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こあ〜こお こか〜ここ こさ〜ころ


【木ゐ】

 木に止まっていること。樹上に待機させていること。

 「きい」ではなくて「こい」と読ませていますが、どちらでも
 良いものと思います。底本の「山家集類題」では「木ゐ」と
 なっています。

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01 あはせたる木ゐのはし鷹をきとらし犬かひ人の聲しきるなり
          (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮523番・
               西行上人集追而加書・夫木抄) 

 新潮版では以下のようになっています。

 あはせつる 木居のはし鷹 すばえかし 犬飼人の 声しきりなり
              (新潮日本古典集成山家集523番)

○あはせたる

 鷹を獲物の鳥に向かわせること。獲物に向かって狙いを定めさせ
 ること。

○はし鷹

 鷹狩に用いる小さめの鷹。

○をきとらし

 鷹に招餌(おきえ)を取らせること。餌を与えること。

○すばえかし

 不明。素早く獲物に飛び掛る動作をいうようです。

(01番歌の解釈)

 「鳥に向かっていつでも飛べるように木に止まっているはし鷹よ、
 うまく獲物に飛びかかってくれ、犬飼人の声もしきりに聞こえて
 くる。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「獲物を狙って放った鷂(はしたか)を木に据えて、鷹匠は鷹に
 招餌を与え、犬飼人は繰り返し犬をけしかける。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 はし鷹の歌はもう一首、下の歌があります。

  はし鷹のすずろかさでもふるさせてすゑたる人のありがたの世や
          (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1390番) 

【こいけ】

 大峰奥駆道にある31番靡(なびき)の「小池宿」のことです。
 奈良県下北山村の大日岳の近くにあった宿ですが、江戸時代末に
 大峰奥駆道が衰退したこともあって、現在では西行の泊ったこの
 宿の実際地は不明のようです。

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01  こいけ申す宿(すく)にて

  いかにして梢のひまをもとめえてこいけに今宵月のすむらむ
         (岩波文庫山家集122P羇旅歌・新潮1108番) 

○すむらむ

 池の縁語です。池が澄むということと、小池の宿に住むという
 ことをかけています。

(01番歌の解釈)

 「鬱蒼と茂った樹叢から、どうやってここ小池の宿の梢にわずか
 な隙間を探し出して、今夜こんなに美しく月が澄むのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「どのようにして鬱蒼と繁った梢の隙を求めることができて、
 小池の宿に今宵月が澄んだ光を宿すのであろうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【庚申】

 干支を組み合わせたもので全部で60番のうちの第57番目です。
 年、月、日にかかり、それぞれ60年、60ヶ月、60日ごとに庚申が
 巡ってきます。
 庚申の日の夜には眠ったらいけないという道教から来た考えが
 あって、人々は徹夜でその日の夜を過ごしていたようです。

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01   庚申の夜くじくばりて歌よみけるに、古今後撰拾遺、
    これを梅さくら山吹によせたる題をとりてよみける

   古今梅によす

  紅の色こきむめを折る人の袖にはふかき香やとまるらむ
          (岩波文庫山家集172P雑歌・新潮1167番)

○古今

 古今和歌集のことで、一番初めの勅撰和歌集。勅撰和歌集は
 新続古今和歌集までの21代があります。勅撰和歌集とは天皇や
 上皇、法皇の下命により編纂されたものです。
 古今和歌集は第60代醍醐天皇の勅命により、紀貫之・紀友則・
 壬生忠岑・凡河内躬恒が撰進して成立は914年頃か、とみられて
 います。
 120人ほどの歌人により1111首の歌および仮名序と真名序をそな
 えています。

 古今、後撰、拾遺の和歌集を指して、三代和歌集といいます。

○後撰

 古今和歌集に次いで二番目の勅撰和歌集である後撰和歌集のこと。
 第62代村上天皇の勅命により、951年から撰進作業が始まりました。
 しかし成立年次は決定することができず未詳のままです。
 撰者は清原元輔・大中臣能宣・紀時文・源順・坂上望城の五人
 です。この五人を指して「梨壺の五人」と言います。
 
 のちに藤原定家が後撰集の校訂作業をして、定家の手を経て伝え
 られた集が流布本となります。
 歌数は1426首。歌人数は約220名です。
 
○拾遺

 古今・後撰和歌集に次いで三番目の勅撰和歌集といわれますが、
 撰者は判明していません。1005年頃に成立、第65代花山院が中心
 になって撰進したもののようです。
 藤原定家が書写した定家本系統と異本系統に大別され、それぞれ
 の書写本があるようです。
 定家本では全歌数1351首。柿本人麻呂と紀貫之がともに100首以上
 撰入されていて、群を抜いて多く採られています。

○こきむめを

 この中に古今集の「こきむ」が読み込まれています。
 この時代は「うま→むま」「うめ→むめ」のように、「う」は
 「む」と発音も表記もされていたようです。

○よせたる題をとりて

 「物の名」と言います。歌の実際的な意味の流れとは別に、他の
 物の名称が読み込まれている歌を言います。
 古今集にも巻の十に「物の名」の部立てがあります。
 折句などと同様に言葉遊びであると言えます。

(01番歌の解釈)

 「紅の色の濃い梅を折る人の袖には、深い香が染み留ることで
 あろう。梅の色が濃いごとくに。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 桜と山吹の歌もありますが編集の都合で割愛します。  

皇太后太夫の局→「伊勢」31号参照

【高野】

 地名。和歌山県伊都郡にある高野山のこと。
 単独峰ではなくて、標高1000メートル程度の山々の総称です。
 平安時代初期に弘法大師空海が真言密教道場として開きました。
 京都・滋賀府県界の比叡山と並ぶ日本仏教の聖地です。
 真言宗の総本山として金剛峰寺があります。
 金剛峰寺には西行の努力によって建立された蓮華乗院がありまし
 たが、現在は「大会堂」となっています。

 西行は1148年か1149年(西行31歳か32歳)に、高野山に生活の場を
 移しました。1180年には高野山を出て伊勢に移住したと考えられ
 ますので、高野山には30年ほどいたことになります。

 この間、高野山に閉じこもっていたわけではなくて、京都には
 たびたび戻り、さまざまな場所への旅もしていますし、吉野にも
 庵を構えて住んでいたことにもなります。

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01   寂然紅葉のさかりに高野にまうでて、出でにける又の年の
    花の折に、申し遣しける

  紅葉みし高野の峯の花ざかりたのめし人の待たるるやなぞ
       (岩波文庫山家集29P春歌・新潮1074番・夫木抄) 

02   入道寂然大原に住み侍りけるに、高野より遣しける

  山ふかみさこそあらめときこえつつ音あはれなる谷川の水
     (岩波文庫山家集138P羇旅歌・新潮1198番・玄玉集) 

03   秋の末に寂然高野にまゐりて、暮の秋によせておもひを
    のべけるに

  なれきにし都もうとくなり果てて悲しさ添ふる秋の暮かな
          (岩波文庫山家集90P秋歌・新潮1045番・
           西行上人集・山家心中集・御裳濯集) 

04   寂蓮高野にまうでて、深き山の紅葉といふことをよみける

  さまざまに錦ありけるみ山かな花見し嶺を時雨そめつつ
          (岩波文庫山家集88P秋歌・新潮477番・
                西行上人集・山家心中集) 

05   高野に中院と申す所に、菖蒲ふきたる坊の侍りけるに、
    櫻のちりけるが珍しくおぼえてよみける

  櫻ちるやどにかさなるあやめをば花あやめとやいふべかるらむ
       (岩波文庫山家集48P夏歌・新潮202番・夫木抄) 

06   高野より出でたりけると、覚堅阿闍梨きかぬさま
    なりければ、菊をつかはすとて

  汲みてなど心かよはばとはざらむ出でたるものを菊の下水
          (岩波文庫山家集87P秋歌・新潮1079番) 

07   秋の頃高野へまゐるべきよしたのめて、まゐらざりける
    人のもとへ、雪ふりてのち申し遣しける

  雪深くうづめてけりな君くやと紅葉の錦しきし山路を
          (岩波文庫山家集101P冬歌・新潮531番) 

08   やがてそれが上は、大師の御師にあひまゐらせさせおはし
    ましたる嶺なり。わかはいしさと、その山をば申すなり。
    その辺の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをば
    すてて申さず。また筆の山ともなづけたり。遠くて見れば
    筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなる
    を申しならはしたるなめり。行道所より、かまへてかき
    つき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしまし
    たる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の
    石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける
    塔の跡と見ゆ。苔は深くうづみたれども、石おほきにして
    あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて

  筆の山にかきのぼりても見つるかな苔の下なる岩のけしきを
         (岩波文庫山家集114P羇旅歌・新潮1371番) 

09   高野山を住みうかれてのち、伊勢國二見浦の山寺に侍り
    けるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡を
    おもひて、よみ侍りける

  ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
          (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮欠番・
             御裳濯河歌合・千載集・西行物語) 

10   みやだてと申しけるはしたものの、年たかくなりて、さま
    かへなどして、ゆかりにつきて吉野に住み侍りけり。思ひ
    かけぬやうなれども、供養をのべむ料にとて、くだ物を
    高野の御山へつかはしたりけるに、花と申すくだ物侍り
    けるを見て、申しつかはしける

  をりびつに花のくだ物つみてけり吉野の人のみやだてにして
      (岩波文庫山家集133P羇旅歌・新潮1071番・夫木抄) 

○寂然

 大原(常盤)三寂の一人。藤原頼業のこと。西行とはもっとも
 親しい歌人。

○叉の年

 次の年のこと。翌年。

○たのめし人

 新潮版では「たのめし人」は「たのめぬ人」となっています。
 「たのめぬ人」は、約束をしていなかったという意味です。

○大原

 京都市左京区にある地名。比叡山の西の麓に位置していて、平安
 時代は隠棲の地として知られていました。
 寂光院、三千院、来迎院などがあります。

○さこそあらめ

 なるほど、そういうことなのだろう・・・という意味。

○なれきにし

 「慣れ来にし」で、慣れ親しんで来たということ。

○寂蓮

 04番歌の寂蓮は寂然の誤りだろうと思います。
 ただし岩波文庫山家集の底本の山家集類題本も寂蓮となって
 いますから岩波文庫の校訂ミスではありません。
 新潮日本古典集成山家集は寂然となっています。

 生年は未詳、没年は1202年。60数歳で没。父は藤原俊成の兄の
 醍醐寺の僧侶俊海。俊成の猶子となります。30歳頃に出家。
 数々の歌合に参加し、また百首歌も多く詠んでいます。御子左家
 の一員として立派な活動をした歌人といえるでしょう。
 新古今集の撰者でしたが完成するまでに没しています。家集に
 寂蓮法師集があります。

○高野に中院と申す

 支院の「竜光院」とのことですが、詳しくは分からないようです。
 空海が高野山での開創当時に中院に住み、活動の拠点としていた
 ようですが、西行時代の「中院」がどういう場であり、どのような
 役割をしていたのか分かりません。

○覚堅阿闍梨

 生没年及び俗名不詳。院の少納言の局の兄弟とのことですが、
 院の少納言の出自については諸説あり、覚堅についてもよく
 わかりません。院の二位の局の葬儀の時の少納言の局の歌が
 209ページにあります。それで少納言の局は藤原信西と院の二位
 との間の子であるとみなされますが、そうではなくて院の二位の
 局は少納言の局の義母に当たるようです。(和歌文学大系21)
 覚堅について、新潮版では藤原信西の子としていて仁和寺僧綱、
 1189年に大僧都としています。

○大師の御師

 仏教創始者のシャカ(仏陀)のことです。

○筆の山

 香川県善通寺市の我拝師山のこと。標高481メートル。
 麓に曼荼羅寺があります。

○かきつき登り

 「掻き付き登り」。しがみつくように、よろぼうように登ると
 いう様を言います。筆の山の(筆)と(かき)は縁語です。

○高野の大塔

 高野山金剛峰寺の中央にある宝塔のこと。
 平安時代でも高さ48.5メートル、本壇回り102.4メートルという
 巨大な規模の建物でした。現在の大塔は昭和12年の建築といわれ
 ます。

○伊勢國二見浦

 三重県度会郡二見町の海辺の集落のこと。夫婦岩で有名です。

○神路山

 伊勢神宮内宮の神苑から見える山を総称して神路山といいます。
 標高は150メートルから400メートル程度。

○大日の垂跡

 (垂迹と垂跡は同義で、ともに「すいじゃく」と読みます。)
 本地=本来のもの、本当のもの。垂迹=出現するということ。

 仏や菩薩のことを本地といい、仏や菩薩が衆生を救うために仮に
 日本神道の神の姿をして現れるということが本地垂迹説です。
 大日の垂迹とは、神宮の天照大御神が仏教(密教)の大日如来の
 垂迹であるという考え方です。

 本地垂迹説は仏教側に立った思想であり、最澄や空海もこの思想
 に立脚していたことが知られます。仏が主であり、神は仏に従属
 しているという思想です。
 源氏物語『明石』に「跡を垂れたまふ神・・・」という住吉神社に
 ついての記述があり、紫式部の時代では本地垂迹説が広く信じら
 れていたものでしょう。
 ところがこういう一方に偏った考え方に対して、当然に神が主で
 あり仏が従であるという考え方が発生します。伊勢神宮外宮の
 渡会氏のとなえた「渡会神道」の神主仏従の思想は、北畠親房の
 「神皇正統記」に結実して、多くの人に影響を与えました。

○みやだて

 召使いの女性の名前。吉野に住んでいて、高野山の西行に贈り物
 をしたということです。

○花と申すくだ物

 不明です。上記の「くだ物=餅菓子」の一種だろうと思います。
 あるいは花で有名な吉野からの贈り物だから、「花の吉野から
 の果物」という意味合いがあるのかもしれません。
 花弁状した餅菓子の名前。吉野の蔵王権現では正月に供えていた
 餅を二月に砕いて僧俗多数に配ったとのことです。

 鎌倉時代のことですが、東寺領の荘園の領民に課している様々な
 年貢のうちの一つに「菓子(果物)八十合(はこ)」とあります。
 ですから果物という菓子については、案外、知られていたものと
 思います。

○をりびつ

 ヒノキなどの薄板を折り曲げて作った箱のこと。菓子、肴などを
 盛る。形は四角や六角など、いろいろある。おりうず、ともいう。
                   (広辞苑から抜粋)
(01番歌の解釈)

 「去年あなたと紅葉を愛でた高野の御山は、今桜の盛りですが、
 再度の来訪が期待できないあなたの訪れがしきりに待たれる
 のはなぜでしょうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 京都の大原に住んでいた寂然に宛てた贈答歌10首のうちの一番
 初めの歌です。初句は全て「山ふかみ」です。

 「高野山は山が深いので、そういうこともあろうとは常々
 聞いてはいたが、それにしても谷川の水の音を聞くと寂しくて
 たまらなくなる。
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「昔馴染んだ都のこともすっかり忘れてしまった。秋も
 深まってくるとますます悲しくなってくる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「深山である高野山の紅葉が、多彩な錦に見える。春には桜の
 花を見た峰々を、今は時雨が美しく染め上げていく。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「自分が高野から出て来たことを聞き、菊の下水を汲むごとく心
 が通いあっているのなら、どうして訪ねて下さらないのですか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

 「筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たこと
 だよ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎の様子を。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

 「自分の桜の花を愛する心を知って花という名の菓子を送って
 下さったあなたを思いながら、供養の料としての花の菓子を
 仏様の前に積みお供えしましたよ。吉野の人であるみやたてに
 ふさわしいお供えものとして。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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11   常よりも道たどらるるほどに、雪ふかかりける頃、高野へ
    まゐると聞きて、中宮大夫のもとより、いつか都へは出づ
    べき、かかる雪にはいかにと申したりければ、返りごとに

  雪分けて深き山路にこもりなば年かへりてや君にあふべき
          (岩波文庫山家集134P羇旅歌・新潮1057番)
 
12   ことの外に荒れ寒かりける頃、宮法印高野にこもらせ給ひて、
    此ほどの寒さはいかがするとて、小袖はせたりける又の朝
    申しける

  今宵こそあはれみあつき心地して嵐の音をよそに聞きつれ
          (岩波文庫山家集134P羇旅歌・新潮916番・
                 西行上人集・山家心中集) 
 
13   宮の法印高野にこもらせ給ひて、おぼろけにては出でじと
    思ふに、修行せまほしきよし、語らせ給ひけり。千日果てて
    御嶽にまゐらせ給ひて、いひつかはしける

  あくがれし心を道のしるべにて雲にともなふ身とぞ成りぬる
          (岩波文庫山家集135P羇旅歌・新潮1084番)

14   小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ
    院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分け
    おはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へまゐられ
    けるに、御山よりいであひたりけるを、しるべせよとあり
    ければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、かかるついでは
    今はあるまじきことなり、吹上みんといふこと、具せられ
    たりける人々申し出でて、吹上へおはしけり。道より大雨風
    吹きて、興なくなりにけり。さりとてはとて、吹上に行き
    つきたりけれども、見所なきやうにて、社にこしかきすゑて、
    思ふにも似ざりけり。能因が苗代水にせきくだせとよみて
    いひ伝へられたるものをと思ひて、社にかきつけける

  あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
          (岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)

15   深夜水聲といふことを、高野にて人々よみけるに

  まぎれつる窓の嵐の聲とめてふくると告ぐる水の音かな
      (岩波文庫山家集137P羇旅歌・新潮1049番・夫木抄)

16   高野の奧の院の橋の上にて、月あかかりければ、もろ
    ともに眺めあかして、その頃西住上人京へ出でにけり。
    その夜の月忘れがたくて、又おなじ橋の月の頃、西住
    上人のもとへいひ遣しける

  こととなく君こひ渡る橋の上にあらそふものは月の影のみ
      (岩波文庫山家集137P羇旅歌・新潮1157番・夫木抄)

17   高野に籠りたりける頃、草の庵に花の散りつみければ

  ちる花のいほりの上を吹くならば風入るまじくめぐりかこはむ
      (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮138番・夫木抄)

18   高野より、京なる人のもとへいひつかはしける

  住むことは所がらぞといひながらかうやは物のあはれなるべき
          (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮913番)
 
19   思はずなること思ひ立つよしきこえける人のもとへ、
    高野より云ひつかはしける

  しをりせで猶山深く分け入らむうきこと聞かぬ所ありやと
          (岩波文庫山家集140P羇旅歌・新潮1121番・
       西行上人集・御裳濯河歌合・新古今集・西行物語)

20   高野にこもりたる人を、京より、何ごとか、又いつか出づ
    べきと申したるよし聞きて、その人にかはりて

  山水のいつ出づべしと思はねば心細くてすむと知らずや
          (岩波文庫山家集140P羇旅歌・新潮1150番)

○中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)

 平時忠のこと。1130年生、1189年没と言われますが、生年につい
 ては確証がないようです。
 平家滅亡の時に生け捕りにされて、その後、命は助けられて能登
 に配流され、その地で没しました。

 時忠の姉である時子は平清盛の妻になり、高倉天皇の室となる建礼
 門院平徳子を産んでいます。
 時忠の妹の建春門院平滋子は後白河院との間に高倉天皇を産んで
 います。時忠にとっては高倉天皇は甥、建礼門院は姪に当たります。
 そういう閨閥も関係して時忠は中宮太夫となったものでしょう。
 その時代は1178年から5年間です。
 「平氏でなければ人ではない」という平氏の驕りを表す言葉は時忠
 が言った言葉のようですが、激動の時代を生き抜いて昇進するには
 多少の姦計も用いて生き抜いたものでしよう。
 保身のためとしか思えないのですが、義経にも娘を嫁がせています。
 
○宮法印

 「法印」とは僧侶の最高の位階を表し、法印大和尚を略して法印
 と言います。僧位では法橋、法眼、法印があり、僧官では律師、
 僧都、僧正があります。

 宮の法印とは元性法印のこと。崇徳天皇第二皇子のため、この
 ように呼びます。
 1151年から1184年の存命。母は源師経の娘。
 初めは仁和寺で修行、1169年以降に高野山に入ったそうです。
 岩波文庫山家集ではこの返歌の前にも宮の法印に贈った歌があり
 ます。
 崇徳天皇は鳥羽帝と待賢門院の所生で西行とも親しく、西行に
 すれば宮の法印は孫のような感覚だったのではなかろうかと思い
 ます。 

○小袖はせたり

 「小袖はせたり」では意味が通じないと思います。新潮版では
 「小袖給はせたり」となっています。
 小袖(肌着に類する衣料)を宮の法印からいただいたということ
 です。

○おぼろけにては出でじ

 修行の成果が自分ではっきりと確認できる、自分で納得できる
 までは大峯から下山しないということ。

○千日果てて御嶽にまゐらせ

 金峯山参詣の時に行う精進潔斎を(御嶽精進)というそうです。
 当時は普通で50日から100日間の精進期間だったようです。
 宮の法印の場合は千日、約3年間の精進潔斎を果たしたという
 ことになります。千日回峰行の荒行を真似たものかとも思います。
 
 御獄は吉野山連山の大峯(山上が岳)のことを言います。大峯山
 寺があります。

○帥の局

 待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。藤原
 季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、次に
 建春門院平滋子の女房となっています。

○御山

 高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
 の場を移していたということになります。

○粉川

 地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
 の門前町として発達しました。
 粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。

○吹上

 紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
 「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
 ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
 ようです。
 天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
 思いますので、どこかで一泊した旅に西行は随行したものだろう
 と思われます。
 吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。

○能因

 中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
 橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
 (伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
 入道とも自称していたようです。「数奇」を目指して諸国を行脚
 する漂白の歌人として、西行にも多くの影響を与えました。
 家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

 「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
 
○待賢門院の中納言の局

 待賢門院の落飾(1142年)とともに出家、待賢門院卒(1145年)
 の翌年に門院の服喪を終えた中納言の局は小倉に隠棲したとみな
 されています。
 西行が初度の陸奥行脚を終えて高野山に住み始めた31歳か32歳頃
 には、中納言の局も天野に移住していたということになります。
 待賢門院卒後5年ほどの年数が経っているのに、西行は待賢門院の
 女房達とは変わらぬ親交があったという証明にもなるでしよう。

 中納言の局は215Pの観音寺入道生光(世尊寺藤原定信、1088年生)
 の兄弟説があります。それが事実だとしたら西行よりも20歳から
 30歳ほどは年配だったのではないかと思います。金葉集歌人です。

○天野と申す山

 和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
 高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
 の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
 隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
                  (和歌文学大系21を参考)

 「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
 ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
 河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
 「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。

○あまくだる名

 天界から降臨した神ということ。

天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神
(能因法師 金葉集雑下)

 能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという
 故事を踏まえての歌です。

○高野の奧の院の橋の上

 高野山の奥の院は弘法大師空海が没した場所として知られて
 います。橋は玉川にかかる橋ですが、どの橋かまではわかりません。

○西住上人

 俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い
 頃からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いていま
 す。西住臨終の時の歌が206ページ哀傷歌にあります。

○こととなく

 なんということはなしに。格別の事情があるわけでなく自然に。
 
○京なる人

 誰を指しているか不明です。西行の妻女説があるようです。

○しをりせで

 枝を折ること。目印にします。
 帰るための道のしるべとして、枝を折って目印としますが、ここ
 では、その行為をしないで、自分が帰れなくなっても良いという
 覚悟で山に入る決意だということを言っています。

(12番歌の解釈)

 「小袖をいただいた今夜は格別に宮の慈悲深いお心が身に染み
 ます。嵐の音が聞こえましたが、とても暖かでした。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(13番歌の解釈)

 「金峯山への憧れを道しるべにして、大峯山中を雲とともに
 さまよい歩く修行の日々を送っています。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(14番歌の解釈)

「天くだつてここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
 申しあげるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(15番歌の解釈)

 「窓に吹きつける嵐の音にまぎれつつ聞こえていた水の音が、
 嵐が止むと共に、夜の更けたのを告げるかのように静寂の
 中から聞こえてくることだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(16番歌の解釈)

 「聖地奥の院の橋の上にいても、何ということもなくあなたに
 逢いたいという気持ちが続いている。聖地を照らす月があまりに
 美しくて、思い出すのはあなたと見たあの時の月だけである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(18番歌の解釈)

 「心の澄むことは場所ゆえとはいうものの、住んでいるここ
 高野の山は都と異なりあわれの感じられるところだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(19番歌の解釈)

 「あなたからの意外な知らせを聞きました。戻る道を断ちながら
 更に山深くに入ります。もうこんなつらい知らせを聞かなくて
 いい場所があるかも知れないので。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

21   阿闍梨兼堅、世をのがれて高野に住み侍りけり。あから
    さまに仁和寺に出でて帰りもまゐらぬことにて、僧綱に
    なりぬと聞きて、いひつかはしける

  けさの色やわか紫に染めてける苔の袂を思ひかへして
           (岩波文庫山家集178P雑歌・新潮919番・
                 西行上人集・山家心中集)

22   美福門院の御骨、高野の菩提心院へわたされけるを
    見たてまつりて

  今日や君おほふ五つの雲はれて心の月をみがき出づらむ
    (岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮欠番・西行上人集)

23   一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせ
    ける夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかり
    けり。此後おはしますべき所御覧じはじめけるそのかみの
    御ともに、右大臣さねよし、大納言と申しけるさぶらはれ
    ける、しのばせおはしますことにて、又人さぶらはざりけり。
    其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ出でられて、
    折しもこよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけられて
    よみける

  今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契のある身なりけり
          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮782番・
                   新拾遺集・西行物語) 

24   右大将きんよし、父の服のうちに、母なくなりぬと聞きて、
    高野よりとぶらひ申しける

  かさねきる藤の衣をたよりにて心の色を染めよとぞ思ふ
          (岩波文庫山家集203P哀傷歌・新潮785番・
          西行上人集・山家心中集・玉葉集・月詣集) 

25   忠盛の八條の泉にて、高野の人々佛かきたてまつること
    の侍りけるにまかりて、月あかかりけるに池に蛙の鳴き
    けるをききて
 
  さ夜ふけて月にかはづの聲きけばみぎはもすずし池のうきくさ
               (岩波文庫山家集270P残集31番)

26   高野へまゐりけるに、葛城の山に虹の立ちけるを見て
 
  さらにまたそり橋わたす心地してをぶさかかれるかつらぎの嶺
           (岩波文庫山家集270P残集32番・夫木抄)

27   とかくのわざ果てて、跡のことどもひろひて、高野へ
    参りて帰りたりけるに
                     
  いるさにはひろふかたみも残りけり帰る山路の友は涙か
    (寂然法師歌)(岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮807番・
              西行上人集・山家心中集・寂然集) 

28 あはれさはかうやと君も思ひ知れ秋暮れがたの大原の里
    (寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1208番)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○阿闍梨兼堅
 
 生没年、俗名不詳。「源賢」とも「兼賢」とも表記されていま
 すが、仁和寺の文章では「兼賢」です。
 藤原道隆の孫で顕兼の子供といわれます。
 1164年、崇徳院が讃岐で没した年に法橋に任ぜられたようです。
 87ページの「覚堅阿闍梨」とは別人です。
 兼堅がいつごろ阿闍梨の官職名を許されたのかわかりません。

 「阿闍梨は宣旨をもって補せられたのであるが、師僧たちより
 解文(げふみ)といって推選する申文を上(たてまつ)った
 のが多い。」(松田英松氏著、官職要解)
 ということですから、師の僧の推挙によって阿闍梨という官職が
 許されたものでしょう。
 阿闍梨は他に伝法阿闍梨と、一身阿闍梨があります。後白河院も
 一身阿闍梨となっています。

○仁和寺

 双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊を
 本尊とする真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも
 呼ばれます。
 第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成
 しました。始めての門跡寺院として知られています。
 御室という地名は、仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所
 (室)を建てた事から御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室という
 地名になりました。904年のことです。以来、仁和寺は代々、皇族
 が住持してきました。鳥羽天皇と待賢門院の五男である覚性法親王
 は7歳の時に仁和寺に入り、1153年に第五世として住持しています。
 1156年に保元の乱が起こり、敗れた崇徳上皇は弟の覚性法親王の
 いる仁和寺に入りました。その時に西行は仁和寺に駈けつけています。
 この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院が
 あったと伝えられています。法金剛院や遍照寺も仁和寺の子院でした。
 1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の乱
 では山名氏によって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。本格的な
 復興は、徳川家光の援助により1646年に成されました。ニ王門
 (仁和寺の場合は「仁王門」と表記しません)や五重の塔はこの時
 のものです。
 1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺と
 なりました。
 仁和寺には有名な御室桜があります。お多福桜とも呼ばれています。

○僧綱

 (そうごう)と読み、高い地位にある僧侶の官位の総称です。
 624年9月当時のお寺数46、僧侶816人、尼569人とあり、官による
 掌握、管理のために、僧正、僧都を置くことが定められました。
 682年3月にも「僧正、僧都、律師を任じて僧尼を統率させる」と
 あります。
 新潮版山家集では、この歌の場合は「僧都」とあります。

○けさの色

 僧侶の着る衣の上に左肩から右脇下に懸ける布のことを袈裟と
 いいます。僧侶の位階によって色が変わります。紫の色は禁色
 であり、禁じられた色の着用を天皇が認可したことを表します。  

○わか紫

 浅い紫色、薄い紫色のことですが、位階としてはわかりません。
 紫色は植物の紫草の根を用いて染めるのですが、根から染料を
 得がたく、かつ染めるのも大変難しくて、それゆえに高価でも
 あり、すべての色の中で最高の色とされていました。
 
○苔の袂

 官位のない、普通の僧の衣のこと。墨染めの衣の袂のこと。
 この歌では俗世間的な出世を望んでいないということ、むしろ
 拒んでいることの象徴として用いられています。

○美福門院

 1117年から1160年在世。11月23日没。44歳。藤原長実の娘、
 得子のこと。
 鳥羽天皇の女御。八条院ワ子内親王や近衛天皇の母。二条天皇の
 准母。1141年12月皇后、1149年8月院号宣下。
 美福門院の遺言により、1160年12月4日(2日とも)に遺骨は高野
 山の菩提心院(蓮台院とも。窪田章一郎氏「西行の研究」)に
 納められました。この遺骨の移送に、藤原成道や藤原隆信も供奉
 したとのことです。西行は高野山で、美福門院の遺骨を迎えたこと
 になります。この日、高野山は大雪に見舞われていたそうです。
 鳥羽の安楽寿院の近衛天皇陵は、もともとは美福門院陵として
 造営がなされました。1155年に崩御した近衛天皇は船岡山の東に
 あった知足院に葬られていましたが、1163年に現在地に改葬され
 ました。

○菩提心院

 高野山にあった寺院ですが現在はありません。

○五つの雲

 (五つの障)(五つの某)と同義。五障のこと。

「五障」

 1 女性が持たされている五つの障礙(しょうげ)のこと。
  帝釈天、梵天王、魔王、転輪聖王、仏身となりえぬこと。

 2 修道上の五つの障りのこと。
  煩悩、業、生、法、所知の五つの障礙。

 3 五善根の障礙となるもの。
  欺、恨、怨、怠、瞋(いからす・いかる)の五つの障礙。
                 (広辞苑第二版を参考)

 今の時代であれば明らかな女性蔑視と言われそうです。仏教の包摂
 する頑迷固陋さを思わせますが、当時はこういうことが疑いも無い
 真実として受け入れられていたものでしょう。

○心の月
 
 仏教の信仰上のことで、比喩的に心の中にあるとする架空の月を
 言います。仏教でいう悟りの境地を指すための比喩表現です。

○一院

 第74代天皇の鳥羽帝のことです。鳥羽帝の父は第73代の堀川天皇。
 中宮、藤原璋子(待賢門院)との間に崇徳天皇、後白河天皇、上西
 門院などがあり、藤原得子との間には近衛天皇があります。
 1156年7月崩御。同月に保元の乱が勃発して、敗れた崇徳上皇は
 讃岐に配流となりました。

 山家集の中の、一院は鳥羽帝、新院は崇徳帝、院は後白河帝を
 指します。たとえば「院の小侍従」といえば、後白河院に仕えて
 いた女房の「小侍従」のことです。

○かくれさせ
 
 死亡したということ。鳥羽上皇崩御は保元元年(1156年)7月2日。
 鳥羽上皇54歳。この年、西行は39歳です。

○御所

 この場合の御所は鳥羽天皇の墓所を言い、安楽寿院のことです。
 「此後おはしますべき所」という記述によって、安楽寿院三重の
 塔のこととみなされます。三重の塔は藤原家成の造進により、
 落慶供養は1139年でした。

○高野より出で

 この頃は西行の生活の拠点は高野山にありました。しかし高野山
 に閉じこもりきりの生活ではなくて、しばしば京都にも戻って
 いたことが山家集からもわかります。1156年のこの時にも、京都
 に滞在しており、たまたま鳥羽院葬送の場に遭遇し、僧侶として
 読経しています。

 たまたま高野山から京都に出てきていた西行が、鳥羽上皇の葬送
 の儀式に巡りあったものでしょう。鳥羽院の北面の武士であった
 西行にとって、特別の感慨があったものと思います。安楽寿院は
 1137年に落慶供養が営まれていますが、まだ完成前に徳大寺実能と
 西行は鳥羽上皇のお供をして、お忍びで見に行っています。17年
 から19年ほど前の、そういう出来事も思い出して、ひとしお感慨
 深いものを感じたのでしょう。出家してからさえも、鳥羽院に
 対する西行の気持ちが変わらなかったことが分かります。

○右大臣さねよし

 正しくは左大臣です。左大臣は右大臣の上席であり、太政大臣が
 いない場合は最高位の官職です。「さねよし」は藤原実能のこと。
 西行は藤原実能の随身でもありました。藤原実能1157年9月没。 

○其をりの御とも

 安楽寿院の造営はいつごろからされたのか不明ですが、1137年には
 創建されています。ついで三重の塔の落慶供養は1139年。1145年
 及び1147年にも新しく御所や堂塔が建てられていて、付属する子院
 も含めるとたくさんの建物がありました。
 「其をりの御とも」とは三重の塔の落慶供養のあった1139年2月22日
 以前のことだろうと解釈できます。
 完成前の三重の塔を鳥羽院がお忍びで見物に出かけることになった
 ので、藤原(徳大寺)実能と、実能の随身で鳥羽院の下北面の武士
 でもあった西行がお供をしたということです。この時の西行は22歳。
 翌年の10月15日に出家しています。
 尚、現在の安楽寿院は、当時の安楽寿院の子院の一つの(前松院)
 が1600年前後の慶長年間に「安楽寿院」として再興されたものです。

○さぶらはれける・さぶらひける

 「候ふ・侍ふ」という文字を用いて、(目上の人、地位の高い人
 の側に控える、近侍する、参上する、伺う)ということを表す
 言葉です。
 (さぶらはれける)は藤原実能が鳥羽院に随行していることを西行
 の立場で言い、(さぶらひける)は西行自身が随行していることを
 自身の立場で言った言葉です。自他を区別するために言葉を変えて
 使われています。
 この言葉は鎌倉時代になってから(いる・ある)という意味をこめて
 使われるようになりました。(さぶらふ)から(そうろう)に発音も
 変化します。手紙文の言葉としても盛んに用いられましたが、現代
 では(候=そうろう)と使うことはほぼ無いでしょう。

○大納言と申しける

 藤原実能が大納言であった期間は保延二年(1136)から久安六年
 (1150)の期間でした。

○君に契の

 鳥羽天皇に対しての西行から見た運命的な関係を言います。

○右大将きんよし

 藤原公能。実能の嫡男。1115年生、1161年没。
 実能死亡時には右大将のようでしたが、この24番歌が詠まれた時
 には権大納言でした。

○忠盛の八條の泉

 平忠盛は八条に邸宅を構えていました。現在の梅小路貨物駅あた
 りも含んでいたそうですから広大な敷地です。現在は西大路八条
 東北角に「若一神社」があり、そこに清盛の石像があります。
 忠盛はその父の正盛と共に平氏隆盛の基礎を作りました。1153年
 忠盛没後、八条の邸宅は清盛が伝領しました。当時の歴史の中枢
 に深く関わった邸宅です。
 西行が高野山に移ったとみられる1149年に高野山の堂塔は落雷で
 被災しました。その復興の役を忠盛が命じられていましたので、
 その関係で「高野の人々」が忠盛邸に出入りしていたようです。
 この屋敷は平家の都落ちのときに、平氏自らの手で焼かれました。

○葛城の山

 地名を表す場合は「かつらぎ」と読んでいいのですが、植物の
 歌の場合は正しくは「かづらき」です。地名の場合も古くは
 「かづらき」とのことです。
 
 「葛城」は地名で固有名詞です。奈良盆地の西南部一帯を指し、
 古代豪族の葛城氏のゆかりの地です。
 「葛城の山」は標高959メートル。金剛山の北側に位置します。
 「葛城の神」は葛城山の奈良県側にある一言主神社の一言主神を
 指しています。役行者小角が金剛山から吉野に石橋を架ける
 ために一言主の神も使役したのですが、あまりの仕事の遅さに
 腹を立てて、一言主の神を捕縛して谷底に捨ててしまった、
 という伝説もあります。
 また、古事記の雄略天皇の条では天皇は一言主の神にひれ伏した
 ということが書かれています。

○虹の立ちけるを見て

 当時は(にうじ)と読みます。
 自然現象が科学的に解明されていない当時にあって、虹は不吉な
 ものの代名詞のようでした。
 
○そり橋

 反った橋のこと。湾曲した橋のこと。

○をぶさかかれる

 (をぶさ)は緒房のこと。織物の末端の糸をかがったり束ねたり
 して装飾を意図して施したもの。それが(架かる)ということ。
 いろんな色で装飾された房の「虹」が架かっているように見える
 ことを言います。

○とかくのわざ

 没後の一連の儀式を指しています。

○跡のことども

 火葬後の遺骨を拾うということ。底本の山家集類題では(ことども)
 を(こつカ)と傍記しています。

○いるさ

 入る時。入り際。ここでは高野山への入山の時を言います。
                    
○ひろふかたみ

 (ひろふ)とありますから、(かたみ)とは遺骨のことです。

(21番歌の解釈)

 「僧綱になって袈裟の色を早々と若紫に染め変えたのですね。
 高野山で修行していた頃の反俗の志も翻してしまったのですか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(22番歌の解釈)

 「女人の五障の雲が晴れて、菩提を得られるだろうというのが
 歌意であるが、型にはまったもので、儀礼の域を出ない。」
          (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)

 「今日女院は五障の雲も晴れて、お心のうちに宿していられた月
 (仏性)を輝き出させるのであろうか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(23番歌の解釈)

 「たまたまご葬送にめぐりあえた今宵こそ、本当に思い知られた
 ことである。亡き一院には前世からの浅からぬご縁のあるわが身
 であった。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「御葬送の今夜こそは実感されました。生前にも安楽寿院の検分
 に供奉いたしましたが、実際にそこにお入りになるその日に上京
 いたしましたのは、前世からの深い因縁を院との間にいただいて
 いたのです。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(24番歌の解釈)

 「御両親を相次いで失われた御不幸をお見舞申し上げます。喪服
 を重ねてお召しなのを機縁にそのまま僧衣をお召しになりません
 か。仏縁に従って出家なさるのがよろしいかと存じます。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(27番歌の解釈)

 「高野の山へ西住上人の納骨に入られた折は、拾われた骨が形見
 として残っていました。でも、帰途の山路では、友の上人は
 もはやなく、友となさったのは涙だけでしたか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 この歌は西住上人の葬儀納骨の時の歌です。西行の返歌は下です。

 いかでとも思ひわかでぞ過ぎにける夢に山路を行く心地して
          (岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮808番・
                 西行上人集・山家心中集) 

【こうよ法眼】

 公誉法眼。1125年生、没年不詳。
 藤原公実の子で藤原実能や待賢門院璋子の兄に当たる藤原通季の
 子とありますが確認が取れません。通季が1128年に39歳で没して
 いますから、わずか3歳で父の通季と死別していることになります。
 公誉法眼が1125年生だとしたら、西行のほうが年上です。

 「法眼=ほうげん」とは、僧位の一つです。
 法印大和尚、法眼和尚、法橋上人の僧位がありますが、略して
 「法眼」と言われます。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

     奈良の法雲院のこうよ法眼の許にて、立春をよみける
 
01 三笠山春をおとにて知らせけりこほりをたたくうぐひすの瀧
   (岩波文庫山家集262P残集01番、15P春歌・新潮欠番・夫木抄) 

○法雲院

 平安時代にあった興福寺の僧坊の一つです。現在の奈良国立博物館
 の西側に位置していたようです。1469年からの文明年間に記された
 書物にも法雲院の名があるとのことです。

○三笠山

 奈良県奈良市の東方にある山。高円山と若草山の間にある春日山
 を指します。古名は「御蓋山」です。春日大社の後方にあります。
 ただし、若草山も通称として「三笠山」と言います。
 安倍仲麿の歌にある「三笠山」は本来の「御蓋山」のことで、
 「若草山」のことではないようです。

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
         (安倍仲麿 百人一首第7番・古今集406番)

 三笠山の歌は西行に4首あります。

○うぐひすの瀧

 奈良県奈良市の春日山「御蓋山」山中にある小さな滝の名称です。

(01番歌の解釈)

 「三笠山では春の訪れを音で知らせたよ。それは今まで張りつめ
 ていた氷を叩く、(鶯の声を思わせる)鶯の滝の水の音。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【高欄】

 「勾欄」とも書きます。
 「殿舎のまわりや廊下・橋などの両側につけられた欄干。」
              (大修館書店「古語林」から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01    雨の降りければ、ひがさみのを着てまで来たりけるを、
     高欄にかけたりけるを見て       西住
 
  ひがさきるみのありさまぞ哀れなる  

     むごに人つけざりければ興なく覚えて
 
  雨しづくともなきぬばかりに
 (前句、西住法師、付句、西行) (岩波文庫山家集265P残集16番)

○ひがさ

 「ひがさ」はヒノキの薄い板を編んで作った笠。晴雨どちらにも
 使います。

○みの

 「みの」は萱や菅などの葉や茎を利用して編んだ雨具です。
 肩からはおって着ます。
 
○むごに

 (無期に)と書いて(むごに)と読ませています。
 いつまでたっても誰も付句を詠まないことを言います。

(01番歌の解釈)

 (前句、西住)
 「檜笠をかぶる身の有様はあわれだなあ。」

 (付句、西行)
 「涙を雨の雫のようにぼたぼた落として泣いてしまうほど。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
   
【ごえふ】

 五葉の松のことです。
 針のような葉っぱが五本ついている松のこと。普通は二本の葉っぱ
 ですが、五本が一緒についている松を特に「五葉の松」といいます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

   五葉の下に二葉なる小松どもの侍りけるを、子日にあたり
   ける日、折櫃にひきそへて遣わすとて

01 君が為ごえふの子日しつるかなたびたび千代をふべきしるしに
          (岩波文庫山家集17P春歌・新潮1184番)

   ただの松ひきそへて、この松の思ふこと申すべくなむとて

02 子日する野邊の我こそぬしなるをごえふなしとて引く人のなき
          (岩波文庫山家集17P春歌・新潮1185番) 

○子日

 正月の最初の子の日にする祝い(遊び)の行事のこと。屋外に
 出て小松を引き、若菜を摘んだりしていました。
 中国に倣って聖武天皇が内裏で祝宴をしたのが初めといいます。
 平安時代でも北野あたりで小松を引いていたようです。
 子の日に小松をひくことは、長寿の意味合いがあります。

○折櫃

 ヒノキなどの薄板を折り曲げて作った箱のこと。菓子、肴などを
 盛る。形は四角や六角など、いろいろある。おりうず、ともいう。
                   (広辞苑から抜粋)

○ふべき

 「経べき=へべき」の漢字をあてています。
 「経る=へる」を「ふる」とも読んでいました。

○ただの松をひきそへて

 この五葉の松の葉っぱの下に、二葉の松も一緒に添えたという
 ことです。「二葉の松」は、幼いこと、若いこと、未来に富んで
 いることなどを表します。

○ぬしなるを

 普通の松の立場にたって詠んだ歌です。
 普通の松こそが主役であると言っています。

(01番歌の解釈)

 「あなたのために五葉の松の二葉を引いて子日をしました。
 幾千代の時を過ごされるその前兆として。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「子日の遊びをする野辺に生えている自分こそ今日の主役なのに、
 五葉の松の方がめでたいから、御用なしとばかり自分を引いて
 くれる人はいないよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【氷・こほり・こほる】

 ふつうは気温が氷点下になり、水分が凝固して固体になること。
 また、液体から固体になったものを氷といいます。

 今回の「氷・こほり・こほる」も歌数が多いため、今号と次号に
 分割します。

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01 春しれと谷の下みづもりぞくる岩間の氷ひま絶えにけり
           (岩波文庫山家集16P春歌・新潮10番・
                西行上人集・山家心中集)

02 小ぜりつむ澤の氷のひまたえて春めきそむる櫻井のさと
           (岩波文庫山家集16P春歌・新潮984番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

03 山おろしの木のもとうづむ花の雪は岩井にうくも氷とぞみる
           (岩波文庫山家集36P春歌・新潮112番)

04 難波がた月の光にうらさえて波のおもてに氷をぞしく
       (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮326番・夫木抄) 

05 月さゆる明石のせとに風吹けば氷の上にたたむしら波
           (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮376番・
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

06 いけ水に底きよくすむ月かげは波に氷を敷きわたすかな
           (岩波文庫山家集84P秋歌・新潮1474番)

07 岩間せく木葉わけこし山水をつゆ洩らさぬは氷なりけり
        (岩波文庫山家集93P冬歌・新潮554番・月詣集)

08 水上に水や氷をむすぶらんくるとも見えぬ瀧の白糸
      (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮555番・西行上人集)

09 川わたにおのおのつくるふし柴をひとつにくさるあさ氷かな
   (岩波文庫山家集94P冬歌、243P聞書集127番・新潮欠番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

10 氷しく沼の蘆原かぜ冴えて月も光ぞさびしかりける
            (岩波文庫山家集95P冬歌・新潮520番)

11 冴ゆと見えて冬深くなる月影は水なき庭に氷をぞ敷く
            (岩波文庫山家集96P冬歌・新潮522番)

12 よもすがら嵐の山は風さえて大井のよどに氷をぞしく
           (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮561番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

13 風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎
           (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮564番・
       西行上人集・山家心中集・宮川歌合・新勅撰集)

14 しきわたす月の氷をうたがひてひゞのてまはる味のむら鳥
          (岩波文庫山家集110P羇旅歌・新潮1404番)

15 くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける
         (岩波文庫山家集111P羇旅歌・新潮1356番・
                 西行上人集・山家心中集)

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○もりぞくる

 水が漏れて流れくること。

○ひま絶えにけり

 ぎっしりと隙間もなく氷が張り詰めていた状態から、春風によって
 氷が溶け始めたために隙間ができたということ。

○桜井の里

 奈良県桜井市、京都市左京区、愛知県小牧市などにも「桜井」は
 あり、特定はできません。
 摂津の国の歌枕である、大阪府三島郡島本町の「桜井の里」が
 有力です。

○岩井

 岩間から自然に湧き出る泉のこと。岩で囲まれた泉のこと。
 わざわざ深く掘っている井戸とは違って、自然に湧き出てくる
 泉という意味合いで使われている言葉です。

○うらさえて

 「うら」は「うらびれる」などと用いられる接頭語でもあります。
 かつ、難波の「浦」とも掛け合わせています。
 「さえる」も、月の光に冴えるということ、明瞭であるという
 ことと「冷たく凍りきった世界」ということを掛け合わせている
 言葉です。

○明石のせと

 兵庫県にある港湾都市。東経135度の日本標準時子午線が通って
 います。
 播磨の国の著名な歌枕です。明石に続き潟・浦・沖・瀬戸・浜
 などの言葉を付けた形で詠まれます。
 明石は万葉集から詠まれている地名ですが、月の名所として、
 「明石」を「明かし」とかけて詠まれている歌もあります。

○たたむしら波

 風が白波を折りたたんで、波が折り重なっているように見えること。

○岩間せく

 岩と岩の間の水の流れ路を堰きとめるということ。

○くるとも見えぬ

 水が流れてくるともおもえないなーということ。糸の縁語である
 「繰る」を掛けた言葉です。

○瀧の白糸

 瀧から落ちてくる細い水の筋を糸にたとえて表現したものです。

○川わた

 川が湾曲している場所を言います。そういう所はたいていは少し
 淀んでいます。

○ふし柴

 植物の柴の異称です。柴も「ふし」と読んでいました。
 09番歌は「柴漬け=ふしづけ」のことを詠んだものです。
 柴漬けとは、冬に、束ねた柴の木を水中に漬けておき、そこに
 集まってきた魚を春になって獲る仕掛けのことです。
 以下の歌にある「ふしつけ」と同義です。

 泉川水のみわたのふしつけに柴間のこほる冬は来にけり
               (藤原仲実 千載集389番)

○ひとつにくさる

 (くさる)は(鎖る)のことで、つながることを言います。

○嵐の山

 京都市を代表する景勝地(嵐山)のこと。
 保津川、大堰川、桂川、淀川と名を変えて大阪湾に注ぎ込む川が、
 嵐山を流れています。渡月橋上流が大堰川、下流が桂川と呼ば
 れています。
 山としての(嵐山)は大堰川西側にあり標高382メートル。嵐山と
 対し合って東側には小倉山があります。
 こんにちでは渡月橋周辺一帯を嵐山と呼称しています。渡月橋は
 平安時代初期には今より少し上流に架けられていたそうであり、
 (法輪寺橋)と呼ばれていました。法輪寺橋は(渡月橋)と名を
 変えたのですが、渡月橋の橋名は亀山上皇の命名によります。
 橋の位置が現在地になったのは1606年に大堰川を開削した角倉了以
 が架橋してからのことです。
 渡月橋がコンクリート製の橋になったのは昭和九年のことです。
 それまでの渡月橋は、大堰川の氾濫のために何度も流失しています。

 嵐山はたくさんの歌に詠まれてきました。紅葉、月、ホトトギス
 などのほかに、大堰川、小倉山、戸無瀬の滝などの歌枕を詠み込ん
 だ歌も多くあります。

○大井のよど

 大堰川の淀みのこと。
 西行の時代には、川の水があまり動かない淀みには氷が張ったの
 かもしれないと思わせる歌です。

○志賀の唐崎

 琵琶湖西岸の地名。大津市唐崎のことです。
 唐崎神社のすぐ東側が琵琶湖になっています。

○しきわたす

 敷き渡す、ということ。月の光が海面をあまねく照らしている
 光景のことです。

○月の氷

 月光を氷のように見立てて、冴え冴えとした光景であることを
 強調しています。

○ひびのてまはる

 魚の捕獲などのために渚近くの浅い海に木材や竹を立て並べ
 ますが、その仕掛けのことを「ひび」といいます。
 「ひびのて」の「て」は仕掛けに用いる用材を指します。

○味のむら鳥

 マガモより小さい「ともえ鴨」のことだと言われています。
 「村鳥」の文字を使うこともありますが「群れ鳥」のことです。
      
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(01番歌の解釈)

 「春になったことを知れとばかり、谷川の細い流れが洩れてくる
 ことだ。岩の間にはっていた氷が春風によって解け始め、隙間も
 できたのだなあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「芽吹いたばかりの芹を摘む。その沢に張った氷も春風に溶け
 出して、桜井の里は逸早く春を感じさせる。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「山から強い風が吹き下して木の下を花が埋めると雪が積もった
 ように見えるが、岩間の清水に花が浮かべは氷が張ったように
 見える。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「難波潟では、冴えわたった月の光に照らされて、浦一面が
 輝き、海面は氷を敷いたようだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「月の光が冴えて海面が氷のように明るく輝く明石の瀬戸に風が
 吹くと、白波が氷の上に畳み重なったように立つことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「池に映って水底まで透き通らせる清澄な光を落としている
 月は、水面でも氷を敷き渡したような波を立てている。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(09番歌の解釈)

 「川の曲がった所に人が各々に漬ける伏し柴をひとつにつなげる
 朝氷だなー。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(11番歌の解釈)

 「冬が深まるにつれ、一段と冴えわたって見える月光は、水も
 ない庭を照らして、あたかも氷を敷きつめたような情景をくり
 ひろげているよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(12番歌の解釈)

 「嵐山では夜通し嵐が寒く吹き、大堰川の淀に氷を張り
 つめたことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(13番歌の解釈)

 「風が冷たくて、波が寄せてもそのまま凍りついて帰る波が
 ない。志賀の唐崎の冬は厳しい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(14番歌の解釈)

 「月光が海面に煌くと、遥か一面に氷を敷きつめたかと疑って、
 味鴨の群れは水面には降りずにひびの手のまわりを旋回する
 ばかりである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(15番歌の解釈)

 「大師ゆかりの神聖な山に登って海に出た月を見ると、海面は
 神々しい月光によって氷のように冷たく澄んでいて、所々に
 氷が途切れて見えるのは瀬戸内の島々であった。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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01 岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらむ
      (岩波文庫山家集15P春歌・新潮欠番・西行上人集・
   御裳濯河歌合・御裳濯集・新古今集・玄玉集・西行物語)

02 さえもさえこほるもことに寒からむ氷室の山の冬のけしきは
             (岩波文庫山家集250P聞書集194番)

03 あらたなる熊野詣のしるしをばこほりの垢離にうべきなりけり
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1530番)
         
04 さゆる夜はよその空にぞをしも鳴くこほりにけりなこやの池水
           (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮560番)
               
05 あさ日にやむすぶ氷の苦はとけむむつのわをきくあかつきのそら
             (岩波文庫山家集255P聞書集224番)
            
06 春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ
           (岩波文庫山家集148P恋歌・新潮607番)
            
07 みな鶴は澤の氷のかがみにて千歳の影をもてやなすらむ
          (岩波文庫山家集167P雑歌・新潮1433番)
   
     氷筏をとづといふことを

08 氷わる筏のさをのたゆるればもちやこさましほつの山越
           (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮556番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

     奈良の法雲院のこうよ法眼の許にて、立春をよみける

09 三笠山春をおとにて知らせけりこほりをたたくうぐひすの瀧
 (岩波文庫山家集262P残集01番、15P春歌・新潮欠番・夫木抄) 
    
     月池の氷に似たりといふことを

10 水なくて氷りぞしたるかつまたの池あらたむる秋の夜の月
           (岩波文庫山家集72P秋歌・新潮323番)
 
     世をのがれて鞍馬の奧に侍りけるに、かけひの氷りて
     水までこざりけるに、春になるまではかく侍るなりと
     申しけるを聞きてよめる

11 わりなしやこほるかけひの水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる
       (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮571番・西行物語)
         
    十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげ
    しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくて
    まかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはし
    たる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。
    汀氷りてとりわけさびしければ

12 とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
         (岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮1131番)

    伊勢に人のまうで来て、「かかる連歌こそ、兵衞殿の局
    せられたりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」と
    語りけるを聞きて

13 こころきるてなる氷のかげのみか(西行、付句)
 (前句、兵衛局・付句、西行)(岩波文庫山家集256P聞書集228番)

  いくさを照らすゆみはりの月(兵衛の局、前句)

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○苔の下水

 苔に隠れるようにして、ちょろちょろと流れ出る水のこと。
 氷が少しだけ解けだした早春の情景表現。

○氷室の山

 日本書紀仁徳62年条(374年)に都祁(つげ)氷室のことが記述されてい
 ます。文献上はこれが初出でしょう。都祁氷室は奈良県山辺郡都祁ですが、
 他に大阪府枚方市、交野市、四条畷市などにも氷室がありました。
 京都では松ヶ崎氷室、小野氷室、長坂氷室、栗栖野氷室などがありました。
 ほかに山科区勧修寺の氷室の池の氷を毎年正月2日に朝廷に献上する習わし
 があったということです。
 氷室山は全国に多数ありますが、この歌にある氷室の山は現在の北区西賀茂
 氷室町にある氷室の山と解釈していいでしょう。私は行ったことはないの
 ですが文献でも地図でも山間の地であることが分かります。平地は乏しく、
 古代は氷室に住んでいた人々は薪を売って生計を立てていたそうです。
 氷室町には「栗栖野氷室跡=くるすのひむろあと」があります。
 氷室の人達が冬に池で氷結した氷を直径10メーター、深さ3メーターほどの
 穴に入れて、氷が溶けないように上に草などで覆って、夏まで貯蔵していた
 設備です。氷室町にはこの穴が3ヶ所あります。
 氷室の管轄は「主水司=もんどのつかさ」で、この役は鴨氏の同族が担当
 していました。毎年元旦に各氷室の氷の厚さを計って、その年の豊作を
 占っていたそうです。氷が薄いと凶作ということです。でも、陰暦でも
 元旦を過ぎてからの方が氷も厚くなるのではないかと思います。
 占い以外の用途は真夏の食膳に供しました。また、夏に死亡した貴族達の
 遺体の防腐用にも用いられていたそうです。

○あらたなる

 この場合は、新しいことという意味ではなくて(験)のことです。
 (験)は(あらた)と読みます。
 神仏の霊験、効能が現出することを指します。

○熊野詣でのしるし

 熊野三山(本宮・しんぐう・那智大社)の霊力のこと。

○こほりの垢離

 普通は聖地参拝は水垢離します。ここでは水も凍る厳寒の頃の
 参拝であることを言っています。

○うべきなりけり

 得るべきこと。
 (得る)に(べき)(べく)が接合した言葉です。

○さゆる夜

 寒さが際立って厳しい夜のこと。

○こやの池水

 「こや」は兵庫県伊丹市にある地名です。「昆陽」と表記します。
 行基菩薩が開削した人造池です。

○氷の苦

 氷のような硬い苦しみを指していると思われます。
 地獄の罪人の重く果てもない苦しみを言う言葉でしょう。

○むつのわをきく

 地蔵菩薩が左手に持っている錫杖の頭頂部についている六つの
 輪のこと。一つの大きな輪に六ツの小さな輪が付けられていま
 すが、その輪が動くことによって出る音を聞くということ。

 錫杖のこととともに、人間の六道輪廻のこともあるいは表して
 いるのかも知れません。

○諏訪のわたり

 長野県の諏訪湖のことです。信濃一宮の諏訪大社下社が諏訪湖の
 すぐ近くにあります。
 「わたり」はその土地のことですが、冬季に氷結する諏訪湖の
 氷の上を神が渡るという「御神渡り」のことも掛けています。

○みな鶴

 新潮日本古典集成山家集では「まな鶴」となっています。
 「まな鶴」は中国やモンゴルで繁殖し、日本には越冬のために
 飛来します。越冬地は鹿児島県出水市が有名です。
 全長120センチメートル程度の鶴で、背中と腹部が灰色、足は
 暗赤色。眼の周りは皮膚の色が出て赤色です。

○たゆければ

 「だるい」という意味です。
 ここでは体がだるいというよりも、気持ちが乗らない、億劫で
 ある、という心の状態の方を感じさせます。

○もちやこさまし

 「持ちや越さまし」で、持って越えること。
 実際には筏になる木を人が持って山越えして移動することなど、
 不可能であり、それが分かった上でなお、希望的な思いを述べた
 言葉です。

○ほつの山越

 亀岡市から京都市の嵐山に流れる「保津川」沿いの山を越える
 ということを言います。

○三笠山

 奈良県奈良市の東方にある山。高円山と若草山の間にある春日山
 を指します。古名は「御蓋山」です。春日大社の後方にあります。
 ただし、若草山も通称として「三笠山」と言います。
 安倍仲麿の歌にある「三笠山」は本来の「御蓋山」のことで、
 「若草山」のことではないようです。

 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
         (安倍仲麿 百人一首第7番・古今集406番)

 三笠山の歌は西行に4首あります。

○うぐひすの瀧

 奈良県奈良市の春日山「御蓋山」山中にある小さな滝の名称です。

○かつまたの池

 大和の国の歌枕。現在の大池のこととみられています。
 勝間田の池は薬師寺近くにあり、絶好の撮影ポイントとなって
 います。
 
 「勝間田の池は我しる蓮なししかいふ君が髭無きごとし」
           (作者不詳 万葉集巻十六 3835番)

 万葉集にも詠われていますが、古い時代から水が少なかったか、
 枯れた池だったのでしょう。

 「鳥もゐで幾世へぬらん勝間田の池にはいひのあとだにも無し」
              (藤原範永 後拾遺集1053番) 

○鞍馬の奥

 鞍馬の奥とは具体的にはどこを指すのか不明です。
 鞍馬よりは奥の花背なども想定できますが、鞍馬という、京域
 よりは奥深い所という風にも解釈できます。

○わりなしや

 理屈に合わないこと。道理に合わないこと。普通ではないこと。

○思ひ捨ててし

 「春」を「思い捨ててきたのに」という倒置法表現。
 思い切って捨てた春だけど、ことさらに待ち遠しくなるという、
 俗世に対しての未練の起きる心情を言っています。

○十月十二日

 京都を春頃(2月から3月頃)に旅立って、方々に寄り道しながら
 旅を続けて、平泉には10月12日に到着したということです。
 何年のことかは確定できません。1144年頃から1149年頃までの
 うちではなかろうかと見られています。
 
○平泉にまかり

 奥州の平泉に行ったということ。現在の岩手県西磐井郡平泉町。
 この歌は始めての奥州行脚のときの歌と見られています。
 (西行の研究189・190ページ、窪田章一郎氏)
 この頃の平泉は藤原氏第二代の基衡が治めていました。西行は
 この時に藤原氏三代となる秀衡とも面識ができたはずです。

○衣川

 陸奥の国の歌枕。(衣)を掛けて詠われます。
 衣川は平泉の中尊寺の北側を流れていて、北上川に合流します。

○見まほしくて

 「見て回りたくて」の意味になります。川の衣川ではなくて、
 藤原氏の衣川城の結構、完成度などについてです。

○しまはしたる

 「為設く=しまうく」の活用形で、城壁なども完成していて、
 城としての完成度は高いということのようです。

○兵衛の局

 生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛のこと。

 藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
 門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。
 西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
 自選家集があったとのことですが、現存していません。

○いひすさみて

 口に言うだけである・・・ということ。
 言いはしても返しの歌を作らないということ。

○こころきる

 分かりにくい表現ですが、身体だけでなく心まで切り刻むという
 意味だと思います。そこには武者の世や、命をやり取りすること
 に対しての批判が込められています。

○てなる氷

 「手にした剣」の比喩表現。鋭利な刃の意味を込めています。

○ゆみはりの月

 弓形をしている月のこと。上弦と下弦の月のこと。
 弓は武者の象徴でもあり、戦の縁語です。

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(01番歌の解釈)

 「岩の間を閉ざしていた氷も立春の今朝は解け始めて、苔の下を
 潜り流れる水が流れ出る道を探し求めている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「厳しく冷えに冷え、凍るのもことのほか寒いだろう。氷室の
 山の冬の景色は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「いつ参詣しても、熊野詣の霊験はあらたかであるが、厳冬期に
 氷の垢離を取れば、格別の霊験が得られるであろう。」

 ○氷の垢離ー寒垢離をいう。神仏に参詣する際、心身を清める
  ことを垢離、水垢離というが、寒中に取る垢離をいう。熊野詣
  は何度も垢離を掻きながら行われるので、特に厳冬期の参詣を
  いうか。
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「寒さの特にきびしく冴える夜は、おしどりも他所で鳴いている。
 いつも鳴いている昆陽の池も氷ってしまったんだなあ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「朝日にあたって、結ぶ氷のような苦は解けるだろうか、地蔵
 菩薩の錫杖の六つの輪が鳴る音を聞く暁の空よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「朝日」は「朝日将軍」源義仲のことを思わせもします。
 しかし歌の配列の関係から見ても、源義仲の歌は聞書集227番の
 一首しかないものと思います。

(07番歌の解釈)

 「真鶴は沢辺に張った氷を鏡に使って、千年もの歳月を生き抜い
 た自分の姿を惚れ惚れと見るのだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(08番歌の解釈)

 「筏を下すために、保津川に張りつめた氷を棹で割るのも
 疲れることであるから、いっそ保津川の山越えの道を通って
 持って行ったらどうだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

 「水がないのに勝間田の池は秋の夜の月のさやかな光をあびて、
 すっかり様相を改め、一面氷が張ったような景観である。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(12番歌の解釈)

 「衣河を見に来た今日は今日とて、雪が降って格別寒いうえ、
 とりわけ心にまでもしみて寒いことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(13番の連歌の解釈)

 兵衛の局の前句

 「戦場を照らす弓張の月よ」

 西行の付け句

 「心を切る、手の中にある氷のような剣の刃ばかりか」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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