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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.36(不定期発行)  
                    2009年02月17日発行

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こんにちは。阿部です。
二月如月。まだまだ寒い日があるとはいえ、すでに梅の花も見頃を
迎えていて、季節は確実に陽春にと向かっています。
一ヵ月後の春分の日頃になると、今年の桜もそろそろ開き始める
でしょう。今年はいつの年にもまして開花が早いのではないかと
予感させます。梅も良いですが、今から今年の桜が待たれます。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第36回 ◆

  目次 1 北陸道の国々の歌(2)
     2 北陸道のルート(2)
     3 北陸道の国々の主な歌枕(2)
     4 雑感

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1 わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山
             (岩波文庫山家集245P聞書集142番) 
 
2 あらち山さかしく下る谷もなくかじきの道をつくる白雪
        (岩波文庫山家集99P冬歌・新潮欠番・夫木抄)
              
3 しほそむるますをのこ貝ひろふとて色の浜とはいふにやあるらむ
           (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1194番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)

4 波よする竹の泊のすずめ貝うれしき世にもあひにけるかな
           (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1195番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)

(参考歌)

5 夜もすがらあらしに波をはこばせて月をたれたる塩越の松
                      (帰雁記註考)

6 汐越と人はうべにも言ひけらし垂れたる枝や根上りの松
                      (帰雁記註考)

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○月のかげしく

 月光があまねく照らしているという幻想的な光景を言います。

○雪のしら山

 冠雪している白山のこと。
 白山は石川県・岐阜県・福井県にまたがり、最高峰の標高2702
 メートルの御前峰を中心とする付近の山々の総称です。
 石川県石川郡鶴来町に鎮座する白山比刀iひめ)神社が全国白山
 神社の総本山。白山の御前峰に白山比盗_社の奥宮社があります。

○あらち山

 愛発山・有乳山という固有名詞の山はありません。近江から越前
 に向かう西近江街道沿いに有る標高865メートルの乗鞍嶽とその
 付近の山を指します。
 ここに鈴鹿の関、不破の関とともに古代の三関である愛発関が
 置かれていました。しかしこの関は798年に廃止されています。
 
○さかしく下る

 「険し」と書いて(さかし・けわし)と読みます。
 山の勾配が急であることを表しています。

○かじきの道

 「かじき」は雪国で用いる「かんじき」のことです。
 靴の下に付ける輪状の用具で、多く積もっている雪道を歩いても、
 深く沈みこまないように、歩行を助けるために編み出された用具
 です。

○しほそむる

 潮が染まること。

○ますをの小貝

 「ますを」は「真赭・真朱=まそほ」のことだと思われます。
 赤色のことだといわれています。ここでは赤色の貝ということ
 です。以下「ますを」について少し触れます。

 赤色の顔料及び染料として植物性のものと鉱物性のものが用いら
 れてきました。顔料は水に溶けないもの、染料は溶けるものを
 言います。
 実のところ「ますほ」は「赤色」を指すということを知っている
 のみで、その生成については私は分らないというのが実態です。

(植物性のもの)

ベニバナ

 キク科の一.二年草で、古来、赤色や紅色を出すための染料として
 用いられました。

蘇芳

 マメ科の落葉樹で材やサヤが赤色染料となります。ただし、
 くすんだ赤色で鮮烈な赤色にはならないようです。
 これが「ますほ」の語源なのでしょうか。

 なお、着物の襲(かさね)で(蘇芳)とは、表は薄茶色、裏は
 濃赤色を指します。
 襲(かさね)とは、男性の狩衣、女性の単などの装束で、一定の
 色の組み合わせのことです。着用の方法や色の組み合わせが決め
 られていました。

 延喜式では「深蘇芳」に染めるための材料を以下のように記述
 しています。一疋(いっぴき)とは二反の生地のことです。

 「綾一疋、蘇芳大一斤、酢八合、灰三斗、薪百二十斤」
           (平凡社刊 「京の色辞典330」を参考)

(鉱物性のもの)

1「鉄丹=紅殻=べんがら」三酸化ニ鉄を主原料とする赤色の顔料。 
 赤鉄鉱を含んでいる赤土のことで、塗料に用いられました。

2「鉛丹」鉛に硫黄と硝石を加えて焼いた顔料。

3「銀朱」硫黄と水銀との化合物で赤色の顔料。
 または、辰砂を原料とした水銀朱で赤色の顔料。
「朱」は赤色を指す顔料です。

 ほかに「真麻穂=まそほ」があります。麻などの穂のことです。
 歌から考えてこの「真麻穂=まそほ」ではないでしょう。

○色の浜

 現在の福井県敦賀市の敦賀湾の西岸にあります。
 芭蕉の奥の細道では「種(いろ)の浜」という記述です。

○竹の泊

 場所を特定できません。
 和歌文学大系21では
 「加賀の国の歌枕。石川県加賀市の大聖寺川河口付近という。
 または伊勢国の歌枕。現在の三重県多気郡明和町の伊勢湾に面
 する港か」
 とあります。

○すずめ貝

 笠形の硬い殻をもつ海産マキガイ。殻長・殻径とも約二センチで、
 褐色。潮間帯の岩礁にすむ。
           (講談社刊 日本語大辞典」から抜粋)

○潮越

 福井県あわら市吉崎の対岸にあるそうです。奥の細道の旅では
 芭蕉も吉崎から舟で北潟湖を渡って潮越の松を見ています。

 「1番歌の解釈」

 「修行を志して山に分け入ると、そのまま悟りの世界が現れる、
 月の光が敷きつめたように覆う雪の白山よ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 「2番歌の解釈」

「有乳山は険しくて、谷へ下る道もないほどだが、白雪が谷を
 埋めて、かんじきで歩く道を作ってくれた。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 「3番歌の解釈」

 「潮を染める紫紅色のますほの小貝を拾うことから、色の浜と
 いうのであろうか。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)    

 「4番歌の解釈」

 「波が臥し静かになった竹の泊りの雀貝、竹に雀というそのとり
 あわせに、まことに嬉しい世にも逢ったと思うよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋) 

 新潮日本古典集成山家集では初句が「波臥(なみふ)する」と
 なっています。

 (参考歌について)

 参考歌の「潮越しの松」の歌二首は、とうてい西行の歌とは思え
 ません。西行の家集(山家集・聞書集・聞書残集・西行上人集・
 山家心中集)のどれにもなくて、ただ「歸雁記註考」という書籍
 にしかないようです。
 この「歸雁記註考」というのは、第一書房刊行、伊藤嘉夫氏校註、
 昭和62年復刻発行版の「山家集」に「潮越の松」歌の出典として
 明記されています。

 ネットで検索しても「歸雁記註考」というものが、どういう書物
 なのか皆目分りません。
 芭蕉の時代にはすでに知られていて、芭蕉も「奥の細道」で潮越
 の松を見、5番の「潮越の松」歌に触れて絶賛しています。
 芭蕉は「潮越歌」を西行歌として確信していたものでしょう。
 
 「歸雁記註考」についてご存知の方はご教示願えないでしょうか。
            
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  (2)北陸道のルート(2)

若狭 越前 加賀 能登 越中 越後 佐渡

北陸道の国は以上の7箇国です。近江の国の琵琶湖西岸も通りますが、
近江の国は北陸道の国ではなく、東山道の国です。
前回は越前の国三尾駅(福井県あわら市御簾尾)まで記述しました
から、今回は三尾駅から京都の羅城門までのルートと駅名を記述し
ます。「駅」の文字は省略しています。

三尾(みお、福井県あわら市御簾尾)→足羽(あすは、福井市船橋新町)

→朝津(福井市浅水町)→阿味(あじま、武生市中新庄町)→丹生

(武生市小松)→淑羅(しらぎ、南条郡南越前町)→鹿蒜(かえる、

南条郡南越前町)→松原(敦賀市松原)→鞆結(ともゆい、滋賀県

高島市マキノ町)→三尾(高島市安曇川町)→和邇(わに、大津市

和邇)→穴太(あのう、大津市穴太)→山科(京都市山科区)→

羅城門(京都市南区唐橋)
    
越後の国の伊神駅(新潟県西蒲原郡弥彦村)から、越前の国の最後の
駅である三尾駅(福井県あわら市御簾尾)までの距離数は313.3キロ。
京都の羅城門から越後の国の伊神駅までの総距離は478キロ。
羅城門から越前の国三尾駅までは164.7キロ。
北陸道の距離数は東山道の半分以下になります。東山道は羅城門
から出羽の国秋田城までの総距離は約1040キロあります。
ですから、北陸道はいかに短い道かということがわかります。
このマガジンでは記述していませんが、北陸道は支路として佐渡路、
能登路、そして若狭路が別にあります。

今号の「阿味」駅は「あじまの」の地として古来から歌に詠まれた
地です。下は、罪を得て味真野に流されていた中臣宅守との贈答の
歌です。

  味真野に宿れる君が帰り来む時の迎えをいつかと待たむ
           (狭野茅上娘子 万葉集巻十五」

鹿蒜(かえる)は歌に詠まれた「帰山」のある辺りです。

松原は越前の国府に近く、松原居館がありました。34回の来日の
あった渤海国からの使節を歓待する場所でした。
996年、紫式部の父の藤原為時が越前守として赴任することになり、
式部も同行しました。998年、式部は帰京して藤原宣孝と結婚。
翌年の999年に後の大弐三位を産んでいます。
紫式部も越前までのルートを往復したということになります。

松原から琵琶湖西岸の「鞆結」までのルートは愛発関のあった
ルート(現在の西近江街道)ではなく、さらに西よりの山の中の
ルートを通ったものと思われます。
「鞆結」から琵琶湖西岸沿いを南下、逢坂峠より一つ北の「小関峠」
を越えて山科に入り、日ノ岡、蹴上と過ぎて都に入っていました。

この小関越えの道は飛鳥・奈良時代の東山道・北陸道のルートと
みられています。都が山城に遷都されてからは東海道、東山道は
逢坂峠を越えることになりました。しかし北陸道のみは小関峠を
越えていたもののようです。
逢坂の関は645年の設置、小関峠道にはそれ以前に関があったものと
思われますが(長安寺=関寺跡?)、逢坂の関及び小関の関の場所
については、どこにあったのか現在でも確定できていません。
更科日記の作者が東国から京都に戻ってきた時(1045年)の関は
長安寺にあったと解釈するしかないのですが、それが逢坂の関か
小関の関か判然としないようです。
         (木下良氏監修「古代の道」から抜粋、参考)

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  (3)北陸道の国々の主な歌枕(2)
   
 1 越前の国(福井県)

  白山・越白嶺・有乳山・帰山など

○ 白山

 石川県、富山県、岐阜県、福井県にまたがる「白山」のことです。
 白山とは標高2702メートルの御前峰を最高峰とする五山の総称です。
 
◎ 面影におもふもさびしうづもれぬほかだに月の雪の白山
                  (藤原定家 拾遺愚草)

◎ しらやまやなほ雪ふかきこしぢにはかへる雁にや春をしるらん
                  (藤原俊成 長秋詠藻)

○ 越の白嶺

 越路にある冠雪した山のことですが、五代集歌枕、八雲御抄とも
 に越前国の歌枕としています。
 白山の異称ともいわれています。

◎ み吉野の花のさかりをけふ見れば越の白根に春風ぞ吹く
                 (藤原俊成 千載集76番)

◎ 紅葉ばも真白に霜の置ける朝は越の白峰ぞ思ひやらるる
                (和泉式部 和泉式部続集) 

○ 有乳山(あらちやま)

 越前国の歌枕。近江国と越前国の国境近くにあった山?。現在は
 「あらち山」と発音する固有の山はありません。

◎ 矢田の野に浅茅色づくあらち山嶺のあわ雪寒くぞあるらし
                (柿本人麿 新古今集657番)
               
◎ 冬のよのみねのあらしやあらちやま月よりかかるのべのあさぢふ
                   (順徳院 順徳院集)

○ 帰山(かえるやま)

 福井県南条郡今庄町(現、南条郡南越前町)二つ屋付近の山。

◎ かへる山なにぞはありてあるかひは来てもとまらぬ名にこそありけれ
                (凡河内躬恒 古今集382番)

◎ 待てといひて頼めし秋も過ぎぬれば帰る山路の名ぞかひもなき
                 (西住法師 千載集493番) 

 2 若狭の国(福井県)

 青葉山・後瀬山など

 ○ 青葉山

 福井県大飯郡高浜町にある海に近い山です。若狭富士と呼ばれ
 ます。
 歌では「水鳥」や「青葉」に対比する紅葉が詠まれています。

◎ ときはなる青葉の山も秋くれば色こそ変へねさびしかりけり
               (前大僧正覚忠 千載集273番)

◎ 立ちよれば涼しかりけり水鳥の青羽の山のまつのゆふかぜ
              (式部大輔光範 新古今集755番) 

 ○ 後瀬山(のちせやま)

 福井県小浜市の小浜湾に面した標高170メートルほどの丘です。
               
◎ 後瀬山後もあはむと思えこそ死ぬべきものを今日まで生けれ
                 (大伴家持 万葉集巻四) 

◎ たのめおきしのちせのやまのひとことや恋をいのりの命なりけり
                  (藤原定家 拾遺愚草)

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  (4)雑感

今回で北陸道の歌は終わります。
次回の37号から、東山道の初めの国である近江の国の歌について
数回に分けて記述します。

 行きずりに一枝折りし梅が香の深くも袖にしみにけるかな
         (岩波文庫山家集146P恋歌・新潮596番)

自宅周辺を散策していても、盛りの梅をしばしば見かけます。
なんとなく気持が弾んでくるような嬉しいものを覚えます。
平安時代以前は「花」とは梅の代名詞でした。紫宸殿の左近の
桜も、古くは「左近の梅」でした。

上の歌からも分るように梅の枝は手折ることが礼儀でもあったもの
でしょう。現在であれば行きずりに人様のお宅の梅の枝を折り
取ろうものなら、器物損壊罪で罪になるでしょうね。
そのことだけを取り上げるなら、あるいは現在は非常に窮屈な時代
なのかも知れません。

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