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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.31(不定期発行)
2008年08月30日発行
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こんにちは。阿部です。
お盆を過ぎてから暑さもやっと峠を越えたようです。
振り返りみれば、今年も暑さ厳しい夏だったように思います。
お盆から二週間ほど過ぎただけで、吹いて行く風や空の高さに
秋の気配が色濃く感じられます。
程なくして本格的な秋。暑すぎず寒すぎず、良い季節が到来します。
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◆ 西行の京師 第二部 第31回 ◆
目次 1 信濃の国の歌(1)
2 姨捨伝説について
3 諏訪湖と諏訪社について
4 信濃の国の主な歌枕(1)
5 雑感
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(1)信濃の国の歌(1)
1 あらはさぬ我が心をぞうらむべき月やはうときをばすての山
(岩波文庫山家集84P秋歌・西行上人集・
新勅撰集・御裳濯河歌合)
2 天雲のはるるみ空の月かげに恨なぐさむをばすての山
(岩波文庫山家集219P釈教歌・新潮886番・
西行上人集・山家心中集)
3 くまもなき月のひかりをながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき
(岩波文庫山家集81P秋歌・新潮375番)
4 とぢそむる氷をいかにいとふらむあぢ群渡る諏訪のみづうみ
(岩波文庫山家集277P補遺・夫木抄)
5 春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ
(岩波文庫山家集148P恋歌・新潮607番)
6 いつとなく思ひにもゆる我身かな浅間の煙しめる世もなく
(岩波文庫山家集54P夏歌・新潮696番)
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○月やはうとき
「やも・やは」(反語)
(やも)は(や)に終助詞(も)が添った形で、活用語の未然形
を承けて反語に使う。多くは奈良時代に使われ、平安時代になる
と、(やは)がこれに代わって使われた。文末の(も)が用いら
れなくなったので(やも)が衰亡し、(やは)が代わったもので
ある。
(岩波古語辞典から抜粋)
この場合は(やは)は(うとき)にかかっている反語表現になる
ものでしょうか。私にはよくわかりませんが、違うのではないだ
ろうかという思いが強くあります。
姨捨山の月そのものが自身に疎いということではなくして、ここ
にある「月」は真如の月と解釈するべきであり、真如の月が自身
に疎いという意味ではなかろうかと思います。
用例歌。
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
(凡河内躬恒 古今集41番)
秋深みよわるは虫の聲のみか聞く我とてもたのみやはある
(岩波文庫山家集64P秋歌・新潮457番・
西行上人集追而加書・雲葉集)
○み空
空のこと。(み)は空の美称・敬称として働く接頭語です。
(御)の文字を当てます。
○月かげに
月の光のこと。月光のこと。
また、月の光の照射によって表れる物の影のこと。
○恨なぐさむ
ここでは誰がどうして(恨み)を感じているのか、その主体も
原因も判然としません。
詞書の「勧持品」によって、釈迦の叔母たち6000人の尼僧の恨み
ということがわかります。仏教では女性は成仏できにくいと言わ
れていて、それが恨みに思っていた原因ですが、成仏するという
約束をもらったために安堵した、慰められたということがこの
歌の背景として有ります。
○くまもなき
暗い所がない、光の届かない所がないということ。
○いとふらむ
嫌だなあ、と思う感情のこと。
○あぢ群渡る
「あぢ」は渡り鳥の(トモエガモ)のことと見られています。
トモエガモの群れが飛んでいる様子のことです。
○諏訪のわたり
「冬になって諏訪湖が凍る時にできる氷堤を諏訪明神御神幸の
跡とし、春にも同様の御神幸があり、それ以後は氷が解けて渡れ
なくなると信じていた。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
ここでは諏訪の土地、集落という意味の「わたり」と、御神渡の
「わたり」を掛けています。
○浅間の煙
長野県北佐久郡軽井沢町にある浅間山の噴煙のこと。
信濃の国と上野の国の境界上にある活火山で標高2568メートル。
和歌では信濃の国の歌枕です。
江戸時代、天明の噴火(1783年)では、1151名の死者を出して
います。
○しめる世
湿る世、衰える世という意味です。断続的に噴煙を上げていた
浅間山に重ねて、決して衰えることはない自分の思いを表して
います。
(1番歌の解釈)
「月を現出できない自身の心を恨むべきであろう。姨捨山に照る
月はわたしに対して疎疎しくはないのだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(2番歌の解釈)
「見捨てられたかと仏を一時は恨んだ叔母たち尼僧も、成仏の
約束をもらって心が慰められたというが、それはまるで、雲が
晴れて姨捨山の空一面を明るく照らす月光を見ているうちに、
自分たちを見捨てた子供たちへの恨みが慰められたのに似て
いる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「雨雲が晴れた空の月の光のように真如の月を仰ぎ、成仏する
との助言を得、悟ることができなかった今までの恨みも慰めら
れる姨捨山よ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(5番歌の解釈)
「春を待っていると、御神幸により氷が解けて春になるという
あの諏訪のわたりもあるのに、自分はいったいいつまで恋しい
人の氷のようにつめたい心が解けるのを待ったらよいのだろう
か。いつとも分らずまことにつらいことである。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(6番歌の解釈)
「浅間山の噴煙が衰える時代が来ようとは思われないように、
あなたに逢いたい思いが火になって私はいつも燃えている。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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(2)姨捨伝説について
大和物語(950年頃)、今昔物語集(1060年頃)にほぼ同じ内容の
姨捨伝説があります。それまでのこの地方の古称は「小初瀬」が
なまって「オバステ」と呼ばれていたようです。「姨捨」の文字が
当てられたのは両物語が広まってからだろうと言われます。
上の物語では、実母のように仲良く暮らしていた伯母が年を重ねて
身体も弱り腰も曲がったので、甥は意地の悪い妻にそそのかされて
姥捨山に棄てて来るという話です。伯母を山に棄てては来たけれ
ども、姥捨山を照らす月が明るく見事でもあり、気になって終夜
寝ることができず、悲しく、恋しく思えて、再度、山に登って伯母
を連れて帰るという説話です。
生活に困窮した果てに生活能力の衰えた高齢者を棄てるという棄老
伝説は各地にあったようです。柳田國男も遠野物語で棄老の風習を
紹介しています。
棄老ではないのですが、生まれたばかりの子供、幼い子供を間引く
(殺すこと)ということも、これまでの長い歴史の中では盛んに
行われていたのが実情ですし、いずれにしても悲しい事実に違い
ありません。
この姥捨ての地はまた「田ごとの月」で有名です。水を張った棚田
に月の写る状態を言いますが、棚田が形成されたのは江戸時代と
見られています。
JR姥捨駅は標高547メートルにあり、そこから見下ろす一帯は、
上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島の戦い」の場所です。
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(3)諏訪湖と諏訪社について
諏訪湖は長野県中部の諏訪市にあります。静岡県で太平洋に注ぐ
天竜川の水源です。最深部は八メートル程度。冬季は結氷して
スケート場になります。
冬季、この湖は氷が膨張して競りあがる「御神渡」が有名です。
諏訪大社上社の男神が諏訪大社下社の女神に逢いに行く道筋と
思われています。
諏訪大社は信濃の国の一宮。官幣大社従一位。全国に一万社ほど
の分霊社があります。
創建についてはつまびらかではないようですが、652年にはすでに
記録がありますから、日本有数の古い神社と言えます。
上社が本宮、前宮の二社があり、諏訪湖の南岸から少し離れた位置
にあって、本宮は諏訪市、前宮は茅野市にあります。
諏訪大社下社は諏訪湖の北岸すぐにあり、春宮、秋宮の二社です。
合計四社。諏訪湖を挟んで上下社が対峙するような形で鎮座して
います。
上社は男神の建御名方神(タケミナカタノカミ)、下社は八坂刀売命
(ヤサカトメノミコト)を祭神としています。この建御名方神は
古事記の国譲りの神話に出て来る神です。
例祭は十二支の申年と寅年の六年に一度行われる「御柱祭」が有名
です。
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(4)信濃の国の主な歌枕(1)
浅間山・姨捨山・更科・諏訪の海・木曽路・園原・
風越の嶺・伏屋など。
○浅間山(長野県北佐久郡軽井沢町)
◎ 雲はれぬ浅間の山のあさましや 人の心を見てこそやまめ
(なかき「平中興」古今集1050番)
◎ 信濃なる浅間の嶽に立つけぶりをちこち人の見ゆはとがめぬ
(在原業平 新古今集903番)
○姨捨山(長野県中央部の冠着山を指すと言われています)
◎ わが心なぐさめかねつ 更科や姨捨山にてる月を見て
(よみ人しらず 古今集878番)
◎ 出でぬより月見よとこそさえにけれ姨捨山の夕暮の空
(藤原隆信 千載集278番)
◎ 名にたかきをばすて山もみしかども今夜ばかりの月はなかりき
(藤原為実 詞花集288番)
○諏訪の海(長野県諏訪市の諏訪湖のこと)
◎ すはのうみこほりのうへのかよひぢはかみの渡りてとくるなりけり
(源顕仲 堀川百首)
◎ すはのうみ波にくだけしうすごほりわたるばかりになりにけるかな
(藤原清輔 清輔集)
○更科(かつての長野県更級郡。現在は長野市と千曲市に編入)
◎ さらしなや姨捨山の有明のつきずもものをおもふころかな
(伊勢 新古今集1257番)
◎ 更科や姨捨山に月見るとみやこにたれか我を知るらむ
(藤原季通 千載集512番)
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(5)雑感
「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすすむる秋風
の心に吹きさはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの又ひとり、
越人と云ふ。」
という書き出しで始まる更科紀行の旅に出立したのは貞享五年
(1688年)芭蕉45歳の年、8月のことでした。(現在の9月)
美濃から中山道の木曽路をたどって姨捨に着き、14・15・16日の
三日間を過ごしたことが知られています。
ちょうど中秋の名月を見たことになります。
「俤や姨ひとりなく月の友」
上の句はその時の有名な句です。
芭蕉はこの後、長野の善光寺に参詣し、浅間山麓を通って江戸にと
帰っています。
私もいつかは姨捨で月を見たいという願望がありますが、果たして
いかがなりますでしょうか。
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