さあ〜さか | さか〜さほ | さむ〜さん |
項目
さむしろ・さ夜の中山・さ夜衣・さらぬだに・さること・さらぬこと・
さりとも・さりとて・さ蕨・三界・三の車・三昧堂・三位
【三業の罪】→「心地」参照
【三条太政大臣】→「心地」参照
【さむしろ】
筵のことで「さ」は接頭語です。ここでは「狭筵」「小筵」の文字
をあてますが、「小」「狭」に実質的な意味は殆どなくて、語調を
整えるために使われているようです。
和歌文学大系21では、一人寝の侘しさを出すために「狭筵」として、
(幅の狭い筵、独り寝を象徴する質素な寝具)としています。
【むしろ】
イグサや竹や藁を編んで作った敷物のことです。
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01 ひとりねの寢ざめの床のさむしろに涙催すきりぎりすかな
(岩波文庫山家集64P秋歌・新潮欠番)
02 夕露の玉しく小田の稲むしろかへす穂末に月ぞ宿れる
(岩波文庫山家集75P秋歌・新潮396番・
西行上人集・山家心中集・夫木抄)
03 あをね山苔のむしろの上にして雪はしとねの心地こそすれ
(岩波文庫山家集99P冬歌・新潮540番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
○寝ざめの床
眠れない夜の床。寝そびれてしまって、寝床の上でそのまま起きて
いること。
○稲むしろ
稲の藁で作った筵のことです。一説に(寝「いね」むしろ)の
こととも言われます。
西行歌は稲藁で編んだ敷物としての筵そのものを言うのではなくて、
稲が実って、その重さのために並んで倒れ伏したように見える
状景を言っています。
○あをね山
青根山=青根が嶺=奈良県吉野山の主峰。
山頂付近に金峯神社があります。
○苔のむしろ
苔が一面に生えている状態を敷物に見立てて言う言葉です。
青根山は万葉集以来、「苔のむしろ」の言葉が詠みこまれて
詠われています。
「むしろ」はイグサや藁などを編んで作った敷物のこと。
「み芳野の青根が峰の苔むしろ誰か織りけむたてぬき無しに」
(万葉集巻七 1120番)
○雪はしとね
敷物のこと。転じて寝床のこと。「雪はしとね」で青根山が雪の
深い所であるということを表しています。
(01番歌の解釈)
「独り寝の夜床は寒くて眠れないので、キリギリスの声を
聞いて泣いてしまう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「一面に玉を敷き詰めたように夕露が置いている小田の、稔って
垂れている稲の穂末の露の玉に、澄んだ月の光が宿っているよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
苔がさ筵のように一面に生えた青根山のまさにその上に
雪がふれば、真っ白い布団のような感じだね。
(和歌文学大系21から抜粋)
【さだれ石】 (山、250)
【佐藤仲清】 西行の兄弟→ 「西行」
【佐藤能清】 西行の甥→ 「西行」
【佐藤義清】 西行の俗名 → 「西行」
【さとくよむ】 (山、269)
【さ夜の中山】
東海道の難所の一つです。現在の静岡県掛川市にある坂路で、
東海道の日坂宿と金谷宿を結んでいます。
現在の道は歩きやすく舗装整備されていて、西行当時の通行の
困難さが偲びにくいものです。
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01 年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
(岩波文庫山家集128P羇旅歌・西行上人集・
新古今集・西行物語)
○年たけて
69歳という自身の年齢を言っています。「たけて」は高くなって
ということ。高齢ということを意味します。
○又こゆべし
再度、小夜の中山の急峻な峠道を越えるということ。このことに
よって、初度の陸奥までの旅の帰途は東海道ではなくて東山道を
たどったという、その可能性を思わせます。
ちなみに小夜の中山の峠道は西行時代からはずいぶんと改変され
ているらしくて、現在では難所という感じはしません。
○命なりけり
(命)という名詞に(なり・けり)をつける用法には少しく疑問
がありますが、こういう用い方が和歌的な用法かもしれません。
(命が続いてきたからこそだなー)という詠嘆の言葉です。自身
のこれまでの来し方を振り返っての個人に根ざしたさまざまな
思いが凝縮している言葉です。必然として詠者は高齢である
ことを証明しているともいえます。
○さやの中山
「小夜の中山は歌枕として有名だが、その詠まれている多くの
例歌からみると、難所で、荒涼として寂しい場所であり、旅の
寂しさや苦痛が身にしみるところであった。
西行の詠歌の発想は、しみじみと40年前の旅を想いださせるの
に十分な孤独感を味わわせる、小夜の中山の風土にあったと思わ
れる。そして「思ひきや」の表現によって、ふたたびこの地に
くることができたという喜びが内包されている。しかし、この
一首からうけるはげしい感動のみなもとは、「命なりけり」に
凝集されたところにある。すなわち、西行自身、わが心をみつめ
て、生きながらえているわが命を実感し、それを喜び感動して
いる心と姿が、読者に強く訴えてくる迫力になっているのだと
思われる。(中略)
景物としての、伝統的な小夜の中山を詠んだだけのものでなく、
伝統的な歌枕の地で、西行がわが命を直視した結果から生まれる
喜びの、感動の詠出であったと理会したい。」
(集英社刊 有吉保氏著「西行」から抜粋)
「長い人生の時間を一瞬にちぢめてのはげしい詠嘆とともに、
また、ここまで年輪を刻んできた自らの命をしみじみと見つめ
いとおしんでいる沈潜した思いが、一首にはある。調べも、そう
いう内容にふさわしく、反語を用いての三句切れの後、さらに第
四句でもするどく切れるという、小刻みに強い調べによって激情
を伝えた後、名詞止めの結句によって、そういう激情はしっかりと
受け止められているのである。(中略)
「命あればこそ」の感慨は50歳を過ぎた西行の心中でいよいよ深
まりつつあったのだと思われるが、その後さらに十数年を経て、
思い出の地を通ったとき、その思いはいっそう痛烈に沸いたので
あった。「命なりけり」、この平凡ではあるが重い感慨を心に深く
いだきつつ、老いたる西行は、すでにはるかに過ぎてきた自らの
人生の旅路を思ったのである。」
(彌生書房刊 安田章生氏著「西行」から抜粋)
○「命なりけり」歌について
「命なりけり」という言葉は西行が始めて使った言葉ではなくて
先例がいくつもあり、西行以後にも使われています。
このフレーズのある歌は合計31首あるそうです。そのうち30首は
結句に用いられ、それ以外の一首が西行の「年たけて」歌とのこと
です。
◎ 限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
(源氏物語・桐壺)
◎ 春ごとに花のさかりはありなめどあひみんことは命なりけり
(古今集97番 よみ人しらず)
◎ もみぢ葉を風にまかせて見るよりもはかなきものは命なりけり
(古今集859番 大江千里)
【さ夜衣】
夜、就眠する時に、掛けて寝る着物に似た寝具のこと。夜着。
現在の布団に似た形ではないようです。
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01 我はただかへさでを着むさ夜衣きてねしことを思ひ出でつつ
(岩波文庫山家集165P恋歌・新潮1501番)
02 さよ衣いづこの里にうつならむ遠くきこゆるつちの音かな
(岩波文庫山家集86P秋歌・新潮443番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
○かへさでを
「夜着を返さない・反対にしない」ということを名詞的に使って
います。
有名人と握手をしたら手を洗いたくないという心理と同じで、
同衾したこと、その思い出にひたりつつ眠りたいということです。
○いづこの里
この歌の「いづこの里」は、どこのことなのか分かりません。
西行上人集追而加書と夫木抄に(いづこの里)は(入野の里)
となっていますからここで紹介します。
「さ夜ごろも入野の里に打つならし、遠く聞けるつちの音哉。」
(西行上人集追而加書から抜粋)
(入野)は山城(京都)の歌枕とも言われています。
現在の西京区大原野上羽町に入野神社があります。
「五代集歌枕」では歌枕の国名不明となっています。
○ つちの音かな
衣服は植物の繊維を用いて作ります。随分早くから秦氏などが養蚕
や衣服の作り方を広めました。
植物の繊維を糸状にしてそれを機織して生地を作り、生地を縫い
合わせて衣服を作ります。
砧というのは布地を槌でたたくための台です。一応は衣服の形に
なっているものを槌でたたいて滑らかにするのか、それとも採って
きた植物そのものを槌で叩くのかは私にはわかりません。
いずれにしても衣服となるものを砧という台の上に置いて、それを
槌で叩くということです。
この場合は木槌のはずですが、その音が遠くまで聞こえるという
ことです。
西行の歌には「砧」という名詞は出てきません。ですが(砧)と
(衣を打つ)ということとは不可分のものです。
砧の出てくる歌の多くは秋の歌ですし、砧という言葉自体に冬の
寒さに備えての衣服を製作するという意味もあるのでしょう。
かつ、人のためにひたすらに砧を打つという行為、秋の夜長に
響く槌の音にいいようのない哀感がこめられていることがわかり
ます。
尚、砧という言葉が使われ出したのは平安時代末頃からです。
(01番歌の解釈)
「自分はこの小夜衣を裏返さずにただ着て寝よう。かつてこの
小夜衣を着て共寝をしたことを思い出しながら。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「夜が更けて、近くで聞えていた砧の音が聞えなくなっても、
なお遠くの里から聞こえてくる砧の音は、どこの里で衣を打って
いるのだろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【さらぬだに】 (山、66・69・77)
「然らぬだに」と書きます。
そうでなくとも、そうでなくてさえ・・・という意味。
ラ行変格活用「さり」の未然形「さら」に打ち消しの助動詞「ぬ」
が付いたことば。
「だに」は副助詞で「さえ、さえも」の意味です。
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01 さらぬだに聲よわりにし松虫の秋のすゑには聞きもわかれず
(岩波文庫山家集66P秋歌・新潮475番)
02 さらぬだに秋は物のみかなしきを涙もよほすさをしかの聲
(岩波文庫山家集69P秋歌・新潮432番)
03 さらぬだにうかれて物を思ふ身の心をさそふ秋の夜の月
(岩波文庫山家集77P秋歌・新潮404番)
04 さらぬだに帰りやられぬしののめにそへてかたらふ時鳥かな
(岩波文庫山家集144P恋歌・新潮586番)
05 さらぬだにもとの思ひの絶えぬ間に歎を人のそふるなりけり
(岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1304番)
06 さらぬだに世のはかなきを思ふ身にぬえ鳴き渡る明ぼのの空
(岩波文庫山家集192P雑歌・新潮756番・
西行上人集追而加書・夫木抄・西行物語)
07 みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼ
しき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すは
これが事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひ
ければ、實方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。
さらぬだにものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの
見え渡りて、後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて
朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
(岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・西行上人集・
山家心中集・新古今集・西行物語)
○松虫
マツムシのこと。コオロギ科の昆虫で秋に鳴く虫の一つです。
「チンチロリン」と聞こえるようです。
歌では多くは「松虫」の「松」を「待つ」に掛けて詠われます。
古くは現在の松虫は「鈴虫」のこと。逆に鈴虫は「松虫」のこと
だったという説がありますが、そのようには言い切れないとも
言われます。
○聞きもわかれず
聞いていて、どうなのか、はっきりと断定できないということ。
音量が乏しくて聞き取りにくいということ。
○さをしか
さ牡鹿。(さ)は接頭語です。
○しののめ
(東雲)と書きます。夜明け方、早朝のこと。東の空が少し明るく
なる時間帯のことです。暁闇、払暁などの言葉とほぼ同義です。
○時鳥
鳥の名前で「ほととぎす」と読みます。春から初夏に南方から
渡来して、鶯の巣に托卵することで知られています。鳴き声は
(テッペンカケタカ)というふうに聞こえるようです。
岩波文庫山家集の(ほととぎす)の漢字表記は以下の種類があり
ます。
郭公・時鳥・子規・杜鵙・杜宇・蜀魂
別称として「呼子鳥」「死出の田長」があります。
○もとの思ひ
異性に心をうごかされだした初めころの想いのこと。
○人のそふるなり
「人が我が身に嘆きをさらに添えること」だと思います。
「人の」は「人に」の表現の方が、より引きつけた表現になる
と思いますが、あるいは「に」と「の」の意味合いが当時と
現在とでは少し異なるのかも知れません。
○ぬえ
ここでは鳥のトラツグミの異名。
源頼政の鵺退治の伝説では頭は猿、身体は狸、手脚は虎、尾は
蛇に似た妖怪とされています。
○実方
藤原実方。生年不詳、998年没。995年陸奥守として赴任。
殿上で藤原行成と口論した果てに左遷されたと言われます。
任地先で客死。落馬して死亡したという説があります。
○常よりもとおぼしき
普通より、ということ。野中にはありえない立派な塚・・・と
いう意味になります。
没後150年ほどを経ても実方の墓として誰かに管理されていたと
解釈して良いものと思います。
(01番歌の解釈)
「晩秋ならずとも鳴く音が弱い松虫であったが、虫の音の弱る
秋の末ともなれば一層弱ってそれと聞きわけることもできない
ほどである。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「ただでさえもの悲しい思いにのみかられる秋であるのに、
牡鹿の妻を求めて鳴く悲しげな声を耳にすると、なお一層
涙のもよおされることだよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「月夜でなくてさえ心おちつかずもの思いにふける自分であるが、
特に秋の夜は、月に心を誘われて、一層おちつかないよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「それでなくてもあなたとの後朝の別れがつらい夜明け方に、
名残惜しさを添えるように時鳥が語りかけてくる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05番歌の解釈)
「あの人を恋しく思う前から我が身の拙さに物思いがちだった
のに、あの人が現れて以来嘆きが増すばかりだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「それでなくても世の無常が実感されるのに、夜明けの空に
鵺の鳴き声が響き渡ってますます悲しくなってくる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(07番歌の解釈)
「不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を
埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【さること】
そのようなこと。そういうこと。もっともなこと。
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01 蓬生のさることなれや庭の面にからすあふぎのなぞしげるらむ
(岩波文庫山家集53P夏歌・新潮1017番・夫木抄)
02 さることのあるなりけりと思ひ出でて忍ぶ心を忍べとぞ思ふ
(岩波文庫山家集153P恋歌・新潮684番・夫木抄)
03 さることのあるべきかはとしのばれて心いつまでみさをなるらむ
(岩波文庫山家集163P恋歌・新潮1340番・夫木抄)
04 さることありて人の申し遣しける返ごとに、五日
折におひて人に我身やひかれましつくまの沼の菖蒲なりせば
(岩波文庫山家集47P夏歌・新潮204番・夫木抄)
○からすあふぎ
植物のヒオウギの別名。種子が黒色なので名付けられました。
ヒオウギはアヤメ科のヒオウギ属です。ヒオウギのみの一種で
一属となっています。
平安時代、宮中の装いでヒノキの細い板で作られた扇、つまり
ヒノキの扇から名付けられた植物名とのことです。
花名の由来はヒオウギの茎の下の左右両側に広がる葉を檜扇に
見立てたとのことです。
六弁の橙黄色の花で赤色の濃い斑点があって、とてもきれいです。
古くから観賞用に栽培されていたとのことですが山地でも自生
しているのを見かけました。
黒光りするこの種子が「うばたま・むばたま」として「黒」「夜」
「闇」などを引き出すための枕詞になっています。
(朝日新聞社刊、草木花歳時記「夏」・
笠間書院刊、歌枕歌ことば辞典から引用)
○みさをなるらむ
気持ちを固く守って変えないこと。変わらずに二心のない気持の
こと。貞操のこと。
○つくまの沼
近江の国の歌枕。米原市の琵琶湖東岸に面して筑摩神社があり
ます。筑摩江は菖蒲の名所です。
(01番歌の解釈)
「私の山家の庭の蓬生はちょつと変わっているようだ。「枯らす」
という名のからすおうぎが、今を盛りと生い茂っている。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「そのようなこともあったのだと、かつての逢う瀬を思い
出して、たえ忍んでいる自分の心を、恋しい人も偲んで
ほしいものである。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「あの方に恋をするようなことがあってよいものか、と自分の
思いをこらえようとするけれど、さてその心はいつまで
変らずにいられるだろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「よい機会に巡り合って人に私は引き立てられるのでしょう。
もし私が筑摩の沼の菖蒲であったなら。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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05 八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。
武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふ
にぞとて、泣き給ひけると聞きて
夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
(岩波文庫山家集185P雑歌・新潮欠番・西行上人集)
06 徳大寺の左大臣の堂に立ち入りて見侍りけるに、あらぬ
ことになりて、あはれなり。三條太政大臣歌よみてもてなし
たまひしこと、ただ今とおぼえて、忍ばるる心地し侍り。
堂の跡あらためられたりける、さることのありと見えて、
あはれなりければ
なき人のかたみにたてし寺に入りて跡ありけりと見て帰りぬる
(岩波文庫山家集186P雑歌・新潮欠番・西行上人集)
07 北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて待たるる
程に、使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるるまで
はさることにて、舞人のけしきふるまひ、見し世のこととも
おぼえず、あづま遊にことうつ陪従もなかりけり。さこそ
末の世ならめ、神いかに見給ふらむと、恥しきここちして
よみ侍りける
神の代もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて
(岩波文庫山家集224P神祗歌・新潮1221番)
○八嶋内府
平宗盛のことです。平清盛の三男で清盛死後に家督を継いで、
平家の統領となりますが、凡庸と評される人物です。母は平時子。
壇ノ浦の合戦で、息子の右衛門督(平清宗)とともに捕縛された
平宗盛父子は、源義経に伴われて鎌倉に下向します。ところが
義経は鎌倉に入ることを頼朝から拒絶されました。
宗盛父子は鎌倉に入ったのですが、また京都に引き返すことに
なります。帰京途中に、宗盛と清宗親子は近江の篠原で斬殺され
ました。1185年6月21日のことです。
内府とは内大臣の別称です。宗盛は1182年に内大臣になりました。
1番歌は1185年6月21日以降に詠われた歌であり、伊勢時代の歌と
みてよく、作歌年代が特定できます。
○鎌倉にむかへられ
1185年5月、平宗盛らが罪人として鎌倉に護送されたことをいいます。
○右衞門督
右衛門督は右衛門府の長官を指し、官の職掌名のことです。
ここでは平宗盛の子供の清宗のことです。父親の宗盛と同日に
近江(滋賀県)の篠原で処刑されました。15歳(17歳説もあり)
でした。
清宗の母は、西行とも親しかった平時忠の妹です。
源平の争乱の時代に伊勢に居住していても、西行は都にいた歌人
達だけでなく、様々な人たちとの交流が続いていたことを思わせ
る詞書の内容です。
いろんな情報が伊勢の西行の元に集まっていただろうと思います。
○夜の鶴
子供のことを思う親の気持ちの比喩表現といわれます。
白楽天の詩句「夜鶴憶子籠中鳴」から採られた言葉とのことで、
釈迦と関連する言葉である「鶴の林」とは関係ないようです。
「夜の鶴都のうちにはなたれて子をこひつつもなきあかすかな」
(高内侍 詞花集)
西行の歌は、詞花集の上記歌を踏まえてのものでしょう。
○徳大寺の左大臣の堂
徳大寺のこと。保元元年5月(1156)に放火により炎上しています。
徳大寺の左大臣とは藤原公実の四男で藤原実能のこと。西行は
実能の随身でした。
○あらぬこと
放火により焼亡したことをいいます。
○三條太政大臣
藤原公実の次男で、実能の兄の実行のこと。
この詞書は徳大寺実能の別荘である徳大寺を訪れた時のものです。
ただし、徳大寺焼失後ほどない時期のものでしょう。1157年9月
に藤原実能は死亡していますので1157年、もしくは1158年の秋の
ことだと思います。
焼け跡がまだ完全には整備されていない頃のことだと考えられます。
この徳大寺で歌会などもあって、藤原実行が歌を詠ったことが
分かります。
この歌会は何年のことか分かりません。西行が実能の随身だった
1140年までのことか、それとも出家してからのものか不明です。
実能の建てた徳大寺での歌会とするなら1147年以降のことです。
ともあれ、西行はこの実能の家系に連なる人々とは終生、親しい
交流があったものと思います。203ページには右大将公能との
贈答歌もあります。
○北まつり
岩清水八幡宮の南祭に対して、賀茂社の祭りを北祭りといいます。
○使まゐりたり
勅祭ですから皇室からの奉幣使を指す言葉です。
○はし殿
賀茂両社に橋殿はあります。この詞書ではどちらの神社か特定
できませんが、上賀茂神社だろうと思えます。
○へいふし
新潮版では「つい伏し」となっています。
膝をついて平伏している状態を指すようです。
○東遊び
神楽舞の演目の一つです。現在も各所で演じられています。
○其ことわざ
当然になされる仕事。ここでは必要な演舞のこと。それが
なされないことを詠っています。
(05番歌の解釈)
「夜の鶴は都の内を出ないで欲しい。そうしたら亡き子の悲しみ
には迷わずには居られよう。
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
「夜の鶴(親)は都(籠)の内を出てあれよ。そうしたらわが子
への愛情に迷わないであろう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「一首にしみじみとした気分が歌い据えられている。亡き実能が、
その人を偲ばせるものとして建てた寺に西行はいま訪れて来て
いるのであるが、かつての面影は全くない。しかし焼跡の整理が
され、修築もされる様子をみて、「跡ありけると見て帰りぬる」
という言葉になっているのではなかろうか。「跡ありけり」は、
邸宅と、実能の跡を継ぐ公能とを絡ませた感慨だととれるので
ある。(後略)」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)
「今はなき実能公が形見としてお建てになられて寺に入って、
まだその跡が残っていると見て帰ってきたよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(07番歌の解釈)
「賀茂祭の頃に賀茂社に参詣したのですが、具合良く、少し待った
だけで朝廷からの奉幣の勅使が到着しました。勅使が橋殿に着いて
平伏して拝礼されるところまでは、昔ながらのしきたりのままでした。
ところが東遊びの神楽舞を舞っている舞人の舞い方は昔に見た
ものと同じ舞とは思えないほどにお粗末で、舞に合わせて琴を打つ
人さえいません。これはどうしたことでしょう。いくら末法の時代
とはいえ、この事実を神はどのように御覧になっていることだろう。
まったく、恥ずかしい気がします。」
(阿部の解釈)
「人の世のみならず、神の代もすっかり変わってしまったと見える
ことだ。琴の陪従もいなくなり、祭のことわざ、舞人の振舞も昔の
ようではなくなったことにつけても」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【さらぬこと】
そういうことではない。不自然なこと。納得できないこと。
道理にあっていないこと。
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01 さらぬこともあと方なきをわきてなど露をあだにもいひも置きけむ
(岩波文庫山家集213P哀傷歌・新潮1516番)
○あと方なき
確かに存在したその形跡、痕跡がなくなる状態。
○わきてなど
露だけを特別視して、ことさらに分けて・・・ということ。
(01番歌の解釈)
「露以外のものも全くあとかたなくはかないものであるのに、
とりわけ露だけをどうしてはかないものと言い置いたり
したのだろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
そういう事情があって…。それほどの理由があって…。
接続詞的には、そのようにした後に…、やがて…などの意味。
【さるよう】
それなりの理由が感じられるような…。特別の事情がある
ような…などの意味。
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01 さるほどの契はなににありながらゆかぬ心のくるしきやなぞ
(岩波文庫山家集157P恋歌・新潮1259番)
02 伊勢の二見の浦に、さるやうなる女(め)の童どものあつ
まりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめ
けるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきこと
なりと申しければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、
えりつつとるなりと申しけるに
今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
(岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1386番・夫木抄)
○ゆかぬ心
心が一つにならない事による得心できない気持ち。満たされない
気持ちのこと。
○なぞ
「何(な)ぞ」と表記します。「なにぞ、なんぞ」が変化して「に」
「ん」が省略された形です。
「何だろうか?、何事だろうか…という意味です。
○伊勢の二見
三重県伊勢市(旧度会郡)にある地名。伊勢湾に臨んでおり、
古くからの景勝地として著名です。伊勢志摩国立公園の一部で、
あまりにも有名な夫婦岩もあります。日本で最初の公認海水浴場
としても知られています。
○さるようなる女の童
「何か特別の・・・」ということですが、ここでは貝を拾うと
いう目的にかかる言葉ではなくして「女の童」にかかるもの
です。
漁師の娘とも違い、それなりに身分のある家の娘達、という
ふうに解釈できます。
○わざとのこと
特別の目的があってしているように思えて・・・ということ。
○いふかひなき
伝わらないので言っても意味がないこと。
身分を問われるようなこともない、ということ。
○うたてきこと
不快だ、嘆かわしい、なさけないことだ、という意味のある言葉
です。
普通ではない状態、異様な状態も指しますから、西行の歌では
ちょっとありえない不思議な光景を見た思いから出た言葉だろう
と思います。
○おほふなりける
覆うこと。かぶせること。あわせること。
○貝あはせ
貝合わせは「物合わせ」のひとつで平安時代に始まったといわれる
上流階級の女性たちの遊戯のひとつです。
二枚貝の殻を二つに分け、それぞれの殻の内側に絵や和歌を書き
込んで、同じ図柄や、和歌の上句と下句を合わせます。ばらばら
にした貝殻の中から、同じ貝の貝殻を取り合うという遊びです。
この遊芸は廃れることなく続いてきました。
鎌倉時代には伊勢のハマグリがよく用いられたということです。
藤原定家の冷泉家に伝わる貝を見ましたが、貝殻の内側に描かれて
いる図柄は芸術品としても見事なものだと思いました。
(01番歌の解釈)
「然るべき前世からの契りはあなたに対してありながら、
思いがとげられず満たされることのない心の苦しさは、
一体どうしたわけだろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「そうだったのか。都ではやりの貝合は、二見浦の蛤の蓋・身を
合わせていたのだったか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「今はじめて分った。都では貝合わせといってこの二見の浦の
蛤を合わせていたのだったよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【さりとも】
「然、有りとも」の約。しかしながら・それにしても・
それでも・そうであっても…などを意味します。
状況の先に一片の希望なりの明るいものを見出したい、という
ニュアンスがあります。
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01 さりともなあかつきごとのあはれみに深き闇をも出でざらめやは
(岩波文庫山家集254P聞書集221番)
02 よの中はくもりはてぬる月なれやさりともと見し影も待たれず
(岩波文庫山家集77P秋歌・新潮402番)
03 さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
(岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1142番・
西行上人集・新古今集・西行物語)
○あかつきごとのあはれみ
これは聞書集219番の長文の詞書を受けての歌です。
219番詞書では地蔵菩薩が「あか月ごとにほむらの中に分け
入りて、悲しみをばとぶらう・・・」とあります。
○出でざらめやは
「ざらめやは」は打ち消しの意味を持つ助動詞「ざら」に、推量の
助動詞「め」、反語の助詞「やは」が接続した言葉です。
「出られないことなどあろうか」「出られないはずはないだろう」
という意味になります。
「やは」は万葉集などによくある反語の終止形の「やも」が変化
した形です。平安時代には「やは」が多く使われています。
係助詞「や」に係助詞「は」が接続して一語となった言葉。
疑問の形で表現しながら、反語として機能しています。
「ざらめやは」は西行歌に聞書集221番歌を含め4首あります。
他に「ざらめや」が2首あります。
たのもしなよひ暁の鐘のおとにもの思ふつみも尽きざらめやは
(岩波文庫山家集155P恋歌・新潮711番・西行上人集)
すむとみし心の月しあらはれば此世も闇は晴れざらめやは
(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮733番・
西行上人集・山家心中集・新後撰集・西行物語)
君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは
(岩波文庫山家集242P聞書集120番)
この世にて詠めなれぬる月なれば迷はむ闇も照らさざらめや
(岩波文庫山家集78P秋歌・新潮1041番・山家心中集)
わたつみの深き誓ひのたのみあれば彼の岸べにも渡らざらめや
(岩波文庫山家集283P補遺・一品経和歌懐紙)
○死出の山路
死者がたどるべき山の道。冥途のこと。
(01番歌の解釈)
「いくらそうであってもよ、暁ごとの地蔵菩薩の憐れみによって、
地獄の深い闇をも出られないことはあるまいよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「この世は一晩中曇ったままの月に喩えられるからなので
あろうか。しかしそうはいっても少しは見えるかと待っては
いるが、月は雲から出てこない。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「遠い修行の旅に出かけるので、むずかしいとは思われますが、
それでもやはり再会を期待することです。
死出の山路を越える別れではないから。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【さりとて】
ラ行変格活用の動詞「然(さ)り」に、格助詞の「とて」が接続
した言葉。「だからといって」「そうかといって」という意味。
【さりとよと】
「さり」は「然(さ)も有り」のことで、そうだ、そのとおりだと
いう意味。
「とよ」は強調を表す格助詞(と)に、間投助詞(よ)が接続した
ことばです。最後の(と)は接続助詞。
和歌文学大系21では「さかとよと」となっています。
これは「然=さ」に副助詞「か」の付いた言葉で、(そうか)という
ほどの意味です。「とよ」は上と同じです。
「さりとよと」も「さかとよと」もほぼ同義的な言葉です。
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01 思へ心人のあらばや世にもはぢむさりとてやはといさむばかりぞ
(岩波文庫山家集192P雑歌・新潮1419番)
02 小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ
院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分け
おはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へまゐ
られけるに、御山よりいであひたりけるを、しるべせよと
ありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、かかる
ついでは今はあるまじきことなり、吹上みんといふこと、
具せられたりける人々申し出でて、吹上へおはしけり。
道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。さりとてはとて、
吹上に行きつきたりけれども、見所なきやうにて、社に
こしかきすゑて、思ふにも似ざりけり。能因が苗代水に
せきくだせとよみていひ伝へられたるものをと思ひて、
社にかきつけける
あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
(岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)
03 さりとよとほのかに人を見つれども覚めぬは夢の心地こそすれ
(岩波文庫山家集157P恋歌・新潮1256番・夫木抄)
◯やは
係助詞「や」に係助詞「は」が接続して一語となった言葉。
疑問の形で表現しながら、反語として機能しています。
「やは」は万葉集などによくある反語の終止形の「やも」が
変化した形です。平安時代には「やは」が多く使われています。
○いさむばかり
気持ちが逸り立つこと。勢い込むこと。
○帥の局
待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。藤原
季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、次に
建春門院平滋子の女房となっています。
○御山
高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
の場を移していたということになります。
○粉川
地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
の門前町として発達しました。
粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。
○吹上
紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
ようです。
天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
思いますので、どこかで一泊した旅に西行は随行したものだろう
と思われます。
吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。
○能因
中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
(伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
入道とも自称していたようです。「数奇」を目指して諸国を行脚
する漂白の歌人として、西行にも多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。
「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
○待賢門院の中納言の局
待賢門院の落飾(1142年)とともに出家、待賢門院卒(1145年)
の翌年に門院の服喪を終えた中納言の局は小倉に隠棲したとみな
されています。
西行が初度の陸奥行脚を終えて高野山に住み始めた31歳か32歳頃
には、中納言の局も天野に移住していたということになります。
待賢門院卒後5年ほどの年数が経っているのに、西行は待賢門院の
女房達とは変わらぬ親交があったという証明にもなるでしよう。
中納言の局は215Pの観音寺入道生光(世尊寺藤原定信、1088年生)
の兄弟説があります。それが事実だとしたら西行よりも20歳から
30歳ほどは年配だったのではないかと思います。金葉集歌人です。
○天野と申す山
和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
(和歌文学大系21を参考)
「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。
○あまくだる名
天界から降臨した神ということ。
天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神
(能因法師 金葉集雑下)
能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという
故事を踏まえての歌です。
(01番歌の解釈)
「思え、心よ。その人の前で恥ずかしがるようなそんな人など
この世にいないのだ。だからといって恥を忘れるわけにもいか
ないと、我が身を奮い立たせるのである。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
申しあげるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「あれがあの人だと、ほのかに思う人を見たけれども、夢とも
現とも何ともさだかでない心地がすることだよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【澤小田】 (山、41)
【さ蕨】 (山、282)
新芽を出したばかりの蕨のこと。(早蕨)と表記します。
コバノイシカグマ科のシダ植物。早春に薄茶色の綿毛をかぶり、
拳を握ったような新芽を出します。この萌え出たばかりの新芽を
「さわらび」と呼び、古来から多くの歌に詠まれてきました。
山菜として摘むことを「蕨狩り」と言います。わらびのあくを抜き、
そのぬめりと香りを楽しむ食習慣は日本全国にあったとのことです。
わらびの地下茎を加工したものを「わらび粉」と言い、わらび餅は
「わらび粉」から作られます。
源氏物語第四十八巻に「早蕨」があります。宇治十帖のうちの
一巻です。この巻に下の歌があります。
01番の西行歌は源氏物語にあるこの歌の本歌取りといえます。
「この春はたれかに見せむ亡き人のかたみにつめる峰の早蕨」
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01 萠えいづる峯のさ蕨なき人のかたみにつみてみるもはかなし
(岩波文庫山家集282P補遺・夫木抄)
02 なほざりに焼き捨てし野のさ蕨は折る人なくてほどろとやなる
(岩波文庫山家集23P春歌・新潮161番・
西行上人集・山家心中集)
○なき人
亡くなった人。人物名は誰か不明です。
○かたみ
(形見)と(籠=かたみ)をかけています。
○ほどろとやなる
「夜の明け始める頃」「雪などがはらはらと降ること」などを
意味しますが、ここでは「蕨の穂先が伸びすぎたもの」を
指しています。
(01番歌の解釈)
「萌え出し(芽を出して)ている峯のわらびを亡き人の形見に
つんでみるのもはかないことだ。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(02番歌の解釈)
「特に考えもなく焼き捨てた野に生えてきた早蕨は、折る人が
いないのでほどろになってしまうのだろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【三界】
仏教用語です。私の乏しい知識と語彙では、こういう仏教用語は
正確に書き記すことができません。
狭義には一人の人間の誕生から死去までにたどる欲望を主とした
迷いの世界を言うようです。広義には輪廻転生や広大無辺な宇宙
までをも指し示す言葉のようです。
「女は三界に家なし」という有名な言葉もあります。
この場合は女性の一生のうちで誕生から婚姻までの親の世話に
なる世界、結婚後は伴侶の家の世話になる世界、老いては子の
世話になる世界の三つを言い表しています。
こういう考え方は現代的ではなくて、女性を蔑んでいる古臭い
頑迷固陋な言葉だと言えます。
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01 流転三界中 恩愛不能断 弃恩人無為 真実報恩者
捨てがたき思ひなれども捨てていでむまことの道ぞまことなるべき
(岩波文庫山家集232P聞書集43番)
02 譬喩品 今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子
乳もなくていはけなき身のあはれみはこの法みてぞ思ひしらるる
(岩波文庫山家集226P聞書集03番・夫木抄)
03 三界唯一心 心外無別法 心佛及衆生 是三無差別
ひとつ根に心のたねの生ひいでて花さきみをばむすぶなりけり
(岩波文庫山家集232P聞書集40番)
○捨てがたき思ひ
「恩愛不能断」を受けて両親に対する恩愛の情は捨てるに
捨てられないものだが……ということです。
○いはけなき身
まだ年齢が幼くて分別がないこと。物心がつかないこと。
子供っぽいこと。
○心のたね
仏教信者としての成仏の原因となる信仰心のこと。
○花さきみをば
熱心に信仰の道を邁進するなら、花も咲き実も結んで、成仏の
道をたどることができるだろう、ということ。
(01番歌の解釈)
「恩愛は捨てがたい思いだけれども捨てて出家しよう、仏の
真の道が真実であるはずだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「母の乳を求めてもなく、分別もない幼稚な身にとっての仏の
慈悲は、この法文を見て思い知られることだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「ひとつの根の上に心の種が生い育って、花が咲き実を結ぶの
だったよ。(仏も衆生と同じひとつの根にもとづく心から生み
出されるのだ。)」
(和歌文学大系21から抜粋)
【三の車】
譬喩品(ひゆぼん)にある羊車、鹿車、牛車を指すとのことです。
迷いの世界から衆生を救う仏法で、羊車、鹿車、牛車はそれぞれ、
声聞、縁覚、菩薩の受ける教えの比喩ということです。
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01 法しらぬ人をぞげにはうしとみる三の車にこころかけねば
(岩波文庫山家集218P釈教歌・新潮880番)
○人をぞげには
「げには」は(実際には・本当は)という意味です。
仏教に帰依して法華経を信じない人々は本当にどうしょうもない
人々だ、というほどの意味です。
○うしとみる
憂鬱であること、気持ちが明るくならずにふさぐこと。
心苦しいこと。
ここでは法華経の信者にならずに、仏法に気持ちを委ねない
人々を批判している言葉です。
(01番歌の解釈)
「法華経を知らず、この火宅の憂き世から脱出しょうとしない
人をとても情けないと思う。もっとも優れた大乗の牛車どころか、
門の外に用意された三つの車のどれにも気が付かないのだから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【三昧堂】
この場合は仏教を専修する堂のことをいいます
堂にこもって法華経を一心に唱えるという修行の場です。
他念を払って心を集中させて修行することを三昧といいますが、
他のことごとであれ専念することを指してもいます。
例えば念仏三昧や悪業三昧や温泉三昧などという使われ方も
します。
他には火葬場、墓場を三昧所ともいいます。
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01 三昧堂のかたへわけ参りけるに、秋の草ふかかりけり。
鈴虫の音かすかにきこえければ、あはれにて
おもひおきし浅茅が露を分け入ればただわずかなる鈴虫の聲
(岩波文庫山家集186P雑歌・新潮欠番・西行上人集)
○おもひおきし
昔の出来事を偲ぶという意味。
○浅茅(あさじ)が露を
まだ充分に生育していず、丈の短い茅に露が宿っている
状態を指します。
○鈴虫
当時は鈴虫とは松虫のこと、松虫とは鈴虫のことだという説も
ありますが、ここでは松虫のほうがふさわしいかもしれません。
(01番歌の解釈)
「なき人がいつまでも続くように思っていたこの寺の庭に
生い茂る浅茅の露を分け入ると、ただ僅かな鈴虫の聲だけが
聞こえる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【三位】
(さんみ)と呼び、平安時代の朝廷の位階のことです。
正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位の順となります。
位階によって官職がほぼ決まります。太政大臣は一位、大臣は
二位、大納言や中納言は三位の人がなります。
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01 五條三位入道のもとへ、伊勢より濱木綿遣しけるに
はまゆふに君がちとせの重なればよに絶ゆまじき和歌の浦波
(岩波文庫山家集239P聞書集103番)
02 五條三位入道、そのかみ大宮の家にすまれけるをり、
寂然・西住なんどまかりあひて、後世のものがたり申し
けるついでに、向花念浄土と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすにさかせつるいまみる花の散るにたぐへて
(岩波文庫山家集259P聞書集244番)
03 寂蓮、人々すすめて、百首の歌よませ侍りけるに、
いなびて、熊野に詣でける道にて、夢に、何事も衰へ
ゆけど、この道こそ、世の末にかはらぬものはあなれ、
猶この歌よむべきよし、別當湛快三位、俊成に申すと
見侍りて、おどろきながら此歌をいそぎよみ出だして、
遣しける奧に、書き付け侍りける
末の世もこの情のみかはらずと見し夢なくばよそに聞かまし
(岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・新古今集)
04 北白河の基家の三位のもとに、行蓮法師に逢ひにまかり
たりけるに、心にかなはざる恋といふことを、人々よみ
けるにまかりあひて
物思ひて結ぶたすきのおひめよりほどけやすなる君ならなくに
(岩波文庫山家集270P残集30番)
○五條三位入道
藤原俊成のこと。1176年に出家して釈阿と号します。
五条は五条東京極に住んでいたため、三位は最終の官位を指して
います。
1167年、正三位、1204年没。千載集の撰者です。
○濱木綿
ヒガンバナ科のハマオモトのことです。俳句では夏の季語です。
海浜の植物で、花が神社などで用いる木綿に似ているので、この
名前が付いたようです。
万葉集にも柿本人麻呂の歌があります。
「み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも」
(柿本人麻呂 万葉集巻四 496番)
○和歌の浦波
「和歌の浦」は紀伊国の歌枕です。
歌の道を言います。
○大宮の家
藤原俊成が葉室顕廣と名乗っていた時代に住んでいた家のことです。
俊成は1167年12月に葉室顕廣から藤原俊成にと改名しています。
大宮の家は俊成の家ではなくて葉室家の邸宅のあった場所ではない
かとも思えます。歌も1167年12月以前のものと考えられます。
俊成の家としては「五条京極第」が知られています。五条とは現在
の松原通りのこと。京極とは東京極で今の寺町通りのことです。
だから五条京極第は寺町松原あたりにあったとみるのが妥当です。
大宮とは離れています。
現在、烏丸松原下る東側に「俊成社」という小さな祠があります。
このあたりが三位入道時代の俊成の住居があった所です。
○寂然
大原(常盤)三寂の一人。藤原頼業のこと。西行とはもっとも
親しい歌人。
○西住
俗名は源季政。生没年未詳です。醍醐寺理性院に属していた僧です。
西行とは出家前から親しい交流があり、出家してからもしばしば
一緒に各地に赴いています。西行よりは少し年上のようですが、
何歳年上なのかはわかりません。
没年は1175年までにはとみられています。
千載集歌人で4首が撰入しています。
同行に侍りける上人とは、すべて西住上人を指しています。
没後、西住法師は伝説化されて晩年に石川県山中温泉に住んだとも
言われています。現在、加賀市山中温泉西住町があります。
○寂蓮
生年は未詳、没年は1202年。60数歳で没。父は藤原俊成の兄の
醍醐寺の僧侶俊海。俊成の猶子となります。30歳頃に出家。
数々の歌合に参加し、また百首歌も多く詠んでいます。御子左家
の一員として立派な活動をした歌人といえるでしょう。
新古今集の撰者でしたが完成するまでに没しています。家集に
寂蓮法師集があります。
○いなびて
拒絶、否定を表すことば。
(いな)は否。(び)は接尾語。(て)は助詞。
○別当湛海三位、俊成に
岩波文庫山家集にたくさんあるミスのひとつです。
西行の時代は句読点はありませんでした。別当湛海は三位では
なく俊成が三位ですから、ここは「別当湛海、三位俊成に」と
なっていなくてはなりません。
○別当
官職の一つで、たくさんの別当職があります。さまざまな職掌に
おける長官が別当です。
寺社で言えば、東大寺、興福寺、法隆寺、祇園社、石清水八幡宮
などの最高責任者を別当といいます。醍醐寺や延暦寺は別当の
変わりに「座主」という言葉を用いていました。
熊野別当は熊野三山(三社)を管轄していました。
○別当湛快(べっとうたんかい)
第18代熊野別当。1099年から1174年まで存命と見られています。
1159年の平治の乱では、熊野参詣途上の平清盛に助勢しており、
平治の乱で清盛が勝利した原因の一つでもありました。
21代熊野別当となる湛快の子の湛増は、初めは平氏の味方でした
が、後に源氏側について熊野水軍を率いて平氏追討に活躍して
います。
西行は熊野修行などを通じて湛快、湛増父子とは面識ができた
ものと思われます。西行高野山時代に湛増も住坊を持っていた
とのことですので、湛増とは親しくしていた可能性もあります。
○北白河
京都市左京区にある地名です。現在の白川通り以東、今出川通り
以北の一帯を指します。
○基家の三位
藤原道長の子の頼宗を祖とする家系に連なります。後高倉院や
後鳥羽院は基家の姪の子、後堀河院は孫に当たります。
○行蓮法師
不明です。法橋行遍のことだと言れています。
○たすきのおひめ
たすきの結び目のこと。帯目のこと。
(01番歌の解釈)
「浜木綿にあなたの千年の寿命が重なるので、世に絶えない
であろう和歌の道よ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「私の心をそのまま浄土の蓮に咲かせたことだよ、今見る
花が散るのに連れ添い行かせて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「衰えて行く末の世でも、この風流の道のみは変わらないと見た
夢がなかったならば、この百首のこともよそ事に聞き流して
しまったであろう。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(04番歌の解釈)
「恋の物思いをして神に祈ろうと結んだ襷の帯の結び目が弱い
のでほどけやすい。しかし恋人の心はほどけやすくないよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【山家集】→「西行」参照
【山家心中集】→「西行」参照
【三業の罪】 (山、123)
【残集】 →「西行」参照
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