もどる

すえ〜すず   すな〜すわ

   末の松山・末の世・周防内侍・すが嶋・すかたの池・すがり、すがる・菅・ま菅・
   すさみ、すさび・鈴鹿山・鈴虫・雀・すずめ貝・すずめ弓・すずろ

【末の松山】 

末の松山は陸奥の国の歌枕ですが、岩手県一戸町にある浪打峠を
いうとする説もあります。
一般的には宮城県宮城郡、現代の宮城県多賀城市の「末松山宝国寺」
あたりが比定されてもいます。芭蕉も「奥の細道」では、ここを
「末の松山」として訪ねています。

「末の松山は、寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原にて、翼を
交はし枝を連ぬる契の末も、つひにはかくのごときと……後略」
             (芭蕉「おくのほそ道」から抜粋)

陸奥のある地方に伝わっていた俗謡に

「君をおきて あだし心を われ待たば や なよや すゑの松山
 浪も越えなむや 浪も越えなむ・・・」

というのがあるそうです。
芥川龍之介の作品に「偸盗=ちゅうとう」という小説があり、
そこに書かれているそうです。古今集の1093番東歌、詠み人知らずの
歌は、その俗謡を参考に詠われたものでしょう。あるいは俗謡その
ものを古今集撰者が歌にした可能性もあるかとも思われます。

◎ 君をおきてあだし心を我が持たば 末の松山波も越えなん」
                 (古今集 1093番東歌)

歌人達はこの歌を本歌として詠み、たくさんの「すゑの松山」歌が
詠われました。

歌の解釈は「愛しいあなたを差し置いて不埒な心を私が持って、他の
女性に心を移すようなことがあるとしたら、すゑの松山を波が越す
ような、ありえないことが起こるかもしれないです。私はそういう
ことはしたくありません。」
      (片桐洋一氏著「歌枕歌ことば辞典増訂版」を参考)

◎ 浦近く降り来る雪は白浪の 末の松山越すかとぞ見る
                (藤原興風 古今集326番)

◎ 契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
        (清原元輔 後拾遺集770番・百人一首42番)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 たのめおきし其いひごとやあだになりし波こえぬべき末の松山
          (岩波文庫山家集159P恋歌・新潮1289番)

02 春になればところどころはみどりにて雪の波こす末の松山
             (岩波文庫山家集233P聞書集47番)

○たのめおきし

架空のお話ではなくて、誰かに何かを依頼していたという実際的な
出来事を言うのかもしれません。

○あだになりし

無効になったということ。意味がなくなったということ。
反故にされたということ。

○波こえぬべき

波が越えてしまいそうな状況を言います。
人と人の関係性を言い、あってはならないことがありそうだと
する仮定の言葉です。

○雪の波こす

雪の消え残っている状況を海の白波という景物と重ね合わせています。

(01番歌の解釈)

「私に約束してくれたあの時の言葉はもう意味のないものになった
のか。あの人に誠意があれば、波が越えることなどないと言われた
末の松山を、今にも波が越えそうだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「春になると所々は雪が消え緑色になって、あたかも雪の波が
越す末の松山よ。」 
                (和歌文学大系21から抜粋)
 

今年3月の地震後の津波により、宝国寺にも波が押し寄せました。
しかし小高い丘である「末の松山」を波は越えなかったそうです。
私見ですが、西行時代からみたら埋め立てで海岸線が遠くなった
ことが一因だろうと思います。

【末の世・末の代】

末法の支配する世のこと。

「仏教の歴史観。釈迦入滅後、正法、像法に次ぐ末法の時期には
仏教がすたれ、教えのみあって行ずる人・悟りを得る人がないと
する思想。日本では永承七年(1052)がその始まりであるとして、
当時の社会不安と相まって平安末から鎌倉時代に流行し、浄土教
などの鎌倉新仏教の出現につながった。」
            (講談社「日本語大辞典」より引用)

1052年の天皇は後冷泉天皇、関白は藤原頼道です。
藤原頼道が宇治の別荘を平等院としたのもこの年の事です。
末法の時代に入ったということは当時は良く知られていて、
平等院の鳳凰堂は死後の極楽浄土を祈念して阿弥陀如来が本尊と
なっています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 末の世に人の心をみがくべき玉をも塵にまぜてけるかな
         (岩波文庫山家集221P釈教歌・新潮1535番)
 
    寂蓮、人々すすめて、百首の歌よませ侍りけるに、いな
    びて、熊野に詣でける道にて、夢に、何事も衰へゆけど、
    この道こそ、世の末にかはらぬものはあなれ、猶この歌
    よむべきよし、別当湛快三位、俊成に申すと見侍りて、
    おどろきながら此歌をいそぎよみ出だして、遣しける
    奧に、書き付け侍りける

02 末の世もこの情のみかはらずと見し夢なくばよそに聞かまし
      (岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・新古今集)

    北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて
    待たるる程に、使まゐりたり。はし殿につきてへいふし
    をがまるるまではさることにて、舞人のけしきふるまひ、
    見し世のことともおぼえず、あづま遊にことうつ、
    陪従もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに
    見給ふらむと、恥しきここちしてよみ侍りける

03 神の代もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて
         (岩波文庫山家集224P神祇歌・新潮1221番)

04 苗代にせきくだされし天の川とむるも神の心なるべし

    かくかきたりければ、やがて西の風吹きかはりて、忽ちに
    雲はれて、うらうらと日なりにけり。末の代なれど、
    志いたりぬることには、しるしあらたなることを人々申し
    つつ、信おこして、吹上若の浦、おもふやうに見て
    帰られにけり。
          (岩波文庫山家集136P羈旅歌・新潮749番)

○玉をも塵にまぜ

玉石混交のこと。真理が分からなくて玉(仏法)と塵(仏法以外のもの)
をこちゃまぜにしたままであるということ。
玉と塵の違いを判断する能力がないこと。

○寂蓮

生年は未詳、没年は1202年。60数歳で没。父は藤原俊成の兄の
醍醐寺の僧侶俊海。俊成の猶子となります。30歳頃に出家。
数々の歌合に参加し、また百首歌も多く詠んでいます。御子左家
の一員として立派な活動をした歌人といえるでしょう。
新古今集の撰者でしたが完成するまでに没しています。家集に
寂蓮法師集があります。

○いなびて

拒絶、否定を表すことば。
(いな)は否。(び)は接尾語。(て)は助詞。

○別当湛快三位、俊成に

岩波文庫山家集にたくさんあるミスのひとつです。
西行の時代は句読点はありませんでした。別当湛快は三位では
なく俊成が三位ですから、ここは「別当湛快、三位俊成に」と
なっていなくてはなりません。
 
○別当

官職の一つで、たくさんの別当職があります。さまざまな職掌に
おける長官が別当です。
寺社で言えば、東大寺、興福寺、法隆寺、祇園社、石清水八幡宮
などの最高責任者を別当といいます。醍醐寺や延暦寺は別当の
変わりに「座主」という言葉を用いていました。
熊野別当は熊野三山(三社)を管轄していました。

○別当湛快(べっとうたんかい)

第18代熊野別当。1099年から1174年まで存命と見られています。
1159年の平治の乱では、熊野参詣途上の平清盛に助勢しており、
平治の乱で清盛が勝利した原因の一つでもありました。
21代熊野別当となる湛快の子の湛増は、初めは平氏の味方でした
が、後に源氏側について熊野水軍を率いて平氏追討に活躍して
います。
西行は熊野修行などを通じて湛快、湛増父子とは面識ができた
ものと思われます。西行高野山時代に湛増も住坊を持っていた
とのことですので、湛増とは親しくしていた可能性もあります。

○北まつり

岩清水八幡宮の南祭に対して、賀茂社の祭りを北祭りといいます。
 
○はし殿

賀茂両社に橋殿はあります。この詞書ではどちらの神社か特定
できませんが、上賀茂神社だろうと思えます。
 
○へいふし

新潮版では「つい伏し」となっています。
膝をついて平伏している状態を指すようです。

○東遊び

神楽舞の演目の一つです。現在も各所で演じられています。
 
○ことうつ陪従

(陪従)は付き従う人と言う意味ですが。その陪従が神楽舞で
琴を打つということです。
しかしこの時には勅使に付き従ってくる琴の奏者である陪従も
いなかったということになります。

○吹上

「吹上」と言えば現在では鹿児島県が有名ですが、ここでは紀伊
の国の地名の吹上です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての
浜を「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の
歌枕ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残す
のみのようです。
天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
思いますので、どこかで宿泊した旅に西行は随行したものだろう
と思われます。
吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。

○若の浦

紀伊の国の歌枕。和歌山市の紀の川河口の和歌の浦のこと。
片男波の砂嘴に囲まれた一帯を指します。
和歌の神と言われる「玉津島明神」が和歌の浦にあります。
和歌に関しての歌で、よく詠まれる歌枕です。

(01番歌の解釈)

「真珠の価値を塵芥と区別できないような人は、末法の世の人々
の心を磨き上げるために必要な仏法も外法も混ぜて一緒にして
しまっているよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「衰えて行く末の世でも、この風流の道のみは変わらないと見た
夢がなかったならば、この百首のこともよそ事に聞き流して
しまったであろう。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(03番歌の解釈)

「賀茂祭の頃に賀茂社に参詣したのですが、具合良く、少し待った
だけで朝廷からの奉幣の勅使が到着しました。勅使が橋殿に着いて
平伏して拝礼されるところまでは、昔ながらのしきたりのままでした。
ところが東遊びの神楽舞を舞っている舞人の舞い方は昔に見た
ものと同じ舞とは思えないほどにお粗末で、舞に合わせて琴を打つ
人さえいません。これはどうしたことでしょう。いくら末法の時代
とはいえ、この事実を神はどのように御覧になっていることだろう。
まったく、恥ずかしい気がします。」

「人の世のみならず、神の代もすっかり変わってしまったと見える
ことだ。琴の陪従もいなくなり、祭のことわざ、舞人の振舞も昔の
ようではなくなったことにつけても」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「このように書きつけたところが、すぐに風は西の風に吹き
かわって、たちまち雲はれ、雨やんで、うららかなよい日よりに
なった。今の世は末法の世で正しい法が行われぬ時であるが、
一生懸命になったことには神の霊験もあらたであったことに
対して人々も信心の心をおこして、吹上の浜、和歌の浦を思う
ように見てかえって行かれた。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)  

【周防内侍】

平安時代中期から後期にかけての歌人。生没年は不詳。1110年まで
には没したと見られています。
歌人の平棟仲の娘。後冷泉、後三条、白河、堀川の各天皇に仕え
ました。
後拾遺集初出歌人。知的な抒情性のある歌の詠み手です。
家集に周防内侍集があります。

◎ 春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ
          (周防内侍 千載集964番・百人一首67番)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 周防内侍、我さへ軒のと書き付けける古郷にて、
人々思ひをのべけるに

01 いにしへはついゐし宿もあるものを何をか忍ぶしるしにはせむ
           (岩波文庫山家集190P雑歌・新潮799番・
                 西行上人集・山家心中集) 

○我さへ軒の

「住み侘びて我さへ軒の忍ぶ草しのぶかたがた茂き宿かな」
                 (周防内侍 金葉集591番)

上の歌にある句です。周防内侍が一緒に住んでいた母や兄弟を亡く
してから心細くもあり、他の所に転居したのですが、久しぶりに
旧家に戻ってみたら、軒端などに忍草が茂りに茂っていたという、
その光景を詠んだ歌です。
周防内侍の旧家で開催された歌会での歌です。「人々」の名前などは
不明です。

○古郷

周防内侍の旧家のこと。1190年頃でも夷川通り堀川に実際に家が
残っていたそうです。

○ついゐし宿

「つい=突い」は接頭語で、動詞の上について「ちょっと、少し」
の意味を持ちます。「ゐし」は「居し」のことです。
合わせて「ほんの少しだけ居た」という意味になります。

(01番歌の解釈)

「ほんの仮住まいでも昔のものは現存するのに、一体何を今日来た
形見にできるだろう。私には歌しか思い浮かばない。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【すが嶋】

伊勢湾にあり答志島の西に位置する菅島のことです。鳥羽市に
属していて、地名は鳥羽市菅島町です。
この島には縄文時代から人々が住んでいたことが知られています。
古くから島名は変わっていず、万葉集にも「菅島」の歌があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     伊勢のたふしと申す嶋には、小石の白のかぎり侍る濱
     にて、黒は一つもまじらず、むかひて、すが嶋と申すは、
     黒かぎり侍るなり

01 すが島やたふしの小石わけかへて黒白まぜよ浦の濱風
          (岩波文庫山家集126P羈旅歌・新潮1382番)

02 からすざきの濱のこいしと思ふかな白もまじらぬすが嶋の黒
          (岩波文庫山家集126P羈旅歌・新潮1384番・
                西行上人集追而加書・夫木抄) 
 
03 あはせばやさぎを烏と碁をうたばたふしすがしま黒白の濱
      (岩波文庫山家集126P羈旅歌・新潮1385番・夫木抄)

○たふし

伊勢湾にある答志島のことです。鳥羽市に属しています。菅島の
少し北(東)寄りに位置していて、鳥羽市佐田浜港から船で10分
ほどの距離にあります。

○むかひて

対面すること。向かい合うことです。答志島の西に菅島があります。

○からすざき

三重県一志郡香良洲町にある岬のこととみられています。
一志郡香良洲町は松坂市の北に位置していて、伊勢湾の中ほど
にあり、菅島とは離れています。

○さぎを烏と

サギとカラスで白黒の色の対比を言います。
新潮版では「鷺と烏と」となっています。「を」は類題本でも「を」
のように見えますが、変体カナは「と」との判別は難しく、岩波文庫
版のミスとまでは言えないように思います。

(01番歌の解釈)

「菅島の黒ばかりの小石、答志島の白ばかりの小石を分けかえて、
黒石と白石と両方をまぜてくれ、浦の浜風よ。」
              (新潮古典集成山家集より抜粋)

(02番歌の解釈)

「烏の名を持つ香良洲崎の浜の小石かと思うよ。ひとつも白が
混じらない菅島の黒い石は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「合わせてみたいものだ。鷺と烏とがもし碁を打ったならば、
どうなるだろう。答志の浜の白石と菅島の浜の黒石とを使って。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

************************************************************
【すかたの池】

奈良県大和郡山市八条町にある菅田神社の近くにある池のことだと
言われますが、よく分かりません。
「菅田の池」と、「ほととぎすの姿」を掛け合わせていますが、
ちょっと強引な気もします。

この歌は取り上げるつもりは無かったのですが、こういう歌もある
ということで記述しておきます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 ひるはいててすかたの池にかけうつせ聲をのみきくやま時鳥
                    (松屋本山家集)

○ひるはいてて

和歌文学大系21では「昼は出でて」としています。
           
(01番歌の解釈)

「昼は山を出て菅田の池に姿を映せ、声だけを聞く山ほととぎすよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

************************************************************
【すがり・すがる】

「縋る」のこと。頼って、しがみつくこと。放されないように、
放さないように、しっかりとつかまること。

参考歌の「すがる」は鹿の異名です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 けさみれば露のすがるに折れふして起きもあがらぬ女郎花かな
           (岩波文庫山家集60P秋歌・新潮278番)

02 谷の庵に玉の簾をかけましやすがるたるひの軒をとぢずば
         (岩波文庫山家集112P羈旅歌・新潮1366番)

03 山深み杖にすがりて入る人の心の底のはづかしきかな
      (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1238番・夫木抄) 

04 誰とてもとまるべきかはあだし野の草の葉ごとにすがる白露
    (岩波文庫山家集213P哀傷歌・新潮欠番・続古今集)

05 夏草の一葉にすがるしら露も花のうへにはたまらざりけり
         (岩波文庫山家集228P聞書集11番・夫木抄)

(参考歌)
すがるふすこぐれが下の葛まきを吹きうらがへす秋の初風
      (岩波文庫山家集56P秋歌・新潮1013番・夫木抄)

○起きもあがらぬ

短夜を共に過ごして、夜明け方に帰っていく男との別れの悲しみに
打ちひしがれて起き上がることもできない女性ということを比喩的
に言います。

○女郎花

植物名。オミナエシ科の多年草。高さは1メートル程度。
夏から秋に淡黄色の小花を傘状にたくさんつけます。秋の七草の
一つです。オミナメシの別称もあります。

○玉の簾を

露の玉のような一粒のものを言うのではなくて、つららを玉飾りに
見立てた言葉です。

○たるひ

「垂氷」と書き、つららのことです。山の中の庵の冬の生活の
厳しさ、すさましさを、それとなく伝えてきます。

○軒をとぢずば

多くのつららが庵の軒を閉ざすようにして垂れ下がっていること。

○とまるべきかは

(かは)は前の言葉に対しての反語として機能します。
(とまるべき)、いやそうではない…という意味になります。

○あだし野

固有名詞とすれば、京都市右京区嵯峨にある「化野」のことです。
化野念仏寺があります。
化野は鳥部野、蓮台野とともに葬送地、墓地として著名でした。

(01番歌の解釈)

「今朝見ると、重く置いた露のために女郎花は折れ伏してしまって、
起き上がることもできない有様だよ。」
              (新潮古典集成山家集より抜粋)

(02番歌の解釈)

「谷の侘び住居に、玉の簾を懸けるということがあろうか。垂れ
下がるつららが軒を閉ざすことがなかったならば。」
              (新潮古典集成山家集より抜粋)

(03番歌の解釈)

「山が深いので杖にすがりながらも、仏の教えを求めて入山する
老人の心の奥を、我が身に照らし合わせると、何とも恥かしく
思われる我が心だよ。」
              (新潮古典集成山家集より抜粋)

(04番歌の解釈)

「誰だって、いつまでも生きて止まることのできるこの世であろうか、
そうではない。あの嵯峨の奥にある墓地、あだし野の草の葉ごとに、
わずかにすがるように置いている白露、あのようにはかない
身の上ではないか。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)  

この歌は1259年撰進下命、1266年奏覧の続古今集のみにあります。
西行没後60年を過ぎて初めて出てきた歌ですし、私個人としては
西行歌なのかどうか疑わしい気持ちがあります。

(05番歌の解釈)

「夏草の一葉に取りすがる白露も、花の上には美しい宝石と
なって花を飾るのだったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

この歌は和歌文学大系21では下のようになっています。

 夏草の一葉にすがる白露も花の上には玉飾りけり

結句に「たまらざりけり」と「玉飾りけり」の違いがあり、その
ために歌の意味は異なります。「玉飾りけり」の歌は文法的に見て
不自然さを否めませんので「たまらざりけり」が正しいフレーズ
ではないかと思います。

(山深み歌について)

続後撰集1126番に以下の記述があります。

「後徳大寺左大臣西行法師など伴ひて大原にまかれりけるに
来迎院にて寄老人述懐といふ事をよみ侍りける」  

「山の端に影傾ぶきて悲しきは空しく過ぎし月日なりけり」
               (縁忍上人 続後撰集1126番)

当然に断定はできませんが、山家集記載の老人述懐歌は189Pにある
「山ふかみ・・・」歌の一首のみですから、03番歌は来迎院でのこの
歌会の時の歌である可能性が強いものと思います。
(聞書集には「老人述懐」として3首あります。)

後徳大寺左大臣は藤原実定(1139〜1191)のことです。西行が随身
した藤原実能の孫に当たり、公能の子です。藤原俊成の甥、藤原
定家の従兄弟にもなります。百人一首81番の作者です。後白河院の
大原御行にも随行しています。

西行の「山ふかみ・・・」歌については、出家後かなりの年数を経て
のものであることが藤原実定の年齢からも類推できます。それは徳大寺家
との交流が西行出家後も長く続いていたということの証明にもなります。
歌もやはり恋の歌などではなくて、仏道上のものと考えて良いのでは
ないかと思います。
この歌は西行本人のことを詠った歌ではないように思います。
山家集に採録されている以上は西行60歳頃までの歌と考えてよく、
西行本人の事実に即した歌とするなら老人という意識は強く内在させて
いたとしても杖を用いるほどでもないものと思います。

【すげ・菅・ま菅】

(菅)はカヤツリグサ科のスゲの総称です。高さは1メートル程度。
葉は細長いために笠や蓑の材料として使われてきました。

(ま)は美称の接頭語で(真)の字を当てます。本当の、本物の
という意味をも合わせ持つものでしよう。

山野に自生する菅を「山菅=ヤブラン」とも言います。夕菅という
植物もあります。しかし「夕菅」も「山菅」もユリ科ですからここに
取り上げる「スゲ」とは違います。山家集にも登場しません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 たび人の分くる夏野の草しげみ葉末にすげの小笠はづれて
           (岩波文庫山家集52P夏歌・新潮237番・
                 西行上人集・山家心中集) 

02 ま菅おふる山田に水をまかすれば嬉しがほにも鳴く蛙かな
     (岩波文庫山家集39P春歌・新潮167番・西行上人集・
     山家心中集・宮川歌合・風雅集・月詣集・御裳濯集) 

03 菅の根のながく物をば思はじと手向し神に祈りしものを
           (岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1294番) 

○小笠はづれて

分かりにくい表現です。人のかぶっている菅の笠だけが草の葉の
上に出て動いていて、その光景を詠んだ歌でしよう。

○おふる

(生ふる)で菅が生えているということ。

○山田

山を切り開いて作った田。山間の田のこと。

○まかすれば

「引す」と書いて、「まかす」と読みます。水を引く事、田に
水を入れることです。

○手向し神に

神に恋愛成就を祈って、手向けること。お供えをすること。
菅の根を手向けたということですが、なんだか遊戯性の強い
歌のようにも思えます。

(01番歌の解釈)

「旅人が踏み分けて行く夏の野は、草が高く茂っているので、姿は
見えず、冠っている菅の小笠だけが葉末に浮きあがって見えるよ。」
              (新潮古典集成山家集より抜粋)

(02番歌の解釈)

「真菅が生えた山田に水を引いたので、蛙がうれしそうに鳴いている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「恋愛成就の神に菅の根をお供えして、あまり長くは物思いに
苦しまないようにと祈ったのに、神は私の願いを受け入れては
下さらなかったようだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「(がほ)歌について」

(がほ)のフレーズの入った歌は西行が好んで詠んだ歌とも
言えます。
                  
いひがほ・恨みがほ・嬉しがほ・かけもちがほ・きかずがほ・
たより得がほ・つけがほ・告げがほ(2)・所えがほ・ぬるるがほ・
見がほ・見せがほ・もりがほ・わがものがほ。

以上14種類、15首あります。
源氏物語にも「○○がほ」という記述はたくさんありますから、
西行の「がほ」歌はあるいは源氏物語の影響なのかもしれません。

【すさみ・すさび他】

「荒び・進び・遊び」という文字を当てて「すさび」と読みます。
意味は多岐に渡っていて、解釈にとまどってしまいます。

名詞及び動詞としてあり、それぞれに微妙に意味合いが異なります。
名詞としての「荒び・進び・遊び」は以下のような意味を持ちます。

1 心の赴くままにまかせること。気まぐれにおこなうこと。
2 心のままにする慰みごと。気慰み。手慰み。

動詞としては「すさむ=荒む」の活用で連用形です。原意は荒れる、
荒れ狂う、動きがいよいよ激しくなることなどを言います。

1 生活や気持ちが荒れること。
2 勢いのままに激しさを加えること。
3 気の赴くままに物事をすること。気慰みに行うこと。
4 気の向くままに少しだけ食べること。
5 心の慰みにもてあそぶこと。興にまかせてすること。
6 勢いが衰えてやむこと。
7 荒れること。その状態。放置されること。
8 愛すること。心を寄せること。
9 嫌って遠ざけること。

古語辞典によるとだいたい以上の意味があります。愛することも
嫌うこともともに「すさび」なのですから、これでは正確に意味を
受け止めることは非常に困難です。
以下、意味の近似性を主体にして細分化しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 うなゐ子がすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏のひるぶし
         (岩波文庫山家集248P聞書集165番・夫木抄)

02 歎きあまり筆のすさびにつくせども思ふばかりはかかれざりけり
          (岩波文庫山家集157P恋歌・新潮1252番)

03 すさみすさみ南無ととなへしちぎりこそ奈落が底の苦にかはりけれ
             (岩波文庫山家集255P聞書集223番) 

○うなゐ子

子供の髪をうなじに垂らしてまとめた髪型のこと。
また、その髪型にした子供のこと。12.3歳頃までの髪型で、それ
以上の年齢になると髪をあげて「はなり」「あげまき」の髪型に
したそうです。
                     (広辞苑を参考)

○すさみにならす

気の向くまま、興に任せて鳴らすこと。

○麦笛

植物の麦の茎部分に切れ目を入れて、笛のように吹き鳴らすもの。

○ひるぶし
 
昼に臥していたということで、昼寝とか昼寝から目覚めた状態。

○南無

仏、菩薩への信仰、帰依を表すための言葉。

○ちぎり

因縁のこと。固い約束事を言います。

○奈落が底

落ちたら這い上がることのできない地獄の底のこと。深い穴のこと。

(01番歌の解釈)

「うない髪の子供が気ままに吹き鳴らす麦笛の声にはっと
目覚める、夏の昼寝。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「ひとりで嘆いてばかりもいられなくなって、筆に任せて恋文を
書いたりもするが、思いを尽くそうとしてもなかなか思うようには
書けないものだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「気ままに戯れて「南無」と唱えた生前の地蔵菩薩との因縁
こそは、奈落の底の苦に代わるものだったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

04 松にはふまさきのかづらちりぬなり外山の秋は風すさぶらむ
      (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮欠番・西行上人集・
        御裳濯河歌合・新古今集・玄玉集・御裳濯集) 

05 誰すみてあはれ知るらむ山ざとの雨降りすさむ夕暮の空
     (岩波文庫山家集196P雑歌・新潮欠番・西行上人集・
          宮川歌合・新古今集・玄玉集・西行物語)  

○まさきのかづら

「まさきのかずら」の古名は蔦蔓(蔦。ブドウ科の落葉植物)です。
和歌文学大系21では蔦蔓の一種の「サンカクヅル」としています。
サンカクヅルは「行者の水」という別名があります。
一説にテイカカズラのことを指すとも言われています。しかし
キョウチクトウ科のテイカカズラは紅葉する葉もありますが、ほぼ
紅葉しませんからテイカカズラではないと思います。

この歌にある「ちりぬなり」という表現などから見て、葉はある
程度大型のものを思わせます。テイカカズラなどのごく小さな葉を
言うには、ふさわしくない言葉でしよう。

○あはれ知るらむ

山里のわびしい情趣を知るだろうか…?、という意味。

(04番歌の解釈)

「松の木に這いかかっている正木のかづらの葉は散ってしまったよ。
もう秋も終りだから、さだめし里近い山の秋のこのごろは、風が
吹き荒れることであろう。」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(05番歌の解釈)

「いったい誰が住んでこの哀感を知るのだろうか。山里の雨が
激しく降る秋の夕暮のあわれさを。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

06 ながめつつ月にこころぞ老いにける今いくたびか世をもすさめむ
      (岩波文庫山家集83P秋歌・新潮欠番・西行上人集)

07 山里は庭の木ずゑのおとまでも世をすさみたるけしきなるかな
     (岩波文庫山家集197P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

○月にこころぞ

西行の心の核心的な部分を表白しています。自身の生を顧みての、
達観した姿勢での静かな独白の言葉です。

(06番歌の解釈)

「月をじっと見つめながら心はふけこんてしまった。あとどれほど
この世を厭わしく思いながら生きるのだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

「山里は庭の木の梢を吹く風の音までも世を厭わしく思っている
様子だなあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

08 もののふのならすすさびはおびただしあけとのしさりかもの入くび
          (岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1010番・
                西行上人集・山家心中集)

 新潮古典集成山家集では以下のようになっています。

 もののふの 馴らすすさみは 面立たし あちその退り 鴨の入首 

○ならすすさび

組手で対する時の技術に馴れるということでしよう。

○あけとのしさり

新潮古典集成山家集では「あちその退り」
不明。武道の技の名称の可能性があります。

○かもの入くび

相撲の技の一つ。首を相手の脇の下に入れて反り返るように攻める技。

(08番歌の解釈)

「武芸家というものは普段から大変な技を手慰みのように
こなしているものだ。あけとの退りとか鴨の入首とか、跳(と)
んだり跳(は)ねたり、反り返ったり。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

09 都にて月をあはれと思ひしは数より外のすさびなりけり
      (岩波文庫山家集75P秋歌・新潮418番・西行上人集・
             山家心中集・新古今集・西行物語) 

○数より外の

何百回、何千回と見て都の月はそれなりに哀れさを催したけれども、
旅路で見る月の哀れさから見ると都で見た月は、ものの数の内に
さえ入らないものであった…ということ。

(09番歌の解釈)

「都において月を見てあわれだなあと感動したのは、今旅宿で仰ぐ
月に比べれば、及びもつかぬ興趣であったよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

10    伊勢に人のまうで来て、「かかる連歌こそ、兵衛殿の局
     せられたりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」と
     語りけるを聞きて
 
  こころきるてなる氷のかげのみか
             (岩波文庫山家集256P聞書集228番)
○兵衛殿の局

生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛のこと。

藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。 
西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
自撰家集があったとのことですが、現存していません。

○いひすさみて

言うのみで実行しないこと。気慰みに言うだけのこと。

○てなる氷

剣の暗喩です。「理不尽な力」という意味も込めているはずです。

(10番連歌の解釈)

この10番連歌の付句の前に、兵衛局の以下の前句があります。

(兵衛局の前句) いくさを照らすゆみはりの月

(西行の付句)  こころきるてなる氷のかげのみか

「戦場を照らす弓張の月よ (前句)
「心を切る、手の中にある氷のような剣の刃の光ばかりか」(付句)
                (和歌文学大系21から抜粋)

【鈴鹿・鈴鹿山】

滋賀県と三重県の県境となっている鈴鹿山脈にある峠。山脈の最高
峰は御池岳(1241メートル)ですが、鈴鹿峠の標高は357メートル。
高くはないのですが、平安時代の街道のルートの一部は前を歩く
人の足を後ろの人は目の高さに見ると伝えられているほどに急峻
でもあり、また桟(かけはし)もあって、東海道の難所の一つでした。

この鈴鹿峠は古代から東海道の要衝でした。ただし鎌倉時代から
戦国時代は東山道の美濃路が東海道でした。江戸時代になって、
鈴鹿越えのルートが再び東海道のルートに組み込まれました。
東海道と関係なく、伊勢と京都をつなぐ交通路ですから、重要な
道であることに変わりはありませんでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     世をのがれて伊勢の方へまかりけるに、鈴鹿山にて

01 鈴鹿山うき世をよそにふりすてていかになり行く我身なるらむ
          (岩波文庫山家集124P羈旅歌・新潮728番・
             西行上人集・新古今集・西行物語) 

02 ふりず名を鈴鹿になるる山賊は聞えたかきもとりどころかな
             (岩波文庫山家集250P聞書集197番)

○世をのがれて

出家したということ。西行出家は1140年10月15日とみられています。

○うき世

浮世・憂き世。現世の世俗的な世界を指す言葉。

○ふりず名

古りず名か?。「名」では文法として誤りという指摘が和歌文学
大系21にあります。
名声とか評判が衰えることなく今も有名である・・・という
ほどの意味。

○山賊

読みは「やまだち」。山を本拠として、街道を通行する人々に危害を
及ぼす悪党達のこと。鈴鹿峠の山賊は大和の奈良坂などとともに有名。
似たような言葉に「山賎「がつ)」がありますが、山賎は山辺に
住んできこりなどを生業とする人たちのことを言います。

記録を見ると鈴鹿峠には古くから山賊による被害があって、906年にも
「鈴鹿山の群盗16人を捕える」と年表にあります。頻繁に往来して
いた水銀商人などはもちろんのこと、伊勢神宮に向かう勅使さえもが
襲われています。
鎌倉時代北条氏の治世になっても、鈴鹿山の山賊は盛んに活動して
いたようで襲われる旅人が多くて、北条氏はそのための対策を地頭に
命じています。旅人は鈴鹿峠を越えるのも命がけだったでしよう。
 
○とりどころ

捕りどころ、盗りどころ、取り得などの重層的な意味をこめている言葉。

(01番歌の解釈)

「都を捨てて鈴鹿山を越える。なりふり構わず憂き世は振り
捨ててきたが、明日の我が身はどうなるというのだろう。」

「俊頼譲りの縁語仕立てによる風情主義に、和泉式部の内省的
自意識を加味する。身の在り方を問い続ける起点としての出家
を詠んで、初期西行和歌の完成度を示す。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「出家直後の多感な青年僧の、自身の未来に対しての不安な心情を
直截に言葉に表していて、それは誰にも共感されるものでしよう。
何の保証もなく、不安な行く末ではあるけれども、こうした妙に
明るく、リズムの良い、浪漫ささえ感じられる一首を読むと、不安な
心情の中にも強固な意志力なり、決して悲嘆のうちに沈み込んでは
いない明るさなりが認められます。それは作者その人の人間性が
強く出ているということでもあると思います。」(阿部)

(02番歌の解釈)

「(ふり)(なる)(聞え高き)(とりどころ)などの語を
すべて鈴の縁語としているため、ユーモアが生じ、(略)山賊を
揶揄するかたちになっている。」
           (窪田章一郎氏著「西行の研究」336P)

「古くから有名であったが、今もなお高名な鈴鹿山の山賊は
その有名なのも一つのとりどころ(とりえ)なのであろう。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

【鈴虫】

秋に鳴くコオロギ科の虫です。体長は約二センチ。頭と胴体は小さく、
雄はリーンリーンと鳴きます。
松虫は主に草原に住んでチンチロリンと鳴きます。
当時は鈴虫とは松虫のこと、松虫とは鈴虫のことだという説も
ありますが、ここでは松虫のほうがふさわしいかもしれません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

      三昧堂のかたへわけ参りけるに、秋の草ふかかりけり。
      鈴虫の音かすかにきこえければ、あはれにて

01 おもひおきし浅茅が露を分け入ればただわずかなる鈴虫の聲
     (岩波文庫山家集186P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

02 草ふかみ分け入りて訪ふ人もあれやふり行く宿の鈴むしの聲
           (岩波文庫山家集65P秋歌・新潮460番)

○三昧堂

この場合は仏教を専修する堂のことをいいます
堂にこもって法華経を一心に唱えるという修行の場です。
他念を払って心を集中させて修行することを三昧といいますが、 
他のことごとであれ専念することを指してもいます。
例えば念仏三昧や悪業三昧や温泉三昧などという使われ方もします。
他には火葬場、墓場を三昧所ともいいます。

この直前にある詞書と歌によって、この三昧堂は藤原実能の徳大寺
にあったものだとわかります。

○おもひおきし

昔の出来事を偲ぶという意味。      

○浅茅(あさじ)が露を

まだ充分に生育していず、丈の短い茅に露が宿っている
状態を指します。

○ふり行く宿

「古り行く宿」で、朽ちていくばかりの家を言います。

(01番歌の解釈)

「なき人がいつまでも続くように思っていたこの寺の庭に
生い茂る浅茅の露を分け入ると、ただ僅かな鈴虫の聲だけが
聞こえる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「草がいっぱい茂ったため道も分らなくなってしまったが、
それを分けて訪れてくれる人もあって欲しい。鈴虫が声を
ふりたてて鳴いている、荒れ果ててゆく故郷を。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

崇徳(すとく)天皇→第186号「新院・讃岐の院・崇徳天皇」参照
     すたか→第43号「いらご・伊良胡が崎」参照
      捨てて後→第100号「・・・かた」参照
     すとほる風→第168号「しば・柴 (1)」参照
     すばえかし→第126号「木ゐ」参照
    すまう波に→第43号「いりとりのあま」参照
住ままほしくぞ→第159号「しか・鹿・かせぎ・すがる(2)」参照

【雀・すずめ貝・雀弓】

【雀】

ハタオリドリ科の留鳥です。現在は「スズメ科」に分類されつつある
ようです。
頭部から尾の先端までは15センチほど。尾を別にすれば10センチ未満。
日本では都市部でも農村部でも普通に見られる小鳥です。
稲を食べる為、古来より害鳥の代表格ですが、害虫を捕食することに
より益鳥の面もあります。
小型である所から少ないことを「スズメの涙」と形容されてもいま
すし、スズメの名詞を冠した言葉はたくさんあります。

【すずめ貝】

茶褐色の小さな海生の巻貝です。笠型の固い殻を持ち、殻長は
二センチ程のようです。房総半島以南に分布しています。

【雀弓】

幼児、少年がおもちゃとして使う、小さな弓。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 雪埋むそのの呉竹折れふしてねぐら求むるむら雀かな
           (岩波文庫山家集98P冬歌・新潮535番・
                  西行上人集・玉葉集)

02 波よする竹の泊のすずめ貝うれしき世にもあひにけるかな
          (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1195番・
              西行上人集追而加書・夫木抄) 

03 篠ためて雀弓はる男のわらはひたひ烏帽子のほしげなるかな
        (岩波文庫山家集248P聞書集169番・夫木抄)

○そのの呉竹

中国古代の「呉」から伝来した竹です。淡竹(はちく)の一種で、
葉が細く節が多く高さは10メートルにもなります。
内裏の清涼殿の東庭に植えられていたものが有名だったそうです。

竹には節があり、節と節の間を(節=よ)と言います。「呉竹の」
という言葉は(世)(夜)(伏し)などの言葉を導き出すための枕詞と
してあります。

○むら雀

雀の群れのこと。

○折れ伏して

竹は雪の重みに反発して跳ね返りますので、折れることはそんなに
ありません。それでも折れたということで豪雪を意味します。

○竹の泊り

石川県加賀市の河の河口付近を言うようですが、三重県多気郡の
伊勢湾に面した港との説もあって特定できません。
「平安和歌歌枕地名索引」でも「竹の泊り」歌はなく、どこであるか
特定不可だと思います。

○篠ためて

「篠」は群がって生える細い竹のこと。
全体に細く小さい竹のことです。笹なども篠竹になるようです。
その竹を弓状にたわめていること。

○男のわらは

「わらは」は幼少の子供。「男のわらは」は、幼い男の子のこと。

○ひたひ烏帽子

子どもが額につける烏帽子とのことです。
黒色の絹か紙を三角にして作って、髪を束ねるための実用性も
持つようです。
烏帽子は通常は元服した男子の略装用の被り物です。

(01番歌の解釈)

「雪が降り積もって埋めてしまった園の呉竹が、雪の重みに堪え
かねて折れ伏してしまい、群雀は他にねぐらを求めることだよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)  

(02番歌の解釈)

「波が打ち寄せる竹の泊でずらり並んだ雀貝を見つけた。
何だかいい世の中に生きていると思った。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

この歌は二条院内裏での貝合の時の歌で全部で9首あります。
「人にかはりて」と詞書にありますが、人とは誰かわかりません。
この貝合は内裏で1162年に行われたもののようです。
第78代二条天皇(1143〜1165)の治世を寿ぐ賀歌となっています。
それにしても出家してから20年程にもなる西行が、内裏での貝合の
場に同席できることが不思議と言えば不思議なことです。

(03番歌の解釈)

「篠竹をたわめ曲げて雀弓の弦を張っている男の子は、いかにも
額烏帽子を欲しそうな様子だよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【すずろ】

「そぞろ」のこと。そわそわした気持のこと。
心が、なんとなく訳もなく浮ついているような状態のこと。
なんとなく心が引かれる状態。
思いがけないこととか、むやみであるという意味も含まれます。
               
02番歌は、鷹には鈴を付けますので、その鈴と、そわそわしないと
いう意味の「すずろ」を掛け合わせています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 おぼつかな秋はいかなる故のあればすずろに物の悲しかるらむ
           (岩波文庫山家集62P秋歌・新潮290番・
    西行上人集追而加書・新古今集・御裳濯集・西行物語) 

02 はし鷹のすずろかさでもふるさせてすゑたる人のありがたの世や
         (岩波文庫山家集127P羈旅歌・新潮1390番)

○はし鷹

鷹狩に用いる小さめの鷹。ワシタカ科の鷹です。

○ふるさせて

鈴を振るということと、古くさせるということ(体験を積んで、より
習熟させること)を掛けています。

○すゑたる人

鷹狩の鷹として立派に役目を果たせるように鷹を訓練する鷹匠の
ことです。鷹匠は自分の腕に鷹を止まらせて訓練します。

○ありがたの世や

訓練に長けた人が少ないので、それだけ希少の価値があると
いう意味。

(01番歌の解釈)

「はっきり何故と分らず心もとないことであるが、いったい秋は
どういうわけでむやみともの悲しいのだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「手に止まらせたはしたかがそわそわしないよう十分に訓練させ
られる達人も、最近はめっきり少なくなった。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

************************************************************