もどる
===============================

  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部          vol.23(不定期発行)  
                    2007年07月23日発行

=============================== 

こんにちは。阿部です。
祇園祭も終りました。梅雨も間もなく明けるでしょう。
この7月には季節はずれの台風4号の襲来。
そして新潟と長野を中心としての大きな地震。
ともに犠牲者が出て、いたましい限りです。
大きな自然災害に見舞われたときには、自然の圧倒的な力の前
では、人間の無力さを感じざるをえません。

===============================

   ◆ 西行の京師 第二部 第23回 ◆

 目次 1 陸奥の国の歌(1)
     2 白河の関について
     3 白河までの推定順路
     4 下総・常陸の国の歌枕
     5 「おくのほそ道」にみる陸奥までの順路
     6 雑感
 
===============================

   (1)陸奥の国の歌(1)

1  みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関にとまりて、
  所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ
  吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名残
  おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける

  白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
   (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮1126番・山家心中集・
         西行上人集・新拾遺集・後葉集・西行物語)

2  さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼ
えてあはれなり。都出でし日数思ひつづくれば、霞とともにと
  侍ることのあとたどるまで来にける、心ひとつに思ひ知られて
  よみける

  都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
         (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮1127番)

3  思はずば信夫のおくへこましやはこえがたかりし白河の関
           (岩波文庫山家集244P聞書集・夫木抄) 

4  白河の関路の櫻さきにけりあづまより来る人のまれなる
          (岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)

(参考歌)
5  白河の梢を見てぞなぐさむる吉野の山にかよふ心を
           (岩波文庫山家集30P春歌・新潮69番・
                山家心中集・西行上人集)

6  白河の春の梢のうぐひすは花の言葉を聞くここちする
       (岩波文庫山家集31P春歌・新潮70番・夫木抄)
        
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○みちのくに

 「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
 当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
 927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
 が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
 でした。白河の関までが道(東山道の)で、それよりも奥という
 意味です。

 大化の改新の翌年に陸奥の国ができました。
 陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
 一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
 西行の時代は福島以北は陸奥の国と出羽の国でした。
 陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
 います。
 出羽の国は山形県と秋田県を指します。
 
○能因

 中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
 橘永ト(たちばなのながやす)。
 若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
 (高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
 いたようです。
 「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
 多くの影響を与えました。
 家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

○しのぶ・信夫

 西行時代の信夫は、現在の福島県福島市にあたります。
 陸奥の国の歌枕です。
 古今集の河原左大臣源融の歌や伊勢物語によって信夫摺りが有名に
 なりました。

○霞とともにと

 能因の歌にある句です。

 みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
                 (後拾遺和歌集518番)

 かすみとは春霞のことです。「秋風ぞふく」という句によって、
 春から秋という半年間という長い時間を要して白河の関まで行った
 ということです。こんなに時間をかけていることから、本当に陸奥
 まで行ったのか当初から疑われていたようです。
 くしくも西行も初度の旅ではあちこちに逗留して、半年間ほどを
 要して陸奥にまで行きました。

○心ひとつに

 能因の歌にある世界と共通した感慨を持ったということを表して
 います。

 (1番の詞書と歌の解釈)

 「奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白河の関に
 とどまったのであるが、白河の関は場所がらによるのであろうか
 月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、能因が
 「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と歌を
 詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残
 多く思われたので、関屋の柱に書きつけた、その歌」

 「白河の関屋(関守のいる所)も荒れて、今は人でなく月がもる
 (守ると洩るとをかける)のであるが、その月の光はそこを訪ね
 る人を関守(月が)として人をとどめるように人の心に深い感動
 をあたえて心をとめるのであったよ。(もる、とむる、関屋の縁語)
          (渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
      
 (3番歌の解釈)
 
 「修行を思い願わなかったならば信夫の奥へ来なかっただろう。
 越えがたかった白河の関を越えて。」
                  (和歌文学大系21から抜粋)

 同書によると「信夫の」は聞書集底本では「ミセケチノ」とある
 ようです。ミセケチとは「見て消した」という意味ですから、この
 部分に何かしらの不備があったものでしょう。いずれにしても
 「白河の関」の名を詠みこんだ歌であることに変わりはありません。
  
 (4番歌の解釈)

 「白河の関のあたりの桜が咲いたのだな。東国からやってくる
 人がまれだ。」
 「東国から都にやってくる人がまれなので、人々は白河の関の
 桜に引き留められているのだろうと想像する。都人の心で詠う。」
                  (和歌文学大系21から抜粋)
 
 4番歌は西行上人集(西行法師家集)にのみあります。山家集に
 採録されていないことによって伊勢時代以後の西行晩年の作と
 考えられます。
 ということは再度の陸奥旅行の帰りの途次に白河の関で詠んだ
 現地詠かとも思わせます。現地詠とするなら文治3年(1187年)
 の春の詠歌ということになります。そうでしたら西行は一冬を
 平泉で越してから京都に帰りついたことになります。
 ところが私にはどうしても現地詠とは思えません。現地詠と
 すれば、「あづまより来る人のまれなる」は白河の関より東方の
 人なのか、それとも西方の京方面から来る人がまれなのか分かり
 ません。
 歌にある「あづま」という言葉が武蔵の国あたりを指していると
 するなら、当時は白河の関には武蔵の国からの官道の直通路が
 ありませんでした。そういうことを考え合わせると、やはりこの
 歌は白河の関を詠み込んではいますが現地詠ではないものと解釈
 されます。
 
 これはやはり和歌文学大系21の解説にあるように白河の関での実景
 表現ではなくて、白河の関以外の場所での想像による歌なのでしょう。
 今の所、私は1186年中に陸奥から京都に帰り着いて京都で年を越した
 という解釈をしています。この歌も京都に帰り着いてから詠んだ
 ものだろうと思えます。
 窪田章一郎氏の「西行の研究」では「西行年表」の1187年条に
「春のころ、旅の目的をはたし陸奥よりはやく帰洛したと推定される」
 とあります。他の研究者も1187年夏頃までには帰洛という見解を
 取られています。
 天候や体調などの関係で一冬を平泉で過ごして、1187年に帰洛した
 ということも十分に考えられます。

 安田章生氏は、その著「西行」の中でこの歌に触れています。
 現地で詠んだ歌と解釈されています。

 「みちのくから白河の関まで帰ってきた西行が、そこで東国から
 やってきた人と出会っている趣が感じられ、この作が帰路の作で
 あることを思わせる。(中略)
 「遠い旅路で、桜の花盛りに出会った喜びとともに、その桜の花
 の華やかなさびしさをとらえている。そうしたことを通して、
 旅愁のようなものをにじませており、読後には、旅愁を噛みしめて
 立っている旅姿の作者の像が浮きあがってくる。(中略)
 かくて文治三年(1187)の夏の頃までに、西行は都へ帰ったので
 あった。」
           (安田章生氏「西行」229ページから抜粋)
 
 (参考歌)について

 5番と6番の参考歌にある(白河)については陸奥の白河、京都の
 白川のどちらともいえません。
 陸奥の白河の歌は(白河の関)という形で詠みこまれています。
 (関)のない歌については京都の白川と解釈して良いかとは思い
 ますが、しかしそれは断定できるだけの根拠とはなりえません。
 5番歌などは吉野との距離がある分だけ、陸奥の白河の方が京都の
 白川よりは余計に感興が深まるようにも思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎ たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関はこえぬと
                    (平兼盛 拾遺集)

◎ みやこにはまだ青葉にて見しかどももみぢ散りしく白川の関
                    (源頼政 千載集)

◎ 雪の色の月のひかりのなをとめていくよかへぬるしらかはのせき
                   (藤原家隆 壬二集)

◎ たよりあらば都へつげよ雁がねもけふぞこえつるしらかはのせき
                   (順徳院 順徳院集)

===============================

(2)白河の関について

白河の関はいつごろに置かれて関として軍事的に機能していたのか、
明確な記録がなくて不明のままです。
陸奥の白河の関、勿来の関、そして出羽の国の「念珠が関」を含めて
古代奥羽三関といいます。

「白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として勿来関(菊多関)
とともに4〜5世紀頃に設置されたものである。」
                (福島県の歴史散歩から抜粋)

ところが文献にある白河の関の初出は799年の桓武天皇の時代という
ことです。それ以前の奈良時代の728年には「白河軍団を置く」と
年表に見えますので、関自体も早くからあったものと思われます。

朝廷の東進政策、同化政策によって、もとから住んでいた蝦夷と
呼ばれていた人々との対立が激化して行きました。その過程で関は
必要だったのですが、730年頃には多賀城が造られ、800年代初め
には胆沢城ができ、朝廷の直轄支配地は岩手県水沢市付近にまで
伸びていました。そうなると、白河の関は多賀城や胆沢城に行く
ための単なる通過地点にしかすぎなくなります。前進基地として
の軍事的な関の役割がなくなってしまって、いつごろか廃されて
関守りも不在となりました。

能因と西行では130年の隔たりがあります。西行の時代でも関の
建造物が残っていたということは奇跡的なことなのかも知れま
せん。あるいは能因の見た関の建物と、西行の見た関の建物は
同一のものではないのかも知れません。能因の時代以後に新たに
関屋を建てることは考えられないので、同一のものであろうとは
思います。

西行や能因の立ち寄った白河の関は白河市旗宿関の森にあります。
後年、幹線道路は関の北側に移されたために幹線道路から外れた
場所に古代の白河の関があります。

この古い白河の関とは別に「堺の明神」があり、ここも白河の関
です。古代白河の関から5キロほど離れているようです。
この堺の明神はいつごろできたのか定かではないようです。
奥の細道の旅で芭蕉が始めにたどり着いたのはこの「堺の明神」
です。「関の明神」と書かれています。ここから旗宿の白河の関
までたどっています。
 
===============================

   (3)白河までの推定順路

武蔵の国から陸奥白河までの実際の順路は不明というしかありません。
ここでは、当時の官道である東海道、東山道連絡路、東山道をたどって
白河まで行ったものとして記述します。

 (東海道)
 豊嶋駅(東京都台東区谷中)→井上駅(千葉県市川市国府台)→
 茜津駅(柏市藤心)→於賦駅(茨城県利根町布川)→榛谷駅
 (龍ヶ崎市半田町)→曽弥駅(土浦市下高津町)→常陸国府
 (石岡市国府)
 
 (東山道連絡路)
 常陸国府→安侯駅(西茨城郡岩間町安居「笠間市安居」)→河内駅
 (水戸市渡里町)→田後駅(久慈郡金砂郷町大里)→山田駅
 (久慈郡水府村天下野)→雄薩駅(久慈郡大子町小生瀬)→高野駅
 (福島県東白河郡矢祭町)→長有駅(東白河郡棚倉町)→松田駅
 (西白河郡泉崎村関和久)
             (古代の道「吉川弘文館発行」を参考)

常陸の国の駅及び東山道連絡路にある駅は時代によって大きな変遷
があります。ルート自体も固定していなかったものと思われます。
これには利根川や那珂川、久慈川などの水運の関係もあることと
思います。
当時は陸路だけでなくて水路の利用は盛んでしたし、なによりも
水路の利便性の良いところに交易などのために市が立ち、それが町を
形成して行きました。利根川の古川市や取手市、鬼怒川の宇都宮市
などがそうです。人が集まるところに大きな道ができるのが道理です。
また奈良時代から平安時代半ば頃までを通しての蝦夷との対立関係
ということもあって、朝廷と多賀城(724年設置)や胆沢城(802年設置)
との連絡網の整備も最重要課題だったものと思えます。

利根川の東にある於賦駅は延喜式では下総の国です。ということは、
利根川の流路は茨城県利根町布川あたりでも平安時代以降に人為的
に替えられたものとみなして良いと思います。



武蔵の国豊嶋駅から常陸国府までは97.6キロメートル。京都羅城門
から東海道終点の常陸国府までは617.7キロメートル。
常陸国府から東山道合流点の松田駅までは120.8キロメートルあり
ます。京都の羅城門から白河の関までは東海道と東山道連絡路を
たどれば738.5キロメートルあることになります。

===============================

(4)下総・常陸の国の歌枕

 (下総の国)

 ○真間継橋など

◎ あづまぢをあさたちゆけばかつしかやままのつぎはしかすみわたれり
                  (源頼政 兼実歌合)

◎ かつしかや涙の道にぞわたしけるむかしおもひしままのつぎはし
                    (慈円 拾玉集)

 (常陸の国)

 ○鹿島・筑波山・筑波嶺など

◎ 鹿島なるつくまの神のつくづくと我身一つに恋をつみつる
                 (詠み人知らず 拾遺集)

◎ あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に吾は来にしを
              (大舎人部千文 万葉集巻二十)

◎ 筑波山端山繁山しげけれど思ひ入るにはさはらざりけり
                (源重之 新古今集1013番)

◎ 東路やしらぬさかひにやどりしてくもゐにみゆるつくばやまかな
                  (堀川百首 藤原顕仲)

◎ 筑波嶺の峯のもみぢ葉おち積り知るも知らぬもなべてかなしも
            (詠み人知らず 古今集東歌1096番)

◎ よそにのみおもひおこせしつくばねのみねの白雲けふみつるかな
                     (能因 能因集)

===============================

  (5)「おくのほそ道」にみる陸奥までの順路

芭蕉が門弟の曾良を同伴して「奥の細道」の旅に立ったのは1689年
3月27日。同年9月7日、大垣での記述をもってこの旅は終っています。
時に芭蕉46歳でした。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」という格調
高い書き出しで有名な紀行記です。
白河着は4月20日、平泉着は5月13日です。
平泉までの行程を記します。

 隅田河辺の芭蕉庵→千住→草加→室の八嶋→日光→那須の黒羽→
 蘆野の里→白河の関→阿武隈川→須賀川→浅香山・信夫・二本松
 →飯塚の里→鐙摺・白石・笠島→武隈・名取川・仙台→宮城野・
 躑躅が丘→多賀城「壷の碑」→末の松山・塩釜・籬が嶋→松島・
 雄島→姉歯の松・緒絶えの橋・石巻→登井摩→平泉
 
武蔵の国 芭蕉庵・千住・草加・粕壁
下野の国 間々田→室の八嶋・鹿沼・日光・那須の黒羽
陸奥の国 白河の関・阿武隈川・須賀川・浅香山・信夫・二本松・
     飯塚の里・鐙摺・白石・笠島・武隈・名取川・仙台・
     宮城野・躑躅が丘・多賀城「壷の碑」・末の松山・塩釜・
     籬が嶋・松島・雄島・姉歯の松・緒絶えの橋・石巻・
     登井摩・平泉

 東京都荒川区南千住→埼玉県草加市→春日部市→

 栃木県小山市間々田→栃木市惣社町→鹿沼市→日光市→矢板市→
  那須郡黒羽町→那須郡那須町蘆野→

 福島県白河市→須賀川市→郡山市→二本松市→福島市

 宮城県白石市→岩沼市→名取市→仙台市→多賀城市→塩釜市→
  宮城郡松島町→石巻市→登米郡登米町→

 岩手県一関市→西磐井郡平泉町
 
「奥の細道」の記述は紀行文としてはとても大雑把です。しかし
同行した「曾良随行日記」によって詳細を知ることができます。
基本的には江戸時代の日光街道、そして奥州街道、金華山道を歩い
て平泉に到着したのですが、しばしば街道からそれています。
ただひたすらに平泉を目指したわけではなくて、各地の見所を訪ね
ながらの「風狂の旅」でしたから、当然の順路でしたでしょう。

===============================

   (6)雑感

本日7月23日は大暑。一年のうちで最も暑さの厳しい日であると
いわれます。関西の梅雨あけばまだなのですが、午後からの日差し
の強さからみて、2.3日うちには梅雨明けでは無いかと思います。
梅雨が明ければ一挙に夏の到来です。

数年ぶりに眼鏡を新調するために午後から長岡京市に出向きました。
私は若い頃に15年間ほど長岡京に住んでいましたし、京都市民に
なってからも職場は長岡京にあったので、良く知っている町です。
用事が終わってから久しぶりに長岡天満宮に寄りました。キリシマ
ツツジで有名な天満宮です。20歳までにはしばしば八条が池で魚釣り
やボート遊びなどをして楽しんだところです。

10年少し行かない間に、池の周辺も随分と整備されていて、その
変貌に驚きました。池の周りの遊歩道は歩きやすくなっており、
桜やモミジの木も多くて、年間を通して楽しめそうです。
10年一昔、人ばかりではなくて、多くのものが変わっていくのは
必然ですね。

今号では下野の国の歌をどうするか、その編集に迷いました。下野
の国は東海道が通っていず東山道の国ですから、今回は触れずに陸奥
の歌を紹介することにしました。下野の国には「遊行柳」の碑があり
ますから、また帰りの順路にあたりますから、いずれは触れたい
ものです。