自転車旅行記録 奈良周遊 (1985.11.2−4)
11月2日(土)
自宅→→観月橋→→上狛→→平岡→→笠置→→柳生→→忍辱山→→
新薬師寺→→白毫寺→→天理市→→山の辺の道→→桜井市→→橿原市
11月3日(日)
橿原神宮→→久米寺→→明日香→→橿原市→→当麻→→竹之内街道→→
竹之内峠→→古市→→藤井寺市→→大久保様宅→→大阪市→→梅田→→
神崎川→→吉上叔父宅
11月4日(月)
叔父宅→→千里→→高槻市→→自宅
走行距離合計 248.1KM
1日目 125.2KM
2日目 75.7KM
3日目 47.2KM
11月2日(土)
朝9時に自宅を出発する。奈良県の山辺の道と明日香を重点的に見てくる予定
である。久世橋通りを東進して24号線に乗る。観月橋、向島、城陽と道なりに
走り、木津の手前の上狛というところで167号線に移って笠置に向かう。
上狛という地名は渡来人のコマ氏(狛、巨摩、高麗)からきている氏族地名である
らしい。氏族名をそのまま地名にしているのはコマ氏がこのあたりにも勢力を誇って
いた証拠とみてよい。もともと古代日本の「倭」と朝鮮半島の国々とは紀元前から
頻繁な交流があったわけであり、、そのことはさまざまな文献や発掘考古学が証明
している。弥生時代になって集団での農耕生活が営まれたが、倭にコメが伝わり、
栽培するようになったのは紀元前三世紀頃のこと。その頃を前期弥生時代という。
当然、それよりはるかに古い時代から倭と大陸との交流があったということだ。
古事記、日本書記にも百済、新羅、任那、高麗などの国名が頻繁に出てくる。
私の住んでいる京都市も渡来人の秦氏が開いたともいえる。むろん北白川遺蹟
が示すように縄文の時代から多くの人々が住んでいたわけだから、秦氏だけが京都
を開発したものではない。秦氏が京都に入植するずっと以前から、人々は営みを
続けてきたのだ。古代に京都は山背(やましろ)の国と言っていた。桓武天皇(737−
806)が平安京に遷都した794年に山城の名に変えたが、ともかく山州である。
秦氏は山城の太秦(うずまさ)を根拠地として活動していた。この太秦という地名も
秦氏の氏族地名である。秦氏は養蚕、織物などの新しい技術で貢献した功績に
より、太秦の名前を与えられたことが日本書紀雄略記にある。その時に桂川周辺の
広い領地も同時に与えられたものだろう。
いわば日本という国は渡来人の協力によって作られたものであり、今日の我々の多
くが渡来人の末裔であるともいえるだろう。秦氏、東漢氏、文氏、土師氏、巨勢氏な
どの名が渡来氏族として著名だ。半島における高句麗、新羅、百済の三国時代より
もはるかに古くから半島のさまざまな民族と倭に住んでいた人々が血の混交をくり
返して、今日の日本人があることは疑いのないことだ。ゆえに日本民族とは血の純粋
性という意味では成立しない。どの民族でも血の純粋性などありはしないことだ。
ちなみにいうなら京都の古代氏族として秦氏以外に賀茂氏(鴨氏)、出雲氏、八坂氏、
土師氏、紀氏などの名前がある。賀茂氏と出雲氏以外は渡来系の氏族という。
賀茂氏は現代京都の三大祭りの一つである葵祭りを主催する上賀茂神社及び下鴨
神社を創建した氏族。出雲氏は洛北の出雲路橋などにその名をとどめ、八坂氏は
洛東を根拠地にしていた士族であり、有為転変を経て今日の時代祭りの八坂神社
にこの氏族の歴史をしのぶことができる。
土師氏からは桓武天皇の母の高野新笠が出ており、また、天満宮の菅原道真も
土師氏の出身。他の氏族と同様に土師氏もいくつかの姓氏名のもととなっており、
菅原氏以外に大江氏が土師氏出身氏族として名高い。秦氏は松尾大社や伏見稲荷
大社を創建しており、こうしてみてくると渡来系氏族がこの国にいかに大きな影響を
与えたかということが分かる。天満宮の天神さん、伏見大社の稲荷さん、八坂神社の
八坂さんとして今日の人々にも崇敬されている神社が、渡来系氏族のものである事を
多くの人は知らないだろう。知らないながら「日本人」のものとして敬っているという事
なのだろう。それだけ血の混交の歴史は古いということであり、同時に「日本人」と
いう民族性が不透明になっているということを示す。「日本人」とは何か?どういう
人々を指すのか実のところ私は定義することができない。現在の日本の法律で言え
ば、日本の国籍を有していさえすれば黒人種でも白人種でも日本人なのだろう。
それで良いと思う。
上狛から笠置までの間に第45代聖武天皇(701−756)の恭仁宮(くにのみや)跡が
ある。この聖武天皇は25歳で夭折した41代文武天皇(683−707)の子。滋賀県信楽
や大阪難波などにも宮を造った天皇であり、その異常さは明らかに精神を病んで
いたとみることができる。天皇家はずっと叔父と姪、伯母と甥などの近親婚が普通
だったし、聖武の異常は同族結婚の弊害によるものだろう。
恭仁宮跡には立ち寄らずに走るも、降雨のために木津川沿いの平岡というひなびた
ところで一時小休止。20分ほど雨宿りして、笠置12時10分着。きれいに彩色された
笠置橋を渡って柳生に向かう。道は勾配の強い登りになっていて、自転車を下りて
歩く。道の東側は切り立った谷になっており、その向こうに笠置寺がある。断崖絶壁
というところの岩肌に磨崖仏がかすかに見える。資料によると奈良東大寺の僧の
「良弁僧正とその弟子」の作であるらしい。しかし、この磨崖仏はその下に小道が
ついていて安全が確保されている。仏像を彫った当時も安全を確保した上での作業
だったのだろうか・・・?それとも後世になって観光客用に造られたものだろうか?
この良弁僧正は東大寺の大仏を鋳造した時代の人であり、滋賀県の石山寺の開基
だったように記憶している。
笠置といえば96代後醍醐帝(1288−1339)の行在所としての笠置寺が有名だ。
後世、建武の中興と呼ばれることになる改革をした後醍醐帝は波乱に満ちた生涯を
送った。この後醍醐帝ほど個性の強さを発揮した天皇はいないのではなかろうか。
時は鎌倉幕府後期の元弘元年(1331)、倒幕の謀議が露見した天皇は京都を出て、
笠置に立てこもる。そして笠置で幕府軍との戦闘に敗れて、捕らえられて隠岐に配流
となる。後鳥羽院が承久の乱で配流されたのも隠岐だ。ほぼ一年後、後醍醐天皇は
名和長年などの助勢を受けて隠岐を脱出し、再び倒幕の兵を挙げる。足利尊氏、
新田義貞などの有力武将を味方にして、ついには鎌倉幕府を滅ぼして親政を執る。
尊氏も義貞も、もとをただせば清和天皇の子孫であり、河内源氏の同族だ。
ところが後醍醐帝の建武の親政は悪くて武家集団の反発を買い、尊氏は多くの武士
を糾合して謀反を起こす。一度は敗れたものの、敗走先の九州から攻め上って結局
は足利幕府(室町幕府)を作る。天皇方についた義貞は戦死する。
その後、後醍醐帝は奈良の吉野で南朝を起こして、幕府及び幕府に支えられた北朝
と対立する。それが当時の歴史の概況だ。後醍醐帝は実に戦闘に明け暮れた生涯
であったが、そのバイタリティと意思の強固さについては素直に称賛できる。
笠置寺には行かずに望見するだけで、柳生の里に向かう。吉川英治の「宮本武蔵」
にも出てくる土地だ。徳川将軍家の剣術指南役、柳生氏の古くからの領地。山間の
小さな盆地だ。着いた頃には雨がまたボツボツと降り出す。時間との兼ね合いも
あり、自転車で通り過ぎるだけで奈良市街に向かう。十兵衛杉も自転車に乗ったまま
横目で見ただけだ。道は369号線。柳生街道ともいい、途中に円成寺がある。この寺
は確か三井寺との関係があったと思う。江戸時代初期の武者修行者、その多くは
食い詰めた浪人なのだが、立身出世を夢見てこの道を歩いたはずだ。もっともこの
道は新柳生街道で、古い柳生街道ではない。だが、あたりの風景は似たようなもの
だろう。忍辱山の山の中の道で、坂のきつい所もあり、しばしば歩く。アケビが熟
れているのを見る。山中の茶店で食事。
369号線は京都に向かう道路と交差する。奈良坂だ。国道24号線つまり現在の奈良
街道(奈良街道と呼ばれている道は数本ある)は木津町を少し越えた所で平城山の
西を通って奈良市街に入っているが、旧奈良街道は木津から奈良坂、般若寺、
東大寺のルートだったように記憶している。現奈良街道と旧奈良街道は、そのルート
の多くが重ならなかったのではなかっただろうか。
その昔、奈良坂あたりは野盗、追いはぎ、野ぶせり、胡麻の蝿、そんな悪人達の巣
窟であったそうな。何かで読んでいる。近代になるまで人々が人間らしい日々の営み
ができたのは特権階級の人達ばかりで、普通の人達は食うや食わずの苦しい生活を
していたのだ。生活の苦しさから人の道を踏み外すのは、いつの時代も変わりない
ことである。
古代には日本にも奴隷がいて寄口(きこう)、奴婢(ぬひ)の名で記録されている。律令
の法制によって租庸調の制度が確立してから、税金(年貢)を納めなくてはならず、
そのために普通の人々は困窮をきわめていたのだ。それは律令以前からもとても
厳しくて、払えなければ否応もなく奴隷になるしかなかったのだ。仕方なく生活圏
から逃亡しても、どこかで生活していかなくてはならず、逃亡先でも奴隷になって
いるということが、京都の古代氏族である出雲氏記録からも分かる。後世に「非人」
と言われた人達も古代の奴隷とはその性格が違うとはいえ、底辺で生きている
ことに変わりはない。そこに宗教が広く流布する素地がある。
般若時の近くのここからは東大寺の塔頭などが見渡せる。見晴らしのよい所で
ある。自転車から降りる。道路地図をみながら、これから行くべきところ、そのルート
を確認する。気持ちがはやる。
奈良県庁前に出てから春日大社の公園を通って志賀直哉旧邸、新薬師寺を見物。
次いで白毫寺に行く。以前に奈良美術館に自転車できた時に、奈良公園と平城宮跡
を歩いたことが思い出される。志賀直哉の作品は「暗夜行路」「城崎にて」ほか数編
しか読んでいなくて、私は彼の作品の熱心な読者ではない。志賀直哉は(小説の
神様)と呼ばれていたはずだ。神様に対して失礼だが、私は私小説はあまり好き
ではないという理由による。
新薬師寺は聖武天皇の発願による寺。聖武というよりも夫人の光明皇后というべき
だろう。モノトーンであることがなんとも気持よい。これ見よがしに主張していない
ところがいい。大寺の権威性をひけらかしていないのがいい。西の京の薬師寺は
あまり好きではないが、この寺は好きなほうだ。
薬師寺が文武、新薬師寺が文武の子の聖武の発願によるものだから、どちらも古い
寺である。もっとも薬師寺は天武天皇が明日香に創建したものを、文武天皇の代に
移設建築、したもの。現在の堂宇は新しい。
白毫寺はちょうど萩の盛りである。この寺は施基皇子の山荘を寺にしたものという。
侘しい感じの小さな寺である。施基皇子は天智天皇の子。天智天皇は大化の改新を
なした中大兄皇子のこと。壬申の乱から皇統は天武系に移っていたが施基皇子の
子が49代の光仁天皇となる。その子が長岡京、それから10年後に平安京を起こし
た桓武天皇である。もともと天皇になどなれるはずもない山部親王(桓武天皇)が
天皇になることができたのは藤原氏の奸計があったからであり、そこに井上皇太后
と他戸皇太子の血の犠牲がある。当時の藤原氏の専横もはなはだしい。藤原百川
の娘の旅子が桓武天皇の夫人であり、権力欲や身内のエゴイズムは昔も今も同じ
事だ。
施基は優れた歌人であることに疑いはないが、私の勉強不足によって万葉集所収
歌の一部しか知らない。
白毫寺以後、崇道天皇八嶋稜、石上神社、長岳寺、崇仁天皇陵、大神神社の順に
経巡る。崇道天皇とは諡名であって実際には即位していない早良親王のこと。早良
親王は桓武天皇の弟であり、長岡京の藤原種継暗殺事件の犠牲者。桓武天皇に
殺されたようなもの。大伴氏などを排除するための藤原氏の政治的陰謀によるもの
と思う。当時、現在の京都府乙訓郡大山崎にも港があって、そこから淡路島に配流
されるが途中で死亡する。毒殺されたという見方もある。乙訓寺に幽閉されて絶食後
の移送だから、毒殺でなくても殺されたという見方は可能だ。
石上(いそのかみ)神社は「ふるの神杉」と「七支刀」で有名な古い神社。古代豪族の
物部氏とも関係の深い神社であり物部氏の氏神を祀っているということを何かで読ん
でいる。物部氏は大連として朝廷の最高権力者であり、私の記憶に間違いが無けれ
ば武闘派氏族として朝廷の武器庫でもあった石上神社を管轄していたと思う。
長岳寺は拝観せずに過ぎる。自転車から降りて歩きながら、この、のどかな感じの道
を私なりに味わって過ぎてきたけれど、すでに薄暗くなっている。畑と、そして農家ら
しい家々があって、畑には柿の実がたわわに実っている。薄暮の中の光景である。
崇仁天皇陵は一周してみたが、古代にこれだけの古墳を作るのはやはり驚嘆に値
するだろう。
大神神社は通り過ぎてしまった。三輪山を神体にしている古く有名な神社。文献では
さんざん読んでもおり、また、かつて一度は来ている。この三輪山の優しい山容は
魅力的だ。以後、金谷、海柘榴市(つばいち)跡を通り過ぎてから近鉄の桜井駅に
出る。安倍文殊には行かない。古代豪族のアベ氏(安倍・阿部・阿倍)の根拠地であ
る。残念に思う。アベ氏も古代に天皇家から枝別れした支流との説もある。皇室との
関係の強い氏族であり、阿倍比羅夫や阿倍仲麻呂などの有名な人も多い。
この山辺の道沿いにも古墳が多い。春日大社から桜井までの間に10箇所程度ある
のではなかろうか・・・。古墳の殆どは天皇家のものだから、あばいたりせずに、
そおっとしておいたほうが良いという意見も知っている。しかしまた国民の共有の
財産であることも事実だ。歴史好きの私としては、学術的調査のために宮内庁は
積極的に協力するべきだと考える。宮内庁はずっと特権的であり、閉鎖的でありすぎ
たのではなかろうか・・・。高松塚古墳とか藤の木古墳のように歴史書のページを書
き換えてしまうほどの発見がまだまだ多いのではないかと予想できるから未調査の
古墳があることは残念なことである。
すでにライトをつけなければ走れない暗さになっている。桜井から大福、耳成、千代、
八木とすぎて、橿原神宮の駅の近くのファミレスで食事を摂りながら、今日一日の
ことを振り返り、記録を取ったりしてすごす。私にとって決して無駄な一日では
なかったと思うが、果たしてどうなのだろう。午前一時過ぎにファミレスがクローズした
あと、橿原神宮駅前のバス停に行き、待合所のベンチに座って睡眠をとる。ガラス戸
もあって密室になるが、身体に毛布を巻きつけて壁に頭を預けて寝るも、寒くて何度
も目を覚ます。
11月3日
朝早くに橿原神宮を見る。ただし中には入らない。表から見るだけだ。この神宮は
記紀の神武東征伝説に基づいての明治時代に創建されたもの。したがって神宮その
ものに歴史性はない。京都の平安神宮と同様に国粋主義思想の産物だ。私の興味
もひかない。とはいえ、陵墓はとても古くからあったようで書記の壬申の乱の記述の
中にも、その存在が記されている。橿原神宮よりも近くにある久米寺の方が寺として
の歴史性がある。久米の仙人の寺などという言い伝えは眉につばものであるが、
新羅征伐の途中に九州で死亡したという聖徳太子の弟の久米皇子の創建ならうな
ずける。古い寺であることは疑いもない。しかし、この寺も立ち寄らずに、表から見た
だけで、次の明日香にと進路をとる。
明日香は極めて狭い所だ。狭く、ひなびた土地に古代には何代もの天皇の宮が
あって、日本の中心であったことに誰でも驚きを禁じえないだろう。元明女帝が平城
宮に移ってからはさびれる一方だったのだろう。イタリアのボンベイなどのように失わ
れた、あるいは、寂れてしまった古代都市は世界中にあるが、明日香も大雑把に
言えば、そのうちの一つと言って良い。数箇所の寺と神社を見て回る。奇岩としか
言えない「鬼の雪隠」「猿石」なども見る。明日香にこういう石の構造物があるのは
とても不可解。故松本清張氏がもう20年ほど前に月刊誌「小説新潮」でゾロアス
ター(拝火教)との関連について述べていた論文を読んだことがある。私にはゾロア
スターとの関係はわからない。こんな構造物があるのはとてもミステリアスと思うだけ
だ。石について言えば、蘇我馬子の墓とみられている石舞台古墳に用いられている
石の巨大さから考えてみても近くから産出する巨岩を用いて、渡来人の石工が手す
さびに加工したのではないかという気もする。当時の、崇仏、排仏の対立などという
こととは全く関係のないような気がして仕方ない。つまり、いくつかの石の加工品
に宗教性や政治性はあったとしてもとても希薄なものと思うのだが、はたしてどんな
ものだろう。
石は二上山産出のものと比定されているはずだ。二上山からはサヌカイト、石榴石、
凝灰岩、など幾種類もの石が産出していて縄文時代の石器なども多数発見されて
いる。不思議なことに石の構造物については記紀は記述していなかったように思う。
明日香はやはり悲しい土地だ。皇統を巡っての争いが絶えることの無い時代で
あった。持統天皇以前にも蘇我氏や藤原氏の打算を交えながらの権謀術数の渦巻
く都であったが、持統天皇以後もひどいとしかいえないのではなかろうか・・・。
大津皇子の事件を持ち出すまでも無いことだ。そういう悲劇性も国としての基盤を
確立するために避けられないことだったのかもしれない。世界のどの国においても
草創期はひどいものであったということを、各各の国の歴史が示している。日本だけ
が特別に悲劇的な歴史を有しているわけではない。
それにしても天皇家の位置を簒奪しょうとする氏族がいなかったのは日本史の不思
議である。蘇我氏や藤原氏は天皇に成り代わる力を持ちながら、なぜ、そうしな
かったのだろうか。織田氏や豊臣氏や徳川氏にしてもその気になれば簡単だった
はずだ。継体天皇の即位などを考えてみても天皇家は万世一系ではないはずだが、
ともかく日本の支配者としての命脈を保ちえてきたのは極めて特異な日本的精神
風土によるものだろう。中国や韓国では国が変わるたびに天子も変わったのだか
ら、そしてそれが世界中に共通する支配者の論理であるはずなのに、日本がそうで
なかったのは単純に日本的精神風土とのみ言えないかも知れない。大きな謎である。
万葉集から歌を二つ。
高円(たかまど)の野べの秋萩いたずらに
咲きかちるらむ見る人なしに
(笠 金村)
前出の施基皇子に金村が贈った歌。当時から白毫寺に萩の花があったことが分か
る。「見る人なしに」という言葉によって、この歌の情趣が高められている。すなわち、
見る人がいないということは主がいないということと同義であり、この歌が死亡した
施基に対しての挽歌であることが理解できる。施基も萩を慈しんでいたのだろう。
百(もも)づたふ磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
けふのみ見てや 雲がくりなむ
(大津皇子)
大津皇子の辞世の歌。さすがに文才を認められていた大津の歌である。「雲がくり
なむ」に万感の意味がこめられている。斉藤茂吉の「万葉秀歌」にはーけふのみ見
てやーの表現を評価しているが、もちろん異論はない。
私は明日香から逃げたいと思った。明日香のどこを歩こうと血の匂いがしてきて、
それが私の鼻腔にこびりついて離れない感じだ。生半可であれ、この明日香の歴史
を知っていることが良くないのかもしれない。知らないことの方が良いことも多いのだ。
明日香だけでなく平城京の奈良も長屋王事件とか恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱があ
り、その他の忌まわしい事件が続出して、悲劇性に満ちているのは明日香と同様
だ。東大寺の大仏を作り、各地に国分寺を造立した聖武天皇は皇統の悲劇性を
体現してもいる。聖武天皇の時代は天然痘の大流行や飢饉なども原因のひとつと
して国家運営はうまくいかなかった時代である。判官びいきの強い私が同情すべき
余地は多い。それでも明確な理由などもちろんわからないままに私は明日香に
強く惹かれ、同時に強く忌避したい気持ちがある。どうしてだろう。私は追われている
人のようにせわしない気持ちで明日香をたって、橿原市に引き返して、大阪市に
向かった。
八木、当麻を過ぎて竹之内街道を進む。この道は古代の国道1号線。そうはいって
も全てのルートが古代のルートそのままではない。現在の道は全面舗装されてい
て、道幅も広くてとても立派な道路だ。道は徐々に登りになっている。
私は自転車を降りて歩きながら、この道のたどってきた歴史を思う。竹の内集落から
は二上山の産出する縄文時代の石器なども出土していて、本当に古い時代からこの
あたりに人々が住んでいたことが分かる。神武天皇が橿原で勝利の勝鬨を上げる
より以前の話のはずだ。古書をひも解けば二上山は霊性の宿る山として、同時に
数種類の石を産出する山として、非常に重要な役割をになってきたことがわかる。
石の搬出のための何本かのルートも大阪側と奈良側に向かって作られていたのだ
ろう。
昨日と違って今日は天気がよく、葛城、金剛の山並みが遠くまで見渡せる。魅力的
な光景だ。葛城や金剛の山は確かツツジの名所でもあったはずだ。四季折々にすば
らしい景観を見せていることだろう。いつかまた機会を作ってきてみたいと思う。竹の
内峠で小休止する。奈良と大阪の市街が振り分けに見通せる峠だ。風が肌に心地
よい。気持ちを大気や風や周りの風景に委ねて、ゆったりとする。自分が果てもなく
無化していくような、無上の喜びを身体そのものが感じているような気がする。
うつそみの人なる我や明日よりは
二上山を弟背と吾がみむ (大伯皇女)
大伯皇女は大津皇子の姉。大津を思う時、二上山と大伯皇女と、そしてこの歌は
私にはセットになっている。この道は、また、二人をしのぶ道である。
太子・羽曳野・古市と過ぎて藤井寺に行く。歴史に興味のある者にとっては、どこに
しろ、ただ通り過ぎるのはもったいない所だ。私がどこも見ずにただ通り過ぎてしまっ
たのは、私がそれだけの人間でしかないということの証明だ。時間的な制約もあった
が、それは言い訳にすぎない。私には歴史の中の一つのことを根気よく極めようと
する姿勢が乏しいと思う。私のあきらかな欠点だ。本当に古代の歴史が好きな人間
なら、太子、古市、羽曳野などをただ通り過ぎるはずは無いのだ。こんなところに
来て、どこも見ないで過ぎるのは犯罪的でさえあると思う。いつかまた来たいもので
ある。
藤井寺の叔父宅に行ったが留守なので、いとこの大久保家に向かう。厚かましくも
ご飯をご馳走になる。辞去してから松原市を経て大阪市に入り梅田から神埼川に
出て、吉上叔父宅をうかがう。なじみのスナック「妙」に行き、飲み、調子はずれの
歌をがなる。
11月4日
朝7時過ぎに叔父宅を辞去する。時間をかけてゆっくり、のんびりと京都の自宅に
帰る。午後2時帰宅。自宅までのルートも歴史性に満ちてはいるが、以下特に記す
ほどのこともなく、割愛する。
私にとって意義のある短い旅であったことは確かだ。疲れもしたがそれなりに充実
した自転車旅行であった。
1985年12月記
(付記)
今日の科学技術の発達によって古代遺物の年代測定がより正確になった。発掘考
古学の成果は、興味のある人たちを震撼させるほどにめざましい。発掘作業にたず
さわり、地道な研究をしている方々に敬意を表したいと思う。彼らの努力によって
古代史は書き換えられることの連続だ。つい最近、岡山県の縄文遺跡の研究で
6500年前にはすでに稲が植えられていて人々は米を食していたことが判明した。
驚くべきことだ。
中国で稲作が始まったのは約1万年前だと言われている。中国の人が稲の種子を
持ってきたものだろうが、当時の航海技術を考えれば、すごいことだと思う。
青森県の縄文の遺跡の規模からみても縄文人が意外に豊な生活をしていたかが
わかる。いずれ、縄文とか弥生などの時代区分も意味が変わるかもしれないな・・・
などと空想する。それは私にとって楽しい種類の空想だ。
(付記 2)
2002年12月27日、暮れも押し詰まった一日に竹の内街道を訪れることができた。
17年振りである。西行MLのK氏の懇切な案内と説明を受け、氏の先導により
竹の内峠に再び立ち、そして二上山の雄岳と雌岳にも登ることができた。充実した
一日であった。K氏及び同行していただいたY氏、T氏、Y氏に謝意を表したい。 (2003.1.4)
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