もどる

すえ〜すず   すな〜すわ


  すなわとまうす物・須磨、須磨の関守・炭窯・墨染めの袖・隅田河原・
  住吉・住吉の岸・住之江・菫・諏訪

【すなわとまうす物】

「墨縄」が転化した言葉です。
大工などが木材に直線の目印を付けるとき、墨壺という道具を使い
ます。墨壺には墨を染みこませた糸があり、その糸を片方に固定して
もう一方にまで伸ばしてから木材に打ち付けるように目印を付けます。
この歌は罪人の身体を切り割りするための目印を墨縄で罪人の体に
付けるということです。

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      すなわとまうす物うちて身を割りけるところを

01 つみ人は死出の山辺の杣木かな斧のつるぎに身をわられつつ
        (岩波文庫山家集251P聞書集205番・夫木抄)

○死出の山

死者がたどるべき険しい山の道。冥途の山のこと。

○杣木

山から伐り出されたばかりの木材のこと。切断したり燃やしたりする
ことを暗示させる言葉です。

○斧のつるぎ

斧の頑丈な刃を剣に例えたとのことです。

(01番歌の解釈)

「罪人は死出の山辺の杣木だな、剣のような斧の刃で身を
割られていることよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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【須磨・須磨の関守】

摂津の国の歌枕。須磨は神戸市の西部にある地名で古くは播磨の国
との境界です。須磨までが摂津の国、須磨から西は播磨の国です。
現在の地名は神戸市須磨区。
須磨は万葉集にも詠われていますが、源氏物語の「須磨」「明石」
の影響も大きく、塩焼、千鳥、月などの言葉を詠みこんだ歌が多く
詠われました。
古代山陽道の関が設置されもていて、和歌には須磨の関の歌もよく
詠まれています。

 友千鳥もろごゑに鳴くあかつきはひとり寝覚めの床もたのもし
           (紫式部「源氏物語・須磨」から抜粋)

 淡路島かよふ千鳥の鳴く声に幾夜寝ざめぬ須磨の関守
               (源 兼昌 百人一首78番)

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01 あはぢ潟せとの汐干の夕ぐれに須磨よりかよふ千鳥なくなり
           (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮549番・
                 西行上人集・山家心中集) 

02 月すみてふくる千鳥のこゑすなりこころくだくや須磨の関守
            (岩波文庫山家集276P補遺・宮河歌合)

03 播磨路や心のすまに関すゑていかで我が身の恋をとどめむ
           (岩波文庫山家集154P恋歌・新潮697番)

○あはぢ潟

淡路島にある干潟のこと。現在は兵庫県ですが、当時は淡路国と
して淡路島全体で一国でした。

○せとの汐干

海水が引く事。干潮のことです。(せと)とは陸と陸に挟まれた
海峡のことです。ここでは明石海峡を言います。
淡路島は須磨から指呼の間にあります。

○ふくる千鳥

「ふくる」は、ちょっと分からない表現です。
中央大学図書館蔵本では「深くる千鳥」となっています。
月光が照り映えて一日が終わろうとする頃に、あくまでも静謐な
情景の中で飛び行く千鳥の声がかすかに聞こえるということであり、
「ふくる」は余情を感じさせる表現なのかもしれません。

○播磨路

山陽道播磨の国の道のこと。

○心のすまに

「心の隅」と「心の須磨」を掛け合わせていますが、わざとらしい
無理のある表現だと思います。
古語辞典を調べても「隅」を「すま」と読む用例はないようです。

(01番歌の解釈)

「淡路島では、瀬戸の潮干で陸と陸の間が近くなった夕暮、須磨
から通って来るのだろう、千鳥の鳴く声が聞こえてくるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「月が澄みわたり夜が更けて千鳥の声がしているよ(しているらしい)
その声にめざめて、いろいろ心をくだき、千々に物思いする須磨の
関守りよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(03番歌の解釈)

「播磨路では須磨の関で人を引き留めるが、心の片隅にでも関を
据えて何とか我が心が恋に暴走するのを押しとどめたいものである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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【炭がま】

木材を蒸し焼きにして木炭を作る窯のことです。耕作に適した土地
ではいろんな農産物が作られましたが、山深い里では炭が主な生産物
でした。京都の大原は炭の産地として有名でした。
炭窯から立ち上る煙が山里のわびしさや冬の厳しさを表徴する景物と
して詠まれています。

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01 限あらむ雲こそあらめ炭がまの烟に月のすすけぬるかな
           (岩波文庫山家集103P冬歌・新潮547番)

     大原に良暹がすみける所に、人々まかりて述懷の歌
     よみて、つま戸に書きつけける

02 大原やまだすみがまもならはずといひけん人を今あらせばや
   (岩波文庫山家集190P雑歌、266P残集19番・新潮1047番・
                  西行上人集・西行物語) 

     大原に侍りけるすみやきのまうて来けるか、うせに
     けれは、子にてはへりけるものの、かはりてまうて
     来けり。それもなくなりて、まこにてはへりける
     ものの、かはらすまうて来けるを

03 つつきつつあるもなくなるあとの人のまたくる人につつくなりけり
                     (松屋本山家集)

04 炭がまのたなびくけぶりひとすぢに心ぼそきは大原の里
   (寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1210番)

○雲こそあらめ

ずっと出続ける炭窯の煙も、雲のように月にかかっても消えたら
いいのになあという意味。炭窯の煙を疎ましく思う気持ちが
「雲こそあらめ」という言葉になっています。

○すすけぬる

すすで黒く変色すること。

○大原

京都市左京区にある地名です。京都市の北東部に位置し、市街
地とは離れています。
 
「平安時代初期に慈覚大師円仁が天台声明の根本道場として、
魚山大原寺を開いて以来、比叡山を取り囲む天台仏教の中心地の
ひとつとなった。男女を問わずこの地に出家隠棲する人々は多く、
また比叡山の修行僧が遁世する地ともなった。」
          (三千院発行「三千院の名宝」から抜粋)

大原には寂光院、三千院、来迎院、勝林院などの古刹があります。

○良暹

良暹法師は後拾遺集初出歌人ですが、その経歴については詳らかで
はありません。後拾遺集に十四首が入っています。そのうちの一首
が百人一首第七十番に採られている下の歌です。

 さびしさに宿をたち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮
                (良暹法師 百人一首第70番)

生没年未詳。川村晃生氏校註の後拾遺和歌集によると、998年頃から
1064年頃まで存命。67歳頃に没したと見られています。叡山の僧で、
祇園の別当職に就任したこともあるようです。
後拾遺集のほかに金葉集・詞花集・新古今集などの撰入歌人です。
                
○つま戸

(1)家の端にある両開きの板戸。
(2)寝殿造りの四すみに取り付けられた板の両開き戸。
             (平凡社「日本語大辞典より引用)

○いひけむ人

言った人。良暹法師を指します。

○今あらせばや

生きていて、今この場にいてくれたら…という西行の願望の言葉。

○かはらすまうて来ける

この歌は実話だろうと思います。
西行の佐藤家が炭の生産農家と契約していたものと思われます。
取り決めていた通りに大原で焼いた炭を三条坊門室町東にあった
佐藤家まで届けていたということが伺われます。それは何度か
代替わりしても続けられていたようです。

(01番歌の解釈)

「限りある雲が覆うだけならまだしも、炭を焼く煙までかかり、
月はすっかりすすけてしまったなあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番詞書の解釈)

良暹法師が住んでいて、「大原やまだすみがまもならはず・・・」
という歌を詠った住処の跡を見に行こうという話になって、人々と
共に行って、それぞれに思いを歌にして、つま戸に書き付けました。」

(02番歌の解釈)
 
「大原やまだすみがまもならはず・・・」という歌を詠んだ良暹
法師が、今、ここにいて下さったらなあ。」
                      (筆者の解釈)

下は詞花集巻十にある良暹法師の歌です。

 おおはらやまたすみがまもならはねば我やどのみぞ煙たえたる
              (良暹法師 詞花和歌集363番) 

(03番歌の解釈)

「昔の炭焼きの老人に続いてやってきて元気でいた息子もなく
なり、そのまた子供がやってくるという具合に幾世代も続いて
いくのだなあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

(04番歌の解釈)

「炭を焼く炭窯の煙が細く一筋になびき流れていますが、その
ようにひたすら心細いのは、大原の里であることです。」
      (寂然法師歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

  栖とすれば→第137号「心地 03」参照
すみ捨てし→第136号「心地 02」参照
住みそむる→第97号「かたおもむき・かたおやぬし」参照
     すみのぼる→第160号「しか・鹿・かせぎ・すがる(3)」参照
     
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【墨染めの袖】

「墨染め」だけであれば、夕方、たそがれ、などに掛かる枕詞です。
「墨染めの袖」で、墨染めの衣の袖を言います。
「墨染めの衣」は墨色、黒色に染め上げた衣のことであり、僧衣や
喪服を表します。藤衣も喪服を意味します。
「墨染めの袖」は「苔の袂」とほぼ同義であり、「露」の言葉と
結びついて用いられている場合は、喪にとどまらず、原因は何で
あれ悲しいこと、悲しい果ての涙を暗示します。

墨染めの衣は墨を染料としていますが、橡(ツルバミ)、五倍子(ブシ)
などの植物も用いられるそうです。
            (平凡社「京の色辞典330」から引用)

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     をざさのとまりと申す所に、露のしげかりければ

01 分けきつるをざさの露にそぼちつつほしぞわづらふ墨染の袖
         (岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮918番)

02 いにしへのかたみになると聞くからにいとど露けき墨染の袖
         (岩波文庫山家集207P哀傷歌・新潮812番)

02番歌は1162年に66歳で没した藤原成通の遺族との贈答歌の1首
です。この時、西行45歳でした。

○をざさのとまり

奈良県吉野郡天川村にあります。大峰奥駆道の75靡(なびき)中
の第66番の小篠宿のことです。
ここは醍醐寺派(当山派)の本拠地で、往時には三十六軒の坊舎
が軒を並べていたそうです。現在は二坪程度の本堂と護摩道場
のみとのことです。
     (山と渓谷社刊「吉野・大峯の古道を歩く」を参考)

○そぼちつつ

濡(そぼ)つこと。ぐっしょりと濡れること。

○ほしぞわづらふ

濡れた衣類を、干して乾かすことが難しいということ。

○いにしへのかたみ

過ごしてきた過去の思い出などを言います。二度と帰ることの
できない往時の大切な出来事などのこと。
具体的には主に蹴鞠の師匠と弟子としての昔日の思い出をいう
ものと思います。

(1番歌の解釈)

「小篠の泊りでは、小笹を分けて来てその露に濡れそぼちながら
墨染の袖を干しわずらうよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「亡き師の形見と思っていただくと聞くだけで、出家の身であり
ながら師との俗縁の深さに涙は一層募ります。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(成通と西行)

 藤原成通とは以下の贈答歌があります。

    秋、遠く修行し侍りけるほどに、ほど経ける所より、
    侍従大納言成道のもとへ遣しける

01 あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ
          (岩波文庫山家集133P羇旅歌・新潮1082番・
     西行上人集・続拾遺集・万代集・雲葉集・西行物語)
               
02 何となく落つる木葉も吹く風に散り行くかたは知られやはせぬ
    (藤原成通歌)(岩波文庫山家集133P羇旅歌・新潮1083番・
                  西行上人集・西行物語)
 
    侍従大納言成通のもとへ、後の世のことおどろかし申し
    たりける返りごとに               
 
03 おどろかす君によりてぞ長き夜の久しき夢はさむべかりける
(藤原成通歌)(岩波文庫山家集175P雑歌・新潮730番・続後撰集)

04 おどろかぬ心なりせば世の中を夢ぞとかたるかひなからまし
     (岩波文庫山家集175P雑歌・新潮731番・続後撰集)

(藤原成通)

1097年誕生。1162年没。権大納言藤原宗通の子。
侍従・蔵人・左中将を経て1143年に正二位。1156年に大納言。
1159年に出家。法名は栖蓮。家集に成通集があります。
詩歌、蹴鞠に秀でていたことが「今鏡」に記述されています。
蹴鞠は「鞠聖」とも言われ「成通卿口伝日記」に蹴鞠のことが
書かれているそうです。蹴鞠の名手と言われた西行も成通から
蹴鞠をならっており、以後、親交のあったことがわかります。
成通は1160年に藤原隆信とともに美福門院の遺骨を高野山に
持って行って納めています。その時に西行も立ち会ったことが、
204ページの哀傷歌からもわかります。

西行との贈答の歌の作歌年代は、両作ともに成通が大納言と
なった1156年以降のものです。
       
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【隅田河原】

関東平野を流れている荒川が、武蔵の国の東部を貫流する部分に
ついて付けられた名称が隅田川です。今日のこの川は流れている
区間によって大川などの別称を付けられているようです。
平安時代は武蔵の国と下総の国を隔てる川でした。その河原のこと。

「武蔵の国と下つ総との中にいと大きなる河あり。それをすみだ
河といふ。」
と、伊勢物語第九段に書かれています。

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01 むかしおもふ心ありてぞながめつる隅田河原のありあけの月
            (岩波文庫山家集280P補遺・雲葉集)

○ありあけの月

(有明)
まだ明けきらぬ夜明けがたのこと。月がまだ空にありながら、
夜が明けてくる頃。月齢16日以後の夜明けをいう。

(有明の月)
夜明けがたにもまだ空に残っている月のこと。

(01番歌の解釈)

「昔のことをいろいろと思う心があって、特になつかしくながめた
ことだ。隅田河原のありあけの月は。(業平のことなど考えたの
であろう。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

この歌は1253年頃に成立した藤原基家撰の雲葉和歌集にのみあり
ます。異本山家集や夫木抄にもありませんので、西行詠歌と
信じるだけの根拠は弱く、窪田章一郎氏の「西行の研究」でも
触れていません。
渡部保氏は「むかしおもふ」を、伊勢物語第九段に描かれている
昔のことと解釈されています。しかし初度の陸奥行脚の時に対し
て「むかしおもふ」であっても差し支えなく、その可能性も捨て
切れないと思います。そうであればそのまま、この歌は再度の
陸奥旅行の時の歌である可能性があると言えます。

この項は26号「ありあけの月」に既出ですが、少し改稿した上で
再度記述します。

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【住吉・住吉の岸・住之江】

摂津の国の歌枕。地名でもあり、住吉大社をも指します。住吉大社は
摂津の国の一宮社です。
この大社は西行の時代は海に面していましたが、現在は海から7キロ
ほども隔たった所にあり、平安時代とは様変わりしています。
それだけ埋め立てて陸地を造成したということになります。

海上安全を祈願する航海の神として著名ですが、和歌の神としても
知られています。柿本の神、玉津島の神とともに和歌三神として
讃えられていて、その筆頭です。 
様々な古書に登場しますし、世俗の荒波を受けてはいますが、それ
でも現在も神さびた神域を感じさせる古社です。

「住之江」は住吉大社のあるあたりの江(入江、湾、海岸)のことです。
古来、住吉とほぼ同義に使われて来て、明確な区別はありません。

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01 かずかくる波にしづ枝の色染めて神さびまさる住の江の松
         (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1180番)

     人々住吉にまゐりて、月をもてあそびける

02 片そぎの行あはぬ間よりもる月やさして御袖の霜におくらむ
          (岩波文庫山家集76P秋歌・新潮409番・
                 西行上人集・夫木抄)

03 波にやどる月を汀にゆりよせて鏡にかくるすみよしの岸
          (岩波文庫山家集76P秋歌・新潮410番・
             西行上人集追而加書・夫木抄)

     俊恵天王寺にこもりて、人々具して住吉に
     まゐり歌よみけるに具して

04 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
         (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1054番・
      西行上人集・山家心中集・続拾遺集・西行物語)

     承安元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひける
     ついでに、住吉に御幸ありけり。修行しまはりて
     二日かの社に参りたりけるに、住の江あたらしく
     したてたりけるを見て、後三條院の御幸、神も
     思ひ出で給ふらむと覚えてよめる

05 絶えたりし君が御幸を待ちつけて神いかばかり嬉しかるらむ
         (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1218番・
                西行上人集・山家心中集)
 
     松の下枝をあらひけむ浪、いにしへにかはらずや
     と覚えて

06 古への松のしづえをあらひけむ波を心にかけてこそ見れ
         (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1219番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)

○かずかくる

数えきれない程多くの波がかかること。

○しづ枝

植物の下枝のことです。上枝を(ほつえ)、中枝を(なかつえ)
といいます。
歌によって(しずえ・したえ・したえだ)と読み替えています。

○神さびまさる

神域の荘厳さが強いということ。ことのほか神々しいこと。

○片削ぎの千木

片側を人工的に削いでいるということ。
「行きあい」の言葉を導き出すための枕詞です。
神社の建築物の屋根にある「千木」にかかる言葉のようです。
千木は男性神の場合は外側に垂直に切り、女性神の場合は水平に
切るとのことです。
住吉大社では神宮皇后を祀る第四本宮の千木が水平になっています。
和歌では「片削ぎの千木」とは住吉大社を特定するようです。

○行あはぬ間

千木の両方の間にある空間を指すものと思います。

○俊恵

1113年出生、没年は不詳ですが1191年頃とみられています。
西行より5年早く生まれ、1年は遅く没しています。
父は源俊頼、母は橘敦隆の娘です。早くに出家して東大寺の僧と
なったのですが、脇目もふらずに仏道修行一筋に専念してきた僧侶
ではありません。僧の衣をまとっていたというだけで僧侶らしい
活動はほとんどしなかったようです。自由な世捨て人という感じ
ですが、多くの歌人との幅広い交流がありました。

白川の自邸を「歌林苑」と名付け、そこには藤原清輔・源頼政・殷富
門院大輔など多くの歌人が集って歌会・歌合を開催しました。
歌林苑サロンとして歌壇に大きな影響を与えたともいえます。
「詞花和歌集」以降の勅撰集歌人。家集に「林葉和歌集」があります。

小倉百人一首第85番に採られています。

 よもすがらもの思ふころは明けやらぬ 閨のひまさへつれなかりけり
       (俊恵法師「千載和歌集」765番・百人一首85番)

○天王寺

摂津の国の四天王寺のことです。俊恵が天王寺籠りをしていました。
四天王寺の本尊は救世観世音菩薩ですから観音信仰による堂籠りを
したということです。
四天王寺は日本最初の官製のお寺です。

○承安元年

1171年のことです。この年、嘉応の元号は1171年4月21日まで。
同年同日から承安元年となります。第80代高倉天皇の治世に
あたります。高倉天皇は後白河天皇の皇子です。
後白河院は5月29日に京都を立ち、6月1日に住吉大社に詣で、
熊野に向かい、京都に帰りついたのは6月21日ということです。
すごいというしかない強行軍です。
西行は1171年6月2日に住吉大社に参詣したことになります。

○院

後白河院のこと。

○住吉に御幸

後白河院が1171年6月1日に住吉大社に詣でたことを指します。

○あたらしくしたてたり

社殿が新しく造りかえられたことをいいます。

○後三條院

第71代天皇。1034年〜1073年。40歳で崩御。
後三條院の1073年2月。母の陽明門院と岩清水・住吉・天王寺に
御幸しています。同年5月、後三條院没。

○絶えたりし

1073年の後三條院の御幸以来、天皇や院は住吉大社に参詣して
いなかったようです。ほぼ100年ぶりの参詣ということです。

○古への松

後三條院の御幸に随行した源経信の下の歌にある「松」を意識して、
詠まれた歌です。住吉大社での歌会でのものです。
源経信は源俊頼の父親です。

 沖つ風吹きにけらしな住吉の松の下枝を洗ふ白波
              (源経信 後拾遺集1063番)

(01番歌の解釈)

「何度も繰り返し波がかかり、松の下枝は波の色に染まって白く
なった。住吉神社の松はますます神々しく感じられる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈) 

「住吉大社の片削ぎの千木を漏れる月が、あまりに冷たく美しい
から神の袖に霜が降りたように見えるのだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「波にうつる月を汀にゆり寄せて、まるで神殿の鏡として
懸けたようにみえる住吉の岸だよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「住吉の松の根を洗うようにうち寄せる波の音を、梢にも懸け
松風に響かせる沖の潮風よ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

「後三條院の親拝以来絶えていたが、この度の後白河院の御幸を
待ち迎えられ、住吉明神はどんなに嬉しく思っておいでのこと
だろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)
 
「後三条院御幸の時には経信の名歌が生まれました。松の下枝を
洗ったであろう、あの歌の白波を思い浮かべながら、波の美しさに
見入っています。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

       すむらむ→第126号「こいけ」参照
     「井蛙抄」と鴫立つ沢→第161号「鴫」参照
      蜻蛉の池→第163号「地獄・地獄菩薩」参照

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【すみれ・菫】

日本には約50種以上が自生するというスミレ科スミレ属の総称です。
高さ5センチから20センチ程の多年草で山野に生えます。
大きく分類すると有茎種と無茎種に分かれていて、花はともに五弁花。
花期は3月から6月頃までで、俳句では春の季語となっています。
タチツボスミレ、マルバスミレ、シハイスミレ、キスミレ、エイザン
スミレなどがあります。スミレ色とは濃い紫色を言います。

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01 古郷の昔の庭を思ひ出でてすみれつみにと来る人もがな
          (岩波文庫山家集40P春歌・新潮欠番・
                西行上人集・御裳濯集)

02 あとたえて浅茅しげれる庭の面に誰分け入りて菫つみけむ
          (岩波文庫山家集40P春歌・新潮159番)
 
03 誰ならむあら田のくろに菫つむ人は心のわりなかりけり
         (岩波文庫山家集40P春歌・新潮160番・
             西行上人集追而加書・夫木抄)

04 菫さくよこ野のつばな生ひぬれば思ひ思ひに人かよふなり
         (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1015番・
             西行上人集追而加書・夫木抄)
 
05 つばなぬく北野の茅原あせ行けば心ずみれぞ生ひかはりける
     (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1444番・夫木抄)

○古郷

過去に住んでいたことのある家、その土地のことです。
   
○あとたえて

普通は継承する血筋の人がいなくなって…と思わせますが、
ここでは、訪れる人もいなくなって…という意味。

○浅茅

イネ科チガヤ属。丈の低いチガヤ(茅萱)のこと。または、
まばらに生えているチガヤのこと。

○あら田のくろ

(あら田)
荒田のこと。耕すことをしなくなったために荒れている田。歌意
からみて(新田)ではなくて、荒れた田であると解釈できます。
(くろ)
田と田を区切っている畔(あぜ)のこと。あぜ道のこと。

○わりなかりけり
 
ことわりが無いこと。道理に合わないこと。
新潮日本古典集成では(やるせない、並一通りではない、の意)
と記述。

結句及び第四句がいささか唐突の感じが否めず、わかりにくい
歌であると思います。

○よこ野

現在の大阪市生野区あたりにあった地名と言われます。
生野区巽南に横野神社がありましたが、現在は合祀されて
「巽神社」となっています。

○つばな
 
チガヤのこと。(つばな)はチガヤの別名。イネ科の多年草。
初夏に咲き、葉は50センチほどの長さになる。春の末に葉に
先立って生じる花穂のことを特に(ツバナ)と言います。
花穂のツバナは薬用にも食用にもなっていたそうです。

○北野

内裏の北に広がる洛北七野の一つです。洛北七野とは、平野、
北野、〆野、上野、内野、蓮台野、紫野を言います。
(別説があり、〆野の代わりに萩野か御栗栖野を入れています。)
北野は北野天満宮のある辺りを指す地名です。歌にある「北野」は
この北野を指すものと思います。

○あせ行けば

茅の原が褪せる事。茅の原が目立たなくなること。
つばなを抜いていけば行くほどに残りも少なくなって、みごとな
茅原もすっかり褪せたものになったというほどの意味です。
はっきりとわかりませんが、当時はツバナを食用にも薬用にもした
そうですから、その目的のためにツバナは盛んに収穫されていたの
かもしれません。

○心すみれぞ

心が澄むということと、すみれの花を掛けている言葉。

(01番歌の解釈)

「古里の庭の昔の有様を思い出して、すみれを摘みにと
訪れて来る人がいてほしいなあ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「人の訪れも絶えて久しく、浅茅が一面に生い茂って道の
跡さえ分からなくなってしまった庭にも、春は分け入って
菫の花を咲かせた。その春と同じく誰が庭に分け入って
菫の花を摘んだことであろうか。」
             (新潮古典集成山家集より抜粋)

(03番歌の解釈)

「誰なのであろう。あの人の耕さぬ荒れた田の畦道にすみれを摘ん
でいる人は、あの人はきっと昔のことを思い出して心にたえきれ
ぬ痛切な思いがあるにちがいない。
すみれ摘むー懐旧の思いを伴う動作。」
       (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

(04番歌の解釈)

「菫が咲く横野の茅花が咲いたので、菫を見ようとする人、茅花の
穂を摘もうとする人、それぞれ思い思いに通うようである。」
             (新潮古典集成山家集より抜粋)

(05番歌の解釈)

「北野で鬱蒼とした茅原の茂みが疎らになって、その代わりに
菫が生えてくる春になると、日当たりのせいか心まで明るく
澄んでくるようだ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

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【諏訪】

現在の長野県諏訪市のことです。長野県の旧国名は信濃の国。
(諏訪のみづうみ)は諏訪湖のこと。冬季の御神渡りで有名です。
諏訪湖の少し北を江戸時代の中山道が通っています。

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01 春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ
          (岩波文庫山家集148P恋歌・新潮607番)

02 とぢそむる氷をいかにいとふらむあぢ群渡る諏訪のみづうみ
            (岩波文庫山家集277P補遺・夫木抄)

○諏訪のわたり
 
「わたり」はその土地のことであり、諏訪の土地、集落という
意味の「わたり」と、御神渡りの「わたり」を掛けています。

○つらら

気温が0度以下になって水分が凝固した状態で、垂れている氷です。
気持がつらい、苦しいということを響かせている言葉です。

○いとふらむ

厭うこと。不快に思うこと。いやがること。
「諏訪のみずうみ」の擬人化でもあり、「諏訪湖」と「味鴨」の
両方ともに嫌がっていると思わせる表現です。

○あぢ群

「あぢ」は渡り鳥の(トモエガモ)のこととみられています。
トモエガモの群れが飛んでいる様子のことです。

(01番歌の解釈)

「春を待っていると、御神幸により氷が解けて春になるという
あの諏訪のわたりもあるのに、自分はいったいいつまで恋しい
人の氷のようにつめたい心が解けるのを待ったらよいのだろうか。
いつとも分らずまことにつらいことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「冬が来て湖面にはりはじめる氷をどんなにいやがっていること
だろう。その味鴨の群れて飛んでいる諏訪の湖よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(諏訪湖と諏訪社)

諏訪湖は長野県中部の諏訪市にあります。静岡県で太平洋に注ぐ
天竜川の水源です。最深部は八メートル程度。冬季は結氷して
スケート場にもなります。
 
冬季、この湖は氷が膨張して競りあがる「御神渡」が有名です。
諏訪大社上社の男神が諏訪大社下社の女神に逢いに行く道筋だと
いう伝承があります。

「冬になって諏訪湖が凍る時にできる氷堤を諏訪明神御神幸の
跡とし、春にも同様の御神幸があり、それ以後は氷が解けて渡れ
なくなると信じていた。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

諏訪大社は信濃の国の一宮。官幣大社従一位。全国に一万社ほど
の分霊社があります。
創建についてはつまびらかではないようですが、652年にはすでに
記録がありますから、日本有数の古い神社と言えます。
上社が本宮、前宮の二社があり、諏訪湖の南岸から少し離れた位置
にあって、本宮は諏訪市、前宮は茅野市にあります。
諏訪大社下社は諏訪湖の北岸すぐにあり、春宮、秋宮の二社です。
合計四社。諏訪湖を挟んで上下社が対峙するような形で鎮座して
います。
上社は男神の建御名方神(タケミナカタノカミ)、下社は八坂刀売命
(ヤサカトメノミコト)を祭神としています。この建御名方神は
古事記の国譲りの神話に出て来る神です。
例祭は十二支の申年と寅年の六年に一度行われます。「御柱祭」と
言われて有名な祭りです。
  
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