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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部         vol.39(不定期発行)  
                    2009年05月25日発行

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こんにちは。阿部です。
近くでも水田は少し残っていて、今は水が張られています。程なく
田植えの光景が見られます。
アスファルトやコンクリートで塗り固められた土地だけではなくて、
畑や水田があって、昔ながらに作物を植えて収穫している事に、
少しく安堵します。ノスタルジックなものを感じさせます。
そういえば来月の11日が入梅。早いものです。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第39回 ◆

 目次 1 近江の国の歌(3)
     2 書物に見る近江の情景(1) 
     3 西行伝説と歌碑
     4 近江の国の主な歌枕(3)
     5 雑感

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    (1)近江の国の歌(3)
 
01 春風の花のふぶきにうづもれて行きもやられぬ志賀の山道
          (岩波文庫山家集36P春歌・新潮113番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

02 ちりそむる花の初雪ふりぬればふみ分けまうき志賀の山越
          (岩波文庫山家集38P春歌・新潮105番・
        西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

03 風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎
          (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮564番・
      西行上人集・山家心中集・宮河歌合・新勅撰集)

04 ほととぎすなきわたるなる波の上にこゑたたみおく志賀の浦風
           (岩波文庫山家集273P補遺・夫木抄)
          
05 思ひ出でよみつの濱松よそだつるしかの浦波たたむ袂を
         (岩波文庫山家集165P恋歌・新潮1498番)
          
    帰りなむとて朝のことにて程もありしに、今は歌と申す
    ことは思ひたちたれど、これに仕るべかりけれとてよみ
    たりしかば、ただにすぎ難くて和し侍りし 
       
06 ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとなきかたにゆく心かな
  (慈円僧正歌)(岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集)
            
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○花のふぶき

 風で激しく散り敷いている桜の花を、雪に見立てて「吹雪」と
 表現しています。

○志賀の山道

 「志賀の山越え」の道のことです。

○花の初雪

 散り始めた桜の花のこと。

○ふみ分けまうき

 踏み分けま憂き=踏み分けることが憂く思われる。
 「ま憂き」は「まく憂き」の約。
              (新潮日本古典集成から抜粋)

 踏み分けまうき=踏み分けむあくうき=踏み分け(動詞の未然形)
 む(助動詞連体形朧化用法)あく(古代の名詞)うき(形容詞連体形)
 のつづめた形。また「ふみわけまくうき」の略された形で、「く」
 が上の動詞を体言化する接尾辞で、それが省略されたと考えても
 よい。
          (渡部保著「西行山家集全注解」から抜粋)

 まく=(推量の助動詞ムのク語法)・・しょうとすること。・・
 だろうこと。
 「梅の花散ら(まく)惜しみわが園の竹の林に鶯鳴くも」
               (少監阿氏奥島 万葉集824番)
 「見渡せば春日の野辺に立つ霞見(まく)のほしき君が姿か」
                (柿本人麻呂 万葉集1913番)
                  (岩波古語辞典から抜粋) 

○志賀の山越

 志賀の山越えの道は、京都方面からは北白河別当町の交差点から
 東に入ります。何度か車で通ったことがあります。
 比叡山に上がる道でもあり、滋賀県に抜ける道でもあります。
 現在は「山中越え」といいます。
 路傍に桜の木はありますが、西行の時代のように桜の名所という
 ほどではありません。

○志賀の唐崎

 滋賀県琵琶湖西岸にある地名。古くは「辛崎」「韓崎」「可楽崎」
 などと表記していました。唐崎神社があります。神社には
 「唐崎の松」があり、下の芭蕉の句があります。

 「唐崎の松は花より朧にて」

 近江八景の「唐崎の夜雨」で知られている名所です。

○こゑたたみおく

 よく分らない表現です。志賀の浦の風が強くて、ホトトギスの
 鳴く声も風のためにかき消されて、良く聞えないということで
 しょう。

○みつの濱松

 みつ(御津)は難波が有名ですが、ここは琵琶湖西岸の下坂本の
 御津のことです。

○よそだつる

 よそよそしいこと、態度が冷たいこと、他人行儀であること。
 そういう態度が際立つさまを表します。

○しかの浦波

 志賀の浦の波のこと。琵琶湖の湖水のこと。

○たたむ袂

 新潮版では「立たん袂」となっています。
 (波が立たない)ということですが、ここは「たたむ袂」の方が
 ふさわしいように思います。
 思い出の中に幾重にも嘆きを畳むという解釈が良いようです。 

○慈円

 慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。
 西行と知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、
 まだ慈円とは名乗っていませんが、ここでは慈円と記述します。

 慈円は、摂政関白藤原忠道を父として生まれました。藤原基房、
 兼実などは兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事
 して道快と名乗ります。
 (覚快法親王が11181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
 比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を
 積んだということが山家集からもわかります。このころの比叡山は、
 それ自体が一大権力化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返し
 たり、園城寺や南都の興福寺との争闘に明け暮れていました。
 それは貴族社会から武家政権へという時代の大きなうねりの中で、
 必然のあったことかもしれません。

 慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の兼実の命によって
 1192年からですが1196年に兼実失脚によって辞任。次は後鳥羽上皇
 の命で1201年2月から翌年の1202年7月まで。1212年と1213年にも
 短期間勤めています。
 西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人とも
 呼ばれました。善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
 1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚名されました。
 歴史書に「愚管抄」 家集に「拾玉集」などがあります。
 新古今集では西行の九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
      (学藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)
  (06番歌については「西行の京師」54号から転載しました。)

(01番歌の解釈)

 「春風のために吹雪のように舞い散る桜の花に埋もれて、志賀の
 山越えの路は見分け難くなり、行きもやられぬことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「散り初めた桜の花があたかも初雪の降ったごとく散っている
 ので、志賀の山越えをするにつけても、山路に散る桜を踏み
 分けて行くのはつらいよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「風が冷たくて、波が寄せてもそのまま凍り付いて帰る波がない、
 志賀の唐崎の冬は厳しい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「ほととぎすが鳴いてわたると言われている波の上に、声を
 たたんで置く志賀の浦風よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「思い出して欲しい。志賀の浦波が打ち寄せてもよそよそしい
 御津の浜松のようなあなたのために、私の袖は波が立つほどに
 涙で濡れていることを。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 (慈円の詞書)
 一泊した西行法師が帰ろうとされて、しかし朝のことですし、
 ゆっくりできる時間もありました。今は歌を詠む事を断っている
 けれども、この心にしみ入る光景を見てということで歌を詠まれ
 ました。
 私も、何もせずに過ぎて行くのは残念なことだと思って、歌を
 作って声に出して読みました。

 (慈円の歌)
 琵琶湖を漕いで過ぎていく舟の、後も残らないほどに静かな湖面
 のその光景にほのぼのとした安らぎを感じて、私の心は無性に
 惹かれていきます。

 白洲正子さんの「西行」におもしろい記述がありますので紹介
 します。

 『「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど」といっているのは、
 勝手に止したわけではなく、起請文まで書いて絶ったということ
 が、同じく拾玉集にのっているが、ほかにもいくつか詠んだ形跡
 はあり、数奇のためとあらば、神の誓いに背いて罪を得ることも、
 まったく意に介さなかったところに、西行の強さといさぎよさと、
 あえていうなら面白さも見ることができる。』
               (白州正子氏著「西行」より抜粋)

 慈円と西行の贈答歌は山家集では、二回のみですが、新古今集1782
 番の慈円の詞書と歌によって、他にもあったことが知られています。
 1782番は作者名が誤記されていて、慈円ではなく八條院高倉と
 なっています。
               
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  (2)書物にみる近江の情景(1)

「十六夜日記」阿仏尼著

粟田口といふところよりぞ車はかへしつる。ほどなく逢坂の関
越ゆるほども、

 定めなき命は知らぬ旅なれどまたあふさかとたのめてぞ行く

野路といふところ、来し方行く先、人も見えず、日は暮れかかりて、
いともの悲しと思ふに、時雨さへうちそそぐ。

 うちしぐれふるさと思ふ袖ぬれて行く先遠き野路の篠原

今宵は鏡といふところに着くべしと定めつれど、暮れはてて、
え行き着かず。守山といふところにとどまりぬ。ここにも時雨なほ
慕ひ来にけり。

 いとどわれ袖ぬらせとややどりけむ間もなく時雨のもる山にしも

今日は十六日の夜なりけり。いと苦しくてうち臥しぬ。
いまだ月の光かすかに残りたるあけぼのに、守山を出でてゆく。
野洲川渡るほど、先立ちて行く人の駒の足音ばかりさやかにて、
霧いと深し。

 旅人はみなもろともに朝立ちて駒うち渡す野洲の川霧

十七日の夜は、小野の宿といふところにとどまる。月出でて、山の
峰に立ちつづけたる松の木の間、けぢめ見えて、いとおもしろし。
ここも夜深き霧のまよひにたどり出でつ。醒が井といふ水、夏なら
ばうち過ぎましやと見るに、かち人は、なほたちよりてくむめり。

 結ぶ手ににごる心をすすぎなば浮世の夢やさめが井の水

とぞおぼゆる。

(阿仏尼)

 1222年〜1226年頃の出生。1283年4月没。実父母は未詳。
 安嘉門院(後高倉院の邦子内親王)に仕えて安嘉門院四条、安嘉
 門院越前、右衛門佐などと呼ばれていたようです。
 1253年以降に藤原定家の子である為家の側室となって為相、為守
 を産んでいます。この為相が今日まで続いている冷泉家の祖と
 なります。ちなみに、為家は正室である宇都宮頼綱の娘との間に
 数人の子女を設けていましたが、この頃には離縁していたよう
 です。
 嫡子為氏は二条家、三男為教は京極家を興して御子左家は分裂
 しましたが、二条家、京極家ともに後に断絶しました。
 阿仏尼の鎌倉下向は為家の所領であった播磨の国細川荘の帰属を
 巡っての嫡男為氏との相続争いが原因です。その訴訟の裁定の
 ために鎌倉まで下向しましたが、その紀行文が「十六夜日記」と
 して結実しました。1279年10月16日に都を出発したことによって
 表題となりました。鎌倉着は29日。14日間の道中でした。
 阿仏尼は鎌倉で没したとも、また、京に帰ってから没したとも
 言われます。
 「安嘉門院四条百首」、歌論書「夜の鶴」などがあります。

「更級日記」菅原孝標女著

美濃の国になる境に、墨俣といふ渡りして、野がみといふ所に着きぬ。
そこに遊女どもいで来て、夜ひとよ歌うたふにも、足柄なりし思ひ
出でられて、あはれに恋しきことかぎりなし。

雪ふりあれまどふに、ものの興もなくて、不破の関、あつみの山など
越えて、近江の国おきながといふ人の家に宿りて、四五日あり。
みつかさの山の麓に、夜昼、時雨あられふりみだれて、日光もさやか
ならず、いみじうものむつかし。

そこをたちて、犬上、神崎、野州、栗太などいふ所々、なにとなく
過ぎぬ。湖のおもてはるばるとして、なで島、竹生島などいふ所の
見えたる、いとおもしろし。

勢多の橋みなくづれて渡りわづらふ。
粟津にとどまりて、師走の二日京に入る。
暗く行き着くべくと、申の時ばかりに立ちて行けば、関近くなりて、
山づらにかりそめなる切懸といふものしたる上より、丈六の仏の
いまだ荒作りにおはするが、顔ばかり見やられたり。
あはれに、人離れて、いづこともなくておはする仏かなと、うち
見やりて過ぎぬ。
ここらの国々を過ぎぬるに、駿河の清見が関と、逢坂の関とは
なかりけり。
いと暗くなりて、三条の宮の西なる所に着きぬ。

(菅原孝標女)

 1008年出生。没年は未詳。父の菅原孝標は菅原道真五代の子孫。
 孝標の任国である上総と常陸の国で少女期を過ごします。
 13歳の年に上京。更科日記は上京のシーンから書き起こされ、
 その後の京都での生活ぶりが記されています。
 「更級日記」の題名は、彼女の歌の「姨捨」から採られています。

 月も出でて闇にくれたる姨捨になにとて今宵たづね来つらむ

 33歳になって39歳の橘俊通と結婚したようです。子に仲俊がいます。
 20歳代の若い頃については多くが伝わっていないのはどうして
 だろうかと思います。
 
 浅みどり花もひとつにかすみつつおぼろに見ゆる春の夜の月
                 (菅原孝標女 新古今集56番)

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  (3)西行伝説と歌碑

「西行水」

滋賀県坂田郡米原町大字醒ヶ井西町にある井戸。延喜年間に僧仲算
一行が修行の途中この地を通り、旱魃のため泉の水が涸れた話を
聞き、仲算が岩石の端を切り落とすと泉が湧き出したという。
仁安二年僧西行が京へ上る途中、こり苔むした岩の下から湧き出す
泉を見て感賞したといい、これにより「西行水」と呼ばれている。
         (角川日本地名大辞典「滋賀県」から抜粋)

「西行屋敷」

「木下良は、承保元年(1074)の「雅実公記」に、瀬田駅に到着
したことを記し、「是国司館也」としていることから、平安後期
には国司館が駅と兼用していることを認めているが、律令制の当初
の駅家はこれより少し北の西行屋敷であり、律令制の衰退と共に
移転したものであろう、としている」
(吉川弘文館刊、木下良氏監修、建部健一氏著作「古代の道」から抜粋) 

上記の文章の中にある「西行屋敷」については、西行法師と関係
あるかどうかは皆目分りません。西行在世中(1118〜1190)に、
滋賀県の瀬田に屋敷を構えていたものでしょうか?。律令制の駅の
「勢田駅」の跡地に屋敷を建てていたということになりますが、
情報がなく、私には不明のままです。

「西行桜狸山」

大津市の天孫神社の主催する祭礼に「大津祭」があります。
江戸時代初期には始められた祭りとのことで、毎年10月10日
(現在は体育の日の前日)に行われています。13基の曳山が大津
市内を巡行しますが、「西行桜狸山」はそのうちの一基です。

西行桜にちなんで桜の精が舞う「からくり人形」があります。

なお、京都の祇園祭にも過去には「西行山」がありましたが、今は
ありません。現在の「黒主山」が「西行山」の別称とも言われて
います。

「朝妻港の西行歌碑」

坂田郡米原町朝妻筑摩の、天野川が琵琶湖に注ぐ河口近くにあり
ます。 

おぼつかな 伊吹おろし の 風先に あさ妻舟の あひや しぬらん

と、石に彫られています。側面や裏面には何も記されていません。
平成九年(1997)の建立と言いますから、比較的新しい歌碑です。

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  (4)の国の主な歌枕(3)
   
 伊吹山・朝妻・老蘇森・石山・逢坂山・鏡山・唐崎・信楽・志賀・
 篠原・筑摩江・比良・三上山・野洲川・長等山・関山・鳰海など。
 
○老蘇森(滋賀県安土町にある森。国の史跡)

◎ 郭公なほひとこゑはおもひ出でよ老曽の森の夜半のむかしを
              (藤原範光 新古今集207番)

◎ あづまぢのおもひいでにせんほととぎすおいそのもりのよはの一こゑ
              (大江公資 後拾遺集195番)

○志賀の山越え
 (京都の北白川から琵琶湖西岸に出る道のこと。桜で有名でした)

◎ 春風に志賀の山越え花散れば峯にぞ浦の波は立ちける
               (藤原親隆 千載集88番)

◎ 桜花道みえぬまでちりにけりいかがはすべきしがの山越え
               (橘成元 後拾遺集137番)

○志賀の唐崎(滋賀県大津市。琵琶湖の西岸)

◎ さざ波の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ
              (柿本人麿 万葉集巻一30番)

◎ 夜もすがら浦こぐ舟はあともなし月ぞのこれる志賀の唐崎
            (宣秋門院丹後 新古今集1505番) 

◎ 月かげは消えぬこほりと見えながらさざ波寄する志賀の唐崎
               (藤原顕家 千載集293番)

○鳰海(にほのうみ)(琵琶湖の別称です)

◎ 我が袖の涙や鳰の海ならんかりにも人をみるめなければ
              (上西門院兵衛 千載集855番)
 
◎ からさきや春のさざ波のどかにてかすみになりぬにほのみずうみ
                 (後鳥羽院 後鳥羽院集) 
              
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  (5)雑感

新型インフルエンザ騒動が何とか鎮静化の方向にあるようです。
罹患者は300名以上とのことですが、新たに罹患する人は少ないの
でしょう。収束しつつあるらしく、とてもいいことです。
休校だった学校も本日から授業が再開されました。

今までのところ死亡者が一人も出ていないということは、それほど
ひどいウィルスではなかったということです。当初から弱毒性は
指摘されていましたが、未知のウィルスでしたから、警戒に警戒を
重ねるのは当然ですし、メディアの過剰な報道もうなずけます。
今後は普通のウィルスとして他の多くのウィルス性の病気の中に
埋没してしまうのでしょう。後は強毒性に変異しないことを祈る
ばかりです。

今号は39号。来号の40号で近江の国のことを紹介してしまいます
から、40号を終刊号として、このシリーズは終わる予定です。