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 ちぎ〜ちご  ちど〜ちよ

契り・ちはさのたけ・稚児・ちごのとまり


         千枝→第120号「隈になる」参照
         千木→第105号「神ろぎの宮」参照
        千づか→第135号「心地(01)」参照
       茅巻馬→第182号「菖蒲・さうぶ・菖蒲かぶり」参照
     ちゆいん僧都→第163号「地蔵・地蔵菩薩」参照
         中院→第182号「菖蒲・さうぶ・菖蒲かぶり」参照
      中院右大臣→第218号「ちぎり・契り(03)」参照
       中宮太夫→第207号「平時忠」参照
      中納言家成→第146号「西住」参照
      中納言の局→第128号「高野(2)」参照

【ちぎり・契り】

因縁・宿縁のこと。個人の意思などを越えて前世から交わしていた
ような固い約束事を言います。
男女が出会い一緒になることも「契り」と言います。
    
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01 月見ばとちぎりおきてし古郷の人もやこよひ袖ぬらすらむ
    (岩波文庫山家集83P秋歌・西行上人集・御裳濯河歌合・
          新古今集・玄玉集・御裳濯集・西行物語) 

02 物思へどかからぬ人もあるものをあはれなりける身のちぎりかな
           (岩波文庫山家集152P恋歌・新潮671番・
      西行上人集・山家心中集・御裳濯河歌合・千載集) 

03 あはれ知る涙の露ぞこぼれける草のいほりをむすぶちぎりは
           (岩波文庫山家集188P雑歌・新潮911番)

04 枝かはし翼ならべしちぎりだに世にありがたくおもひしものを
             (岩波文庫山家集246P聞書集150番)

05 くるしみにかはるちぎりのなきままにほのほとともにたち帰るかな
             (岩波文庫山家集255P聞書集222番)

○かからぬ人

(かからぬ)はかかっている言葉がありませんが、自分と同等には
という意味であり、恋の情熱の乏しい人、恋に苦しまない人達を
言います。

○草のいほりをむすぶちぎりは

西行自身の実際的な心情を言うものでしょう。決心して出家遁世した
とはいえ、粗末な草庵で暮らすという生涯を思う時、涙を流すことも
たびたびあっただろうと思います。

○枝かはし

枝は血統、血筋のこと。交わすで、男女が愛を交わして契りを
結ぶこと。

○翼ならべしちぎり

生まれて、生きて、出会って、そして男女が手を携えて共に
生きていこうとする約束のこと。男女の契りのこと。

(01番歌の解釈)

「月を見たならば思い出してほしいと約束しておいた故郷の人も、
今宵のこの月を見てわたしのことを思い出して涙で袖を濡らして
いるだろうか。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「恋ゆえのもの思いをしても、自分ほどの思いをしない人もある
のに……、まことにあわれな身の宿世だなあ。これほどまでに
もの思うとは。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「世の無常を知る涙の露がこぼれたことだよ。草の庵を結んで
世を遁れる契りには。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「枝を交わらせ翼を並べようとした男女の約束でさえ本当にめったに
ないと思ったのに(まして聖衆と共にあるのはまたとないことだ。)」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「罪人の苦しみに代わる因縁がないので、そのまま地蔵菩薩は
炎と共に立ち帰ることだなあ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

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06 すさみすさみ南無ととなへしちぎりこそ奈落が底の苦にかはりけれ
             (岩波文庫山家集255P聞書集223番)

07 ほととぎすいかばかりなる契にて心つくさで人の聞くらむ
           (岩波文庫山家集45P夏歌・新潮194番)

08 郭公いかなるゆゑの契りにてかかる聲ある鳥となるらむ
       (岩波文庫山家集47P夏歌・西行上人集・雲葉集)

09 月やどるおなじうきねの波にしも袖しぼるべき契ありけり
           (岩波文庫山家集75P秋歌・新潮417番)

10 嬉しきは君にあふべき契ありて月に心の誘はれにけり
            (岩波文庫山家集76P秋歌・新潮欠番)

○すさみすさみ

深くは考えず、気のむくままに戯れですること。

○南無

仏、菩薩への信仰、帰依を表すための言葉。

「なむ」は「なも」とも言い、「南無」と表記します。
下の歌の「なも」も「南無」のことです。

さまざまにたな心なる誓をばなもの言葉にふさねたるかな
         (岩波文庫山家集221P釈教歌・新潮1541番)

「南無」は「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」などの経文で我々
にもおなじみの言葉だと思います。
「南無」の意味は、仏や菩薩や経典の教えを心から信じ切り、
疑いを持つことなく恭順し従うことです。

○奈落が底

落ちたら這い上がることのできない地獄の底のこと。深い穴のこと。

○おなじうきね

3句に「波」の言葉があることによって、直接には船中での就寝を
指します。「おなじうきね」で「憂き寝」と「浮き寝」を掛けていて、
どちらにしても人生の不安感みたいなものを感じさせます。

○波にしも

(しも)は(波)を強調する副助詞です。

○袖しぼるべき

袖が波に濡れて・・・というよりは、波の上に止まっている月を
みて、月にあわれを感じて涙を流して濡れた袖を絞るという
ことでしょう。

(06番歌の解釈)

「気ままに戯れて「南無」と唱えた生前の地蔵菩薩との因縁こそは、
奈落の底の苦に代わるのだったよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

「いったいどのような縁によって、人はたやすく郭公の声を耳に
することであろうか。自分のように聞きたい、聞きたいと心を
尽くすことなく……。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

「時鳥はどういう前世の因縁でこのような素晴らしい声を
持つ鳥となったのだろうか。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(09番歌の解釈)

「水の上に宿る月、その月と同じく波に浮いて憂き旅寝をし、袖が
旅愁の波に濡れるよ。これも舟旅ゆえ、波にしおれるべき契りの
あることなのだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

「うれしいことに君と出会うという宿縁があって、月に誘われる
ままに私はここに来たのだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)


11 今ぞしる思ひ出でよと契りしは忘れむとての情なりけり
           (岩波文庫山家集153P恋歌・新潮685番・
       西行上人集・山家心中集・新古今集・西行物語) 

12 さるほどの契はなににありながらゆかぬ心のくるしきやなぞ
          (岩波文庫山家集157P恋歌・新潮1259番)

13 君に我いかばかりなる契ありて間なくも物を思ひそめけむ
          (岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1303番)

14 これもみな昔のことといひながらなど物思ふ契なりけむ
          (岩波文庫山家集161P恋歌・新潮1308番)

15 などか我つらき人ゆゑ物を思ふ契をしもは結び置きけむ
          (岩波文庫山家集161P恋歌・新潮1309番)

○思ひ出でよと

いつも思い出して欲しいという切ない願望の言葉、もしくは恋愛と
言うものを単なる思い出としてという割り切ったドライな言葉、
その両方を感じさせます。
この歌も女性の立場から詠まれていると解釈できますので、暗に
男性の薄情さを恨めしく思っている心情を吐露した歌であるのかも
しれません。

○契はなにに

新潮版では「契りは君に」とあります。「契はなにに」では「なに」
の部分が特定できなくて解釈に戸惑います。
「君に」であることによって非常に重要な宿縁が「君」にあったと
して詠んでいる歌であることが分かります。

○ゆかぬ心

心が得心しないこと。気持が満たされず、違和感があること。
納得できないものがあること。

○間なくも物を

二人の間に心の空隙が広がって、そのことばかりに心が捉われて
いる状態を指します。いつも、絶えることなく二人の関係性を考えて
いるということです。まこと、男女の関係はうまく理解できあえず、
奥悩は間断なく続くものでしょう。それは現在という時代であっても
変わりないはずです。

○昔のこと

二人の過去の来し方というよりは、生まれる前からの宿縁を指して
います。因果応報論を感じさせます。

○など物思ふ契

(など)は「どうして・なぜですか」という意味です。
なぜこんなに二人の関係について思いを続けるのだろうか…という
自省的な言葉です。

○つらき人

この歌も女性の立場にたっての歌のはずですが、自身を「つらき人」
とする感覚が良く理解できません。
自省的な言葉だと思いますが、どんなことでも思い悩むナイーブさや
自身の多感さを言う言葉だろうと思います。

○契をしも

(契り)は生まれる前からの宿縁みたいなもの、約束みたいなことを
指し、(しも)は(契り)を強調するための副助詞です。

(11番歌の解釈)

「今日初めて知ったことだよ。あの人がいつまでも忘れないで
思い出して下さいと言って約束したのは、最初から自分を忘れる
ことを予期しての、せめてもの情であったのだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(12番歌の解釈)

「然るべき前世からの契りはあなたに対してありながら、思いが
とげられず満たされることのない心の苦しさは、一体どうした
わけであろうか。」

            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(13番歌の解釈)

「あなたに対し自分はどのような前世からの縁があって、この上
ないもの思いをしはじめたことであろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(14番歌の解釈)

「ふたりの恋はすべて前世からの約束されていたと言いながら、
私だけがあの人を思い続け苦しみ続けるとは、一体どんな因縁
だったのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(15番歌の解釈)

「あなたのように薄情な人のために悩み続けるなんて、どうして
私は前世からこんな因縁を結んでおいたりしたのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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16 後の世をとへと契りし言の葉や忘らるまじき形見なるらむ
         (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮822番)

17 遅ざくら見るべかりける契あれや花のさかりは過ぎにけれども
             (岩波文庫山家集227P聞書集06番) 

18 月を見ていづれの年の秋までかこの世に我か契あるらむ
           (岩波文庫山家集77P秋歌・新潮773番・
                西行上人集・山家心中集) 

19 あさからぬ契の程ぞくまれぬる亀井の水に影うつしつつ
         (岩波文庫山家集108P羈旅歌・新潮863番)

20 あはれなり同じ野山にたてる木のかかるしるしの契ありけり
        (岩波文庫山家集112P羈旅歌・新潮1369番)

21 契れともなかき心はいさやきみさりとてはさはと思ふはかりそ
                    (松屋本山家集)

○遅ざくら

西行時代には「ソメイヨシノ」は無くて、ほぼ「山桜」です。
五月のはじめに奈良県榛原市の山中で満開の桜を見た記憶があり
ますから、遅く咲く桜があっても不思議ではありません。
女性、もしくは他の何かの暗喩のようにも読めます。

○この世に我か契あるらむ     

自分の命がいつまであるのだろうかという思いのこと。

○くまれぬる

日本最初の官製のお寺である天王寺の西門(極楽門)は極楽浄土の
東門と言われています。平安時代に盛んになった「日想観」に
よっても、天王寺の仏教上の由緒は随一と言えるでしょう。
仏教信者にとって尊いお寺である天王寺の真髄に触れることを
「くまれぬる」という言葉で表現しています。
亀井の水を汲むことも掛け合わせています。

○亀井の水

大阪の四天王寺にある井戸です。現在もあります。

○かかるしるし

弘法大師にゆかりのある松の木を見た時の感動を言います。

○なかき心はいさや

(なかき)は時間的な意味で長期間を指しています。
(いさや)は分からないこと、答えにくいことなどについていう時に
使われる言葉のようです。
さあ・・・どうだろうか、いや、どうも・・・などの意味です。
続けての解釈は、長く心は同じものであるのかどうか分からない、
ということ。

○さりとてはさはと

(さりとて)はラ行変格活用の動詞「然(さ)り」に、格助詞の「とて」
が接続した言葉。「だからといって」「そうかといって」という意味。

(さは=然は)は、副詞「然=さ」に係助詞「は」が接続した言葉です。
そのように、そうは、それでは、それならば、そうなら、という
ほどの意味となります。

(16番歌の解釈)

「後の世をとぶらってほしいと私に頼みおかれたあなたの言葉は、
忘れることのできない形見でありましょう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(17番歌の解釈)

「遅咲きの桜を見るはずだった宿縁が私にもあるのだろうか、
花の盛りは過ぎてしまったけれども。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(18番歌の解釈)

「美しい月を見ていると、いつの秋月が見納めになっているのか、
この世の宿縁が気になるのである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(19番歌の解釈)

「西方極楽浄土に真直ぐに対する天王寺にお参りし、亀井の
水に姿をうつして水に汲むことであるが、前世からの深い
契りのほどが思われるよ。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(20番歌の解釈)

「同じく野山に立っている松と変りない木であるが、このように
弘法大師誕生の地を示すしるしの松となっている前世の契りの
深さを思うと、感動もひとしおだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(21番歌の解釈)

「永く変わるまいと約束するけれども、心変わりしないかどうか、
さあわからないよ、あなた。そうだといって、そうなったらその
時と思うだけですよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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     まんだら寺の行道どころへのぼるは、よの大事にて、
     手をたてたるやうなり。大師の御経かきてうづませ
     おはしましたる山の嶺なり。ばうのそとは、一丈
     ばかりなるだんつきてたてられたり。それへ日毎に
     のぼらせおはしまして、行道しおはしましけると申し
     伝へたり。めぐり行道すべきやうに、だんも二重に
     つきまはされたり。登る程のあやふさ、ことに大事なり。
     かまへて、はひまはりつきて

22 めぐりあはむことの契ぞたのもしききびしき山の誓見るにも
         (岩波文庫山家集113P羈旅歌・新潮1370番)

     一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせ
     ける夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかり
     けり。此後おはしますべき所御覧じはじめけるそのかみの
     御ともに、右大臣さねよし、大納言と申しけるさぶらはれ
     ける、しのばせおはしますことにて、又人さぶらはざりけり。
     其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ出でられて、
     折しもこよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけられて
     よみける

23 今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契のある身なりけり
          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮782番・
                   新拾遺集・西行物語) 

     申すべくもなきことなれども、いくさのをりのつづきな
     ればとて、かく申すほどに、兵衛の局、武者のをりふし
     うせられにけり。契りたまひしことありしものをとあは
     れにおぼえて

24 さきだたばしるべせよとぞ契りしにおくれて思ふあとのあはれさ
             (岩波文庫山家集257P聞書集229番)

○まんだら寺

善通寺市にある真言宗のお寺です。山号を「我拝師山」といいます。

○よの大事

「世の大事」ですが社会的政治的な意味ではありません。
登って行くのは大変に困難なこと、難儀することを言います。
あまりにも大変なことですから、「余の大事」かとも思いますが、
「余」は当時、そういう用い方をしていたかどうか私には不明です。

○てをたてたるよう

垂直に切り立った崖を表現しています。
藤原定家も熊野御幸に随行した時に、山の険しさについて同じ表現を
しています。「明月記」にあります。

○御経かきてうづませ

お経を書いた紙を土中に埋めることです。「経塚」と言いますが、
我拝師山に経塚が発見されたということは私は知りません。本当に
埋めたのだとしたら、未発見なのでしょう。

○ばうのそと

「坊の外」です。建物の外のこと。

○めぐりあはむ

大師が釈迦と出会ったという伝説から来ています。
釈迦は時空を超えて出現すると信じられていたようです。

○一院

第74代天皇の鳥羽帝のことです。鳥羽帝の父は第73代の堀川天皇。
中宮、藤原璋子(待賢門院)との間に崇徳天皇、後白河天皇、上西
門院などがあり、藤原得子との間には近衛天皇があります。
1156年7月崩御。同月に保元の乱が勃発して、敗れた崇徳上皇は
讃岐に配流となりました。

山家集の中の、一院は鳥羽帝、新院は崇徳帝、院は後白河帝を
指します。たとえば「院の小侍従」といえば、後白河院に仕えて
いた女房の「小侍従」のことです。

○かくれさせ
 
死亡したということ。鳥羽上皇崩御は保元元年(1156年)7月2日。
鳥羽上皇54歳。この年、西行は39歳です。

○御所

この場合の御所は鳥羽天皇の墓所を言い、安楽寿院のことです。
「此後おはしますべき所」という記述によって、安楽寿院三重の
塔のこととみなされます。三重の塔は藤原家成の造進により、
落慶供養は1139年でした。

○高野より出で

この頃は西行の生活の拠点は高野山にありました。しかし高野山
に閉じこもりきりの生活ではなくて、しばしば京都にも戻って
いたことが山家集からもわかります。1156年のこの時にも、京都
に滞在しており、たまたま鳥羽院葬送の場に遭遇し、僧侶として
読経しています。出家前に鳥羽院の北面の武士であった西行に
とって、特別の感慨があったものと思います。
安楽寿院は1137年に落慶供養が営まれていますが、まだ完成前に
徳大寺実能と西行は鳥羽上皇のお供をして、お忍びで見に行って
います。17年から19年ほど前の、そういう出来事も思い出して、
ひとしお感慨深いものを感じたのでしょう。出家してからさえも、
鳥羽院に対する西行の気持ちが変わらなかったことが分かります。

○右大臣さねよし

正しくは左大臣です。左大臣は右大臣の上席であり、太政大臣が
いない場合は最高位の官職です。「さねよし」は藤原実能のこと。
西行は藤原実能の随身でもありました。藤原実能1157年9月没。 

○其をりの御とも

安楽寿院の造営はいつごろからされたのか不明ですが、1137年には
創建されています。ついで三重の塔の落慶供養は1139年。1145年
及び1147年にも新しく御所や堂塔が建てられていて、付属する子院
も含めるとたくさんの建物がありました。
「其をりの御とも」とは三重の塔の落慶供養のあった1139年2月22日
以前のことだろうと解釈できます。
完成前の三重の塔を鳥羽院がお忍びで見物に出かけることになった
ので、藤原(徳大寺)実能と、実能の随身で鳥羽院の下北面の武士
でもあった西行がお供をしたということです。この時の西行は22歳。
翌年の10月15日に出家しています。
尚、現在の安楽寿院は、当時の安楽寿院の子院の一つの(前松院)
が1600年前後の慶長年間に「安楽寿院」として再興されたものです。

○さぶらはれける・さぶらひける

「候ふ・侍ふ」という文字を用いて、(目上の人、地位の高い人
の側に控える、近侍する、参上する、伺う)ということを表す
言葉です。
(さぶらはれける)は藤原実能が鳥羽院に随行していることを西行
の立場で言い、(さぶらひける)は西行自身が随行していることを
自身の立場で言った言葉です。自他を区別するために言葉を変えて
使われています。
この言葉は鎌倉時代になってから(いる・ある)という意味をこめて
使われるようになりました。(さぶらふ)から(そうろう)に発音も
変化します。手紙文の言葉としても盛んに用いられましたが、現代
では(候=そうろう)と使うことはほぼ無いでしょう。

○大納言と申しける

藤原実能が大納言であった期間は保延二年(1136)から久安六年
(1150)の期間でした。

○君に契の

鳥羽天皇に対しての西行から見た運命的な関係を言います。

○兵衛の局

生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛のこと。

藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。
西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
自選家集があったとのことですが、現存していません。

○武者のをりふしうせられにけり

源平の争乱時を指し、そのころに兵衛の局は没したということです。

○契りたまひしこと

臨終に際して「しるべ」となることを、生前に兵衛の局と約束して
いたことを言います。それ以外にも兵衛の局が保管していた舎利の
問題もあったものでしょう。

(22番歌の解釈)

「大師が師と頼む釈迦にここでお逢いになったという仏縁が、今も
そのまま受け継がれていると頼もしく感じた。巡り行道の修行の
厳しさは、大師の捨身をさながら見るようである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(23番歌の解釈)

「御葬送の今夜こそは実感されました。生前にも安楽寿院の検分
に供奉いたしましたが、実際にそこにお入りになるその日に上京
いたしましたのは、前世からの深い因縁を院との間にいただいて
いたのです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「たまたまご葬送にめぐりあえた今宵こそ、本当に思い知られた
ことである。亡き一院には前世からの浅からぬご縁のあるわが身
であった。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(24番歌の解釈)

「先だって死んだならば、後生の導きをせよと約束なさったけれど、
私が死におくれて思う、残された後のあわれさよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

『詞書のみに(契り)のある歌』

25     花下契後会

 花を見てなごりくれぬる木のもとは散らぬさきにとたのめてぞたつ
             (岩波文庫山家集234P聞書集57番)

26    浅からず契りありける人の、みまかりにける跡の、をとこ
     心のいろかはりて、昔にも遠ざかるやうに聞えけり。
     古里にまかりたりけるに、庭の霜を見て

 をりにあへば人も心ぞかはりけるかるるは庭のむぐらのみかは
             (岩波文庫山家集240P聞書集107番)

27    佛舎利おはします。「我さきだたば迎へ奉れ」と
     ちぎられけり

 亡き跡のおもきかたみにわかちおきし名残のすゑを又つたへけり
             (岩波文庫山家集257P聞書集230番)

○花下契後会

花の下で近いうちにまた会いたいという約束のこと。

○浅からず契りありける人

深い関係にあった女性のこと。あるいは「をとこ」の妻かもしれ
ません。二人は西行の知り合いか親類かもしれませんが名前までは
不明です。

○をとこ心のいろかはりて

深い関係にあった女性が死亡してから、その家に対しての男の
気持ちが薄れてきたということ。気持が冷めてきたこと。

○古里

女性が生前に住んでいた家のこと。

○をりにあへば

できごとのあったその時に…ということ。「あへば」は出合うこと。

○むぐら

クワ科(ムグラ科とも)のカナムグラ、アカネ科のヤエムグラの
総称です。歌では荒れ果てて寂しい光景の例えとして使われます。

○佛舎利

釈迦の遺骨のことです。日本にも多数あるものと思われます。

西行にとって兵衛は最も親しい女性歌人でしたし、その死後の
仏事を託されてもいました。貴重な遺産である仏舎利をも兵衛は
西行に委ねていたことがわかります。
この仏舎利は一説には待賢門院から兵衛に渡り、兵衛から西行
にと伝えられたものだそうです。
しかしその後、この仏舎利がどうなったのか聞きません。西行
死後にでも、どこかの舎利殿にでも納められているといいのですが、
どの資料にも触れられていないようですので、行方不明なのでしょう。

○おもきかたみ

釈迦の遺骨であること、それが永く伝えられた歴史を指しています。

○わかちおきし

兵衛局生前からの約束通り、仏舎利が西行に預けられたことを
言います。

(25番歌の解釈)

「ともに花を見て日が暮れ、名残惜しさも限りとなった木の
下は、花が散らない前にまた会おうといって、相手に期待
させて立ち去ることだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(26番歌の解釈)

「その時になれば人も心が変わるのだなあ、枯れるのは庭の
葎だけではなく、人の心も離れてしまうのだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(27番歌の解釈)

「仏が亡くなった後の貴重な形見に分けておいた遺骨の行く末を、
また改めて私に伝えたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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『他者歌』

28 よもすがら月を詠めて契り置きし其むつごとに闇は晴れにし
    (中院右大臣歌)(岩波文庫山家集175P雑歌・新潮732番・
 西行上人集・山家心中集・新後撰集・玉葉集・月詣集・西行物語) 

29 いとどしくうきにつけても頼むかな契りし道のしるべたがふな
 (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1138番・
               西行上人集追而加書・玉葉集) 

30 かかりける涙にしづむ身のうさを君ならで又誰かうかべむ
 (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1139番)
                     
31 ちぎりおきし契りの上にそへおかむ和歌の浦わのあまの藻汐木    
          (藤原俊成歌)(岩波文庫山家集281P補遺・
            御裳濯河歌合・新勅撰集・長秋詠藻) 

32 山水の深かれとてもかきやらず君がちぎりを結ぶばかりぞ
          (藤原定家歌)(岩波文庫山家集281P補遺・
                   続拾遺集・拾遺愚草) 

(29番歌の返し歌)

すむとみし心の月しあらはれば此世も闇は晴れざらめやは
      (西行歌)(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮733番・
      西行上人集・山家心中集・新後撰集・西行物語) 

(29.30番歌の返し歌)

頼むらんしるべもいさやひとつ世の別にだにもまよふ心は
      (西行歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1140番・
              西行上人集追而加書・玉葉集) 

(31番歌とともに西行に贈られた歌)

この道のさとり難きを思ふにもはちすひらけばまづたづねみよ
          (藤原俊成歌)(岩波文庫山家集281P補遺・
                御裳濯河歌合・長秋詠藻) 

(返し歌二首)

和歌の浦に汐木かさぬる契りをばかけるたくもの跡にてぞみる
           (西行歌)(岩波文庫山家集281P補遺・
           御裳濯河歌合・新勅撰集・長秋詠藻) 

さとり得て心の花しひらけなばたづねぬさきに色ぞそむべき
            (西行歌)(岩波文庫山家集281P補遺・
                御裳濯河歌合・長秋詠藻) 

(32番歌の返し歌)

結び流す末をこころにたたふれば深く見ゆるを山がはの水
            (西行歌)(岩波文庫山家集281P補遺・
                   風雅集・拾遺愚草) 

○其むつごと

(睦言)のことで、西行が中院右大臣に対して親しく熱心に出家を
勧めた、その姿勢や表情が浮かび上がってくる表現です。
源雅定が西行の言葉を好意的に受け止めていることがわかります。

○契りし道のしるべたがふな

後世への道案内を約束していたことでもあり、約束通り導いて
欲しいという願望の言葉。

○かかりける

このように、かくのように……という意味で「沈む身」にかかり、
その状態を説明している言葉。

○和歌の浦わ

紀伊の国の歌枕。和歌山市の紀の川河口の和歌の浦のこと。
片男波の砂嘴に囲まれた一帯を指します。
和歌の神と言われる「玉津島明神」が和歌の浦にあります。
和歌に関しての歌で、よく詠まれる歌枕です。
(浦わ)は(浦曲)で、和歌の浦の湾の湾曲していることや湾の入り
組んでいる部分を指します。

○あまの藻汐木

「藻汐木」は海水から塩を製造する時に製塩の釜をたく薪を表します。
この歌は上句と下句の連続性が判然としませんが、歌の道にかける
互いの思いを固い約束事としての共通認識の上での歌なのでしょう。

○かきやらず

(書きやらず)で書いてはいないこと。ある目的のもとで書いては
いないこと。どんなにすばらしいものであっても、その素晴らしさ
には書いて触れてはいないということ。

(28番歌の解釈)

「一晩中明月を眺め、真如の月(悟りの心境)について語りながら、
出家のことを約束したあなたとの話に、心の闇はすっかり晴れて
しまいました。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(29番歌の解釈)

「ますます憂くつらく思われるにつけても、あなたをお頼みする
ことです。前々から約束しました死後の道しるべを、どうか
忘れないでください。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(30番歌の解釈)

「このような運命となり、涙に伏し沈む身の憂さを、あなた以外の
誰が救って下さるでしょうか。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(31番歌の解釈)

「約束をしておいた約束の上にも更にそえておきましょう。
和歌の浦のほとりに住む海人の塩やく藻汐木を。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(32番歌の解釈)

「山川の水が深くあってほしいというように知識のますようにと
深い判詞を書いてはおりません。ただあなたへの約束をはたして
いるだけですよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【中院右大臣】

俗名は源雅定。1094年〜1162年。村上源氏。源雅実の子で右大臣。
1154年出家。法名は蓮如。
源雅定が右大臣になったのは1150年のことであり、雅定出家の
1154年までの間に西行と二人で親しく語り合ったことが分かります。
1154年は西行37歳です。

【讃岐の院の女房】

1156年の保元の乱に敗れて讃岐に配流となった崇徳院に付き添って
讃岐に渡った女性だと思われます。
名前までは分かっていないようですが、崇徳院の長子である重仁
親王の母の兵衛佐局とみていいのではないかと思います。

讃岐の院の女房歌は実際には崇徳院の歌だと言われています。
こういう体裁を採らないままでは、西行との和歌の贈答でさえも
差し障りがあったものでしょう。

【藤原俊成】

藤原道長六男長家流、御子左家の人。定家の父。俊成女の祖父。
三河守、加賀守、左京・右京太夫などを歴任後1167年、正三位、
1172年、皇太后宮太夫。
五条京極に邸宅があったので五條三位と呼ばれました。五条京極
とは現在の松原通り室町付近です。現在の五条通りは豊臣時代に
造られた道です。当時は松原通りが五条通りでした。
1176年9月、病気のため出家。法名「阿覚」「釈阿」など。
1183年2月、後白河院の命により千載集の撰進作業を進め、一応
の完成をみたのが1187年9月、最終的には翌年の完成になります。
千載集に西行歌は18首入集しています。
1204年91歳で没。90歳の賀では後鳥羽院からもらった袈裟に、
建礼門院右京太夫の局が紫の糸で歌を縫いつけて贈っています。
そのことは「建礼門院右京太夫集」に記述されています。
西行とは出家前の佐藤義清の時代に、藤原為忠の常盤グループの
歌会を通じて知り合ったと考えてよく、以後、生涯を通じての
親交があったといえるでしよう。

【藤原定家】

寂超の妻であった「加賀の局」と藤原俊成を父母として1162年に
生まれました。没年は1241年。80歳。
子に二条家の祖となった為氏などがいます。隆信は義兄、寂蓮は
従兄弟です。
家集に「拾遺愚草」、日記集に「明月記」、その他たくさんの著作が
あります。新古今和歌集や新勅撰和歌集の撰進、「小倉百人一首」
も定家の撰になります。
西行は40歳以上も若い定家に「宮河歌合」の判を請いました。定家は
すぐには応じることができず、判詞が出来上がったのは二年の歳月
が過ぎた西行最晩年になってからでした。河内の国弘河寺で病床に
ついていた西行の喜びようが「贈定家卿文」に記されています。
西行が他界した折に、定家は下の追悼の歌を詠んでいます。

 望月のころは違はぬ空なれど 消えけん雲の行方悲しな
                  (藤原定家 拾遺愚草)

【ちくさのたけ】
    
大和国吉野と紀伊国熊野を結ぶ大峰奥駆道にある靡きの一つです。
「千草の岳」は第30番靡きです。標高1800メートル、山頂に高さ
3.7メートルの釈迦如来像の立つ釈迦が岳の近くにある靡きです。
靡(なび)きとは大峰奥駆道修行者の修行所を指しています。現在は
熊野側から数えて終点の吉野までに75か所の靡きがあります。
西行の時代は何か所の靡きがあったのか判然としないようです。
      (山と渓谷社刊「吉野・大峰の古道を歩く」を参考)

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01 分けて行く色のみならず梢さへちくさのたけは心そみけり
        (岩波文庫山家集123P羈旅歌・新潮1115番・
         西行上人集追而加書・夫木抄・西行物語) 

○色のみならず

「ちくさ」を千種類の草として解釈し、数多くある草のそれぞれの
色だけでなく…という意味です。      

(01番歌の解釈)

「分けて行く千草の色のみでなく、千種の嶽では木々の梢までもが
色々に紅葉し、心もその色に染まったように感じられることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【ちご】

「稚児」でまだ幼い子のこと。乳飲み子や幼児のこと。
神社などでも雑用をこなす少年を稚児といいます。

【ちごのとまり】

大峰奥駆道にある靡きの一つで第60番靡きです。弥勒岳と大普賢岳の
間にあるようです。行者還岳よりは吉野側に位置します。
    
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01 君したふ心のうちはちごめきて涙もろにもなる我が身かな
          (岩波文庫山家集162P恋歌・新潮1321番) 

     行者がへり、ちごのとまりにつづきたる宿(すく)なり。
     春の山伏は、屏風だてと申す所をたひらかに過ぎむことを
     かたく思ひて、行者ちごのとまりにても思ひわづらふなるべし

02 屏風にや心を立てて思ひけむ行者はかへりちごはとまりぬ
         (岩波文庫山家集123P羈旅歌・新潮1117番・
              西行上人集追而加書・西行物語) 

03    坊なる稚児これを聞きて

  散る花を今日のあやめの根にかけて薬玉ともやいふべかるらん
       (稚児歌)(岩波文庫山家集48P夏歌・新潮203番)

      高野の中院と申す所に、菖蒲ふきたる坊の侍りけるに、
      桜の散りけるが珍らしくおぼえて、よみける

04 桜散る宿をかざれるあやめをばはなさうぶとやいふべかるらん
   (西行歌)(岩波文庫山家集48P夏歌・新潮202番・夫木抄)

○涙もろにも

ラ行下二段活用にしても「もろい」ことを「もろ」という言い方は
しないように思います。
新潮版では「涙もろくも」となっていて、文法的には新潮版の方が
正しいでしょう。岩波文庫版でも(に)の部分に(く)と傍書されて
います。涙がすぐに出てきやすくなったという意味です。

○行者がへり

(行者)は大峰奥駆道を歩く山岳修験者のことです。
その行者が帰るということと、第58番靡きの「行者還」を掛けて
います。行者還岳の標高は1546メートル。

○春の山伏

春に大峰の奥駆けをする山伏のことです。和歌文学大系21では、
大晦日に入峯して釈迦の誕生日と言われている四月八日に出峯する
山伏たちを指しているそうです。
また、熊野から吉野に向かって奥駆けをする天台宗聖護院派(本山派)
の山伏を指しているそうです。

○屏風だて

屏風のように切り立った断崖絶壁になっている場所をいいます。
そういう場所が行者還岳に多いそうです。

○たひらかに過ぎむ

何事もなく無事に過ぎて行くこと。

○心を立てて

心を奮い立たせること。挑戦の気概を持つこと。発奮すること。

○坊なる稚児

中院で雑用などをする子供のことです。一応僧籍に入っている少年
のはずです。

○薬玉

五月の節句の日に用いる作り物のこと。邪気を払うために香料や
薬草を丸くして菖蒲などで飾り付けたものが「薬玉」。それを柱
などに掛けておくという風習がありました。

○高野に中院

現在の高野山竜光院が平安時代は「中院」と呼ばれていたそうです。

○花あやめ

邪気を払う効用があるという菖蒲を屋根に葺いた坊が高野山に
あって、屋根の上に桜の花が散り敷く光景を詠った歌です。
したがってこの歌にある「花あやめ」はハナアヤメという植物とは
違います。花は桜であり、しゃれで「花あやめ」という言葉を
使った歌です。

(01番歌の解釈)

「あなたを思う心のうちは、まるで幼な子のようになり、何かに
つけ涙もろくなるわが身であることよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「眼前に立ちはだかる屏風立の懸崖に、山伏たちは大いに発奮した
ことだろう。さすがの役行者もここで引き返したとか、稚児の山伏は
ここからしばらく動けなかったとか、様々な伝説に刺激されて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「散る桜の花を端午の節句の今日、菖蒲の根にかけて、
これを薬玉ともいうべきであろうか。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「桜の花の散っている坊を飾っている菖蒲を、それこそ
花菖蒲というべきだろう。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【03番歌について】

「坊なる稚児これを聞きて」という詞書は岩波文庫山家集にはあり
ません。岩波文庫山家集の底本である類題本にもありません。
よって01番歌、02番歌共に西行詠と受け止めてしまいます。
ところが陽明文庫本の山家集、それを底本とする新潮日本古典集成
山家集では詞書が書かれていて、それによって贈答の歌であること
が分かります。
岩波版と新潮版の底本が今日まで別途に伝わってきたことによって
校合が可能となりますので、西行歌の読者として、それはとても
うれしいことだと思います。

 
歌の順番としては04番の西行歌が初めにあり、それに続く形で稚児の
歌があります。感じとしては伝承歌に多い西行や西行歌を揶揄する
ような、そういう系統の歌であるという印象も受けます。

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