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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部            vol.25(不定期発行)  
                    2007年10月24日発行

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こんにちは。阿部です。
本日は10月24日。節季は霜降。昨日に九月十三夜も過ぎて立冬も間近。
自然はすっかり秋の装いをしています。
春の、むせ返るほどの新生の息吹に満ち充ちた季節も素晴らしい
のですが、秋は秋で、えも言われぬ魅惑的な季節であると思います。
刈り入れの終わった田んぼの秋の夕暮れの光景などは牧歌的でさえ
あり、私の好きなシーンの一つです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第25回 ◆

 目次 1 陸奥の国の歌(3)
     2 藤原実方のこと
     3 壷の碑について
     4 陸奥の国の歌枕(2)
     5 雑感

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   (1)陸奥の国の歌(3)
 
  みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼしき
  塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが
  事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、
  実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだに
  ものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、
  後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて

1 朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
    (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・西行上人集)
             山家心中集・新古今集・西行物語)

  たけくまの松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見に
  まかりてよめる

2 枯れにける松なき宿のたけくまはみきと云ひてもかひなからまし
         (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1128番)

  名取川をわたりけるに、岸の紅葉の影を見て

3 なとり川きしの紅葉のうつる影は同じ錦を底にさへ敷く
     (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1130番・夫木抄)

 
4 むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆるつぼのいしぶみそとの濱風
          (岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1011番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

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○常よりもとおぼしき

 普通より、ということ。野中にはありえない立派な塚・・・と
 いう意味になります。
 没後150年ほどを経ても実方の墓として誰かに管理されていたと
 解釈していいものと思います。

○実方の御こと

 藤原実方のことです。後述。

○さらぬだに

 そうでなくとも・・・という意味。墓は他の場所よりも哀感を
 覚えるということを言っています。

○枯野の薄

 現在も、実方の墓に向かう道の辺に植えられています。

○たけくまの松

 陸奥の歌枕の一つです。
 岩沼市の「竹駒神社」のすぐ近くにあります。「二木の松」とも
 言われています。根元は一本ですが、幹はすぐに二本に分かれて
 いるからこの呼称があります。人為的に二本にしたものと思い
 ます。ここの公園には幹を二本にした木ばかりが多数ありました。
 現在の松は七代目で150年ほどの樹齢になるそうです。

○名取川

 陸奥の歌枕です。
 奥羽山脈に源を発して、途中で広瀬川と合流して仙台湾に注いで
 います。長さ55キロメートル。
 河口は閖上(ゆりあげ)といい、江戸時代の1668年には貞山堀運河
 が造られました。
 古くから水運が開けていたそうで、月刊誌「小説宝石」に連載中
 の森詠氏の「坂東三国志」によると、ここから紀州熊野までの
 航路が平将門(903年〜940年)の時代にはできていたようです。
 上流域には秋保温泉があります。
 歌は「名を取る」「名が立つ」などのことを言うために、下の歌
 などを本歌にして、多くは恋の歌に詠まれています。

◎ 陸奥にありといふなる名取川 なき名とりてはくるしかりけり
                (壬生忠岑 古今集628番)

◎ 名取川瀬々のむもれ木 顕ればいかにせんとか あひ見そめけん
              (詠み人知らず 古今集650番)
 
○つぼのいしぶみ

 普通は多賀城碑のことです。ただし西行の時代は津軽にあると
 いう碑の事と解釈できます。後述。

○そとの濱風

 外の浜の風ということです。「外の浜」は地名で陸奥の歌枕です。
 陸奥の最奥の青森県津軽半島の東岸にあります。

(1番歌の解釈)

 「陸奥に流され、ここで身を空しく朽ちてしまったが、歌人と
 しての朽ちることのない名だけは留めおき、枯野の薄をその形見
 として見ることだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を
 埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 七家集本ではこの歌は3首連作となっています。一首目は1番歌
 です。2首目と3首目を記します。

2 はかなしやあだに命の露消えて野べに我身の送りおかれむ
     (岩波文庫山家集193P雑歌・新潮764番・宮河歌合・
                  新続古今集・西行物語)

3 いつかわれ古き卒塔婆の数に入りて知られず知らぬ人にとはれむ
                    (七家集本山家集)        

(2番歌の解釈)

 「枯れてしまって松の姿の跡形すらない武隈は、「見き」といっ
 ても、「みきとこたへん」と詠まれたその幹はなく、甲斐のない
 ことであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「名取川の岸の紅葉の水にうつるかげは河の水底にさえも岸と
 同じく美しい紅葉の錦を敷いていることである。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 ここでは歌の紹介が前後してしまいましたが、先号紹介の「ふま
 まうき」歌の次にこの「名取川」の歌があります。武隈の松の
 ある竹駒神社から15キロほどを過ぎて、名取川に架かる古い橋の
 「おもはくの橋」を渡って宮城野の原に入りました。

(4番歌の解釈)

 「陸奥の更に奥の方は、行ってよく知りたいと思われることだよ。
 壷の碑(いしぶみ)とか、外の浜の浜風とか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「陸奥平泉に来て、更に奥があると知って行ってみたくなった。
 津軽には壷の碑があるという。外の浜風が吹くという。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
 この歌は現地詠ではないと思いますし、かつ西行の平泉までの道程
 とは少しずれますが、編集の都合で今回取り上げました。

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◎ たけくまのまつはこのたびあともなしちとせをへてやわれはきつらん
                (能因法師 後拾遺集1042番)

◎ 桜より松は二木を三月越
                   (芭蕉 おくのほそ道)

◎ 名取川やなせの浪ぞ騒ぐなる紅葉やいとどよりてせくらむ
                  (源重之 新古今集553番)

◎ みつのくのつぼの石ぶみ行きて見むそれにも書かじただまどへとは
                      (慈円 拾玉集)
               
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  (2)藤原実方のこと

 生年不詳、没年は998年11月とも12月とも言われます。陸奥守と
 して陸奥に赴任中に客死しました。40歳に満たない年齢と思われ
 ます。
 藤原北家流師尹(もろただ)の孫。父の定時が早世したので叔父
 の済時の援助を受けて育ったといわれます。
 左近将監、侍従、左近少将、右馬頭などを歴任して、994年に左近
 中将。翌年に陸奥守として陸奥に赴任。

 「古事談」によると、藤原行成との軋轢があり「歌枕見て参れ」
 と一条天皇から命を受けて陸奥守に左遷されたとあります。
 実方が陸奥に赴任したのは、その説以外にも自発説ほかいくつか
 の説があります。どれが本当か分かりません。
 「源平盛衰記」によると笠島の道祖神社の前を下馬せずに通り
 過ぎたために落馬して命を落としたと書かれています。
 お墓は現在の宮城県名取市愛島にあります。西行の「朽ちもせぬ」
 歌の歌碑も建っています。ただし碑文は殆ど読み取れません。
 家集に「実方朝臣集」があります。中古三十六歌仙の一人です。

 この歌は確実に初度の旅の時の歌ですが、同じ旅の時の一連の
 歌から離れて一首のみ、ぽつんと採録されています。そのことが
 気にはなります。

 なお、芭蕉の「おくのほそ道」では、芭蕉は行き過ぎて実方の墓
 には行かなかったのですが、人から聞いたこととして、「形見の
 薄今にあり」と書いています。
 「おくのほそ道」は脚色が多くて、そのままでは信用できません。
 ですが、同行した曽良随行日記と照らし合わせると旅の実際の
 様子が分かります。曽良は「行過テ不見」とのみしたためて
 います。従って芭蕉が行った当時は「形見の薄」があったのか
 どうかは不明です。

 白州正子氏は「西行」の中で以下のように記述しています。
 「竹林の入り口に、勅使河原流の外国産の枯尾花が植えてあり、
 大げさに(かたみの薄)と記してある。いうまでもなく「奥の
 細道」の「かた見の薄今にあり」の薄で、歌枕もここまでリアリ
 ズムに徹すれば何をかいわんや。」

 実方は死後に雀に姿を変えて都に戻ってきたという伝説があり
 ます。もとは中京区でしたが移転して現在は左京区にある
 「更雀寺」が、その伝説を留めています。

 「かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを」
                 (藤原実方 百人一首51番)

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  (3)壷の碑について

 陸奥の国府であった多賀城にある石碑のことです。高さ2.48メー
 トル、幅1.03メートル。(宮城県の歴史散歩から抜粋)
 しかし(平泉への道 工藤雅樹氏著)や多賀城市のホームページ
 などでは、高さ1.96メートル、幅は0.92メートルとなっており、
 かなりの違いがあります。(宮城県の歴史散歩)の記述はあるいは
 誤りなのかもしれません。

 この多賀城碑は江戸時代初期の1658年以前には発見されていて、
 当時から歌枕の「壷の碑」に当たるとみなされていたようです。
 1689年には芭蕉もここに立ち寄ってこの碑を見ています。

 「(前略)ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心
 を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅の労を忘れて、涙も落つ
 るばかりなり」
                 (おくのほそ道 角川文庫)
 芭蕉の感動が如実に伝わってくる記述です。

 石碑には以下の文面が彫られています。

 「多賀城 京を去ること一千五百里     (注1)
      蝦夷の国の界を去ること一百廿里
      常陸の国の界を去ること四百十二里
      下野の国の界を去ること二百七十四里
      靺鞨の国の界を去ること三千里」 (注2)

 他には「多賀城は神亀元年(724)年に大野東人が置いたもので
 あり、天平宝字六年(762)に藤原朝かりが修造した」という
 説明文が彫られています。
 
 ところがここに一つ大きな問題があります。
 「壷の碑」と目されているものは青森県上北郡東北町にもあり
 ます。昭和24年(1949)6月に発見されたものです。
 ここには現在、日本中央の碑歴史公園が整備されています。
 碑文は「日本中央」とのみあります。坂上田村麻呂が弓を用いて
 彫ったということが、西行と同時代人の藤原顕昭の「袖中抄」に
 記述されているようです。

◎ 石ぶみや津軽の遠にありと聞く えぞの世の中を思い離れぬ
                   (藤原清輔 清輔集)

◎ 思ひこそ千島の奥を隔てねど えぞかよはさぬつぼのいしぶみ
                   (藤原顕昭 夫木抄)

 西行の時代の壷の碑は青森県にある石碑を指していると断定して
 良いと思います。

 西行も壷の碑は青森県にあるものと理解していたと解釈した上で、
 「むつのくの・・・」歌は若い時代に詠んだものであると思い
 ます。少なくとも初めての奥州行脚の旅に立つまでのものであり、
 都にあって、陸奥に対してのあこがれめいた気持が詠ませたもの
 でしょう。
 「西行」の白州正子氏も同様に解釈しています。

 (和歌文学大系)の初度の旅の時の平泉での詠歌とする解釈も
 不自然さは無いものと思いますが、しかしそうであるなら1126番
 からの初度の旅の時の一連の歌の中に納められていないことが気に
 なります。不思議と言えば不思議です。1番歌の「朽ちもせぬ」歌
 も離れていますので、そのこと自体は決定的なことではないのかも
 知れません。

(注1)
 現在における一里は約3927メートルほど。奈良、平安時代の一里
 は約530メートルほどです。30里で16キロメートルほどです。
 京から多賀城までは1500里とありますが、当時の距離を現代に
 合わせて換算すると約800キロメートルになります。
 武部健一氏著の「古代の道」によれば、東山道ルートは京都羅城門
 から陸奥の多賀城までは約780キロメートル。平城京からなら792
 キロメートルほどということです。
 そのことからみても、この石碑に刻まれている距離は正確であり、
 当時の計測技術の高さを証明しているともいえます。

(注2)   
 靺鞨は(まつかつ)と読みます。中国東北部に当たる地名です。
 当時の日本とも盛んに交易のあった渤海国がありました。
 ツングース族の興した渤海国は926年に滅んでいます。

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  (4)陸奥の国の主な歌枕(2)
   
 「宮城県」

 武隈の松・名取川・壷の碑・籬嶋・姉歯の松・緒絶えの橋・
 宮城野・松島・雄島・塩釜・野田の玉川・末の松山など。

○武隈の松(宮城県岩沼市)

◎ たけくまのまつはふたきをみやこ人いかがととはばみきとこたへむ
                (橘季通 後拾遺集1041番)

◎ 帰り来むほど思ふにも武隈のまつわが身こそいたく老いぬれ
                (藤原基俊 新古今集878番)

○名取川(宮城県仙台市・名取市を流れる川)

◎ ありとても逢はぬためしの名取川朽ちだにはてね瀬々の埋木
               (寂蓮法師 新古今集1118番)

◎ 嘆かずよいまはたおなじ名取川瀬々の埋木朽ちはてぬとも
        (摂政太政大臣(藤原良経)新古今集1119番)

○壷の碑(宮城県多賀城市及び青森県上北郡の二ヶ所)

◎ 思ふこといなみちのくのえぞ言わぬつぼの石ぶみ書きつくさねば
                     (慈円 拾玉集)

◎ 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ書き尽くしてよつぼの石ぶみ
                (源頼朝 新古今集1785番)

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  (5)雑感

京都の三大祭の最後を飾る時代祭りも過ぎてしまいました。
いよいよ今年の秋も残り少ないという感じです。
秋の終りの掉尾を飾るものとしての紅葉が今から待たれます。
若い時代なら見向きもしなかった紅葉ですが、春の桜とともに
年毎に近しいものとして感じています。今年も充分に紅葉を楽しみ
たいものです。来月下旬から12月の初め頃までは見頃でしょう。

本日の新聞の一面に広辞苑が10年ぶりに改訂するという記事が
ありました。それは良いのですが、なんと(うざい)(めっちゃ)
(いけ面)(ラブラブ)などの若者言葉も採録されるようです。
ひえーと思いました。歌は世につれと言いますが、言葉もそうに
違いないものですし、あるいは仕方ないのかも知れません。
それにしても、軽いものが果てもなく侵食するという感じも否め
ません。「広辞苑よ、お前もか」という思いも持ちます。
広辞苑ですから万遍なく掲載しなくてはならないという責務もある
のでしょう。

風邪にかかって症状がなかなか取れない状況です。寝込むほどでは
無いのですが微熱もしっこく付きまといます。すんなりと抜けて
くれると良いのですが、体調が戻るにはいつも数週間はかかって
しまいます。
皆さんもご自愛をと願いあげます。