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さあ〜さか さか〜さほ さむ〜さん

項目

斎院・斎王・斎宮・西行・西住・さう(しょう)の岩屋・嵯峨・嵯峨野・榊(さかき)

【宰相】→ (五十鈴)参照 (山、261)
【さうじにはばかる恋】→(賀茂)参照 (山、145)
【さうぶ】→菖蒲の項に記述予定


【斎院・斎王・斎宮】
 
 伊勢神宮の斎宮と賀茂社の斎院を総称して斎王といいます。
 斎宮及び斎院は斎王の居住する施設の名称ですが、同時に人物名
 として斎王のことも斎宮・斎院と呼びます。

 「平安時代以降になると、斎王のことを斎宮というようにもなる。」
     (「」内は榎村寛之氏著「伊勢斎宮と斎王」から抜粋)

 斎宮は伊勢の斎王のこと、斎院は賀茂社の斎王のこととして区別
 されます。

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01   斎院おはしまさぬ頃にて、祭の帰さもなかりければ、
    紫野を通るとて

  紫の色なきころの野辺なれやかたまほりにてかけぬ葵は
        (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1220番・
                  西行上人集追而加書)

○斎院おはしまさぬ頃

 賀茂祭のときに斎王がいなかったのは、1171年から1178年まで、
 次に1181年から1204年までということです。
 1140年から1170年の間は斎院はいました。
 したがって西行の年齢を考えると、この歌は1171年から1178年
 までの間に詠まれた可能性が強いと思います。
 1171年として西行54歳です。

○祭りの帰さもなかりければ

 賀茂祭が終われば斎王は賀茂社に一泊し、翌日、紫野の斎院
 御所に帰りますが、斎王がいないために、その行列がないことを
 表しています。

○紫野

 現在の北大路通り以北、大徳寺、今宮神社あたり一帯を指します。
 今宮神社はかつては紫野社と言われていて、平安時代は紫野の
 中心地は今宮神社あたりだったそうです。江戸時代は大徳寺あたり
 が紫野の中心になっていたらしく、都名所図会には舟岡山は
 「紫野の西にあり」と説明がなされています。ともあれ、大徳寺、
 今宮神社あたりを指す古くからの地名です。
 
 平安時代は紫野は禁野でした。朝廷の狩猟とか遊覧の場でもあった
 ようです。
 西行の時代には大徳寺はありませんでした。しかしこの大徳寺が
 できる前に同じ土地に雲林院があって雲林院はまた紫野院とも
 呼ばれていました。
 この紫野雲林院あたりでの朝廷の狩猟や遊覧の記録が残って
 います。現在の紫野は京都の北部の繁華街となっています。

○かたまほりにて

 「かたまほり」は古語辞典にもありませんので、誤写だと思い
 ます。新潮版では「片祭」となっています。
 斎王がいませんので、したがって「祭りの帰さ」を執り行うこと
 ができず、そのために「片祭り」になってしまうということです。

○かけぬ葵

 賀茂祭は葵祭ともいいます。斎院御所や行列の人々や牛車は
 葵の葉で飾り付けるのですが、斎王がいないときは飾り付け
 しなかったようです。

(詞書と歌の解釈)

 「斎館のある紫野とはいえ、斎院はおいでにならず、紫の色も
 ない紫野の野辺とでもいうべきだろうか、祭の帰途の行列もなく、
 葵のかづらをかけることもないことを思うと。」
              (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

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02   斎宮おりさせ給ひて本院の前を過ぎけるに、人のうちへ
    入りければ、ゆかしうおぼえて具して見まはりけるに、
    かくやありけんとあはれに覚えて、おりておはします所へ、
    せんじの局のもとへ申し遣しける

  君すまぬ御うちは荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな 
         (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1224番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

○斎宮

 斎宮はミスです。賀茂斎院のことですから、ここでは「斎宮」
 ではなくて「斎院」が正しい名詞です。
 伊勢神宮の場合は「斎宮もしくは斎王」、賀茂社の場合は「斎院
 もしくは斎王」と呼びます。

○おりさせ

 (居りさせ)ではなく(降りさせ)のこと。斎院退下を言います。

○せんじの局

 斎王に仕えていた女官の官職のひとつです。現在風言葉でいうなら、
 斎王の広報官とも言えます。
 参考までに斎院御所に勤仕していた人たちの官職名を記します。

 (男性)
 別当・長官・次官・判官・主典・宮主・史生・使部・雑使・舎人

 (女性)
 女別当・内侍・宣旨・命婦・乳母・女蔵人・采女・女嬬

○君すまぬ

 (君)とは、鳥羽天皇皇女頌子内親王のことといわれます。第33
 代斎王です。約1ヶ月半の短い斎王でした。病により退下。当時
 27歳でした。後に五辻の斎院と言われました。
 
 母は春日局といい、徳大寺実能の養女です。美福門院に仕えて
 いた女房ですが、鳥羽天皇の寵愛を得て、頌子内親王を産みま
 した。  
 頌子内親王は父の鳥羽天皇の菩提を弔うために、高野山に蓮華
 乗院を建立したのですが、それに西行が協力しています。その
 時の書状が今に残っています。「円位書状」と呼ばれています。

○いむ姿

 僧体を指します。自発的な出家であり、西行自身ではむしろ薄墨
 の衣の姿は誇りだったはずです。決して忌む立場、忌む姿では
 ないはずですが、ここでは内親王に対して謙譲的に、自身を一段
 低いものとして表現しているのでしょう。

○ありす川
    
 ここでいう「ありす川」は紫野の斎院御所付近を流れていた川の
 ことです。

 平凡社発行の「京都市の地名」によると、有栖川はかつては紫野、
 賀茂、嵯峨の3ヶ所にあったとの事ですが、現在は嵯峨の有栖川
 しかありません。
 嵯峨を流れる有栖川は斎川(いつきかわ)とも称されるという
 ことですから、嵯峨の野宮の斎王との関係があるのかもしれま
 せん。ただし右京区のこの川名の初出は吉田兼好の「徒然草」
 のようですから、平安時代にも「ありす川」と呼称していたか
 どうかは不明です。
 この小流は大覚寺の北、観空寺谷奥からの渓流と、広沢池から
 流れ出る水源が合流、嵯峨野を南流して桂川に注いでいます。
                   
(詞書と歌の解釈)

「斎院が今はお住みになっていない本院の内はすっかり荒れており、
 かつて斎院が潔斎せられたお姿をうつした有栖川に、忌まれる
 僧形のわが姿をうつしたことでありました。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
  
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03   伊勢に斎王おはしまさで年経にけり。斎宮、木立ばかり
    さかと見えて、つい垣もなきやうになりたりけるをみて

  いつか又いつきの宮のいつかれてしめのみうちに塵を払はむ
      (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1226番・夫木抄)
     
○斎宮

 この詞書の場合は伊勢斎王の居住する施設である(斎宮御所)の
 ことです。

○さかと見えて

 (さか=然か)は(さは・さり)と同義のようです。
 (然は=さは・然り=さり)の意味は(そうは・そのように)です。
 (然か)は少し強い調子で(そうだ・それか)というニュアンスです。
 木立ばかりが目立つ斎宮御所が廃れていくことを嘆く言葉なの
 でしょう。

○つい垣

 敷地の内外を仕切る垣のこと。築地塀。土塀のこと。

○しめのみうち

 注連縄の張られている、その内側のこと。

(詞書と歌の解釈)

 「伊勢神宮に斎宮がおいでにならなくて年を経たことだった。
 斎宮御所は木々の茂っている木立のみが、そうか、斎宮の
 いられたところかと思われるようになっていて、土塀もないの
 と同じように荒れていたので」

「いつの日にかまた、斎宮が心身を清めて神に奉仕され、注連縄
 の張られた聖域のなかの塵をはらうか、その日の一日も早く
 来ることを願っている。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋) 

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04   遠く修行することありけるに、菩提院の前の斎宮にまゐり
    たりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに

  さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
        (岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1142番・
            西行上人集・新古今集・西行物語)

○遠く修行

 遠くとはどこであるか不明です。初めの奥州行脚を指すものと
 みられています。この時代にあって「修行」という言葉は「旅」
 とほぼ同義であったようです。

○菩提院

 岩波文庫山家集では抄物書きの「サ」を二つ縦に重ねたような合字
 です。仁和寺の支院の菩提院と断定できます。

○斎宮

 斎宮はミスであり、正しくは「斎院」です。

○さりともと

 「さ、ありとも」の約。しかしながら・それにしても・
  それでも・そうであっても・・・などの意味。

(詞書と歌の解釈)

 遠い所に旅に出るので、その前に統子内親王の住んでおられる
 菩提院に挨拶に行きました。そして内親王に仕える女房達と
 別れの歌を詠みあいました。

 遠く旅をしますので、どのようになるか分かりませんが、旅から
 帰りつけば、是非ともまたお会いしたいものです。今度の旅は
 死亡後にたどる旅路の別れではありませんから・・・

 次に続く「同じ折、つぼの桜の散りけるを見て〜」という詞書に
 よって、この旅は桜の散る頃にはじめられたことが分かります。
 1145年8月に崩御した待賢門院の喪に服するために、ゆかりの
 女性達は一年間を三条高倉第で過ごしました。この詞書と歌は
 喪のあけた次の年の春ということと解釈できますので、1147年の春、
 西行30歳の時ではないかと思います。
                      (筆者の解釈)

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05   春は花を友といふことを、せが院の斎院にて人々よみけるに

  おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらさまし
            (岩波文庫山家集26P春歌・新潮92番)

○せが院の斎院

 せが院とは清和院のことです。ですから、清和院の中の斎院御所
 のことです。西行の時代は第26代斎院、官子(きみこ)内親王が
 住んでいました。
 官子内親王は1108年11月8日から1123年1月まで斎院でした。
 1090年出生、没年不詳ですが1170年ころまで存命かという説も
 あるようです。白河天皇の皇女です。

(詞書と歌の解釈)

 この詞書は清和院の斎院御所で歌会があって西行も参加したことを
 示しています。西行は何度も清和院の歌会に参加しています。
 ここでも参加した歌人達の個人名まではわかりません

 歌の意味は、もしも桜の花の咲かない年があるとするなら、どの
 ようにして春の日々を過ごしたらいいのだろうか・・・という
 素直な述懐の歌です。「桜」という固有名詞は出していませんが
 「花」はそのまま「桜」を意味していて、桜花に対しての西行の
 思い入れが伝わってくる歌です。
                      (筆者の解釈)

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06   夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに

  春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
            (岩波文庫山家集38P春歌・新潮139番)

○前斎院

 新潮版の山家集では「前斎院」が「せか院の斎院」とあります。
 
(詞書と歌の解釈)

 この歌は上西門院統子内親王関係の歌会とする資料もありますが、
 ここは清和院ですから官子内親王の事を指していると見るのが
 妥当です。いずれにしても「前斎院」という言葉で、上西門院と
 特定することはできません。
 窪田章一郎氏「西行の研究」、安田章生氏「西行」では、上西門院
 と特定していますが、目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」162ページに
 記述のある「清和院歌会への出席は、清和院の景観及び、会衆との
 親しさによるもの」という指摘の方が説得力があると考えます。
 この詞書でも歌会に参加した人々の個人名は不明です。しかし官子
 内親王とは縁戚である源頼政は出席していただろうと考えられます。

 歌は題詠歌でありながら西行らしい情動の世界が広がり、奥の深い
 含蓄のあるものになっています。
 春の風が満開の桜を散らしている夢を見てしまった。夢から覚めて
 みても、気持がさわぎ、不安になって仕方ないことだ・・・という
 ほどの意味ですが、こんな皮相的な解釈などは全く無意味のような
 奥深さが感じられる歌です。
                      (筆者の解釈)

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(参考歌)

 以下の詞書と歌は山家心中集と西行法師家集にあります。
 岩波文庫山家集では16ページにあり、「題しらず」の四首の
 うちの一首です。

07   山水春を告ぐるといふ事を菩提院前斎宮にて人々よみ侍りし

  はるしれと谷のほそみずもりぞくるいはまの氷ひまたへにけり
            (岩波文庫山家集16P春歌・新潮10番・
                 西行上人集・山家心中集)

○菩提院前斎宮

 04番歌と同様に仁和寺の菩提院での歌会を指しています。
 斎宮は斎院の誤りですが、当時は誤りとは言えなかったのかも
 知れません。

(歌の解釈)

 「春の到来を告げるように谷の伏流が岩間から漏れ出て来た。
 張りつめた氷が解けて隙間ができたのだ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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 (清和院)

清和院とは現在の京都御宛にありました。勢賀院とも表記して
いたようです。
もともとは藤原良房の染殿の南に位置していました。良房の娘の
明子は第56代、清和天皇の母であり、明子は清和天皇譲位後の
上皇御所として染殿の敷地内に清和院を建てました。
ちなみに清和天皇の后となった藤原高子はこの染殿で第57代、
陽成天皇を産んでいます。在原業平との関係で有名な女性です。
清和院は清和上皇の後に源氏が数代続いて領有し、そして白河
天皇皇女、官子内親王が伝領しています。清和院の中に官子内親王
の斎院御所があり、そこで歌会が催されていたということです。
その後の清和院は確実な資料がなく不詳ですが、1661年の寛文の
大火による御所炎上後、現在の北野天満宮の近くの一条七本松北に
建てかえられたそうです。
「都名所図会」では1655年から1658年の間に、現在地に移築された
とあります。現在は小さなお寺です。

 (斎宮及び斎院の制度)

政治を「まつりごと」と言うほどに、古代においては祭祀と政治
は一体でした。政冶も祭事も天皇の主催です。
伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)などの行事で、天皇の名代と
なり統括責任者としての役割をになうこと。それが斎宮制度の作ら
れた理由です。
斎宮は、天皇の代替わりごとに未婚の内親王か女王から亀卜に
よって選ばれます。

伊勢斎宮は伝承の時代は別にして、制度化されたのは天武朝に
なってからです。壬申の乱の翌年のことです。天武天皇の大来(大伯)
内親王が初代伊勢斎宮として673年から686年まで奉仕しています。

賀茂斎院は嵯峨天皇の時代の810年に有智子内親王が初代斎院と
して卜定されています。810年の「薬子の乱」が収束してからの
ことです。
これより以降、伊勢の斎宮御所と都の紫野斉院に斎王が居住する
こととなります。
賀茂斎院の場合は、天皇の代替わりごとに交替するという厳格性は
無く、第16代選子内親王などは五人の天皇の代に渡り57年間を斎院
として過ごし大斎院と呼ばれました。

時代が進んで、武士の政権である幕府の樹立があり、相対的に
天皇家の権威の失墜などの理由により、賀茂斎院は1212年、伊勢
斎宮は1330年頃をもって終わりました。伊勢斎宮の制度は600年
以上、賀茂斎院制度は400年間続いたことになります。

 (斎宮の群行=平安時代)

新天皇が即位してから、遅くとも数ヶ月以内に卜定により、新斎王
が決定されます。新斎王は二年から三年にかけて嵯峨の野宮などで
潔斎をしてから、多くは伊勢神宮の神嘗祭に間にあうように旧暦の
九月十日頃には都を立って伊勢に赴きます。

斎王の伊勢下向の行列を群行といい、都から伊勢までの130キロ程度
の距離を五泊六日をかけて行きます。
総勢500人以上の行列になります。斎王は輿に乗り、200人ほどは
馬、その他の人々は徒歩ということになります。

都を夜に立って明け方の午前四時頃に最初の宿泊地である滋賀県の
勢多屯宮に着きます。甲賀、垂水、鈴鹿、壱志の各屯宮を経て、
やっと伊勢にある斎宮御所に入ることになります。道中は禊祓を
繰り返しながらですから、普通では歩いて二日ほどの距離を倍以上
の時間をかけていることになります。

尚、屯宮とは一行の宿泊する施設のことですが、垂水屯宮以外は
具体的な場所までは今では分からないということです。
       「村井康彦氏監修(斎王の道)向陽書房を参考」
      「榎村寛之氏著(伊勢斎宮と斎王)塙書房を参考」

 (菩提院の前斎院)

岩波文庫山家集106ページにカタカナの「サ」を下に二文字重ねた
ような文字があります。
これは「抄物書き」といい、合字です。「ササ菩薩」と言われます。
仏教関係の書籍では菩薩などという言葉は頻繁に出てくる言葉なの
ですが、仏典などを書写する人は何度も書き写す名詞を略して記述
するようになりました。それが「抄物書き」です。
 
ところが「菩薩院」では明らかに変な名詞と思います。私も書物
などで見た記憶がありません。他の多くの資料では当該箇所は
「菩提院」となっています。
仁和寺には実際に「菩提院」がありました。
今回参考歌として取り上げた07番「はるしれと〜」歌にある詞書は
「山家心中集」と「西行法師家集」にあります。そこでは「菩提院」
を表す合字が用いられているそうです。(私は未確認です。)

菩提院は鳥羽天皇と待賢門院を父母とする統子内親王のものでした。
そこに住んだことがあるから菩提院の前斎院と呼ばれたものです。
目崎徳衛氏の「西行の思想史的研究」によれば、1126年に出生した
統子内親王が第28代賀茂の斎院となったのが1127年、斎院退下が
1132年、入内が1157年。この内、斎院退下から入内までの25年間が
「菩提院の前斎院」と呼ばれていた期間だと、考察されています。
 
【西行】

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて活躍した歌人。
 このマガジン「西行辞典」の主題となる人物。

『生没年』

 1118年出生。出生地は京都と思われます。和歌山県那珂郡打田町説
 (現、紀の川市)もありますが、佐藤家の生活の基盤は京都に
 あったために、京都で出生したものと推定されます。
 1190年(文治6年)2月16日、河内の国、弘川寺で死亡。没年73歳。
 「西行物語」では京都の双林寺での死亡としていますが、それは
 創作であるとみなされています。

『俗名』

 佐藤義清(のりきよ)。「憲清」とも表記されています。

『係累』

 父は佐藤康清。左衛門尉・検非違使を歴任したことが「尊卑分脈」
 などに見えます。康清の名は義清が三歳の頃から資料に見えなく
 なりますので、義清が幼児もしくは少年期に康清は亡くなった
 ものかとみられています。

 母は尊卑分脈では監物源清経の娘とされています。ただし確証はなく、
 監物源清経の娘とするには時代が合わないらしくて、窪田章一郎氏
 「西行の研究」では、(母の出自は不明)としています。
 目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」でも(監物源清経)は系譜未詳
 とした上で、後白河院の「梁塵秘抄口伝集」や藤原頼輔の「蹴鞠
 口伝集」などの典籍を精査して、(監物清経)が西行の外祖父に
 あたる人物として同定されています。
 この時代には「清経」名の人が複数人いて、尊卑分脈の(監物源清経)
 が梁塵秘抄口伝集などに見える(監物清経)と同一人物であるのか
 どうかは断定できないようです。同一人物としても系譜未詳のため、
 これ以上調べることは不可能なのでしょう。
 
 義清の弟に仲清がいます。兄との説もありますが弟と断定してよい
 ようです。義清出家後に仲清が佐藤家を継ぎました。
 仲清には能清と基清の二人の男子があり、能清は佐藤家を継ぎ、
 基清は一族の後藤家に養子に行って後藤基清と名乗ります。
 この基清は源平合戦の折に源義経と行動を共にしていたことが
 平家物語巻十一などに見えます。

 妻は藤原家から出た葉室家の娘とも言われますが、確実な書物は
 なく、断定することはできません。
 鴨長明「発心集」によると、高野山の麓の天野別所で尼として
 暮らしていたとのことです。

 この妻なる女性との間にと思われますが、女子一人と男子二人の
 子どもがいたようです。
 男子の一人は尊卑分脈に見え、新古今集歌人で700番歌の作者、
 権の律師「隆聖」。この隆聖については西行の子と断定してよさ
 そうです。
 もう一人は崇徳院御廟の権別当だったという「慶縁」という人物
 ですが、確実な資料がなく西行の子として断定はできないものの、
 否定もできないようです。
 女子の存在は(西行物語)で有名ですが、発心集その他の資料にも
 この女子の記述があり、間違いなく西行の子と言えます。
 この女子も出家して尼となり、天野別所に行って母と共に暮らした
 ことが知られています。

『系譜・出自』

 藤原鎌足から義清までの血脈を記してみます。
 しかし鎌足から義清までの間には別の多くの氏族の血が混入して
 いる訳ですから、藤原氏の後裔と言っても、あまり意味の無い
 事だろうと思います。
 また系図は完全に信用できるかというとそうではなくて、むしろ
 信用できない部分がたくさんあるものと思います。

 藤原鎌足→不比等→房前→魚名→鷹取→藤成→村雄→秀郷→千常→
 公脩→文行→公行→公光→公清(佐藤)→季清→康清→仲清→
 能清→光清→成清

○ 魚名流藤原氏没落。藤原藤成、関東下向、下野に土着。

○ 秀郷、下野田原郷に居館を構える。916年、罪を犯して配流。
  929年にも罪を犯して処罰される。940年、新天皇を自称していた
  平将門を滅ぼし、その恩賞として従四位下、下野、武蔵の国主と
  なる。
  室町時代に「俵藤太絵巻」ができる。近江三上山のムカデ退治伝説
  が作られる。

○ 秀郷の子に千常、千晴がおり、千常、千晴、968年、信濃の国で
  乱を起こす。源高明に臣従していた千晴は天皇廃位を図るという
  安和の変に連座して、隠岐に配流となる。

○ 1022年、文行、関東から一家で京都に移住。大夫判官、従五位下
  となる。この時に藤原文行の京都の邸宅が新築もしくは改築
  されたものと考えられる。
  千常からの西行の祖先は関東の在地と京都の間を行き来する生活を
  送っていました。京都で官職を得ていたことが理由です。

○ 公清、始めて佐藤姓を名乗る。佐藤姓の祖となる。ただし公清の
  兄弟も多く佐藤性を名乗っていますから、公清より早くに佐藤に
  改姓したと解釈するほうが自然です。

○ 1140年10月15日義清出家。
  1150年代半ばより仲清、能清、紀伊の国で隣接する高野山領の
  荒川荘に対して押妨を繰り返す。1160年頃から1180年頃まで続く。
  この過程で仲清、能清は平氏との結びつきを強くする。

○ 義清、生涯に最低二度の陸奥行脚。最後は東大寺大仏の鍍金の
  ための金の拠出を藤原秀衡に要請するため。

  西行と奥州藤原氏の関係は西行もそして当時の社会も同族と認め
  ていたようです。その関係で間違いないものと思われます。
  しかし平成五年に発行された高橋富雄氏の「奥州藤原氏」でも
  「藤原氏の系図は、初代清衡の父経清までは、正確なことが、
  まったく不明である。」という如くに、とてもわからないもの
  です。清衡(藤原→清原→藤原と改姓)にしても藤原氏という
  よりも(安倍氏)と言って良いほどに安倍氏の血が濃くなって
  います。それでも秀郷を祖とする同族として、表に出ない形での
  同族だけに分かる何かしらの契があったのかも知れません。
    
『西行の邸宅』 

 京都の三条坊門室町東にありました。(京都市の地名)
 現在の烏丸御池近くの「円福寺町」にあたります。
 「西行の研究」では、油小路二条下がるにあったと記述されて
 います。現在の二条城の少し東になります。両所は少し離れて
 います。
 別人の(則清)宅も油小路二条付近にあったようですから、油小路
 二条説は無理があるかも知れません。同定は困難だと思います。

 なお、鳥羽院の下北面の武士であった頃には、鳥羽にも別宅を
 構えていたものと思われます。(後の西行寺)

 西行出家後の佐藤氏の邸宅については西行自身が邸宅を維持して
 郎党を住まわせたはずはないと思いますが、弟の仲清に伝領されて、
 生活の場として維持されていたものと思われます。

『随身・兵衛尉・北面の武士』

 1133年、西行16歳頃に徳大寺実能の随身になったものと考えられ
 ます。正確にはいつのことなのか、また、なぜ徳大寺実能の随身に
 なったのか不明のままです。徳大寺家との縁故があったのかどうか
 も定かではありません。
 考えられるのは当時は徳大寺家が紀伊の国の国主であり、佐藤家と
 徳大寺家は荘園「田仲荘」を介して比較的良好な関係を築いていた
 らしいということがあげられます。
 
 1135年7月、西行18歳の年に成功にて「兵衛尉」に任じられて
 います。これは当時の相場で「絹一万匹」という高額なものです
 から、貧窮している家の用意できるものではなかったようです。 
 もともと西行の祖父季清の時代には田仲荘だけでなく隣接する
 池田荘も合わせて管轄していて、自前の大寺の建立計画もあった
 ようです。それ程に佐藤家は富んでいたものと推測できます。
 兵衛尉の仕事は内裏の中の担当場所の警戒、見回りなどですが、
 常時詰めていたものではないと思います。
 位階は四等官のうちの三等官で従六位下です。

 「成功=じょうごう」とは、平安時代中期以降に官職を売っていた
 制度に応じたということです。朝廷は成功で得たお金は各建物の
 造営費用などに充当していました。
 売られていた官職は専門性がない職掌で、下等官に限られていた
 ようです。

 鳥羽院の「下北面の武士」となったのも何年のことなのか不明です。
 18歳から19歳頃の事だろうとみなされます。
 鳥羽院の政庁の北の場所にあった詰所に詰めていて、仕事は主に
 鳥羽院の外出の際の供奉などですが、院を警護する武人として、
 今日で言う警官的な役割も担っていました。
 「北面の武士」の制度は白河院が創設した制度であり、上下に分か
 れています。身分の低い五位や六位の武人は下北面でした。上北面は
 それより上の官位の者が就いていましたが、しかし昇殿を許されて
 いない場合はいくら官位が高くても上北面にはなれなかったという
 説もあります。
 
『出家』

 1140年10月15日。西行23歳。(百錬抄)
 法名は(円位)。西行法師・大宝坊とも号しました。
 出家の原因については失恋説、厭世説などがありますが、すべて
 推測でしかないためにここでは触れません。

『私家集』

○山家集

 西行が書き記したものは、これまで伝わってくる過程でさまざま
 な異動があります。それをここに詳しく記述することは長くなり
 ますから避けたいと思います。

 新潮日本古典集成山家集 後藤重郎 校註 新潮社発行
 和歌文学大系21 山家集/聞書集/残集 久保田淳 監修 明治書院発行

 現在、以上の二誌が比較的簡単に入手できます。
 このうち新潮社版の山家集の歌数は1552首です。明治書院版では
 1568首があります。歌数が同じでないのは、底本が異なっている
 ためです。
 
○聞書集

 佐佐木信綱博士によって昭和4年に発見されたもので、国宝です。
 扉の「聞書集」の文字は藤原定家筆、本文は寂蓮法師筆と伝えら
 れています。短歌261首、連歌2首があります。

○聞書残集

 伊藤嘉夫氏によって昭和9年に発見されたもので、聞書集に続く
 残集です。短歌25首、連歌7首があります。
 聞書集と同時代に同所で編まれたものです。

○山家心中集

 山家集中の歌をほぼ精選して収められたものと考えられます。
 ただし山家集に見えない歌9首も含んでおり、歌数合計374首、
 そのうち西行詠360首、他者詠になる歌14首があります。

○西行法師歌集

 西行上人集とも異本山家集とも呼ばれています。
 これまでの伝わり方の系統によって歌数は異なりますが、だいたい
 600首前後の歌数です。
 この歌集も山家集からの抄出と解釈しても差し支えないようですが、
 ただし初出歌が140首もあって、まだまだ今後の研究が待たれる
 部分も多いのではないかと思います。

○御裳濯河歌合

 西行最晩年の陸奥行脚の前後に編まれて、伊勢神宮内宮に奉納
 された自歌合です。左は山家客人、右は野径亭主という架空の
 人物の作として、36番合計72首を番えて、藤原俊成に判を依頼
 しました。

○宮河歌合

 この自歌合は伊勢神宮外宮に奉納され、左は玉津島老人、右は
 三輪山老翁として、藤原定家に判を依頼しています。当時、
 定家は26歳でした。
 御裳濯河歌合と同じく36番合計72首を番えています。

『勅撰集』

○1151年、藤原顕輔撰の「詞花集」に1首、よみ人しらずで撰入。
 「身を捨つる人はまことにすつるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
 この歌が勅撰集の初出です。崇徳院の下命。

○1188年、藤原俊成撰の「千載集」に18首撰入。後白河院の下命。

○1205年、藤原定家らの撰進になる「新古今集」に歌人中で最も
 多い94首撰入。後鳥羽院の下命。

○その他の勅撰集は、新勅撰集14首、続後撰集13首、続古今集10首、
 続拾遺集9首、新後撰集11首、玉葉集57首、続千載集4首、続後拾遺集
 3首、風雅集13首、新千載集4首、新拾遺集9首、新後拾遺集3首、
 新続古今集3首があります。

『おもな旅』

○ 出家後、間もない頃に伊勢や大和をめぐる。吉野山にも行った
  ものと思われる。

○ 30歳頃に初めての陸奥旅行をする。東海道から東山道の国々の
  方々に逗留しながら半年ほどをかけて陸奥に行く。
  平泉で年を越し、春から夏にかけて京都に戻る。

○ 31歳か32歳頃に高野山に生活の拠点を移す。
  京都、熊野などにしばしば小旅行をする。

○ いつとは知られないけれども西国への旅をする。
  備前児島、安芸一宮などに詣でる。

○ 1168年、51歳の時に四国、山陽の旅に出る。崇徳院の白峰稜に
  参拝し、弘法大師ゆかりの善通寺では庵を構えて、しばらく滞在
  する。山陽では児島、塩飽諸島などを巡覧する。

○ 1180年頃に伊勢に移住して二見浦や伊勢神宮近くに庵を構える。

○ 1186年、最後の陸奥旅行に出る。鎌倉で頼朝と会談。
  同年、もしくは次の年に京都に戻る。 
  
『田仲荘のその後』

 摂関家の所領であり、西行の佐藤家が預所として代々管理運営して
 いた田仲荘ですが、鎌倉時代に入ると佐藤家の手を離れてしまった
 ようです。
 保元の乱、平治の乱、源平合戦と過ぎて、それまでの天皇・貴族
 社会から武家社会へと激動の時代を辿り、その過程で荘園制度その
 ものも変質して行きました。時代は中世に移行していたのです。
 幕府は御家人たちに領地を分与し、領主となった御家人たちは
 荘園管理を地頭に委ねました。

 しかしそれより以前に、平氏との関係を強化していた仲清・能清
 親子の管理する田仲荘は、平氏が没落して行く中で源義仲に取り
 上げられて佐藤氏の同族の尾藤氏に与えられたという申し文が
 「東鑑」にみえます。
 能清の弟の基清は鎌倉幕府の御家人として、以後も資料に名前が
 見えますが、仲清・能清の名前は出てこなくなりますので、佐藤家
 は没落したものとみて良いでしょう。
 東鑑の記述が事実だとしたら、西行も当然にそれを知っている
 はずですし、義仲の仕打ちに対しての怒りの感情もあったはずです。
 そのことが聞書集にある義仲に対しての厳しい批判的な言葉に
 なっているのかも知れません。

『交友・知遇』

(皇室関係)

 鳥羽院・崇徳院・覚性法親王・宮の法印・待賢門院・上西門院・
 八条院
 
(貴族・武士関係)

 藤原俊成・藤原定家・藤原実行・藤原実能・藤原公能・藤原公重・
 藤原実定・藤原家成・藤原茂範・藤原修範・藤原成通・藤原範綱・
 藤原宗輔・藤原基家・藤原為忠・藤原隆信・藤原頼長・藤原秀衡
 
 平忠盛・平清盛・平時忠
 
 源頼朝・源頼政・源通親・源雅定・源忠季・源俊高

(僧侶関係)

 慈円・寂蓮・想空・西住・寂然・寂超・寂念・空仁・覚雅・覚堅・
 兼賢・俊恵・勝命・静忍・浄蓮・登蓮・行遍・公誉法眼・阿弥陀房・
 観音寺入道生光・菩提山上人良仁・荒木田氏良

(女性)

 待賢門院堀川・待賢門院中納言・待賢門院帥・上西門院兵衛・
 尾張の尼上・大宮の加賀・院の少納言の局・小侍従・宣旨の局・
 六角の女房・三河内侍・殷富門院大輔・院の二位・江口の妙
 
(その他、詞書・歌に出てくる人名)

 後三条院・白河院・二条天皇・近衛天皇・高倉天皇・花山院・
 美福門院・五辻の斎院・官子内親王
 藤原実方・阿倍仲麻呂・平宗盛・平清宗・源義仲・弘法大師空海・
 行基・能因・行尊・仲胤・金岡・きせい・良暹・理性房の法眼賢覚・
 別当湛快・三河入道寂照・范蠡
 平時子・赤染衛門・周防内侍・寂然妹・崇徳院の女房・宮立て

『京都の関係遺跡』

 詞書、歌に出てくる京都の地名及び寺社名については割愛します。

○西行桜

 西行桜は西京区の法輪寺の少し南の「西光院」にあります。
 法輪寺門前の道路側の標柱の裏に「西行桜跡」の文字が刻まれて
 います。江戸時代には西行桜とは西光院にある西行桜を指していた
 ものでしょう。江戸時代の古地図を見る機会がありましたが、
 西光院には6本ほどの西行桜の木が描かれていました。
 尚、大原野の勝持寺にも西行桜という名称の木があります。
 説明板によると現在は3代目とのことですが、古書を読み合わせ
 れば6代目か7代目だろうと思わせます。

○西行庵

 東山の双林寺の道路を挟んだ飛び地にあります。
 西行像及び頓阿像が祀られ、堂前には西行桜があるとのことですが、
 個人の敷地らしく入って行くのはためらわれて、私は未見です。
 庵は江戸時代初期には作られていたようですが、いろんな方の尽力
 により現在も存続しています。
 すぐ側に芭蕉庵もあります。

○西行水

 三条坊門室町東の西行の邸宅にあった水を言います。名水として
 有名だったようですが、現在はその跡は不明です。
 
○西行井戸

 この井戸は落柿舎(らくししゃ)の裏手の向井去来の墓のある
 細い通りにあります。ただし、この井戸については「都名所図会」
 でも記載がありません。井戸そのものは古くからあったようですが、
 古い嵯峨地誌にも載っていないようです。伝承もなく平成の時代に
 なって突然に西行井戸と名付けられたものであり、したがって、
 その信憑性については疑問視しています。

○西行寺

 鳥羽の安楽寿院の少し東に小さな祠と「西行寺跡」の石碑があり
 ます。西行北面時代の邸宅跡と伝わります。
 西行はここで落飾出家して、以後はお寺に改めたということです。
 西行出家のお寺は勝持寺が有名ですが、確かな記録はなく、どこで
 出家したかは不明のままです。
 出家の可能性のある所は他にもありそうです。

『西行年表』

1118年    西行生まれる。出生地は京都と思われる。

1133年 16歳 徳大寺家の随身となった頃と考えられる。蹴鞠、
       和歌を習う。
   
1135年 18歳 成功(一種の買官)により、兵衛尉となる

1136年 19歳 鳥羽院の北面の武士となるか?

1138年 21歳 法輪寺に空仁を訪ねたのはこの年か?。西住同行。

1139年 22歳 鳥羽東殿三重塔落慶。鳥羽上皇墓所。徳大寺実能に
       従って安楽寿院に行く。鳥羽の西行邸なるか?

1140年 23歳 10月15日出家。出家場所は不明。法名は円位。西行、
       大宝房と号する。鳥羽院に出家の暇の歌を詠む。

1141年 24歳 鞍馬、嵯峨、東山などを転々として過ごす。

1145年 28歳 待賢門院没。女房達は三條高倉第で一年間の服喪に
       入る。西行に少なからぬ心理的影響がある。  

1147年 30歳 初めての陸奥への旅に出たと考えられる。春に出発。
       法金剛院で、上西門院の女房達に旅立ちの挨拶をする。
       陸奥の平泉まで行き、年を越す。

1148年 31歳 平泉の束稲山の桜を見る。

1149年 32歳 高野山に移住か?

1151年 34歳 詞華和歌集に「身を捨つる・・・」の歌が読み人
       知らずとして入集する。

1156年 39歳 鳥羽院崩御に際し鳥羽の安楽寿院に行く。これまでも
       たびたび高野山から京都にくる。保元の乱が起こり、
       白河北殿に拠っていた崇徳院は敗れて、仁和寺に入る。
       西行、仁和寺に駆けつける。崇徳院、讃岐に配流。
              
1160年 43歳 美福門院の遺骨を高野山で迎える。寂超の子の隆信と
       成通が京都から遺骨を携えて高野山に行く。

1166年 49歳 院の二位の局、藤原朝子没。哀傷歌十首がある。

1168年 51歳 四国の旅に出る。白峰陵、善通寺などを巡覧。

1172年 55歳 清盛に招かれて摂津和田の萬燈会に参席。

1180年 63歳 この年に高野山から伊勢に移住したと考えられる。

1186年 69歳 7月に伊勢を発ち陸奥に向かう。8月15日に頼朝と
       鎌倉で会談。 

1187年 70歳 春頃に陸奥から京都に帰るか?。先年の冬に帰った
       ものか?

1188年 71歳 千載集に18首が入集。

1189年 72歳 8月頃までには河内の弘川寺に移る。

1190年 73歳 2月16日、弘川寺にて入寂。    

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『参考文献』

高橋庄次著『西行の心月輪』・安田章生著『西行』・窪田章一郎著
『西行の研究』・目崎徳衛著「西行の思想史的研究』・桑原博史著
『西行とその周辺』・岡田隆著『歌碑が語る西行』・名古屋茂郎著
『山家集の風土と風景』・佐藤和彦・樋口州男編『西行のすべて』・
有吉保著『西行』高橋富雄著『奥州藤原氏』ほか
  
中央公論社『日本の歴史』・新人物往来社『歴史読本』・
平凡社『京都市の地名』・ちくま書房『都名所図会』・秋田書店
『歴史と旅』ほか。

新潮社『山家集』・明治書院『山家集/聞書集/残集』・第一書房
『山家集』・岩波文庫『山家集』・渡部保著『山家集全注解』ほか。

【西住】

 俗名は源季政。生没年未詳です。醍醐寺理性院に属していた僧です。
 西行とは出家前から親しい交流があり、出家してからもしばしば
 一緒に各地に赴いています。西行よりは少し年上のようですが、
 何歳年上なのかはわかりません。
 没年は1175年までにはとみられています。
 千載集歌人で4首が撰入しています。
 同行に侍りける上人とは、すべて西住上人を指しています。
 没後、西住法師は伝説化されて晩年に石川県山中温泉に住んだとも
 言われています。現在、加賀市山中温泉西住町があります。

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01    為忠がときはに為業侍りけるに、西住・寂為まかりて、
     太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、まかり 
     たりけり。有明と申す題をよみけるに

 こよひこそ心のくまは知られぬれ入らで明けぬる月をながめて
              (岩波文庫山家集264P残集13番)
         
02    中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと
     聞きて、天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮
     など申す上人どもして見けるに、いとあはれにて、
     各述懐しけるに

 折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
      (岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

03    五條三位入道、そのかみ大宮の家にすまれけるをり、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世のものがたり申し
     けるついでに、向花念浄土と申すことを詠みけるに

 心をぞやがてはちすにさかせつるいまみる花の散るにたぐへて
              (岩波文庫山家集259P聞書集244番)
   
04    高野の奧の院の橋の上にて、月あかかりければ、もろ
     ともに眺めあかして、その頃西住上人京へ出でにけり。
     その夜の月忘れがたくて、又おなじ橋の月の頃、
     西住上人のもとへいひ遣しける

 こととなく君こひ渡る橋の上にあらそふものは月の影のみ
      (岩波文庫山家集137P羇旅歌・新潮1157番・夫木抄)
                     
 思ひやる心は見えで橋の上にあらそひけりな月の影のみ
(西住上人歌)(岩波文庫山家集138P羇旅歌・新潮1158番・夫木抄)
              
05    醍醐に東安寺と申して、理性房の法眼の房にまかりたり
     けるに、にはかにれいならぬことありて、大事なりけれ
     ば、同行に侍りける上人たちまで来あひたりけるに、雪
     のふかく降りたりけるを見て、こころに思ふことありて
     よみける

 たのもしな雪を見るにぞ知られぬるつもる思ひのふりにけりとは
              (岩波文庫山家集257P聞書集233番)

 さぞな君こころの月をみがくにはかつがつ四方にゆきぞしきける
       (西住上人歌)(岩波文庫山家集258P聞書集234番)

○為忠

 藤原為忠。生年未詳。没年1136年。三河守、安芸守、丹後守など
 を歴任して正四位下。右京区の常盤に住みました。
 頼業(寂然)、為経(寂超)、為業(寂念)などの、常盤三寂
 (大原三寂とも)の父です。親しい人達と歌のグループを作って
 いて、為忠没後も歌会は為忠邸で開かれていたことがわかります。

○ときは

 右京区常盤。藤原為忠の屋敷が右京区の常盤にありました。

○為業

 寂念。大原三寂の中で一番遅く出家。岩波文庫山家集176ページに
 (為なり)名での贈答歌があります。205ページの(三河内侍)は
 寂念の娘です。

○寂為

 寂然の誤記と考えられます。

○太秦

 太秦は現在の京都市右京区にある地名です。古代は秦氏の本拠地
 でした。太秦には広隆寺などがあります。
 広隆寺は前身を蜂岡寺といい、聖徳太子の命により秦河勝の創建
 と言われます。同寺には国宝第一号指定の「弥勒菩薩像」があり
 ます。
 「太秦に籠もりたりける」で、広隆寺に籠もっての歌会であると
 解釈できます。
 広隆寺に籠ることは「更級日記」などにも記述があります。

○有明

 まだ明けきらぬ夜明けがたのこと。月がまだ空にありながら、
 夜が明けてくる頃。月齢16日以後の夜明けを言います。

○心のくま

 心の奥底に秘めている大切な思いのこと。

○中納言家成

 藤原家成。1107年〜1154年。48歳。美福門院の従兄弟で、その
 縁故によって鳥羽院の寵臣となっていたことが「台記」や
 「愚管抄」に見えます。

 家成の子に家明がいます。西行の女子は葉室家の出である冷泉殿の
 養女として養育されていました。冷泉殿の妹と家明が結婚して、
 西行の娘は家明の邸に移ることになりました。西行の娘はそこで
 召使のように扱われていたそうです。
 それを知って、西行は娘を出家させたという話が発心集にあるそう
 です。それが事実だとすれば西行は家成、家明親子に対して良い
 印象は持っていなかったものと思います。

○渚の院したてて

 「渚の院」は摂津の国交野にあった惟喬親王の別業で、在原業平
 ともゆかりのある所でした。家成が、渚の院を再興したのですが、
 すぐに取り壊してしまいました。そのことを批判的に詠っています。

 渚の院跡は淀川南岸にあり、現在の行政区分では「枚方市渚元町」と
 なります。
 明治29年までは現在の交野市と枚方市の大部分の地が「交野郡」でした。

○こぼたれぬ

 壊されたということ。破却されたということ。

○浄蓮

 不詳ですが、静蓮法師という説もあります。
 静蓮法師とするなら、千載集1015番の作者であり、60ぺージの
 「鹿の音や・・・」歌の忍西入道と同一人物の可能性も指摘
 されています。(和歌文学大系21を参考)

○世にあるかひも

 世に生きている甲斐もない、という事と、渚の縁語の貝を掛けて
 います。

○五條三位入道

 藤原俊成のこと。1176年に出家して釈阿と号します。
 五条は五条東京極に住んでいたため、三位は最終の官位を指して
 います。

○大宮の家

 藤原俊成が葉室顕廣と名乗っていた時代に住んでいた家のことです。
 俊成は1167年12月に葉室顕廣から藤原俊成にと改名しています。
 大宮の家は俊成の家ではなくて葉室家の邸宅のあった場所ではない
 かとも思えます。歌も1167年12月以前のものと考えられます。

 俊成の家としては「五条京極第」が知られています。五条とは現在
 の松原通りのこと。京極とは東京極で今の寺町通りのことです。
 だから五条京極第は寺町松原あたりにあったとみるのが妥当です。
 大宮とは離れています。
 現在、烏丸松原下る東側に「俊成社」という小さな祠があります。
 このあたりが三位入道時代の俊成の住居があった所です。

○後世のものがたり

 死後のことを話し合ったということ。極楽浄土の話題のこと。

○はちすにさかせつる

 浄土の蓮華のように心の花を咲かせるということ。

○いまみる花の散る

 無常感からの開放をいう。死を賛美しているようにも取れます。

○高野の奧の院の橋の上

 高野山の奥の院は弘法大師空海が没した場所として知られて
 います。橋は玉川にかかる橋ですが、いくつかある橋のうちの
 どの橋かまではわかりません。

○こととなく

 なんということはなしに。格別の事情があるわけでなく自然に。
 
○醍醐に東安寺

 醍醐寺の中にあったお寺ですが、消失してから再建されていません。
 応仁、文明と続く乱で1470年に焼亡したようです。
 場所は現在の三宝院と理性院の中間にあったとのことです。
 
○理性房の法眼

 賢覚法眼のこと。1080年〜1156年在世。賢覚は下醍醐に理性院を
 開き、真言密教小野六流の内の理性院流の祖となっています。
 西住は賢覚法眼の弟子27人の内の一人です。

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(01番歌の解釈)

 「今宵こそ心に秘めていたことはわかったよ。西の空に入らない
 うちに夜が明けてしまった有明の月をじっと見つめて。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

(02番歌の解釈)

 「その時その時につけて人の心も様々に変わってしまうので、
 この世に生きていることも甲斐ないと思わせる渚の院だなあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)

 「私の心をそのまま浄土の蓮に咲かせたことだよ。今見る花が
 散るのに連れ添い行かせて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「聖地奥の院の橋の上にいても、何ということもなくあなたに
 逢いたいという気持ちが続いている。聖地を照らす月があまりに
 美しくて、思い出すのはあなたと見たあの時の月だけである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
 
「私のことを心配して下さっているのかと思っていました。あなたの
 心の中で妍を競っていたのは、あの夜の聖地の橋の月と今の月と、
 だけだったんじゃないですか。」
       (西住法師の返歌)(和歌文学体系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「頼もしいな。雪を見るにつけて知られたよ。今までに
 積もる煩悩が過去のものとなり、清らかな雪となって降って
 しまったとは。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「その通りだ、君よ。心の月を磨くにつけては、ようやくその
 かいが表れて、四方に清らかな雪が降り敷いたのだ。」
      (西住法師の返歌)(和歌文学体系21から抜粋)

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06    雨の降りければ、ひがさみのを着てまで来たりけるを、
     高欄にかけたりけるを見て   

   ひがさきるみのありさまぞ哀れなる  
     (前句、西住法師)(岩波文庫山家集265P残集16番)

      むごに人つけざりければ興なく覚えて

   雨しづくともなきぬばかりに
       (付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集16番)

07    いまだ世遁れざりけるそのかみ、西住具して法輪にまゐ
     りたりけるに、空仁法師経おぼゆとて庵室にこもりたり
     けるに、ものがたり申して帰りけるに、舟のわたりのと
     ころへ、空仁まで来て名残惜しみけるに、筏のくだりけ
     るをみて
                             
   はやくいかだはここに来にけり 
     (前句、空仁法師)(岩波文庫山家集267P残集22番)

     薄らかなる柿の衣着て、かく申して立ちたりける。優に
     覚えけり

   大井川かみに井堰やなかりつる
       (付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集22番)

08    かくてさし離れて渡りけるに、故ある聲のかれたるやう
     なるにて大智徳勇健、化度無量衆よみいだしたりける、
     いと尊く哀れなり

   大井川舟にのりえてわたるかな
       (前句、西行)(岩波文庫山家集268P残集23番)

   流にさををさすここちして
     (付句、西住法師)(岩波文庫山家集268P残集23番)

○ひがさみの

 「ひがさ」はヒノキの薄い板を編んで作った笠。晴雨どちらにも
 使います。

 「みの」は萱や菅などの葉や茎を利用して編んだ雨具です。
 肩からはおって着ます。
 
○むごに

 (無期に)と書いて(むごに)と読ませています。
 いつまでたっても誰も付句を詠まないことを言っています。

○空仁法師

 生没年未詳。俗名は大中臣清長と言われます。
 西行とはそれほどの年齢の隔たりはないものと思います。西行の
 在俗時代、空仁は法輪寺の修行僧だったということが歌と詞書
 からわかります。
 空仁は藤原清輔家歌合(1160年)や、治承三十六人歌合(1179年)
 の出詠者ですから、この頃までは生存していたものでしょう。
 俊恵の歌林苑のメンバーでもあり、源頼政とも親交があったよう
 ですから西行とも何度か顔を合わせている可能性はありますが、
 空仁に関する記述は聞書残集に少しあるばかりです。
 空仁の歌は千載集に4首入集しています。

 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになればかなしかりけり
                (空仁法師 千載集1119番)

○柿の衣

 渋柿の渋で染めた衣です。茶色っぽい色になります。

○井堰

 原意的には(塞き)のことであり、ある一定の方向へと動くもの
 を通路を狭めて防ぐ、という意味を持ちます。
 水の流れをせきとめたり、制限したり、流路を変えたりするため
 に土や木材や石などで築いた施設を指します。現在のダムなども
 井堰といえます。
 今号の西行歌は、当時の大堰川で井堰の設備が施されていたこと
 の証明となります。この当時の井堰が現在も渡月橋上流にあります。

○大智徳勇健、化度無量衆

 法華経の巻第五提婆達多品にある文言です。「大智徳」とは知や
 徳を備えている偉大な存在で文殊菩薩のことだそうです。
 人と人が分かれる時に唱える言葉でもあるようです。
 こういうことになると私も全く理解出来ないというのが実情です。

○流にさををさす

 舟を進めるために棹を水底に突き刺すという意味です。
 出家ということに向かう心の流れに棹を指して、出家の思いを
 早く成就しょうということです。

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(06連番歌の解釈)

 (前句、西住)
 「檜笠をかぶる身の有様はあわれだなあ。」

 (付句、西行)
 「涙を雨の雫のようにぼたぼた落として泣いてしまうほど。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(07番連歌の解釈)   

(前句、空仁)
 おやまあ、もう筏はここにやって来たよ。

(付句、西行)
 大堰川の川上にこの筏を堰く井堰はなかったのかね。
               (和歌文学大系21から抜粋)

(08番連歌の解釈)

(前句、西行)
 「船に乗ることができてこの大堰川を渡るよ(仏の法を得て
 彼岸に到達するよ)」

(付句、西住)
 「流れに棹さす心で(この機会を逃すことなく世を背こうと
 いう心で。)」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(連歌)

 「詩歌の表現形態の一つです。古くは万葉集巻八の大伴家持と尼に
 よる連歌が始原とみられています。平安時代の「俊頼髄脳」では
 連歌論も書かれています。
 以後の詩歌の歴史で5.7.5.7.7調の短歌が、どちらかというと停滞
 気味であるのに対して、連歌は一般の民衆にも広まって、それが
 賭け事の対象ともなり爆発的な隆盛をみます。
 貴族、公家も連歌の会を催し、あらゆる物品のほかに金銭も賭け
 られたということです。
 「連歌師」という人たちまで出て、白川の法勝寺、東山の地主神社、
 正法寺、清閑寺、洛西の西芳寺、天龍寺、法輪寺などでも盛んに
 連歌の興行がされました。
              (學藝書林刊「京都の歴史」を参考)

 後にこの連歌の形式が変化して、芭蕉や蕪村の俳諧、そして正岡
 子規によって名付けられた俳句にと引き継がれます。

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09   年ひさしく相頼みたりける同行にはなれて、遠く修行して
    帰らずもやと思ひけるに、何となくあはれにてよみける

 さだめなしいくとせ君になれなれて別をけふは思ふなるらむ
        (岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1092番)

10   四国のかたへ具してまかりたりける同行の、都へ帰りけるに

 かへり行く人の心を思ふにもはなれがたきは都なりけり
        (岩波文庫山家集109P羇旅歌・新潮1097番・
                   新後撰集・万代集)
  
11   西の国のかたへ修行してまかり侍るとて、みつのと申す
    所にぐしならひたる同行の侍りけるに、したしき者の例
    ならぬこと侍るとて具せざりければ

 山城のみづのみくさにつながれてこまものうげに見ゆるたびかな
    (岩波文庫山家集117P羇旅歌・新潮1103番・新千載集)
                
12   夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所にすずみて、
    下向しける人につけて、京へ同行に侍りける上人の
    もとへ遣しける

 松がねの岩田の岸の夕すずみ君があれなとおもほゆるかな
         (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1077番・
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)
 
13   同行に侍りける上人、月の頃天王寺にこもりたりと
    聞きて、いひ遣しける

 いとどいかに西にかたぶく月影を常よりもけに君したふらむ
         (岩波文庫山家集174P雑歌・新潮853番)

14   同行にて侍りける上人、例ならぬこと大事に侍りけるに、
    月のあかくて哀なるを見ける

 もろともにながめながめて秋の月ひとりにならむことぞ悲しき
         (岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮778番・
             西行上人集・山家心中集・千載集)

15   同行に侍りける上人、をはりよく思ふさまなりと聞きて
    申し送ける
                    
 乱れずと終り聞くこそ嬉しけれさても別はなぐさまねども
  (寂然法師歌)(岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮805番・
    西行上人集・山家心中集・千載集・月詣集・寂然集)
 
 此世にて又あふまじき悲しさにすすめし人ぞ心みだれし
         (岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮806番・
        西行上人集・山家心中集・千載集・月詣集)

○君になれなれて

 ずっと長く交流があり、馴れ親しんでいる間柄のこと。

○みつの

 現在の京都市伏見区淀三豆町のことと見られます。
 宇治川、桂川、木津川の三川合流地点の少し上にあり、宇治川と
 桂川に挟まれています。
 豊臣氏の築いた淀城の南側に位置します。
 宇治川を超えて東に「御牧」という地名が現在も残っています。
 そのことからみて平安時代の三豆は現在よりもはるかに広い範囲
 を指していたものと思われます。

 かり残すみづの真菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
       (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1018番・夫木抄)

 上の歌のように「三豆」と解釈できる歌が山家集に4首あります。
 新潮版で言うと、221、1018、1103、1527番です。

◯みくさ

 若文学大系21では、水草として解釈されています。馬が食べる
 草ですから、水生の植物ではないようにも思いますが、よく
 わかりません。

○岩田

 紀伊の国にある地名。和歌山県西牟婁郡上富田町岩田。
 白浜町で紀伊水道に注ぐ富田川の中流に位置します。中辺路経由
 で熊野本宮に詣でる時の途中にあり、水垢離場があったそうです。
 岩田では富田川を指して(岩田川)とも呼ぶようです。

○常よりもけに

 いつもとは異なってということ。いつもとは違って格別に、の
 意味。「け」は「異」の文字を用います。

○をはりよく

 冷静なままに念仏を唱えながら死に望むということ。
 乱れずに・・・ということは理解できそうですが、果たして念仏を
 唱えながら臨終を迎えることなどは体力的にも心理的にも可能
 なのかどうか、という疑問も持ちます。

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(09番歌の解釈)

 「世の中はまことに定めないことである。幾年もの長い間あなたに
 馴れ親しんできたのに、どうして今日は別れを思うことになるので
 あろうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

 「自分と別れ都へ帰って行く同行西住の心の喜びを思うにつけ、
 やはり心から離れ難いのは都であることだ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(11番歌の解釈)

 「美豆野に住む家族が心配で一緒に行けないという西住を見て
 いると、美豆野の景物真菰の魅力で離れられない馬が、旅と
 家族との板挟みで困っているかのようだ。」
                 (若文学大系21から抜粋)

(12番歌の解釈)

 「松の根が岩を抱える岩田川の川岸で水垢離を取った。身も清め
 られたが、暑気を払う夕涼みとしても心地よかった。君も一緒
 だったら、と思ってしまいましたよ。」
                 (若文学大系21から抜粋)

(13番歌の解釈)

 「天王寺の月は、いつもよりどんなにか見る者の心までも、西方
 浄土へ引きこむように傾いてゆくのでしょうが、あなた自身も
 いつもより殊更に月に心を惹かれておいででしようね。」
                 (若文学大系21から抜粋)

(14番歌の解釈)

 「一緒に秋ごとに月を眺め眺めして、真如の月の境地(悟りの
 境地)に達したいと願って来たのだが、上人が死に、一人で仰が
 ねばならぬようになるのは、まことに悲しいことであるよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(15番歌の解釈)

 「西住上人の最後が少しも乱れることがなかったと聞くことこそ、
 まことに嬉しく思われますよ。だからといって死別した悲しみが
 慰められることはありませんが。」
      (寂然法師歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「この世で再び逢うことのできない悲しさに、臨終正念を勧めた
 自分の心のほうが、かえって乱れてしまったことですよ。」
      (寂然法師歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【宰相】→ (五十鈴)参照 (山、261)

【さうじにはばかる恋】→(賀茂)参照 (山、145)

【さう(しょう)の岩屋】

 奈良県の大峰山中にある靡(なびき)の一つで「笙の窟(いわや)」
 のことです。奥駈道の靡は75番まであり、熊野本宮大社からの順峰
 の順で言うと、熊野本宮大社が1番靡、吉野川が75番靡となります。
 その第62番目の靡が「笙の窟」です。

 大普賢岳の近くにあり、数百メートルの断崖の下にある洞窟が
 「笙の窟」です。
 山岳修験者の冬ごもりは毎年、ここで行われていたようです。

ちなみに「靡」とは、大峰山中の行所、修験道に関わりのある神仏
 の出現の地、あるいは神仏の居所とされていて、複数の意味を
 持っています。
       (山と渓谷社「吉野・大峯の古道を歩く」を参考)

 ただし現在の奥駈道ルートと平安時代のルートでは多少の違いが
 あるようです。また山家集にある「宿」と現在の靡が一致する
 ものではないようです。

 この歌は「笙の岩屋」に籠って修行していた平等院僧正である
 行尊の次の歌を参考にして詠まれています。

 草の庵をなに露けしと思ひけんもらぬ窟(いはや)も袖はぬれけり 
                  (行尊 金葉集 雑上)

 尚、123ページにある次の歌も行尊僧正を思っての歌です。

 あはれとも花みし嶺に名をとめて紅葉ぞ今日はともに散りける
    (岩波文庫山家集123P羇旅歌・新潮1114番・西行物語)
              
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01   みたけよりさうの岩屋へまゐりたりけるに、もらぬ岩屋
    もとありけむ折おもひ出でられて

 露もらぬ岩屋も袖はぬれけると聞かずばいかにあやしからまし
         (岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮917番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)

○みたけ

 奥駆道にあり、大峰修験道の聖地である山上が岳を指します。

○露もらぬ

 水分が少しも漏れ落ちてこないこと。

○聞かずば

 笙の岩屋のことを詠った行尊僧正の歌を知らなかったならば・・・
 という意味です。

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(01番歌の解釈)

 「笙の窟は雨露がまったくもれないはずなのに、私の袖は法悦
 の涙の露で濡れてしまった、と詠んだわが敬愛する行尊の歌を
 知らずにこの地に立っていたら、私のこの涙をどう説明したら
 いいのかわからなかったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(行尊僧正)

1035年〜1135年まで存命。81歳にて入寂。
三条天皇敦明親王の孫で源基平の子。12歳で園城寺(三井寺)にて
出家。17歳で園城寺を出てから諸国遍歴し、熊野などで修行。
山岳修験の第一人者と目されていたようです。
あと、園城寺長史、天台座主、平等院別当などを歴任しています。
家集に「行尊大僧正集」があります。
百人一首歌人でもあり、次の歌が第66番に採られています。

 もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし
           (大僧正行尊 百人一首66番・金葉集)

【嵯峨・嵯峨野】

 東は太秦、西は小倉山、北は上嵯峨の山麓、南は大井川(桂川)
 を境とするほぼ平坦な野。往古は葛野川(現桂川)の溢水による
 沼沢地で、未墾地が大半を占めていたが、秦氏一族が川を改修し、
 罧原堤(ふしはらつつみ)の完成によって田野の開拓が進み、
 肥沃な地となった。
 「三代実録」882年12月条には平安遷都後は禁野とされて、天皇、
 貴族はここで遊猟し、若菜を摘んで遊楽をした、とある。
 嵯峨天皇の嵯峨院(現大覚寺)、後嵯峨上皇の亀山殿(現天竜寺)、
 檀林皇后の檀林寺などをはじめ、兼明親王の雄蔵殿(おぐらどの)や
 歌人藤原定家の山荘など、貴神の邸館や大寺が営まれ、文学の舞台
 ともなった。        
          (以上、平凡社刊「京都市の地名」より引用)

 江戸時代の古地図を見たことがありますが、法輪寺あたりも「嵯峨」
 と記載されていました。
 法輪寺は「嵯峨虚空蔵」とも呼ばれていました。

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01  嵯峨野の、みし世にもかはりてあらぬやうになりて、
     人いなんとしたりけるを見て

 此里やさがのみかりの跡ならむ野山もはてはあせかはりけり
         (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1423番)
 
02    嵯峨に住みけるに、道を隔てて坊の侍りけるより、
     梅の風にちりけるを

 ぬしいかに風渡るとていとふらむよそにうれしき梅の匂を
     (岩波文庫山家集20P春歌・新潮38番・西行上人集・
              山家心中集・雲葉集・西行物語)

03    世をのがれて嵯峨に住みける人のもとにまかりて、
     後世のことおこたらずつとむべきよし申して帰りけるに、
     竹の柱をたてたりけるを見て

 よよふとも竹の柱の一筋にたてたるふしはかはらざらなむ
          (岩波文庫山家集169P雑歌・新潮1147番)
 
04    嵯峨に住みける頃、となりの坊に申すべきことありて
     まかりけるに、道もなく葎のしげりければ

 立ちよりて隣とふべき垣にそひて隙なくはへる八重葎かな
         (岩波文庫山家集190P雑歌・新潮471番)
 
05    嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを

 うなゐ子がすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏のひるぶし
        (岩波文庫山家集248P聞書集165番・夫木抄)

06    嵯峨にまかりたりけるに、雪ふかかりけるを見おきて
     出でしことなど申し遣わすとて

 おぼつかな春の日数のふるままに嵯峨野の雪は消えやしぬらむ
         (岩波文庫山家集15P春歌・新潮1066番)

 立ち帰り君やとひくと待つほどにまだ消えやらず野邊のあわ雪
   (靜忍法師歌)(岩波文庫山家集16P春歌・新潮1067番)

○みし世にもかはりて

 西行が在俗時代に実際に見た頃と違って・・・というような解釈
 で良いと思います。しかし書物なりで読み、人からも聞いたりして
 西行出生より前の嵯峨野が賑わっていた頃までもを指しているとも
 受け取れます。

○さがのみかり

 嵯峨野における春の桜狩、秋の紅葉狩を言います。
 しかし西行が出生してから出家するまでの間に皇室の御幸は記録
 がないようですし、公の行事は無かったものでしょう。

○よよふとも

 竹の節(よ)を掛けています。いくら時間が過ぎて行ったと
 しても・・・。どんなに時代が過ぎても・・・ということ。

○葎

 クワ科のカナムグラ、アカネ科のヤエムグラの総称です。
 歌では荒れ果てて寂しい光景の例えとして使われます。

○たはぶれ歌

 俗語を用いて軽い気持ちで気軽に詠んだ歌のこと。

○うなゐ子

 子供の髪をうなじに垂らしてまとめた髪型のこと。
 また、その髪型にした子供のこと。12.3歳頃までの髪型で、それ
 以上の年齢になると髪をあげて「はなり」「あげまき」の髪型に
 したそうです。
                     (広辞苑を参考)

○すさみにならす

 気の向くまま、興に任せて鳴らすこと。

○ひるぶし

 昼に臥していたということで、昼寝とか昼寝から目覚めた状態。

○君やとひくと

 ちょっと判然としない表現です。「君が訪ひ来ると」の略語です。

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(01番歌の解釈)

 「この里が、昔桜狩や紅葉狩の行われた嵯峨野の跡であろぅか。
 今はすっかり荒れはて、昔の栄華の跡も色褪せ変わってしまった
 ことだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「僧房のあるじはどんなにいとわしく思っていることだろう。
 そこの梅の花を散らす風が吹きわたることを。道を隔てた自分の
 所へはそれによって梅の香が運ばれて来て嬉しく思われるけれど。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「世々を経ようとも、この竹の柱が一筋に真直ぐのび立っている
 ごとく、一筋に仏道修行をと立てた志は変わらないでほしい。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「隣の僧坊との境の垣は隣を訪れるのに立ち寄る必要があるのに、
 八重葎が隙間なくびっしり繁茂していて、しばらく往来がなかった
 ことが思われた。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「うない髪の子供が気ままに吹き鳴らす麦笛の声にはっと
 目覚める、夏の昼寝。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「どうなりましたか。春になってもう何日も経ちますから、
 今年は深くなりそうだった嵯峨野の雪ももう消えてしまった
 のではないですか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「嵯峨野を出てすぐにお帰りになるものと、あなたの来訪を
 ずっと待っておりましたから、野原に降った淡雪もまだ消え
 残っています。」
       (静忍法師の返歌)(和歌文学大系21から抜粋)

【榊(さかき)】

 普通名詞としてはツバキ科の榊の木のこと。
 ですが、神域にある常緑樹の総称としても用いられます。
 葉の付いた榊の小枝に「ゆふ」を付けて鳥居などに飾り、神域で
 あることを示します。

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01 しのにをるあたりもすずし河やしろ榊にかかる波のしらゆふ
      (岩波文庫山家集274P補遺・宮河歌合・夫木抄)

02 榊葉に心をかけんゆふしでて思へば神も佛なりけり
        (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮1223番・
             西行上人集追而加書・西行物語)

○しのにをる

 「篠に折る」です。伊勢神宮外宮の神楽歌に「河社、篠に折りかけ、
 篠に折りかけ・・・」とありますので、神楽歌の言葉をそのまま
 借用しています。
 意味については良くわからないのですが、渡部保氏の「山家集全注解」
 では「篠生ふる」の意としています。

○河やしろ

 夏越の祓えの時に川のほとりに設置する仮の社のこと。

○波のしらゆふ

 川の波を白木綿に見立てた言葉です。

○ゆふしでて

 (ゆふ=木綿)は植物の楮(こうぞ)の皮を剥いで、その繊維を
 蒸したり水にさらしたりして白くして、それを細かく裂いて糸
 状にしたものです。
 襷(たすき)などにして、榊の木に懸けたり、神事を行うときに
 使われます。
 同じ字を用いても(もめん)は綿の木の種子から取る繊維を
 言います。

 (しで)とは(四手・垂)とも表記して、垂らすということ。
 現在、注連縄や玉串につけて垂らす白い紙のことを(しで)と
 言います。

○神も佛

 端的に本地垂迹思想を表しています。日本の神も実は仏の垂迹
 したものだという思想です。伊勢神宮内宮の天照大御神は仏教
 の大日如来のことだと考えられていました。(後述)

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(01番歌の解釈)

 「篠竹の生えているあたりも涼しい。六月の祓いに河社を立てて
 (河辺に棚をつくり、榊を立て神を祭ること)神楽を奏している
 時に、川波のたてる白波のように白木綿が榊にかかっていて
 まことにすずしい感じがする。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

◎ 河社しのに折はへほす衣いかにほせばか七日干ざらむ
                (紀貫之 貫之集)

(02番歌の解釈)

 「榊葉に木綿四手を掛けて、心をこめて祈願しょう。伊勢の神は
 国家の神であるが、見方によってはその本地は大日如来とも
 いわれていて、私の信仰する仏と同じなのだから。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
 「この歌はいつごろ詠まれたのか不明だが、晩年の伊勢時代の
 作ではあるまい。「思へば神も仏なりけり」という言い方には、
 西行の心の中でまだ神仏習合が成熟していないことを感じさせ
 るからである。西行が晩年の伊勢時代に大日如来の燦然たる
 輝きの世界に至るまでには、まだ長いさまざまな迷いの悪戦苦闘
 があった。」
          (高橋庄次氏著「西行の心月輪」から抜粋)

(本地垂迹説と伊勢神宮)

(垂迹と垂跡は同義で、ともに「すいじゃく」と読みます。)

本地=本来のもの、本当のもの。垂迹=出現するということ。

仏や菩薩のことを本地といい、仏や菩薩が衆生を救うために仮に
日本神道の神の姿をして現れるということが本地垂迹説です。
大日の垂迹とは、神宮の天照大御神が仏教(密教)の大日如来の
垂迹であるという考え方です。

本地垂迹説は仏教側に立った思想であり、最澄や空海もこの思想
に立脚していたことが知られます。仏が主であり、神は仏に従属
しているという思想です。
源氏物語『明石』に「跡を垂れたまふ神・・・」という住吉神社に
ついての記述があり、紫式部の時代でも本地垂迹説が広く信じら
れていたものでしょう。
ところがこういう一方に偏った考え方に対して、当然に神が主で
あり仏が従であるという考え方が発生します。伊勢神宮外宮の
渡会氏のとなえた「渡会神道」の神主仏従の思想は、北畠親房の
「神皇正統記」に結実して、多くの人に影響を与えました。

 伊勢にまかりたりけるに、太神宮にまゐりてよみける

 榊葉に心をかけんゆふしでて思えば神も佛なりけり
        (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮1223番・
             西行上人集追而加書・西行物語)

1180年の伊勢移住より以前に詠まれたはずのこの歌が、西行の本地
垂迹思想を端的に物語っています。同時に僧体でありながら伊勢
神宮に参詣したということをも詞書によって読み取れます。
天皇の宗教的権威の象徴でもある伊勢神宮に僧侶や尼僧が参詣する
ということはタブーでしたが、そのタブーがゆるくなり始めた頃
だったのかもしれません。内宮神官の荒木田氏との親密な関係が
なければ、参詣することはできなかったものとも思えます。
つまり、特別に参詣したとみなしていいのでしょう。
奈良東大寺の重源が700人の弟子を引き連れ、大般若経を携えて
参詣したのは、西行よりも遅れて1186年のことです。この時、一行
は外宮では夜陰にまぎれて参拝、内宮では白昼に神前に参拝したと
いう記録があります。

神仏習合とか混交ということ自体は本地垂迹思想よりも早く、七世紀
頃にはきわめて自然に広まっていきました。お寺の中に神社の性格を
持つ「神宮寺」が多く建てられていることからみても、それがわかり
ます。神の「八幡神」と仏の「菩薩」が合体して「八幡大菩薩」など
という言葉も生れます。神と仏を融合させて、より自然に素朴な形で
信じられてきたものだと思います。

尚、伊勢神宮に僧侶や尼の参拝が公式に許可されたのは明治五年の
ことです。

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