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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

       第 二 部         vol.32(不定期発行)  
                    2008年09月28日発行

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こんにちは。阿部です。
重陽の節句、秋分の日も過ぎて、秋らしい気候となっています。
思い返せば、この夏の暑さが嘘のような、はるかな過去にあった
出来事のようにも思います。過ぎてみれば懐かしいものです。
近くの田の稲も多くは刈り取られました。1日ごとに秋めいていき
ます。できるだけ充実した、この年の秋を楽しみたいものです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第32回 ◆

 目次 1 信濃の国の歌(2)
     2 木曽谷のことごと
     3 信濃の国の主な歌枕(2)
     4 信州駆け足旅行レポート
     5 雑感

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  (1)信濃の国の歌(2)

1 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曽のかけはし底もみえねば
           (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1432番)
           
2 さまざまに木曽のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ帰る山人
            (岩波文庫山家集229P聞書集・夫木抄)
           
3 駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり
             (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)

4 ひときれは都をすてて出づれどもめぐりてはなほきそのかけ橋
  (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1415番)
 
   木曽と申す武者、死に侍りけりな
5 木曽人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
                (岩波文庫山家集256P聞書集)

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○木曽

 長野県の南西部を指す地名。木曽川上流域の総称です。
 長野・岐阜県境に標高3062メートルの御嶽山がそびえています。
 御嶽山は1979年に初めて噴火しました。

○木曽のかけはし

 桟(かけはし)とは、川を挟んで対岸と行き来できるようにする
 通常の橋のことではありません。
 断崖などの地形の条件により、一本の道を連続して施設すること
 ができず、途中で途切れることがあります。ために道の前後に、
 やむなく板や丸木など掛け渡して通行できるようにした橋の道の
 ことです。

○駒なずむ 

 (なずむ)は、水や雪や風雨、草などによって先に進むのに
 難渋すること。行き悩むこと。(駒)は馬で、馬がなかなか
 前に進まない状態。
 
○かけ路

 架けた道で、桟道のこと。「かけはし」と同義です。

○呼子鳥

 鳴き声が人を呼んでいるように聞える鳥のこと。郭公のことだと
 みられています。
 ホトトギスは郭公とは違う鳥ですが、山家集では郭公と書いて
 ホトトギスと読みます。

○ひときれは 

 一切れのこと。一つの区切りの期間。一時的ということ。

○木曽と申す武者・木曽人

 源義仲のこと。後述。

○海のいかり

 海を擬人化して、海の怒りということと、船で用いる碇とを掛け
 あわせています。
 歌には強烈な批評精神に根ざした皮肉が込められています。

(1番歌の解釈)

 「木曽の桟橋では、雪が積もって底も見えないので、波と見える
 雪を分けて、舟を漕ぐような格好で渡ることである。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「様々に木曽の桟道を伝って山に入り、山奥の様子を知っては
 里に帰る山人たちよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「けわしくて駒がなかなか進まない木曽山中の危険な道を行く
 と、よぶこ鳥が誰かを呼んで鳴いているが、誰をよんでいるのか
 わからぬ。そのよぶこ鳥の声がきこえるよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(4番歌の解釈)

 「一旦は都を捨てて出たけれども、巡り巡った果てにやはり
 都へ帰るべく木曽の桟橋をわたることである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(5番歌の解釈)

 「山育ちの木曽人は海の怒りを鎮めることができなくて、怒りを
 沈めて留まることもできず、死出の山にまでも入ってしまった
 なあ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
 「海の怒り」で、1183年10月の備中水島での平家との海戦を指して
 いると解釈できます。平家物語に詳しいですが、この戦いは
 義仲軍の完敗と言うほどのものではありません。

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  (2)木曽のことごと

(木曽の桟)

現在の国道19号線、江戸時代の中山道でもある木曽川の東岸沿いを
通る道は、820年代には完成したようです。
しかし安全に通行できる道かというと、そうではなくて、常に修復
を施さなくてはならない蔦で固定しただけの桟も多かったようです。
江戸時代に中山道のルートに組み込まれたということは、それなり
に安全な道になっていたものと思われます。
とはいえ多くの軍勢を通すには支障のありすぎる道だったものと
思われます。

芭蕉の更科紀行に「桟やいのちをからむつたかずら」の句があり
ます。芭蕉は1688年に木曽路をたどったのですが、芭蕉の句をその
まま信用するなら、江戸時代でもまだまだ通行に支障をきたす桟も
あったということでしよう。
 
現在、木曽福島町と上松町の間に「木曽桟跡」の遺構があります。

 「急峻な斜面に沿って木を組んで道としていたが、1648年に
 木曽川の縁から斜面に沿って石を13メートル積み上げ、全長
 102メートルに及ぶ石垣の山道をつくった。
              (長野県の歴史散歩から抜粋)

芭蕉がこの桟道を通ったのは工事が完成してから40年後のことです。

(中山道木曽路)

江戸時代に定められた69箇所の宿のある中山道は木曽谷ルートを
その道程に組み込んでいます。江戸日本橋から京都三条までの
59区間533キロメートルのうち、木曽谷には11箇所の宿場があり
ます。北から順に、贄川宿・奈良井宿・薮原宿・宮ノ越宿・福島宿・
上松宿・須原宿・野尻宿・三溜野宿・妻籠宿・馬籠宿の合計11宿。
距離は80キロメートル少し。宮ノ越宿と福島宿の中ほどが京都から
と江戸からの中間地点にあたり、双方から約266キロメートル。

木曽路は谷沿いの平坦な地だけでなくて鳥居峠は標高1200メートル
ほど、馬籠峠は800メートルほどあります。とはいえ木曽福島宿でも
800メートルほどの標高がありますから鳥居峠などとの標高差は
400メートル程度です。いずれにしても標高の高い山の中の道と
いうことがわかります。

(木曽義仲)

平安末期、朝日将軍とも言われた木曽義仲は宮ノ越で育ちました。
義仲は河内源氏源義賢の次男です。義賢は為義の子で義朝の弟。
義朝の子には鎌倉幕府を起こした頼朝、そして義平、義経などが
います。
義賢の子に仲家と義仲がいて、嫡男の仲家は源三位頼政の養子と
して、1180年、宇治川の戦いで敗死。
義賢は甥の義平に攻められて1155年に死亡しています。その時に
わずか二歳の義仲は木曽谷の中原兼遠に育てられて、13歳で京都の
岩清水八幡宮で元服しています。
1180年、以仁王の平家打倒の令旨が諸国を巡ったのを機に、義仲も
軍勢を整えて立ち上がりました。
市原の合戦、横田河原の合戦、そして1183年の倶利伽羅峠の合戦
などに大勝利をおさめた義仲軍は怒涛のように都に迫ったために、
平家は都を捨てて西海に逃れました。

華々しく都に入った義仲ですが、老獪な後白河院に良いようにあし
らわれます。おりしも飢饉が続いていて、義仲軍には兵站がなく馬
に食わす草、武士達の食料もありません。それで、糧食を洛中で
調達するための乱暴狼藉があり、都人からは嫌われます。
同年9月、瀬戸内海で再起した平氏の討伐を命ぜられて播磨に向かい
ます。しかし地理も不案内でもあり、知らない海戦でもありして
大敗を喫したと言われます。平家物語の記述では大敗というほど
のものではありません。
ともあれ、敗軍として京に舞い戻った義仲を待ち受けていたのは、
後白河院の汚い策謀。怒った義仲は強引に後白河院や後鳥羽天皇を
幽閉し、法住寺殿を焼き討ちにしたりします。

1184年1月、鎌倉方の義経・範頼に追われて敗走。近江の国粟津で
戦死。義仲ときに31歳でした。木曽の山中にあった義仲も、時代の
波に翻弄された犠牲者の一人とも言えるでしよう。
現在、大津市膳所駅近くに「義仲寺」があります。
1694年没の松尾芭蕉は遺言して義仲寺に葬られています。
西行は義仲を嫌っていたはずですが、芭蕉は義仲に対して非常な
愛惜を覚えていたであろうことがわかります。

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  (3)信濃の国の主な歌枕(2)
   
  浅間山・姨捨山・更科・諏訪の海・木曽路・園原・
風越の嶺・帚木の伏屋など。

○木曽路(主に中山道のうちの木曽谷部分)

◎ 恐ろしや木曽のかけぢの丸木橋ふみみるたびに落ちぬべきかな
               (空仁法師 千載集1050番)

◎ あさましやさのみはいかに信濃なる木曽路の橋のかけわたるらむ
                 (平実重 千載集862番)

◎ なかなかにいひも放たで信濃なる木曽路の橋のかけたるやなぞ
                 (源頼光 拾遺集865番)

◎ わけくらす木曽のかけはしたえだえに行末深き峰の白雲
                 (藤原良経 秋篠月清集)

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  (4) 信州駆け足旅行レポート

思い立って9月13日と14日に長野県の一部を駆け足で見てきました。
13日早朝に自宅を出て、乗り継ぎを繰り返して長野県諏訪市の
下諏訪駅に降り立ったのは11時過ぎ。諏訪大社下社秋宮と春宮を
参拝後に諏訪湖を見物。西行歌に二首ある湖です。
下諏訪発の列車の時間を気にしながら諏訪湖を見て20分ほどを過ご
しました。冬季の結氷期だけでなく夏期もワカサギ釣りをしている
ようです。ワカサギがたくさんいる湖なのでしようね。

下諏訪駅から松本駅に行き国宝の松本城見学。バランスの良い、
落ち着いたたたずまいのお城だという印象です。
せっかく信州まで来たのですし、名物のソバを食べなくてはと思って
駅前で昼食。稲荷寿司2個と山菜の天麩羅付きで1800円ほど。少し
高いと思いました。ちなみに新ソバかどうか、おいしいのかどうかも
私の舌ではわかりませんでした。

松本駅から姨捨駅まで。姨捨駅は無人駅です。17時過ぎに着いて
みれば雨がポツリポツリと落ちてきだしました。でもまだ少し明る
くて、写真撮影は可能です。雨を気にしながら、田ごとの月ならぬ
田ごとの実りの光景を撮影。見事な光景です。でも標高547メートル
の駅近くまで民家があるのには、ひどく失望しました。
麓の長楽寺まで行く予定でしたが、道の傾斜も急、暗くなりつつも
あり、雨がひどくなるかもわからないので断念しました。
当日は十四夜でした。なんとか月が見られないものかと思ったの
ですが、二時間ほどいても月は出そうにもありません。あきらめて
長野市の宿泊先まで。

翌朝、善男善女の一人になって善光寺を見物。さすがに本堂は大きい。
次いで川中島古戦場まで。武田信玄と上杉謙信の戦いの場所です。
篠ノ井駅発13時過ぎの特急で木曽福島駅に着いたのは14時半。
義仲の宮ノ越宿は心を残しながら行かずじまい。芭蕉も更科紀行の
旅で通ったはずなのに、宮ノ越宿のこと、義仲のことには全く触れて
いません。
木曽福島駅からタクシーで桟まで。江戸時代の桟の遺構が残って
います。桟から4キロほどを歩いて上松町にある「寝覚めの床」まで。
木曽川の水が花崗岩を浸食してできた景勝です。日本にこれだけの
規模のものがあるのはすばらしいと思いました。
上松駅から木曽福島駅に戻り、17時30分の特急に乗車。自宅帰着は
21時頃。かくして、今回の信州の旅は終わりました。

それにしても信州はなぜかしらノスタルジックな感情を引き出させる
ような国だと思います。
次にはもう少し内懐に入って、信州そのものを楽しみたいものです。

ブログに画像を出しておきました。よろしければご覧願います。

http://blog.goo.ne.jp/rinkanzu/e/b10dec22fee64546c8f1bb6598be13b9

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  (5)雑感

信濃の国の歌は二回におさめるつもりでしたが、構成を練り直した
果てに三回に分けることにしました。次号も信濃の国の歌をご紹介
します。
畿内やその周辺の紀伊、近江、伊勢を別にすると信濃の国の歌は
陸奥、播磨、淡路などとともに多くあります。そのことによって、
あるいは信濃までの小旅行を試みたことがあるのではなかろうか、
と思います。もちろん山家集にはそれを証明する記述はありません。
今号紹介の4番歌などは、行ったことがあるのではないかと思わせる
歌です。もし行っているのでしたら、さすがに漂泊の歌人と改めて
思わせますね。

今年も後3ヶ月。例年のように紅葉を楽しみたいものです。

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