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   自転車旅行記録   奈良周遊     (1986/5/7〜9)

   5月7日 (水)

  自宅→→観月橋→→城陽市→→木津→→奈良市→→ Y 様宅→→
  法隆寺→→竜田→→石光寺→→当麻寺→→笛吹神社→→九品寺→→
  一言主神社→→御所市→→風の森→→五條市

   5月8日 (木)
 
  五條市内(金剛寺・桜井寺・天誅組史跡)→→宇野峠→→吉野→→
  津風呂湖→→大宇陀→→榛原

   5月9日 (金)

  榛原→→大野寺→→長谷寺→→桜井市→→天理市→→
  大和高田市→→Y 様宅→→城陽市→→観月橋→→自宅

                                 走行距離合計 251KM
                                 1日目      100KM
                                 2日目      55KM
                                 3日目      96KM

  5月7日 (水)

◎  先年11月に続いての奈良県自転車旅行である。今回は欲張りをして、奈良県の
   すべてを見てみようというほどの意気込みである。とても楽しみな、高揚した気持ち
    を覚えながら自宅を出発する。朝8時30分自宅発。観月橋で朝食。

◎  奈良市街までは道なりに国道24号線を走る。全体に車が多くて気が抜けない。
   道路幅も狭いところがあり、特に城陽市あたりは走りにくい。それでも木津までは
   軽快に走る。 
   道は奈良市の手前で分岐していて、まっすぐに進めば東大寺のほうに出る。この
  24号線は奈良山を迂回して西に向かっている。そのまま24号線を走る。坂が少し
   きつい。

◎ 奈良市街に入り、薬師寺、唐招提寺を左横目に見ながら、西六条にある詩団同人の
   Y 様宅を訪問する。しばし小休止。突然の訪問なのに「うどん」をご馳走になる。
  昼前の食事時に連絡もせずにお伺いしたことを申し訳なく思う。デリカシーがないとは
  思ったが、Y 様の暖かなおもてなしに感謝。

◎ Y 様宅から郡山、筒井を経て法隆寺に向かう。あえて薬師寺、唐招提寺には行か
  ない。道は国道25号線。郡山は金魚の養殖池が多い。池は小さく、みすぼらしい
  感じであり、こんなので養殖を専業として生活していけるのだろうかと疑問に思う。
  でも常に品種改良を研究していて、輸出も多いらしい。門外漢にはわからないが、
  一つの職業としてなんとか成り立っているのだろう。生き物相手のその苦労を考え
  たりする。
  戦国時代はこのあたりは筒井氏の領地。とはいえ、奈良・大和は興福寺の寺領で
  あった。筒井氏は一時は大和守護職だった。筒井順慶の時代は戦国の梟雄ともいう
  べき松永久秀がいて、久秀は信貴山城の城主。室町公方の十三代足利義輝を
  弑逆し、東大寺を焼いたことで有名な武将。親子ほども年齢の違う久秀と順慶は
  たびたび戦ったが、それも信貴山城落城をもって終わる。好き勝手をして名をなした
  松永弾正久秀はそれなりに充実した幸せな人生だったのだろう。ちなみにいうと、
  久秀享年67歳。7年後に順慶死亡。享年35歳。

◎ 法隆寺は中学校の卒業旅行以来なので、何年ぶりになるのだろうかと指折り数え
   てしまう。時間をかけて、ゆっくりと見て回る。25年ほど前の坊主頭の中学生の私が
   確かにここにいたのに記憶は全くない。まあそんなものだろうと妙に納得する。
   法隆寺を見て回りながら49歳で死亡した聖徳太子のことを思う。中学の日本史の
   授業でも冠位十二階制定とか憲法17条の発布をした立派な太子というふうに教え
   られた。中学卒業後に太子についての私の知識は格段に増えた。それなりに興味
   があったということだろうか。   
   聖徳太子という呼称も太子死後200年ほどしてからの追称であることを知った。
   太子は存命中にいくつかの名前で呼ばれていたが、その中に聖徳の呼び名が
   なかったことは不思議な気もする。蘇我馬子とは血のつながった伯父、甥の関係
   でもあり、しかも同じ崇仏の立場を取り、政治の執行でも協力しあっていた。しかし
   馬子の現実主義と太子の理想主義のギャップがはなはだしいことも知った。互い
   に協調しながら、他方で対立するという構図だ。太子に五人もの夫人がいたことも、
   現代的な感覚では違和感を覚える人もいるだろう。
   太子の一族は蘇我入鹿に滅ぼされてしまって血筋が絶えてしまったのは痛ましい
   ことだ。643年のことだ。太子の子の山背大兄王の代に一族全員が死亡したその
   原因は、皇統を巡っての争いによる。山背大兄王は入鹿の野望の犠牲者とも言え
   る。その入鹿も645年に中大兄皇子に殺されてしまう。その事件を後世には大化
   の改新と呼ぶ。
   それにしても聖徳太子は生まれながらにして権力者であったのに、どうしてあれ
   ほどにストイックで求道者的な人生をおくったのであろうか。とても不思議だ。人間
   味が希薄だ。伝えられている太子像は良い悪いを越えて人間離れをしているようで
   あり、そのことが少し恐ろしくもある。

◎ 竜田、王子を経て石光寺、次いで当麻寺の見物。竜田川は「小流なれど紅葉の
   名所」として和歌に無数に詠われている所なのに、その当時を偲ぶよすがもない。
   みすぼらしい川だ。今は昔ということか。総じて奈良の街中の川はみすぼらしい。
   地形的に見て仕方がないと思う。これがたとえば笠置から柳生に向かう急峻な
   道沿いの川なら狭くてもうなずける。しかし平野部の川はそれなりに川幅が広く
   ないとかえってみすぼらしい印象ばかりが際立つ。
   「むかし、をとこ、うゐかうぶりして、奈良の京、春日の里にしるよしして・・・」で始ま
   る伊勢物語の在原業平の歌を一つ。

   ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
          からくれなゐに 水くくるとは   『古今集』『百人一首』

   「竜田揚げ」という料理も、この竜田という地名からきている。また「竜田姫」は俳句
   の秋の季語にもなっていて、、それは「佐保姫」の春と対になっている。
   石光寺、当麻寺両寺のボタンの花は盛りを過ぎているのが残念。Y 様が5月3日
   に見た時は盛りだったということだったのに、タイミングはむつかしい。
   当麻寺の曼荼羅はさすがに音に聞こえたものだと思うが、中将姫が織り上げたと
   いう伝説はどうして生まれたのだろう。伝説自体は時代が下がって鎌倉時代に
   成立したことが保育社刊の「日本の古美術11(当麻寺)」でも記述されている。
   つまりは伝説は、事実ではなくて伝説でしかないということだろう。絵画ではなくて
   織物であり、それも何度か修復されているということが同書からもわかる。
   聖徳太子の弟の当麻皇子(麻呂子親王)創建と伝えられているこの寺には大津
   皇子も立ち寄ったことがあるはずだが、彼はこの地でどんなことを思って過ぎた
   だろうか・・・。

◎  当麻寺以降、葛城古道に進路を取る。西の山の辺の道だ。柿本神社は見ずに
   過ぎる。菅原道真の天神さんのように柿本人麻呂が神格化しているのはすごい
   ことだ。道真は別格として、人が神格化しているのは、たとえば滋賀県高島郡の
   中江藤樹の藤樹神社などもあり、その数は多い。豊国神社の豊臣秀吉、建勲神社
   の織田信長、乃木神社の乃木希典夫妻なども同じだ。   
   道なりに笛吹神社、九品寺、一言主神社の順に巡る。司馬さんが「街道を行く」で
   記述していた「ムクの樹にムクトリが来て・・・」というのは笛吹の社だったか、それ
   とも一言主の社だったのか失念してしまった。どちらの社にも似合いそうな雰囲気
   がある。山の中のモノトーンの支配する社で、世俗化された観光寺社の派手派手
   しさ、けばけばしさ、豪華さは決してなく、辺りの風景の中に穏やかに溶け込んで
   いながら、それでいて存在感のある社だ。私の気持も辺りの風景の中に溶け込ん
   でいくような穏やかさに包まれる。でも、ムクトリの大群が白い糞を撒き散らして
   いくその壮観は、ちょっと嫌な気もする。大群であることが雰囲気を壊しているよう
   にも思う。

   
1986年5月7日 笛吹神社にて 下は一言主神社
     

   

◎  九品寺はさすがに真言の寺で唐風の建築様式だ。いかにも作り物の寺という
   印象を受ける。辺りの風景とは異質である。この西の山辺の道沿いにある社は
   古代民族宗教と結びついた神社である。宗教という言葉はこの場合はふさわしく
   はないかも知れず、生活そのものと密接に結びついたと言い換えた方が妥当だ。
   九品寺は空海の時代以降の建立なので周りの古社よりは新しく、その分、異質
   であることは仕方のないことだろうとは思う。ここには、ふさわしいお寺ではないと
   思う。
   でも九品寺にも私などの感想や想像などを拒んで笑止といえるほどの重い歴史を
   刻んできたわけであり、九品寺そのものを批判的には言えない。平安時代に当時
   の船で海を渡って、大陸からさまざまなものを持ち帰ったというその事実、創建者
   のその体験の後に九品寺があるわけだから、後世のわれわれが軽々に感想を
   述べたりするのは良いことではないのかもしれない。このお寺にも敬意を表したい
   と思う。

◎  時間の関係で思いを残すお寺も多いけど、拝観は断念せざるをえない。名柄と
   いう集落から国道24号線に乗る。名柄という地名も何かで読んだような気が
   する。国見山という山が美しい山容を見せている。長柄から見る国見山は美しい。
   だが記紀などにある国見山とは違うはずだ。
   当然のように大和盆地も見渡せる。ここから見る大和盆地は「大和の国はまほ
   ろば」という言葉を思い起こさせる。ノスタルジックな感覚を味わう。風景を見た
   だけで気持が安らぐということは、決して多くはないだろう。貴重な風景だ。  
   24号線をまっすぐに南に進んで行くと五條市である。途中に風の森峠がある。
   バス停留所があって、ちょうどバスが止まり数人の人が下車している。それにしても
   「風の森」とは魅力的な地名だ。風の森から真っ逆さまの逆落としのような急坂を
   自転車の弱い明かりを頼りに走り、五條市に向かう。道路の端の白線が厚く塗って
   あって、その分だけ1.2センチの段差になっており、自転車ではとても走りにくい。
   一瞬、転倒事故のことが頭をかすめたりする。無事に五條市に着き、なんとか宿を
   みつけて投宿。100キロ走っている。疲れが重い。

 5月8日

◎  朝早くに宿を出て五條市内を見物する。近世日本の夜明けに、悲劇的な運命を
    たどるしかなかった天誅組の史跡にもことのほか興味があって、まずは史跡
    まで。

   「我が胸の 燃ゆる思いに 比ぶれば  煙はうすし 桜島山」 平野国臣
   
   生野の事件の首謀者である平野国臣と天誅組との直接の関係はない。いや、
   ないと言い切ることはできないのだが、天誅組の中山忠光や吉村寅太郎と面識は
   あっても、平野国臣は天誅組の一員ではない。それがわかっていながら、なぜか
   平野国臣を思う。
   私は神社仏閣を経巡る場合でも手を合わせて祈ったり、お賽銭を投じたりすること
   はない。そんな行為に意味を認めないからだ。ことに観光寺社の祈り、寄進するの
   は当然と催促されているような感じには、どうしてもなじめない。そんなことは自主
   的なものだ。促されてするものではない。だからそういうことには常に反発する
   困った性分だ。手を合わせて祈りの姿勢をとったり、喜捨というか賽銭箱にお金を
   入れたりする行為は、自己満足そのものだと思う。そんなに思うほどだから、私に
   は信仰心が全然ないかあったとしても希薄なのだろう。私には物事や人生に対し
   ての謙虚さが足りないのかもしれない。
   それなのに天誅組の史跡では手を合わせてしまった。自然に出た行為だ。決して
   英雄でもなく、むしろ反逆の徒として歴史に興味のある人にしか知られていない彼
   らに、近世日本の草創期にそれなりの役割を担ったグループという印象を持って
   いる。河内や吉野の山中をさまよい、五條代官所を襲って殺戮し、高取城を攻め
   たりした。彼らのやってきたことといえば愚かで無益な行為であったことは事実だ
   が、そこに日本の胎動の一兆候としての意味を体現していたということも事実だ
   ろう。当時はペルー来航、日米和親条約、桜田門外の変、外国の高圧的な干渉、
   続く大政奉還、明治維新と続いて日本にとっては激動の時代であった。激しく動く
   時代の波に誰もが翻弄されたと言ってもいい。その混乱の時代に、若者達が熟慮
   せずに感情的に突っ走るということはよく分かることだ。いつの時代でも若者が
   時代を変革する力を秘めている。純粋な気持が行動に現れる。歴史が天誅組の
   行動は愚かであったと証明しているけれど、そして私も彼らの短絡的な行動を批判
   するけれど、しかし彼らの純な心情は尊重したいと思う。それにしても思慮の足り
   ない直情的で無益な行為であったと思う。十津川の郷士や河内の農民をも巻きこ
   んで戦ったが、勤皇という不動の意志やそれなりの覚悟はあったとしても、ことを
   起こすに必要な理念や計画性もなく、時代の流れを見ようとする冷静な視点もなく、
   ために行き当たりばったりの子供っぽい衝動的な行為であって、 彼らの悲劇は
   彼ら自身が招き寄せたというほかにはない。吉村寅太郎、戦死。享年26歳。公卿
   の中山忠光、長州にて死亡。毒殺の説あり。享年19歳。

◎  会社勤めらしき人達が三々五々、駅の方にと急いでいる。まだそんな時間だ。
   天誅組の史跡の次に金剛寺を拝観してから吉野に向かう予定をたてて、金剛寺
   に向かう。
   金剛寺は大塔の宮が一時期に行在所としていたのではなかっただろうか。古刹
   という感じである。お寺の由緒書を見れば大塔の宮のことなどは書かれていない
   ので私の勘違いだろう。花のお寺という感じである。
   井上内親王と他戸皇子の宇智陵にも行きたかったが断念する。この他戸廃太子
   も大津や有馬や早良と同じく策謀によって人生を道半ばに閉じた悲劇的な皇子で
   ある。まったく、この時代の皇統の悲劇性は言語に絶するものだ。この悲劇性は、
   長岡京、そして平安京にまで暗い影を落とすが、それもまた必然だったのだろう。
    
    
1986年5月8日 五條市 金剛寺にて
   

◎  全ルートを370号線利用。宇野峠を少し歩く。吉野神宮駅まで約16キロ。1時間
   少々。駅前に自転車を置いてから、電車、ロープウェイを乗り継いで吉野山に登る。
   蔵王堂近くの茶店で缶ビールを飲みながら、桜の終わった海原をあきることなく
   眺める。古代からいろんなことがあった山で、ありすぎてうまく要約できない。壬申
   の乱の大海人皇子の挙兵、義経主従の逃避行、元弘年間の大塔の宮の奮戦、
   後醍醐南朝開府、等々。山岳宗教としての象徴的な山が現実の世俗的な勢力と
   結びつくことによって、非常に生々しい印象を受ける山である。あえて西行庵には
   行かない。好きというよりも気になっている歌を一首。

   あくがるる 心はさても やまざくら 散りなんのちや 身にかへるべき

◎  吉野山に別れを告げて、吉野川沿いに大宇陀を目指して走る。道は370号線。
   途中、津風呂湖近くの入野峠と大宇陀近くに関戸峠がある。津風呂湖は確か人造
   湖のはず。桜の名所として新聞に開花情報が出ている。大宇陀は織田信長の次男
   の信雄の血を引く織田氏の領地。それよりずっと以前に、古事記の神武東征に
   出てくる古い地名。歴史書で名前だけは知っている阿騎神社を見る。古びた社だ。
   柿本人麻呂の「ひんがしの・・・」で始まる歌の「かぎろひの丘」にも行く。大宇陀、
   もっと古い地名でいうなら阿騎野も歴史的な土地である。開発という暴力にさらさ
   れていず、人間が自然に抱きかかえられていることの心安らかさを感じさせる
   魅力的な所だ。こんな所に住んでいる人はそれだけで幸せだと、埒もないことだが
   羨望を感じたりする。

◎  大宇陀から榛原町まで平坦な道を走り、榛原町で食事を摂る。あえて旅館を探さず
   に郊外で野宿する。暗い。星の輝きがすごい。いろんなことを思う。

5月9日 

◎  ジャンパーの上に持っていった毛布を重ねて、郊外の空き地で寝る。でも眠れ
   ない。寝入ってもすぐに目が醒める。結局、ガチガチと歯を鳴らせながら朝を迎え
   た感じだ。きちんとした寝具もない古代の人達は、こういう時にはどうしたのだろう
   か・・・。寒さに我慢できず、というよりは我慢できるという程度を超えた寒さの中、
   夜露朝露は容赦なくふりかかるという時、防寒手段のない人々は凍死するしか
   ないのかもしれない。とりわけ真冬の野宿は死に直結していたのだろう。火を
   焚いて暖を取り、眠らないで朝を迎えるということが最善の予防策かも知れない。
   それが人間の知恵というものだろう。でも火を起こすための道具がなければ?
   少し明るみはじめた5時に思い切って大野寺に向かう。約15キロ。霧の中を走る。
   着いてすぐに6時を告げる大野寺の鐘が鳴る。聞いて知ったのではなくて、鐘を
   突いている現場を見たのだ。時間を確認すると6時だった。6時なんていうといつ
   もの日々は夜具の中で白川夜船だ。まさに今日は非日常である。   
   目の前に近畿日本鉄道の「室生口大野駅」があり、大野寺がある。たどってきた道を
   進めば名張市に着く。大野寺と大野磨崖仏を見物。大野寺は小さな寺である。
   役の行者の開基と伝えられ、弘法大師とも少なからぬ関係があるというから、
   小さくてもそれなりの歴史を持っているということだ。大野寺の正面の宇陀川の崖
   には仏像の彫り物がかすかに見える。それにしても岩壁に仏像を彫るという思想
   はどうして芽生えたのだろう。中国、インドなどにも多いし、日本でも臼杵磨崖仏
   などが有名だ。仏教成立以前のことになるが、文明の発祥するところ、岩肌に模様
   を書いたり彫ったりするのは人種を超えて人類共通のもののようだ。メソボタニアや
   インカやマヤにしろ、岩肌というのは貴重な表現の場であったことが理解できる。
   テレビで見た中国西域の仏像や笠置の磨崖仏を思い出す。
   この大野の地は書記の天武記にも見える。壬申の乱で大海人皇子が吉野から
   たどってきた道だ。吉野、津風呂、大宇陀、榛原、大野とほぼ同じ道である。彼ら
   は少人数で名張に向かい、伊勢路を行く。攻められると一たまりもないほどの少人
   数だ。結局は各地でその土地の支配者などの協力を取り付けて、大海人皇子は
   近江京を落して天武天皇となる。

◎  寝不足のために疲れが重い。せっかくここまで来てという思いも持ち、さんざん
   迷ったが帰宅までの時間も考えて女人高野の室生寺まで行くことは断念して
   引き返す。
   榛原までの間に遅咲きの山桜を見る。群生ではなくて、ただ一本のみで咲いている。
   5月9日の桜である。「山柿の門」の一方の歌人である山部赤人の記念館みたいな
   ものも途中にあって興味を持ったが立ち寄らずに過ぎる。「山柿」の柿はむろん
   人麻呂。私は赤人よりは憶良の人間の自然な心情を詠う叙情が好きだ。赤人と
   憶良を一首ずつ。

   田子の浦に うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りつつ
                                       山部赤人

   銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も なにせむに まされるたから 子にしかめやも
                                       山上憶良 

   両作ともに万葉集からの抜粋である。赤人の歌は新古今にも採録されており、
   百人一首にも選ばれている。しかし、「真白にぞ・・・」が「白妙の・・・」に変えられ
   ていて、ちょっとややこしい。定家さん、勝手に書き換えたら作者に対する冒とく
   ですよー。それでは合作になってしまいますぜー。

◎  古くからの地名である榛原の町を過ぎ、西峠を越えて長谷寺に行く。さすがに観光
   寺院だけあって参道の両側に茶店が並ぶ。重い足をひきずって長谷寺の長い登廊
   を上がって行く。それぞれの回廊に名称があり、それぞれの名称に意味が込められ
   ているようだ。ボタンは今が盛り。それにしても、「こもりくの初瀬」のこの長谷寺は
   何につけてもすごい!!というしかない。境内の広さ、ボタンの種類や本数、長谷
   様式といわれる観音像にも驚嘆。完成された美だ。おごそかで、圧倒されるだけの
   力強さに充ちている。この仏像を作った人物に敬意を払う。とても頭と腕の良い職人
   の手によるものだろう。一見の価値あり。この観音さんの霊験あらたかぶりは「今昔
   物語」に記述がある。平安の都からも多くの貴顕が参詣していて、清少納言も
   行ったという記述を何かで読んでいる。「枕の草子」の中に確か長谷寺のことが書
   かれているはずだ。平安時代は初瀬詣でが盛んだった。江戸時代の60年ごとの
   伊勢参り(御蔭参り)も同様だが、信仰からというよりもむしろ流行という面が強い。
   この寺の舞台の迫力も京都の清水寺のそれに勝るとも劣らない。ここの舞台の
   ほうが怖い。
   ガイドブックによると、

    人はいさ 心もしらず ふる里は 花ぞむかしの 香にほひける
                (紀貫之 古今集)

   古今集にある貫之の梅を詠んだ有名な歌も、この寺で詠んだものという。古今の
   味とは少し違うかなーという気もするが、貫之の才質がよく出ていると思う。

◎  長谷寺から桜井、天理にルートを取り、大和高田市を経てY様宅を再び訪れる。
   すぐに辞去する。13時前である。以降、どこにも寄らずに自宅まで帰る。ゆっくりと
   走って16時少し過ぎに帰着。疲れはしたけど充実した自転車旅行であった。
                       (完)

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