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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.22(不定期発行)
2007年06月15日発行
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こんにちは。阿部です。
この号をできれば早く出そうと思ってはいたのですが、構成に手間
取って今頃になる始末。
時はすでに梅雨の季節。これからは、蒸暑くじめじめとした一ヶ月
ほどが過ぎることになります。
五月雨の頃、いつの年も豪雨による災害がどこかでありますが、
大禍なく平穏に、この季節を乗り越えて欲しいと願うばかりです。
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◆ 西行の京師 第二部 第22回 ◆
目次 1 武蔵の国の歌
2 武蔵の国の推定順路
3 義経記にみる陸奥までの順路
4 武蔵の国の主な歌枕
5 雑感
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(1)武蔵の国の歌
1 玉にぬく露はこぼれてむさし野の草の葉むすぶ秋の初風
(岩波文庫山家集61P秋歌・新潮296番・山家心中集・新勅撰集)
2 汲みてしる人もあらなむおのづからほりかねの井の底の心を
(岩波文庫山家集153P恋歌・新潮690番)
3 むかしおもふ心ありてぞながめつる隅田河原のありあけの月
(岩波文庫山家集280P補遺・雲葉集)
4 和らぐる光を花にかざされて名をあらはせるさきたまの宮
(岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
5 下野武蔵のさかひ川に、舟わたりをしけるに、霧深かり
ければ
霧ふかき古川のわたりのわたし守岸の船つき思ひさだめよ
(岩波文庫山家集70P秋歌・西行上人集・万代集)
東海道は相模の国を越えれば武蔵の国に入ります。
武蔵の国とは現在でいう東京都と埼玉県及び神奈川県の一部を
合わせた広大な地域でした。武蔵の国の国府は東京都府中市に
ありました。
武蔵の国が東海道に組み込まれたのは奈良時代の後期、771年10月
のことです。それまでの東海道は伊豆の国から東京湾を船で渡り、
房総半島の上総の国に上陸して下総の国を経由し、常陸(現在の
茨城県)国府まで伸びていました。常陸の国府が東海道の終点で
した。
武蔵の国は、もともとは東山道のルートにある国でした。
西行は武蔵の国を通過して陸奥までの道をたどりました。二度の
旅ともに武蔵の国からのルートは分明していず、推測するしか
ありません。
江戸時代の東海道は起点が日本橋、終点が京都三条でしたが、
平安時代の東海道は京都の羅城門を起点として、終点が常陸国府
(現在の茨城県石岡市)です。ですから陸奥までの順路としては
東海道を常陸国府まで行き、それから東山道連絡路をたどって
東山道に入り、東山道を通って陸奥までの行程をたどったものと
推定できます。ただし初度の旅でも再度の旅でも武蔵の国から
東海道ルートを外れていると思えます。あくまでも残されている
歌からの考察ですから、ここでは上記ルートをたどったものと
して考えます。
西行物語は武蔵の国からいきなり陸奥の国白河の記述になっており、
この間の下総の国、下野の国については触れていません。
西行は武蔵の国には二度は行ったことは確実ですが、不自然なほど
に武蔵の国の歌が少ないことに驚きます。武蔵の国の歌を詠まな
かったというよりも、詠んではいるけれども散逸したものが多い
のだろうということを思わせます。
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○玉にぬく
難解な表現ですし難解な一首だと思います。
「玉にぬく」は、草の葉に露の白玉が幾つも連続して並んでいる
様子を指します。
○むさし野
東京都の西の多摩川と東の荒川に挟まれた広大な地域を総称して
武蔵野といいます。
狭義には埼玉県川越市以南、東京都府中市辺りまでを指しています。
「武蔵野」は万葉集以後、たくさんの歌に詠まれています。
広大なものの例えとして「武蔵野」ともいうようです。
○ほりかねの井
武蔵の国の歌枕ですが「平安和歌歌枕地名索引」では伊勢集・
散木奇歌集・山家集・古今六帖・蒙求和歌から各1首ずつ、合計
5首しか掲載されていません。他にも数首詠まれています。
「枕草子」に「井は堀兼の井」とあるのですが、平安時代の歌人
達に広く知られていなかったか、知られていたとしても詠むだけ
の感興がおきなかったものでしょう。
埼玉県狭山市堀兼にある「堀兼神社」の井戸を一般的には指すそう
です。この地区には渦巻状の「まいまいずの井」はたくさんあった
そうですから、歌では埼玉の堀兼の地にある井戸全般を指している
ものと解釈してよいでしょう。
近くに入間川がありますが、井戸は深く掘っても水がなかなか出な
かったようです。
(ほりかねる)という言葉遊びのおもしろさで詠まれた歌とみな
して良いと思います。歌は少なく10首ほどが詠まれています。
○むかしおもふ
在原業平の伊勢物語の第九段のことを指していると解釈できます。
伊勢物語第九段には「すみだ河」の記述があり、長い詞書の後に
下の歌があります。
「名にしおはばいざ言とはむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
(古今集411番・伊勢物語第九段 在原業平)
余談ですが、隅田川には業平の歌から名付けた言問橋が架けられて
います。
○隅田河原
現在の隅田川は東京都の東部を流れる荒川の支流で、東京湾に
注いでいる川です。その河原ということです。
西行の時代の隅田川とは埼玉県内の荒川は当然として、栃木県
(下野の国)あたりの利根川をも指していた可能性があります。
新古今集や千載集には「隅田川」の名詞の入った歌はありません。
勅撰集には少なく、多くは私家集にあります。どうしてなので
しょうね。
この隅田川とは別の川である「すみだがわ」歌も多くあります。
「都鳥」が詠み込まれていたら、武蔵の隅田川に間違いありま
せんが、その殆どが現地詠ではありません。
○さきたまの宮
武蔵の国埼玉郡行田にある前玉(さきたま)神社のことだといわ
れています。
現在の埼玉県行田市には115文字の銘文入り鉄剣(国宝)が発見
された稲荷山古墳を含む「さきたま古墳群」があります。その
ことからみても、古代から繁栄していた土地だろうと思わせます。
「さいたま」という地名は、古代には「さきたま」と読んでいま
した。
前玉神社には4番歌の西行歌碑があります。
再度の旅の時に立ち寄ったものと推定できます。
○下野武蔵のさかひ川
下野の国と武蔵の国の境界となる河のことです。利根川を指して
いますが、利根川は西行時代は荒川などと合流して江戸湾に流入
していました。江戸期の大改修によって下総の銚子から太平洋に
流れ込むように流路が変わりました。改修以降は下流では武蔵と
下総の境、上流では武蔵と下野及び下総の境となります。
○古川のわたり
(古川のわたり)は(こがのわたり)と読みます。西行上人集
では(けふのわたり)とあります。現在の茨城県古河市、渡良
瀬川の渡しだろうと見られています。(和歌文学大系21)
しかし古川市は下総の国であり下野の国ではありません。それが
詞書の(下野武蔵の境)とは違いがあります。(下総武蔵の境)
の間違いだろうと思います。書写した人のミスの可能性があります。
ただし、すぐ近くが下野の国ですから、また、当時の古川は現在
より広い範囲を指していた可能性もありますから、特にこだわる
必要もないことだろうとも思います。
(けふのわたり)が(古河のわたり)と別であれば、どうなのか
分かりません。
ここでは詞書に武蔵の地名がありますから、武蔵に関係する歌と
して取り上げました。
(1番歌の解釈)
「武蔵野に秋の初風が吹き初めて、玉を貫いたごとく連なって
いた露はこぼれ、草の葉は吹きよられて結んだようになって
いるよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
この歌は歌会の席での題詠歌です。新勅撰集は藤原定家の独撰
によって1235年に完成したものです。西行歌は14首のみです。
(3番歌の解釈)
「昔のことをいろいろと思う心があって、特になつかしくなが
めたことだ。隅田川原のありあけの月は。(業平のことなど考え
たのであろう。)」
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
(4番歌の解釈)
「光を和らげて仏様の垂迹されたその光を、美しい花の上に飾り
つけて、有名になった埼玉郡の前玉神社よ。」
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
(5番歌について)
西行法師家集に収められていて114番です。113番は小夜の中山(注1)
の歌であり、歌の配列から考えて5番歌は再度の旅の時の歌と解釈
してよいと思います。したがって再度の旅の行程は、相模の国
から武蔵の国に至り、武蔵の国を北上(鎌倉街道)してから東に(注2)
進路を取り、下総の国、それから下野の国を通過したものだろうと
推定できます。もちろんこの順路を取ったというのも推定であり、
その理由も分かりません。
騎馬であるのか徒歩であるのかも分かりませんが、鎌倉を8月16日
に発って、遅くとも9月の半ばまでには平泉に着いていただろうと
思われます。
初度の旅は順路は不明ですが、平泉着が10月12日と131ページに
明記されています。
(注1)について
西行法師家集では
112番 (頼めおかむ君も心や・・・)(280P補遺)
113番 (年たけて又こゆべしと・・・)(128P羇旅歌)
114番 (霧ふかき古川のわたりの・・・)(70P秋歌)
という配列になっています。ここで気がつくことは、113番の後に
(風になびく富士の煙の・・・)歌が無いことです。これは西行
法師家集では(風に・・・)の歌は恋歌の部に撰入されている
からです。本来なら(風に・・・)歌が114番という配列がふさ
わしいものと思います。
(注2)について
鎌倉街道と呼ばれていた道があります。源頼朝が鎌倉に幕府を
開いた頃から戦国時代を通して鎌倉にまで通じる道を総称して
いたようです。
京都からの東海道も鎌倉時代は鈴鹿越えルートではなくして、
それまでの東山道ルートを尾張まで行き、そこで旧来の東海道と
合流していました。このルートも鎌倉街道と言っていました。
阿仏尼が鎌倉に向かったルートです。
(このルートも江戸時代になると元の鈴鹿越えの東海道ルートに
復します。)
鎌倉から武蔵の国、府中に入り、所沢、狭山あたりを経由して
上野国(群馬県)高崎に向かう道も鎌倉街道と呼ばれていました。
再度の旅の時には「古川のわたり」の歌がありますので、部分的
に鎌倉街道を利用したと思って間違いないでしょう。
「さきたまの宮」とある3番歌についても、再度の旅の時の歌である
と思います。
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(2)武蔵の国の推定順路
平安時代の東海道の順路は武蔵の国内は以下のようになります。
店屋(まちや)駅(東京都町田市)→小高駅(神奈川県川崎市
高津区)→大井駅(東京都品川区大井)→豊嶋駅(東京都台東区
谷中)→井上駅(千葉県市川市国府台)
店屋駅から井上駅までの距離は64.6キロメートルです。
江戸時代の東海道の武蔵の国の宿場。
戸塚→保土ヶ谷→神奈川→川崎→品川→日本橋
20号で相模の国の宿場を以下のように記しましたが、戸塚までが
相模の国、戸塚から日本橋までが武蔵の国となります。
お詫びして訂正します。
箱根→小田原→大磯→平塚→藤沢→戸塚→保土ヶ谷→神奈川→川崎
江戸時代東海道の戸塚から日本橋までは48.8キロあります。
東海道は日本橋で終りですから、ここでは日本橋までの距離しか
記述していません。日本橋から陸奥までは奥州街道となります。
江戸時代の五街道は東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州
街道を指しています。五街道はすべて日本橋を起点としています。
参勤交代のために諸国の大名達はこの街道のどれかを通って江戸
と国元を往復していました。
西行の二度に渡る陸奥への旅の武蔵から陸奥白河までの順路は
不明というしかありません。
初めての旅の場合は京都を桜の散る頃に出て、方々に逗留しながら
10月12日平泉着。
二度目の旅は1186年、伊勢を7月末頃か8月初めには出発し、8月
15日に鎌倉で頼朝と会談しています。平泉着は9月の早いうちと
見ていいものと思います。
平泉で藤原秀衡に東大寺大仏の鍍金の為の金の拠出を依頼すると
いう目的を果たして、すぐさま帰路につき、京都には同年のうち
に帰り着いて、嵯峨の庵に住んだものでしょう。
どちらの旅も帰路は来た道を引き返したのではなくて、東山道か
北陸道をたどったものと考えられます。
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(3)義経記にみる陸奥までの順路
源義経が初めて奥州に向かった順路を義経記(岩波文庫版)から
抜粋します。足柄からにします。もちろん戦記物語ですから、
義経が実際にたどった道であるという確証はありません。
「足柄の宿打ち過ぎて、武蔵野の堀兼の井を外(よそ)に見て、
在五中将の詠(なが)めける深き好(よしみ)を思ひて、下総の
国高野と云ふ所に著(つ)き給ふ。」(中略)
「隅田川邊を馬に任せて歩ませ給ひける程に、馬の足早くて、二日
に通りける所を一日に、上野国板鼻といふ所に著き給ひけり。」
「下野の室の八島を外に見て、宇都宮の大明神を伏拝み、行方の
原にさしかかり、実方の中将の、安達の野辺の白真弓」(中略)
「安達の野辺を見て過ぎ、安積の沼の菖蒲草、影さへ見ゆる安積山、
きつつ馴れにし信夫の里の摺衣、など申しける名所々々を見給ひ
て、伊達郡の阿津賀志の中山越え給ひて」(中略)
「武隈の松、逢隈川と申す名所々々過ぎて、宮城野の原、躑躅の岡
を詠めて、千賀の塩釜へ詣でし給ふ。あたりの松、籬の島を見て、
見仏上人の旧跡松島を拝ませ給ひて、紫の大明神の御前にて祈祷
申させ給ひて、姉歯の松を見て栗原にも著き給ふ。」(中略)
「我が身は平泉へぞ下りける。」
(岩波文庫「義経記」36P〜46Pのうちから抜粋)
駿河の国 足柄の宿
相模の国 なし
武蔵の国 堀兼の井・隅田川辺
下総の国 高野
上野の国 板鼻
下野の国 室の八島・宇都宮の大明神
陸奥の国 行方の原・安達の野辺・安積山・信夫の里・阿津賀志
の中山・武隈の松・逢隈川・宮城野の原・躑躅の岡
塩釜・あたりの松・籬の島・松島・紫の大明神・
姉歯の松・栗原・平泉
義経記巻二のこの記述から見ると、神奈川県南足柄市→埼玉県
狭山市→埼玉県北葛飾郡杉戸町高野?→群馬県安中市→栃木県
栃木市→栃木県宇都宮市→福島県安達郡→福島県白河市→福島県
二本松市→宮城県白石市→宮城県名取市→宮城県仙台市→宮城県
塩釜市→宮城県宮城郡→宮城県栗原郡→岩手県西磐井郡平泉町
以上のルートをたどったことになります。
尚、芭蕉の「奥のほそ道」の旅は常陸国府には向かわずに日光街道
をたどっていますので、西行の歩いたルートとは少し違うだろうと
思います。奥の細道のルートは次号に記します。
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(4)武蔵の国の主な歌枕
隅田川・武蔵野・掘兼井など。
○隅田川
◎ 舟わたすすみだ川原に降る雪の色にまがへる都鳥かな
(頼政集 源頼政)
◎ すみだ川今も流れはありながらまた都鳥あとだにもなし
(教長集 藤原教長)
◎ 昔思ふすみだがはらに鳥もゐば我も昔のこととはでやは
(秋篠月清集 藤原良経)
○武蔵野
◎ 恋ひけば袖もふらむを武蔵野のうけらが花の色に出づなゆめ
(万葉集巻一四3376番 よみ人知らず)
◎ 秋風のふきとふきぬる武蔵野はなべて草葉の色かはりけり
(古今集821番 よみ人知らず)
◎ 行くすゑは空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ
(新古今集422番 摂政太政大臣藤原良経)
○堀兼井
◎ 武蔵野の堀兼の井もあるものを、うれしく水の近づきにける
(千載集1241番 藤原俊成)
◎ いまはわれ浅き心をわすれみずいつ堀兼の井筒なるらん
(拾玉集 慈円)
◎ いかでかとおもふ心はほりかねのゐよりもなほぞふかさまされる
(伊勢集 伊勢)
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(5)雑感
この雑感は、その号でうまく伝え切れなかったことごとを補完的に
記述したり、その季節ごとに私の感じるものを自然体で記してきま
したが、なんだか面白くは無いですね。
文体を変えるなりの何かしらの方策がありそうですが、何も思いつ
きません。
どうしたものかと迷います。迷いのままに号を重ねるのでしょうね。
梅雨に入りました。入梅は昨年よりは遅いとのこと。
これから蒸暑く、うっとうしい日々が続きますが、これも四季の彩と
思えば、かえって楽しめることかも知れません。
今を盛りと咲いているアジサイが見頃です。
京都には三千院、藤森神社、宇治の三室戸寺などの名所がありますが、
今のところ、どこにも行く予定がありません。
梅雨の終りがけ、まだ本格的な夏に突入する前にでも鎌倉あたりに
でも行って散策してみようかなーと漠然と思っています。
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