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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.24(不定期発行)  
                    2007年09月15日発行

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こんにちは。阿部です。
いやー。今年の夏は暑さも厳しいものでしたね。炎暑・酷暑・猛暑
などのいろいろな言い方がありますが、地獄で釜茹での刑に処せら
れているというのが実感でした。
この夏も台風襲来その他、気がかりな出来事はそれなりにあったの
ですが、先日の安倍首相の突然の辞任には本当にびっくりしました。
唐突すぎるという印象は否めないですね。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第24回 ◆

 目次 1 陸奥の国の歌(2)
     2 信夫のこと
     3 陸奥の国の歌枕(1)
     4 雑感
     
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   (1)陸奥の国の歌(2)
 
1  さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼえて
  あはれなり。都出でし日数思ひつづくれば、霞とともにと侍る
  ことのあとたどるまで来にける、心ひとつに思ひ知られてよみ
  ける

  都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
         (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮1127番)
         
2  ふりたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくて
  やすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すは
  これなりと申しけるを聞きて

  ふままうき紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋

  しのぶの里より奧に、二日ばかり入りてある橋なり
     (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1129番・夫木抄)

3  あづまへまかりけるに、しのぶの奧にはべりける社の紅葉を

  ときはなる松の緑も神さびて紅葉ぞ秋はあけの玉垣
         (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮482番)
         
4  東路やしのぶの里にやすらひてなこその関をこえぞわづらふ
           (岩波文庫山家集280P補遺・新勅撰集)

5  思はずば信夫のおくへこましやはこえがたかりし白河の関
           (岩波文庫山家集244P聞書集・夫木抄)

(参考歌)

6  枯野うづむ雪に心をしかすればあだちの原に雉なくなり
                    (御裳濯河歌合46番) 
         
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○わたり
 
 住んでいる場所。または平面的に広がっている空間を指すことば。
 漠然と、広い地域を指します。

 山がつの住みぬと見ゆるわたりかな冬にあせ行くしずはらの里
       (岩波文庫山家集172P雑歌・新潮1548番・夫木抄)

 この歌にある(わたり)と同義です。

○霞とともに

 能因の歌にある句です。

 みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
                 (能因 後拾遺和歌集518番)

 かすみとは春霞のことです。「秋風ぞふく」という句によって、
 春霞から秋風の頃までの半年間という長い時間を要して白河の関
 まで行ったということがわかります。こんなに時間をかけている
 こともあってか、能因は本当に陸奥まで行ったのか当初から疑わ
 れていたようです。
 くしくも西行も初度の旅ではあちこちに逗留して、半年間ほどを
 要して陸奥にまで行きました。

○あらぬ世のことにおぼえて

「この世のことでは無いような気がして・・・」と
「昔、能因がたどった頃と同じ世のような気がして・・・」
 という両方の意味が込められていると解釈できます。

○心ひとつに

 能因の歌にある世界と共通した感慨を持ったということを表して
 います。 

○ふりたる

 古いということ。

○たな橋
 
 板を棚のように架け渡しただけの簡便な橋のことを言います。
 
○おもはくの橋

 どこにあったか不明です。順路から見れば「武隈の松」を見て
 から岩沼市を北上して、名取川の川幅の狭いところにかかる橋
 (おもはくの橋)を渡って名取市に入ったものと思われます。
 
 ところが芭蕉の「おくのほそ道」の曾良随行日記では
 「末の松山・興井・野田玉川・おもハく□の橋、浮嶋等ヲ見廻帰」
 とあります。
 ここでは塩釜市の野田玉川にかかる橋と解釈されますので、西行
 の歌にある橋とは位置が明らかに違います。
 平安末期から江戸初期の間に「おもはくの橋」の架かる場所が
 変わったものとも考えられます。

○ふままうき

 踏みしめて進んで行くことが辛い・・・という気持のことです。

○しのぶの奧にはべりける社

 福島県福島市信夫山に鎮座する羽黒神社と見られています。

○ときはなる

 (ときは)は(常盤)で、原意は(永遠に、しっかりと同一の性状を
 保っている磐)のことです。
 転じて、ここでは一年中色を変えない常緑樹のことをいいます。

○なこその関

 福島県いわき市勿来町関田にあった古代の関。古くは「菊多の関」
 と呼ばれていました。太平洋側に面しています。

(2番歌の解釈)

 「豪華絢爛な錦のような紅葉が橋板全体に散り敷いているので、
 踏むのがもったいなくて渡れないまま、思惑の橋には人通りが
 絶えてしまったよ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
(3番歌の解釈)

 「いつも常盤の色を見せる松の緑に、秋は紅葉した蔓草がからまっ
 て、あたかも朱の玉垣を思わせ、一層神々しく見えることだ。」
               (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 この歌は新潮版では「秋歌」として採られています。

(4番歌の解釈)

 「東路にある信夫の里(福島西北の高陵、歌枕)に休息して勿来の
 関(福島県多賀郡関本村、歌枕)をその名のなこそのようになかなか
 こえきらずにいる。(道のわるいのに苦しんでいるのか。それとも
 次々に出てくる歌枕に感慨をおぼえて越えわずらっているのか。」
          (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 (参考歌について)

 この歌は御裳濯河歌合46番と夫木抄にあります。

 枯野うづむ雪に心をまかすればあたりの原にきぎすなくなり
                 (岩波文庫山家集271P補遺) 

 枯野うづむ雪に心をしかすればあだちの原に雉なくなり
                    (御裳濯河歌合46番) 

 かれのうづむゆきにこころをまかすればかたりのはらにきぎすなくなり
                      (夫木抄第22巻) 

 「まかすれば」と「しかすれば」の異同、「あたりの原」と
 「あだちの原」「かたちのはら」の異同があります。

 福島県の「安達原」の可能性も考えて、一応はここに出しておき
 ます。

 (4番歌と勿来の関について)

 勿来の関は福島県いわき市の太平洋を望む位置にあります。
 古代に関が設置されたことからみても、福島県内の海岸線を通る
 このルートは早くから整備されていたと考えられます。続日本紀
 にはこのルートは「海道」と記されています。
 陸奥守源義家は前九年の役か後三年の役の往復のどちらかには、
 このルートを使って陸奥の前線にまで行ったものと思われます。
 また、源頼朝軍は奥州藤原氏征討のためにこのルートに一軍を
 割いて進発させています。
 このルートは江戸時代には磐城街道と呼ばれていました。茨城県
 水戸市から宮城県岩沼市まで続き、岩沼市で奥州街道と合流して
 陸奥にまで続いています。江戸日本橋から水戸を過ぎて岩沼市
 までのルートを明治になってから陸前浜街道と呼ぶようになりま
 した。

 先号でも「白河の関について」の項で少し言及しましたが、勿来
 の関は古代には菊多の関と言われていて、白河の関、念珠(ねず)
 の関とともに古代奥羽三関の一つでした。
 面白いことに福島県の歴史散歩では以下の記述があります。

 「勿来関は古くは菊多関といわれ、勿来関とよばれるようになる
 のは、江戸時代の文人達が文学的修辞からその呼称をつけたこと
 に始まる。(後略)」
          (山川出版社「福島県の歴史散歩」から抜粋)

 福島県の歴史散歩の記述を信じるならば江戸時代以前は「勿来」
 の固有名詞はなかったものと思われます。
 ところが平安時代にはたくさんの歌人が「勿来の関」名を詠み
 込んだ歌を残していますし、勿来という言い方は平安時代から
 あったものと信じていいでしょう。西行の歌にある「なこそ」も
 やはり実在した勿来の関を詠みこんだ歌と解釈するしかありません。

 西行は実際には勿来の関には行かなかったと思われますが、もち
 ろん検証する方法などありません。歌の感じから現地詠ではなか
 ろうと私が思うだけで根拠などはありません。

 「勿来」とは、「汝越そ」であり平易に約せば「あなたはこな
 いで」という意味となります。
 勿来の関に掛けてはいますが、関がどこにあるかということなど
 とは関係なく、男女の恋愛の機微を言い表すために「勿来の関」
 の名称が使われています。

 (前九年の役、後三年の役)

○前九年の役(1051年〜1062年)

 陸奥守源頼義と清原氏の連合軍が安倍氏を滅ぼした戦いのこと
 です。1051年、安倍頼時が叛すると年表にはありますが、奥
 六郡(現在の岩手県、北上川流域)を実効支配していた安倍氏
 が朝廷の施策に従わなかったことが原因のようです。
 1057年、安倍頼時敗死。1062年、衣河の関の戦い、厨川柵の戦い
 を経て安倍貞任は捕縛されて殺されました。
 この時、1062年当時24歳の源義家も従軍していて、戦後に従五位
 下、出羽守に任命されています。

○後三年の役(1083年〜1087年)

 奥州清原氏の内訌に陸奥守源義家が介入して発展した私戦。合戦
 終結後、義家は陸奥守を解任されます。替わって藤原基家が陸奥守
 となります。朝廷から恩賞をもらえなかったため、義家は自費で
 自軍の武将たちの戦功に報いたと言われています。
 この戦いで生き残ったのが清原清衡です。この人物が奥州平泉の
 藤原三代の初代の藤原清衡です。

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◎ 陸奥のしのぶもぢずり たれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに
            (源融(かはらの左大臣) 古今集724番)

◎ 春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれかぎり知られず
                (在原業平 伊勢物語第一段)

◎ 消えねただしのぶの山の峰の雲かかる心のあともなきまで
                (藤原雅経 新古今集1094番)

◎ 吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山ざくらかな
                   (源義家 千載集103番)

◎ 立ち寄らばかげふむばかり近けれど誰かなこそのせきをすゑけん
                (小八条御息所 後撰集683番) 

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  (2)信夫のこと

「福島県の歴史散歩」によると、現在の福島県福島市あたりは
古代の信夫国造(しのぶのくにのみやっこ)の支配していた荘園
でした。従って信夫とは現在の福島県福島市のほぼ全域を指して
いた地名ということです。
現在は福島県福島市の信夫山にその名をとどめています。
                 
歌の世界において、信夫の土地が有名になったのは源融の歌以降
のことといわれています。

 陸奥のしのぶもぢずり たれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに
           (源融「かはらの左大臣」 古今集724番)

 陸奥は「みちのく」と読みます。この歌を本歌として在原業平の
 歌があります。

 春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれかぎり知られず
                (在原業平 伊勢物語第一段)

 この二つの歌を踏まえて歌人達は盛んに「しのぶ」の歌を詠み
 ました。信夫地方の名産品の「摺り衣」や「信夫もじずり」、
 そして摺り衣の原料である忍草の「忍ぶ」と地名の「信夫」を
 掛けてなどの詠み方をされています。

◎ 人知れず苦しきものはしのぶ山下はふ蔦のうらみなりけり
                (藤原清輔 新古今集1093番)  

◎ しのぶ山忍びて通ふ道もがな人の心の奥も見るべく
               (在原業平 伊勢物語第十五段)

◎ ともしする宮城が原の下露に信夫もぢずりかわく夜ぞなき
                 (藤原匡房 千載集194番)

◎ 思へどもいはで忍ぶのすり衣心のうちに乱れぬるかな
                  (源頼政 千載集663番)

◎ 早苗とる手もとや昔しのぶ摺り
                   (芭蕉 奥のほそ道)

(もじずりのこと)

信夫モジズリは「しのぶ草」を原料として藍色をを絹に染め付けた
もので信夫地方の名産品だったようです。古くは養蚕が盛んだった
ものでしょう。
福島市の「文知摺観音」には絹地を染めたという「文知摺石」があり
ます。
 
蘭科の「ネジバナ」という花は可憐な花ですが、別名は「モジズリ」
と言います。信夫モジズリと何かしらの関係があるのではなかろうか
と思いましたが、残念ながら無関係のようです。

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  (3)陸奥の国の主な歌枕(1)

 「福島県」

 安積山・安達原・阿武隈川・白河の関・信夫・勿来の関など

○安積(あさか)山 (郡山市日和田町付近)

◎ 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を吾が思はなくに
                 (前采女 万葉集巻十六)

◎ 水の面にかげさへうつるあさかやま浅きは人のちぎりなりけり
                   (順徳院 順徳院集)

○安達原(福島県安達郡(現、二本松市)の安達太良山の麓付近)

◎ 思ひやるよその村雲しぐれつつあだちの原に紅葉しぬらむ
                (源重之 新古今集1351番)

◎ 陸奥のあだちの原の白まゆみ心こはくも見ゆる君かな
                 (詠み人しらず 拾遺集)

○ 阿武隈川
 (福島県南端の旭岳を源流として福島県内を貫流し、宮城県に
  入って岩沼市で太平洋に注ぐ川)

◎ 行末にあふくま川のなかりせばいかにかせまし今日の別を
                (高階経重 新古今集866番)

◎ 君にまたあふくま川を待つべきに残すくなきわれぞ悲しき
                (藤原範永 新古今集867番)

○ 勿来の関(福島県いわき市勿来町)

◎ 惜しめどもたちもとまらずゆく春を勿来の関のせきもとめなむ
                    (紀貫之 貫之集?)

◎ みるめ刈るあまのゆきかふ湊路になこそのせきも我はすゑぬに
                    (小野小町 小町集)

◎ 君こずばしでの山にぞ郭公しばしなこそのせきをすゑまし
                    (藤原実方 実方集)

 (白河の関)の歌については23号をご参照願います。

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  (4)雑感

拙稿をとてもご丁寧に読んでいただいて、間違った記述は時折指摘
していただく読者の方がいます。ありがたいことです。
高槻市古曽部にお住まいのN様です。N様のご指摘によって分かり
ましたが、先回23号にも多くの記述ミスがありました。
お詫びして訂正します。

1 目次の 2と3の番号が逆。
2 (能因)の項の「小曽部」は「古曽部」。「小」は「古」。
3 (3)白河までの推定順路の項の「東京都大東区」は「東京都
  台東区」。「大」は「台」。 
4 (3番歌の解釈)「ミセケチとは何か不明ですが・・・」
  ミスではなく出典も明記していますが、私の勉強不足を計らず
  も露呈することになりました。ここでミセケチの意味を記述
  しておきます。
  「ミセケチ=写本などで、字句の訂正をするのに、もとの文字
   が読めるようにした消し方」
                    (岩波書店 広辞苑)

言い訳になりますが、いくら気をつけていてもミスはあるもので
すね。できるだけ無くしたいように努力します。

九月も半ば。これから過ごしやすくなります。
ことにひどかった今年の暑さ厳しい夏の疲れが出ることと思います。
ご自愛をと願いあげます。