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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.29(不定期発行)  
                    2008年06月10日発行

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こんにちは。阿部です。
近畿地方は、暦よりは一週間ほど早く入梅しました。
今にも降り出しそうな空が黒く重く広がっている日々が続きました
が、本日はきれいに晴れ上がった一日の京都です。
雨は重要な資源ですから降らないと困りますが、しかし適度に
降って欲しいものですね。
例年のように豪雨禍の果てに梅雨明けしますが、雨による悲惨な
災害はできるだけ少ないようにと願います。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第29回 ◆

  目次 1 出羽の国の歌
     2 陸奥からの帰路について
     3 出羽の国の主な歌枕
     4 雑感

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  (1)出羽の国の歌

   又の年の三月に、出羽の國に越えて、たきの山と申す山寺に
   侍りける、櫻の常よりも薄紅の色こき花にて、なみたてり
   けるを、寺の人々も見興じければ

1 たぐひなき思ひいではの櫻かな薄紅の花のにほひは
     (岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1132番)
            
   御返奉りける
                         
2 つよくひく綱手と見せよもがみ川その稲舟のいかりをさめて

   かく申したりければ、ゆるし給ひてけり
        (岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1164番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

(参考歌)

3 あはれいかにゆたかに月をながむらむ八十島めぐるあまの釣舟
              (岩波文庫山家集243P聞書集)

   遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて

4 松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
                   (26号・28号既出)
      (岩波文庫山家集73P秋歌・西行上人集追而加書)

5 象潟や桜の波にうづもれてはなの上こぐ漁士のつり舟
             (伝承歌(継尾集)・奥の細道) 
         
  遥かなる所にこもりて、都なりける人のもとへ、月のころ
  遣しける

6 月のみやうはの空なるかたみにて思ひも出でば心通はむ
    (岩波文庫山家集76P秋歌・新潮727番・西行上人集)
             山家心中集・新古今集・西行物語)

7 最上川つなでひくともいな舟のしばしがほどはいかりおろさむ
                 (崇徳院詠歌)
        (岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1163番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)
             
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○出羽の国

 現在の秋田県と山形県を指しています。出羽は旧国名です。

○たきの山

 山形市西蔵王にある医王山瀧山寺(霊山寺・滝の山三百坊)の
 ことだといわれています。蔵王山の西北に位置します。
 これとは別に山形市長谷堂に(滝の山三千坊)なるお寺があって、
 そこではないかと言う説もあるようです。しかし、発掘などの
 成果によって長谷堂にはお寺の遺物は殆どないようですから、
 医王山瀧山寺と同定していいと思います。
 医王山瀧山寺は行基創建。慈覚大師の再興と言われています。
 桜の種類はオオヤマザクラ(江戸山桜、紅山桜とも)と見られて
 います。「香山桜」という名称が付けられているようです。
 奥の細道の旅で芭蕉が行ったのは瀧山寺ではなくて、近くの
 立石寺のみです。

○たぐひなき     

 他に例のないこと。比類のないこと。またとないこと。

○最上川

 山形県中部を貫流する川。長さ229キロメートル。山形、福島県境
 の吾妻山を源流として山形県酒田市で日本海に注いでいます。
 急流として有名です。古くは船運で栄えました。最上川舟歌
 があります。舟歌は船頭が下り舟で歌う「酒田追分」と上り舟
 の掛け声を組み合わせたものだといわれます。

○稲舟
 
 稲を積んで運ぶ舟のこと。「否」を掛けています。

 ○松島

 宮城県にある松島湾を中心とする一帯の名称。安芸の「宮島」、
 丹後の「天の橋立」とともに日本三景の一つです
 西行は松島まで行ったのかどうか分かりません。芭蕉も義経も
 多賀城→塩釜→松島→平泉のルートを採っていますので、ある
 いは初度の旅の時に同じルートをたどった可能性があります。
                     (26号から転載)
   
○雄島

 松島湾にある島の名称。松島海岸から近く、古くから仏道修行の
 地として有名でした。
 現在は橋がありますから渡渉できます。
 
「松島や雄島の磯・・・」という詠みかたをされています。
                   (26号から転載)   

○きさがた

 出羽の国の歌枕。秋田県由利郡象潟町。現在は、にかほ市象潟。
 海沿いの町です。

 世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして
             (能因法師 後拾遺和歌集519番)

 象潟は上記歌によって有名となりましたが、1804年の地震に
 より、風景は一変してしまいました。
                     (26号から転載)

 能因法師の歌、及び芭蕉の「奥の細道」によって有名になった
 名所。能因法師が住んだという島は1804年の地震によって地続き
 になったようです。
 4番と5番の「象潟」の歌は西行作ではないとみられています。

○ 出でば
     
 6番歌の「出でば」は「出羽」の掛詞とも見られていますが確証
 はありません。

○いかりおろさむ

 碇を沈めて舟が動かないようにすること。崇徳院の「怒りを下し
 たたままであること」という感情を掛け合わせています。

(1番歌の解釈)

 「またとない思い出になりそうな出羽の桜である。濃い目の薄紅
 の色が格別に美しい。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 岩波文庫版では1番歌の次に「同じ旅にて」という詞書のある
 歌があります。

 風あらき柴のいほりは常よりも寝覚めぞものはかなしかりける
         (岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1134番
               西行上人集追而加書・玉葉集)

 ところが新潮版では配列が異なり、

 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・新潮1133番)
              
 の歌の次にあります。
 これはどういうことかというと、岩波文庫版では「都近き・・・」
 歌は陸奥までの途上の歌、新潮版では陸奥からの帰路の歌という
 ように解釈が分かれているからだろうと思います。新潮版の解釈
 に従うなら、瀧の山の桜を見てから以後、秋までの半年間ほどを
 出羽の国あたりに逗留していたということになります。

(2番歌の解釈)

 「最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒り
 をおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい。」
 (私の切なるお願いをおきき届け下さい)
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 この歌は7番の崇徳院歌との贈答の歌です。西行も崇徳院歌壇に
 出入りを許されていたものと解釈できますし、身分や立場を超え
 ての親しい関係が成立していたことが分ります。

(7番歌の解釈)

 「最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張って
 いることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこの
 ままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かない
 ように。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「ああどんなにゆったりと月を眺めているだろう、多くの島を
 めぐる海人の釣舟では。」

 ○八十島ーー多くの島。出羽国の歌枕とも。
 △船上からの月の眺望をはるかに思いやって詠む。  
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(6番歌の解釈)

 「空にかかる月だけが、うかれ出てしまった自分の形見であり、
 あなたがその月を見て自分のことを思い出してくれるならば、
 月を仲立ちとして二人の心は通うことだろう。」
 
  都より「遥かなる所」がどこかは不明。「思い出でば」は
 「出羽」を掛けていると見て陸奥旅行中の詠とする説もある。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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 (八十島について)

「能因歌枕」も「八雲御抄」も出羽の歌枕と伝えています。
 ところが、どこに当たるのかというと、地点は特定されていま
 せん。
 象潟に「八十島城」などもあって、象潟の地名とも考えられます。
 また秋田県湯沢市雄勝に小野小町生誕伝説がありますが、ここ
 にも八十島の地名があったようです。
 
 八十島の本来の意味は数多くの島々というものです。このことは
 以下の歌などからも証明できると思います。

1 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
             (小野篁 古今集407番・百人一首11番)  
 
2 住吉や八十島遠く眺むれば松の梢にかかる白波
                   (後鳥羽院 後鳥羽院集)

3 塩釜の浦吹く風に霧晴れて八十島かけてすめる月影
                  (藤原清輔 千載集285番)

4 人知れず思ふ心の深ければいはでぞしのぶ八十島の松
                   (藤原伊尹 一条摂政集)

以上の歌からもわかるように和歌の実作例にみる「八十島」は難波、
瀬戸内海、陸奥の松島湾一帯をも指しています。
従って出羽の歌枕と固定してしまうのは明確な誤りでしょう。
今号3番歌の場合も出羽の歌と言い切ってしまうには無理があり
過ぎます。どことは分らないけれども普通名詞として多くの島々
を指しているという解釈で良いものと思います。

 (4番歌と5番歌について)

4番歌は西行上人集追而加書786首中の一首です。この集のみに
しかない歌です。
この集は他者の歌を西行歌として、あるいは他人詠の伝承歌を
多く含んでいますので信用できないものです。
4番歌は「和歌文学大系21」「西行山家集注解」にも収録されて
いません。
窪田章一郎氏の「西行の研究」をはじめとして、いくつかの研究
書・解説書にも記載がありません。無視されています。
安田章生氏著「西行」のように、歌が取り上げられていたとして
も「西行作とは信用できない」ということが明記されています。
佐佐木信綱氏が岩波文庫山家集に採録したのは、西行歌である
確証は無いと認めた上で、この歌が西行歌として広く人口に流布
していたという、そのことによってのみでしょう。

5番歌も西行作とは認めがたいものです。でもこの歌は芭蕉が引用
しているほどですから、今日伝わっているもの以外の、何かしらの
伝本があったのかも知れません。
西行歌は散逸して今日に伝わらない歌の方が多いとも言いますし、
なぜに芭蕉がこの歌を知りえたのか知りたいものです。伝承歌を
単純に西行作とみなしたものでしょうか・・・?

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  (2)陸奥からの帰路について

 平泉から京都に帰った順路は、ニ度の旅ともに判然としません。
 順路だけでなく、いつ頃に京都に帰着したのかも分らず、推測
 するより他にありません。
 再度の旅においては東山道をそのまま戻ったものと思われますが、
 時間はたっぷりとあった初度の旅においては北陸道、もしくは
 東山道ををたどって帰ったものと想像できます。官道を外れて
 所々に寄り道しながらの、ゆっくりとした旅であったでしょう。
 山家集の越の国の歌や信濃の国の歌を読んでみれば、想像で詠ん
 だ歌ばかりではなくして現地詠もあると思われます。

 平泉から北陸道に移るためには延喜式に記載のある官道は以下の
 ルートです。平泉から陸奥国府に戻って、名取から東山道の出羽
 路をたどることになります。

 陸奥国府(宮城県多賀城市)→栖屋「すねや」駅(宮城郡利府町)
 →名取駅(名取市高館)→小野駅(宮城県柴田郡川崎町)→最上駅
 (山形市小白川町)→村山駅(山形県東根市)→野後「のじり」駅
 (北村山郡大石田町)→避翼「さるばね」駅(最上郡舟形町)→
 佐芸「さき」駅(最上郡鯉川村)→飽海「あくみ」駅(酒田市
 平田町)

 このルート中の最上駅からは、1番歌にある瀧山寺は直線距離で
 10キロメートル程度です。しかし東山道を平泉から名取まで戻り
 東山道出羽路を行くことになるのは、いかにも遠回りという感じ
 もします。平泉→最上→酒田のルートで約248キロメートル。

 延喜式には記載がありませんが、上記ルートとは別に近道が通じて
 いました。芭蕉が日本海方面に抜けた道であり、追われていた義経
 が酒田から平泉に向かってたどった道です。

 平泉→栗原駅(宮城県栗原市栗駒)→玉造駅(大崎市岩出山町)
 →色麻駅(加美郡色麻町)→嶺基駅(?)→大室駅(山形県
 尾花沢市)→野後駅(北村山郡大石田町)

 野後駅以遠は上記ルートと同じです。
 このルートは現在の国道47号線(北羽前街道)に当たります。
 嶺基駅所在地は資料がなくて不明ですが、宮城県色麻市から山形県
 尾花沢市までの中間あたりと推定できます。
 資料がなく総距離は出せません。
 仙台から酒田までの国道47号線は172キロメートルです。

 「奥のほそ道」にある芭蕉のルート

 平泉→岩出の里、泊(岩出山町)→鳴子(宮城県大崎市鳴子温泉)
 →尿前(大崎市鳴子温泉内)→堺田、泊(山形県最上郡最上町)
 →尾花沢、泊(尾花沢市)→立石寺、泊(山形市山寺)→天童
 (天童市)→大石田、泊(北村山郡大石田町)→新庄、泊(新庄市)
 →清川(東田川郡庄内町)→羽黒、泊(鶴岡市羽黒町)→月山、泊
 (鶴岡市、庄内町、西川町)→湯殿山(鶴岡市、西川町)→
 羽黒山、泊(鶴岡市、庄内町)→鶴岡、泊(鶴岡市)→酒田、泊
 (酒田市)
 大石田から新庄まで、及び新庄の本合海から清川までは川舟利用。

 「義経記」に見る平泉までの逃亡ルート
 
 鼠ヶ関(山形県西田川郡温海町)→三瀬(鶴岡市)→清川(東田川郡
 庄内町)→本合海(新庄市)→亀割山・瀬見(最上郡最上町)→
 鳴子(宮城県玉造郡)→栗駒(栗原市)→平泉(岩手県西磐井郡)

 「義経記」はあくまでも読み物であり史実に忠実ではありません。
 しかし、西行時代に平泉から日本海に抜けるルートがあったと言う
 ことを補完する書物としてみることができます。
 このルートのうち、清川から本合海までは最上川を船で遡行して
 います。

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  (3)出羽の国の主な歌枕
   
 象潟・阿古屋の松・最上川・袖の浦など

○象潟(秋田県にかほ市象潟)

◎ 世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして
              (能因法師 後拾遺和歌集519番)
             
◎ さすらふるわがみにしあらばきさがたやあまの苫屋にあまた旅ねぬ
           (藤原顕仲 新古今集972番・堀川百首)

◎ 象潟や雨に西施がねぶの花
                    (芭蕉 奥の細道)

○阿古屋の松(山形県山形市の千歳山)

◎ おぼつかにいざいにしへのこととはんあこやの松とものがたりして
                (藤原顕仲 堀川百首)

◎ 陸奥のあこやの松に木隠れて出づべき月の出でやらぬかな
                     (平家物語) 

 尚、世阿弥作と言われる謡曲に「阿古屋松」があります。

○最上川(山形県及び秋田県内を貫流する川)

◎ もがみがはのぼればくだる稲船のいなにはあらずこのつきばかり
           (詠み人しらず 古今集1092番東歌)

◎ もがみがはせぜにせかるる稲船のかへりてしづむものとこそきけ
                 (藤原俊成 長秋詠藻)

◎ 最上川瀬々の岩波堰き止めよよらでぞ通る白糸の瀧

                 (義経北の方 義経記)

◎ 五月雨を集めて早し最上川
                   (芭蕉 奥の細道)

 最上川の歌は比較的多いのですが、古今集1092番歌に触発され
 ての、「否」というための比喩として詠まれている歌が殆ど
 です。現地詠と見られるものはほぼありません。
 西行は実際に最上川を見ているはずですが、にも関わらず現地詠
 はありません。
 
○袖の浦(山形県酒田市酒田港付近)

◎ 袖の浦波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ
                (中務 新古今集1495番)

◎ 袖の浦にただわがやくと潮垂れて船流したる海人とこそなれ
              (和泉式部 和泉式部集884番)

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  (5)雑感

「季節はめぐる矢車の・・・」という言葉の通りに、今年も梅雨の
季節となりました。早いものです。二ヶ月前に桜を楽しんだばかり
というのに、今ではもう遠いかなたのできごとのような印象です。
時間は足早に通り過ぎて行くものですから、あと一ヶ月半もすれば、
炎熱の日々が続き「暑いねー」が挨拶語となります。

暑いといえば、今年の日本でのサミットでは温暖化防止と食料問題
がテーマとなりそうです。どちらも地球規模の問題であり、現在の
人類が避けて通れない重要なテーマです。
きちんと真剣に議論して欲しいものですが、しかしもうすでに各国間
の調整も終わってサミット後の宣言文も出来上がっているのでしょう。
実際のサミットは各国の首脳が集まって顔合わせするだけのセレモニー
になっているのではないでしようか。

過日、京都文化博物館に「源氏物語千年紀展」を見に行きました。
たくさんの展示物があって、見て回るだけで疲れを覚えました。
源氏物語が世に出回っていることが確認されたのが1008年。それから
1000年になるので千年紀展とのことです。
それはともあれ、紫式部は凄いものを書き残したということは確実
です。千年経ても尚こんなに読み継がれ、もてはやされていること
に泉下の式部は苦笑しているでしようか・・・。

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■  姉妹紙「西行辞典」60号発行済み。

   http://www.mag2.com/m/0000165185.htm

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