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海人族 阿部和雄
重い 重い血が
太古から連綿と続いている
生物が海からめばえた証左でもあるかのように
かたくなに海とひとつになった
無骨で朴訥な人達の
素朴な営みは
年ふるごとに
流れる血の重さを増してきた
天保十年
塩成組頭 阿部友七郎
新たに鯛網が許された (註)
縄文・弥生よりも古くから
海辺で棲息していたであろう海人族のなかに
日本人の源流がある
「あべ」の名は海人族のあかし
海に生き
海に死す者のあかし
時の支配者の
手をかえ品をかえての懐柔や
有無を言わせぬ命令によって
一族のなかには海をすてて陸にあがり
陰陽道などを生業とする者もでたが
多くの海人族は
辺境の海辺に土着して
はらからの 海とともに生きてきた
時の堆積の中のひとこまには
阿倍比羅夫と白村江で落日を見たこともあろう
純友と西日本の海を縦横にかけめぐりもしたことだろう
あるいは 名にしおう瀬戸内の水軍に与していたかもしれない
だが 海人族は
時代の動きとは関わりのうすいところで
ひたすらに
海との共生の日々を重ねてきた
厳しい時代の
厳しい環境のなかでも
海人族は
勇壮に魚を追い
海とたわむれる日々をすごして
そのなかで生きることの意味を求めて
海との純粋な歴史を創ってきた
しかし 時代の要請は
沿岸で細々と漁に依存するだけの生活を許さない
たくわえもなく
世知にもうとい海人族は
科学と時代に敗北を喫して
永く 重い歴史の残影を引きづりつつ
陸にあがるしかなく・・・
海人族は
身をかけめぐる血の流れや
鮮やかに甦る記憶に
身をふるわせてしのび泣くことはあっても
もう 海と共生することはない
(註) 愛媛県西宇和郡瀬戸町三机 郷土誌 による。
初出誌 海峡十五号 昭和58年1月15日発行
○加筆はしていません。
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「あべ」姓について 阿部和雄
「海人族」と題する詩作品を「海峡」一五号に書かせていただいたが、その作品の
中で私は 「あべ」の名は海人族のあかし という一行を嵌入している。今、読み
返してみると、その一行を少し安易に使ったのではなかろうかとも思っている。もともと
「海人族」なる作品がうまれる契機となったものは、「阿部の名=海人族」とする私の
推理に基づくものであるが、それが正しいものであるのかは当初から全く自信がな
かった。にもかかわらず私はなぜ 「あべ」の名は海人族のあかし と断定した書
き方をしたのか、そもそも「海人族」なる特有の生活集団は本当に存在したのか、
それらの疑問は今でも根強く残っている。
「あべ」と発音する姓「かばね」がはじめて資料に登場するのは、古事記「孝元」系図
の中である。孝元天皇の長子の大毘古命「おおびこのみこと」の子である建沼河別命
「たけぬなかわけのみこと」が阿倍の臣の祖先とある。次いで、日本書記「顕宗天皇」
三年条に阿閇臣事代「あべのおみのことしろ」の名前が記載されている。時代が下
がって五−七世紀頃になると阿倍氏は大伴・蘇我氏などに匹敵する大豪族となり、
政務の枢要な位置を占める者が出ている。四十三代元明女帝、四十六代孝謙女帝
の別称がそれぞれ阿閇皇女、阿倍皇女であることからみても、皇室とも緊密な関係に
あったことが推察できる。阿倍仲麻呂、阿倍比羅夫はこの系統であるが、阿倍氏は
藤原氏の台頭に変わって、急速に衰退している。
十一世紀の前九年の役で有名な陸奥の豪族、阿倍氏は、先述の建沼河別命の裔
ともいわれ、また一説には、古事記中巻記載の那賀須泥毘古「ながすねびこ」の裔
とも言われている。幕末期に阿部正弘が老中となった徳川譜代の阿部氏は安日彦
「ながすねびこの弟」を祖とすると伝えられている。現在においても阿部・阿倍・安倍・
阿閇の姓氏は残っており、これまでの長い歴史のなかで、それぞれが多数の姓氏の
宗家となっている。だから「あべ」氏は名族と言って良い。
表層的に「あべ」姓についてみてきたが、海人族との関係を示す手がかりはどこにも
ない。もっとも歴史の表舞台の重要なできごとしか資料には載らないものであろうし、
卑賎な生業とみられていた少数の海人族の生活などが、資料に明文化されることの
ほうが不思議なのである。それに記録の残っていない古代に、どの姓氏がどの職業に
ついていたなどということが分明するはずもない。古事記にしても読み物としてはおもし
ろいが、事実を類推するためのひとつの資料にしかならない。いきおい、推理に頼ら
ざるをえなくなる。
古代、南方から渡来した先住民族の生活様式は海洋と密着したものであった。海を
離れての生活をする能力はなかったと言ったほうが良い。彼らが海辺にしがみついて
細々とした日々を重ねているうちに、大陸から渡来した天皇家を領袖とする民族が
日本を席巻する。その過程で、海人族は抵抗して滅ぼされたり、東へ東へと逃げのひ
たり「安倍・阿部」、あるいは従属してやがては天皇家との結びつきさえできるように
なる「阿倍・阿閇」。が、いずれにしても、海の部「あまのべ」であることを「あべ」の名と
して残している。
以上が私の独善的な推理であるが、語源的には「あべ」は海人の部ではなく、食事
係を表しているらしい。したがって私の推理は信用のおけるものではないが、「海人族」
が研究論文と違って詩作品である以上、通説、あるいは定説に拘泥する必要は全く
なく、推理や想像によって書き進めてよいわけである。私としては「あべ」=海人族と
した方が、ロマンを感じさせておもしろいと思う。
さて私の「阿部」であるが、明治四年の戸籍法施行の際に自称したものではないはず
である。天保年間に苗字帯刀を許されていたことがうかがえる記述があるが、それ以前
となると全くわからない。家系図も古文書もなく、累々とした血の流れは深い闇の中で
ある。私までたどりつくうちに想像を絶することもあっただろうが、よくぞ私まで続いたと
思う。
まことに、人間の営みとは偉大なものである。
初出誌 海峡16号 昭和58年12月15日発行
○ 加筆はしていません。
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