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後三條院→137号「心地」参照
【小侍従】
岩清水八幡宮別当の紀光清の娘。生没年未詳。1122年頃の誕生、
1200年頃に没したと見られています。80歳以上の高齢ということ
ですから、当時とすれば長く生存した女性です。
1160年、二条天皇に仕え、その後は二条天皇と六条天皇の后で
あった藤原多子(まさるこ)に出仕し、太皇太后宮小侍従となって
います。後には高倉天皇の女房として仕えたようです。
小侍従と後白河院との関係は分かりませんが、後白河天皇が譲位
して後白河上皇になる以前に、後白河帝の寵愛を受けたということ
をネットで散見しました。「院の小侍従」という表記は、そういう
関係からきているものでしょう。
西行との贈答歌のある時代ははっきりとは分かりませんが、二条
天皇に仕える前の30歳代後半だろうと思われます。
以後、院の小侍従は頻繁に歌会などにも参加していますので健康
を取り戻したものと思われます。琴の名手でもあり、歌によって
「待宵の小侍従」とも評されました。
新古今集や千載集の勅撰集歌人であり、家集に小侍従集があり
ます。西行の入寂を悼んでの挽歌らしき歌も詠まれています。
ちらぬまはいざこのもとに旅寝して花になれにしみとも偲ばむ
(小侍従 360番歌合)
(主に有吉保著「和歌文学辞典」を参考)
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01 院の小侍従、例ならぬこと、大事にふし沈みて年月へにけりと
聞きて、とひにまかりたりけるに、このほど少しよろしきよし
申して、人にもきかせぬ和琴の手ひきならしけるを聞きて
琴の音に涙をそへてながすかな絶えなましかばと思ふあはれに
(岩波文庫山家集200P哀傷歌・新潮922番・
西行上人集・玉葉集)
かへし(院の小侍従の歌)
頼むべきこともなき身を今日までも何にかかれる玉の緒ならむ
(岩波文庫山家集200P哀傷歌・新潮923番・西行上人集)
○例ならぬこと
病気ということです。特に重篤な病気を指します。
○ふし沈みて年月へにけり
病に伏して一年以上は経っているということ。
玉葉集では「月頃へにけり」とありますので、数ヶ月間、病床に
あったのかもしれません。
小侍従はこの後は元気になって長生きしています。
○とひにまかりたり
病床をお見舞いしたということ。
○人にも聞かせぬ
琴の名手といわれた小侍従が西行にだけ秘曲を聞かせたという
ことです。
○玉の緒ならむ
魂を身体につないでおく緒という意味で人の命そのものを指して
います。
(歌の解釈)
「あなたの和琴を聞いておりますと、感激のあまり涙までが曲に
合わせて流れ出るようです。あなたにもしものことがあって、この
秘曲を弾く人がいなくなったらどうしょうかと思いましたよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(かへし歌の解釈)
「もう長くはない命と思っておりましたが、あなたの前で琴が
弾けるなんて、今日まで生きていただけのことがありました。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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◎ 待つ宵に更けゆく鐘の聲聞けばあかぬわかれの鳥はものかは
(小侍従 新古今集1191番)
◎ 思ひやれ八十ぢの年の暮れなればいかばかりかはものは悲しき
(小侍従 新古今集696番)
◎ 君恋ふとうきぬる魂のさ夜ふけていかなる棲にむすばれぬらん
(太皇太后宮小侍従 千載集924番)
【小島・小嶋】
地名。岡山県倉敷市児島のこと。瀬戸内海に面しています。
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01 備前國に小島と申す島に渡りたりけるに、あみと申すものを
とる所は、おのおのわれわれしめて、ながきさをに袋を
つけてたてわたすなり。そのさをのたてはじめをば、一の
さをとぞ名付けたる。なかに年高きあま人のたて初むるなり。
たつるとて申すなる詞きき侍りしこそ、涙こぼれて、申す
ばかりなく覚えてよみける
たて初むるあみとる浦の初さをはつみの中にもすぐれたるかな
(岩波文庫山家集115P羇旅歌・新潮1372番)
02 西國へ修行してまかりける折、小嶋と申す所に、八幡の
いははれ給ひたりけるにこもりたりけり。年へて又その社を
見けるに、松どものふる木になりたりけるを見て
昔みし松は老木になりにけり我がとしへたる程も知られて
(岩波文庫山家集117P羇旅歌・新潮1145番)
○備前国
現在の岡山県。
○あみ
甲殻類裂脚目または醤蝦(あみ)目の節足動物。形は小蝦(こえび)
に似て、細長く体長は1〜2センチ。体は透明。内湾または沿岸湖で、
表層を浮游。漁業用の餌、または塩辛・佃煮として食用。コマセ。
(広辞苑第二版から抜粋)
アミ目の甲殻類の総称。体長1.5センチ以下のものが多い。海水から
汽水・淡水に生息。浮遊生活をし、群集性がある。塩辛・佃煮のほか
釣りのまき餌にする。世界各地に分布する。
(日本語大辞典から抜粋)
この辞典にはニホンアミ・コマセアミ・ツノテナガオキアミのイラスト
が付けられていて、形状がよく分かります。
ついでにアキアミについても調べてみると、西行の言う「あみ」は
サクラエビ科のアキアミの可能性があるとも思います。
現在は裂脚目という分類はされていません。
○おのおのわれわれしめて
それぞれの人がそれぞれの場所に一人ずつ陣取って・・・
○申すなる詞
一番初めに竿を立てた漁師頭が竿を立てる前に述べた口上。
大した意味合いの言葉ではなくして「これから立てるが、大漁で
あればいいなー」というほどのものだろうと想像します。
漁師が海産物を獲るのは生業であり、初漁の時にはなおさら大漁
を請願するような祈りを捧げる言葉を出したのかもしれません。
「立つる」ということで、西行は宗教的なものと結びつけて深く
感じるものがあって、涙を流したのだろうと思います。
○つみの中にも
罪と同義です。「つみの中にもすぐれたる」は、罪の中でも特に
重い罪ということです。
○昔みし
昔、見たということ。松は常盤木と言われますが若い頃に見た
松の木を再び見て、年の隔たりを思っての述懐の歌です。
詞書によれば、現在の岡山県児島にある八幡宮での歌です。
この歌を上賀茂神社に参詣してからの旅立ちである四国旅行の
時の歌と解釈するなら、この歌が詠まれた時代(西行50歳)より
もはるか前の若い頃にも、一度は山陽方面への旅をしたことが
あったということがわかります。
○老木
年古りた木のことですが、年齢が高くなった人、老いた人という
解釈で間違いありません。私も老木となりました。
(01番歌の解釈)
「長老の漁師が最初に立てた一の竿は、その浦でアミを採るための竿
であるだけに、殺生戒を犯す罪のなかでもひとり際立って重い罪を
引き受けることになる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「殺生戒は大変重いものであるが、あみを採る浦で最も齢をとった
海士が立て初める一の竿は、罪の中でも甚だしい罪であること
だよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「昔この八幡宮の社殿に参籠した折に見た松は、今度見るとすっ
かり老木になってしまっている。それにつけ、自分がいかに年を
とったかも知られて……。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
「昔ここ児島の八幡に参籠した時に見た松はすっかり老木に
なった。私もそれだけ年を取ったということが知られる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【越の白雪】
「越」とは、越前の国(現在の福井県東北部)・越中の国(富山県)・
越後の国(新潟県)の三国の総称です。
平安時代の北陸道のルート上では、他に若狭の国(福井県西南部)・
加賀の国(石川県南部)・能登の国(石川県北部)・佐渡の国
(新潟県佐渡島)がありました。
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01 たゆみつつそりのはや緒もつけなくに積りにけりな越の白雪
(岩波文庫山家集99P冬歌・新潮529番・夫木抄)
○たゆみつつ
たゆむこと。紐などがピーンと張っていないで、緩んでいる状態
のこと。ここでは気持が冗漫になっていて、緊張感が無いという
状態が続いていること。
○そりのはや緒
「はや緒」は、橇(そり)を早く進ませるために用いる綱のこと。
橇を漕ぐときに橇の腕にかける綱のこと。
この歌は越の国のどこで詠まれたものかわかりません。岩波文庫
山家集では近江の国から越前の国に入ってすぐの有乳山の歌の次に
配されていますから、越前の国での歌の可能性もあると思います。
(01番歌の解釈)
「まだつけなくてもよいだろうと油断して、橇を引く綱もつけて
いなかったのに、早くも越路には真白に雪が積もったよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【越の中山】
「和歌文学大系21」によると、新潟県妙高市の妙高山説が有力
とのことです。
越路の中ほどにある山のことだとも解釈できそうです。
妙高山は新潟県南西部にある山で標高2446メートル。スキー場、
温泉などで有名です。
【越の山】
越路にある山を指していて、特定の山のことではありません。
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01 ねわたしにしるしの竿や立ちつらむこひのまちつる越の中山
(岩波文庫山家集166P雑歌・新潮976番・夫木抄)
02 かりがねは帰る道にやまどふらむ越の中山かすみへだてて
(岩波文庫山家集24P春歌・新潮47番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
03 月はみやこ花のにほひは越の山とおもふよ雁のゆきかへりつつ
(岩波文庫山家集258P聞書集241番)
○ねわたしに
新潮日本古典集成山家集では「嶺渡しに」とあります。
「高い嶺から吹き降ろす風。峰から峰へと吹き渡っていく風」
(広辞苑から抜粋)
「あらし吹く比良の高嶺のねわたしにあはれしぐるる神無月かな」
(道因法師 千載集410番)
○しるしの竿
目印に立てた竿のこと。山間での位置、道路などの位置及び、
積雪量などを知るために樵などが立てた竿ということです。
冬季、樵は積雪を利用して切り出した木材を滑らせて移動させて
いたようです。
○こひのまちつる
一読して「こひ」が分りません。新潮版及び和歌文学大系21では
「木挽き(こびき)待ちつる」となっています。「越の中山」が
木挽を待っているというように、山を擬人化しているものでしょうか。
○かりがね
渡り鳥の雁のことです。
カモ科の水鳥「ガン」の異名です。
帰る雁の場合は越路の越前の国を指すのが通例とのことです。
「越の中山」は越後の国であり、少しくおかしいなと思わせます。
そのあたりのことは西行は知らないはずは無かったでしょうし、
承知の上で「越の中山」としたものでしょう。
○花のにほひは越の山
白山の万年雪を桜の花に見立てての言葉であると解釈できます。
西行以前にも下の歌のような用例があります。
この春やかへらで雁も花とみん越路にまがふ雪のけしきに
(周防内侍 周防内侍集)
(01番歌の解釈)
「雁の一行は、秋に越えて来た越の中山が霞に隔てられて見えぬ
ため、道が分らず、北国に帰る道に迷っていることであろう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「吹きわたる風が雪を運んだので、木挽の入山を待つ越のなか山
では、峰から峰へ竿を立てたことであろう。雪に埋もれた山路の
目印として。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「月は都で、花の美しさは越の山で、と思うよ、雁が秋に来て
春に帰るのを見ては。」
△ 雁の往来を月花の名所を尋ねる行動とみなして詠む。
(和歌文学大系21から抜粋)
「越の中山」と「越の山」
「平安和歌歌枕地名索引」では「越の中山」の用例はありません。
西行独自の用法だろうと思わせますが、この「中山」は上越市の
妙高山とみなして良いようです。
「中山」を「名香山」と書き表し、それを音読して「妙高山」に
なったということが辞書や解説書にはあります。
ただし他に異説もあるようで妙高山と断定するだけの資料はあり
ません。
尚、「妙高」とは、仏教の説く世界観で、世界の中心に聳え立つ
山という意味があります。
「平安和歌歌枕地名索引」では「越の山」は越中の国と越前の国の
ニ国としています。このニ国の中に西行の「越の中山」歌があり
ますから、あるいは「越の中山」も白山を指すのかも知れません。
越路の中ほどの山という意味であれば、白山がふさわしいと思い
ます。
「越路」とは北陸道越の国の古称であり、京都から新潟県までの
ルートの中にある道の全てを指しています。
「越の大山」という歌もあって、白山を指しているとも、愛発
(あらち)山を指しているとも言われてます。ここでも両説が
あるように「越の山」「越の中山」ともに特定することは不可能
です。
越の国の歌では、ほかに以下の歌があります。
04 わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山
(岩波文庫山家集245P聞書集142番)
○雪のしら山
冠雪している白山のこと。
白山は石川県・岐阜県・福井県にまたがり、最高峰の標高2702
メートルの御前峰を中心とする付近の山々の総称です。
石川県石川郡鶴来町に鎮座する白山比刀iひめ)神社が全国白山
神社の総本山。白山の御前峰に白山比盗_社の奥宮社があります
【五十日のはつかた】
資料では没後50日の法要だそうですが、現在の49日のことなの
でしょう。49日までは喪に服していて、50日目が忌明けという
ことだろうと思います。
【五十日過まで】
忌中のため、50日間はあえて訪問を禁じていたということです。
歌の感じでは弔問したくても、どのような言葉で慰めて良いか
わからず、思案しているうちに50日間が過ぎたということに
なります。
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01 五十日の果つかたに、二條院の御墓に御佛供養しける人に
具して参りたりけるに、月あかくて哀なりければ
今宵君しでの山路の月をみて雲の上をや思ひいづらむ
(岩波文庫山家集204P哀傷歌・新潮792番)
02 親におくれて歎きける人を、五十日過までとはざりければ、
とふべき人のとはぬことをあやしみて、人に尋ぬと聞きて、
かく思ひて今まで申さざりつるよし申して遣しける人に
かはりて
なべてみな君がなさけをとふ数に思ひなされぬことのはもがな
(岩波文庫山家集205P哀傷歌・新潮802番・
西行上人集追而加書・玉葉集)
○二條院
第78代天皇。後白河天皇の嫡男。後述します。
○ニ條院のお墓
現在の西大路通りの西側、等持院の少し東にある香隆寺陵です。
○雲の上
字義通り雲の上の事。転じて宮中や位階としての天皇の立場など
を指しています。
○親におくれて
親を見送って・・・の意味。
○歎きける人
親を亡くして歎いている人のこと。誰か不明のままです。
○とふべき人のとはぬことを
当然に弔問に行くべき立場の人が行かなかったということ。
○人にかはりて
人に代わって歌を作ったということ。
従って弔問するべき人とは西行自身のことではありません。
(01番歌の解釈)
この歌は1165年に詠まれた歌です。ニ條院の墓所で五十日の法要が
営まれ、その席に読経などする人と一緒に行きましたが、ニ條院を
哀れに思って歌を詠んだということが詞書の意味です。
今宵、君(ニ條院)はあの世で死出の山路の月をご覧になって、
雲の上のこと、生前の宮中のことを思い出しておいでになるだろう。
(渡部保著「西行山家集全注解」より抜粋)
西行はニ條院とは個人的に親しい関係にはありません。その親し
さの度合い、互いの心情的な距離ということもあって、この歌は
哀傷歌とはいえ西行自身の悲しい感情が伝わってくるものでも
なく、単なる儀礼的な歌ともいえます。
(02番歌の解釈)
「誰もが皆あなたのお歎きをお見舞する言葉とは、同じには思わ
れない言葉があったらなあと思うことです。(その言葉を思って
ついご弔問が遅れてしまいました。)」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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(ニ條院と陵墓について)
ニ條院は後白川天皇の第一皇子として1143年に生まれました。
後白河天皇の後を継いで1158年に第78代天皇として即位しました
が、1165年に病没。23歳でした。子に第79代の六條天皇がいます。
この六條天皇も13歳で夭折しています。弟に以仁王、高倉天皇、
妹に式子内親王などがいます。
平家物語巻一で少し記述がありますので抜粋します。
「七月廿七日、上皇ついに崩御なりぬ。御歳廿三。(中略)香隆寺
のうしとら、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、
延暦寺・興福寺の大衆、額打論と云事し出して、互いに狼藉に
及ぶ。(後略)」
葬送の儀式なのに僧達は刀、槍をたずさえて臨んでいることが
分かります。
この後に興福寺側の狼藉が記述され、その果てに東山の清水寺が、
興福寺の関係する寺というだけで延暦寺の攻撃を受けて炎上して
います。
鴨の流れとすごろくの目と山法師はどうにもならないと白河院が
嘆くのも当然です。この頃の僧達は武装化して争いを繰り返して
いました。
新潮日本古典集成では、「太秦香隆寺で荼毘に付し、山城香隆寺
に葬る」と記載があります。いくつかの資料に散見できますが、
これは原典の記述ミスだと考えます。太秦広隆寺のことかと思い
ますが広隆寺は香隆寺と記述されたことはなく、また1150年に全焼、
1165年に再建供養があったばかりです。
太秦には他に(こうりゅうじ)と発音するお寺はありません。
ニ條院の遺骸は船岡山の西野で荼毘に付して、現在の等持院近くの
香隆寺陵に葬られたものでしょう。尚、この香隆寺も中世には
廃絶し、陵も歴史の流れとともに荒れ果ててしまって、どこにあるか
特定不可だったものを資料をもとに比定されたものであり、必ず
しも現在地が本来の香隆寺陵であるかは疑問です。
西行はニ條院と親しかったというわけではなくて、たまたまニ條院
の墓に詣でる知り合いがいて、法要のために同道したというだけで
しょう。
左京区神楽岡にある菩提樹院陵の被葬者にニ條院とする資料も
ありますが、これはニ條院という建物に住んでニ條院とも呼ば
れた後一條天皇の第一皇女、章子内親王のことです。ニ條天皇の
陵ではありません。
菩提樹院陵は在原業平の墓と言われていたものですが、それを
明治22年になって後一條天皇と章子内親王の陵墓として比定され
たものです。
【後白河天皇】
第77代天皇。1127年〜1192年在世。66歳で崩御。
父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子。兄に崇徳天皇、姉に統子
内親王、弟に覚性法親王、義弟に近衛天皇など。
子に二条天皇、高倉天皇、以仁王、亮子内親王、式子内親王
などがいます。
夭折した近衛天皇の後を継いで1155年に即位しました。立太子を
経ていませんでしたから、本人も予想だにしなかった天皇位に
ついたものでしょう。1158年には二条天皇に譲位して、以後は
後鳥羽帝の時代まで長く院政を執りました。
後白河院の存命中は激動の時代でした。
1156年保元の乱。1159年平治の乱。以後の平家の専横。源平争乱。
鎌倉幕府成立。
このような厳しい時代にあって、たとえば源平争乱時の右顧左眄
と見られる姿勢が多かったのも、なんとかして新しい勢力を操縦
しょうと腐心したからに他ならないでしょう。老獪であったとも
言えます。
今様歌謡集の「梁塵秘抄」を編んでいます。
「遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ」
この歌は梁塵秘抄歌のうち、最も知られている歌だといえます。
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01 承安元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひけるついでに、
住吉に御幸ありけり。修行しまはりて二日かの社に参り
たりけるに、住の江あたらしくしたてたりけるを見て、
後三條院の御幸、神も思ひ出で給ふらむと覚えてよめる
絶えたりし君が御幸を待ちつけて神いかばかり嬉しかるらむ
(岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1218番・
西行上人集・山家心中集)
○ 院
山家集の中の、一院は鳥羽院、新院は崇徳院、院は後白河院を
指します。「院の小侍従」といえば「後白河院の小侍従」のこと
であり、後白河院に仕えていた女房の「小侍従」を言います。
ただし岩波文庫山家集110ページにある
「讃岐にまうでて、松山と申す所に、院おはしましけむ」の院は
崇徳院を指しています。
○承安元年
1171年のことです。この年、嘉応の元号は1171年4月21日まで、
同年同日から承安元年となります。第80代高倉天皇の治世に
あたります。高倉天皇は後白河天皇の皇子です。
後白河院は5月29日に京都を立ち、6月1日に住吉大社に詣で、
熊野に向かい、京都に帰りついたのは6月21日ということです。
西行は1171年6月2日に住吉大社に参詣したことになります。
○住吉
摂津の国の歌枕。住吉大社をいいます。摂津の国の一宮です。
西行の時代は海に面していたものと思われます。
○あたらしくしたてたり
社殿が新しく造りかえられたことをいいます。
○後三條院
第71代天皇。1034年〜1073年。40歳で崩御。
1073年2月、後三條院のは母の陽明門院と岩清水・住吉・天王寺に
御幸しています。同年5月、後三條院没。
(1番歌の解釈)
「後三條院の親拝以来絶えていたが、この度の後白河院の御幸を
待ち迎えられ、住吉明神はどんなに嬉しく思っておいでのこと
だろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【こぞのしをり】
(こぞ)は(去年)のこと。「しをり」は「枝折」で、枝を折ること。
折って目印とするもの。
しかしながら一年も過ぎると、目印に折っておいた枝なんて、
いくらでも変わっていて目印にはならないだろうにという単純な
疑問が起きます。
ですから去年折った枝ということに捉われずに、地形なども
含めての記憶に残っている目印という解釈で良いでしょう。
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01 吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
(岩波文庫山家集33P春歌、258P聞書集240番・新潮欠番・
御裳濯河歌合・新古今集・玄玉集・御裳濯集・西行物語)
○吉野山
奈良県吉野郡吉野町。青根山を主峰としますが、大峯を含む広域
をいう場合もあります。雪と桜の名所です。
奥の千本には西行庵もあります。
(01番歌の解釈)
「吉野山の去年つけておいた枝折の道を変えて、まだ見て
いない方角の花を尋ねよう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
ことうつ陪従→106号「心地」参照
【近衛院のお墓】
京都市伏見区の安楽寿院にあります。後述。
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01 近衛院の御墓に、人に具して参りたりけるに、
露のふかかりければ
みがかれし玉の栖を露ふかき野辺にうつして見るぞ悲しき
(岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮781番・
西行上人集・玉葉集)
○人に具して参り
行く人がいたので一緒に連れ立って行ったということ。
○玉の栖
(栖)の読みは(すみか)。(玉の栖)は御所、御殿のこと。
きらびやかな生活をしていた立場を言います。
(01番の詞書と歌の解釈)
詞書は1155年7月に崩御した近衛天皇のお墓に人々と一緒に、
お参りしたという事です。詞書の文言からは崩御後、いつの
ころにお参りしたのかはわかりません。
詞書と歌の感じから、崩御後ほどなくして墓参したものだろうと
思わせます。
「磨きぬかれて美しい御所の住み家から、露の深い野に住まいを
移されることになりました。その事を目の当たりにして、悲しみ
ばかりがつのります」
露は涙、うつすは移すとともに写すを掛けています。含蓄のある
歌だと思います。
(筆者の解釈)
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(近衛院とお墓)
近衛天皇は第76代天皇です。1139年生、1155年没。17歳で夭折しま
した。在位15年です。鳥羽天皇の第八皇子とも第九皇子とも資料
にはあります。
母は美福門院藤原得子。崇徳天皇の養子として皇位について践祚
(せんそ)しました。この近衛院崩御後は後白河天皇が第77代
天皇となっています。
このことにより、崇徳上皇の不満は高まり、1156年に鳥羽上皇が
崩御すると、保元の乱が起こりました。
近衛院のお墓は、現在は安楽寿院南陵と言われています。二層の
塔があります。
ここは、もともとは美福門院が自分の死後の墓所として建立した
ものです。ところが1160年に没した美福門院は遺言により高野山に
葬られました。
そこで、1155年に没して洛北の知足院に葬られていた近衛天皇の
遺骨が1163年に、ここに移し納められました。したがって、船岡山
の西野で火葬にされたと記録にある近衛帝のお墓は、8年間は知足院
にあったということです。
この歌が詠まれた年代が確定できませんので、西行が墓参した場所
は知足院か安楽寿院なのか確定はできません。歌から受ける印象
では崩御後年数のたっていない知足院ではないかと思います。
尚、知足院は紫野雲林院近くにありましたが、中世に廃絶しており、
資料に名をとどめているばかりです。
現在の近衛院陵は豊臣秀頼の寄進によるものです。
【この手がしわ・このて柏】
ヒノキ科の常緑樹。小枝全体が平たい手のひら状であり、葉は
表裏の区別がつかないところから、二心あるもののたとえと
された。
一説、コナラ・カシワの若葉。またトチノキともいう。
また、オトコエシ説もあります。
(講談社「日本語大辞典」を参考)
(岩波書店「古語辞典」を参考)
ヒノキ科の常緑潅木、または小喬木。中国・朝鮮に自生し、古く
から庭木とする。高さ2〜6メートル。
葉はヒノキに似て鱗片状で表裏の別なく枝が直立、扁平で掌を立て
たようである。花は春開き単性で雌雄同株。種鱗の先端が外方に
巻いた球果を結ぶ。種子を滋養強壮剤とする。
(岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)
児の手柏の木は一般には江戸時代に中国から移入されたという
ことですが、万葉集にも「児の手柏」の歌がありますから、大変
古くから児の手柏は日本にあったものと思います。ただ、現在の
児の手柏と西行の歌にある児の手柏が同じ種目の木であるのか
どうかはわかりません。
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としたか、よりまさ、勢賀院にて老下女を思ひかくる恋
と申すことをよみけるにまゐりあひて
01 いちごもるうばめ媼のかさねもつこのて柏におもてならべむ
(岩波文庫山家集260P聞書集255番・夫木抄)
02 いはれ野の萩が絶間のひまひまにこの手がしはの花咲きにけり
(岩波文庫山家集58P秋歌・新潮970番・夫木抄)
○としたか
不明。「としただ」の誤写説もあります。醍醐源氏の「源俊高」
説が有力です。
○よりまさ
源頼政(1104〜1180)のこと。摂津源氏、多田頼綱流、仲政の子。
1178年従三位。1180年、以仁王を奉じて反平氏に走りますが、
同年、宇治川の戦いで敗れて平等院で自刃。
西行とも早くから親しくしていたようです。頼政が敗死した宇治川
合戦のことが聞書集に「しづむなる死出の山がは・・・」の歌と
してあります。
家集に「源三位頼政集」があります。二条院讃岐は頼政の娘です。
○勢賀院
せが院と読み、清和院のことです。
清和院とは現在の京都御宛の中にありました。
もともとは藤原良房の染殿の南にありました。良房の娘の明子は
第56代、清和天皇の母であり、明子は清和天皇譲位後の上皇御所
として染殿の敷地内に清和院を建てました。
ちなみに清和天皇の后となった藤原高子はこの染殿で第57代、
陽成天皇を産んでいます。
高子は在原業平との関係で有名な女性です。
清和院は清和上皇の後に源氏が数代続いて領有し、そして白川
天皇皇女、官子内親王が伝領しています。清和院の中に官子内親王
の斎院御所があり、そこで歌会が催されていたということです。
その後の清和院は確実な資料がなく不詳ですが、1661年の寛文の
大火による御所炎上後、現在の北野天満宮の近くの一条七本松北
に建てかえられたそうです。
「都名所図会」では1655年から1658年の間に、現在地に移築され
たとあります。現在は小さなお寺です。
○いちごもる
よくわかりません。
「市児(町民の小ども)の子守りをする年配の女性のこと」と
あります。 (渡部保氏著 西行山家集全注解)
「いちこ」とは巫女のことでもありますので、あるいは宗教的な
意味合いがあるのかもしれません。
○うばめ媼
うばめは「姥女」ということでしょう。年配の女性のことです。
嫗(おうな)も年配の女性のこと。翁(おきな)は年配の男性。
なぜ(うばめ)と(嫗)という同じ意味を持つ言葉を連続させて
用いたのか私にはわかりません。「いちごもる」という初句の
こともあって、不可解さの強い一首です。
和歌文学大系21では「姥女神・姥神といわれた老巫女のことか」
とあります。
○いはれ野
大和の国の歌枕。奈良県磯城郡、高市郡、桜井市にわたる地域の
古名。現在の桜井市西部から橿原市東部にかけての範囲を指して
います。
多くの歌は(磐余=いわれ)と(言われ)にかけており、萩、荻
女郎花、薄などの植物が詠み込まれています。
(01番歌の解釈)
「市児(町家の子)の子守りをする年老いた子守り女が重ねて
持っているこのてがしは(柏の一種とも女郎花とも)それは表裏
の別がなく、「このでかしはの二面」と言われている通り、私も
同じく顔を並べよう。(他の人と同じく老下女に思いをかけよう。)
(このてがしはは児の手柏とかけている。)」
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
「巫女がまつる姥神の老巫女が手に重ね持つ児手柏の面に私の
顔を並べよう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「磐余野には古来有名な萩が咲き誇るが、その間隙を埋め尽す
のは、へつらいへつらい揉み手をするように咲く、無名の
おとこえしの白い花である。」
(和歌文学大系21から抜粋)
こはさ→53号「うし」参照
こほりのこり→132号「氷」参照
こひのまちつる→139号「越の中山・越の山」参照
こひのむらまけ→101号「かづく」参照
こむよのあま→98号「かため」参照
【こばへ】
魚名です。「鮠」と書いて「ハヤ・ハエ」と読みます。
淡水魚で、小さいハエのこと。
ハヤ、ハエ、ハイ、ハス、ウグイ、オイカワなどの呼び方がある
ようです。
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01 こばへつどふ沼の入江の藻のしたは人つけおかぬふしにぞありける
(岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1392番)
○人つけおかぬ
コバエを獲るつもりで人が意図的に漬けたものではないということ。
人為的にされたものではなくて、自然になったということ。
○ふしにぞ
「ふし」は伏柴のこと。下の歌にある「ふし柴」と同義です。
川わたにおのおのつくるふし柴をひとつにくさるあさ氷かな
(岩波文庫山家集94P冬歌、243P聞書集127番・新潮欠番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
「柴漬け=ふしづけ」のことを詠んだものです。
柴も「ふし」と読んでいました。
柴漬けとは、冬に、束ねた柴の木を水中に漬けておき、そこに
集まってきた魚を春になって獲る仕掛けのことです。
以下の歌にある「ふしつけ」も同義です。
泉川水のみわたのふしつけに柴間のこほる冬は来にけり
(藤原仲実 千載集389番)
(01番歌の解釈)
「小さな鮠が集まってきている沼の入江の藻の下には、人が
仕掛けた訳ではない天然の柴漬になっている。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【こぼたれぬ】
「毀たれぬ」と書き、壊すことです。
作ってある構造物を破壊すること。取り除くことを言います。
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01 中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、
天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮など申す上人
どもして見けるに、いとあはれにて、各述懷しけるに
折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
(岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・西行上人集)
○中納言家成
藤原家成。1107年〜1154年。48歳。美福門院の従兄弟で、その
縁故によって鳥羽院の寵臣となっていたことが「台記」や
「愚管抄」に見えます。
○渚の院したてて
渚の院を造営したということ。
「渚の院」は交野にあった惟喬親王の別業で、在原業平ともゆかり
のある所でした。
家成が、渚の院を再興したのですが、すぐに取り壊してしまいました。
○西住
俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い
頃からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いていま
す。西住臨終の時の歌が岩波文庫山家集206ページにあります。
○浄蓮
不詳ですが、静蓮法師という説もあります。
静蓮法師とするなら、千載集1015番の作者であり、また、60ぺー
ジの「鹿の音や・・・」歌の忍西入道と同一人物の可能性も指摘
されています。
○天王寺
地名及びお寺名。大阪市の行政区の一つです。
お寺の四天王寺を指してもいます。西行歌では、四天王寺と
天王寺は同義です。
四天王寺は国家で建立したお寺の第一号です。聖徳太子の創建と
伝えられています。現在の堂宇は昭和になってからのものです。
天王寺歌は他に六例があります。
○世にあるかひも
生きている意味、生きている甲斐もないという悲嘆の言葉。
中納言家成が「生きていてもどうしょうもない人」ということ
ではなくて、詠者である西行が、「つまらないことを聞き知って
しまった。こんなおろかなことを聞くのは、生きていることの
甲斐もないことだなー」という自嘲的な響きを込めています。
「かひ」は渚の縁語である「貝」の掛けことばです。
(歌の解釈)
「その時その時につけて人の心も様々に変わってしまうので、
この世に生きていることも甲斐ないと思わせる渚の院だなあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【こめのしき網】
「こめ」は「小目」のこと。目の細かい網。
水中に敷き渡して魚を捕獲します。
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01 しらなはにこあゆひかれて下る瀬にもちまうけたるこめのしき網
(岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1394番・夫木抄)
○しらなは
鵜飼漁などの時、魚が逃げないように、あらかじめ水中に張り
渡している白い縄のこと。
新潮版でも和歌文学大系21でも上のような説明ですが、この白縄
は鵜飼漁の時だけ使われるものではないようです。
鵜飼の時に鵜に結びつける鵜縄とも違いますし、私にはもうひとつ
よく理解できないでいます。
○こあゆひかれて
小鮎が白い色の縄に導かれるようにして…ということ。
○もちまうけたる
小鮎を獲るための網をあらかじめ水中に沈めていて、その網は
手で持って操作できるようになっているようです。
(01番歌の解釈)
「逃げないように河の中に引き廻した白い縄に小鮎が引かれて
下ってゆく瀬に、それを捕らえるべく持って用意している目の
細かい敷網があるよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
こもくろめ→121号「熊野」参照
こやの池水→132号「氷」参照
こらがまそで→105号「神路山」参照
【衣川】
陸奥の国の歌枕。(衣)を掛けて詠われます。
平泉の中尊寺の北側を流れている小流で、北上川に注いでいます。
古代、「衣の関」がありました。
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01 十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり嵐はげ
しく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川見まほしくて
まかりむかひて見けり。河の岸につきて、衣川の城しまはし
たる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。
汀氷りてとりわけさびしければ
とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
(岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮1131番)
02 奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奧国へ遣はされ
しに、中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、
涙ながす、いとあはれなり。かかることは、かたきこと
なり、命あらば物がたりにもせむと申して、遠国述懐と
申すことをよみ侍りしに
涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
(岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮欠番・
西行上人集・山家心中集)
双輪寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに
03 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
(岩波文庫山家集260P聞書集251番・夫木抄)
○十月十二日
この歌は始めての奥州行脚の時の歌だとほぼ断定できます。
京都を花の頃に旅立って、平泉に着いたのは10月12日。半年以上
を費やして平泉に行っています。何箇所かに逗留して、ゆっくりと
した旅程だったはずです。
○平泉と中尊寺
現在の岩手県西磐井郡平泉町のこと。清原(藤原)清衡が1100年
頃に岩手県江刺郡から平泉に本拠を移して建設された仏教都市
です。清衡が建立した中尊寺の金色堂は1124年に完成した時の
ままで、一度も焼失していません。奇跡的に残りました。
金色堂には清衡・基衡・秀衡の三代の遺体(ミイラ)があります。
○見まほしくて
「あらまほし」などと同様の用い方です。
「見」「まく」「ほし」が接合して、縮めて使われている言葉
です。
「見」は見ること。「ま」は推量の助動詞「む」の未然形。
「く」は接尾語。「ほし」は欲しい、のことで形容詞。
(強く見たいと思って)というほどの意味です。
○衣川の城
藤原氏の衣川の館のこと。もともとは奥州豪族の安倍氏の柵(城)
がありました。古くは「衣の関」でしたが、関跡に奥羽六郡の覇者
であった安倍氏が柵を築いていたものです。この柵は前九年の役で
源頼義と清原氏の連合軍が1062年に勝利してから清原氏(藤原氏)が
治めていました。
後に藤原秀衡のプレーンでもあり藤原泰衡の祖父でもあった藤原
基成の居住していた館だといわれます。
余談ですが、義経の衣川の館は最後に平泉に落ち延びて以後に
建てられた高館のことです。(義経記から)
ここが源義経の最後の地と言われます。現在は「高館義経堂」と
呼ばれています。小高い丘にあり、中尊寺からも衣川からも少し
離れています。
義経は1187年2月ころには平泉に着いていましたので、その頃に
建てられたものでしょう。当然に西行は京都に戻っていると
考えられますので、義経のこの館は見ていないはずです。
○しまはしたる
衣川の館は城構えのため、館の外側を垣などで囲んでいる設備や
その状態を指しています。
○ことがらようかはりて
「事柄、様変わりて」のことです。
この歌自体が初度の旅の時のものとみなされますので、再度の
旅の時に初度の旅のことを振り返って・・・という意味ではない
はずです。
事柄とは、自身で見たことはないけど、かねて聞き及んでいた
安倍氏の衣川の柵(衣川の城)の状況と対比させているものと
思われます。
○とりわきて
格別に。特別にということ。
○今日しも
「しも」は十月十二日という「今日」を特に強調する言葉です。
○奈良の僧、とがのこと
奈良の僧侶15名が悪僧として陸奥の国に配流となったのは1142年
のことのようです。西行26歳の年に当たります。
これにより「涙をば・・・」歌は初度の陸奥の旅の時の歌とする
説が殆どです。
「西行の研究」の窪田章一郎氏は詞書から受ける印象や山家集に
なくて西行上人集に採録されていることを挙げられて、再度の
陸奥の旅の時の歌であると推定されています。
○かたきこと
この歌にも「かたき」というフレーズがあります。しかし詞書の
性質から考えて「かたき」ではなく「ありがたき」でなくてはなら
ないでしょう。よってこれは岩波文庫山家集にたくさんある記述
ミスの一つといえます。
和歌文学大系21では「有がたき」となっています。
○ふるき都
平安京から見て古い都を言い、奈良の都のこと。平城京のこと。
○双林寺
双林寺は西行とは格別にゆかりのあるお寺です。出家してしばらく
は東山のこのお寺あたりに庵を構えていたようです。
円山公園の南、高台寺の北に位置します。
桓武天皇の勅願により、最澄が開基として創建したという由緒ある
お寺です。広大な寺域に多数の塔頭がありました。1141年には鳥羽
天皇内親王のあや御前が住持し、1196年には土御門天皇の静仁親王
が住持していましたので、その盛時が偲ばれます。そういう時代の
双林寺の敷地内か、その付近に西行は庵を結んでいたということです
元弘の乱で戦場となって荒廃し、国阿上人が中興しましたが、応仁
の乱でも焼亡しています。1605年の高台寺造営の時に寺域を削られ、
また、明治3年(1870)及び、円山公園造営のために明治19年にも
大幅に削られました。現在は小さな本堂一宇を残すのみです。
鹿ケ谷の変で、平家打倒を企てて鬼界が島に流された平康頼は、
ここで、「宝物集」を書いたそうです。
「西行物語」では、西行はこのお寺で入寂したと書かれています。
西行と頓阿と平康頼の小さな墓があります。
○松河に近し
当時は句読点を表記する制度自体がなくて、文字は続けて書いて
いました。「松河に」は松は川に近いという意味です。「松河」
という固有名詞ではありません。
(01番歌の解釈)
「平泉に着いたその日、折りから雪降り嵐がはげしく吹いたので
あったが、早く衣川の城が見たくて出かけ、川の岸に着いて、
その城が立派に築かれているのを見、寒気のなかに立ちつくし
ながら詠んだ・・・(略)
衣川の城を見に来た今日は、とりわけ心もこごえて冴えわたった
ことだ、というのである。寒い冬の一日、はるばると来て、歌枕
であり、また、古戦場でもある衣川を初めて見た西行の感慨が
出ている歌である。」
(安田章生氏著「西行」から抜粋)
「衣河を見に来た今日は今日とて、雪が降って格別寒い上、とり
わけ心にまでもしみて寒いことである。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「故郷なつかしさの涙を衣川、そして衣の袖に流したよ。古い
奈良の都を思い出しながら。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「衣河の汀に寄って立つ波は、そうか岸の松の根を洗うの
だったよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【衣手】
衣の袖のこと。衣服の手の部分、また衣服そのものをも言います。
枕詞として、浸すことから「常陸の国」、両袖に分かれていること
から「分ける・分かつ」、砧で打って作ることから「打つ」などに
かかる言葉です。
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01 衣手にうつりし花の色なれや袖ほころぶる萩が花ずり
(岩波文庫山家集58P秋歌・新潮971番)
○色なれや
新調版では「色かれて」となっています。色が落ちてしまうほど
着古したので袖もほころびたということです。
○萩が花ずり
衣の袖に萩の花がこすれたということ。
こすれあって萩の花色が袖にしみこんだ状態のこと。
(01番歌の解釈)
「萩の花の色が摺れて移った時の私の袖は、何て雅やかに美し
かったのだろう。やがてその(花の色も褪せ落ちて)袖も破れて
しまったよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【衣のうら】
愛知県知多半島東側の入り江にある地名です。衣浦漁港があり
ます。西行の歌では(ころものうら)と読みますが、固有名詞と
しては(きぬうら)と読みます。
平安時代は(ころもうら)か(きぬうら)か、それとも両方の
呼称なのか判然としません。
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01 波あらふ衣のうらの袖貝をみぎはに風のたたみおくかな
(岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1192番・
西行上人集・山家心中集・夫木抄)
○袖貝
マキガイの一種。本州中部以南に分布しているようです。殻の
外唇が外部に向かって張り出しています。
スイショウガイ科の巻貝の総称で、約40種類があります。
(講談社「日本語大辞典」を参考)
しかし不思議なことに袖貝はアコヤ貝の異称とか、アコヤ貝も
袖貝の一種という資料もあります。アコヤ貝はウグイスガイ科の
二枚貝でありスイショウガイ科の袖貝は巻貝ですから、まったく
別種のものだと思われますが、なぜ同一視されるのか私にはよく
分かりません。
ネット検索しても「トヤマソデガイ」のような二枚貝もあり、
「日本語大辞典」の説明とは異なっています。
「畳む」という、歌から受ける印象では巻貝ではなくて二枚貝
だと思われます。
○たたみおく
衣類を畳むことと同義で、畳んでいる状態のこと。衣の縁語です。
(01番歌の解釈)
「衣の浦ゆかりの袖貝は、波にも洗われ、風に打ち寄せられても
波打ち際に袖を畳んだようにきれいに並んでいたりする。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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