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鳥羽 撮影 2005年4月29日
関連ページ メルマガ 14号 京都写真集
◎ 恋塚寺 (下鳥羽城の越町)
文覚と袈裟御前の伝承を伝えるお寺ですが、あいにくと当日はお寺は工事中で堂宇は
全くありませんでした。どこかに移築されるのかどうか・・・。かろうじて、下の画像にあるものが
残っていました。袈裟御前と文覚の木像もあるのですが、どこかに保管されているのでしょう。
下は1647年に林羅山が記した石碑です。読みにくいです。興味のある方は連絡していただけ
れば、解説します。
二枚目は本堂に乗せられていた亙だと思います。江戸時代の様式美を伝える亙では
ないでしょうか。
三枚目は圓光大師法然上人の親筆を文覚が建立したと伝えられる石板碑。六字名号石と
言われます。
最後は袈裟御前の五輪塔です。
◎ 城南宮 (伏見区鳥羽離宮町)
鳥羽の南殿
白河天皇が造営した鳥羽離宮の南殿御所のことです。1087年に初めて
南殿御所に遷幸がありました。離宮の中でも最初に築造されました。
離宮には南殿のほかに泉殿、北殿、馬場殿、東殿が作られています。
鳥羽天皇は田中殿を作りました。院政を行った離宮です。
ちなみに、それぞれに配された侍の人数は北殿75人、南殿17人、泉殿
8人の合計100名です。1090年の記録ですから当然に佐藤義清は入って
いません。余談ですが平清盛が後白河天皇を幽閉したのもここでした。
下は南殿跡などの画像です。
城南宮
史誌上の初見は925年ですが、それより早くに建立されていたことは
確実のようです。794年の平安京遷都にあたり、南方で平安京を鎮護
する城南明神として、崇敬を集めたようです。
平安末期、白河天皇・鳥羽天皇の鳥羽離宮(城南離宮)に組み込まれて、
「都移り」とも言われたように殷賑をきわめました。多くの貴族の別邸も
付近に建てられたようです。西行も敷地を与えられて別邸を構えていた
ということが伝えられています。(後の西行寺のこと)
定家卿の「明月記」では城南寺と記述されています。
当時、競馬(くらべうま)流鏑馬(やぶさめ)がここで盛んで、後鳥羽
天皇はこの行事にことよせて、承久の変の際の兵を集めたようです。
城南宮は応仁の乱で衰退します。時代が下がって、江戸時代末期の
「鳥羽・伏見の戦い」は、このあたりが中心地になりました。
庭園は楽水宛と呼ばれます。別名、神宛です。この庭園で4月29日と
11月3日に午後2時から「曲水の宴」がとり行われ、その模様はテレビ
放映されます。この庭は源氏物語に出てくる花が植栽されています。
美しい庭です。鳥居前の「菊水若水」はお勧めでしょうか。一味違います。
下は城南宮の画像です。
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