もどる

 ちぎ〜ちご  ちど〜ちよ


 千鳥・乳房・忠有の心・中将のお墓・千代・蝶・重源・長楽寺・勅・勅使


        中尊寺→第142号「衣川」参照
        塵芥にくだけ→第52号「うき」参照
     散り初むる花の初雪→第158号「志賀の山越・志賀の山道」参照
     ちりばかりうたがふ→第186号「新院・讃岐の院・崇徳天皇 (1)」参照
      散りなむこと→第125号「黒髪山」参照
       散りまさむ→第97号「かたおもむき・かたおやぬし」参照 

【ちどり・千鳥】
    
全長15センチほどのチドリ科の鳥の総称です。
海辺や河原などに群棲していて、日本には10種類ほどの千鳥が
いるようです。

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01 淡路がた磯わのちどり聲しげしせとの塩風冴えまさる夜は
      (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮548番・万代集)

02 あはぢ潟せとの汐干の夕ぐれに須磨よりかよふ千鳥なくなり
           (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮549番・
                西行上人集・山家心中集)

03 千鳥なく絵嶋の浦にすむ月を波にうつして見る今宵かな
          (岩波文庫山家集95P冬歌・新潮553番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

04 千鳥なくふけゐのかたを見わたせば月かげさびし難波津のうら
  (岩波文庫山家集243P聞書集126番・西行上人集・夫木抄)

05 さえ渡る浦風いかに寒からむ千鳥むれゐるゆふさきの浦
      (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮562番・夫木抄)

06 月すみてふくる千鳥のこゑすなりこころくだくや須磨の関守
           (岩波文庫山家集276P補遺・宮河歌合)

07 月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり
         (岩波文庫山家集222P神祇歌・新潮1402番)

○淡路がた

淡路島にある干潟のこと。特定の場所を指定していませんが、
02番歌では須磨と近い淡路島北方の干潟のはずです。

○磯わのちどり

「磯回=いそみ・いそわ」で、磯に沿って行き巡ること。また、
磯が曲がり続いているような湾のこと。入り江のような場所。
そこに群がる千鳥を言います。

○せと

「瀬戸」と表記し、流れの速い海峡のことです。
西行歌では「迫門」と表記した歌もあります。
校訂者である佐佐木信綱博士が用いられたものと思います。

○汐干

明石海峡の干潮のこと。潮が引いてくれば沖合いに向かって浜が
長くなります。

○須磨

神戸市の西部にある地名。瀬戸内海に面していて、淡路島とは
近い距離にあります。
古代は須磨に関がありました。須磨までは摂津の国、それ以遠は
播磨の国でした。
万葉集にも詠まれ、また源氏物語にも「須磨」の巻があって、
古い時代から有名な所です。
 
○絵嶋の浦

淡路の国の歌枕。兵庫県津名郡淡路町岩屋。
淡路島の北端にあたり、現在は淡路市。兵庫県神戸市や明石市
とは明石海峡を挟んで隣接しています。

○波にうつして 

「うつす」は「写す」であり、絵嶋の「絵」の縁語です。
「月が波に写る絵」ということが主題だと思います。

○ふけゐのかた

和泉の国の歌枕で難波から見たら少し南西の方角になります。
現在の大阪府泉南郡岬町深日(ふけ)にあたります。

○難波津のうら

現在の大阪湾の入り江のことです。
「平安和歌地名索引」では「難波津の浦」歌も多く19首あります。
「難波江の浦」が100首ほどありますから、普通は「津」ではなくて
「江」が使われていると言えます。意味は同じです。
西行上人集及び夫木抄でも「難波江の浦」となっています。

○ゆふさきの浦

不明です。次の二説があります。
1 播磨の国の歌枕。兵庫県高砂市曽根町。
2 岡山県浅口郡勇崎。
「ゆふさきの浦」は「五代集歌枕」にも「能因歌枕」にも記載が
ないようです。

○ふくる千鳥

「ふくる」は、ちょっと分からない表現です。
中央大学図書館蔵本では「深くる千鳥」となっています。
月光が照り映えて一日が終わろうとする頃に、あくまでも静謐な
情景の中で飛び行く千鳥の声がかすかに聞こえるということであり、
「ふくる」は余情を感じさせる表現なのかもしれません。

○みおやがはら

下鴨神社の側を流れる加茂川の河原のこと。賀茂川と高野川が
合流して鴨川となりますが、下鴨神社のある周辺一帯の河原を
指すと解釈してよいでしょう。
 
(01番歌の解釈)

「淡路潟では磯廻から千鳥の鳴き声が頻繁に聞える。明石海峡
から吹き付ける潮風がいつもより冷たい夜は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「淡路島と須磨との間の瀬戸(海峡)の潮が引いて、その間の
狭くなった夕暮に須磨から通うてくる千鳥が鳴いているよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(03番歌の解釈)

「絵島の浦では千鳥の鳴く声が毎夜寂しく聞えるが、今夜は月が
澄んで美しいので、波に映った絵のように美しい月光をいつまでも
見ていた。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「千鳥が鳴く吹飯(ふけい)の浦の方角を見渡すと、月影がさびしい、
難波の船着場の入江よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「冴えわたる浦風がどんなに寒いことであろう。木綿崎の浦では
千鳥がいっぱいに群がっていて、いかにも寒さのため集まった
ようである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

「月が澄みわたり夜が更けて千鳥の声がしているよ(しているらしい)
その声にめざめて、いろいろ心をくだき、千々に物思いする須磨の
関守りよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(07番歌の解釈)

「月が美しく澄んでいる御祖川原に霜が冷たく凍り付いて、千鳥が
遠くに飛び立つ鳴き声が聞えてくる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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08 川風にちどり鳴くらむ冬の夜は我が思にてありけるものを
          (岩波文庫山家集165P恋歌・新潮1502番)

09 澤の面にふせたるたづの一聲におどろかされてちどり鳴くなり
          (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1543番)
 
10 霜さえて汀ふけ行く浦風を思ひしりげに鳴く千鳥かな
           (岩波文庫山家集95P冬歌・新潮550番)

11 さゆれども心やすくぞ聞きあかす河瀬のちどり友ぐしてけり
          (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮551番・
                西行上人集・山家心中集)
 
12 やせわたる湊の風に月ふけて汐ひる方に千鳥鳴くなり
           (岩波文庫山家集95P冬歌・新潮552番)

13 夜をさむみ聲こそしけく聞ゆなれ河せの千鳥友具してけり
                     (松屋本山家集)

14 千鳥鳴くをりたる崎をめぐる舟の月を心にかけて過ぐらん
                     (松屋本山家集)

○たづ

「田鶴」と書き、歌の場合の「鶴」を指す言葉です。
普通に「鶴」とするよりは敬意を込めた表現です。寿命が長く縁起の
良いと思われていた鳥で、賀歌によく詠われています。

○思ひしりげに

汀を吹く風の厳しさ侘しさを経験として知っているとでも言うふうに
千鳥が鳴いているということ。千鳥を擬人化し、それとの交感を
表している言葉です。

○さゆれども

寒さがことのほか厳しいことを言います。

○心やすくぞ

単独で助けを求めているかのように鳴いているわけではなくて、
複数で鳴いているので、心配することもなく安心して聞いている
ことができるという作者の気持ちのこと。

○河瀬

川の水深が浅くて流れの速い部分のこと。

○やせわたる

「八瀬」で、たくさんの瀬を意味しています。
「瀬」は特に浅場でありながら流れの急な所を言います。

○汐ひるかた

「汐ひる方」は潮が引いてできた干潟のこと。その方面のこと。

○聲こそしけく

千鳥の鳴く声がしきりにすること。声が間断なく激しいこと。

○をりたる崎

「をりたる崎」が、どこにあるか不詳です。書写ミスの
可能性もあるかと思います。

(08番歌の解釈)

「昔、紀貫之が「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥
鳴くなり」と詠じた、あの冬の夜の思いは、そのまま自分の
思いでもあったものを。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(09番歌の解釈)

「沢の面で、夜更けに鳴く鶴の一声に眠りを覚まされて、
千鳥が鳴いているよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

「水際の霜が冷たく凍り付いて夜が深々と更けて行く浦に、寂しく
吹く風を身に染みて感じているかのように千鳥が鳴く。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(11番歌の解釈)

「冬の夜は寒いが、朝まで安心して聞いていられる。川瀬の千鳥
には友達がいるようだから。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(12番歌の解釈)

「数多くの瀬を吹き越えてゆく川口の風に、月も夜の更けるに従って
冴えわたり、潮の引いた潟に千鳥が鳴いていることである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(13番歌の解釈)

「夜が寒い故に鳴く声が特にしげく聞えるよ。河瀬の千鳥は今宵友を
つれて来ているよ。(千鳥の数が多いために声がしげくきこえる。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(14番歌の解釈)

「千鳥が鳴くおりたる崎を漕ぎめぐる舟が月に心をかけて
過ぎるのであろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【乳房・乳】
    
女性の胸部の左右にある、こんもりと隆起した部分。
新生児を育てるために乳汁を分泌する器官。
女性を象徴するものの一つです。

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01 あはれみし乳房のこともわすれけり我がかなしみの苦のみおぼえて
             (岩波文庫山家集252P聞書集211番)

02 たらちねの乳房をぞ今日おもひ知るかかるみ法をきくにつけても
             (岩波文庫山家集245P聞書集143番)

03 乳もなくていはけなき身のあはれみはこの法みてぞ思ひしらるる
         (岩波文庫山家集226P聞書集03番・夫木抄)
 
○あはれみし

母親の子に対する慈愛を指しています。

○たらちね

「垂乳根」と書き、本来は母親のことです。しかし母親だけでなくて
父親も指します。「親」のイメージを引き出すための枕詞です。
母親のみを指す場合には「垂乳女=たらちめ」とも使われます。

○かかるみ法

優れていると思った仏典のこと。「通達菩提心」という仏典です。

○乳もなくて

他界したか他の理由により乳児の頃に母親が不在だったことを
言います。もちろん「乳」は、仏教を信仰するにいたる環境が
無かったことの暗喩として使われています。

○いはけなき身

まだ年齢が幼くて分別がないこと。物心がつかないこと。
子供っぽいこと。仏教を信仰するだけの聡明さがなかったという
ことを言います。

(01番歌の解釈)

「いつくしみ育ててくれた母の恩も忘れてしまった。地獄に
堕ちた私の悲しみの苦痛だけが思われて。」
               (和歌文学大系21から抜粋)
 
(02番歌の解釈)

「母の乳房の恩を今日まさに思い知ることだ。このようなすぐれた
仏法を聞くにつけても。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「母の乳を求めてもなく、分別もない幼稚な身にとっての仏の
慈悲は、この法文を見て思い知られることだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【中有の心】

仏教語で「ちゅうう」と読みます。「中陰」と同じ意味です。
生物が死亡してから次の生を得られるという、輪廻転生の考え方に
基づいているものでしょう。
次の生を得られるまでの期間が49日と言われていて、それまでの
期間が中有であり、普通は忌明けをも意味します。
忌明けは満中陰とも言います。
    
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     中有の心を

01 いかばかりあはれなるらむゆふまぐれただ一人ゆく旅のなかぞら
             (岩波文庫山家集257P聞書集231番)

02 みつせ川みつなき人はこころかな沈む瀬にまたわたりかかれる
             (岩波文庫山家集257P聞書集232番)

○ゆふまぐれ

夕暮、夕方、暮れ方という意味。

○旅のなかぞら

初めてたどる道筋を夕暮に一人で進んで行くことの不安感みたいな
ものが出ていると思います。

○みつせ川

死亡した人が渡るという三途の川という意味です。
渡るべき所は3か所あり、生前の罪の種類や軽重によって渡るべき
場所は決められているようです。

○みつなき人

意味不明です。「水無き」では意味が通じませんから、「罪無き」
の誤写の可能性が強いものと思います。

(01番歌の解釈)

「どれほどあわれだろうか、夕暮の暗い時に、ただ一人で行く
中有の旅の途中は。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「三瀬川で三途に沈む業因を持たない人は心のあり方によるのだな、
罪人が沈む瀬にまた渡りかかったことよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【中将の御墓】
    
藤原実方の墓のこと。宮城県名取市愛島の野中にあります。
「朽ちもせぬ」歌の石碑も立っていますが文面は判読できません。
この歌碑は藤原実方800年遠忌のために1798年に建立されたものです。

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    みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼ
    しき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申す
    はこれが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又
    問ひければ、実方の御ことなりと申しける、いと悲しかり
    けり。さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄
    ほのぼの見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて

01 朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
         (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・
       西行上人集・山家心中集・新古今集・西行物語)

七家集本ではこの歌は3首連作となっています。1首目は01番歌
です。2首目と3首目を記します。

2 はかなしやあだに命の露消えて野べに我身の送りおかれむ
     (岩波文庫山家集193P雑歌・新潮764番・宮河歌合・
                  新続古今集・西行物語)

3 いつかわれ古き卒塔婆の数に入りて知られず知らぬ人にとはれむ
                    (七家集本山家集)   

○まかりたる

出向いて行くこと。

○常よりもとおぼしき

普通より、ということ。野中にはありえない立派な塚・・・と
いう意味になります。
没後150年ほどを経ても実方の墓として誰かに管理されていたと
解釈していいものと思います。

○実方の御こと

藤原実方のことです。後述。

○さらぬだに

そうでなくとも・・・という意味。墓は他の場所よりも哀感を
覚えるということを言っています。

○朽ちもせぬ

藤原実方の歌の名声は不朽のものであり、歌人としての名前は
いつまでも忘れられないものであるということ。

○枯野の薄

現在も藤原実方のお墓に行く前に薄が植えられています。
いかにもとって付けたようで笑ってしまいました。
あろうことか、外国産の薄のようです。

○あだに命の露

(あだ)は誠意がない、空しい、意味がない…などを表す言葉。
(命の露)は短く、はかないことを言う「露の命」と同義です。

○知られず知らぬ人

自分が死亡した後の事だから当然に事後のことは自分では知る
ことができないし、かつ、ずっと後の世の人も自分が生きてきた
ことなどは知ることもないということ。

(01番歌の解釈)

「不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を
埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「はかないことだ。空しく命が失われて、私のからだが野辺送りに
送りこまれようとする。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「私も死してから、無窮の星霜が過ぎ去った時、朽ちた卒塔婆を
見た人に誰のことだと訪ねられるのだろう。」
                     (阿部の解釈)

【藤原実方】

生年不詳、没年は998年11月とも12月とも言われます。陸奥守として
陸奥に赴任中に客死しました。40歳に満たない年齢と思われます。
藤原北家流師尹(もろただ)の孫。父の定時が早世したので叔父の
済時の援助を受けて育ったといわれます。
左近将監、侍従、左近少将、右馬頭などを歴任して、994年に左近
中将。翌年に陸奥守として陸奥に赴任。

「古事談」によると、藤原行成との軋轢があり「歌枕見て参れ」
と一条天皇から命を受けて陸奥守に左遷されたとあります。
実方が陸奥に赴任したのは、その説以外にも自発説ほかいくつか
の説があります。どれが本当か分かりません。
「源平盛衰記」によると陸奥国笠島の道祖神社の前を下馬せずに
通り過ぎたために、道祖神の怒りに触れて、落馬して命を落としたと
書かれています。
お墓は現在の宮城県名取市愛島にあります。1798年建立の西行の
「朽ちもせぬ」歌の歌碑も建っています。ただし碑文は殆ど読み
取れません。
家集に「実方朝臣集」があります。中古三十六歌仙の一人です。

この歌は確実に初度の旅の時の歌ですが、同じ旅の時の一連の
歌から離れて一首のみ、ぽつんと採録されています。そのことが
気にはなります。

なお、芭蕉の「おくのほそ道」では、芭蕉は行き過ぎて実方の墓
には行かなかったのですが、人から聞いたこととして、「形見の
薄今にあり」と書いています。
「おくのほそ道」は脚色が多くて、そのままでは信用できません。
ですが、同行した曽良随行日記と照らし合わせると旅の実際の
様子が分かります。曽良は「行過テ不見」とのみしたためて
います。従って芭蕉が行った当時は「形見の薄」があったのか
どうかは不明です。

白州正子氏は「西行」の中で以下のように記述しています。
「竹林の入り口に、勅使河原流の外国産の枯尾花が植えてあり、
大げさに(かたみの薄)と記してある。いうまでもなく「奥の
細道」の「かた見の薄今にあり」の薄で、歌枕もここまでリアリ
ズムに徹すれば何をかいわんや。」

実方は死後に雀に姿を変えて都に戻ってきたという伝説があり
ます。もとは中京区でしたが移転して現在は左京区にある
「更雀寺」が、その伝説を留めています。

【七家和歌集】

壬生忠岑、紀友則、遍昭僧正、源公忠、藤原清正、藤原兼輔、西行
の7人の詠歌を集めて綴じた集ですが、成立年代などの詳しいことは
分かっていないようです。

【千代】

1000年のこと。千歳。歌では永遠性を言うために多くは賀歌で
用いられる言葉です。    

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01 子日してたてたる松に植ゑそへむ千代かさぬべき年のしるしに
            (岩波文庫山家集16P春歌・新潮06番)

02 春ごとに野邊の小松を引く人はいくらの千代をふべきなるらむ
            (岩波文庫山家集16P春歌・新潮14番・
                 西行上人集・山家心中集) 

03 君が為ごえふの子日しつるかなたびたび千代をふべきしるしに
           (岩波文庫山家集17P春歌・新潮1184番) 

04 千代ふべきものをさながらあつむとも君が齡を知らんものかは
    (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1171番・西行上人集)

05 千代ふべき二葉の松のおひさきを見る人いかに嬉しかるらむ
          (岩波文庫山家集141P賀歌・新潮1183番)

06 若葉さす平野の松はさらにまた枝にや千代の数をそふらむ
          (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1181番・
      西行上人集・山家心中集・御裳濯河歌合・夫木抄) 

○子日

子(ね)、丑(うし)、寅(とら)と続く十二支の一番目に当たります。
年間を通してみれば「子日」はたくさんあるわけですが、特に
「子日」という行事の場合は正月初めの子の日を指しています。
中国の風習にならって聖武天皇が内裏で行ったのをはじめとして、
宇多天皇の時代には北野などの禁野で小松を引き、若菜を摘んだ
そうです。
西行在世中に正月と子日が重なったのは4度、いずれも西行50歳代
のことだそうです。この歌も西行50歳代の歌なのでしょう。
 
○たてたる松

これは「元日子日にて侍りけるに」と詞書が示すように、新年と
子日が重なったか、それほど開いていない年に新年の飾りとして
門松を立てたということです。その門松に引いてきた小松を添えた
ということでしょう。
この頃にはすでに新年に門松を立てるという風習があったという
ことが分かります。

○ふべきなるらむ

「経べきなるらむ」です。未来に対しての予測の言葉です。
 
○ごえふの子日

(ごえふ)は「五葉の松」のことです。新年になっての初めての子日
には小松を引くという風習がありました。
五葉の松は葉(針状のもの)が五本ずつまとまって付く松で、他の松
よりも縁起の良いものとされていました。

○しつるかな

(し)+(つる)+(かな)の接続した言葉です。
(し)は、ある動作などを表すサ行変格活用(す=為)の連用形です。
(つる)は助動詞(つ)の連体形。(かな)は文末に用いられる終助詞で
(〜ものだ・〜ことだ・〜だなあ)という詠嘆を表します。
03番歌の歌意としては完了を表していて、(したことです)という
意味になります。

○あつむとも

(あつむ)は(集め)のマ行下二段活用の終止形です。
 
○二葉の松

五葉の松と違って二葉の松のこと。三葉の松もあります。
意味は分かりにくいのですが、詞書によって、生まれたばかりの
孫の例えであることが分かります。

○若葉さす

賀歌ですから、幼児が成長していく様を平野神社の松に掛けて、
寿いでいる言葉です。源平争乱時代に平氏は平野神社を氏神社と
しましたので、平氏と皇室に向けた歌の可能性もあります。

○平野の松

京都市北区にある平野神社のことです。平野神社は平安遷都直後の
794年に建立されました。官幣二十二社に列する社格を持つ式内社と
して、篤い尊崇を受けてきました。
第65代花山天皇とも関係の深いお寺です。
平野神社は松を詠みこんだ歌が多くありますが、現在は松は少なく
桜で有名です。

(01番歌の解釈)

「元日が子日と重なったので、野に出て引いた小松を、千代を
重ねるべき年のしるしに、立ててある門松に植えそえよう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「春ごとに子日を祝って野辺の小松を引き、長寿を祈る人は、
一体どれほど多くの千代を経ることになるのだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「あなたのために五葉の松を引いて子日のお祝いとすることです。
普通の松よりも度々千代を経て下さるように祈るしるしとして。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「これから千年の未来を見届けそうなものをありたけ集めても、
今上天皇の年齢を知ることなど到底できそうにありません。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「お孫さんはこれから千年の未来を生き抜く二葉の松とお見受け
しました。その栄えある将来をお見届けになられるのはさぞ
お幸せでしょう。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

「平野社の松は若葉が伸びてきた。これでますます枝に多くの
葉が増えて、今上天皇の御代を更に伸ばすことだろう。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【蝶】
    
昆虫の「蝶々」のことです。西行歌の中で蝶の歌はこの1首のみです。
桜の咲く頃に飛ぶ蝶とは紋白蝶や紋黄蝶ではないかと思います。

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01 ませにさく花にむつれて飛ぶ蝶の羨しきもはかなかりけり
           (岩波文庫山家集24P春歌・新潮1026番)

○ませにさく

(ませ)は(ませ垣)や(籬=まがき)と同義で垣根のこと。
垣根用に桜の木を使っているというのも頷けない気がしますが、
垣根にある低い桜の木に花が開いたということでしょう。
花とは桜の代名詞ですが、あるいはここにある花は桜と解釈する
こともなく、他の花であっても良いのかもしれません。
それとは別に、写実的な実景としての歌ではなくて、蝶を自身と
同一化させた上で諦観に満ちた観想の世界を詠った歌であるという
解釈も成り立ちます。

○花にむつれて

普通は「花」とは桜を指しますが、桜以外の花と解釈した方が自然
かも知れません。
ともあれ、花と戯れるように蝶が飛び回っている光景を言います。

○はかなかりけり

「結句は花への愛着が六道輪廻を繰り返さざるをえない(自分を含めた)
生き方に対していう。」
             (和歌文学大系21の補注から抜粋)

(01番歌の解釈)

「籬に桜の花が咲き、花に戯れるように蝶が飛ぶ。羨ましいと
思ったりしたが、同時にむなしく感じてしまう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【重源】

山家集には「重源」の名前は出てきませんが、西行二度目の陸奥
行脚のための契機となった人物ですから少し触れておきます。

重源(ちょうげん)は紀氏の出身で父親は紀季重。
1121年生。1206年86歳で没。1118年生の西行よりは3歳年下です。
12歳で真言宗の醍醐寺に入って出家しましたが、僧房内で学問のみに
専心した学僧ではなくて、大峰、熊野、白山、葛城などの山岳にも
出向いて修行を積んだ僧でした。
三度(二度説もあり)の渡宋歴もあって宋の国で寺院建築などの方法や
技術も学んでから帰朝したそうです。

1180年12月、平清盛の命によって平重衡が南都の仏教勢力を攻撃した
おり、東大寺や興福寺の伽藍の大部分を焼失してしまいました。
聖武天皇時代製作の盧舎那仏も焼け落ちてしまったため、朝廷の
威信をかけて早急に再建することになりました。
しかし源平争乱の渦中でもあり世は騒然としており、飢饉も続いて
います。かつ朝廷の力も衰えていて、あれほどの大寺を再建するのは
資材、技術、資金、人材などのあらゆる面で容易ではありません。

重源にとっては師ともいうべき浄土宗開祖の法然が東大寺再建の
勧進職を初めに依頼されたようですが固辞したために、重源が東大寺
大勧進職に就いたとの説もあります。
それからの重源のめざましい活躍によって1185年8月には早くも
大仏開眼供養が行われました。その場には後白河院も参席して供養
しています。
しかしこの時にはまだ大仏殿も出来上がっていず、大仏の鍍金も
終わっていません。大仏殿の落慶供養は1195年3月。
後鳥羽天皇や源頼朝も臨席して大々的な供養をしています。
東大寺総供養は1203年11月。重源の獅子奮迅の活躍があったから
こその東大寺再建ですが、様々な人たちの助力があってはじめて、
焼失以来20年少しの短期間で再建されたとも言えます。

この間、1186年4月に重源は伊勢神宮に赴き大般若経の転読供養を
行っています。その折に伊勢在住の西行に逢ったものと思われます。
その目的は大仏に鍍金するための金の拠出を陸奥の藤原秀衡に要請
するためのものです。重源も、西行と秀衡はすでに面識があり、かつ
遠い縁戚であるということを知っていたものでしょう。
重源の依頼を受けた西行が陸奥に向かって伊勢を旅立ったのは、7月
末か8月の初めの頃でしょう。途中、鎌倉で源頼朝と面会している
事が吾妻鏡1186年8月15日条に記録されています。
西行は69歳という高齢でありながら長途陸奥にまで行き、そして
秀衡に金の拠出を勧進するという目的を果たして、その年のうちか、
遅くとも翌年の夏頃までには京都に帰ってきたものと思われます。

西行が東大寺再建という大事業に関わって陸奥にまで行くという
ことは、西行や重源の個人的な意思を越えて、関係者や朝廷の総意
めいたものを感じさせもします。

【長楽寺】

現在の京都市東山区にある円山公園の奥に位置します。
長楽寺も双林寺と同様に桓武天皇の勅願により最澄が開基となったと
ありますが、諸説あって、創建は詳らかではありません。古いお寺で
あることは確かです。はじめは天台宗でしたが1385年、国阿上人の
時に時宗霊山派に転向したとのことです。
このお寺は、壇ノ浦で助けられた建礼門院が京都に連れ戻されて
から落飾したお寺とも言われています。同寺には安徳天皇の服を
用いて作ったという幡(ばん=仏前に飾り付ける荘厳具)及び建礼門院の
遺品や肖像画などがあります。

当初は広大な敷地を持っていましたが、江戸時代に東大谷廟のために
割譲し、明治になってからは円山公園造営で寺地を大幅に減らしました。
西行の時代は北に安養寺、南に双林寺、南西に八坂神社、西には
真葛が原がありました。青蓮院及び知恩院の前身である吉水禅房も
すでにできていました。
長楽寺には頼山陽・頼三樹三郎のお墓もあります。また、この山の
上には京都に変異があれば鳴動するという言い伝えがある「将軍塚」
があります。
         (平凡社「京都市の地名」を参考にしました)
『建礼門院』

平清盛の次女、平徳子のこと。16歳で第80代高倉天皇の中宮となり、
22歳で第81代、安徳天皇を生みました。1185年3月、壇ノ浦の戦いで
捕えられて京都に連れ戻されました。この時、建礼門院は29歳でした。
1185年5月に長楽寺の僧を戒師として落飾。次の年に大原、寂光院の
そばに庵を結んで住んでいました。義父にあたる後白河法皇が、
この庵を尋ねて行ったことは「大原御幸」として平家物語でも詳述
されています。
        (学藝書林「京都の歴史2」を参考にしました)
    
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     長楽寺にて、夜紅葉を思ふといふことを人々よみけるに

01 よもすがらをしげなく吹く嵐かなわざと時雨の染むる紅葉を
           (岩波文庫山家集90P冬歌・新潮491番) 

尚、山家心中集によれば、下の歌も長楽寺での歌とのことです。

 玉づさのはしがきかとも見ゆる哉とびおくれつつ帰る雁がね
            (岩波文庫山家集24P春歌・新潮48番 
         西行上人集・山家心中集・言葉集・夫木抄) 

○人々よみけるに

都名所図会の長楽寺の項には「洛東第一の風景・・」と書かれて
います。詞書は長楽寺で歌会があったという説明です。西行が
ここに住んでいたわけではなくて歌会に参加しただけでしょう。
人々とは誰々を指しているのか不明です。
作歌年代も不明ですが、出家直後の時代の詠歌とも思わせます。

○をしげなく吹く嵐

勢力の衰えることのない風雨のこと。それがせっかく色付いた紅葉を
散らすようで、意地悪なものとして感じるという気持ちが出ています。

○時雨の染むる紅葉

時雨が紅葉の色を深めて美しくさせるということ。

(01番歌の解釈)

「わざわざ時雨が染めて美しく紅葉させた梢を、夜通し惜しげも
なく吹いて、散らしてしまう嵐だなあ。散りゆく錦の惜しまれる
ことよ」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)
                 
【勅】

天皇が下す命令を言います。
勅撰、勅許、勅勘、勅命、勅願、勅宣、勅使などの成語があります。

【勅使】

「勅使」とは天皇の命令を伝える使者のこと。

03番歌の詞書の(公卿=くぎょう)とは朝廷の位階で参議以上の人を
言います。
参議はほぼ三位以上の人を言いますが、四位であっても参議で
あれば公卿です。
公卿は「公」と「卿」に分けられます。
「公」は太政大臣、右大臣、左大臣、内大臣など。
「卿」は大納言、中納言、少納言、などを言います。
       
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01 勅とかやくだす御門のいませかしさらば恐れて花やちらぬと
          (岩波文庫山家集35P春歌・新潮106番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄) 

02 とめ行きて主なき宿の梅ならば勅ならずとも折りてかへらむ
          (岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集) 

     公卿勅使に通親の宰相のたたれけるを、五十鈴の畔にて
     みてよみける

03 いかばかり凉しかるらむつかへきて御裳濯河をわたるこころは
             (岩波文庫山家集261P聞書集257番)

04 とくゆきて神風めぐむみ扉ひらけ天のみかげに世をてらしつつ
             (岩波文庫山家集261P聞書集258番)

○御門

帝位や天皇を指し、敬って言う尊敬語。

○いませかし

「居ませかし」のことで、「かし」は終助詞で意味を補強する作用
があります。「居てくれたらなあ…」「居てほしいなあ…」の意味。

○とめ行きて

(とめ)は(尋め=とめ)で、尋ね行くこと。下の歌にある「とめ」と
同じ意味です。ただし「とめこかし」は訪ねてくることを言います。

 とめこかし梅さかりなるわが宿をうときも人は折にこそよれ
    (岩波文庫山家集20P春歌・233P聞書集・西行上人集・
   新古今集・玄玉集・御裳濯河歌合・御裳濯集・西行物語) 

○通親の宰相

村上源氏。内大臣源雅通の長男として1149年出生。1202年、54歳
で死亡。
久我(こが)及び、土御門(つちみかど)とも称しました。
後白河院、後鳥羽院などに仕えて活躍しています。通親の養女が
土御門天皇を産んでからは外祖父として権勢をふるいました。
平氏全盛期では平氏にべったりで、初めの妻を離縁して清盛の姪を
めとり、平氏が凋落する間際には、後白河院にすり寄っています。
清盛の姪とも離縁して、後白河院近臣貴族の娘を妻にもしています。
権謀術数に長けた独裁政治家として、政敵の九条兼実も失脚させ
ました。非常にいやらしい政治家としての印象を受けます。

源通親が公家勅使として都を立ったのが寿永二年(1183年)4月
26日のこと。通親35歳。西行66歳。
この月、伊勢神宮の主な祭りもなく、皇室にも特に慶事もあり
ませんでしたので、何のための勅使であるか不明です。源平の
争乱期でもあり、国家安泰の祈願のためであるのかもしれません。

1183年7月、平氏一門は都を捨てて西海に遁走、後白河院や通親は
平氏勢力に取りこまれることを避けて比叡山に逃れています。
この後、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡。1185年3月のことです。

○五十鈴

伊勢神宮内宮を貫流する五十鈴川のこと。
五十鈴川は賀歌や神祇歌に詠まれていますが、しかし、別称の
御裳濯川の方がはるかに多くの歌に詠み込まれている川名です。
西行歌の場合でも「五十鈴」の名称はわずかに03番歌の詞書に
一度見えるばかりです。それに比して御裳濯川は歌に五首、詞書に
三回あります。

○つかへきて

朝廷に長く仕えてきたこと。この年に通親が仕えていたのは後白河
法皇です。

○御裳濯河

五十鈴川の別称です。伊勢神宮内宮を流れていますので、内宮の
象徴として解釈されます。
西行には内宮に奉納した「御裳濯河歌合」があります。

○とくゆきて

「疾く行きて」の意味。勅使の通親に早く行きなさい、と、
進めていることば。

○~風

伊勢神宮の神威によって吹く風。

○み扉ひらけ(みとひらけ)

「み」は美称の接頭語。神殿の扉を開けなさい…ということ。

○天のみかげ

「あめ」は天(あま)の転化した読み方。
「天のみかげ」は、下に紹介する「日のみかげ」とともに、対を
なしていて、大祓えの祝詞の中にもある用語です。
「御蔭」の漢字をあてています。
伊勢神宮内宮に祀られている「天照大神」を指して「天の御陰」
というものなのでしようが、伊勢神宮は天皇家のものでもあり、
同時に天皇家をも指して「天のみかげ」と言っているはずです。

(01番歌の解釈)

「桜の花に対して散ってはならぬと勅を下される帝がおいでに
なってほしい。そうしたら桜も勅に背くことをおそれて散らない
かと思われるから。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋) 

(02番歌の解釈)

「尋ねて行って主のいない家の庭の梅ならば、勅命でなくても
折って持ち帰ろう。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「どれほど涼しいことだろう、廷臣として仕えてきて今、御裳濯川
を渡る勅使の心のうちは。」
                (和歌文学大系21から抜粋)  

(04番歌の解釈)

「勅使よ早く行って神風をお恵み下さる御戸を開け、そうすれば
大神は神殿に鎮座しながら世を照らし続けるよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
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