しあ〜しか | しき〜しで | しな〜しほ | しま〜しも | しゃ | しゃ〜しゅ | しょ | しら〜しを | しん |
項目
鴫・しきしま・敷妙・しきたてて・しきまく・しきりたす・しきわたす・しきたてて・しきみてて・
しげめゆひ・四国・地蔵・地蔵菩薩・しづ枝・下枝・賎・賎が垣ほ・しづの伏屋・賎の女・
賎がはつ木・しで・死出の山・死出の田長
【しこき山路】→「雲鳥」参照
【しきみおく(樒置く)】→「あか」参照
【しただみ】→「いそしく」参照
【したむもち網】→「鵜縄」参照
【しだりさく】→「しか・鹿・かせぎ・すがる(2)」参照
【慈鎮】→「慈円」参照
【しづはらの里】→「あせ行く」参照
【しづる涙】→「かこめにものを」参照
【しどろ】→「雁・雁がね」参照
【侍従大納言入道】→「藤原成通」に記述予定
【侍従大納言成通】→「藤原成通」に記述予定
【しげのり】→藤原成範に記述予定
【鴫】 (山、158)
シギ科に属する鳥の総称。アオアシシギ、ハマシギ、コシャクシギ
など、世界で50種類以上が分布しています。
体長は10センチ強から60センチほどで、種類によって差があります。
日本には渡りをする途中に立ち寄ることが多いようです。
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01 心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ
(岩波文庫山家集67P秋歌・新潮470番・西行上人集・
山家心中集・御裳濯河歌合・新古今集・御裳濯集・西行物語)
02 草しげみ澤にぬはれてふす鴫のいかによそだつ人の心ぞ
(岩波文庫山家集158P恋歌・新潮1275番・夫木抄)
○心なき身
俗世間に心を置いていないということ。俗世間のことごとからは
遊離した気持ちのこと。出家者であることを表します。
○いかによそだつ
いかにもよそよそしいこと。ほとんど無視されていること。
○鴫立つ澤
(鴫の飛び立つ澤)ということで、普通名詞です。固有名詞では
ありませんから場所については特定できません。
西行物語を参考にすれば、陸奥までの行程の途次での歌のよう
です。場所は現在の神奈川県藤沢市の片瀬川(境川)付近で詠わ
れた歌であるとみられています。
しかし山家集採録の歌ですから、詠われた場所は畿内であれ四国
や中国であれ、どこだって可能性があります。二度目の奥州行脚
より以前の歌と断定できます。
(01番歌の解釈)
「俗世間のことは捨てたはずの世捨人のわが身にも、しみじみと
したあわれが知られることである。この、鴫が佇立する沢の秋の
夕暮は・・・」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「たいそう草が茂っているために、まるで縫われたような状態で
沢に伏している鴫のごとく、どうしてこんなによそよそしくする
あの人の心であろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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「心なき歌」と三夕歌について
新古今集には361番から364番まで結句を「秋の夕暮れ」とする歌が
4首並んでいます。このうち、寂蓮、西行、定家の歌が三夕歌と言わ
れています。
さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮
(新古今集361番 寂蓮法師)
こころなき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ
(新古今集362番 西行法師)
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ
(新古今集363番 藤原定家朝臣)
いずれの歌にも共通しているのは三句最後の「けり」と、結句の
「秋の夕暮」です。
「けり」という助動詞には断定しての強い言い切り、そして小休止
や転調を促す役割があります。いずれの歌も4句で具体的な実景表現
につながり、結句は「秋の夕暮れ」です。すべての歌は、一首全体
が個人個人の想起する「秋の夕暮れ」の中に収斂する詠い方をされ
ています。それぞれの情景の元での秋の夕暮れが実景を通して、
それが人々の心の内に照応するものとして捉えられます。
実景という言葉を使いましたが、寂蓮歌にしろ定家歌にしても、
実際に実景を見て詠った歌ではなかろうと思います。頭の中でそう
いう情景を思い浮かべて、レトリックを駆使しての歌なのでしょう。
この3首はともに味わい深い歌ですが、個人的には、やはり西行詠を
ひいきにしたいと思ます。それにしても西行歌は他人の視線を意識
してポーズをとっているような感じもして、血気盛んな若い時代の
感覚を残した歌だろうと思います。
「(鴫立つ)という叙べ方は(鴫が飛び立つ)という動的な内容
表現に似合わしくないという感じもないわけではないが、しかし
(夕暮)の沢べであって、すなわち主題の鴫が作者の心に迫った
のは、見えていたという視覚より突然に聞いた羽音という聴覚から
であるとみる方が自然だと思われるからである。(中略)
静的なものより動的な契機があって、それから命持つものの
(あはれ)を感受したものであろうと思われるのである。」
(宮柊二氏著「西行の歌」から抜粋)
「俊成が千載集に採らなかった理由は何か。思うに、彼は下句の
この景を賞しつつも、作者自身の意識や姿勢をあからさまに表明
したこの上句に対して、反撥めいたものを感じたのではないであ
ろうか。(中略)上句は・・・説明的である。・・・いはば押し
付けのようなものが感じられる。(中略)
西行にとっては、どうしてもこのように自己の心情を説明しない
ことにはすまなかったのであろう。彼にとっては風景の描写は
(鴫立つ澤の秋の夕暮)という下句だけで十分なのであって、問題
はそれに向う(心なき身)である自身の(心)にあったのだろう。
(久保田淳氏著「山家集入門」から抜粋)
「秋の夕暮の沢は、水墨画を思わせるようなさびしく深い色合い
のなかに沈んでいたにちがいないが、そこに群れていた鴫は、
西行の姿ないしは足音におどろいて、おそらくは数十羽、鳴きな
がら夕暮の空に羽音をひびかせて飛び立ったのである。(中略)
天地の深いさびしさを感じさせるような風景を背景とすることに
よって、かえってするどく命のそよぎとでもいうようなものを、
西行に感じさせたのだといえよう。」
(安田章生氏「西行」から抜粋)
この歌を鎌倉付近での現地詠という少し乱暴な解釈をするなら、
初度の旅の時か、あるいは再度の奥州旅行より前に武蔵あたりまで
の旅行を試みたことがあり、その時の歌なのか判然としません。
現地には両度の陸奥までの旅以外に行っていないのであれば、初度
の奥州までの旅の時の詠歌というしかありません。
あるいは、初度の旅の事を思い出して、後年に詠んだものでしょう。
しかし歌の感じからみて初度の旅の時の歌とは思えないという印象
が私には抜きがたくあります。やはり30歳代後半から40歳代頃に
武蔵あたりまでの旅をしたことがあって、その時に詠まれた歌では
なかろうかと想像します。
「井蛙抄」と鴫立つ沢
頓阿(1289〜1372)の「井蛙抄」に、この歌についてのエピソード
があります。
「或人云千載集の比西行在東国けるか勅撰有と聞て上洛しける道
にて登蓮にあひにけり勅撰の事尋けるにはや披露して御うたも
多く入たると云けり鴫たつ沢の秋の夕暮と云哥入りたりととひ
けれはみえさりしとこたへけれはさてはみて要なしとてそれより
又東国へ下りけると云々」
(井蛙抄)
「(千載集)撰集のことを、東国にいて聞いた西行は、早く見よう
と上洛する途で登蓮に逢い、撰集の模様を尋ねたところ、すでに
披露されて西行の作品も多数撰入されているとのことであったが、
「鴫たつ沢の秋の夕暮」の歌が撰ばれていないということを知って、
そのような集ならば見る必要がないといって、また東国へ下ったと
いうエピソードが伝えられている」
(安田章生氏「西行」から抜粋)
登蓮法師は勅撰集歌人ですが生没年は不詳です。岩波文庫山家集の
260ページに出てくる人物ですが、1182年に没したと見られています。
千載集が後白河院によって下命されたのが1183年、撰者藤原俊成に
よる最終的な撰集奏覧が1188年です。その前年の1187年9月に形式的
総覧がなされていて、「井蛙抄」にいう(すでに披露されて・・・)
はこの時のことでしょう。登蓮法師が1182年に没したことが事実だと
したら、井蛙抄の上記文言は誤まりだということになります。
この話の原型は「今物語」に出ていて、登蓮法師という固有名詞では
なくて、単なる「知人」として出ているそうです。
(井蛙抄)の記述は、今物語から転載したものでしょう。
1187年9月と言えば西行は再度の陸奥までの旅を終えて、京都嵯峨の
草庵に落ち着いていた頃です。従って、東国へ下るということは、
1183年から1186年の間のことと解釈されますが、この期間には再度
の陸奥下向があります。ただしこれは重要な使命を帯びての旅です
から、使命を放棄して上洛するなどということは考えられなく、
そのほかに直近での東国行脚の可能性も少ないと思われます。
やはり、こういう話自体が西行伝説の一つとして創作され、流布した
ものだろうと思います。
鴫立庵について
(鴫立庵=でんりゅうあん・しぎたつあん)
1600年代の中頃、小田原に住む崇雪という人が大磯の地に庵を構え
ました。西行の「こころなき」歌から採って「鴫立庵」と名づけた
のが始まりのようです。この時に「湘南」という言葉も始めて使わ
れています。近くの小流を「鴫立つ沢」ともしたようです。
西行は一つの情景として「鴫立つ沢」と詠んだはずですのに、以後
は「鴫立つ沢」は固有名詞となります。「鴫立つ沢」以外の沢で、
鴫が飛び立っている光景を見ても、「鴫たつ澤」と詠むには無謀な
ことにもなりますから、罪なことをしたものだと思います。
こんなことは個人的には残念なことです。
西行物語その他によって、西行伝説が人口に膾炙して広く伝播して
いたことの証明でもあります。
「鴫立沢というのは固有名詞ではなく、鴫の立つ沢の意で、昔の
連歌師や好事家がいいかげんにつけた地名であることを大人に
なってから知ったが、私の鴫立沢は、やはり大磯のあすこ以外に
ない。何度私はあの松林の中に立って、縹渺と霞む海のかなたに、
鴫が飛び立つ風景を夢みたことか。歌枕とはそうしたものであり、
それでいいのだと私は思っている。」
(白州正子氏「西行」から抜粋)
(大淀三千風)
1639年〜1707年。俳人。伊勢の出身。芭蕉と親交があったようです。
長く松島、仙台に住み晩年には鴫立庵を再興して居住しました。
鴫立庵には1695年から13年間住んだということです。
今西行と自他共に認めていたようです。
【しきしま】 (山、249)
大和(奈良県)の国、磯城郡磯城島の地名から転じて大和の国
(奈良県)全体を指す言葉になり、さらに転じて大和(日本)の
国を指すようにもなります。
「しきしま」は万葉集から多くの歌が詠まれました。
中世からは「日本の言の葉」「和歌の道」「和歌の伝統」という
意味を合わせ持つ言葉にもなっています。
02番の寂然歌などは、和歌の道の退潮を憂えている歌です。
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01 いまもなしむかしも聞かずしきしまや吉野の花を雪のうづめる
(岩波文庫山家集249P聞書集182番・夫木抄)
02 しきしまや絶えぬる道になくなくも君とのみこそあとを忍ばめ
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1229番・西行物語)
○絶えぬる道
詞花和歌集や久安百首の撰進者であった崇徳院は和歌の伝統の継承
に熱心でした。ところが崇徳院は保元の乱に敗北して讃岐に配流と
なったために西行や寂然にしてみれば、和歌運動そのものの衰退と
して受け止めるしか無かったのでしよう。
○あとを忍ばめ
崇徳院が歌の道で活躍していたことを指します。
崇徳院が讃岐に移ったいま、当時を偲ぶとともに、互いに和歌の道で
がんばりましよう、という意味にもなると思います。
○寂然
常盤三寂(大原三寂)の一人で藤原頼業のこと。西行とは
もっとも親しい歌人です。
山家集の中で寂然との贈答歌は9回あります。岩波文庫から贈答
歌のあるページを記します。
29・69〜70・101・138〜139・183・206(2回)・207〜208・210
の各ページ。
歌数は寂然22首、西行23首です。ほかに連歌が266ページにあります。
このほかに寂然の名前があるページは88・89・179・259・264
(2回)・265の各ページです。88ページは寂然が寂蓮、264ページ
には寂為と誤記されています。
(01番歌の解釈)
「今もないし、昔も聞かない。大和の国で吉野の花を
雪が埋めたことは。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「新院の遷御によって絶えてしまった和歌の道に、涙ながらも
あなたとだけ新院の御跡をーー在りし日の和歌が盛んであった
折を偲びましよう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
西行が寂然に当てた詞書と歌も紹介しておきます。
讃岐へおはしまして後、歌といふことの世にいときこえざり
ければ、寂然がもとへいひ遣しける
ことの葉のなさけ絶えにし折ふしにありあふ身こそかなしかりけれ
(西行歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1228番・西行物語)
【敷妙】
「あおによし」が「奈良の都」を導きだす言葉のように「敷妙」は
「床・枕・袖・衣・妹・家」などを導きだす枕言葉です。
原義は男女が一緒に寝るために敷く栲(たえ)の事です。その栲を敷く
ことです。
栲とは植物の楮(こうぞ)を指しますが、楮などの繊維で作られた
寝具用の衣料をも指します。
「栲」ではなくて「妙」の文字が用いられるようになったのは、
「妙=たへ」が、優雅であり立派なこと、麗しいことなどの意味が
あるからでしよう。
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01 待ちかねてひとりはふせど敷妙の枕ならぶるあらましぞする
(岩波文庫山家集159P恋歌・新潮1284番)
○あらましぞする
「あらまし」は(有る)(まほし)の略で、こうありたいと思う気持の
ことです。このようになればいいなーという希望を持って、心構え
をすることです。
(01番歌の解釈)
「あの人を待ちきれなくて床にはたったひとりで入ったものの、
あの人が使う枕だけはどうしても並べてしまうのです。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【しきたてて】
強風がしきりに吹き立っていること。次項の「しきたてて」とは
意味が異なります。
【しきまく】
(敷き渡す)などの(敷き)とは違って、この場合は(頻り)の
(しき)です。(しきまし)(しきまき)などの用例があります
ので、(しきりにまくれ上がる)という解釈で良いと思います。
【しきりたす】
「しきり」は「頻り」のこと。繰り返して、うち続いて、盛んに、
などの意味があります。
しきりに出るようになったということ。ここでは秋の気配が色濃く
なったということ。
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01 よろづ代を山田の原のあや杉に風しきたててこゑよばふなり
(岩波文庫山家集279P補遺・宮河歌合・夫木抄)
02 神風にしきまくしでのなびくかな千木高知りてとりをさむべし
(岩波文庫山家集261P聞書集259番)
03 秋の色は風ぞ野もせにしきりたす時雨は音を袂にぞきく
(岩波文庫山家集88P秋歌・新潮1439番)
○山田の原
伊勢神宮外宮のある一帯の地名。外宮の神域。古代から山田の町
の人たちと外宮は密接に結びついてきました。
○あや杉
植物の杉の一種。綾杉。神事にも用いられていたようです。
広辞苑では「ヒムロ」の異称とあり、「ひむろ=姫榁」は、
「ヒノキ科の小喬木。高さ3〜4メートル。サワラの園芸変種で、
枝は繁く葉は線形で軟かい。庭木として用いる」と記述されて
います。
九州などで植栽されているアヤスギは高木で建築材として用いら
れていますので「アヤスギ」と「綾杉」は別種だろうと思います。
(西行山家集全注解)では「イワネスギ」のこととあります。
小学館発行の「日本国語大辞典」では、葉がよじれて綾になって
いるところから綾杉と名付けられたとあります。
西行歌の「あや杉」も、どちらの「アヤスギ」か断定はできない
と思います。西行歌は植物学上の固有名詞ではなくて、宗教上の
意味を付託された特別な杉という意味ではないかと愚考します。
楽器の三味線の胴の内側に彫刻された紋様も「綾杉」といいます。
○神風
神の威徳を表す風のこと。平安時代は伊勢神宮の枕詞です。
鎌倉時代の二度に渡る蒙古襲来、そして第二次世界大戦という
苦難に満ちた歴史をたどって、現在では「神風」の意味も変わって
きたものと思います。
○千木高知りて
神社建築に見られる、屋根の上の両端の、屋根から突き出た形で
交差している二本の木のことです。それが高いということ。
○とりをさむべし
物事を解決する。うまく収めるということ。
ここでは源平の争乱が神威によってうまく解決するだろう・・・
とも解釈できます。
○野もせ
「野も狭」のこと。野原が狭いと感じるほどに野原一杯にと
いう意味。
(01番歌の解釈)
「よろず代を思わせて山田の原(外宮に近い地)にあるあや杉
(杉の一種イワネスギ)の梢に風がしきりに吹きたてて(外宮
近くの老杉、風が常にひびきを立て、万代までつづくことを思
わせていること)大声を出して、よびつづけているのである。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
(02番歌の解釈)
「頻りに吹き捲られる弊が、神風によって一方へなびき寄るなあ、
千木を高く構えて、その威力で取り収めるのだろう。
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「秋の気配は風が野原一面に吹いて次第に濃くなった。時雨が
降ると秋の音を袖で聞くことになる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【しきわたす】
端から端まで全面に敷き詰めたようになっていること。
ここでは月の光が満ちていて、全面が氷結したように見える
水のこと。
【しきたてて】
この歌では「敷き立てる」こと。倒れないように堅固に、見た目も
立派に建てること。
【しきみてて】
「敷き満てて」だと思いますが「みてて」がわかりません。
現在の「敷居」の古称として「しきみ」という名詞がありますが、
「下の方に、横に張り渡した板」という意味では「しきみ」と
関係がありそうな気もします。それなら接続語が「てて」となり、
なおさら不可解な言葉となりそうです。
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01 しきわたす月の氷をうたがひてひびのてまはる味のむら鳥
(岩波文庫山家集110P羇旅歌・新潮1404番)
02 いけ水に底きよくすむ月かげは波に氷を敷きわたすかな
(岩波文庫山家集84P秋歌・新潮1474番)
03 宮ばしらしたつ岩ねにしきたててつゆもくもらぬ日の御影かな
(岩波文庫山家集124P羇旅歌、261P聞書集260番・新潮欠番・
西行上人集追而加書・新古今集・西行物語)
04 池の上にはちすのいたをしきみててなみゐる袖を風のたためる
(岩波文庫山家集246P聞書集151番・夫木抄)
○月の氷
月の澄明な光に照らされて海面が氷を張り詰めたように見える状態。
○ひび
「魚を捕る仕掛けで、浅海に枝付きの竹や細い木の枝を立て並べ、
一方に口を設け、満潮時に入った魚が出られないようにしたもの。
また、のり・牡蠣などを付着・成長させるため海中に立てる竹や
細い木の枝。」
(大修館書店「古語林」から抜粋)
○ひびのてまはる
海流によって流されないように、ひびを支えるための木を「ひび
の手」と言い、ひびの手に止まることもなくアジガモが旋回して
いる様子を説明しています。
○味のむら鳥
アジガモと言い、トモエガモの異名です。単純に「アジ」とも
言います。マガモより小ぶりのトモエガモの群れのことです。
○宮ばしら
皇居の柱、宮殿の柱、神殿の柱などをいいます。
○したつ岩ね
(下つ)のことで(つ)は格助詞です。(の)と同様の働きを
しますが、(の)よりも用法が狭く、多くは場所を示す名詞の
下に付きます。
(したつ岩ね)で、下の方の岩、底の方の岩になります。
下にある岩盤のことです。
○つゆもくもらぬ
少しも曇りの無いこと。伊勢神宮の御威光をいいます。
○はちすのいた
「蓮の板」とは奇妙な表現ですが、仏典から採られた用語ですから、
このように表現するしか無かったものでしよう。
和歌文学大系21では「宝池の上の蓮華座を表すか?」としています。
○なみゐる袖
聖衆の人数分だけの多くの袖のこと。並びいる人達の袖で、
「なみいる」は、池の縁語としての「波」を響かせています。
(01番歌の解釈)
「海上一面に照り輝く月の光のために、氷が張ったのかと疑って、
海面におりずにひびの手の上を飛び廻っているあじ鴨の群れよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「池に映って水底まで透き通らせる清澄な光を落としている月は、
水面でも氷を敷き渡したような波を立てている。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「宮柱を地下の岩にしっかりと立てて、少しも曇らない日の光が
射す、神宮のご威光よ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「池の上に蓮の板を一面に敷いて、並んで座る聖衆の袖を
風が畳むように吹いている。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【しげのり】 (山、209)
【しげめゆひ】 (山、165)
「重目結・滋目結」と表記します。(鹿の子結ひ・鹿の子目結ひ)と
同義です。
緻密な目に編みこんだ衣料です。武士の着用する直垂(ひたたれ)
なども「しげめゆひ」のようです。
辞書では、鹿の子絞りの別称ともあります。「結」と「絞」は別の
工程だと思いますが、鹿の子結ひを鹿の子絞りにしたものだと思い
ます。鹿の子絞りとは、布を縛って染色し、斑点模様を染め出す
絞り染めの一種とのことです。
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01 君をいかにこまかにゆへるしげめゆひ立ちもはなれずならびつつみむ
(岩波文庫山家集165P恋歌・新潮1496番)
○こまかにゆへる
結目(ゆいめ)の緻密な衣料のこと。
○立ちもはなれず
(裁ちも離れず・裁たれても離れず)を掛けていることば。
とても強い結びつきでありたいという希望を込めています。
○ならびつつみむ
常に一緒にいて見会っておきたいという願望のこと。
(01番歌の解釈)
「あなたと、何とかして、細かに結った鹿子絞りの目がたち
離れていないように、片時も離れることなく並びながら逢って
いたいものだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【四国】
日本の国土を構成する島の一つ。四国のこと。
阿波(徳島)・讃岐(香川)・伊予(愛媛)・土佐(高知)の4カ国から
なります。
このうち、西行法師が確実に行った国は讃岐国だけです。
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01 四国のかたへ具してまかりたりける同行の、都へ帰りけるに
かへり行く人の心を思ふにもはなれがたきは都なりけり
(岩波文庫山家集109P羇旅歌・新潮1097番・
新後撰集・万代集)
02 ひびしぶかはと申す方へまかりて、四国の方へ渡らんと
しけるに、風あしくて程へけり。しぶかはのうらたと申す
所に、幼きものどもの、あまた物を拾ひけるを問ひければ、
つみと申すもの拾ふなりと申しけるを聞きて
おりたちてうらたに拾ふ海人の子はつみよりつみを習ふなりけり
(岩波文庫山家集115P羇旅歌・新潮1373番)
03 そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて
後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四国のかた修行しけ
るに、又帰りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日の夜
まゐりて幤まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、
たなうの社にとりつぎてまゐらせ給へとて、こころざし
けるに、木間の月ほのぼのと常よりも神さび、あはれに
おぼえてよみける
かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に
(岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1095番・西行上人集・
山家心中集・玉葉集・万代集・閑月集・拾遺風体集・
夫木抄・西行物語)
○同行
西住法師のこと。
俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い
頃からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いています。
西住臨終の時の歌が岩波文庫山家集206ページにあります。
○ひびしぶかわ
地名。日比・渋川のこと。現在の岡山県玉野市にある瀬戸内海に
面している町です。
○しぶかわのうらた
備前国(岡山県)の渋川という漁村(浦)の田という事です。
しかし螺貝は海生の貝です。陸上の「田」ということはありえない
ことですから、ここは渋川の「浦の田」として干潟を指している
ものと思います。
○つみ
巻貝の一種の螺(つび)を言い、それからの転で(罪)を掛けています。
ただ(つぶ貝)(つみ貝)などという貝は正式名称ではなくて(エドバイ)
(エドボラ)などと呼ばれる貝類です。
現在でも(海螺貝=つぶ貝)は刺し身や煮たり焼いたりして食用に
されています。
○そのかみ
まだ出家していない頃。在俗の頃。
○こころざしつかうまつりけるならひ
まだ僧侶には成っていなかったので、何度も加茂社に行く機会が
あったものと思います。
当時、加茂社は京都で一番の神社であり葵祭も勅祭でしたから、
徳大寺家の随身としても、また鳥羽院の北面としても加茂社に
参詣する機会は多かったものと思います。
普通は僧侶は神域に入ることはできませんでした。
○帰りまゐらぬことも
ある程度の長い旅になりますから、再び都に帰ってこれるかどうか
という不安もあったということです。
○仁和二年
仁和二年とは886年のことですから、ここは仁安です。仁安ニ年は
1167年、西行50歳の頃。西行法師歌集では仁安三年とあります。
○たなうの社
上賀茂神社の棚尾社のこと。
○幣
へい・ぬさ=緑の葉のある榊に白地の布や紙を垂らしたもの。
○しで
四手=注連縄や玉ぐしにつける白地の紙。昔は白布も用いました。
この詞書によって四国旅行に出発した時の西行の年齢が分かります。
旅立ちに際して上賀茂社に参詣したのですが、「又帰りまゐらぬ
こともやとて」とあるように、自分で再び帰ることのできない
大変な旅になるかも知れないという覚悟があったことがわかります。
「たなうの社」は現在は楼門の中の本殿の前にあるのですが、詞書
から類推すると西行の時代は本殿と棚尾社は離れていたのかもしれ
ません。僧侶の身では本殿の神前までは入られないから、幣を
神前に奉納してくれるように、棚尾社に取り次いでもらったと
いうことです。
(01番歌の解釈)
「都に帰る君の心を想像してみると、切るに切れないのは同行の
私との仏縁ではなくて、やはり都との血縁の方だったね。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「浦田に下り立って螺貝(つぶがい)を拾う海人の子供たちは、
知らず知らずのうちに螺(つみ)から罪を習っているのだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「かしこまり謹んで奉る幣に涙がかかるよ。四国行脚へ出かける
自分はいつまたお参りできることか、もしかしたら出来ないの
ではと思うと。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(四国旅行について)
1156年7月11日朝、保元の乱で敗れた崇徳上皇は仁和寺に幽閉された
後、讃岐に配流されました。そして1164年8月、讃岐の御所で没して、
白峰で火葬されました。
西行は鳥羽天皇や近衛院、二条院、後白川院よりも、待賢門院所生
のこの崇徳院と、もっとも親しい関係でした。
この時の西行の四国行脚の主たる目的は、崇徳院の白峰御陵に参拝
することと解釈して良いと思います。
仁安三年説を採るなら崇徳院崩御後四年目にしての参拝ということに
なります。四国まで行くには、それなりの準備も必要だったのでしよう。
ルートについては歌がルート順になっていない配列ですので推定する
しかありません。まず山城の三豆から津の国で同行の西住を待ち、
備前国児島、日比、渋川を経て讃岐国松山にて下船。白峰御陵を参拝
してから善通寺に回って弘法大師空海の遺蹟を訪れて庵を結んでいます。
そこでしばらく住んでから、讃岐三野津より乗船。真鍋島、塩飽島を
経て帰途に着いたとも考えられます。
(ルートについては窪田章一郎氏著「西行の研究」を参考)
【地獄】
仏教用語です。輪廻転生の一つで前世での悪業のために落ちる
地底の苦しみの世界だと言われます。
こういう架空の世界を生み出し人々に押し付けることは、仏教思想
の持つ犯罪性の一つだと私は思います。
【地獄菩薩】
地蔵菩薩は日本では観世音菩薩や阿弥陀仏とともに親しまれている
菩薩だといえます。
釈迦が入寂してから弥勒菩薩が現れる56億7千万年後までの期間に
渡って、全ての人々の悩みや苦しみを救う菩薩だと言われます。
仏教の六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六世界を
言いますが、この全てに地蔵菩薩は関わっています。
(松濤弘道氏著「仏像の見方がわかる小辞典」を参考)
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01 六道の歌よみけるに、地獄
罪人のしめるよもなく燃ゆる火の薪とならんことぞ悲しき
(岩波文庫山家集220P釈教歌・新潮897番)
02 地獄絵を見て
見るも憂しいかにかすべき我がこころかかる報いの罪やありける
(岩波文庫山家集251P聞書集198番)
03 阿弥陀の光願にまかせて、重業障のものをきらはず、地獄
をてらしたまふにより、地獄のかなへの湯、清冷の池に
なりて、はちすひらけたるところを、かきあらはせるを
見て
光させばさめぬかなへの湯なれどもはちすの池となるめるものを
(岩波文庫山家集252P聞書集214番・夫木抄)
04 閻魔の庁をいでて、罪人を具して獄卒まかるいぬゐの方に
ほむら見ゆ。罪人いかなるほむらぞと獄卒にとふ。汝が
おつべき地獄のほむらなりと獄卒の申すを聞きて、罪人
をののき悲しむと、ちういん僧都と申しし人説法にし侍り
けるを思ひ出でて
問ふとかや何ゆゑもゆるほむらぞと君をたき木のつみの火ぞかし
(岩波文庫山家集253P聞書集217番)
ゆくほどは繩のくさりにつながれておもへばかなし手かし首かし
(岩波文庫山家集253P聞書集218番)
05 かくて地獄にまかりつきて、地獄の門ひらかむとて、罪人
を前にすゑて、くろがねのしもとを投げやりて、罪人に
対ひて、獄卒爪弾きをしかけて曰く、この地獄いでしこと
は昨日今日のことなり。出でし折に、又帰り来まじきよし
かへすがへす教へき。程なく帰り入りぬること人のするに
あらず、汝が心の汝を又帰し入るるなり、人を怨むべからず
と申して、あらき目より涙をこぼして、地獄の扉をあくる
音、百千の雷の音にすぎたり
ここぞとてあくるとびらの音ききていかばかりかはをののかるらむ
(岩波文庫山家集254P聞書集219番)
06 さて扉ひらくはざまより、けはしきほのほあらく出でて、
罪人の身にあたる音のおびただしさ、申しあらはすべくも
なし。炎にまくられて、罪人地獄へ入りぬ。扉たてて
つよく固めつ。獄卒うちうなだれて帰るけしき、あらき
みめには似ずあはれなり。悲しきかなや、いつ出づべし
ともなくて苦をうけむことは。ただ、地獄菩薩をたのみ
たてまつるべきなり。その御あはれみのみこそ、暁ごとに
ほむらの中にわけ入りて、悲しみをばとぶらうたまふなれ。
地獄菩薩とは地藏の御名なり
ほのほわけてとふあはれみの嬉しさをおもひしらるる心ともがな
(岩波文庫山家集254P聞書集220番)
○六道
仏教にある地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六世界のこと。
想像上の世界、架空の物語の世界です。
○しめるよ
水分が混じって湿ること。燃え盛る炎が衰えない状態のこと。
勢いが沈静化することはないということ。
○地獄絵
地獄に堕ちている罪人のありさまが描かれている絵。
西行の見た地獄絵は誰が描き西行はどこで見たものかということ
は分かっていません。
鎌倉期の地獄絵は恵心僧都源信の「往生要集」の影響を受けたもの
が多いそうですが、それ以前にも地獄絵はいくつか描かれたようです。
渡部保氏著「山家集全注解」では「当時、東山長楽寺の巨勢広高
筆の壁画がもっとも有名であった。」と記述されています。
○阿弥陀・弥陀
阿弥陀・弥陀は同一。仏教の阿弥陀仏・阿弥陀経の略語。
○阿弥陀経
大乗仏教の経典のひとつです。
○阿弥陀仏
浄土教の本尊であり、阿弥陀如来のこと。阿弥陀如来とは
『真理の人格的な働きである「知恵と慈悲」を統合した報身仏、
釈迦自らがその弟子サーリブッタ(舎利仏)に対して、阿弥陀仏
について「舎利仏よ、かの仏の光明は無量にして、十方の国を照ら
すに妨げるところなし。このゆえに号して、阿弥陀となす。また、
舎利仏よ、かの仏の寿命およびその人民(の寿命)も無量無辺に
して阿僧祇劫(無限)なるがゆえに阿弥陀と名づく』とあります。
(松濤弘道氏著「仏像の見方がわかる小事典」71Pから抜粋)
阿弥陀三尊とは阿弥陀如来と脇士仏として観音菩薩と勢至菩薩の
三尊を指し、京都の三千院などが有名です。
○阿弥陀の光願にまかせて、
岩波文庫山家集にたくさんある誤植や校正ミスの一つです。
正しくは(阿弥陀の光、願にまかせ)です。光と願の間に読点
が必要です。
(阿弥陀の光)とは阿弥陀如来の眉間にある白毫から放たれている
光のこと。(願にまかせて)とは衆生を救済するという本願のこと。
衆生である人間を導き救済するということ。
○重業障
生存していた時の悪業のこと。人間としての重い犯罪のこと。
仏道に入る機縁や死後の成仏を妨げるだけの大きな罪のこと。
○かなへの湯
(かなへ)は物を煮立てるための金属製の器のことで、鍋、釜
のことです。(かなへ殿)と言えば湯殿のことで、風呂場を指し
ます。ここでは罪人を煮るための大釜のことです。
○清冷の池
蓮の咲き乱れる池をいいます。
○閻魔の庁
三途の川を渡った死者が初めに行く冥界の庁舎。閻魔王宮のこと。
王宮では閻魔大王が死者の存命中の行為を取り調べて地獄に行くか、
それとも天国に行くかという採決を下します。
古代において、仏教がこういう思想を持つのも仕方のない面が
あったものだろうと思います。
○獄卒まかるいぬゐの方に
地獄の獄卒の鬼が行く乾の方角ということ。
「まかる」は「罷り」のことで、行ったり来たりすること。
出入りすること。
「乾」は「戌亥」で、北西の方角。
○ちういん僧都
生没年未詳。1160年少し前の没と見られています。説法の達人の
ようです。
仲胤(ちゅういん)僧都の説話が「宇治拾遺物語」などに伝わって
いるとのことです。
○手かし首かし
手枷(てかせ)、首枷のことです。(かせ)は(かし)とも読みます。
犯罪人の自由を奪い、手や首を拘束するための器具です。
○くろがねのしもと
「しもと」は鞭のこと。鉄で作った鞭をいいます。
○対ひて
「対ひて」は「対して」のことです。相対することです。
和歌文学大系21では「対ひて」は「むかひて」と読ませています。
○爪弾きを
指鳴らしのことです。親指の腹に中指をあてて強く弾けば大きな
音がします。不平不満や非難を表しているそうです。
○あらき目
獄卒自体は容貌怪異なのかどうか分かりませんが、地獄の役人で
あり、(鬼)とも解釈される以上は、もとから荒く猛々しい目を
しているのかもしれません。
(01番歌の解釈)
「永遠に燃え続ける地獄の業火の薪として、罪人が焼かれるのは
本当に悲しいことだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「見るのもつらい。どうしたらよいのか、つらく思う私の心を。
このような報いの因となる罪があっただろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「阿弥陀仏の放つ光が射すと、常に冷めない地獄のかなえの湯だ
けれども、変じて蓮の池になるようなのになあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「地獄に連れて行かれる罪人はたずねるとか、(あれは何のため
に燃える火だ)と。獄卒が答えて言うには(あなたを薪にして
焚く、あなたが積み重ねた罪の火だよ)」
(和歌文学大系21から抜粋)
「地獄へ行く罪人は、行く途中は、縄になっているくさりに
つながれて、考えてみれば悲しいことだ。手かせ足かせを
はめられている。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(05番歌の解釈)
「ここが地獄だぞと言って開ける扉のはげしいすさまじい音を
きいて、どんなに、そのおそろしさにおのずからおびえおのの
かれることであろうか。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(06番歌の解釈)
「暁ごとに地獄の炎を分けて罪人を見舞う地蔵菩薩の憐れみの
嬉しさを、おのずと思い知られる心であったらなあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【しづ枝・下枝】
植物の下枝のことです。上枝を(ほつえ)、中枝を(なかつえ)
といいます。
歌によって(しずえ・したえ・したえだ)と読み替えています。
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01 松の下枝をあらひけむ浪、いにしへにかはらずやと覚えて
古への松のしづえをあらひけむ波を心にかけてこそ見れ
(岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1219番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
02 かずかくる波にしづ枝の色染めて神さびまさる住の江の松
(岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1180番)
03 波とみる花のしづ枝のいはまくら瀧の宮にやおとよどむらむ
(岩波文庫山家集279P補遺・夫木抄)
04 折りてただしをればよしや我が袖も萩の下枝の露によそへて
(岩波文庫山家集147P恋歌・新潮601番)
05 ならびゐて友をはなれぬこがらめのねぐらにたのむ椎の下枝
(岩波文庫山家集167P雑歌・新潮1401番)
06 ふぢ浪もみもすそ川のすゑなれば下枝もかけよ松の百枝に
(藤原俊成歌)(岩波文庫山家集281P補遺・風雅集・長秋詠藻)
○波を心にかけて
波の美しい有様を心に思い浮かべて、ということ。
この01番歌は後三条院の住吉社御幸(1073年)の折に源経信の詠んだ
下の歌を参考にしています。
「沖つ風吹きにけらしな住吉の松の下枝を洗ふ白波」
(源経信 後拾遺集1063番)
○かずかくる
数えきれない程多くの波がかかること。
○住の江
住之江は住吉大社のあるあたりの江(入江、湾、海岸)のことですが、
古来、住吉とほぼ同義に使われて来て、明確な区別はありません。
住吉大社は現在の大阪市住吉区にあり摂津の国の歌枕です。摂津の
国の一宮にもなっています。
海上安全を祈願する航海の神として著名ですが、和歌の神としても
知られています。柿本の神、玉津島の神とともに和歌三神として
讃えられていて、その筆頭です。
○いはまくら
岩を枕とすることです。旅の途上での野宿を意味しています。
岩枕はこの一首しかありません。同じく野宿を意味する「草枕」
歌は4首あります。
○瀧の宮
この歌は「伊勢にて」との詞書があります。
内宮の別宮で、宮川の上流の三重県度会郡大宮町にある滝原宮の
ことだと言われます。滝原宮そのものを「瀧の宮」と呼ぶよう
です。
目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」では「瀧の宮」と「滝原宮」
を同義とされています。(395ページ)
○折りてただ
時間がたってしおれてしまった状態のこと。
新潮版では(折りてただ)は(朽ちてただ)となっています。
○こがらめ
鳥の「コガラ」の別名で、スズメ目シジュウカラ科の小鳥です。
スズメよりは少しだけ小さい鳥です。
○椎
ブナ科の常緑高木です。30メートルほどの高さにもなります。
ドングリの採れるクヌギやナラなどと違って、小さな実がつきます。
子供の頃には、椎の実を拾ってきて炒って食べていました。
○ふぢ浪
中臣鎌足から続く藤原氏の氏族の系統を意味しています。
ちなみに山家集には藤の花と藤袴の植物は別にすると、藤の付いて
いる名詞は藤衣と藤浪です。
藤衣は葬送の時の喪服のことです。
○みもすそ川
御裳濯川。伊勢神宮内宮を流れる五十鈴川の別名。
伝承上の第二代斎王の倭姫命が、五十鈴川で裳裾を濯いだという
言い伝えから来ている川の名です。
○藤原俊成
藤原道長六男長家流、御子左家の人。定家の父。俊成女の祖父。
三河守、加賀守、左京太夫などを歴任後1167年、正三位、1172年、
皇太后宮太夫。
五条京極に邸宅があったので五條三位と呼ばれました。五条京極
とは現在の松原通り室町付近です。現在の五条通りは豊臣時代に
造られた道です。
1176年9月、病気のため出家。法名「阿覚」「釈阿」など。
1183年2月、後白河院の命により千載集の撰進作業を進め、一応
の完成を見たのが1187年9月、最終的には翌年の完成になります。
千載集に西行歌は十八首入集しています。
1204年91歳で没。90歳の賀では後鳥羽院からもらった袈裟に、
建礼門院右京太夫の局が紫の糸で歌を縫いつけて贈っています。
そのことは「建礼門院右京太夫集」に記述されています。
西行とは出家前の佐藤義清の時代に、藤原為忠の常盤グループの
歌会を通じて知り合ったと考えてよく、以後、生涯を通じての
親交があったといえるでしょう。
(01番歌の解釈)
「後三条院御幸の時には経信の名歌が生まれました。松の下枝を
洗ったであろう、あの歌の白波を思い浮かべながら、波の美しさに
見入っています。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「何度も繰り返し波がかかり、松の下枝は波の色に染まって白く
なった。住吉神社の松はますます神々しく感じられる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「波のように白く見えている桜の花の下枝のあたりの岩に沈して
旅寝している、その滝の宮では、はげしい滝の音もよどみ静まる
ことであろう。(この歌の解不十分、後考を待つ。)」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
(04番歌の解釈)
「萩の下枝の露によって葉の色が変ってしおれてしまうように、
自分の袖も恋の涙のために朽ちしおれてしまうのなら、それは
それで良いのだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(05番歌の解釈)
「一緒に並んで友と離れない小雀が、寝る場所としてたのしみに
している椎の木の下枝よ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(06番歌の解釈)
「藤浪は何もわざわざせき入れなくても、みもすそ川の末なのだ
から、松の下枝にかかったらよいと思う。松の百枝にかかる時に。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
【賎】
卑しいこと、身分の低いこと、粗末なことなどを指します。
自分のこと、自分の持っているのを貶めて使うときもあります。
【賎が垣ほ】
(賎が)は自身の庵を卑称して使っている言葉です。
(垣ほ)は垣根のこと。
新潮版では(垣ほ)は(垣根)としています。
【しづの伏屋】
身分の低い人達の住む、みすぼらしい棲家のこと。
【賎の女】
身分的な意味で卑しい女性のこと。身分が低い女性。
男であれば(賎の男=しずのお)となります。
【賎がはつ木】
(泊木=はつき)と書きます。
英数字のYの形に加工した少し大きめの木材を、距離をおいて
二本立てて、それに縄や竿を架け渡して物干しとしたもの。
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01 心せむ賎が垣ほの梅はあやなよしなく過ぐる人とどめける
(岩波文庫山家集20P春歌・新潮36番・
西行上人集追而加書・西行物語)
02 この春はしづが垣ほにふれわびて梅が香とめむ人したしまむ
(岩波文庫山家集20P春歌・新潮37番・夫木抄)
03 夏の夜の月みることやなかるらむかやり火たつる賎の伏屋は
(岩波文庫山家集53P夏歌・新潮241番)
04 悔しくもしづの伏屋とおとしめて月のもるをも知らで過ぎける
(岩波文庫山家集79P秋歌・新潮347番・
西行上人集・夫木抄)
05 汲みてこそ心すむらめ賎の女がいただく水にやどる月影
(岩波文庫山家集75P秋歌・新潮欠番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
06 賎のめがすすくる糸にゆづりおきて思ふにたがふ恋もするかな
(岩波文庫山家集146P恋歌・新潮594番・夫木抄)
07 思はずよよしある賎のすみかかな蔦のもみぢを軒にははせて
(岩波文庫山家集88P秋歌・新潮481番)
08 あさでほす賎がはつ木をたよりにてまとはれて咲く夕がほの花
(岩波文庫山家集53P夏歌・新潮欠番・夫木抄)
○心せむ
(心する)のサ行変格活用。心得る、心おく、などと同義。
気にとめておくこと、心得ておくこと、注意しておくことなどの
ニュアンスです。
この歌では、人が立ち止まるのは梅の花の魅力によってこそで
あって、決してそれ以外のものではない・・・ということを心得
ておくこと、として(心せむ)が使われています。
○梅はあやな
「文無=あやなし」で、(あやな)は語幹用法。
(あや)は紋様・筋目のこと。(なく・なし)は(無)で否定。
模様がない、筋が通らない、訳が分からない、意味がない、わき
まえが無い・・・などの意味合いで用いられていた言葉です。
梅を見に来る人達がいることに喜んではいるけれども、喜んでいる
自分の心理と梅とは関係が無いということです。
○よしなく過ぐる
関係なく過ぎていくこと。私(西行)とは無縁の人たちが、立ち
止まる理由は決して私にあるのではなくて庵に咲き誇る梅の花に
あるということ。
○ふれわびて
(触れ侘びて)(触れ這びて)などの漢字を当てます。
梅の花をたびたび見に来てくれる人たちの行為を指しますが、
同時に梅自体や梅に心を寄せてくれる人たちの心に寄り添おうと
いう気持が出ています。
○かやり火
蚊を追い払うために焚く火のこと。焼くというよりは、いぶして
煙を出して、蚊を追い払っていました。
夏の暑さ厳しい時でも屋内で火を焚いていたようです。
もともとは胸の中で燻っている思い、恋こがれる恋情を表すための
恋歌に使われる言葉でしたが、03番歌などはそのことからはずれて、
実景を歌った自然詠といえます。
○すすくる糸
賎の女が裾とる糸に露そひて思ふにたがふ恋もするかな
新潮版は上のようになっていて、(裾とる糸)は衣類を紡ぐ行為に
なります。
岩波版の(すすくる糸)は、涙で糸を煤けさせて汚してしまった、
という意味になります。
○ゆづりおきて
自分の涙で紡いでいる糸を汚してしまったのだけれども、男の
ことを思って涙を流したのだから、責任は恋しい男にあるという
転嫁する気持のことをいいます。
○あさでほす
麻で作られた衣料を洗濯して日干しするということのようです。
(01番歌の解釈)
「よく心に留めておこう。自分の住む粗末な山家の垣根の梅は、
思いもよらず、何のゆかりもない人の足を留めさせたことだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「孤独に耐えてきたこれまでの春とは異なり、今年の春は、山家の
垣根に親しんで、梅の香をたずねて訪れる人に親しもう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「夏は夜も月を見ることはないだろうな。山家には蚊遣火の煙が
もうもうと立ち上るから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「悔やむべくは、私の山家を下賤の陋屋と蔑んで、月光が美しく
漏れ入る魅力に気付かずに住んでいたことだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05番歌の解釈)
「月が映った水を汲むからこそ、心のうちも月のように澄むので
ある。身分低い女でも、頭上の桶の水には月が宿っている。
月を押し戴いて道を行く姿には、心の美しさが見て取れるようだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「身分の卑しい女が、糸の端をとって紡ぐ時に、思い余った涙が
こぼれて思うようにつなげないごとく、自分もままならぬ恋を
することであるなあ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(07番歌の解釈)
「おもむきのある蔦の紅葉を軒に這わせて、思いもよらず
風流な賎の住居であることよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(08番歌の解釈)
「麻の布を干している身分いやしき女の麻布をかけて干すはつ木を
たよりにして、それにまとわれて咲く夕顔の花よ。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
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(詞書の近似性について)
今号の05番歌の詞書は岩波文庫では以下のようになっています。
75ページ、新潮版は歌がありません。70ページ、新潮版1151番歌に
あるものと詞書の意味するところはほぼ同一です。
「汲みてこそ」歌は、西行上人集追而加書には詞書がなく、夫木抄に
「月をいただきてみちを行と伝心を」とあり、岩波文庫の詞書とは
随分違いがあります。
岩波文庫山家集にはたくさんのミスがありますが、この詞書の件も
岩波文庫のミスといえるでしよう。
01 松の木の間よりわづかに月のかげろひけるを見て、月を
いただきて道を行くといふことを
汲みてこそ心すむらめ賎の女がいただく水にやどる月影
(岩波文庫山家集75P秋歌・新潮欠番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
02 松の絶間よりわづかに月のかげろひて見えけるを見て
かげうすみ松の絶間をもり来つつ心ぼそくや三日月の空
(岩波文庫山家集70P秋歌・新潮1151番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
【しで】
四手=注連縄や玉ぐしにつける白地の紙。昔は白布も用いました。
○ゆふしでて
(ゆふ=木綿)は植物の楮(こうぞ)の皮を剥いで、その繊維を
蒸したり水にさらしたりして白くして、それを細かく裂いて糸
状にしたものです。
襷(たすき)などにして、榊の木に懸けたり、神事を行うときに
使われます。
同じ字を用いても(もめん)は綿の木の種子から取る繊維を
言います。
(しで)とは(四手・垂)とも表記して、垂らすということ。
現在、注連縄や玉串につけて垂らす白い紙のことを(しで)と
言います。
要するに紙であろうが布であろうが主に神社の用いる道具の一つです。
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『147号「榊葉」参照』
01 榊葉に心をかけんゆふしでて思へば神も佛なりけり
(岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮1223番・
西行上人集追而加書・西行物語)
『163号「四国」参照』
02 かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に
(岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1095番・西行上人集・
山家心中集・玉葉集・万代集・閑月集・拾遺風体集・
夫木抄・西行物語)
『162号「しきまく」参照』
03 神にしきまくしでのなびくかな千木高知りてとりをさむべし
(岩波文庫山家集261P聞書集259番)
○榊葉
普通名詞としてはツバキ科の榊の木のこと。
ですが、神域にある常緑樹の総称としても用いられます。
葉の付いた榊の小枝に「しで」を付けて鳥居などに飾り、神域で
あることを示します。
○神も佛
端的に本地垂迹思想を表しています。日本の神も実は仏の垂迹
したものだという思想です。伊勢神宮内宮の天照大御神は仏教
の大日如来のことだと考えられていました。
○しきまく
(敷き渡す)などの(敷き)とは違って、この場合は(頻り)の
(しき)です。(しきまし)(しきまき)などの用例があります
ので、(しきりにまくれ上がる)という解釈で良いと思います。
○神風
神の威徳を表す風のこと。平安時代は伊勢神宮の枕詞です。
鎌倉時代の二度に渡る蒙古襲来、そして第二次世界大戦という
苦難に満ちた歴史をたどって、現在では「神風」の意味も変わって
きたものと思います。
○千木高知りて
神社建築に見られる、屋根の上の両端の、屋根から突き出た形で
交差している二本の木のことです。それが高いということ。
(和歌文学大系21から抜粋)
○とりをさむべし
物事を解決する。うまく収めるということ。
ここでは源平の争乱が神威によってうまく解決するだろう・・・
とも解釈できます。
(01番歌の解釈)
「榊葉に木綿四手を掛けて、心をこめて祈願しょう。伊勢の神は
国家の神であるが、見方によってはその本地は大日如来とも
いわれていて、私の信仰する仏と同じなのだから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「この歌はいつごろ詠まれたのか不明だが、晩年の伊勢時代の
作ではあるまい。「思へば神も仏なりけり」という言い方には、
西行の心の中でまだ神仏習合が成熟していないことを感じさせ
るからである。西行が晩年の伊勢時代に大日如来の燦然たる
輝きの世界に至るまでには、まだ長いさまざまな迷いの悪戦苦闘
があった。」
(高橋庄次氏著「西行の心月輪」から抜粋)
(02番歌の解釈)
「かしこまり謹んで奉る幣に涙がかかるよ。四国行脚へ出かける
自分はいつまたお参りできることか、もしかしたら出来ないの
ではと思うと。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「頻りに吹き捲られる弊が、神風によって一方へなびき寄るなあ、
千木を高く構えて、その威力で取り収めるのだろう。
(和歌文学大系21から抜粋)
【死出の山】
死者がたどるべき険しい山の道。冥途の山のこと
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01 さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
(岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1142番・
西行上人集・新古今集・西行物語)
02 時鳥なくなくこそは語らはめ死出の山路に君しかからば
(堀川局との贈答歌)(岩波文庫山家集137P羇旅歌・新潮751番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
03 越えぬれば又もこの世に帰りこぬ死出の山こそ悲しかりけれ
(岩波文庫山家集193P雑歌・新潮763番・西行物語)
04 あとをとふ道にや君は入りぬらむ苦しき死出の山へかからで
(岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮824番)
05 いかでわれこよひの月を身にそへてしでの山路の人を照らさむ
(岩波文庫山家集191P雑歌・新潮774番・
西行上人集追而加書・新千載集・万代集・西行物語)
06 つみ人は死出の山辺の杣木かな斧のつるぎに身をわられつつ
(岩波文庫山家集251P聞書集205番・夫木抄)
五十日の果つかたに、二條院の御墓に御佛供養しける人に
具して参りたりけるに、月あかくて哀なりければ
07 今宵君しでの山路の月をみて雲の上をや思ひいづらむ
(岩波文庫山家集204P哀傷歌・新潮792番)
北山寺にすみ侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、
ほととぎすの鳴きけるを聞きて
08 ほととぎす死出の山路へかへりゆきてわが越えゆかむ友にならなむ
(岩波文庫山家集258聞書集235番)
世のなかに武者おこりて、西東北南いくさならぬとこ
ろなし。うちつづき人の死ぬる数、きくおびただし。ま
こととも覚えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。あは
れなることのさまかなと覚えて
09 死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなる人のかずつづきつつ
(岩波文庫山家集255P聞書集225番)
武者のかぎり群れて死出の山こゆらむ。山だちと申すお
それはあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治
のいくさかとよ、馬いかだとかやにてわたりたりけりと
聞こえしこと思ひいでられて
10 しづむなる死出の山がはみなぎりて馬筏もやかなはざるらむ
(岩波文庫山家集255P聞書集226番)
木曽と申す武者、死に侍りにけりな
11 木曽人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
(岩波文庫山家集256P聞書集227番)
12 此世にてかたらひおかむ郭公しでの山路のしるべともなれ
(堀川局歌)(岩波文庫山家集137P羇旅歌・新潮750番・
西行上人集・山家心中集・新後撰集・玉葉集・西行物語)
○さりともと
「さ、ありとも」の約。しかしながら・それにしても・
それでも・そうであっても・・・などの意味。
○時鳥
鳥の名前で「ほととぎす」と読みます。春から初夏に南方から
渡来して、鶯の巣に托卵することで知られています。鳴き声は
(テッペンカケタカ)というふうに聞こえるようです。
岩波文庫山家集の(ほととぎす)の漢字表記は以下の種類があり
ます。
郭公・時鳥・子規・杜鵙・杜宇・蜀魂・呼子鳥・死出の田長。
この歌は堀川局が西行を指して「時鳥」と言っています。
○なくなくこそは
悲しみで泣きぬれながら…という意味。
○あとをとふ
死後の弔いの法会のこと。死者を供養する気持のこと。
この歌は院の二位局の死を悼んでの追悼歌10首のうちの1首です。
二位局は後白河院の乳母という関係で二位となりました。
1159年の平治の乱で死亡した藤原信西の後妻です。二位局は
1166年1月に死亡して船岡山に葬られています。
○杣木
山から伐り出された木材のこと。
○五十日の果つかた
没後50日の法要であり、現在の49日の忌明けを言います。
中陰とか中有と言い、7日×7回の49日までは喪に服していて、
50日目が忌明けということです。
死者が次の生を得るまでの期間だと考えられています。
○二條院とお墓
第78代天皇。後白河天皇の嫡男です。即位は1158年、崩御は23歳で
1165年。二条院の子の六条天皇が79代として即位しましたが、
わずかに13歳で崩御しています。
現在の西大路通りの西側、等持院の少し東にある香隆寺陵が、
二条天皇の陵墓と比定されています。
この葬儀の時に比叡山と興福寺が争ったことが平家物語「額打論」
に描かれています。
○雲の上
字義通り雲の上の事。転じて宮中や位階としての天皇の立場など
を指しています。
○北山寺
平凡社刊行の「京都市の地名」でも記載がなく、不明です。
北山寺というお寺ではなくて、北山にあったお寺を指しているとも
言われます。ちなみに金閣寺は「北山殿」とも呼ばれましたので、
あのあたりにあったお寺ではないかと思いますが・・・場所までは
正確にはわかりません。鞍馬寺を指すという説もあります。
また「岩倉」にあったお寺とも、現存するお寺の別称との説も
あります。
なお、北山寺は174ページにもあります。
○いくさならぬところなし
以仁王の挙兵から続き、壇ノ浦での平氏滅亡までの源平争乱を
指しています。
○山だち
山賊のこと。似たような言葉に「山賎「がつ)」がありますが、
山賎は山辺に住んできこりなどを生業とする人たちのことを言います。
○馬いかだ
馬を並べ組んで筏のようにして、川を渡るという方法。
○木曽と申す武者
源義仲のことです。源義賢の次子で源頼朝とは従兄弟になります。
兄の仲家は幼い時から源頼政に養育され頼政の養子となっています。
仲家も頼政とおなじく宇治川合戦で死亡しました。
滋賀県大津市に義仲寺があり、そこに義仲の墓があります。
○海のいかり
海を擬人化して、海の怒りということと、船で用いる碇とを掛け
あわせています。
歌には強烈な批評精神に根ざした皮肉が込められています。
「海の怒り」は、1183年10月の備中水島での平家との海戦を指して
いると解釈できます。平家物語に詳しいですが、この戦いは
義仲軍の完敗と言うほどのものではありませんでした。
(01番歌の解釈)
「遠い修行の旅に出かけるので、むずかしいとは思われますが、
それでもやはり再会を期待することです。
死出の山路を越える別れではないから。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「時鳥が鳴くように、私も泣きながらではありますが、あなたが
冥界に旅立たれる時には導師の役をお引き受けいたしましよう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「一旦越えてしまうと再びこの世に帰り来ることのない死出の
山こそまことに悲しいものだよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「自分たちがあなたの亡き跡を弔っている仏の道にあなたは
きっと入られたことでしょう。苦しい死出の山路にさしかかられる
ことはなくて。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(05番歌の解釈)
「何とかして自分は今宵の月の光を身にそえて、死出の山路を
越えゆく人を照らしたいものだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(06番歌の解釈)
「罪人は死出の山辺の杣木だな、剣のような斧の刃で身を
割られていることよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(07番歌の解釈)
この歌は1165年に詠まれた歌です。ニ條院の墓所で五十日の法要が
営まれ、その席に読経などする人と一緒に行きましたが、ニ條院を
哀れに思って歌を詠んだということが詞書の意味です。
今宵、君(ニ條院)はあの世で死出の山路の月をご覧になって、
雲の上のこと、生前の宮中のことを思い出しておいでになるだろう。
(渡部保著「西行山家集全注解」より抜粋)
西行はニ條院とは個人的に親しい関係にはありません。その親し
さの度合い、互いの心情的な距離ということもあって、この歌は
哀傷歌とはいえ西行自身の悲しい感情が伝わってくるものでも
なく、単なる儀礼的な歌ともいえます。
(08番歌の解釈)
「郭公よ、死出の山路へ帰って行って、私が越えて行くだろう
ときの友になってほしい。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(09番歌の解釈)
「死出の山を越える死者の絶え間はあるまいよ。これほど
亡くなる人の数が続いては。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(10番歌の解釈)
「罪人が沈むという死出の山川は、沈む人が多いので水流が
満ちあふれて、馬筏でも渡ることができないだろうよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(11番歌の解釈)
「山育ちの木曽人は海の怒りを鎮めることができなくて、怒りを
沈めて留まることもできず、死出の山にまでも入ってしまった
なあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(12番歌の解釈)
「この世に生きている間にお願いしておきましよう。時鳥よ、私が
死んだら西方浄土にどうか私を導いて下さい。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【死出の田長】
(しでのたおさ)と読みます。ホトトギスのたくさんある異称の
一つです。
死出の山を往還して死者を案内し、そして生者には農夫の頭として
農耕を督励すると言われているようです。
ホトトギスは初夏に日本に渡って来ますので、その声を聞く頃には
田植えをしなくてはならないために、田長の別称ができたものと
考えられます。
一説に「賎の田長」から転じたともあります。
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01 ふゆ聞くはいかにぞいひてほととぎす忌む折の名か死出の田長は
(岩波文庫山家集237P聞書集79番)
○ふゆ聞く
ホトトギスは渡り鳥で初夏頃に日本に渡って来て、9月か10月頃
にはもう南方に帰っていきます。
したがって「ふゆ聞く」は、「晦日月」のように、ありえない
ことの例えかも知れません。
あるいは南方に帰らずに、日本に留まっている留鳥がいるという
ことかとも思います。
○忌む折の名
農耕に関しての物忌みを指すようです。精進潔斎して執り行う
「御田植祭」などがこれに該当するのかもと思われます。
(01番歌の解釈)
「冬に聞くのはどうだろうかといって、郭公よ、物忌をする時節の
名なのか、死出の田長は。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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