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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
第 二 部 vol.33(不定期発行)
2008年11月03日発行
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こんにちは。阿部です。
季節は巡って11月霜月。朝晩、冷え込むこともあって室内気温が
15度程の時は思わずブルッとして、寒いと感じてしまいます。
良い季節というよりは、寒くなりました。これからさらなる寒さに
向かって一直線です。最近とみに寒さに弱くなっていますので、
今後の寒さのことを思うと、ちょっと憂鬱です。
寒さ厳しい時は、タイピングする指先も痛むようになっています。
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◆ 西行の京師 第二部 第33回 ◆
目次 1 信濃の国の歌(3)
2 園原・帚木・伏屋
3 東山道の帰路ルート(信濃の国)
4 信濃の国の主な歌枕(3)
5 雑感
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(1)信濃の国の歌(3)
1 かざこしの嶺のつづきに咲く花はいつ盛ともなくや散るらむ
(岩波文庫山家集31P春歌・新潮83番・西行上人集・
山家心中集・宮河歌合・玄玉集・夫木抄)
2 あはざらむことをば知らず帚木のふせやと聞きて尋ね行くかな
(岩波文庫山家集143P恋歌・新潮578番)
3 例ならぬ人の大事なりけるが、四月に梨の花の咲きたりける
を見て、梨のほしきよしを願ひけるに、もしやと人に尋ねけ
れば、枯れたるかしはにつつみたる梨を、唯一つ遣して、
こればかりなど申したる返りごとに
花の折かしはにつつむしなの梨は一つなれどもありのみと見ゆ
(岩波文庫山家集199P哀傷歌・新潮1445番)
(参考歌)
4 をばすての嶺と申す所の見渡されて、思ひなしにや、
月ことに見えければ
をば捨は信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ
(岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮1107番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
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○かざこしの嶺
長野県飯田市にある風越山のこととみられています。古代の東山道
から見える位置にあります。風越山の標高は1535メートル。
○帚木(ははきぎ)
ホウキグサのこと。箒にするために栽培されていた高さ1メートル
程度の一年草のこと。
信濃の国の歌枕です。
○ふせや
低い粗末な家のこと。みすぼらしい小屋のこと。
○かしはにつつむ
植物の柏の葉っぱに包んで保存していたもの。
○しなの梨
特殊な銘柄の梨ではなくて、信濃の国で採れた梨ということです。
○ありのみ
梨の実のこと。
梨という言葉は「無し・亡し」に通じますから忌み言葉として
使わず、「ありのみ」としたものです。
この歌は新潮版での詞書は岩波文庫山家集とほぼ同一の文章です
が、歌は以下のように変わっています。
花のをり 柏に包む 信濃梨は 緑なれども あかしのみと見ゆ
(1番歌の解釈)
「いつも風が吹き越してゆく風越の峯の続きに咲いている桜は、
いつが花盛りということもなく散ってしまうことであろうよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(2番歌の解釈)
「逢ってくれないとも知らず、噂を聞くだけであなたに恋い
焦がれて、とうとう帚木の伏屋まで訪ねて行くことになって
しまった。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(3番歌の解釈)
「花が咲く頃にはあるはずもない信濃梨を、柏の葉に包んで保存
なさったのですね。一ついただくだけでも病人がどんなに喜び
ますか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「梨の花が咲く季節に、柏に包んで送って下さった信濃梨は、
緑色ですが、枯れた柏でつつまれて、「赤しの実」、生きる
証の実と思われます。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(参考歌について)
参考歌は信濃の歌ではなくて、吉野から熊野に至る大峰山中の
「伯母ヶ峰」のことです。標高は1262メートル。
伯母ヶ峰は大峰奥駆道のルートからは少し離れていますが、西行
は実際にこの山にも行ったものと思われます。
「このおばすての峯は、信濃ではないけれど、どこにあっても、
(おばすて)とは月が澄んだ光りを宿す峯の名であることだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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(2)園原・帚木・伏屋
(園原)
長野県南部にある地名。長野県下伊那郡阿智村。古代の東山道の
ルート上にあり、京都側から入った場合、最初の難路である神坂峠
を下った所に位置します。付近に昼神温泉郷があります。
(帚木)
歌に詠む場合は遠くからは見えるけど近づくと消えて見えなく
なるという帚木の伝承に拠って詠まれています。
遠くからははっきりと見えるけれども近寄れば見えないという
ことに例えて、離れているうちは情愛が濃さそうに見えながら、
いざとなれば逢ってくれない冷たい女性のことを指しています。
(伏屋)
簡単な造りの小屋のことです。休憩所として利用されたものです。
手持ちの中央公論社の歴史年表によると
「835年6月、大安寺僧忠一に、東海、東山二道の要港に渡舟を増し、
浮橋を造り、伏施屋を建てさせる。」とあります。
また、伝教大師最澄も東山道の難路のひとつである神坂峠の東西に
伏屋を作ったといわれています。西側が美濃国の広斉院遺跡、東側
が信濃国の広拯院です。
東山道の美濃の国坂本駅と信濃の国阿智駅間は40キロほどあります。
道は山の上の尾根伝いの部分が多くて、この間は雨を避けたり、休む
ための施設はなかったようです。旅人の苦労は大変でしたから、伏屋
を作って旅人の利便に供したものです。
伏屋の歌もいくつかありますが「園原」もしくは「帚木」がともに
詠みこまれている場合は信濃の国の歌、単に「伏屋」だけの場合は
普通名詞と解釈するべきと思います。西行の下の歌などは信濃の国
の歌とみるには無理があるでしょう。
悔しくもしづの伏屋とおとしめて月のもるをも知らで過ぎける
(岩波文庫山家集79P秋歌・新潮347番・西行上人集・夫木抄)
夏の夜の月みることやなかるらむかやり火たつる賤の伏屋は
(岩波文庫山家集53P夏歌・新潮241番)
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(3)東山道の帰路ルート(信濃の国)
信濃の国の東山道ルートは以下のようになっています。信濃の国
において、江戸時代の中山道ルートとはいちぢるしく違いが出て
います。
坂本駅(群馬県碓氷郡松井田町)→長倉駅(長野県北佐久郡軽井沢町)
→清水駅(小諸市諸)→日理「わたり」駅(上田市諏訪部)→浦野駅
(小県郡青木村)→錦織駅(東筑摩郡四賀村)→覚志駅(塩尻市上西条)
→深沢駅(上伊那郡)→宮田駅(上伊那郡宮田町)→賢錐駅(上伊那郡
松川町)→育良駅(飯田市北方)→阿知駅(下伊那郡阿智村)→
坂本駅(岐阜県中津川市)
信濃国内の宿駅数 11駅
信濃国内の東山道の距離数 203.2キロメートル。
比較のために信濃の国の中山道のルートを記述します。
坂本宿(群馬県碓井郡松井田町)→軽井沢宿(長野県北佐久郡軽井沢)
→沓掛宿(北佐久郡軽井沢町)→追分宿(北佐久郡軽井沢町)→
小田井宿(北佐久郡御代田町)→岩村田宿(佐久市岩村田)→塩名田宿
(佐久市塩名田)→八幡宿(佐久市八幡)→望月宿(佐久市望月)→
芦田宿(北佐久郡立科町)→長久保宿(小県郡長和町)→和田宿
(小県郡長和町)→下諏訪宿(諏訪郡下諏訪)→塩尻宿(塩尻市)
→洗馬宿(塩尻市)→本山宿(塩尻市)→贄川宿(塩尻市)→奈良井宿
→(塩尻市)薮原宿(木曽郡木祖村)→宮ノ越宿(木曽郡木曽町)→
福島宿(木曽郡木曽町)→上松宿(木曽郡上松町)→須原宿(木曽郡
大桑村)→野尻駅(木曽郡大桑村)→三留野宿(木曽郡南木曽町)→
妻籠宿(木曽郡南木曽町)→馬籠宿(中津川市馬籠)
信濃国の宿場数 25宿
信濃国内の中山道の距離数 179.9キロメートル
碓氷峠を越えた東山道は軽井沢を過ぎてからもほぼ西進して、古代
に信濃国府のあった松本市を過ぎ、松本市から塩尻市、伊那市と
まっすぐ南下して、飯田市からほぼ山の中を通って西に向かって、
岐阜県中津川市にと向かいます。
これに比して中山道は軽井沢までは同じルートですが、軽井沢を
過ぎてから諏訪湖方面にと南下、諏訪湖から西の塩尻市にと向かい、
木曽谷を過ぎて中津川市にと出ます。
どちらの道にしても険しい峠道も多くて、旅人は難渋したものと
想像できます。
尚、馬籠宿は現在は岐阜県ですが、当時は信濃国になります。
(坪田茉莉子氏著 中山道六十九次旅日記)
(岸本豊氏著 中山道六十九次を歩く)
(建部健一氏著 古代の道)
上記著作を参考にしています。
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(4)信濃の国の主な歌枕(3)
浅間山・姨捨山・更科・諏訪の海・木曽路・園原・
風越の嶺・帚木の伏屋など。
○風越の嶺(長野県飯田市にある風越山。標高1535メートル。)
◎ かざこしのみねのうへにてみるときは雲は麓の物にぞありける
(藤原家経 詞花集386番)
◎ 風越を夕越え来ればほととぎすふもとの雲のそこに鳴くなり
(藤原清輔 千載集158番)
○園原(長野県下伊那郡阿智村にある地名。東山道沿いの地名。)
◎ その原やふせやに生ふる帚木のありとは見えて逢わぬ君かな
(坂上是則 新古今集997番)
◎ 立ちながら今宵は明けぬ園原や伏屋といふもかひなかりけり
(藤原輔尹 新古今集913番)
○帚木・伏屋(園原にある帚木の伝承によります。)
◎ 帚木の心も知らで園原の道にあやなくまどみぬるかな
(紫式部 源氏物語「帚木」)
◎ 数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木
(紫式部 源氏物語「帚木」)
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(5)雑感
昨日、新設間もないJR桂川駅から京都駅に出て枳殻邸見物。
枳殻邸はモミジの木も少ないので紅葉の名所ではありません。
しかしここは源氏物語の主人公の光源氏のモデルになったという
源融の河原院跡と伝えられています。真偽は定かではありませんが、
「塩釜の跡」というのもあります。
京都の町が応仁の乱その他でほぼ完全に灰燼に帰したとしても、
また首都が東京に移転したとしても、京都は歴史が連綿と続いて
来た都市であることに変わりはありません。歴史の堆積の重みを
感じさせる都市です。
私などはこの時代に生まれて、たまたま少しだけ歴史をかじった
だけの人間ですが、それでもこの町の歴史を思うとき、少しの晦渋と
ともに、とても満たされているような気分に陥ります。
負の部分も共に抱き合わせて歴史は動きます。
人々が歴史を作るのですから、それはそれで当然のことです。
さて私が私自身の歴史を作ろうと思うとき、などと大仰に考えずに
自然に自然に・・・ということを枳殻邸の庭園のベンチに座って、
四囲の光景を見ていて思うことでした。
それでいいのだと思います。
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