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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.21(不定期発行)  
                    2007年04月22日発行

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こんにちは。阿部です。
今年の桜の季節も終わってしまいました。ほどなく、新緑が眼にも
鮮やかな季節になります。
巡り来る桜の開花が年毎に待たれ、咲いたら咲いたで気もそぞろに
なり、風に散り行く花吹雪を見れば、愛惜の思いも強くなっています。
こういう感覚を味わうということは、明らかに年ということですね。
今後、何度桜を見ることができるのか・・・という思いは、年配者
に共通する思いでしょう。
できるだけ長く、一年に一度経巡り来る桜を楽しみたいものです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第21回 ◆

  目次 1 相模の国の歌 (2)
      2 「心なき」歌と三夕歌について
      3 「井蛙抄」と鴫立つ沢
      4 鴫立庵について
      5 雑感
      
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 第20号に引き続き、今号も相模の国の歌を取り上げます。

   (1)相模の国の歌 (2)
 
1 八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。
  武士の、母のことはさることにて、右衛門督のことを思ふ
  にぞとて、泣き給ひけると聞きて

  夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
          (岩波文庫山家集185P雑歌・西行上人集)

(参考歌)

2 心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ
   (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮470番・新古今集・
     西行上人集・山家心中集・御裳濯河歌合・西行物語)

3 えは惑ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に雄鹿鳴くなり
          (西行上人集追而加書・西行物語正保本)

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○鎌倉

 相模(神奈川県)にある地名。相模湾に面している都市です。
 1192年、源頼朝が幕府を開いたことで有名です。1333年に北条氏
 が滅亡するまでの140年間ほどを鎌倉時代と言います。
 
○八嶋内府

 平宗盛のことです。平清盛の三男で清盛死後に家督を継いで、
 平家の統領となりますが、凡庸と評される人物です。母は平時子。
 壇ノ浦の合戦で、息子の右衛門督(平清宗)とともに捕縛された
 平宗盛父子は、源義経に伴われて鎌倉に下向します。ところが
 義経は鎌倉に入ることを頼朝から拒絶されました。
 宗盛父子は鎌倉に入ったのですが、また京都に引き返すことに
 なります。帰京途中に、宗盛と清宗親子は近江の篠原で斬殺され
 ました。1185年6月21日のことです。
 内府とは内大臣の別称です。宗盛は1182年に内大臣になりました。
 1番歌は1185年6月21日以降に詠われた歌であり、伊勢時代の歌と
 みてよく、作歌年代が特定できます。

○右衛門督(うえもんのかみ)

 宗盛の子供の清宗のことです。父親の宗盛と同日に近江の篠原で
 処刑されました。15歳(17歳説もあり)でした。
 右衛門督は右衛門府の長官を指し、官の職掌のことです。

 清宗の母は、西行とも親しかった平時忠の妹です。
 源平の争乱の時代に伊勢に居住していても、西行は都にいた歌人
 達だけでなく、様々な人たちとの交流が続いていたことを思わせ
 る詞書の内容です。
 いろんな情報が伊勢の西行の元に集まっていただろうと思います。
 
○夜の鶴
 
 子供のことを思う親の気持ちの比喩表現といわれます。
 白楽天の詩句「夜鶴憶子籠中鳴」から採られた言葉とのことで、
 釈迦と関連する言葉である「鶴の林」とは関係ないようです。

 「夜の鶴都のうちにはなたれて子をこひつつもなきあかすかな」
                    (高内侍 詞花集)

 1番歌は、上記歌を踏まえてのものでしょう。

○鴫立つ澤

 (鴫の飛び立つ澤)ということで、普通名詞です。固有名詞では
 ありませんから場所については特定できません。
 西行物語を参考にすれば、陸奥までの行程の途次での歌のよう
 です。場所は現在の神奈川県藤沢市の片瀬川(境川)付近で詠わ
 れた歌であるとみられています。
 しかし山家集採録の歌ですから、詠われた場所は畿内であれ四国
 や中国であれ、どこだって可能性があります。伊勢移住前の歌と
 ほぼ断定できますから、むしろ東国での歌の可能性はとても低い
 ものと思います。

○ えは惑う

 意味不明です。この初句は西行物語文明本では「しか松」となって
 います。東海道名所図会によると、小田原と大磯の中間あたりの
 二宮という所に「鹿松」という松の木(?)があったそうです。
 「鹿松」が、地名として転化されているとしたら、かろうじて
 意味が通じるでしょう。
 しかし、どちらにしても西行詠の可能性はほぼ無いと思われる歌
 です。

○ 砥上原(とがみがはら)

 藤沢市の江ノ島に向かって流れる片瀬川(堺川)の西方の野原を
 指す地名です。藤沢市鵠沼(くげぬま)辺りの古い名称です。
 藤沢市の西の茅ヶ崎市あたりまで含めていたもののようです。
 3番歌の砥上原の歌碑が茅ヶ崎市に二ヶ所あります。

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 (1番歌の詞書と歌の解釈)

 (詞書)
 「八嶋内府が鎌倉にむかえられて、京へまた送りかえされなさった。
 武士の母はこうしたもので、覚悟の前とは言いながら右衛門督
 のことを思うと悲しまずに居られぬと言ってお嘆きになったと
 きいて。」

 (歌)
 「夜の鶴は都の内を出ないで欲しい。そうしたら亡き子の悲しみ
 には迷わずには居られよう。
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 (2番歌の解釈)

 「俗世間のことは捨てたはずの世捨人のわが身にも、しみじみと
 したあわれが知られることである。この、鴫が佇立する沢の秋の
 夕暮は・・・」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (3番歌の解釈)

 「生い茂った葛の葉の茂みの中に妻の鹿を住まわせて、ここ砥上原
 では安らぎを得た雄鹿が鳴いているようだ。」
                    (西行物語から抜粋)
 
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  (3番歌について)

この歌は西行詠とするには疑問がありすぎます。出典は西行物語と
西行上人集追而加書です。西行物語は真偽取り混ぜての創作本で
あり、西行上人集追而加書は他者詠歌を西行詠として取り込んで
いる歌も多く、両作ともに西行歌の検証のためには信用できない
書物です。

 柴松のくずのしげみに妻こめてとがみが原に牡鹿なくなり
           
 芝まとふ葛のしげみに妻こめて砥上が原に牡鹿なくなり

茅ヶ崎市に二ヶ所ある西行歌碑では上の歌のように初句は「柴松の」
と「芝まとふ」になっています。どちらにしても意味が通じません。
東海道名所図会には下のように表記されています。

 柴松のくずのしげみに妻こめてとがみが原に子鹿なくなり

東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物
です。同じに相模の国の項で、

 しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし

という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあり
ます。

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   (2)「心なき歌」と三夕歌について

新古今集には361番から364番まで結句を「秋の夕暮れ」とする歌が
4首並んでいます。このうち、寂蓮、西行、定家の歌が三夕歌と言わ
れています。

 さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮
                 (新古今集361番 寂蓮法師)

 こころなき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ
                 (新古今集362番 西行法師)

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
               (新古今集363番 藤原定家朝臣)

いずれの歌にも共通しているのは上句最後の「けり」と、結句の
「秋の夕暮」です。
「けり」という助動詞には断定しての強い言い切り、そして小休止
や転調を促す役割があります。いずれの歌も4句で具体的な実景表現
につながり、結句は「秋の夕暮れ」です。すべての歌は、一首全体
が個人個人が想起する「秋の夕暮れ」の中に収斂する詠い方をされ
ています。それぞれの情景の元での秋の夕暮れが実景を通して、
それが人々の心の内に照応するものとして捉えられます。

実景という言葉を使いましたが、寂蓮歌にしろ定家歌にしても、
実際に実景を見て詠った歌ではなかろうと思います。頭の中でそう
いう情景を思い浮かべて、レトリックを駆使しての歌なのでしょう。

この3首はともに味わい深い歌ですが、個人的には、やはり西行詠を
ひいきにしたいと思ます。それにしても西行歌は他人の視線を意識
してポーズをとっているような感じもして、血気盛んな若い時代の
感覚を残した歌だろうと思います。

 「(鴫立つ)という叙べ方は(鴫が飛び立つ)という動的な内容
 表現に似合わしくないという感じもないわけではないが、しかし
 (夕暮)の沢べであって、すなわち主題の鴫が作者の心に迫った
 のは、見えていたという視覚より突然に聞いた羽音という聴覚から
 であるとみる方が自然だと思われるからである。(中略)
 静的なものより動的な契機があって、それから命持つものの
 (あはれ)を感受したものであろうと思われるのである。」
             (宮柊二氏著「西行の歌」から抜粋)

 「俊成が千載集に採らなかった理由は何か。思うに、彼は下句の
 この景を賞しつつも、作者自身の意識や姿勢をあからさまに表明
 したこの上句に対して、反撥めいたものを感じたのではないであ
 ろうか。(中略)上句は・・・説明的である。・・・いはば押し
 付けのようなものが感じられる。(中略)
 西行にとっては、どうしてもこのように自己の心情を説明しない
 ことにはすまなかったのであろう。彼にとっては風景の描写は
 (鴫立つ澤の秋の夕暮)という下句だけで十分なのであって、問題
 はそれに向う(心なき身)である自身の(心)にあったのだろう。
            (久保田淳氏著「山家集入門」から抜粋)

 「秋の夕暮の沢は、水墨画を思わせるようなさびしく深い色合い
 のなかに沈んでいたにちがいないが、そこに群れていた鴫は、
 西行の姿ないしは足音におどろいて、おそらくは数十羽、鳴きな
 がら夕暮の空に羽音をひびかせて飛び立ったのである。(中略)
 天地の深いさびしさを感じさせるような風景を背景とすることに
 よって、かえってするどく命のそよぎとでもいうようなものを、
 西行に感じさせたのだといえよう。」
               (安田章生氏「西行」から抜粋)

西行歌は山家集に採録されている歌ですから、再度の陸奥行脚の時
の歌ではないと断定できます。1180年の源平の争乱、伊勢移住より
前の歌だということは確実です。
井上靖氏は「西行・山家集」の中で63歳以前の作と明記されていま
すが、63歳と言えば1180年であり、やはり井上氏も伊勢移住前の歌
だとみなされています。

この歌を鎌倉付近での現地詠という少し乱暴な解釈をするなら、
初度の旅の時か、あるいは再度の奥州旅行より前に武蔵あたりまで
の旅行を試みたことがあり、その時の歌なのか判然としません。
現地には両度の陸奥までの旅以外に行っていないのであれば、初度
の奥州までの旅の時の詠歌というしかありません。
しかし歌の感じからみて初度の旅の時の歌とは思えないという印象
が私には抜きがたくあります。やはり30歳代後半から40歳代頃に
武蔵あたりまでの旅をしたことがあって、その時に詠まれた歌では
なかろうかと想像します。

それにしても小夜の中山での「年たけて・・・」歌の詞書では奥州、
平泉の藤原秀衡を思わせるばかりで、何度目かの小夜の中山越えで
あるのか明記していないことが、ちょっとうらめしく思います。 

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    (3)「井蛙抄」と鴫立つ沢

頓阿(1289〜1372)の「井蛙抄」に、この歌についてのエピソード
があります。

「或人云千載集の比西行在東国けるか勅撰有と聞て上洛しける道
 にて登蓮にあひにけり勅撰の事尋けるにはや披露して御うたも
 多く入たると云けり鴫たつ沢の秋の夕暮と云哥入りたりととひ
 けれはみえさりしとこたへけれはさてはみて要なしとてそれより
 又東国へ下りけると云々」
                  (井蛙抄)

「(千載集)撰集のことを、東国にいて聞いた西行は、早く見よう
 と上洛する途で登蓮に逢い、撰集の模様を尋ねたところ、すでに
 披露されて西行の作品も多数撰入されているとのことであったが、
 「鴫たつ沢の秋の夕暮」の歌が撰ばれていないということを知って、
 そのような集ならば見る必要がないといって、また東国へ下ったと
 いうエピソードが伝えられている」
               (安田章生氏「西行」から抜粋)

登蓮法師は勅撰集歌人ですが生没年は不詳です。岩波文庫山家集の
260ページに出てくる人物ですが、1182年に没したと見られています。
千載集が後白河院によって下命されたのが1183年、撰者藤原俊成に
よる最終的な撰集奏覧が1188年です。その前年の1187年9月に形式的
総覧がなされていて、「井蛙抄」にいう(すでに披露されて・・・)
はこの時のことでしょう。登蓮法師が1182年に没したことが事実だと
したら、井蛙抄の上記文言は誤まりだということになります。

この話の原型は「今物語」に出ていて、登蓮法師という固有名詞では
なくて、単なる「知人」として出ているそうです。
(井蛙抄)の記述は、今物語から転載したものでしょう。

1187年9月と言えば西行は再度の陸奥までの旅を終えて、京都嵯峨の
草庵に落ち着いていた頃です。従って、東国へ下るということは、
1183年から1186年の間のことと解釈されますが、この期間には再度
の陸奥下向があります。ただしこれは重要な使命を帯びての旅です
から、使命を放棄して上洛するなどということは考えられなく、その
ほかに直近での東国行脚の可能性も少ないと思われます。
やはり、こういう話自体が西行伝説の一つとして創作され、流布した
ものだろうと思います。

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    (4)鴫立庵について

(鴫立庵=でんりゅうあん・しぎたつあん)

1600年代の中頃、小田原に住む崇雪という人が大磯の地に庵を構え
ました。西行の「こころなき」歌から採って「鴫立庵」と名づけた
のが始まりのようです。この時に「湘南」という言葉も始めて使わ
れています。近くの小流を「鴫立つ沢」ともしたようです。
西行は一つの情景として「鴫立つ沢」と詠んだはずですのに、以後
は「鴫立つ沢」は固有名詞となります。「鴫立つ沢」以外の沢で、
鴫が飛び立っている光景を見ても、「鴫たつ澤」と詠むには無謀な
ことにもなりますから、罪なことをしたものだと思います。
こんなことは個人的には残念なことです。
西行物語その他によって、西行伝説が人口に膾炙して広く伝播して
いたことの証明でもあります。

(大淀三千風)

1639年〜1707年。俳人。伊勢の出身。芭蕉と親交があったようです。
長く松島、仙台に住み晩年には鴫立庵を再興して居住しました。
鴫立庵には1695年から13年間住んだということです。
今西行と自他共に認めていたようです。

 「鴫立沢というのは固有名詞ではなく、鴫の立つ沢の意で、昔の
 連歌師や好事家がいいかげんにつけた地名であることを大人に
 なってから知ったが、私の鴫立沢は、やはり大磯のあすこ以外に
 ない。何度私はあの松林の中に立って、縹渺と霞む海のかなたに、
 鴫が飛び立つ風景を夢みたことか。歌枕とはそうしたものであり、
 それでいいのだと私は思っている。」
               (白州正子氏「西行」から抜粋)

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  (5)雑感

桜もすっかり終ってしまいました。いや、遅く咲く桜もまだ散見
できて、正確にはまだまだなのですが、ソメイヨシノの終わりを
もって桜の終わりとする感覚が私にはあります。遅く咲く桜には、
殆ど感興が起きません。
北海道などはこれから見頃になりますね。お金と時間にゆとりが
あれば、桜を追いかけて行きたい思いもします。
桜の次の舞台の演者のように、今を盛りと春のとりどりの花が眼を
楽しませてくれています。年寄り趣味と笑われそうですが、多種
多様な花を見るのは、それはそれで楽しいことに違いありません。

 玉がきはあけも緑も埋もれて雪おもしろき松の尾の山
                   (岩波文庫山家集99P)

松尾大社の神幸祭が本日4月22日にあって、ちょうど山吹の花も
盛りですから行こうとは思ったのですが、あいにくの降雨のため
断念。数日のうちにでも行って写真を撮るつもりです。

次号は武蔵の国の歌になります。資料も乏しく書くのは難渋する
だろうと思います。頑張ります。

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   http://www.mag2.com/m/0000165185.htm

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