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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.30(不定期発行)  
                    2008年07月25日発行

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こんにちは。阿部です。
暑中お見舞い申し上げます。
暑さ厳しき毎日が続いています。拙宅の部屋の中では熱がこもって
いて、昼間はほぼ40度、夜間でも35度前後あります。
暑さに対しての親和性というか抵抗力がなくなっていて、多少は
グロッキー気味です。
暑さ寒さも彼岸までとは言いますが、秋の彼岸までは、はるか彼方。
暑さを理由にしてマガジン執筆もはかどりません。困ったことです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第30回 ◆

 目次 1 下野と上野の国の歌
     2 東山道の国々について
     3 東山道の帰路ルート(下野・上野の国)
     4 下野・上野の国の歌枕
     5 雑感

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  (1)下野と上野の国の歌

  下野の國にて、柴の煙を見てよみける

1 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・新潮1133番)
             
  下野武藏のさかひ川に、舟わたりをしけるに、霧深かりければ

2 霧ふかき古河のわたりのわたし守岸の船つき思ひさだめよ
 (22号既出)(岩波文庫山家集70P秋歌・西行上人集・万代集)

3 さみだれに佐野の舟橋うきぬればのりてぞ人はさしわたるらむ
       (岩波文庫山家集50P夏歌・新潮223番・夫木抄)

4 ながむながむ散りなむことを君もおもへ黒髪山に花さきにけり
           (岩波文庫山家集235P聞書集・夫木抄)
(参考歌)

5 道の邊の清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ
   (岩波文庫山家集54P夏歌・新古今集・玄玉集・御裳濯集)
           
○下野の國

 (しもつけ)の国。現在の栃木県の旧国名です。
 陸奥の国の南にあたり、陸奥、常陸、下総、武蔵、上野の国と
 接しています。国府は現、栃木市。
 
○小野大原

 京都市左京区の小野、大原のこと。炭の生産地でした。
 小野は左京区八瀬付近から大原にかけての大雑把な呼び方。
 左京区上高野小野町という地名も残っています。

○柴の煙

 炭を作るときの煙のこと。

○さかひ川

 下野の国と武蔵の国の境界となる河のことです。利根川を指して
 います。
 利根川は西行時代は荒川などと合流して江戸湾に流入していま
 した。江戸期の大改修によって下総の銚子から太平洋に流れ込む
 ように流路が変わりました。改修以降は下流では武蔵と下総の境、
 上流では武蔵と下野及び下総の境となります。
 
○古河のわたり
 
 (古河のわたり)は(こがのわたり)と読みます。西行上人集
 では(けふのわたり)とあります。現在の茨城県古河市、渡良
 瀬川の渡しだろうと見られています。(和歌文学大系21)
 しかし古河市は下総の国に属しており下野の国ではありません。
 それが詞書の(下野武蔵の境)とは違いがあります。(下総武蔵
 の境)の間違いだろうと思います。書写した人のミスの可能性が
 あります。
 ただし、すぐ近くが下野の国ですから、また、当時の古河は現在
 より広い範囲を指していた可能性もありますから、特にこだわる
 必要もないことだろうとも思います。

○佐野の舟橋

 群馬県高崎市上佐野の烏川にあったという橋。船橋は船の上に
 板を渡して簡便に橋としたもの。

○黒髪山

 栃木県日光市にある男体山のこと。標高2486メートル。
 二荒山とも呼び、山頂に二荒山神社奥宮があります。
 平安時代初期から中期頃までの黒髪山は奈良市の佐保川丘陵あたり
 を指していたようですが、奈良の歌枕とするには明白な確証が
 無いようです。
 「五代集歌枕」も「八雲御抄」も下野の歌枕としています。
 
(1番歌の解釈)

 「ここ下野国で炭を焼く煙を見ると、都に近い小野大原の炭を
 焼く光景が思い出され、しみじみと感慨がもよおされるなあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「降り続く五月雨のため、佐野の舟橋が浮いてしまったので、
 人々はその舟に乗って棹を指し川を渡ることであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(4番歌の解釈)

 「よくよく眺めて、この花が散るだろうことをあなたも思って
 下さい。黒髪山に花が白く咲いてしまったよ。
 ○散りなむことーー死を暗示。
 ○花さきにけりーー白髪になったの意。
                (和歌文学大系21から抜粋)

 私事ですが、今春に日光に行って男体山を間近に見てきました。
 山の上方にはまだ雪が残っていて、この歌を思わせました。
 この歌は雪を花に見立てていて白髪のことを指しています。
 私の髪にもとみに白髪が多くなり、必然として「散りなむこと」
 を思ったものでした。

(5番歌の解釈)

 「道のほとりにある冷い清水の流れている柳の木かげ、そこに
 ほんのちょっと休んで清水を飲み、身をやすめようとして立ち
 寄り立ち止まったのであるが、あまりの気持よさのために、つい
 長居をしてしまったよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(1番歌について)

初度の旅の時の歌である事に間違いはないようですが、ただし平泉
に行き着く前の歌か、あるいは帰路の歌のどちらかという問題が
あります。

陸奥旅行の歌群のうち、近衛本(陽明文庫本)と板本(六家集本)
では、この歌の配列が違っています。
陽明文庫本では陸奥旅行の歌が九首連作として歌日記風に編まれて
います。通過した歌枕の順に編まれていて、「たぐひなき思ひ・・・」
の歌の次に1番歌があります。そのことによって、出羽から下野を
たどったということ、つまりは帰路は東山道を通って帰ったものと
思わせます。
ただし同じ陸奥旅行の時の「聞きもせず」歌が1442番、「朽ちもせぬ」
歌が800番、「ときはなる」歌が482番と分散しており、必ずしも
通過した歌枕順に記載されているわけではなくて、厳密には歌日記
風と言ってしまうには無理があります。
「聞きもせず」歌などは連作としてふさわしくないと考えて除外
したか、もしくは決定稿に至らなくて除外したなどの、何かしらの
理由があって陸奥旅行の時の一連の歌に組み込めなかったのかも
しれません。しかしどのような理由があるにせよ、同一の旅の時の
歌を分散させたということに、不自然な感じは否めません。

六家集本を底本とした松本柳斉の類題本ではなぜか「ふままうき
紅葉の・・・」と「なとり川きしの・・・」の歌の間にあります。
通過した土地の順に編まれたものではありません。
陸奥の名取川まで行ってそれから下野まで引き返したのか、そう
いうことをする必然がどこにあるのかと考えると、やはり陽明文庫本
の配列のように陸奥、そして出羽からの帰路とみなす方が自然だと
思います。ただし帰路とするのも納得できないものがあります。

帰路とするなら出羽の国瀧山の桜を見たのが4月ごろ、そしてこの
下野の国の歌が秋ごろのものですから、それまでの半年間程度は
どこで何をしていたのかという疑問が残ります。ずっと医王山瀧山寺
に逗留していた可能性もありますが、果たしてどうでしょう。
あるいは最上川を下って、象潟あたりに行ったのかも知れません。

ともあれ、これから日ごとに寒くなり雪の深い季節を迎えるのに、
まだ下野にいるというのは少しく不可解なことです。降雪の季節が
来るまでに下野からどこにも寄らずに秋のうちに京都に戻ってきた
のかもしれません。
京都から下野の国府までの東山道の距離はだいたい500キロメートル
です。若者の足では15日から20日で帰れますから、雪が降る前に帰り
着いていた可能性も強いと思います。
信濃の国などの雪の歌からみて、あるいは、わざと雪の多い所で一冬
を越してから帰洛したという可能性もあるかとも思います。
どちらにしても断定するだけの資料はなく、推定するのみです。

「晩秋の東路を彼は帰ってきたことになる。」
          (安田章生氏「西行」85ページから抜粋)

(5番歌について)

 道の邊の清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ
   (岩波文庫山家集54P夏歌・新古今集・玄玉集・御裳濯集)

能の演目「遊行柳」にもなっているこの歌は、西行の歌としては
有名な方ですが、不思議なことに西行の家集である山家集、聞書集、
聞書残集、山家心中集、西行上人集のいずれにも採録されていません。
新古今集、玄玉集、御裳濯集にありますが最も早い出例は玄玉集。
玄玉集は1191年成立とも1192年成立とも言われます。
西行没年が1190年。そして間をおかずに編まれた玄玉集にこの歌が
採録されているということは西行以外の余人の創作歌ではなくして、
西行歌と信じて良いのでは無いかと思います。

○ 新古今和歌集
 八番目の勅撰集、成立年特定不可、一応1216年成立。後鳥羽院院宣。

○ 玄玉和歌集(1192年頃成立、撰者未詳)

○ 御裳濯和歌集(1233年成立、撰者、寂延)

なぜ西行の家集に採録されていないのかとても不思議です。こういう
ことから類推して、やはり西行の歌は散逸してしまったものが多いと
思うほうが自然です。

「遊行柳」の場所は比定地が下野の国のうちにいくつかあるよう
です。芭蕉の「奥の細道」では下野の国蘆野(栃木県那須郡那須町
蘆野)としています。旅の途次の歌ではありますが、どこと特定
することはできない歌です。

  田一枚植ゑて立ち去る柳かな
        (芭蕉 奥の細道)

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  (2)東山道の国々について

京の都から日本海沿いを東上するルートが北陸道、太平洋沿いを東上
するルートが東海道。両道路に挟まれて内陸部を東上するルートが
東山道です。

東海道の終点は常陸国府「茨城県石岡市」。京都からの距離は619.7
キロメートル。
北陸道の終点は伊神駅「新潟県西蒲原郡弥彦村」。京都からの距離
は477.8キロメートル。
東山道の終点は秋田(あいた)駅「秋田市寺内」。京都からの距離
は1006.0キロメートル。

東山道の発足は五畿七道の制が定められた646年ですが、それ以前
にも「山の道」として道自体は設置されていたようです。
645年の大化の改新頃には朝廷の権威が陸奥のある部分まで及んで
いたということでもありますが、道は生活道として、また交易の
為にも必要でしたから、わざわざ新たに建設したものではなくて、
生活道、交易道であった道を利用して若干の改造を加えて官道と
したものが多いと思います。
陸奥路と出羽路の場合は現地の部族と朝廷軍との数次の激しい攻防
が繰りかえされたのですが、737年頃には東山道は終点の秋田駅まで
の延伸がなされていたようです。

平安時代の東山道は京都の羅城門を出発してから近江、美濃、信濃、
上野、下野、陸奥、出羽の国の順に東上しています。出羽路は陸奥
の国から分岐して秋田城まで続いています。
これとは別に東山道本路は通っていないのですが、東山道の国として
飛騨の国があり、美濃の国から支路が通じています。

先回の出羽の国との兼ね合いもあり、これから東山道を美濃まで
たどり、それから北陸道に取り掛かる予定です。越後の国から都に
向かってたどり、東山道と北陸道の分岐点である近江の国の歌を
記述して、このマガジンは終える予定です。

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  (3)東山道の帰路ルート(下野・上野の国)

白川の関からの東山道陸奥路は27号に記述しています。
今回は帰路ですから白川の関から下野、上野の国内の東山道のルート
を記述します。

陸奥から下野の順路

雄野駅(福島県表郷村旗宿「白川の関」)→黒川駅(栃木県那須郡
那須町伊王野)→磐上駅(大田原市湯津上村)→新田駅(那須烏山市
鴻野山)→衣川駅(宇都宮市下岡本町)→田部駅(宇都宮市上三川町)
→三鴨駅(下都賀郡岩舟町)→足利駅(足利市国府野)

下野から上野の順路

足利駅(栃木県足利市国府野)→新田駅(群馬県新田郡新田町)→
佐位駅(伊勢崎市五目牛町)→群馬(くるま)駅(前橋市元総社町)
→野後駅(安中市安中)→坂本駅(松井田町原)→長倉駅(軽井沢町
中軽井沢)
              
下野の国内の総距離 126.8キロメートル
上野の国内の総距離 87.0キロメートル
下野、上野国内の総距離は213.8キロメートル。

            (武部健一氏著「古代の道」を参考)

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  (4)下野と上野の国の主な歌枕
   
 下野(現在の栃木県)

 室の八島・黒髪山など。

 上野(現在の群馬県)

 伊香保沼・佐野船橋など。

○ 室の八島 

(栃木県栃木市国府町にある大神神社の池を指していると言われて
 います。)

◎ けぶりかと室の八嶋を見しほどにやがても空のかすみぬるかな
                  (源俊頼 千載集7番)

◎ さみだれに室の八島を見わたせばけぶりは浪の上よりぞ立つ
                 (源行頼 千載集186番)

◎ 朝がすみふかく見ゆるや煙たつ室のやしまのわたりなるらむ
                (藤原清輔 新古今集34番)

○ 黒髪山

(栃木県日光にある男体山の別名。平安時代初期までは大和の歌枕)

◎ うばたまのくろかみやまのいただきに雪もつもらばしらがとやみん
                      (隆源 堀川百首)

◎ みのうへにかからんことぞとほからぬくろかみやまにふれるしら雪
                      (源頼政 頼政集) 

○ 伊香保の沼

(群馬県北群馬郡伊香保町。(いか)の同音反復の歌が多い。)

◎ あづまぢやいかほのぬまのかきつばた袖のつまずりいろことにみん
                     (源顕仲 堀川百首)

◎ まこもかるいかほのぬまのいかばかり波こえぬらん五月雨のころ
                     (順徳院 順徳院集)

○ 佐野の船橋

(群馬県高崎市上佐野。船橋は船の上に板を渡して橋としたもの。)

◎ ありけりと佐野の舟橋見つるよりものうくなりぬ与謝のわたりは
              (和泉式部 和泉式部集470番)

◎ 天の原月にこぎいづるここちしてしばしやすらふさののふなはし
                   (藤原家隆 壬ニ集)

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  (5)雑感

京都の三大祭とは両加茂社の葵祭と、八坂神社の祇園祭、平安神宮
の時代祭を指しています。
過日、17日に行われた祇園祭の山鉾巡行は私は一度も見たことが
ありませんので、行って写真に収めようかとも思いはしたのですが、
結局行かずじまいでした。人が多くて、かつ、暑くて、見るのも
撮影するのも一苦労なのです。
京都に四十年以上も住んでいながら時代祭も見たことがありま
せん。
現在はデジカメで画像を撮影して、撮影画像を多くの方々に見ていた
だける時代ですので、できるだけ行って撮影したいとは思います。

過日、桂川沿いを時間をかけて自転車で嵐山まで行ってみました。
「クールアースデイ」という日で、嵐山の商店街も17時頃には軒並み
店を閉めていました。いつもなら人でぎっしりの通りも、通行人は
まばらでした。こんなこともあるのかと、びっくりしました。
当日、鵜飼風景を見物する舟に乗りこんで間近で鵜飼見物。
一時間弱で1700円の料金でしたが、得がたい体験でした。

暑さが続きます。ご自愛願いあげます。