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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.27(不定期発行)  
                    2008年02月23日発行

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こんにちは。阿部です。
二月如月。まだまだ寒い日々が続いています。しかし確実に春の
兆しのある昨今です。梅の花もまもなく満開となりますね。
来月5日の啓蟄、20日の春分の日も過ぎれば、もう春といっても
良い頃となります。いまから今年の桜が待たれます。
西行の歌にある「見ぬ梢なく」というわけにはいきませんが、
今年は努めて多くの桜を見たいものと思います。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第27回 ◆

  目次 1 陸奥の国の歌(5)
     2 平泉往還 
     3 中尊寺と藤原氏
     4 陸奥の国の推定順路(白河から平泉まで)
     5 陸奥の国の主な歌枕(4)岩手県
     6 雑感  

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   (1)陸奥の国の歌(5)

   十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、
   ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかり
   むかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはしたる、
   ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りて
   とりわけさびしければ

1 とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
           (岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮1131番)
             
   奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥國へ遣はされしに、
   中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、
   いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あらば
   物がたりにもせむと申して、遠國述懐と申すことをよみ侍りしに
             
2 涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
     (岩波文庫山家集131P羇旅歌・西行上人集・山家心中集)

   双輪寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに

3 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
          (岩波文庫山家集260P聞書集・夫木抄)

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○平泉

 現在の岩手県西磐井郡平泉町のこと。清原(藤原)清衡が1100年
 頃に岩手県江刺郡から平泉に本拠を移して建設された仏教都市
 です。清衡が建立した中尊寺の金色堂は1124年に完成した時の
 ままで、一度も焼失していません。奇跡的に残りました。
 金色堂には清衡・基衡・秀衡の三代の遺体(ミイラ)があります。

○衣川

 平泉の中尊寺の北側を流れている少流で、北上川に注いでいます。

○見まほしくて

 「あらまほし」などと同様の用い方です。
 「見」「まく」「ほし」が接合して、縮めて使われている言葉
 です。
 「見)は見ること。「ま」は推量の助動詞「む」の未然形。
 「く」は接尾語。「ほし」は欲しい、のことで形容詞。
 (強く見たいと思って)というほどの意味です。
 
○衣川の城

 藤原氏の衣川の館のこと。もともとは奥州豪族の安倍氏の柵「城」
 がありました。
 秀衡のプレーンでもあり藤原泰衡の祖父でもあった藤原基成の居住
 していた館です。衣川に面していたといいます。
 義経の衣川の館は最後に平泉に落ち延びて以後に建てられた高館
 のことです。(義経記から)
 ここが源義経の最後の地と言われます。現在は「高館義経堂」と
 呼ばれています。小高い丘にあり、中尊寺からも衣川からも少し
 離れています。

○しまはしたる

 衣川の館は城構えのため、館の外側を垣などで囲んでいる状態を
 言います。

○ことがらようかはりて

 「事柄、様変わりて」のことです。
 この歌自体が初度の旅の時のものとみなされますので、再度の
 旅の時に初度の旅のことを振り返って・・・という意味ではない
 はずです。
 事柄とは、自身で見たことはないけど、かねて聞き及んでいた
 安倍氏の衣川の柵(衣川の城)の状況と対比させているものと
 思われます。

○とりわきて

 格別に。特別にということ。

○奈良の僧、とがのこと

 奈良の興福寺の15名の僧侶が、康治元年(1142年)に悪僧として
 捕縛されて陸奥に配流されたことを指すようです。
 陸奥に配流されてから何年か後に西行と会ったものでしょう。
 年代的に考えるなら西行初度の旅の時の歌とみなして良いので
 すが、しかしこの歌は山家集にはありません。
 そのことを主な根拠として窪田章一郎氏は再度の旅の時の歌と
 されています。
 あるいは、できごと自体は初度の旅の時のものだとしても、歌が
 詠まれた年代はずっと後になってのものとも考えられます。

○中尊寺

 後述。

○都の物語

 歌に「古き都」とありますし、かつ、「奈良の僧」と詞書にあり
 ますから平城京のことを話題にしたということです。

○かたきことなり 

 「難いこと」で、望んでもかなわない出来事という意味であると
 思います。
 和歌文学大系21では「有がたき事」としています。西行上人集
 では「かたきこと」となってますので、当時は「かたきこと」が、
 現在の「ありがたい」という意味をも合わせ持っていたものと
 考えられます。

○双輪寺

 京都市の東山区にある古くからのお寺です。当時、真葛原と呼ば
 れた(現在の円山公園に重なります)地の南端に当たります。
 広いお寺でしたが、高台寺や円山公園を作るときに寺地を削られ
 て現在は小宇です。
 このお寺に西行の草庵があったようで、現在も「西行庵」として
 残されています。

○松河に

 当時は句読点を表記する制度自体がなくて、文字は続けて書いて
 いました。「松河に」は松は川に近いという意味です。「松河」
 という固有名詞ではありません。

(1番歌の解釈)

 「平泉に着いたその日、折りから雪降り嵐がはげしく吹いたので
 あったが、早く衣川の城が見たくて出かけ、川の岸に着いて、
 その城が立派に築かれているのを見、寒気のなかに立ちつくし
 ながら詠んだ・・・(略)
 衣川の城を見に来た今日は、とりわけ心もこごえて冴えわたった
 ことだ、というのである。寒い冬の一日、はるばると来て、歌枕
 であり、また、古戦場でもある衣川を初めて見た西行の感慨が
 出ている歌である。」
              (安田章生氏著「西行」から抜粋)

 「衣河を見に来た今日は今日とて、雪が降って格別寒い上、とり
 わけ心にまでもしみて寒いことである。」

 ○しみて 「沁み」と「染み」を掛け、「染み」は「衣河」の
       「衣」の縁語。
 ○わたる 「河」の縁語。
 ○見にきたる 「きたる」は、「来たる」と「衣」の縁語
       「着たる」とを掛ける。
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋) 

(2番歌の解釈)

 「故郷なつかしさの涙を衣川、そして衣の袖に流したよ。古い
 奈良の都を思い出しながら。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「衣川の汀に寄って立つ波は、そうか、岸の松の根を洗うの
 だったよ。」
 ○(立つ)は(裁つ)で衣の掛詞。(洗う)は衣の縁語。
               (和歌文学大系21から抜粋)

 窪田章一郎氏は1番歌は初度の旅の現地詠、2番歌は再度の旅、
 3番歌は初度の旅から帰ってからの双輪寺での歌会の席での
 題詠歌と推定されています。

 3番歌は山家集には所収されていないのですが、そのことによって
 再度の旅の後の歌と考えることは題詠ということ、歌から受ける
 印象ということで無理がありそうです。窪田氏も初度の旅から
 帰洛したときの歌会でのものと解釈されていますし私もそのよう
 に思います。
 若い頃の歌とはいえ、山家集に収められていない歌もあるという
 ことです。

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  (2)平泉往還

 西行はその生涯のうちに平泉までの二度の旅をしたことが知られ
 ています。
 一度目は何年の年か推定するしかないのですが、西行26歳の頃から
 30歳頃にかけての旅と見られています。1143年から1147年にかけて
 です。窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で30歳に都を旅立ち、
 翌年の31歳に帰郷したと推定されています。
 目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」の中で初度の旅に触れて、
 「初度陸奥行の動機・目的は純粋に歌枕探訪の能因的数奇の実践
 にあり、仏道修行の意図は全く見られなかった(224ページ)」と
 解釈されています。
 京都を花の頃に旅立って、平泉に着いたのは10月12日。半年以上
 を費やして平泉に行っています。何箇所かに逗留して、ゆっくりと
 した旅程だったはずです。
 旅の順路は推測するしかないのですが、当時の東海道を行き、
 武蔵の国あたりから東山道に入り北上したものと思われます。
 平泉で一冬を過ごしてから翌年に出羽まで行き、出羽からは北陸
 道もしくは東山道を通って、その年に帰洛したものと考えて良い
 ものと思います。

 二度目の旅は吾妻鏡によって、1186年、西行69歳の時と知られて
 います。
 この旅の目的は東大寺の大仏の鍍金のための金の拠出を藤原秀衡
 に要請するためのものでした。初度の旅とは性質が違っていて、
 この時の旅は公的・社会的な性質を帯びていたとも言えるものです。
 居住していた伊勢を1186年7月末頃に発ち、8月15日に鎌倉で源頼朝
 と会談。翌日に平泉に向かいました。
 この時の旅は武蔵から下野に出て東山道を平泉までたどったもの
 と私は確信していますが、もとより確定ではありません。 
 鎌倉から平泉まで大雑把な道路距離で530キロメートル程あります。
 ルートによって多少の違いが出ています。徒歩として、高齢のこと
 や気象条件も考え合わせて一ヶ月前後をを費やしたものとしても
 9月の半ば過ぎには平泉に到着します。

 窪田章一郎氏は、この時の旅も一冬を平泉で越して翌年帰洛した
 ものと推定されていますが、平泉到着後日を経ずして帰洛した
 ということも考えられます。高齢でもあり全行程を徒歩と考える
 ことも無いですし、部分的にでも馬を利用したとしたら、11月の
 半ば「現在の正月頃」までには帰洛は充分に可能です。

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  (3)中尊寺と藤原氏

中尊寺は山号を「関山」と言います。その名称からも推測できる
ように、陸奥の豪族安倍氏の「衣の関」が、中尊寺の上り口付近
にありました。(岩手県の歴史散歩151ページ)
衣の柵(城)はこの関の位置よりは少し北の衣川のほとりにありま
した。
平泉は藤原清衡によって作られた宗教都市とも言えます。
中尊寺自体は慈覚大師円仁が850年に創建して、清和天皇から中尊寺
の寺号を賜ったものと寺伝に言います。
 
1051年から始まった前九年の役(1051〜1062)によって、安倍氏と、
そして清衡の父親である藤原経清は出羽の豪族清原氏と源頼義の
連合軍によって1062年に滅ぼされました。
藤原清衡の母の出自は安倍頼時の娘です。経清が処断されてから
清衡の母は敵である清原武貞に子の清衡、家衡を伴って嫁ぎました。
清衡は清原氏に養育されたので清原清衡と名乗りました。
前九年の役のあとに鎮守府将軍となっていた清原氏の内紛に源義家
が介入して後三年の役が起こりました。1083年から1087年にかけて
です。この時の戦いによって清衡は清原氏と弟の家衡を滅ぼして、
清原氏の家督を継いだのです。ついで父親の「藤原氏」に改姓し、
衣川を越えて平泉に本拠を移しました。それが1100年頃です。

清衡が中尊寺を建てたのは、やはり前九年の役、後三年の役の影響
が色濃くあると思います。清原氏・安倍氏・平氏・藤原氏は何世代
にも渡って血の混交をしているわけですし、どの氏族だって親戚
みたいなものです。清衡が親戚・血縁者を滅ぼして陸奥を統率する
ようになるまでの血の歴史を見れば、本人にも慙愧の念がなかろう
はずはありません。そういう気持が中尊寺を建立させたものとも
言えるでしょう。
奥州平泉藤原氏初代の清衡が中尊寺、二代の基衡が毛越寺、三代の
秀衡が無量光院を建てたのですが、無量光院は現存していません。

中尊寺は上り口の月見坂を登ってたどり着くと、たくさんの堂宇が
あります。吾妻鏡には中尊寺の堂塔伽藍40余、僧坊300と書かれて
いますから大変な威容です。
金色堂は清衡が1124年に建立落成をみてから一度も焼失していま
せん。奇跡的に焼亡を免れた建物です。
私は数年前に訪れましたが、内部の精緻を極めた工芸品には感嘆
するより他に無いだけの素晴らしいものと感じました。1100年の
頃にこれだけのものができるということは驚嘆でした。
私も貴金属の加工をして宝飾品を作成することを生業としていますが、
当時にあれだけの金の加工技術があったことに驚かされます。

「奥の細道」の旅で中尊寺を訪れた芭蕉は、実際にはこの堂内には
入っていないのですが、有名な句を残しています。

 「五月雨の降りのこしてや光堂」

100年にわたる藤原氏三代の栄華も秀衡の代で終わりました。秀衡を
継いだ泰衡が余りにも凡庸でしたから、頼朝に手もなく捻られて
しまって、1189年に奥州藤原氏は滅びました。
事実上、秀衡の代で藤原氏は終わったといえるでしょう。

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  (4)陸奥の国の推定順路(白河から平泉まで)

(福島県)

雄野駅(表郷村旗宿)→松田駅(西白河郡泉崎村関和久)→磐瀬駅
(須賀川市森宿)→葦屋駅(郡山市清水台)→安達駅(安達郡本宮町)
→湯日駅(安達町油井)→峰越駅(福島市森合町)→伊達駅
(伊達郡桑折町成田)→

(宮城県)

篤借駅(白石市越河)→柴田駅(柴田郡柴田町)→玉前駅(岩沼市
南長谷)→名取駅(名取市高館)→栖屋駅(宮城郡利府町)→黒川駅
(黒川郡大和町)→色麻駅(加美郡色麻町)→玉造駅(玉造郡
岩出山町)→栗原駅(栗原郡栗駒町)→

(岩手県)

磐井駅(一関市萩荘)→白鳥駅(前沢市塔が崎)

京都から常陸国府までの距離数  617.7キロメートル
常陸国府から松田駅までの距離数 120.8キロメートル
松田駅から白鳥駅までの距離数  264.3キロメートル
合計 1002.8キロメートル。

○ 順路及び上記距離の計算は、吉川弘文館発行、建部健一氏著
  「古代の道」に拠っています。
○ 以上は当時の官道のルートであり、西行がこのルートで平泉まで
  行ったという証明ではありません。
○ 雄野駅の近くに「白河の関」がありました。
○ 栖屋駅の近くに陸奥国府の多賀城があります。陸奥の場合も国府
  が駅を兼ねていません。
○ 平泉は磐井駅と白鳥駅の間にあります。
○ 724年多賀城、767年伊治城、802年胆沢城の設置とともに東山
  道も延伸しました。800年代初め頃には白鳥駅も設置されて
  いたものと思われます。

当時の東海道を終点の常陸国府(茨城県石岡市)まで行き、常陸
国府からの東山道との連絡路(ほぼ現在の棚倉道)については23号
に記述しました。
811年に設置されたこの連絡路が東山道と合流する地点は松田駅
(西白河郡泉崎村関和久)です。
東山道が下野の国から陸奥の国に入っての初めての駅は雄野駅
(福島県表郷村旗宿)であり、その次が約10キロメートル以上離れ
ている松田駅です。雄野駅の近くに「白河の関」がありました。
つまり当時の官道の東海道と東山道の連絡路を用いて陸奥の国に
入ったのであるとしたら、白河の関は通らないことになります。
陸奥の国に入る人たちが白河関を通らなくても良いルートという
ことになります。
そのことによって800年代初めには、白河の関は関としての役目を
終えたものと見てもいいのかも知れません。835年に「菊多(勿来
の関のこと)・白河の関の勘過(調べて通すこと)を長門の国の関
に準じる」とありますので、この頃にはまだ白河の関も一応は機能
していたものと考えられます。
松田駅(関和久)には白河郡の郡衙「ぐんが」が設置されていまし
たし、かつ、728年に白河軍団が置かれたのもこの松田駅です。
だから松田駅には関としての機能も付けられていたものとも考え
られます。

白河の関以北については、ほぼ現在の国道4号線に寄り沿う形で
宮城県に入っています。宮城県泉市からは457号線のルート沿いに
北進していたものと思います。

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  (5)陸奥の国の主な歌枕(4)
   
 「岩手県」

 衣川、衣の関、北上川、栗駒山など

○衣川(岩手県平泉町の北側を流れて北上川に注ぐ小流)

◎ ころも川みなれし人のわかれには袂までこそ浪はたちけれ
                (源重之 新古今集865番)

◎ ころもがはけさたちわたる春風にとぢし氷もとけやしぬらん
                  (藤原家隆 壬ニ集)

○衣の関(岩手県胆沢郡に築かれた安倍氏の城柵のこと。衣川の関
      とも言い「枕の草紙」にも記述があります)

◎ もろともにたたましものをみちのくのころものせきをよそにきくかな
               (和泉式部 和泉式部集847番)

◎ ただちともたのまざらなん身に近きころものせきもありといふなり
                (詠み人知らず 後撰集1161番)

○栗駒山(岩手県、宮城県、山形県にまたがる山)

◎ みかりするくりこまやまの鹿よりもひとりぬるみぞわびしかりける
                  (元良親王 元良親王集)

◎ くりこまのやまの桜のちらざらん春の中にはかへらざらめや
                   (大中臣輔親 輔親集)

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  (6)雑感

今号27号になってやっと西行は平泉に到着することになりました。
このマガジンの発行が2005年4月15日です。平泉まで来るのに実に
三年近くを要しました。
遅くなりすぎたのは西行辞典との二本立てという理由にもよります。
まだ帰り道がありますので、もう少しお付き合いをお願います。
西行のことを勉強すればするほど、いろいろ書き留めたいことも
出てきて、その多さに自分でも困った・・・とは思いますが、淡々
として進めるつもりです。

その後は「西行辞典」に全力で取り掛かりたいものです。どんなに
急いでも今後10年には利かないだけの年数が必要でしょう。
ただ、還暦を過ぎた私自身の健康の問題もありますし、いつ終わって
しまうか神のみぞ知るです。
できるだけ頑張りたいものと思います。

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