時も靴下着用は欠かせません
でした。糖は出ていませんので糖尿病関係ではなくて老化ゆえに
でしょう。それやこれやで不調をかこったままでした。

 春になる櫻の枝は何となく花なけれどもむつましきかな
              (岩波文庫山家集25ページ春歌)

新しい季節に対しての期待感があふれている歌ですね。
桜の花はまだまだ固い蕾の状態ですが、気象庁の開花予報は京都は
3月28日とのこと。
今から開花が待たれます。