もどる

 せ〜せこ  せた〜せん


  瀬・せが院・勢賀院・せかれ・せかる・関・せき・せく・せたむる

【瀬】

水深が浅くて流れの急な地点のこと。早瀬と言います。
陸と陸に挟まれた海の狭くなっている部分のこと。瀬戸と言います。
個人の立場、立脚点の不安定な状況を指して「立つ瀬がない」という
成語も使われます。

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01 棚機のながき思ひもくるしきにこの瀬をかぎれ天の川なみ
     (岩波文庫山家集56P秋歌・新潮欠番・西行上人集)

02 もの思へば袖にながるる涙川いかなるみをに逢ふ瀬ありなむ
          (岩波文庫山家集151P恋歌・新潮663番・
           西行上人集・山家心中集・新千載集)

03 しらなはにこあゆひかれて下る瀬にもちまうけたるこめのしき網
     (岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1394番・夫木抄)

04 みつせ川みつなき人はこころかな沈む瀬にまたわたりかかれる
            (岩波文庫山家集257P聞書集232番)

05 瀬にたたむ岩のしがらみ波かけてにしきをながす山がはの水
          (岩波文庫山家集276P補遺・西行上人集)

06 みそぎしてぬさとりながす河の瀬にやがて秋めく風ぞ凉しき
           (岩波文庫山家集55P夏歌・新潮253番)

07 さゆれども心やすくぞ聞きあかす河瀬のちどり友ぐしてけり
           (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮551番・
                西行上人集・山家心中集)

08 川の瀬によに消えぬべきうたかたの命をなぞや君がたのむる
          (岩波文庫山家集159P恋歌・新潮1290番)

○棚機(たなばた)

この歌は山家集類題本にはありません。
「棚機」は「七夕」と同義です。岩波文庫山家集にある漢字表記の
「棚機」、ひらがな表記の「たなばた」は、類題本ではすべて
「七夕」と記述されています。
佐佐木信綱博士が「七夕」から「棚機」の文字に変えたものです。 

もともとは棚を付けた機(はた)が七夕の原義ですから、
佐佐木信綱博士はその原義を大切にして(七夕)から(棚機)に
変更したものでしよう。

○ながき思ひ

一年に一度のみの邂逅で、逢えない期間があまりにも長くて、
その長さゆえの苦しみを言います。

○涙川

川の水のように流れる大量の涙を言いますが、誇張のし過ぎだと
解釈される危険性もあると思います。

○みを

水脈のことです。恋しい人の命脈にどうしたら出会い、繋がって
一緒にこの世を流れることができるのだろうか…ということ。

○しらなは

鵜飼漁などの時、魚が逃げないように、あらかじめ水中に張り
渡している白い縄のこと。
新潮版でも和歌文学大系21でも上のような説明ですが、この白縄
は鵜飼漁の時だけ使われるものではないようです。
鵜飼の時に鵜に結びつける鵜縄とも違いますし、私にはもうひとつ
よく理解できないでいます。

○こあゆひかれて

小鮎が白い色の縄に導かれるようにして…ということ。

○もちまうけたる

小鮎を獲るための網をあらかじめ水中に沈めていて、その網は
手で持って操作できるようになっているようです。

○こめのしき網

(こめ)は(小目)と表記して、網の目が細かいことを言います。
荒い大きな目では小魚は網の目から逃げてしまいますので、目の
小さな網を使います。

○みつせ川

人の死後、冥途に向かう道筋にある三途の川のことだといいます。
三途とは生前の行いによって、渡る道筋が三つに分かれているという
ことのようです。

○みつなき人

不明です。全体に誤写の多い歌のように思います。

○岩のしがらみ

(しがらみ=柵)とは本来は川の中に杭を打ち込んで、流れをせき
止めるために木の枝や竹を渡した構造物のことです。
岩を柵にみたてています。この歌は情景歌であり、柵に人間関係の
微妙な意味を持たせてはいません。

○みそぎして

沐浴、水垢離のことです。神事に携わる前や神社に参詣する前
などに水で身体を清める儀式です。ここでは六月晦日の夏越の
祓えの時の禊です。
西行は仏教徒ですから自身のことではなくして、神人が夏越の
祓えの儀式の最後に川に入って幣を流している光景を見ての
歌だと思われます。

○ぬさとりながす

新潮版では「幣きりながす」とあります。
夏越の祓いを終えて、古い御幣を水に漬けて流す行事です。

○友ぐ

友達が一緒にいるということ。「具」は共にという意味。
千鳥同士が一緒にいるというよりも、「私」が千鳥を友として
感じて身近にいるとする感覚によって詠まれた歌です。

○よに消えぬへき

(よ=世)に、格助詞の(に)が付いて副詞となります。
程度のはなはだしい状態を指し(非常に・とても・たいそう)などの
意味を持つようになります。
後ろに打消しの言葉が付いた場合は(断じて・決して)などの否定を
表し、他に(とりわけ・いかにも)などの意味合いを持つ言葉です。
多岐に渡る解釈が可能で、私の理解力が及ばない感じです。
(よに消えぬべき)で、すぐに消滅するという意味になるようです。

(01番歌の解釈)

「牽牛・織女が長い間逢えずにいる恋の嘆きも気の毒だから、
天の川よ、川瀬に波を立てて船を渡すのもいっそ今度で最後に
しておくれ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「恋しい人を思うと涙が袖に川のように流れるが、その川は
ついにはどんな水脈に逢う瀬となるのだろう…自分はいつ
恋人に逢えるのだろう。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「逃げないように河の中に引き廻した白い縄に小鮎が引かれて
下ってゆく瀬に、それを捕らえるべく持って用意している目の
細かい敷網があるよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「三瀬川で三途に沈む業因を持たない人は心のあり方による
のだな。罪人が沈む瀬にまた渡りかかったことよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「瀬にたたみかけてある柵をなしている岩に波をかけて美しい
紅葉の色を流す山の川の水よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(06番歌の解釈)

「夏越の禊をして幣を供物として川に流すと、川瀬にすぐにも
秋を思わせる風が吹き始めた。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

「寒さの厳しい夜だけれども、安心して聞き明かすことだ。
河瀬で鳴いている千鳥の声は、友と連れだっているので。
自分はひとりぼっちだが…。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

「つれないあなたの訪れを待ちかね、川瀬の早い流れに浮かぶ
水泡のごときはかない私の命なのに、なぜあなたは私に期待を
抱かせるのでしょうか。」
          (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「流れの速い川の瀬にすぐにも消えそうな水の泡の命。それが
私なのに、どうしてあなたなどを頼りにしてしまったのだろう。」
               (歌文学大系21から抜粋)

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09 夜をさむみ聲こそしけく聞ゆなれ河せの千鳥友具してけり
                     (松屋本山家集)

     りうもんにまゐるとて

10 瀬をはやみ宮瀧川を渡り行けば心の底のすむ心地する
         (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1426番)

     熊野御山にて両人を恋ふと申すことをよみけるに、
     人にかはりて

11 流れてはいづれの瀬にかとまるべきなみだをわくるふた川の水
        (岩波文庫山家集243P聞書集122番・夫木抄)
 
     宇治川をくだりける船の、かなつきと申すものを
     もて鯉のくだるをつきけるを見て

12 宇治川の早瀬おちまふれふ船のかづきにちかふこひのむらまけ
     (岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1391番・夫木抄)

     大覚寺の瀧殿の石ども、閑院にうつされて跡もなく
     なりたりと聞きて、見にまかりたりけるに、赤染が、
     今だにかかるとよみけん折おもひ出でられて、
     あはれとおもほえければよみける

13 今だにもかかりといひし瀧つせのその折までは昔なりけむ
         (岩波文庫山家集196P雑歌・新潮1048番・
           西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

○聲こそしけく

千鳥の鳴く声がしきりにすること。声が間断なく激しいこと。

○河せ

川の水深が浅くて流れの速い部分のこと。

○りうもん

奈良県の吉野郡吉野町と宇陀郡大宇陀町にかけての地名で「竜門」
のことです。津風呂湖の西側に位置します。
「竜門」には標高904メートル竜門岳、山腹に竜門の滝があります。
竜門岳南麓には竜門寺もありました。

○宮瀧川

奈良県を流れる吉野川の吉野宮滝付近の流れを指しています。
宮滝には縄文時代からの「宮滝遺跡」があります。
また西暦300年頃に造られたという「宮滝離宮」が有名です。
第15代応神天皇から第45代聖武天皇の間の400年以上も使われた
離宮のようです。
 
○ふた川

固有名詞としてはどこか不明です。
紀伊の国には有田郡の二川と牟婁郡に二川があります。
有田郡の二川は有田川の支流で、二川の上流は三瀬川といいます。
西牟婁郡の二川は地名としてはあっても川名としては確認できず、
おそらは西牟婁郡の二川の可能性はないと思います。
無理に固有名詞として解釈せず、普通名詞として「二つの川の流れ」
というほどの解釈で良いものと思います。

○宇治川

宇治川は琵琶湖を水源とする川で、滋賀県内では瀬田川、京都
府下に入って宇治川といいます。主に宇治市を流れている川です。
宇治川は八幡市橋本で木津川及び桂川と合流して、淀川と名を
変えて大阪湾に注いでいます。このうち、宇治川と呼ばれる部分
の長さは約30キロメートルです。

○早瀬おちまふ

「おちまふ」は「落ち舞う」のことであり、漁船が早瀬を
舞い落ちるように下流に向かっている状態を言います。

○れふ船

漁(りょう)船のこと。漁を(れふ)と言う用法はこの一例のみです。

○かづき
 
「かなつき」と同じ。ともに「金突」の漢字をあてています。
潜水することも「かづき」と言いますが、ここではそれは関係
ないようです。

○むらまけ

語意不明。群れ、集団がばら撒けた状態を指す可能性もあると
思います。鯉の群れが捉えられた意味か?とする説もあります。
「むらまけ」の用例は248ページにもあります。

余吾の湖の君をみしまにひく網のめにもかからぬあじのむらまけ
         (岩波文庫山家集196P雑歌・新潮1048番・
           西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

○大覚寺

真言宗大覚寺派の総本山です。仁和寺と並び第一級の門跡寺院。
第50代桓武天皇の子で52代嵯峨天皇の離宮として造営され、嵯峨
御所ともいわれました。嵯峨天皇は834年から842年まで檀林皇后
(橘嘉智子)と、ここで過ごしています。
後にお寺となり、後宇多法皇はここで院政を行っています。
また、1392年の南北朝の講和はこの寺で行われました。
庭湖としての大沢の池があります。観月の名所です。

○瀧殿の石

大覚寺にある名古曽の滝の石のこと。
名古曽の滝は900年代終わり頃にはすでに水は枯渇していたようです。
現在は滝跡のみ残っています。

 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
                (藤原公任 千載集1035番)

○閑院

現在の二条城の東あたりにあった藤原氏北家流の邸宅のこと。
もともとは藤原冬嗣の私邸。後三条天皇、堀川天皇、高倉天皇
などの里内裏として、臨時の皇居になっていました。
たびたび火災にあっています。
1259年に放火のため焼亡してからは、再建されていません。
現在、京都御苑内に閑院がありますが、これは江戸時代中期に起こ
された閑院宮家のものであり、平安時代の閑院とは関係ありません。

○赤染=赤染衛門

平安時代中期の女性歌人で、生没年は未詳です。1041年曾孫の大江
匡房の誕生の時には生存していましたが、その後まもなく80歳以上
で没したものと見られています。 
藤原氏全盛期の道長時代に活躍した代表的な女流歌人で、中古
三十六歌仙の一人として知られています。家集に「赤染衛門集」
があり、また、「栄花物語」の作者と見られています。

あせにける今だにかかり滝つ瀬の早くぞ人は見るべかりけり
               (赤染衛門 後拾遺集1058番)

○かかりといひし

瀧の縁語の「掛かる」と、「こうしてある」「かくある」という
意味の両方を掛けている言葉。

(09番歌の解釈)

「夜が寒い故に鳴く声が特にしげく聞えるよ。河瀬の千鳥は今宵友を
つれて来ているよ。(千鳥の数が多いために声がしげくきこえる。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(10番歌の解釈)

「流れの速い瀬なので心して宮滝川を渡って行くと、心が奥底の
方から澄み透ってくるような気がする。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(11番歌の解釈)

「流れてゆけば、どちらの瀬に落ち着くことになっているのか、
私の涙を両方に分けるかのような二川の水は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(12番歌の解釈)

「宇治川の急流に木の葉のように舞い落ちる漁船から、鯉の魚群
に向けて銛の一突きが交差する。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(13番歌の解釈)

「今でさえもこんなに見事に滝がかかっている、と赤染が詠んだ
名こその滝は、もう今は立石に至るまで跡形もない。あの歌の頃
はまだ面影が残っていたんだな。全く惜しいことをした。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

【せが院・勢賀院】

せが院と読み、清和院のことです。
清和院は現在の京都御宛の中にありました。
もともとは藤原良房の染殿の南にありました。良房の娘の明子は 
第56代清和天皇の母であり、明子は清和天皇譲位後の上皇御所
として染殿の敷地内に清和院を建てました。
ちなみに清和天皇の皇后となった藤原高子はこの染殿で第57代の
陽成天皇を産んでいます。
高子は在原業平との関係で有名な女性です。
清和院は清和上皇の後に源氏が数代続いて伝領し、そして白川
天皇皇女、官子内親王が伝領しています。清和院の中に官子内親王
の斎院御所があり、そこで歌会が催されていたということです。
その後の清和院は確実な資料がなく不詳ですが、1661年の寛文の
大火による斎院御所炎上後、現在の北野天満宮の近くの一条七本松
北に建てかえられたそうです。現在は小さなお寺です。
「都名所図会」では1655年から1658年の間に現在地に移築された
とありますが、年数が合わないので、これは誤記でしよう。
ここでいう斎院御所は天皇の住居である御所とは違います。現在の
御所が皇居となったのは、ずっと後の北朝初代の光厳天皇からです。

白河天皇の皇女の官子内親王は1108年11月8日から1123年1月まで斎院
でした。1090年出生、没年不詳ですが1170年ころまで存命かという
説もあるようです。
西行は清和院の歌会に何度も参加しています。参加した歌人の個人名
まではわかりません。官子内親王の生母と源頼政は関係ある氏族との
ことですので頼政に誘われての参加だろうとも考えられます。

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     春は花を友といふことを、せが院の斎院にて
     人々よみけるに

01 おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらさまし
           (岩波文庫山家集26P春歌・新潮92番)

     としたか、よりまさ、勢賀院にて老下女を思ひかくる
     恋と申すことをよみけるにまゐりあひて

02 いちごもるうばめ媼のかさねもつこのて柏におもてならべむ
         (岩波文庫山家集260P聞書集255番・夫木抄)

     夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに

03 春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
          (岩波文庫山家集38P春歌・新潮139番)

     せが院の花盛なりける頃、としただがいひ送りける

04 おのづから来る人あらばもろともにながめまほしき山櫻かな
      (源俊高歌)(岩波文庫山家集26P春歌・新潮99番)

05 ながむてふ数に入るべき身なりせば君が宿にて春は経なまし
      (西行歌)(岩波文庫山家集26P春歌・新潮100番)

○としたか

不明。「としただ」の誤写説もあります。醍醐源氏の「源俊高」
説が有力です。

○よりまさ

源頼政(1104〜1180)のこと。摂津源氏、多田頼綱流、仲政の子。
1178年従三位。1180年、以仁王を奉じて反平氏に走りますが、同年、
宇治川の戦いで敗れて平等院で自刃。平等院にお墓があります。
西行とも早くから親しくしていたようです。頼政が敗死した宇治川
合戦のことが聞書集に「しづむなる死出の山がは・・・」の歌と
してあります。
家集に「源三位頼政集」があります。二条院讃岐は頼政の娘です。

○いちごもる

よくわかりません。
「市児(町民の小ども)の子守りをする年配の女性のこと」と
あります。       (渡部保氏著 西行山家集全注解)

「いちこ」とは巫女のことでもありますので、あるいは宗教的な
意味合いがあるのかもしれません。 

○うばめ媼

うばめは「姥女」ということでしよう。年配の女性のことです。
嫗(おうな)も年配の女性のこと。翁(おきな)は年配の男性。

なぜ(うばめ)と(嫗)という同じ意味を持つ言葉を連続させて
用いたのか私にはわかりません。「いちごもる」という初句の
こともあって、不可解さの強い一首です。
和歌文学大系21では「姥女神・姥神といわれた老巫女のことか」
とあります。

○この手がしわ・このて柏

ヒノキ科の常緑樹。小枝全体が平たい手のひら状であり、葉は
表裏の区別がつかないところから、二心あるもののたとえと
されました。
一説、コナラ・カシワの若葉。またトチノキともいうそうです。
また、オトコエシ説もあります。
 (講談社「日本語大辞典」・岩波書店「古語辞典」を参考)

ヒノキ科の常緑潅木、または小喬木。中国・朝鮮に自生し、古く
から庭木とする。高さ2〜6メートル。
葉はヒノキに似て鱗片状で表裏の別なく枝が直立、扁平で掌を立て
たようである。花は春開き単性で雌雄同株。種鱗の先端が外方に
巻いた球果を結ぶ。種子を滋養強壮剤とする。
           (岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)

児の手柏の木は一般には江戸時代に中国から移入されたという
ことですが、万葉集にも「児の手柏」の歌がありますから、大変
古くから児の手柏は日本にあったものと思います。ただ、現在の
児の手柏と西行の歌にある児の手柏が同じ種目の木であるのか
どうかはわかりません。
この手柏の歌はもう一首ありす。

 いはれ野の萩が絶間のひまひまにこの手がしはの花咲きにけり
       (岩波文庫山家集58P秋歌・新潮970番・夫木抄)

○前斎院

新潮版の山家集では「前斎院」が「せか院の斎院」とありますので、
それに従います。

○としただ

不明です。02番歌の「としたか」と同一人物だと思われます。

 (01番の詞書と歌の解釈)

この詞書は清和院の斎院御所で歌会があって西行も参加したことを
示しています。西行は何度も清和院の歌会に参加しています。
ここでも参加した歌人達の個人名まではわかりません

歌の意味は、もしも桜の花の咲かない年があるとするなら、どの
ようにして春の日々を過ごしたらいいのだろうか・・・という
直截な述懐の歌です。「桜」という固有名詞は出していませんが
「花」はそのまま「桜」を意味していて、桜花に対しての西行の
思い入れが伝わってくる歌です。
                      (筆者の解釈)

(02番歌の解釈)

「市児(町家の子)の子守りをする年老いた子守り女が重ねて
持っているこのてがしは(柏の一種とも女郎花とも)それは表裏
の別がなく、「このでかしはの二面」と言われている通り、私も
同じく顔を並べよう。(他の人と同じく老下女に思いをかけよう。)
(このてがしはは児の手柏とかけている。)」
        (渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)

「巫女がまつる姥神の老巫女が手に重ね持つ児手柏の面に私の
顔を並べよう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

03番歌は上西門院統子内親王関係の歌会とする資料もありますが、
ここは清和院ですから官子内親王の事を指していると見るのが
妥当です。いずれにしても「前斎院」という言葉で、上西門院と
特定することはできません。
窪田章一郎氏「西行の研究」、安田章生氏「西行」では、上西門院
と特定していますが、目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」162ページに
記述のある「清和院歌会への出席は、清和院の景観及び、会衆との
親しさによるもの」という指摘の方が説得力があると考えます。
この詞書でも歌会に参加した人々の個人名は不明です。しかし官子
内親王とは縁戚である源頼政は出席していただろうと考えられます。

歌は題詠歌でありながら西行らしい情動の世界が広がり、奥の深い
含蓄のあるものになっています。
春の風が満開の桜を散らしている夢を見てしまった。夢から覚めて
みても、気持がさわぎ、不安になって仕方ないことだ・・・という
ほどの意味ですが、こんな皮相的な解釈などは全く無意味のような
奥深さが感じられる歌です。
                      (筆者の解釈)

(04番歌の解釈)

「ひょっとしたら誰か訪ねてくる人があったら、この清和院の桜の
花盛りと山桜の花盛りとを、ご一緒に眺めたいものであります。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

「あなたは自分と桜を共にながめたいとおっしゃってください
ますが、そのような人数に入れていただくことのできる身であり
ますならば、思い出深い清和院のこととて、あなたの所で春を
過ごさせてもらうことでありましょうに(人数に入るべき身で
ありませんので参上できないのが残念です。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【せかれ・せかる】

「堰く=せく」の四段活用で他動詞。
(せかれ)(せかる)は共に「堰く」の活用形です。
水の流れが堰きとめられる、涙をこらえる、物や人などの行動を
防ぐ、妨げるという意味があります。

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01 しばしこそ人めづつみにせかれけれはては涙やなる瀧の川
         (岩波文庫山家集151P恋歌・新潮662番・
           西行上人集・西行上人集追而加書)

02 山川の岩にせかれてちる波をあられとぞみる夏の夜の月
          (岩波文庫山家集51P夏歌・新潮246番)

03 さみだれて沼田のあぜにせしかきは水もせかれぬしがらみの柴
           (岩波文庫山家集250P聞書集189番)

04 もらさでや心の底をくまれまし袖にせかるるなみだなりせば
       (岩波文庫山家集277P補遺・御裳濯河歌合)

○しばしこそ

ほんの少しの間だけ。短い間。束の間のこと。

○人めづつみ

人目があり、それが涙が出るのを抑える堤の役割を果たしている
という意味です。

○なる瀧の川

右京区鳴滝の街中を流れる川です。御室川といいますが、鳴滝川
ともいいます。細い川です。江戸時代中ごろの資料に洪水被害が
多かったことが記述されています。
このあたりの特産品として、鳴滝大根と砥石があったそうです。
砥石の採集権は刀剣を扱っていた本阿弥家に与えられていました。
鳴滝川から西にかけては古墳の多い所です。

○あられとぞ

月の放射光が川水の飛沫を照らしていて、それが霰に見える
ということ。

○沼田

沼のような泥の多い、水はけの悪い田圃をいいます。

○あぜにせしかき

(あぜ)は(あぜ道)のことを田と田と区切る境界の小道のこと。
(かき)は(垣)のことで個人の占有の標識の役目を持ちます。

○しがらみの柴

(しがらみ=柵)とは本来は川の中に杭を打ち込んで、流れをせき
止めるために木の枝や竹を渡した構造物のことです。
(柴)は、ここでは木から切り取って柵に付けた小枝を言います。

○袖にせかるる

流れる涙を袖で隠したり、拭ったりすることです。涙が流れて
いることを、袖によって見えなくするということ。

(01番歌の解釈)

「人に知られまいと、しばらくは流す涙も慎むことではあるが、つい
にはこらえきれず鳴滝の川のごとくにとめどなく涙が流れるよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「山川が岩に突き当たって飛び散る波を、夏の夜の月が照らすと、
まるで霰がたばしるように見える。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「五月雨が降って、沼田の畔にしていた柴垣は、今は水も
せきとめられない柵の柴だよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「外にもらさないで心の底の思いを汲まれたであろう、もしも袖で
せきとめることのできる涙であったならば。(袖でせきとめられぬ
涙だったから、外にもらさないでおくことができなかったのだ。)」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【関】

西行歌で「関」とあるのは、全て関所のことです。
関は646年の大化の改新の詔で制度化されて以来、明治二年に全面的
に廃止されるまでの長い間、時の為政者が様々な場所、様々な形で
設置してきました。主に交通の要衝や国境などに設置されてきて、
関は対外勢力・対抗勢力からの自衛の意味を持ちました。

徳川幕府によって54か所に設置された関も徳川支配体制の安定の
ために造られたものです。他に関銭を徴収するために社寺なども
独自に関を設置している所がありました。
清少納言の「枕草子」の第111段には「逢坂・須磨・鈴鹿・岫田
(くきた)・白河・衣・清見・勿来」などの関名が記されています。

西行歌にある関は以下の通りです。関名はないですが、他に鈴鹿、
愛発、不破、清見の関跡は通ったことがあるはずです。

○須磨の関 

摂津の国と播磨の国の国境の摂津の国長田郡須磨に設置されていて、
海陸両方の関の役割を担っていたようです。
須磨の関も他の関と共に789年に廃止になったようです。
「須磨の関守」の歌が多く詠まれています。

○逢坂の関

逢坂山は近江と山城の国境の山であり、関の設置は大化の改新の
翌年の646年。改新の詔りによって、関所が置かれました。
平安遷都の翌年の795年に廃止。857年に再び設置。
795年の廃止は完全な廃止ではなかったらしく、以後も固関使
(こかんし)が派遣されて関を守っていたと記録にあります。
尚、古代三関として有名な鈴鹿の関、不破の関、愛発の関は
長岡京時代の789年に廃止されています。

平安時代前期からの三関とは愛発の関に変えて逢坂関を入れた
三関をいいます。
逢坂山は通行の利便の良くなるように何度か掘り下げ工事がされ
ています。平安時代は、現在より険しい峠でした。

逢坂の関の場所については不明。現在、国道一号線沿いに「逢坂の
関跡」の石碑がありますが、これは昭和七年に建立されたものです。
この石碑の位置は、実際の関のあった場所とは言えないようです。
実際の関の場所は大津市寄りの逢坂一丁目付近とも言われ、また、
京都の山科盆地側にあったとの説もあります。国道一号線の北側
500メートルほどの逢坂二丁目に「長安寺」があり、ここは更級日記
にある「関寺」跡と言われますから長安寺付近なのでしよう。         

万葉集以来、逢坂山は多くの歌に詠みこまれています。逢坂の関を
越えれば都を離れるということでもあり、都に住んでいた人々に
すれば格別の感慨を覚えたことでしよう。そういう地理的条件が
離別歌を生み、他方、逢坂という名詞にかけて、男女の機微に触れ
ての恋歌がたくさん詠まれています。

尚、逢坂の関は東海道と東山道の関であり、北陸道のための関が
逢坂の関の少し北側にあったとのことです。現在の小関越えは
平安時代の北陸道のルートでした。

○白河の関

白河の関はいつごろに置かれて関として軍事的に機能していたのか、
明確な記録がなくて不明のままです。
陸奥の白河の関、勿来の関、そして出羽の国の念珠が関を含めて
古代奥羽三関といいます。

「白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として勿来関(菊多関)
とともに4〜5世紀頃に設置されたものである。」
                (福島県の歴史散歩から抜粋)

ところが文献にある白河の関の初出は799年の桓武天皇の時代という
ことです。それ以前の奈良時代の728年には「白河軍団を置く」と
年表に見えますので、関自体も早くからあったものと思われます。

朝廷の東進政策、同化政策によって早くから住んでいた蝦夷と呼ば
れていた人々との対立が激化していきました。その過程で朝廷側
からすれば関は必要だったのですが、730年頃には多賀城が造られ、
800年代初めには胆沢城ができ、朝廷の直轄支配地は岩手県水沢市
付近にまで伸びていました。そうなると、白河の関は多賀城や胆沢城
に行くための単なる通過地点にしかすぎなくなります。前進基地と
しての軍事的な関の役割もなくなってしまって、いつごろか廃されて
関守りも不在となりました。

能因と西行では130年の隔たりがあります。西行の時代でも関の
建造物が残っていたということは奇跡的なことなのかも知れません。
あるいは能因の見た関の建物と、西行の見た関の建物は同一のもの
ではないのかも知れません。能因の時代以後に新たに関屋を建てる
可能性はほぼ考えられないので、同一のものであろうとは思います。

この関はどこにあるかよく分かりませんでしたが、白河藩主松平定信
(1758〜1829)が1800年に古代白河の関跡と同定して「古関蹟」という
碑を建てました。1959年からの発掘調査によってもさまざまな遺物が
発見され、「白河の関」として実証されています。
この関の前を東西に通る県道76号線が古代の東山道に比定されますから、
能因や西行もこの道をたどったものと断定して良いものと思います。

現在は関の森公園として整備されています。隣接して古刹の『白河神社』
があります。私が08年4月14日に行ったときはカタクリの花が群生して
いました。

○勿来の関
 
現在の福島県いわき市勿来町開田にあった古代の関で、白河の関、
念珠が関とともに古代奥羽三関のひとつ。古称は菊多の関。

 「勿来関は古くは菊多関といわれ、勿来関とよばれるようになる
 のは、江戸時代の文人達が文学的修辞からその呼称をつけたこと
 に始まる。(後略)」
          (山川出版社「福島県の歴史散歩」から抜粋)

「福島県の歴史散歩」の記述を信じるならば江戸時代以前は「勿来」
の固有名詞はなかったものと思われます。
ところが平安時代にはたくさんの歌人が「勿来の関」名を詠み込んだ
歌を残していますし、「枕の草子」にもあるように勿来の関という
言い方は平安時代から広く知られていたものと信じて良いでしよう。
歌の多くは現地詠ではなく現地のことなど全く関係なくて、ただ言葉
の持つ特性を捉えて「汝、来るな」という形で詠まれています。

  陸奥の国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる

 吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな
                (源義家 千載和歌集103番)

この歌の詞書を見ると源義家は確実に勿来の関に立ち寄ったものと
解釈してよいものと思います。
西行の歌にある「なこそ」もやはり実在した勿来の関を詠みこんだ
歌と解釈するしかありません。もちろん和歌の伝統としての詠み方も
踏まえての歌になっています。

○衣の関

一説には宮城県柴田郡柴田町にある衣関山東禅寺付近にあったとも
言われます。他方、平泉の関山中尊寺の麓近くにあったとも言われて
います。
平泉の中尊寺に上がる月見坂の登り口付近に安倍氏の衣川の関は
あったものと、ここではみなします。
奥羽の古代豪族安倍氏が「衣の関・衣川の関」を管理しており、
朝廷が直截に管轄する関ではありませんでした。安倍氏も在地官人
でしたから朝廷の関という性格も合わせ持っていたとは思われます。

この関は安倍氏と源頼義軍との前九年の役で有名な関です。
前九年の役は源頼義と清原氏一族の連合軍と、陸奥の豪族安倍氏と
俵の藤太藤原秀郷の六代の裔の藤原経清連合軍との間に起きた戦い
です。源氏と安倍氏の戦いといってもよく、陸奥を戦場にして1051年
から1062年まで続きました。戦いは朝廷側の源、清原連合軍が勝利
して、安倍貞任、安倍重任、藤原経清は斬殺されて、その首は京都に
まで運ばれて西の獄門にさらされました。

後に奥羽藤原氏の栄華を築くもととなった清原清衡の父である藤原経清
は敗れて斬首される前に、「汝は先祖相伝の源家の家僕である」と
頼義から言われたことが知られているようです。頼義にすれば家僕と
みなしていた藤原経清に裏切られた思いがあり、特に厳しい惨刑に
処したようです。(工藤雅樹氏著「平泉への道」雄山閣発行)

経清の子である清原清衡は後に藤原姓にもどって藤原清衡と名乗り
ます。清衡→基衡→秀衡→泰衡と続いた奥州の覇者藤原氏も源義経
との絡みで泰衡の代に源頼朝に滅ぼされてしまいました。

歌の場合は「勿来の関」もそうですが、実際の衣の関がどこに
あろうが関係なく、関と衣を組合わせて主に男女の機微を詠った
歌が殆どです。

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01 月すみてふくる千鳥のこゑすなりこころくだくや須磨の関守
            (岩波文庫山家集276P補遺・宮河歌合)

02 播磨路や心のすまに関すゑていかで我が身の恋をとどめむ
           (岩波文庫山家集154P恋歌・新潮697番)

03 音羽山いつしかみねのかすむかなまたるる春は関こえにけり
                     (松屋本山家集)

04 春たつをあつまよりくる人さへにせきのしみつのおとにしるかな
                     (松屋本山家集)

     みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関に
     とまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれ
     にて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなり
     けむと思ひ出でられて、名残おほくおぼえければ、
     関屋の柱に書き付けける

05 白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
   (岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮1126番・西行上人集・
         山家心中集・新拾遺集・後葉集・西行物語)

     さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世の
     ことにおぼえてあはれなり。都出でし日数思ひつづく
     れば、霞とともにと侍ることのあとたどるまで来に
     ける、心ひとつに思ひ知られてよみける

06 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
         (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1127番)
           
07 思はずば信夫のおくへこましやはこえがたかりし白河の関
        (岩波文庫山家集244P聞書集139番・夫木抄)

08 白河の関路の櫻さきにけりあづまより来る人のまれなる
          (岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)

09 東路やしのぶの里にやすらひてなこその関をこえぞわづらふ
           (岩波文庫山家集280P補遺・新勅撰集)

10 おさふれと涙そさらにととまらぬころものせきにあらぬたもとは
                     (松屋本山家集)

○ふくる千鳥

「ふくる」は、ちょっと分からない表現です。
中央大学図書館蔵本では「深くる千鳥」となっています。
月光が照り映えて一日が終わろうとする頃に、あくまでも静謐な
情景の中で飛び行く千鳥の声がかすかに聞こえるということであり、
「ふくる」は余情を感じさせる表現なのかもしれません。

○播磨路

山陽道播磨の国の道のこと。

○心のすまに

「心の隅」と「心の須磨」を掛け合わせていますが、わざとらしい
無理のある表現だと思います。
古語辞典を調べても「隅」を「すま」と読む用例はないようです。

○音羽山

京都市山科区にある山。近江と山城の国境の山であり、春の訪れを
早く感じる山であるという共通認識があったようです。
京都市では他に、清水寺の背後の山、及び比叡山西麓に音羽山が
あります。

○関こえにけり

東方面からやってきた春が逢坂の関を越えて都に入ってきたと
いうこと。春を擬人化した歌です。

○せきのしみつ

特定の清水ではなくして、立春になって氷が解けて、それが関の
あたりに清水を作ったということ。

○みちのくに

「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。

大化の改新の翌年に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島以北は陸奥の国と出羽の国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。
出羽の国は山形県と秋田県を指します。

○能因

中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(たちばなのながやす)。
若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
(高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
いたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。

○さきにいりて
 
新潮版では「関に入りて」となっています。1126番歌に白河の関の
歌がありますから、白河の関を越えて進んで行くと、という意味に
なります。

○わたり

信夫という土地、場所を言います。

○あらぬ世のことに

ここでは想像するしかなかった別世界を意味します。
能因法師の歌やその他の陸奥の歌で知っていただけの光景が
現実の物として眼前に立ち現れていることを指します。

○霞とともにと侍る

能因法師の歌にある句です。

みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
              (後拾遺和歌集518番 能因法師)

かすみとは春霞のことです。「秋風ぞふく」という語句によって、
春から秋という半年間という長い時間を要して白河の関まで行った
ということです。こんなに時間をかけていることから、本当に陸奥
まで行ったのか当初から疑われていたようです。
くしくも西行も初度の旅ではあちこちに逗留して、半年間ほどを
要して陸奥にまで行きました。

○心ひとつに

能因の歌にある世界と共通した感慨を持ったということを
表しています。

○信夫

陸奥国の地名です。現在の福島県福島市にあります。歌枕としても
著名です。信夫山山上に羽黒神社があります。
古今集の河原左大臣源融の歌や伊勢物語によって信夫摺りが有名に
なりました。

 みちのくのしのぶもぢずり たれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに
              (かはらの左大臣 古今集724番)

 春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれかぎり知られず
           (在原業平 伊勢物語・新古今集994番)

(01番歌の解釈)

「月が澄みわたり夜が更けて千鳥の声がしているよ(しているらしい)
その声にめざめて、いろいろ心をくだき、千々に物思いする須磨の
関守りよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

「播磨路では須磨の関で人を引き留めるが、心の片隅にでも関を
据えて何とか我が心が恋に暴走するのを押しとどめたいものである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「音羽山は早くも峰が霞んでいるなあ。訪れの待たれる春は
逢坂の関を越えたのだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「春が立つことを、春がやって来る方角である東国から上京
する人さえ、逢坂の関の清水の氷が解けて流れはじめた水の音に
よって知るのだなあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白河の関に
とどまったのであるが、白河の関は場所がらによるのであろうか
月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、能因が
「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と歌を
詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残
多く思われたので、関屋の柱に書きつけた、その歌」

「白河の関屋(関守のいる所)も荒れて、今は人でなく月がもる
(守ると洩るとをかける)のであるが、その月の光はそこを訪ね
る人を関守(月が)として人をとどめるように人の心に深い感動
をあたえて心をとめるのであったよ。(もる、とむる、関屋の縁語)
        (渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)

(06番歌の解釈)

「都を出立して逢坂の関を越えた時までは、折々心をかすめた
程度だった白川の関のことを、その後はひたすら思い続け、今
こうして辿りついたよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
        
(07番歌の解釈)

「修行を思い願わなかったならば信夫の奥へ来なかっただろう。
越えがたかった白河の関を越えて。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(08番歌の解釈)

「白河の関のあたりの桜が咲いたのだな。東国からやってくる
人がまれだ。」
「東国から都にやってくる人がまれなので、人々は白河の関の
桜に引き留められているのだろうと想像する。都人の心で詠う。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「みちのくから白河の関まで帰ってきた西行が、そこで東国から
やってきた人と出会っている趣が感じられ、この作が帰路の作で
あることを思わせる。(中略)
「遠い旅路で、桜の花盛りに出会った喜びとともに、その桜の花
の華やかなさびしさをとらえている。そうしたことを通して、
旅愁のようなものをにじませており、読後には、旅愁を噛みしめて
立っている旅姿の作者の像が浮きあがってくる。(中略)
かくて文治三年(1187)の夏の頃までに、西行は都へ帰ったので
あった。」
         (安田章生氏「西行」229ページから抜粋)

(09番歌の解釈)

「東路にある信夫の里(福島西北の高陵、歌枕)に休息して勿来の関
(福島県多賀郡関本村、歌枕)をその名のなこそのようになかなか
こえきらずにいる。(道のわるいのに苦しんでいるのか、それとも
次々に出てくる歌枕に感慨をおぼえて越えわずらっているのか。)」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)  

(10番歌の解釈)

「おさえるけれども涙はどうしても止まらない。涙をとめる衣の
関所でもない袂は涙にぬれるにまかせている。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)


【せき】
    
「堰き=せき」は「堰く」の文語カ行四段活用の連用形。
水分に限らず、ある一定の流れを遮断しようとする運動のこと。
「せきかねて」「せきとめる」「せきいれて」などと使われます。
閉じる、さえぎる、閉める、とどめる、妨げるなどの意味を持ちます。

「堰」は、動詞「堰く」の連用形「堰き」が名詞化した言葉。
水を取り入れるために川の流れをさえぎって作った構造物を言い、
分水を行ったり貯水量や流量の調節を行うための設備です。
日本各地で「へき・へぎ・へげ・せぎ・へっき・せんげ・せぎで・
せた」などの方言があるそうです。

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01 庭にながす清水の末をせきとめて門田やしなふ頃にもあるかな
           (岩波文庫山家集39P春歌・新潮1437番)

02 せきかねてさはとて流す瀧つせにわく白玉は涙なりけり
          (岩波文庫山家集161P恋歌・新潮1311番)
 
03 岩せきてこけきる水はふかけれど汲まぬ人には知られざりけり
         (岩波文庫山家集227P聞書集09番・夫木抄)

      御裳濯川歌合の表紙に書きて俊成に遣したる

04 藤浪をみもすそ川にせきいれて百枝の松にかかれとぞ思ふ
          (岩波文庫山家集280P補遺・御裳濯河歌合・
                    風雅集・長秋詠藻)

     小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。
     おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、
     分けおはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へ
     まゐられけるに、御山よりいであひたりけるを、しるべ
     せよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、
     かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんと
     いふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へ
     おはしけり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。
     さりとてはとて、吹上に行きつきたりけれども、見所
     なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふにも似ざり
     けり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ伝へ
     られたるものをと思ひて、社にかきつけける

05 あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
         (岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)

06 苗代にせきくだされし天の川とむるも神の心なるべし

     かくかきたりければ、やがて西の風吹きかはりて、
     忽ちに雲はれて、うらうらと日なりにけり。末の代
     なれど、志いたりぬることには、しるしあらたなる
     ことを人々申しつつ、信おこして、吹上若の浦、
     おもふやうに見て帰られにけり。
         (岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮749番)

     京より手箱にとき料を入れて、中に文をこめて庵室にさし
     置かせたりける。返り事を連歌にして遣したりける (空仁)

07  むすびこめたる文とこそ見れ
           (空仁前句)(岩波文庫山家集269P残集)

     このかへりごと、法輪へまゐりける人に付けて
     さし置かせける

   さとくよむ言葉を人に聞かれじと
           (西行付句)(岩波文庫山家集269P残集)

     申しつづくべくもなき事なれども、空仁が優なりしことを
     思ひ出でてとぞ。この頃は昔のこころ忘れたるらめども、
     歌はかはらずとぞ承る。あやまりて昔には思ひあがりてもや
        
○門田やしなう

(かどた)と読みます。
門の前や門の近くにある田のこと。家の付近の田のこと。
後に、自分の出自の家「門地=もんち」の領地である田も「門田」
と呼ぶようになったそうです。ただし、その場合の読みは
(かどた)よりも(もんでん・かどんだ)と呼ばれたようです。
畑の場合は(もんばた・かどばた)という呼称のようです。
言葉のリズムのことを考えて(もんでん)よりも(かどた)の方が
ふさわしいので、(かどた)と詠んだのかもしれません。

○さはとて流す

「然はとて流す」で、「それではと流す」という意味になりますが、
主体的、主導的ではなくて「どうしても流れてしまう」いう感覚の
言葉です。抑えても自然に流れてしまう状態を言います。

○瀧つせ

滝は必ずしも名詞としての「滝」を意味しません。川の流れが
急に断崖に落ちる滝ではなくて、ここでは涙が奔流となって迸る、
激流である・・・という意味です。

○わく白玉

水分がぷっくりと盛り上がって半円形になっている状態を真珠
(白玉)にみたてています。

○こけきる水

「苔切る水」か「苔着る水」なのか、よく分かりません。
どちらでも意味は通じるように思います。他の歌に「苔の下水」
というフレーズもあります。「着る」の方が水深の深いことを
表していて歌意にふさわしいと思います。

○御裳濯川歌合

西行最晩年の陸奥行脚の前後に編まれて、伊勢神宮内宮に奉納
された自歌合です。左は山家客人、右は野径亭主という架空の
人物の作として、36番合計72首を番えて、藤原俊成に判を依頼
しました。
これとは別に外宮に奉納した「宮河歌合」があります。

○俊成

藤原道長六男長家流、御子左家の人。定家の父。俊成女の祖父。
三河守、加賀守、左京・右京太夫などを歴任後1167年、正三位、
1172年、皇太后宮太夫。
五条京極に邸宅があったので五條三位と呼ばれました。五条京極
とは現在の松原通り室町付近です。現在の五条通りは豊臣時代に
造られた道です。当時は松原通りが五条通りでした。
1176年9月、病気のため出家。法名「阿覚」「釈阿」など。
1183年2月、後白河院の命により千載集の撰進作業を進め、一応
の完成をみたのが1187年9月、最終的には翌年の完成になります。
千載集に西行歌は十八首入集しています。
1204年91歳で没。90歳の賀では後鳥羽院からもらった袈裟に、
建礼門院右京太夫の局が紫の糸で歌を縫いつけて贈っています。
そのことは「建礼門院右京太夫集」に記述されています。
西行とは出家前の佐藤義清の時代に、藤原為忠の常盤グループの
歌会を通じて知り合ったと考えてよく、以後、生涯を通じての
親交があったといえるでしよう。

○藤浪

中臣鎌足から続く藤原氏の氏族としての系統を意味しています。
ちなみに山家集には藤の花と藤袴の植物は別にすると、藤の付いて
いる名詞は藤衣と藤浪です。藤衣は葬送の時の喪服をも意味します。 

○みもすそ川

御裳濯川。伊勢神宮内宮を流れる五十鈴川の別名。伝承上の第二代
斎王の倭姫命が、五十鈴川で裳裾を濯いだという言い伝えから来て
いる川の名です。

○せきいれて

人為的にせきとめて遮断した流れを、別の方向に流し入れること。

○百枝の松

たくさんの枝のある松のこと。立派な松のこと。
藤原氏の氏族の繁栄をいうものでしよう。

○小倉

京都市右京区嵯峨野にある小倉山のことです。山としての嵐山の
対岸に位置します。麓に二尊院、常寂光寺などがあります。
二尊院の院内付近に西行の庵があったものとみられています。
小倉山の歌は8首、詞書では3回記述されています。

○天野と申す山

和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
                  (和歌文学大系21を参考)

「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。

○帥の局

待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。藤原
季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、次に
建春門院平滋子の女房となっています。

○御山

高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
の場を移していたということになります。

○粉川

地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
の門前町として発達しました。
粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。

○吹上

紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
ようです。
天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
思いますので、どこかで一泊した旅に西行は随行したものだろう
と思われます。
吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。

○能因

中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
(伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
入道とも自称していたようです。「数奇」を目指して諸国を行脚
する漂白の歌人として、西行にも多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。
「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
 
○あまくだる名

天界から降臨した神ということ。

天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神
(能因法師 金葉集雑下)

能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという
故事を踏まえての歌です。

○若の浦

紀伊の国の歌枕。和歌山市の紀の川河口の和歌の浦のこと。
片男波の砂嘴に囲まれた一帯を指します。
和歌の神と言われる「玉津島明神」が和歌の浦にあります。
和歌に関しての歌で、よく詠まれる歌枕です。
 
○とき料

(斎料)と書き、斎とは食事のことです。
僧侶の食事の料となるお金のことです。

○空仁

生没年未詳。俗名は大中臣清長と言われます。
西行とはそれほどの年齢の隔たりはないものと思います。西行の
在俗時代、空仁は法輪寺の修行僧だったということが歌と詞書
からわかります。
空仁は藤原清輔家歌合(1160年)や、治承三十六人歌合(1179年)
の出詠者ですから、この頃までは生存していたものでしよう。
俊恵の歌林苑のメンバーでもあり、源頼政とも親交があったよう
ですから西行とも何度か顔を合わせている可能性はありますが、
空仁に関する記述は聞書残集に少しあるばかりです。
空仁の歌は千載集に4首入集しています。

 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになればかなしかりけり
                (空仁法師 千載集1119番)

○法輪

京都市西京区にあるお寺です。虚空蔵山法輪寺といい、渡月橋の
西詰めからすぐの所に位置します。713年、元明天皇の勅願寺と
して行基の開基によると言われますから、京都でも有数の古刹
です。十三参りで有名なお寺です。

○さとくよむ

和歌文学大系21では(里とよむことをば人に聞かれじと)となって
いて、(さとくよむことをば人に聞かれじと)とは異なっています。
原文では(さとと)になっているとのことです。

○空仁が優なりし

素晴らしくすぐれており、好ましく見えることをいいます。

○昔のこころ忘れたるらめ

空仁法師が、出家当時の仏道に対しての純真な気持ちを忘れ果てた
ことを批判した言葉です。

○あやまりて

(誤りて)で、西行における空仁に対しての判断が、誤っているか…
という疑念の言葉。空仁は女性に関心を強めていた一時期もあった
ようです。

○思ひあがりて

今日でいう自分勝手に「うぬぼれる」「いい気になる」という意味
ではなくて、仏道信仰者として信仰を深めているか、僧侶としての
認識や行動や覚悟が以前よりは上がっているか…ということ。

(01番歌の解釈)

「庭に流す清水の末を堰きとめて、門の前にある田の灌漑用に
しようと思うことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「おさえかねて、それではとばかり流す滝つ瀬に湧く白玉は、
思えば自分の涙であることか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「岩がせきとめて苔を着ているような水は深いけれど、汲まない
人には深さがわからないよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「藤浪という波をみもすそ河にせき入れて、その藤浪が枝の百枝も
ある立派な松にかかれよと希望する。」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
          
(05番歌の解釈)

「天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
申しあげるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

「このように書きつけたところが、すぐに風は西の風に吹き
かわって、たちまち雲はれ、雨やんで、うららかなよい日よりに
なった。今の世は末法の世で正しい法が行われぬ時であるが、
一生懸命になったことには神の霊験もあらたであったことに
対して人々も信心の心をおこして、吹上の浜、和歌の浦を思う
ように見てかえって行かれた。」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(07番歌の解釈)

ひそかに結びこめたお手紙と見えます。(前句・空仁)

里中が大騒ぎするような内容を人に聞かれまいとしてね。
                   (付句・西行)
                (和歌文学大系21から抜粋)

【せく】
    
(堰く)のことで、(堰き)とほぼ同義です。
水などが堰き止められていることを言います。

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      引接結縁樂

01 すみなれしおぼろの清水せく塵をかきながすにぞすゑはひきける
            (岩波文庫山家集246P聞書集149番)

02 岩にせくあか井の水のわりなきは心すめともやどる月かな
         (岩波文庫山家集112P羇旅歌・新潮1368番)

03 岩間せく木葉わけこし山水をつゆ洩らさぬは氷なりけり
       (岩波文庫山家集93P冬歌・新潮554番・月詣集)

○引接結縁樂

仏教用語で「引摂・引接=いんじょう」とは、人間の臨終の時に
阿弥陀仏やその他の菩薩が現れて、念仏を唱える人を浄土に導き
救いとる、ということを意味します。

○おぼろの清水

京都市左京区大原にある清水。

三千院から寂光院に向かう小道の傍らに「おぼろの清水」はあります。
歌枕として「八雲御抄」や「五代集歌枕」にもあげられ、平安時代
から多数の歌にも詠まれてきた有名な清水ですが、現在は小さな
水たまりという感じです。
寂光院に隠棲した建礼門院も親しんだ泉のようです。

○ せく塵

(せく)は(堰く・塞く)のことで、流れを堰きとめて塞ぐこと。
流れを塵が堰きとめているという意味。
この歌では「塵」は世の汚濁のこと。また、煩悩のこと。

○すゑはひきける

生存している時に仏道の縁を結んだ人々を導いて浄土の世界に
引き取るということのようです。
死後の行く末は浄土に導いてあげるという意味です。
 
○あか井の水

閼伽井の水。閼伽とは仏教用語で(貴重な)とか(価値あるもの)
という意味を持ち、普通には仏前に供える清らかな水のこと。
あか井とは、仏前に供えるための水を汲むための井戸。その井戸
から汲まれた水が「あか井の水」。

○わりなきは

普通には(道理に合わないこと)を意味します。この言葉の解釈は
むつかしくて、「格別にすばらしいこと」という説もあるそうです。

○岩間せく

岩と岩の間の水の流れ路を堰きとめるということ。

○つゆ洩らさぬ

この場合(つゆ)は(少しも…)という意味です。全く漏らさないこと。

(01番歌の解釈)

「住み馴れた朧の清水の澄んだ水をせきとめている塵を払い流す
ことで、流れの末は引けるのだよ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「岩に堰かれて溜まっている閼伽の水を汲む井は、おかしなことに
一方では、妨げられることなく心を澄ませよ、とばかりに澄んだ
月が姿を映しているよ。」
                (新潮日本古典集成から抜粋)

(03番歌の解釈)

「岩間を堰き止めていた落ち葉を山水はかき分けるように流れ出て
いたが、氷はさすがに一滴たりとも漏らさないよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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