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  ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■ 

   第 二 部 (終刊号)   vol.40(不定期発行)  
                    2009年09月05日発行

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こんにちは。阿部です。
しばらく休刊しているうちに季節は移って、そこはかとなく秋風が
吹き渡る季節になりました。これから良い季節となります。

私事ですが、年内は生地の愛媛県西宇和郡伊方町と京都の二重生活に
なると思います。京都で過ごす日数は短く、殆どは生地で過ごすこと
になります。
生地に住む痴呆症の母と、できるだけ時間を共有したいと思います。

生地ではダイアルアップでの通信方法しかなくて、ネットライフは
自由に楽しむことができません。
それもまた良しと思うようになりました。

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   ◆ 西行の京師 第二部 第40回 終刊号◆

     目次 1 近江の国の歌(4)
        2 書物にみる近江の情景(2)
        3 近江の国の主な歌枕(4)
        4 終刊のことば
        
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  (1)近江の国の歌(4)

01 晴れやらでニむら山に立つ雲は比良のふぶきの名残なりけり
           (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1490番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

02 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
 (岩波文庫山家集101P冬歌・新潮1155番・西行上人集追而加書・
    御裳濯河歌合・新勅撰集・玄玉集・唯心房集・西行物語)

03 比良の山春も消えせぬ雪とてや花をも人のたづねざるらむ
             (岩波文庫山家集259P聞書集246番)
            
   春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に具して
   まかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て

04 わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
            (岩波文庫山家集14P春歌・新潮9番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

   さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことに
   おぼえてあはれなり。都出でし日数思ひつづくれば、霞と
   ともにと侍ることのあとたどるまで来にける、心ひとつに
   思ひ知られてよみける

05 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
   (24号既出)(岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1127番)
             
06 思へただ都にてだに袖さえしひらの高嶺の雪のけしきは
 (寂然法師歌)(岩波文庫山家集101P冬歌・新潮1156番・唯心房集)
            
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○晴れやらで

 晴れ上がってしまわないこと。「で」は、活用語の未然形を受け
 て、打消しの意味を表します。

○二むら山

 不明です。尾張の国にも二村山はありますが、歌にある近江の
 比良と尾張の二村山では位置的に整合性が取れません。
 近江には二村山という名称の山は現在はありません。平安時代も
 無かったものと思えます。
 そこで、反物を二反(ふたむら)並べ立てた雲が山にかかっている
 という解釈もできるようです。

○大原

 京都市左京区にある地名です。西京区の大原野と混同しないため
 に「小原」とも呼ばれていました。
 比叡山の北西麓にあたり、延暦寺の影響下にありました。炭の
 生産地として、また貴顕の隠棲地としても著名です。
 
○比良

 滋賀県滋賀郡にある地名。近江の国の歌枕。JR湖西線に比良駅が
 あります。駅は比叡山の北東の湖岸に位置し、比良の山は比叡山の
 北側に連なる連山を指します。
 この山に吹く風の激しさは有名で、ことに春先の比良おろしの風を
 「比良の八講荒れ」といいます。
 歌では「風」「山風」などの言葉が詠みこまれ、雪、霰、凍る、
 冴えるなどの寒さの際立つ冬の情景を詠ったものが多くあります。
 西行と寂然の贈答の歌は、京都市左京区大原から比良の山を見て
 詠ったものです。
 ちなみに西京区の拙宅からも比良の山の冠雪が見えます。

○方たがへ

 「方違え(かたたがえ)。陰陽道でいう凶方に向かう際に行われる
 習俗。前夜、別の方角に泊まるなどして、方角を変えてから目的地
 に向かう。」
              (講談社 日本語大辞典より抜粋) 

 方たがえの基準はさまざまであって、節分の方たがえとか、年単位、
 三年単位のものまであります。天一神の60日周期、太白神の10日周期
 などもあって、一定の法則で動いています。それらのいる所に凶事
 があるということですから、凶のある方向を忌むこと、(方忌=
 かたいみ)、その方向と合わさることを避けるために回避行動をしま
 した。それが「方たがえ」です。
 源氏物語にも、この方たがえのことが、何度も描かれています。節分
 の夜は、自邸ではなくほかの家で過ごすことによって、自邸には方忌
 が及ばないと信じられていたそうです。
      (朝日新聞社刊 (平安の都) 角田文衛 編著を参考)
                 (西行の京師21号から転載)

○逢坂山

 滋賀県と京都市の境にある山です。標高325メートル。
 古来、京都と東国を結ぶ交通の要衝でした。ここに古代三関の
 ひとつである「逢坂関」が置かれていました。他の二箇所は
 鈴鹿の関と不破の関です。

 逢坂山は近江と山城の国境の山であり、関の設置は大化の改新の
 翌年の646年。改新の詔りによって、関所が置かれました。平安
 遷都の翌年の795年に廃止。857年に再び設置。
 795年の廃止は完全な廃止ではなかったらしく、以後も固関使
 (こかんし)が派遣されて関を守っていたと記録にあります。
 尚、古代三関として有名な鈴鹿の関、不破の関、愛発の関は
 長岡京時代の789年に廃止されています。
 平安時代前期からの三関とは愛発の関に変えて新たに逢坂関を
 入れた三関をいいます。
 逢坂の関の場所については不明。現在国道一号線沿いに「逢坂の
 関跡」の石碑がありますが、これは昭和七年に建立されたものです。
 実際の関の場所は大津市寄りの逢坂一丁目付近とも言われ、また、
 京都の山科側にあったとの説もあります。
         
 逢坂山は通行の利便の良くなるように何度か掘り下げ工事がされ
 ています。平安時代は、現在より険しい峠でした。

 万葉集以来、逢坂山は多くの歌に詠みこまれています。逢坂の関を
 越えれば都を離れるということでもあり、都に住んでいた人々に
 すれば格別の感慨を覚えたことでしょう。そういう地理的条件が
 離別歌を生み、他方、逢坂という名詞にかけて、男女の機微に触れ
 ての恋歌がたくさん詠まれています。
                (西行の京師21号から転載)

○さきにいりて

 新潮版では「関に入りて」とあります。前歌1126番歌によって
 関に入ったことがわかりますから「関の先」「関の奥」という
 意味を持つ「さきにいりて」がふさわしいかもしれません。

○しのぶ

 地名。福島県福島市にある信夫のこと。陸奥の国の歌枕。伊勢
 物語によって信夫摺りが有名になりました。

○霞とともにと

 能因の歌にある句です。

 みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
                 (後拾遺和歌集518番)

 かすみとは春霞のことです。「秋風ぞふく」という句によって、
 春から秋という半年間という長い時間を要して白河の関まで行った
 ということです。こんなに時間をかけていることから能因法師は、
 本当に陸奥まで行ったのか当初から疑われていたようです。
 くしくも西行も初度の旅ではあちこちに逗留して、半年間ほどを
 要して陸奥にまで行きました。

○白川の関

陸奥の国の歌枕。陸奥の国の入り口に当たります。現在の福島県
 白河市にあったという古代奥羽三関の一つです。あとの二つは
 念珠が関と勿来の関です。

(01番歌の解釈)

 「すっかり晴れてしまわず二村山に立つ雪雲は、比良の吹雪の
 名残であることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「あなたの住む大原は、比良の高嶺が近いのですから、雪の降る
 頃はどんなに大変かお察しいたします。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「比良の山は、春も消えない雪と思って、花であってもそれを
 人は尋ねないのだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「とりわけ今日逢坂山が霞んで見えるのは、春が山越えで手間
 どっているからだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「都を出立して逢坂の関を越えた時までは、折々心をかすめた
 程度だった白河の関のことを、その後はひたすら思い続け、今
 こうして辿りついたよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「想像してみてください。都にいてさえ袖が凍ったのですよ。
 比良の高嶺の雪がどんなに厳しい寒さなのか。大原の冬は本当に
 つらいです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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  (2)書物にみる近江の情景(2)

 「東関紀行」作者未詳

 東山の邊なるすみかを出て、相坂の關うち過ぐる程に、駒ひきわ
たる望月の比も、漸近き空なれば、秋霧立ちわたりて、ふかき夜の
月影かすかなり。(略)
 むかし蝉丸といひける世捨人、此の關の邊にわらやの床をむすびて、
常は琵琶をひきて心をすまし、大和歌を詠じておもひを述けり。(略)

 東三條院【詮子一條御母】石山に詣でゝ、還御ありけるに、關の
清水を過させ給ふとて、よませ給ひける御歌、

「あまたゝびゆきあふ坂の關水にけふをかぎりのかげぞかなしき」

と聞こゆるこそいかなりける御心のうちにか、と哀に心ぼそけれ。
關山を過ぎぬれば、打出の濱、粟津の原なんどきけども、いまだ
夜のうちなれば、さだかにも見わからず。昔天智天皇の御代、大和國
飛鳥の岡本の宮より、近江の志賀の郡に都うつりありて、大津の宮を
造られけりときくにも、此の程はふるき皇居の跡ぞかしとおぼえて
哀なり。

「さゞ波や大津の宮のあれしより名のみ殘れるしがの故郷」

 曙の空になりて、せたの長橋うち渡すほどに、湖はるかにあらは
れて、かの滿誓沙彌が、比叡山にて此の海を望みつゝよめりけむ歌
【萬葉巻三拾遺哀傷】おもひ出でられて、漕ぎゆくふねのあとの白波、
まことにはかなく心ぼそし。

 「世の中をこぎゆく舟によそへつゝながめし跡を又ぞ眺むる」

 此の程をも行き過ぎて、野路といふ所に至りぬ。草の原露しげく
して旅衣いつしか袖の雫所せし。

 「東路の野路の朝露けふやさは袂にかゝるはしめなるらむ」

 しの原といふ所をみれば、西東へ遙に長き堤なり。北には里人
すみかをしめ、南には池のおもてとほく見えわたる。むかひの汀、
緑ふかき松のむらだち、波の色もひとつになり、南山の影をひた
さねども青くして洸瀁たり【白氏文集】。(略)

 「行く人もとまらぬ里となりしより荒れのみまさるのぢの篠原」

 鏡の宿に至りぬれば、昔なゝの翁のよりあひつゝ、老をいとひて
詠みける歌の中に、

「鏡山いざ立ちよりてみてゆかむ年へぬる身は老いやしぬると」

【古今】といへるは、この山の事にやとおぼえて、宿もからまほ
しくおぼえけれども、猶おくざまにとふべき所ありてうちすぎぬ。

 「立ちよらでけふはすぎなむ鏡山しらぬ翁のかげは見ずとも」

 ゆき暮れぬれば、むさ寺といふ山寺のあたりにとまりぬ。まばら
なるとこの秋風、夜ふくるまゝに身にしみて、都にはいつしかひき
かへたる心ちす。枕にちかき鐘の聲、曉の空に音づれて、かの遺愛寺
【引白氏文集】の邊の草の庵の寢覺もかくやありけむと哀なり。行く
すゑとほきたびの空、思ひつゞけられていといたう物悲し。

 「都いでゝいくかもあらぬ今夜だに片しきわびぬ床の秋風」

 この宿を出でゝ、笠原の野原うちとほる程に、おいその杜といふ
杉むらあり。下草ふかき朝露の霜にかはらむ行くすゑも、はかなく
移る月日なれば遠からずおぼゆ。
 
 「かはらじなわがもとゆひにおく霜も名にしおいその杜の下草」

 音にきゝし醒が井を見れば、蔭くらき木のしたの岩根より流れ
いづる清水、あまり涼しきまで澄みわたりて、實に身にしむばかり
なり。餘熱いまだつきざる程なれば、徃還の旅人多く立ちよりて
凉みあへり。斑〓〓が團雪の扇、秋風にかくて暫し忘れぬれば、
末遠き道なれども、立ち去らむ事はものうくて、更に急がれず。
かの西行が

「道のべに清水流るゝ柳かげしはしとてこそ立ちどまりつれ」

【新古夏】と詠めるも、かやうの所にや。

 「道のべの木陰の清水むすぶとてしばし凉まぬ旅人ぞなき」

 かしは原といふ所を立ちて美濃國關山にもかゝりぬ。谷川霧の底
に音づれ、山風松の梢にしぐれわたりて、日影もみえぬ木の下道、
あはれに心ぼそし。越えはてぬれば、不破の關屋(後略)

上記は下のサイトから拝借しました。ありがとうございました。
尚、古い文字はそのままにしています。

 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/tokan.htm

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  (3)近江の国の主な歌枕(4)

 伊吹山・朝妻・老蘇森・石山・逢坂山・鏡山・唐崎・信楽・志賀・
 篠原・筑摩江・比良・三上山・野洲川・長等山・関山・鳰海など。
   

○逢坂山(滋賀、京都の府県界の山です)

◎ 逢坂の山ほととぎすなのるなり関守る神や空に問ふらむ
                (藤原師時 千載集190番)

◎ もみぢ葉を関守る神に手向けおきて逢坂山を過ぐるこがらし
                (藤原実守 千載集363番)

◎ 鶯の鳴けどもいまだ降る雪に杉の葉しろきあふさかの関
                (後鳥羽院 新古今集18番)

◎ わぎもこに逢坂山のしのすすきほにはいでずも恋ひわたるかな
       (よみびと知らず(柿本人麻呂)古今集1107番)

○長等山(三井寺の少し南にある山です。長等神社があります)

◎ 見せばやな志賀の唐崎ふもとなるながらの山の春のけしきを
                 (慈円 新古今集1468番)

◎ ふぶきする長等の山を見わたせば尾上をこゆる志賀の浦波
                (藤原良清 千載集461番)

◎ たのめ置く人もながらの山にだにさ夜ふけぬればまつ風の聲
                (鴨長明 新古今集1202番)

○比良(比叡山の北に連なる山々を指します)

◎ さざなみや比良山風の海吹けば釣りするあまの袖かへる見ゆ
             (詠み人知らず 新古今集1700番)

◎ あらし吹く比良の高嶺のねわたしにあはれしぐるる神無月かな
                (道因法師 千載集410番)

◎ さざなみや志賀のから崎風さえて比良の高嶺に霰降るなり
  (法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)新古今集656番) 

○関山(逢坂山のことです)

◎ 関山のせきとめられぬ涙こそ近江の海と流れ出づらめ
              (和泉式部 和泉式部集890番)

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  (4)終刊のことば

このメールマガジン「西行の京師、第二部」は当初の目的を完遂
したために、今号をもって終刊号といたします。
創刊号は2005年4月15日。終刊号が2009年9月5日。先号からしばらく
休刊を余儀なくされるということにもなりましたが、4年半ほどを
費やして通算40号の発行。
2002年4月15日創刊号発行の「西行の京師」を含めると、7年半近く
を費やしたことになります。
この年数が長いのか短いのか、そして、どれほどのことができたのか、
どれほどの意味があったのか、私にはわかりません。
ただ、書き足らないことも多かったのでは無かろうかという思いは
常にありました。たとえば今号の「書物にみる近江の情景」などに
「義経記」も紹介したかったのですが、長くなりすぎるのでやむなく
断念しました。そういう部分は各号においてもあったと思います。
私の勉強不足によりお伝えできないこともたくさんあったと思います。
ともあれ読者の方々に支えられての7年半でした。

この間、二度の奥州旅行をして白河の関跡や平泉の中尊寺などを
つぶさに見ましたし、また、小夜の中山や木曽路を歩いたりしたこと
などは得がたい思い出として私の内にあります。

今後については、今の所は「西行辞典」発行に専念したいと考えて
います。「西行辞典」は、私の命のあるうちの完結は不可能ですが、
できるだけ発行を急ぎたいと思います。
つまりは私における西行の勉強は終生続けるということになります。
今後もお付き合いいただければ幸甚に思います。

「西行の京師」及び「西行の京師 第二部」、長い間のご購読
ありがとうございました。