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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.28(不定期発行)  
                    2008年05月01日発行

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こんにちは。阿部です。
のんびりしているうちに今年の桜の季節もすでに終わり、早くも
五月に入ってしまいました。
桜は葉桜にと、すっかり衣替えしています。
桜以後に咲くおびただしい花たちが眼を楽しませてくれています。
陽春の良い季節です。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第28回 ◆

 目次 1 陸奥の国の歌(6)
     2 初度の旅の歌と再度の旅の歌
     3 白河の関跡を訪ねて
     4 陸奥の国の主な歌枕(5)青森県
     5 雑感

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   (1)陸奥の国の歌(6)

   陸奥國にて、年の暮によめる

1 常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる
     (岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮572番・西行物語)

   みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、
   こと木は少なきやうに、櫻のかぎり見えて、花の咲きたるを
   見てよめる

2 聞きもせずたはしね山の櫻ばな吉野の外にかかるべしとは
         (岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1442番)

3 むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆるつぼのいしぶみそとの浜風
    (25号既出)(岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1011番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

4 おさふれど涙ぞさらにとどまらぬ衣の関にあらぬ袂は
                     (松屋本山家集)
          
(参考歌)

5 胡沙吹かばくもりもぞするみちのくのえぞには見せじ秋の夜の月
                        (夫木抄)
             
6 富士見てもふじとやいはむみちのくの岩城の山の雪のあけぼの
                      (諸国里人談)
                    
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○聞きもせず

 これまで聞いたことがなかった、ということ。

○たはしね山

 岩手県東磐井郡東山町にある束稲山のこと。標高595.7メートル。
 北上川を挟んで南側に平泉町があります。
 西行の時代とは違って現在の束稲山に桜は少ないとのことです。
 現在は躑躅の名所とのことですが、桜も植林しているそうです。

○かかるべし

 これほどまでに素晴らしいものとは、という意味。実際に束稲山
 の桜を眼にしての感嘆の言葉です。

○つぼのいしぶみ

 普通は多賀城碑のことです。ただし西行の時代は津軽にあると
 いう碑の事と解釈できます。25号参照。

○そとの濱風

 外の浜の風ということ。「外の浜」は地名で陸奥の歌枕です。
 陸奥の最奥の青森県津軽半島の東岸にあります。
 
○おさふれど

 抑えるけれども・・・という意味。

○衣の関

 衣川の関のこと。27号参照願います。

○胡沙

 「こさ」と読みます。
 「蝦夷(えぞ)の吹く息。霧を起すといわれた。」
               (岩波古語辞典から抜粋)

○えぞ

 ここでは地名として使われています。漠然とした地名であり、
 北海道及び北海道より北を指す地名と解釈されます。
 北海道は蝦夷という名称でしたが明治二年に「北海道」という
 名称になりました。
 蝦夷(えみし・えぞ)として、東北から北海道にかけて居住して
 いた人々を蔑んで使う言葉でもあります。
 東夷(とうい・あずまえびす)とは、関東の武士達を京都の
 人たちが恐れと蔑みの気持で使った言葉です。

○岩城の山

 岩城山は全国にたくさんあり、駿河のさった峠のある山も岩城山
 と呼んでいました。家隆の歌も駿河の山を言います。

 いはきやまこえてこぬみのはまひさぎひさしくなりぬ波にしをれて
                   (藤原家隆 壬二集)

 でもここでは「みちのくの岩木の山」ですから青森県にある岩木山
 のことです。
 青森県南西部にあり標高1625メートル。津軽富士と呼ばれています。
 
(1番歌の解釈)

 「遥々陸奥へ旅をし、旅の空で年が暮れてしまったことであるが、
 いつもよりも一層心細く思われるよ。」
 (「つね」は、常の年とも、常の状態「旅でない状態」とも解し
 得る。)
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「聞いたこともなかった。束稲山は全山が桜の満開でとても
  美しい。吉野山以外にもこんなところがあったなんて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
 
 「はじめて束稲山の桜を見た第一印象の驚異感を、素朴に歌った
  ものとしてとるのが妥当である。」
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)

 「(ききもせず)と初句切れでうたい出し、(よしののほかに
 かかるべしとは)と、感嘆符で止めたところに、西行の驚きと
 悦びが感じられ、詠む人を花見に誘わずにはおかぬリズム感に
 あふれている。」
             (白州正子氏著「西行」から抜粋)
            
(4番歌の解釈)

 「抑えるけれども涙は一向に止まらないよ、衣の関でない
 わたしの衣の袂は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
       
 (5番歌と6番歌について)

 5番歌は夫木抄に西行歌としてあります。しかし藤原為家1252年の
 作としても出ているようです。西行作ではないものと思います。

 6番歌については家集などにも見えなく、西行の作というには無理
 があります。後世の人が詠んだものが、西行歌として誤まって
 伝わってきた歌だろうと思います。

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  (2)初度の旅の歌と再度の旅の歌

大きな意味があるとは思えないのですが、詞書か歌に陸奥の国の
地名のある作品を取り上げて、両度の旅、及び、その他に部分け
してみます。ただし、あくまでも推定でしかありません。陸奥の
入り口である白河から順路順に列挙してみます。
詞書はアイウエオ順、歌は123順です。

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 (初度の旅の歌)西行30歳の頃。

ア みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関にとまりて、
  所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ
  吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名残
  おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける

1  白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
    (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮1126番・山家心中集・
         西行上人集・新拾遺集・後葉集・西行物語)
           
イ さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことにおぼ
えてあはれなり。都出でし日数思ひつづくれば、霞とともにと
  侍ることのあとたどるまで来にける、心ひとつに思ひ知られて
  よみける
 
2  都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
         (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮1127番)

ウ あづまへまかりけるに、しのぶの奧にはべりける社の紅葉を

3  ときはなる松の緑も神さびて紅葉ぞ秋はあけの玉垣
         (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮482番)

エ ふりたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくて
  やすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれ
  なりと申しけるを聞きて

4  ふままうき紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋

  しのぶの里より奧に、二日ばかり入りてある橋なり
     (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1129番・夫木抄)

オ たけくまの松は昔になりたりけれども、跡をだにとて見に
  まかりてよめる

5  枯れにける松なき宿のたけくまはみきと云ひてもかひなからまし
         (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1128番)

カ 名取川をわたりけるに、岸の紅葉の影を見て

6  なとり川きしの紅葉のうつる影は同じ錦を底にさへ敷く
     (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1130番・夫木抄)

キ みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼしき
  塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが
  事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、
  実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだに
  ものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、
  後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて

7  朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
    (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・西行上人集)
             山家心中集・新古今集・西行物語)

ク 十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげしく、
  ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくてまかり
  むかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはしたる、
  ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りて
  とりわけさびしければ

8  とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
           (岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮1131番)

ケ みちのくにに、平泉にむかひて、たはしねと申す山の侍るに、
  こと木は少なきやうに、櫻のかぎり見えて、花の咲きたるを
  見てよめる

9  聞きもせずたはしね山の櫻ばな吉野の外にかかるべしとは
         (岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1442番)

コ 陸奥國にて、年の暮によめる

10 常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる
     (岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮572番・西行物語)

11 むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆるつぼのいしぶみそとの濱風
(岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1011番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)
(初度の旅の後)

サ 双輪寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに

12 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
          (岩波文庫山家集260P聞書集・夫木抄)

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(再度の旅の歌)西行69歳

シ 奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奥國へ遣はされしに、
  中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、
  いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あらば
  物がたりにもせむと申して、遠國述懐と申すことをよみ侍りしに
             
13 涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
     (岩波文庫山家集131P羇旅歌・西行上人集・山家心中集)

再度の旅の時の歌で、陸奥の地名のある歌は無いと言えます。
窪田章一郎氏は「奈良の僧」の詞書のある「涙をば衣川に・・・」
の歌を(異本山家集のみにあることも照らし合わせて)再度の旅の
歌と推定されています。
ただ奈良の僧たち15名が平泉に流されたのは康治元年(1142年)
八月のことだといわれますので、西行は初度の旅の時にこれらの
僧達と会っているだろうと思います。これらの僧達がほぼ四十年を
隔てて西行と再び会ったのであるとしたら、再度の旅の時の歌と
いうのもうなずけます。しかしながら四十年も平泉に流されたまま
の罪は考えられないかも知れず、そうであれば再度の旅の時の歌
とするには無理があるかもしれません。

(再度の旅の後の歌?)

14 枯野うづむ雪に心をしかすればあだちの原に雉なくなり
                    (御裳濯河歌合46番)  

 枯野うづむ雪に心をまかすればあたりの原にきぎす鳴くなり
                 (岩波文庫山家集271P補遺)  

15 白河の関路の櫻さきにけりあづまより来る人のまれなる
(岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)

16 あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原
   (岩波文庫山家集58P秋歌・西行上人集・御裳濯河歌合・
               玄玉集・新古今集・西行物語)

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(その他)

17 萩が枝の露ためず吹く秋風にをじか鳴くなり宮城野の原
           (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮430番)
             
18 たのめおきし其いひごとやあだになりし波こえぬべき末の松山
          (岩波文庫山家集159P恋歌・新潮1289番)
            
19 春になればところどころはみどりにて雪の波こす末の松山
               (岩波文庫山家集233P聞書集)

20 おさふれど涙ぞさらにとどまらぬ衣の関にあらぬ袂は
                     (松屋本山家集)
          
21 東路やしのぶの里にやすらひてなこその関をこえぞわづらふ
            (岩波文庫山家集280P補遺・新勅撰集)

22 思はずば信夫のおくへこましやはこえがたかりし白河の関
           (岩波文庫山家集244P聞書集・夫木抄)

(京都の白川と解釈される歌)

23 白河の梢を見てぞなぐさむる吉野の山にかよふ心を
(岩波文庫山家集30P春歌・新潮69番・西行上人集・山家心中集)

24 白河の春の梢のうぐひすは花の言葉を聞くここちする
(岩波文庫山家集31P春歌・新潮70番・夫木抄)

(西行作の可能性の少ない歌)

25 松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
      (岩波文庫山家集73P秋歌・西行上人集追而加書)

26 宮城野や雪も色あるふる枝草ことしの秋も花さきにけり
                     (蔵玉和歌集)

27 富士見てもふじとやいはむみちのくの岩城の山の雪のあけぼの
                     (諸国里人談)

28 胡沙吹かばくもりもぞするみちのくのえぞには見せじ秋の夜の月
                       (夫木抄)
                      
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  (3)白河の関跡を訪ねて

このマガジンの執筆も気になりながら、以前から行ってみたいと
思っていた白河の関をメインとする東北の旅をしてきました。
西行の時代ならいざ知らず、現在は京都から新白河まで乗り換え
時間を含めて、5時間までで着いてしまいます。早いものです。
14日から17日までの短い旅でしたが、ほんの少しは西行の歩いた
道筋をたどったことができたと思います。以下、白河の分だけを
紀行文として書いてみます。

2008年4月14日(月)

京都→新白河→白河の関跡→福島

朝8時過ぎの新幹線に乗る。富士山見えず。新白河駅着は13時前。
駅東口に芭蕉像があります。芭蕉が白河に来たのは1689年4月20日。
翌21日に白河の関を訪ねています。時に芭蕉46歳。「白河の関に
かかりて旅心定まりぬ・・・」としたためています。
白河の関跡に行くには交通の便が非常に悪いので仕方なく
タクシー利用でしたが片道20分ほどで4500円。こんなに散財はでき
ないので帰りはバス待ち。とはいえバスが一日に3本ですから、
甚だしい時間ロスでした。
白河の関跡はきちんと整備された公園になっていました。

付近を見ると司馬遼太郎さんが「街道をゆくー白河・会津のみち」
の中で「東北は単独ですでに偉大なのである」と語った言葉が思い
出されました。
関前を南北に走っている道が古代の東山道に違いなく、この道を
西行も歩いたはずだと思いました。
バスの待ち時間があったので、舗装道を3キロほど歩いてみました。
当時の道幅は6メートルから12メートル。今は舗装もされていて、
幅は目見当で10メートル未満だと思います。

関跡には今も白河神社があります。
この白河神社は延喜式にも記載のある式名社です。陸奥の一宮社は
白河郡棚倉町の「都々古分神社」に譲りますが、格式ある古社と
して、そして古代東山道の白河の関にある神社として、人々の崇敬
を集めてきたものでしょう。
古色蒼然とした白河神社が私の個人的な思いなどを全て包み込んで、
今もただただそこに在るように思いました。それがいいのですね。
それが歴史というものの本髄なのでしようね。
簡素としかいえない本殿があるのですが、その前にある苔むした
狛犬が目を惹きました。いつの時代に作られたものなのか判然と
しませんが、その様式からみてかなり古い時代の物であろうと考え
られます。ひょっとすると西行もこの狛犬を見て通り過ぎたかも
知れないな・・・などという妄想が脳裏をかすめたりしました。
関跡公園には梅が満開。桜は咲き初めでした。山々の落葉樹はまだ
新芽をつけていず冬枯れのままでした。このあたりも寒いです。

「白河の関路の桜咲きにけるあづまより来る人のまれなる」
         (岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)

西行上人集にあるこの歌はもう少しした新暦では4月末頃の歌だと
思いました。ただしこの歌は現地詠とは言い切れないものです。
西行がこの道を桜の頃に通ったものとしたら、それは陸奥からの
帰路であり、もっとも可能性の高いのは二度目の旅の帰路という
ことになりますが、実際に即した現地詠のような歌の印象では
あっても想像で詠んだ歌ではなかろうかと思います。つまり、西行
は桜の花の頃に白河の関には来ていないものと推測します。

神社には西行とは40歳も若い藤原家隆が手植えしたという従二位の
杉もありました。樹齢800年ほど。家隆が陸奥に下向したのは果た
して何年だった分りかせません。年古りた杉の巨木が今も白河神社
にその由緒を偲ばせるようにして立ってありました。
それとカタクリの群生。カタクリを見るのは初めてでした。
群生といっても少し間をおいての群生で、花はそれこそたくさん
あるのに少し寂しい感じです。ただ一本だけで立つという性質の花
だからでしょう。これは福島の信夫山でも感じたことでした。
このカタクリは発芽から開花までに平均して八年もかかるとのこと
ですから気長と言えば気長ですが、花期は非常に短いとのことです。

ハコベ、ナズナ、ツクシ「スギナ」、ヒメオドリコソウ、カラスノ
エンドウ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、セイヨウタンポポなど
の雑草がここでも花盛りでした。このうち西行が見た花は半分ほど
はあるのでしょうか。

江戸時代の奥州道中の関跡にも行ってみたいとは思っていたのですが、
足がなくて断念しました。平安時代の東山道と江戸時代の奥州道中
では道が随分と違う地点がありますから、私としては西行が歩いた
はずもない江戸時代の奥州道中にはそれほどの関心もなかったのです。
以下に今回の東北旅行の画像を出しています。興味のある方は覗いて
みてください。アルバムの東北旅行から入れます。クリックすると
大きい画像になります。

http://photozou.jp/mypage/top/141429

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  (4)陸奥の国の主な歌枕(5)
   
 「青森県」

 津軽など。

 青森県の歌枕はきわめて少ないです。「外が浜」「岩城山」
 「やすかた」「津軽」などはネットでもヒットしますが、確実な
 資料はとても乏しいものです。

 「子を思う涙の雨の笠の上にかかるもわびしやすかたの鳥」

 が、西行歌とされているサイトもありますが、もちろん西行本人
 の詠歌ではなくして、他人詠の歌が西行歌として伝えられた
 伝承歌でしょう。
 実際には西行の詠んだ歌ではないのに西行歌とされている事例は
 とても多いものです。 

○津軽

◎ いしぶみやつがるの遠にありときくえぞよのなかを思ひはなれぬ
                (藤原清輔 清輔朝臣集)

◎ えぞがすむ津軽の野辺の萩さかりこや錦木のたてるなるらむ
                  (藤原親隆 夫木抄)

◎ 別るれど別るとは思はず出羽なる津軽の島のたへじと思へば
                (詠み人しらず 夫木抄)

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  (5)雑感

今号発行は遅れに遅れてしまいました。申し訳ございません。
先号の27号発行が2月23日。実に2ヶ月以上、発行できませんでした。
それというのもサボリ病という重大な病気に罹患してしまって、
遊びまくっていたからに他なりません。
この間、二冊の新しい本も読んだのですが西行に関して新しい発見は
ありませんでした。仕方ないですね。

かねて希求していた白河の関を巡る東北の旅行をしてきました。
撮影画像も整理してアップしています。興味のある方はご覧願い
ます。
この号は早く早くと自分をせかしていましたのに、4月13日の吉野、
14日からの東北旅行で素晴らしい桜を見て過ぎてみれば、桜に毒
されてしまったのか、長く虚脱状態になってしまった状態が続い
ています。いまだに腑抜けのような感じです。そのために発行が
遅れたともいえます。
これではよくないので、そろそろいつものペースに戻します。