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2002年12月 大阪・奈良 オフ会レポート
日時 2002年12月27日
行き先 大阪 叡福寺・小野妹子陵・二上山
奈良 二上山・当麻寺・大津皇子関連遺蹟
メンバー Kさん、Yさん、Yさん、Tさんの各氏と阿部の五名。
2002年の暮れも押し詰まった12月27日に関西在住の有志でミニオフ会を
やりました。場所は上記した通りに、この国の古代の歴史において重要な役割を
になってきた場所でもある竹之内街道の周辺地です。
1985年11月3日に、私は自転車でこの道を通り過ぎました。その 自転車周遊
の記録です。
その時の竹之内の街道が印象に残っていて「もう一度竹之内峠に行ってみたい」という
児戯めいた思いを漏らしたことが発端でした。すぐさま何人かの方が参加を表明
してくださり、近くにお住まいのK・K氏は具体的なプランを練ってくださいました。
そうして実現したオフ会でした。結果的に行き先選定のプランニング、運転手、
各寺・遺蹟の詳細な説明、二上山登山の先導、すべてK氏のお世話になりました。
始めにK・K様、そして参加なさった皆様、ありがとうございました。
二上山に、汗を出しながら登頂した時に、暖かいお茶を振舞っていただいた
Yさんの、こまやかな心遣いも私は終生忘れられない思い出になりそうです。
いつものように時間の経過順にしたためてみます。
12月27日朝、7時20分に起床する。前夜はビールを控えたので、朝の目覚めが
いい。朝刊を取りに外に出る。家々の屋根にうっすらと降雪。空はどんよりと曇っている。
だが大阪あたりでは大丈夫だと確信する。コーヒーを作り、新聞を読みながらメロンパン
一つ。今から出る旨のメールを打って8時に家を出る。
阪急桂駅から大阪地下鉄、近鉄を乗り継ぐ。吉野行き特急古市下車、乗り換えて
喜志駅着は10時15分だったか。すでにT氏、Y氏、K氏先着。
挨拶を交わす。紅一点のY氏は時間丁度に到着。
みなさんとは11月16日の比叡山・三井寺オフ会以来。
今年は三度お会いしたことになる。
K氏の自家用車で出発。始めに聖徳太子(574−622)ゆかりの 叡福寺。
太子の陵墓がある。磯長陵(しながりょう)という。没後すぐに葬られたと書記にある。
母の穴穂部間人と妃の膳部大郎女との三人で埋葬されて、三骨一廟となっている。
このお寺は太子崇敬の中核を成してきたお寺である。戦国時代、信長軍の兵火により
灰燼に帰したがすぐさま再建されたとのこと。
伽藍の配置の妙を感じる。1652年に作られたという多宝塔は法隆寺の夢殿と
似通っているが・・・模して作られたのだろうか?
空海、親鸞、日蓮、良忍などの高僧も参詣し、こもっていたという。空海が作ったという
梵字の彫られた石による結界は見物です。
ちなみに聖徳太子とは太子死後に贈られた諡名であって、太子本人は聖徳太子と呼ば
れたことはありません。厩戸皇子でした。太子は母方も父方も渡来系といわれる蘇我氏
の出自であり、このあたり一帯は蘇我氏の支配地でしたから、奈良の斑鳩ではなくて、
この地に葬られたのも当然のような気もします。
現在の仁王門は昭和33年の再建です。門の中央で記念の撮影。
叡福寺から石川などを過ぎて 小野妹子の陵墓 に行きました。
普通は陵墓とは皇室だけにしか遣わない名詞なのでしようか?。あの遣隋使として
あまりにも有名な小野妹子の陵も、「小野妹子墓」と記述されています。皇室はすべて
「墓」とは記述せずに「陵」としています。妹子の墓も立派なものですから、陵がふさわしい
ことばです。冬枯れと言うことばを想起させる妹子陵の付近です。桜の木が以外に多くて
桜の咲く頃にはたくさんの人出で賑合うと思いました。
妹子の墓を過ぎてから進路を竹之内街道にとります。
あれーあれーあれーと思うまもなく、 なんと竹之内峠です。 自転車のスピードで
走っている時に見る周りの景色の具合と、走っている自動車から見る周りの景色の
具合とでは印象がかなり違う事に驚きます。これでは、スピードの差によって違う感覚
の相違を互いに味わえない感じがしました。景色を見るには自転車のスピードか良い
ですね。
峠の前にある「うぐいす茶屋」というレストランで車を止めて、峠を少し歩きました。
「うぐいすの関」という関が峠にあったそうです。
17年前に私は確かにこの峠を自転車で過ぎたのですが、微妙に印象が違います。
峠が奈良と大阪の府県界になっていて、両方の街が振り分けに見下ろせること、峠の
前後は急坂になっていることは同じですが、南側はもっと開けていて、葛城・金剛の
山々が目の当たりにあるように思っていたのですが、両山ははるかに離れていました。
私の目の衰えとか、あるいは当日の天気の違いもあるのかもしれません。
大気の汚染が進んで、遠くにあるように見えるということもあるのでしょう。
でも、記憶とはいいかげんなもので、当てにならないなーとも思いました。
「うぐいす茶屋」で昼食をすませてから、二上山登頂に取りかかります。
ルートが2本あります。舗装されている車道ではなく、直登するルートにとりかかり
ました。鹿谷寺跡、雌岳山頂、雄岳山頂というコースです。合計で一時間ほどを
要しました。
始めは急ではあるけど 幅のある登り道 です。雑木の林が続きます。盛りの椿が
あります。冬枯れということばを想起させ始める頃の山の中の道を進むのは快いものが
あります。ことに酒浸かりの私の日常から遠く隔たった空間に身を置くということは、
身体も喜んでいるように思います。快調です。余裕です。
やがて 「鹿谷寺(ろくたんじ)」跡 につきました。300メーター歩いたということです。
寺跡は平坦な広場になっています。この山を削り取って山そのものを寺地に利用
したらしい感じです。この山の巨大な凝灰岩も彫り穿っています。築造年代は不明
とのことです。しかしいくら古くても日本で最初のお寺という明日香の飛鳥寺より古い
ことはないのでしよう。よくわかりません。
次いで雌岳登頂です。ところが思いのほかに難路でした。道とはいえない道とでも
いう部分があります。凝灰岩の 岩肌の露頭した道 です。下を見たら真っ逆さまという
感じの急坂があります。千尋の谷、奈落の底。高所恐怖症の私は一瞬ビビりました。
「ああーこれはダメだ」と大声で言ったと思います。フラーとなりました。Tさんが
しゃがんで、私を背負おうとしてくれます。感謝。でも体力の事ではなく平衡機能の
問題ですので、背負われても同じことです。なんとか、その場所を過ぎると、咽元すぎれば
なんとやら、全く山道が苦になりません。(ごめんなさい。大嘘です。)
そうこうする内に別ルートの車道と交わる地点に出ました。そこから雌岳山頂はすぐです。
雌岳頂上 です。
奈良市街が遠望できます。大和の国はまほろば、古代から有名な三山が見えます。
歌碑もあります。太陽の道筋を示すという設備もあります。
私は最後まで日時計とばかり思って漏刻なんていう頓珍漢な話題をだして、思いきり
はずしまくる始末。正確には太陽の道筋を表したモニューメントという事です。
さて、雌岳を立派に征服した我々は、勇んで雄岳に取りかかります。所要時間は
15分の予定。道にはところどころ雪が消え残っています。道は凝灰岩の小石が敷き
詰められています。 高低差はありますが、歩きやすい道 です。
私はもう平気で、まるで役小角になったように飛ぶように歩けます。皆さんの歩みが
まるでスローモーションを見ているようで・・・(この記述は正確ではないのでカット)
予定時刻に 雄岳頂上 に着きました。ここも平坦地です。雪が舞って来ます。
大津皇子の陵墓にお参りしました。彼については私も思い入れが強いのですが、
ここでは触れないでおきましょう。山頂に少しすごしてから下山しました。
別ルートの舗装されている道を下山しました。
「岩屋」 というところに向かいます。岩屋というのは要するに岩を穿って、
仏像などを岩に彫った場所という事で、生活の場ではないようです。高知県にある
龍河洞は弥生時代の洞窟住居として有名ですし、そのことを思い出したりしましたが、
ここの場合は仏教が渡来してからのものであることは確かなのでしよう。
いや、縄文・弥生の時代の人達と関わりが深いのかも知れませんが、今となっては
正確なことが分からないというのが事実でしょう。
舗装されている道なので、さすがに歩きやすいです。道の両端の風景が気持ちを
和ませます。桜の頃、青葉の頃、紅葉の頃はまた、違った印象をうけるのでしょう。
奈良県と大阪府の境を示す道標 が立っています。
明日香の石棺などに用いられた石の切り出し場跡などがあります。家持の歌碑
もあります。この歌にある やまぶき(山振) の花はどうやら、山吹の花とは種類が
違うような気がします。水辺ではなくて岩山の中腹に歌碑がありました。
そうこうして、始めの登山口に戻った午後4時近い時刻でした。
これから竹之内街道を通って 当麻寺 に向かいます。
この寺については詳細な本を20年ほど前に買い込んでいて資料としては充分なの
ですが、ここに詳述する必要もないでしよう。
もう薄暗くなっていて、私のカメラでは光量が不充分で、接写できるもの以外は
撮影不能でした。
当麻寺では、当麻曼荼羅だけでなく、金堂の弥勒如来(国宝)、講堂の阿弥陀如来
(重文)その他の仏像を拝見しました。仏像を見たらいつものことですが、昔の仏師の
構成力、表現力には脱帽してしまいます。満足な工具もない時代によくぞこれだけの
ものを作ったと、いつも感動を覚えます。
すでに暮れなずんでいます。当麻寺を辞去した我々はK氏のご案内のままに、
大津皇子関連の史跡を見て回りました。大津の本当の墓とも言われる鳥谷口古墳
を見てから、暗くなった街道を大阪に戻って、はじめに待ち合わせた近鉄「喜志駅」に
到着した午後6時近くになっていました。
ここでK氏とY氏にお別れして、後の三人は、10時すぎまで行動をともに
しました。
でもこの後の事はおまけみたいなものですから割愛します。
時間というものは充実さえしていればすぐに立つものですね。
1日があっという間に過ぎ去ってしまったけれども、それだけ濃密な時間を過ごせた
ということの証明です。
改めて、K・Kさん、そして当日参加の皆様にお礼申し上げます。
(記 20031.6)
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