いく〜いす | いせ〜いそ | いた〜いと | いな〜 |
【いたきかな】 【いたけれど】(山、248・220)
【いたきかな】
この(いたきかな)の解釈については苦慮しています。
普通は「身体的、精神的に苦しいと感じる感覚」を(痛い)と言い
ますが、それではこの一首は意味不明のものになります。
この歌では(痛み)が具体的なものとして伝わってきません。むし
ろ楽しんでいるような感じさえ覚えます。ですから通常の「痛い」
という感覚とは違うはずです。
1 身体に痛みを感じること
2 心に苦しく感じること
3 いたわしいこと・哀れに思うこと
4 はなはだ良い・すぐれて良い・すばらしいこと
5 はげしく・はなはだしく・ひどく
(広辞苑第二版を参考)
広辞苑では1・2・3番と4番では正反対のことを指し表していると
いってもいいでしょう。
恐縮することを表す言葉に(痛み入る)とも言いますし、また、
子どもの美しくてかわいらしいことを指して(いたいけない)とも
言います。心が嬉しさや、ある種の感動に満たされて飽和状態に
なって、その満ち満ちている状態を(痛い)としても、まったく
不思議は無いと思います。だから、痛いという言葉が肉体的、精神
的な痛苦だけを指しているわけではなくて、むしろその逆の場合
にも多く用いられていただろうと思います。
【いたけれど】
(いたく)に(けれど)が付き、(けれど)は前言の打消しや、
補足説明のためなどに使われます。
この歌の場合は(いたい)で「とてもすばらしいことだ」、
(けれど)が付くことによって「とてもすばらしいことだ。だけど
・・・」という意味合いになります。
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1 いたきかな菖蒲かぶりの茅卷馬はうなゐわらはのしわざと覚えて
(岩波文庫248P聞書集)
2 かぐら歌に草とりかふはいたけれど猶其駒になることはうし
(岩波文庫220P釈教歌・新潮899番)
○菖蒲かぶり
習俗の端午の節句を表しています。端午の節句に幼い子ども達が
菖蒲で兜などの形に織ったものを被っていたということです。
この歌の場合は茅で巻いた馬に菖蒲を被せたということです。
この菖蒲は「あやめ」ではなくて「しょうぶ」と読みます。
○茅巻馬
端午の節句の子供の玩具の一つです。茅や菰を利用して馬の形に
かたどって作った工作品です。
○うなゐわらは
(うなゐ)は子供の髪型のこと。髪をうなじで束ねた髪型。または
うなじの辺りで切り下げておく髪型。(うなゐ)は(うなじ)に
通じるものでしょう。
(わらは)は童のことであり(うなゐわらは)は、うない髪にした
幼い子供という意味です。
○かぐら歌
神楽とは神を祀る神社などで神前に奏される舞楽のことです。
現在でもたくさんの地域で神楽が行われています。九州の高千穂
神楽などが有名です。
神楽歌は神楽舞のときに奏でる音曲です。
○猶其駒
ここでは「その駒ぞや我に我に草乞ふ草は取り飼はむ水は取り
草は取り飼はむや」という神楽歌を指しているそうです。
○うし
(憂し)です。憂いのこと。イヤだなあと思う気持です。
(1番歌の解釈)
「大したことだ。菖蒲をかぶせた、茅を巻いて作った茅巻馬は
幼い子供のしわざと思われて。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
「すばらしいなあ、菖蒲をかぶせた茅巻馬は。うない髪の子供の
したことと思われて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「上手に作ってあるよ。菖蒲をかぶせ、茅を巻いて作った馬は、
幼い子のしたことと思われてー。」
(安田章生氏著「西行」から抜粋)
高橋庄次氏は「いたきかな菖蒲かぶりの・・・」歌は、前歌の
高尾寺あはれなりけるつとめかなやすらい花とつづみうつなり
との対詠と言い、以下のように解釈しています。
「高尾寺は哀れ深い勤めなるかな
やすらい花や、と鼓を打ち囃す
女の童の愛らしさよ
痛いことかな、石合戦は
菖蒲兜の茅巻馬のしわざだろう
男の童の勇ましさよ
と、対詠の文脈で訳すとこうなるだろう。」
(高橋庄次氏著「西行の心月輪」から抜粋)
(2番歌の解釈)
「神楽歌に草取り飼う駒と詠まれているのはたいそう素晴らしい
ことだけど、畜生道に堕ちてその駒になるのは憂いことである。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【いたく】
(いたし)の連用形で(いたく)と用いられます。
程度のはなはだしい様を言う言葉であり、(非常に、大変に、
ひどく、とても)などの意味合いで使われます。
これは「いたきかな」の項で説明した4番と5番の意味に相当します。
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1 ながむればいなや心の苦しきにいたくなすみそ秋の夜の月
(岩波文庫81P秋歌・新潮367番・万代集)
2 嶺にちる花は谷なる木にぞ咲くいたくいとはじ春の山風
(岩波文庫33P春歌・新潮155番・西行上人集・山家心中集)
3 ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別こそ悲しかりけれ
(岩波文庫36P春歌・新潮120番・西行上人集・
山家心中集・新古今集)
4 うき世をばあらればあるにまかせつつ心よいたくものな思ひそ
(岩波文庫196P雑歌・西行上人集・続古今集)
5 我袖を田子のもすそにくらべばやいづれかいたく濡れはまさると
(岩波文庫277P補遺・続後撰集)
○いなや心の
「否や」ですが、この言葉は拒絶や否定を表すものではありま
せん。感動としての言葉で(いやもう、いやいや)という気持を
表します。ここでは秋のすばらしい月をみたら「いやもう、それ
だけで・・・」心が締め付けられて苦しくなると言っています。
○いたくなすみそ
(すみ)は澄むこと。(そ)は平安時代中期以後から用いられた
助動詞で、禁止を表す言葉です。(するな)という場合の(な)
と同様の働きをします。
(いたくなすみそ)で、(あんまりきれいに澄んだらいけないよ)
というほどの意味となります。
○いたくいとはじ
(いたくいとはじ)で、(とても厭ったりすることではない、
ひどく嫌に思うことではない)という意味になります。
(いとはじ)は「いとふ」の項で詳述します。
○田子のもすそ
田子は田んぼの人たちの意味でお百姓さんのことです。農夫の着物
の裾はいつも濡れていることを言います。
(3番歌の解釈)
「じっとながめて、大層桜の花に親しんできたので、いざ花が散る
頃になって別れねばならないことはまことに悲しいよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(4番歌の解釈)
「この憂き世には生きていようと思えば生きていられるのだから、
それに任せて、わが心よ、ひどく物を思うなよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【いたけもる】 (山、173)
和歌文学大系21では巫女が奉斎するとしています。260ページに
ある「いちごもる」と同義であるとみています。
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いたけもるあまみか時になりにけりえぞが千島を煙こめたり
(岩波文庫山家集173P雑歌・西行法師家集・山家心中集・夫木抄)
○いたけもる
和歌文学大系21では巫女が奉斎するとしています。260ページに
ある「いちごもる」と同義であるとみています。
○あまみか時
不明。「あまみる関」とか「あながみがせき」ともあり、本州
北端の関なのでしようか・・・?。わかりません。
「あまみか時」なら「天満(あまみ)が時」として満月の時の
煌煌とした月の光に満ちている神秘的で崇高な情景の可能性も
考えます。(阿部考)
○えぞが千島
蝦夷の島々のこと。現在でいう北海道だけでなくて東北にある
島々のことを指していると思われます。
(歌の解釈)
「巫女が奉祀する神の示現する時が来た。蝦夷の島々に雲煙が
立ち籠める」
(和歌文学大系21から抜粋)
個人的にはとても理解できない歌です。誤写の可能性が強いと思い
ます。
【一院】 (山、202)
第74代天皇の鳥羽帝のことです。鳥羽帝の父は第73代の堀川天皇。
中宮、藤原璋子との間に崇徳天皇、後白河天皇、上西門院などが
あり、藤原得子との間には近衛天皇があります。
1156年7月崩御。同月に保元の乱が勃発して、敗れた崇徳上皇は
讃岐に配流となりました。
山家集の中の、一院は鳥羽帝、新院は崇徳帝、院は後白河帝を
指します。たとえば「院の小侍従」といえば、後白河院に仕えて
いた女房の「小侍従」のことです。
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1 一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせける
夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかりけり。
此後おはしますべき所御覽じはじめけるそのかみの御ともに、
右大臣さねよし、大納言と申しけるさぶらはれける、しのばせ
おはしますことにて、又人さぶらはざりけり。其をりの御とも
にさぶらひけることの思ひ出でられて、折しもこよひに参り
あひたる、昔今のこと思ひつづけられてよみける
今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契のある身なりけり
(岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮782番・新拾遺集・西行物語)
○かくれさせ
死亡したということ。鳥羽上皇崩御は保元元年(1156年)7月2日。
鳥羽上皇54歳。この年、西行は39歳です。
○御所
この場合の御所は鳥羽天皇の墓所を言い、安楽寿院のことです。
「此後おはしますべき所」という記述によって、安楽寿院三重の
塔のこととみなされます。三重の塔は藤原家成の造進により、
落慶供養は1139年でした。
○高野より出で
この頃は西行の生活の拠点は高野山にありました。しかし高野山
に閉じこもりきりの生活ではなくて、しばしば京都にも戻って
いたことが山家集からもわかります。1156年のこの時にも、京都
に滞在しており、たまたま鳥羽院葬送の場に遭遇し、僧侶として
読経しています。
○右大臣さねよし
正しくは左大臣です。左大臣は右大臣の上席であり、太政大臣が
いない場合は最高位の官職です。「さねよし」は藤原実能のこと。
西行は藤原実能の随身でもありました。実能1157年9月没。
○其をりの御とも
安楽寿院の造営はいつごろからされたのか不明ですが、1137年には
創建されています。ついで三重の塔の落慶供養は1139年。1145年
及び1147年にも新しく御所や堂塔が建てられていて、付属する子院
も含めるとたくさんの建物がありました。
「其をりの御とも」とは三重の塔の落慶供養のあった1139年2月22日
以前のことだろうと解釈できます。
完成前の三重の塔を鳥羽院がお忍びで見物に出かけることになった
ので、藤原(徳大寺)実能と、実能の随身で鳥羽院の下北面の武士
でもあった西行がお供をしたということです。この時の西行は22歳。
翌年の10月15日に出家しています。
尚、現在の安楽寿院は、当時の安楽寿院の子院の一つの(前松院)
が1600年前後の慶長年間に「安楽寿院」として再興されたものです。
○さぶらはれける・さぶらひける
「候ふ・侍ふ」という文字を用いて、(目上の人、地位の高い人
の側に控える、近侍する、参上する、伺う)ということを表す
言葉です。
(さぶらはれける)は藤原実能が鳥羽院に随行していることを西行
の立場で言い、(さぶらひける)は西行自身が随行していることを
自身の立場で言った言葉です。自他を区別するために言葉を変えて
使われています。
この言葉は鎌倉時代になってから(いる・ある)という意味をこめて
使われるようになりました。(さぶらふ)から(そうろう)に発音も
変化します。手紙文の言葉としても盛んに用いられましたが、現代
では(候=そうろう)と使うことはほぼ無いでしょう。
(歌の解釈)
「今宵の御葬送に参り合ってほんとに思い知られたことである。
亡き法皇様に浅からぬ前世からの御縁のあるわが身であった
ことよ。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
(鳥羽院と西行)
「今宵こそ」歌は三首連作になっていて、鳥羽院の葬送の場に
参列した西行が、そのままとどまり、翌日まで読経していた
ことがわかります。僧侶であったからこそ、それも可能でした。
西行と鳥羽院の関係が、この3首の歌と詞書に端的に見て取れます。
鳥羽院関係の歌は西行が出家したときにもあります。
鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる
をしむとて惜しまれぬべきこの世かは身をすててこそ身をもたすけめ
(岩波文庫山家集181P雑歌・西行上人集・玉葉集・万代集)
西行は鳥羽院の下北面の武士でした。「いとま申す」ということは
鳥羽院の下北面の武士を辞退するということです。
この歌は、いくらなんでも鳥羽院に捧げるために詠ったわけでは
ないでしょう。実際には奏上しなくて、自身のゆるぎない出家の
意志の再確認をするために詠んだ歌だと思います。断定してしまう
激しい語調の歌であればあるほど、意志の強固さと、そして悲壮的
な覚悟さえ思わせる歌です。
【いちごもる】 (山、260)
よくわかりません。
「市児(町民の小ども)の子守りをする年配の女性のこと」と
あります。 (渡部保氏著「西行山家集全注解」)
「いちこ」とは巫女のことでもありますので、あるいは宗教的な
意味合いがあるのかもしれません。
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としたか、よりまさ、勢賀院にて老下女を思ひかくる恋と
申すことをよみけるにまゐりあひて
1 いちごもるうばめ媼のかさねもつこのて柏におもてならべむ
(岩波文庫山家集260P聞書集・夫木抄)
○としたか
不明。「としただ」の誤写説もあります。醍醐源氏の「源俊高」
説が有力です。
○よりまさ
源頼政(1104〜1180)のこと。摂津源氏、多田頼綱流、仲政の子。
1178年従三位。1180年、以仁王を奉じて反平氏に走りますが、
同年、宇治川の戦いで敗れて平等院で自刃。
西行とも早くから親しくしていたようです。頼政が敗死した宇治川
合戦のことが聞書集に「しづむなる死出の山がは・・・」の歌と
してあります。
家集に「源三位頼政集」があります。二条院讃岐は娘です。
○勢賀院
せが院と読み、清和院のことです。
清和院とは現在の京都御宛の中にありました。
もともとは藤原良房の染殿の南にありました。良房の娘の明子は
第56代、清和天皇の母であり、明子は清和天皇譲位後の上皇御所
として染殿の敷地内に清和院を建てました。
ちなみに清和天皇の后となった藤原高子はこの染殿で第57代、
陽成天皇を産んでいます。
高子は在原業平との関係で有名な女性です。
清和院は清和上皇の後に源氏が数代続いて領有し、そして白川
天皇皇女、官子内親王が伝領しています。清和院の中に官子内親王
の斎院御所があり、そこで歌会が催されていたということです。
その後の清和院は確実な資料がなく不詳ですが、1661年の寛文の
大火による御所炎上後、現在の北野天満宮の近くの一条七本松北
に建てかえられたそうです。
「都名所図会」では1655年から1658年の間に、現在地に移築され
たとあります。現在は小さなお寺です。
○うばめ媼
うばめは「姥女」ということでしょう。年配の女性のことです。
嫗(おうな)も年配の女性のこと。翁(おきな)は年配の男性。
なぜ(うばめ)と(嫗)という同じ意味を持つ言葉を連続させて
用いたのか私にはわかりません。「いちごもる」という初句の
こともあって、不可解さの強い一首です。
○このて柏
ヒノキ科の常緑樹。小枝全体が平たい手のひら状であり、葉は
表裏の区別がつかないところから、二心あるもののたとえと
された。
(講談社「日本語大辞典」を参考)
児の手柏の木は一般には江戸時代に中国から移入されたという
ことですが、万葉集にも「児の手柏」の歌がありますから、大変
古くから児の手柏は日本にあったものと思います。ただ、現在の
児の手柏と西行の歌にある児の手柏が同じ種目の木であるのか
どうかはわかりません。
(歌の解釈)
「市児(町家の子)の子守りをする年老いた子守り女が重ねて
持っているこのてがしは(柏の一種とも女郎花とも)それは表裏
の別がなく、「このでかしはの二面」と言われている通り、私も
同じく顔を並べよう。(他の人と同じく老下女に思いをかけよう。)
(このてがしはは児の手柏とかけている。)」
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
「巫女がまつる姥神の老巫女が手に重ね持つ児手柏の面に私の
顔を並べよう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【一宮】
(あきの一宮)はすでに触れていますから、本稿では(一宮)の
ことを少し記述することにします。
古代末期から中世にかけての社格の一種。各国ごとに、その国内
でもっとも由緒のある重要な神社。
(講談社「日本語大辞典」から抜粋)
「それぞれの国で最も重んぜられた神社、ということはできよう。
だが、それにしても、誰が、いつ、これを決定したかは、不分明
なままである。」
(川村二郎氏著「日本廻国記 一宮巡歴」から抜粋)
古代日本の国数は66カ国です。それに壱岐と対馬をあわせて68
箇所の一宮があったということですが、実際には66箇所とされて
います。これは山城の加茂両社を一社に統合したり、また、備中
と備後は同じ吉備津神社ですから一社にすることによって66社と
なります。
この66箇所を経巡り参拝することは平安時代から行われていた
ようです。一宮巡拝者を六十六部と言い、それを略して六部と
言いますが、後世には諸国一宮巡拝に名を借りての詐欺師や物乞
いが横行したそうです。
66箇国2島にある一宮神社のうち、山家集に出てくる一宮は
山城 加茂両社・摂津 住吉神社・安芸 厳島神社
です。信濃の諏訪神社については行ったのかどうか定かではない
ため、ここではカウントしません。
伊勢の伊勢神宮、尾張の熱田神宮、熊野本宮の熊野坐神社などは
一宮ではありません。
【いづく・いづこ】 (山、93他)
(いづく・いづこ)ば同義です。方向や場所を指す言葉で「何処=
どこ」という意味。(いづく)が初めに使われ、平安時代末頃から
は(いづこ)と併用されました。
場所とは、具体的な地点だけでなく、不定の場所や人の心の中と
いう抽象的な場所をも含みます。
(いづかた)(いづくんぞ)などは(いづく)の変化した用い方です。
(岩波古語辞典を参考)
岩波文庫山家集では(いづく)が11首と1詞書。(いづこ)が2首
あります。
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01 空に出でていづくともなく尋ぬれば雪とは花の見ゆるなりけり
(岩波文庫山家集30P春歌・新潮60番)
02 五月雨はいささ小川の橋もなしいづくともなくみをに流れて
(岩波文庫山家集49P夏歌)
03 吹きわたる風も哀をひとしめていづくも凄き秋の夕ぐれ
(岩波文庫山家集62P秋歌・新潮289番・夫木抄)
04 いづくとてあはれならずはなけれども荒れたる宿ぞ月は寂しき
(岩波文庫山家集79P秋歌・新潮340番・西行上人集・
山家心中集・宮河歌合・風雅集・玄玉集)
05 月の夜や友とをなりていづくにも人しらざらむ栖をしへよ
(岩波文庫山家集85P秋歌・新潮1482番)
06 霜かづく枯野の草は寂しきにいづくは人の心とむらむ
(岩波文庫山家集93P冬歌・新潮508番)
07 をば捨は信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ
(岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮1107番・西行上人集・
山家心中集・西行物語)
08 いづくにか身をかくさまし厭ひてもうき世にふかき山なかりせば
(岩波文庫山家集188P雑歌・新潮909番・千載集・西行上人集)
09 いづくにもすまれずばただ住まであらむ柴のいほりのしばしなる世に
(岩波文庫山家集189P雑歌・西行上遺集・新古今集)
10 いづくにかねぶりねぶりてたふれふさむと思ふ悲しき道芝の露
(岩波文庫山家集212P哀傷歌・新潮844番)
11 さみだれは原野の澤に水みちていづく三河のぬまの八つ橋
(岩波文庫山家集273P補遺・雲葉集・六花集・夫木抄)
12 国々めぐりまはりて、春帰りて吉野の方へまゐらむとしけるに、
人の、このほどはいづくにか跡とむべきと申しければ
花をみし昔の心あらためて吉野の里にすまむとぞ思ふ
(岩波文庫山家集30P春歌・新潮1070番・夫木抄)
13 やどしもつ月の光の大澤はいかにいづこもひろ澤の池
(岩波文庫山家集72P秋歌・新潮321番)
14 さよ衣いづこの里にうつならむ遠くきこゆるつちの音かな
(岩波文庫山家集86P秋歌・新潮443番・西行上人集追而加書・夫木抄)
○空に出でて
桜の開花を今か今かと待ち焦がれている心情、桜に対しての恋情
を端的に表しています。
「空に出でる」は自身の魂が空を飛ぶ飛翔体となって、まだ雪の
時節にも関わらず、どこかで桜が咲いていないかと捜し求めるよう
な気持ちを言います。しかし歌としては良くわからない、あんまり
良い歌ではないと思います。
○哀をひとしめて
等しく哀れである、おしなべて物悲しい・・・という意味です。
○をば捨
「姨捨」は信濃の歌枕です。月の名所です。
ただしここでは奈良県川上村の「伯母が嶺」を指します。大台ケ原
山の少し西に位置します。
「姥捨」と「伯母が嶺」は違う名詞ですが、西行時代はこの山は
「姥捨」と呼ばれていたものでしょうか・・・。確証がありま
せん。
○原野の澤
「平安和歌地名索引」によると、「原野の澤」という名詞の入った
歌は他にありません。だから固有名詞ではなくて普通名詞の「原野」
であり、「野原」のことだと思います。野原にできた「沢」という
意味でしょう。
○八つ橋
三河の歌枕。五月雨のために水かさが増えて、沼のようになった
場所にある八橋ということです。ここでは八つの橋という意味で
はなくて(八橋)という地名を指しています。
「八橋」は、伊勢物語の詞書で有名になりました。
八橋で詠んだ歌は「かきつばた」という折句になっています。
から衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
(伊勢物語第九巻)
○国々めぐりまはりて
この詞書の書かれた年代は1148年頃、陸奥までの旅の往還をさして
いるものでしょう。この旅において、吉野に籠もる決意がなされた
ものと思います。西行31歳頃です。
○大澤
右京区大覚寺にある大沢の池のことです。池の近くに「名古曽
の瀧」がありました。
○ひろ澤の池
大沢の池の少し東にある人造池です。仁和寺の支院であった遍照寺
の池でした。遍照寺は当時は池の北側にありましたが、現在は南側
に小さなお寺として再興されています。
○さよ衣
「小夜衣」のことで夜に着用する衣類のこと。光沢を出し柔ら
かくするために衣を砧で打っていました。女性の仕事でした。
砧「衣を打つ木の台=砧(きぬた)」の歌は秋の歌です。冬の
寒さに向かう準備のために、冬用の厚手の男性用の衣を打って、
柔らかく着心地の良いようにするためですが、砧を打つ、砧の音
という言葉に男女の恋情が比喩的に込められています。
この歌は下記する前の歌とセットになっている歌です。
ひとりねの夜寒になるにかさねばや誰がためにうつ衣なるらむ
(岩波文庫山家集86P秋歌・新潮442番・西行上人集・山家心中集)
(8番歌の解釈)
「この憂き世を厭っても、深い山がなかったら一体どこに身を
隠そうか。幸いに深い山があるからこそ身を隠すこともできる
のだ。」
「反実仮想の歌。憂き世を厭い遁世しょうと思ってもこの世と
全く関係のない場所はあり得ない。ただ幸い深い山があるから、
という述懐の歌。」
(新潮日本古典集成から抜粋)
(10番歌の解釈)
「私は一体、どこで眠りこけ、どこで行き倒れるかわからない。
道芝の露を見ると、自分もいつかこのようにはかなく消えるの
かと悲しくなってしまう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(14番歌の解釈)
「夜着を打っているのはどの里だろう。砧の音が遠く聞こえる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【厳島神社】 → 安芸の一宮
あきの一宮=広島県の厳島神社のことです。後述。
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「志すことありて、あきの一宮へ詣でけるに、たかとみの浦と
申す所に、風に吹きとめられてほど経けり。苫ふきたる庵より
月のもるを見て」
波のおとを心にかけてあかすかな苫もる月の影を友にて
(岩波文庫山家集 117P 羇旅歌)
○志すこと=どういう目的なり願望があったのか不明です。
○たかとみの浦=後述。
○苫ふきたる庵=苫とは菅や茅などを編んで、雨露を防ぐために
小屋の屋根の覆いなどに利用するもの。
苫葺きの粗末な庵ということ。
(歌の解釈)
「波の音を聞きながら、月の光を友として旅の一夜を明かしている
様子が、素直に表現されている。第一句が一字字余りになっている
が、それも一首の調べをしずかなものとする上に利いている。」
(安田章生氏著「西行」87ページから抜粋)
(厳島神社)
広島県佐伯群の厳島(宮島)にある旧官幣中社。福岡県の宗像
大社と同じく、海の神様である宗像三神を祀ります。
京都府の「天の橋立」、宮城県の「松島」とともに日本三景の
一つです。社殿は海中に建ち、丹塗りの鳥居で有名です。
平清盛と厳島の関わりの端緒については良く分かりません。
平清盛は1146年に安芸の守に任ぜられていますが、厳島神社に
初めて参詣したのは文献上では1160年のことです。以後、清盛の
厳島神社崇敬が強くなります。
1152年、清盛による厳島神社社殿修復、次いで1168年にも修築が
なされています。この時に社殿は現在とほぼ同じ配置になった
そうです。有名な平家納経は前年の1167年。納経は金銀の金具を
つけた法華経二十八巻、その他四巻、及び願文一巻からなります。
1175年10月には萬燈会、そして千僧供養が行われています。
前述の西行の旅は何年に行われたのか不明です。1152年から1155年
までの間だろうという説が(尾山氏、川田氏説)ありますが、
清盛の厳島神社初参詣よりも西行の参詣のほうが早かったという
ことになり、これでは少し不自然な気もします。四国への旅と
関係があり、1167年かその翌年のことと解釈したほうが良いよう
に思います。窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で1168年の可能性
を示唆しています。(241ページ)
(たかとみの浦)
広島県賀茂郡内海付近、現在の高飛の浦か。
(渡部保氏著「西行山家集全注解」)
安芸の国(広島県)賀茂郡、高飛の浦か。(新潮古典集成山家集)
広島県豊田郡安浦町大泊。(和歌文学大系21)
地名が異なっています。これは合併などを機会に住所名改変、地名
変更されたことが原因ではないかと思います。いずれも現在の
呉市安浦町のようです。
それにしても、呉市安浦町は宮島と随分と離れた位置にあります。
そのことから考えると、この時の旅は船旅が中心だったのだろう
と思えます。
【いづち】 (山、24・38・133・141・195・244)
どちらの方角、どちらの方向・・・という意味です。
方角における不定称で副詞的に用いられ、前述の(いづく)よりも
漠然と方角を指します。
(岩波古語辞典を参考)
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1 春霞いづち立ち出で行きにけむきぎす棲む野を燒きてけるかな
(岩波文庫山家集24P春歌・新潮33番)
2 世の中をおもへばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせむ
(岩波文庫山家集38P春歌・西行上人集・宮河歌合・
新古今集・玄玉集・西行物語文明本)
3 あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ
(岩波文庫山家集133P羇旅歌・新潮1082番・西行上人集・
続拾遺集・万代集・雲葉集・西行物語)
4 露おきし庭の小萩も枯れにけりいづち都に秋とまるらむ
(岩波文庫山家集141P羇旅歌・新潮1124番)
5 ふるさとは見し世にもなくあせにけりいづち昔の人ゆきにけむ
(岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1030番・西行上人集・山家心中集)
6 さかりなるこの山ざくら思ひおきていづち心のまたうかるらむ
(岩波文庫山家集244P聞書集134番)
○きぎす
鳥のキジの古称。
○野を焼きて
野焼きの習慣が平安時代からもあったことがわかります。
冬の終わりから春の初めにかけて新草をよく成長させるという
目的のために、野を焼くことです。
蜻蛉日記にも記述があります。
「野焼きなどする頃の、花はあやしぅおそき・・・」
(新潮日本古典集成「蜻蛉日記」233P)
○なべて
おしなべて・ひっくるめて・・・の意味で用いられます。
一般的、普通のこと・・・というニュウアンスもあります。
○ふるさと
以前に住んだことのある地という意味ですが、そればかりでは
なくて、古くからある里という意味でも使われています。
岩波文庫山家集では5首3詞書に「ふるさと・故郷・古里」として
あります。
「荒廃の語感を持ち、当時人々に愛用された語」と新潮版山家集
にはあります。
(3番歌の解釈)
「峰の木の葉が嵐に吹かれて飛んで行く。そのように私の心も
どことあてもなくさまよい出て行くようです。
(和歌文学大系21から抜粋)
この歌には以下の詞書があります。歌は藤原成道との贈答歌です。
「秋、遠く修行し侍りけるほどに、ほど経ける所より、侍従大納言
成道のもとへ遣しける」
成道の「かへし」は下の歌です。
「何となく落つる木葉も吹く風に散り行くかたは知られやはせぬ」
藤原成道(1097〜1162)は西行より21歳の年長です。成道との
贈答歌は175ページにもあります。
成道は蹴鞠の名手でした。西行は成道から蹴鞠を学びました。
その関係で出家してからも親交を結んでいたものでしょう。
詞書にある「ほど経ける所」とは京都からある程度離れた所と
いう意味ですが、この贈答歌の詠われた年次も場所も不明です。
成道が侍従大納言であった1149年から1156年の間に詠われたもの
と解釈できます。
当時は西行は高野山を本拠としていましたから、高野山からどこ
かに向かって旅をしたときの歌です。それは安芸の一宮などに
詣でた時の旅の途次の歌なのかもしれないと思ったりしますが、
もちろん断定はできません。
それにしても当時の時代にあって、西行が成道に贈った歌が無事
に届き、かつ、成道の返歌が西行の元に届くというのは驚くべき
事です。諸国にあった駅が個人の通信の役割を担っていたとは
考えにくく、どうしてこういう通信が可能だったのか、その手段
について知りたいものです。
ご存知の方はご教示お願いいたします。
(6番歌の解釈)
「花盛りであるこの山桜を後に思い残して、どちらの方へ私の
心はまた浮かれてゆくのだろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【五辻の斎院】→ワ子内親王
【五つのうるひ】
(うるひ)とは(潤い)のことです。(うるへ)(うるほし)
(うるほひ)などと用いられます。
水分が満ち渡って、瑞々しく生気にあふれている状態を指します。
豊かにする、それによって栄える・・・という解釈も成立します。
(五つのうるひ)とは具体的なものかどうか私にはわかりません。
五種のうるひがあるとしたら、それは何を指しているのか、ご存知
の方はご教示お願いいたします。
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1 二つなく三つなき法の雨なれど五つのうるひあまねかりけり
(岩波文庫山家集283P補遺・一品経和歌懐紙)
○法の雨
仏法の真理の光を慈雨にたとえています。仏陀の教えが人々の
上に降り注ぐように・・・ということです。(うるひ)は雨の
縁語です。
○あまねかりけり
四方八方余すところなく広くいきわたるということ。
(歌の解釈)
「二つとなく三つとない唯一絶対の仏法の雨であるが、その雨に
うるおう御利益、めぐみは一つどころか五つもあって、あまねく
あるものであった。(一、二、三、五と数のおもしろさをよみ
こみ仏法のめぐみをたたえたもの。)」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
「一品経和歌懐紙」
1180年から1182年頃にかけての成立。国宝です。法華経廿八品の
一品及び述懐を詠じた2首からなる懐紙で、現存する和歌懐紙では
最も古いものと言われます。
作者は西行のほかに頼輔、有家、寂念、寂蓮、勝命、重保などが
います。
この和歌懐紙は西行自筆の歌稿として現存する唯一のものです。
もう一首は下の歌です。
わたつみの深き誓ひのたのみあれば彼の岸べにも渡らざらめやは
【五つの雲】 (山、201)
(五つの障)(五つの某)と同義。五障のこと。
「五障」
1 女性が持たされている五つの障礙(しょうげ)のこと。
帝釈天、梵天王、魔王、転輪聖王、仏身となりえぬこと。
2 修道上の五つの障りのこと。
煩悩、業、生、法、所知の五つの障礙。
3 五善根の障礙となるもの。
欺、恨、怨、怠、瞋(いからす・いかる)の五つの障礙。
(広辞苑第二版を参考)
今の時代であれば明らかな女性蔑視と言われそうです。仏教の包摂
する頑迷固陋さを思わせますが、当時はこういうことが疑いも無い
真実として受け入れられていたものでしょう。
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美福門院の御骨、高野の菩提心院へわたされけるを見たて
まつりて
1 今日や君おほふ五つの雲はれて心の月をみがき出づらむ
(岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮欠番・西行上人集)
○美福門院(びふくもんいん)
1117年から1160年。11月23日没。44歳。藤原長実の娘、得子の
こと。
鳥羽天皇の女御。八条院ワ子内親王や近衛天皇の母。二条天皇の
准母。1141年12月皇后、1149年8月院号宣下。
美福門院の遺言により、1160年12月4日(2日とも)に遺骨は高野
山の菩提心院(蓮台院とも)に納められました。この遺骨の移送
に、藤原成道や藤原隆信も供奉したとのことです。西行は高野山
で、美福門院の遺骨を迎えたことになります。この日、高野山は
大雪に見舞われていたそうです。
鳥羽の安楽寿院の近衛天皇陵は、もともとは美福門院陵として
造営がなされました。1155年に崩御した近衛天皇は船岡山の東に
あった知足院に葬られていましたが、1163年に現在地に改葬され
ました。
○心の月
仏教の信仰上のことで、比喩的に心の中にあるとする架空の月を
言います。仏教でいう悟りの境地を指すための比喩表現です。
(歌の解釈)
「女人の五障の雲が晴れて、菩提を得られるだろうというのが
歌意であるが、型にはまったもので、儀礼の域を出ない。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)
「今日女院は五障の雲も晴れて、お心のうちに宿していられた月
(仏性)を輝き出させるのであろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【ゐで】【井手の里】 (山、41)(山、173)
現在の京都府綴喜郡井手町のことです。井手町は京都と奈良の
ほぼ中間に位置していて、木津川の東側にあたります。山城平野
と標高400メーターまでの山地からなります。
交通は国道24号線(奈良街道)が、町の西区域を貫通しています。
橘諸兄のゆかりの地です。また小野小町の伝承もあります。
「井手の玉川」「井手の玉水」は歌枕です。
「山吹の花」「かわず」の名詞を詠みこんだ形で多くの歌が詠わ
れている所です。
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1 山吹の花咲く里に成ぬればここにもゐでとおもほゆるかな
(岩波文庫山家集41P春歌・新潮166番・西行上人集・山家心中集)
2 山吹の花咲く井出の里こそはやしうゐたりと思はざらなむ
(岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1169番)
○ここにもゐでと
山吹の花が見事で、山吹の里の代名詞でもある「井手」がここ
にも出現したように思えることだなーということ。
○しうゐ
物の名。この歌の詞書は「拾遺山吹に寄す」とあって、歌の中に
「しうゐ」のことばが詠み込まれています。
(物の名)とは、和歌の表現の技巧のひとつです。歌の意味に
関係なく、事物の名をさりげなく詠みこむことです。隠題とも
いいます。
○思はざらなむ
思うことはない、思わないでほしい。
(1番歌の解釈)
この歌は直接に地名としての井手を詠ったものではありません。
他の土地にいて、そこに山吹の花が咲き誇っていたから、ああ、
ここもまた、井手の里のように思われることだよ・・・という
ことが歌の意味です。それほどに井手は山吹の名所として有名
であるということを間接的に表しています。
(2番歌の解釈)
山吹の花の咲き誇る井手の里だからといっても、花はいつかは
散るのです。
山吹とはいえ、他の花と同じように散っていくことの悲しみは
味わいます。
その悲しみがないなどとは思わないでほしいものです。
(山吹と蛙)
奈良時代の井手は橘諸兄の管轄地で、諸兄の別荘がありました。
諸兄は井手の左大臣とも呼ばれました。井手には玉川という川が
流れています。井手川(井堤川)のことです。井手とはまた、
井(泉・水)出(涌き出る事)を意味している地名なのですが、どう
したわけか玉川の水量は乏しく水無川とも呼ばれていたそうです。
諸兄は別業(別荘)に山吹を植えました。それが玉川をはじめ、
井手の邑(むら)に咲き誇るようになったので、いつしか山吹は
井手の枕詞となり、沢山の歌に詠われました。
また、玉川に生息していたという河鹿の美しいらしい鳴き声も
有名だったそうで、山吹と蛙は井手を表すものとして、一つの歌
に詠み込まれることにもなりました。
ただ、玉川の河鹿は昭和28年の水害によって全滅して、今は生息
していないようです。近年、町の有志により蛙の里としての取り
組みがなされているそうです。
山吹についても、玉川の護岸工事のために取り払われて、現在は
無いとの事です。
(橘諸兄「たちばなのもろえ」)
684〜757年。第30代敏達天皇のひ孫の美努王と県犬飼美千代の子。
葛城王と称する。後、橘の姓を受けて臣籍降下し橘諸兄と名乗る。
大流行した天然痘のために藤原氏の有力者が相次いで没したこと
もあり、738年右大臣、743年左大臣となり、聖武及び孝謙の両天皇
の下で政務を執る。
757年1月没。同年、諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂(のちの
恵美押勝)排斥を企てたが処刑される。奈良麻呂の孫に嘉智子が
いて、彼女は嵯峨天皇の正室で檀林皇后と呼ばれました。この
嘉智子の子が現在の皇室に続いていますので、橘諸兄の血筋は
続いてきたということになります。
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◎ あしびきの山吹の花散りにけり井手のかはづは今や鳴くらむ
(新古今集 藤原興風)
◎ 駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井出の玉川
(新古今集 藤原俊成)
◎ 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く井手の里人いまやとはまし
(千載集 藤原基俊)
◎ 春ふかみ井手の河水かげそはばいくへか見えん山吹の花
(千載集 大江匡房)
【出でじ】 (山、181)
(出で)
現れ出ること。発現すること。外に出ること。
(じ)
動詞・助動詞の未然形を承け、終止・連体・巳然の三つの活用に
用いられる言葉。
否定的な意思や禁止、打消しの推量を表します。
(岩波古語辞典を参考)
(出で)+(じ)で、(出ない)という意味になります。
山家集では(ある)と結びついた(あらじ)、(知る)と結び
ついた(知らじ)などの用例もあります。
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1 いとどいかに山を出でじとおもふらむ心の月を獨すまして
(岩波文庫山家集181P雑歌・続後撰集)
2 吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ
(岩波文庫山家集32P春歌・新潮1036番・西行上人集・山家心中集・
新古今集・御裳濯河歌合・玄玉集・西行物語・自賛歌)
3 宮の法印高野にこもらせ給ひて、おぼろけにては出でじと
思ふに、修行せまほしきよし、語らせ給ひけり。千日果てて
御嶽にまゐらせ給ひて、いひつかはしける
あくがれし心を道のしるべにて雲にともなふ身とぞ成りぬる
(宮の法印の歌)
(岩波文庫山家集135P羇旅歌・新潮1084番)
山の端に月すむまじと知られにき心の空になると見しより
(西行の返歌)
○いとどいかに
(いと) (1)ほんとうに。まったく。(2)たいして。
それほど。
(いと‐ど) いといとの転。いっそう。ますます。
(いとど‐し)(1)ますます激しい。(2)ただでさえ・・・
なのに。いっそう・・・である。
(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
(いとどいかに=〔いと‐ど‐いか‐に〕)という副詞と形容詞
の合わさった言葉の意味を正確に理解するのは難しいと思います。
また、この言葉に込められた西行固有の感覚というものもある
はずですし、なおさら理解できにくい言葉ではなかろうかと思い
ます。
○心の月
「五つの雲」の項で既出ですが、同じ言葉でも微妙に意味合いが
違うことがわかります。ここでは「心の月」は自身の意志力に
よって、自身がほぼ自在に操作できるように解釈されます。
厳しい修行をした出家者に対しての敬意が込められているのかも
しれません。
○獨
一人と読みます。
○やがて
現在的には(しばらく時間がたつと・そのうち・まもなく)など
の意味で用いられますが、古語としては(続けてそのまま変わら
ない)状態を言います。
(やがて出でじ)は(そのまま留まって出ることはない)という
意味となります。
○宮の法印
「法印」とは僧侶の最高の位階を表し、法印大和尚を略して法印
と言います。僧位では法橋、法眼、法印があり、僧官では律師、
僧都、僧正があります。
宮の法印とは元性法印のこと。崇徳天皇第二皇子のため、この
ように呼びます。
1151年から1184年の存命。母は源師経の娘。
初めは仁和寺で修行、1169年以降に高野山に入ったそうです。
岩波文庫山家集ではこの返歌の前にも宮の法印に贈った歌があり
ます。
崇徳天皇は鳥羽帝と待賢門院の所生で西行とも親しく、西行に
すれば宮の法印は孫のような感覚だったのではなかろうかと思い
ます。
○千日果てて
金峯山参詣の時に行う精進潔斎を(御嶽精進)というそうです。
当時は普通で50日から100日間の精進期間だったようです。
宮の法印の場合は千日、約3年間の精進潔斎を果たしたという
ことになります。千日回峰行の荒行を真似たものかとも思います。
○御嶽
吉野山連山の大峯(山上が岳)のことを言います。大峯山寺が
あります。
(2番歌の解釈)
「吉野山に入山してもすぐには下山しないつもりでいたのに、
花が散ったら帰ってくると、都の人々は私を待ってくれていたり
するだろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(3番歌の解釈)
「御嶽での修行を強く願う心を道しるべとして、御嶽に去来する
雲とともに仏道修行の生活をする身となったことだよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(西行の返歌の解釈)
「山の端に澄んだ月がとどまっていないように、中途半端な状態
で高野にお過ごしになる法印様ではないとよく存じておりました。
心も空に仏道修行を志しておいでになるのを見申し上げました時
から。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【出羽の国・いでは】
羽州。出羽(いでわ(は)・でわ(は))の国のこと。現在の
山形県と秋田県にあたります。
現在では(でわ)と発音するのが普通ですが、それは(いでは)
から転じた呼び方です。(出(い)でて)が(出(で)て)に変化
したのと同様です。
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又の年の三月に、出羽の国に越えて、たきの山と申す山寺に侍り
ける、櫻の常よりも薄紅の色こき花にて、なみたてりけるを、
寺の人々も見興じければ
1 たぐひなき思ひいではの櫻かな薄紅の花のにほひは
(岩波文庫山家集132P羇旅歌・新潮1132番)
○又の年
初度の奥州行脚の年の翌年と見ていいのですが、何年ということ
は特定できません。1148年、西行31歳頃とみたいと思います。
○出羽の国
奥羽地方の羽の国で、現在の秋田県と山形県をあわせて出羽の国
と言っていました。
明治になって羽後(秋田県)と羽前(山形県)に分割されました。
○たきの山
山形市にある霊山寺のある山をいいます。平泉からの帰路に立ち
寄った事になります。
○薄紅の色こき花
大山桜・江戸山桜・紅山桜・香山桜などが想定されています。
「薄紅」「にほひ」は普通は梅にかかります。
しかしここでは桜と明記しており、かつ、「にほひ」も嗅覚とし
てのものではなくて、視覚的な意味合いで用いられています。
○なみたてる
風が吹いていて、桜が波のように見える光景のこと。
○たぐひなき
類(たぐい)無いということ。同じ状態のものが無いということ。
比べるものがないということ。
○思ひいでは
「思い出」ということと「出羽の国」を掛けています。
(歌の解釈)
「またとない思い出になりそうな出羽の桜である。濃い目の薄紅
の色が格別に美しい。
(和歌文学大系21から抜粋)
(参考歌)
遙かなる所にこもりて、都なりける人のもとへ、月のころ遣しける
2 月のみやうはの空なるかたみにて思ひも出でば心通はむ
(岩波文庫山家集76P秋歌・新潮727番・西行上人集・
山家心中集・新古今集・西行物語)
花橘によせて思ひをのべけるに
3 世のうきを昔がたりになしはてて花橘におもひ出でばや
(岩波文庫山家集188P雑歌・新潮722番)
2と3の参考歌にある「出でば」の内、3番歌はどんなにみても出羽
の国とは無関係です。
2番歌の場合は詞書にある「遙かなる所」が、都から遠く隔たって
いる場所と考えて良く、そのために「出でば」は「出羽」の掛詞の
可能性があります。急ぐ旅ではありませんでしたから、出羽の国に
暫時籠もったとしても不思議ではないのですが、もちろん確証は
ありません。
【いと・いとど】
(いと)副詞。
(1)ほんとうに。まったく。(2)たいして。それほど。
(いと‐ど)
いといとの転。いっそう。ますます。
(いと-ど‐し)
(1)ますます激しい。(2)ただでさえ・・・なのに。
いっそう・・・である。
(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
(いと)は源氏物語にも無数に出てくる言葉です。当寺は盛んに
使われていた言葉です。ほんとうに・・・、まさに・・・という
ニューアンスで用いられています。
西行歌では(いと)は(ささがにの・・・)歌の(いと世をかくて)
という掛詞で使われている以外は、詞書で用いられています。
(いと)に接続する言葉は(あはれ・赤くて・悲し・思ふ・きこえ・
(尊く哀れ・世)の7種類です。
(いとど)は、すべて歌に用いられています。
20番歌は讃岐の院(崇徳院)の女房の詠歌です。
(いとどいかに=〔いと‐ど‐いか‐に〕)という副詞と形容詞
の合わさった言葉の意味を正確に理解するのは難しいと思います。
また、この言葉に込められた西行固有の感覚というものもある
はずですし、なおさら理解できにくい言葉ではなかろうかと思い
ます。
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「いと」
1 中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、
天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮など申す上人ども
して見けるに、いとあはれにて、各述懷しけるに
折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
(岩波文庫山家集187P雑歌・西行上人集)
2 住みけるままに、庵いとあはれに覚えて
今よりは厭はじ命あればこそかかるすまひのあはれをもしれ
(岩波文庫山家集111P羇旅歌・新潮1357番・夫木抄)
3 讃岐へおはしまして後、歌といふことの世にいときこえざり
ければ、寂然がもとへいひ遣しける
ことの葉のなさけ絶えにし折ふしにありあふ身こそかなしかりけれ
(岩波文庫山家集183P羇旅歌・新潮1228番・西行物語)
4 同じ国に、大師のおはしましける御あたりの山に庵むすびて
住みけるに、月いとあかくて、海の方くもりなく見え侍りければ
くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける
(岩波文庫山家集111P羇旅歌・新潮1356番・
西行上人集・山家心中集)
5 陰陽頭に侍りける者に、ある所のはした者、もの申しけり。
いと思ふやうにもなかりければ、六月晦日に遣しけるにかはりて
我がためにつらき心をみな月のてづからやがてはらへすてなむ
(岩波文庫山家集164P恋歌・新潮1162番)
6 奈良の僧、とがのことによりて、あまた陸奧国へ遣はされしに、
中尊寺と申す所にまかりあひて、都の物語すれば、涙ながす、
いとあはれなり。かかることは、かたきことなり、命あらば
物がたりにもせむと申して、遠国述懷と申すことをよみ侍りしに
涙をば衣川にぞ流しつるふるき都をおもひ出でつつ
(岩波文庫山家集131P羇旅歌・西行上人集・山家心中集)
7 みちのくににまかりたりけるに、野中に、常よりもとおぼしき
塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すはこれが
事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと又問ひければ、
実方の御ことなりと申しける、いと悲しかりけり。さらぬだに
ものあはれにおぼえけるに、霜がれの薄ほのぼの見え渡りて、
後にかたらむも、詞なきやうにおぼえて
朽ちもせぬ其名ばかりをとどめ置きて枯野の薄かたみにぞ見る
(岩波文庫山家集129P羇旅歌・新潮800番・西行上人集・
山家心中集・新古今集・西行物語)
8 まうでつきて、月いとあかくてあはれにおぼえければよみける
諸ともに旅なる空に月も出でてすめばやかげの哀なるらむ
(岩波文庫山家集117P羇旅歌・新潮415番)
9 ささがにのいと世をかくて過ぎにけり人の人なる手にもかからで
(岩波文庫山家集172P雑歌・新潮1552番)
思へただ今日の別のかなしさに姿をかへて忍ぶ心を
10 やがてその日さまかへて後、此返事かく申したりけり。
いと哀なり
(岩波文庫山家集207P哀傷歌・新潮814番)
(中院の右大臣=源雅定の歌)
11 中院右大臣、出家おもひ立つよしかたり給ひけるに、月の
いとあかく、よもすがらあはれにて明けにければ帰りけり。
その後、その夜の名殘おほかりしよしいひ送り給ふとて
よもすがら月を詠めて契り置きし其むつごとに闇は晴れにし
(岩波文庫山家集175P雑歌・新潮732番・西行上人集・
山家心中集・新後撰集・玉葉集・月詣集・西行物語)
かくてさし離れて渡りけるに、故ある聲のかれたるやうなる
にて大智徳勇健、化度無量衆よみいだしたりける、いと尊く
哀れなり
12 大井川舟にのりえてわたるかな
(岩波文庫山家集268P残集)
「いとど」
13 かねてより心ぞいとどすみのぼる月待つ峯のさを鹿のこゑ
(岩波文庫山家集276P補遺・西行上人集・山家心中集・
新拾遺集・雲葉集)
14 難波潟波のみいとど数そひて恨のひまや袖のかわかむ
(岩波文庫山家集153P恋歌・新潮686番・
西行上人集・山家心中集)
15 日にそへて恨はいとど大海のゆたかなりける我がなみだかな
(岩波文庫山家集153P恋歌・新潮683番・西行上人集・
山家心中集・新千載集)
16 恋しさや思ひよわると眺むればいとど心をくだく月かな
(岩波文庫山家集150P恋歌・新潮646番)
17 いにしへのかたみになると聞くからにいとど露けき墨染の袖
(岩波文庫山家集207P哀傷歌・新潮812番)
18 前大僧正慈鎭、無動寺に住み侍りけるに、申し遣しける
いとどいかに山を出でじとおもふらむ心の月を獨すまして
(岩波文庫山家集181P雑歌)
19 同行に侍りける上人、月の頃天王寺にこもりたりと聞きて、
いひ遣しける
いとどいかに西にかたぶく月影を常よりもけに君したふらむ
(岩波文庫山家集174P雑歌・新潮853番)
(讃岐の院の女房の歌)
20 いとどしくうきにつけても頼むかな契りし道のしるべたがふな
(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1138番・
西行上人集追而加書・玉葉集)
○中納言家成
藤原家成。1107年〜1154年。48歳。美福門院の従兄弟で、その
縁故によって鳥羽院の寵臣となっていたことが「台記」や
「愚管抄」に見えます。
○渚の院したてて
「渚の院」は交野にあった惟喬親王の別業で、在原業平ともゆかり
のある所でした。家成が、渚の院を再興したのですが、すぐに取り
壊してしまいました。
○西住
俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い
頃からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いていま
す。西住臨終の時の歌が206ページにあります。
○浄蓮
不詳ですが、静蓮法師という説もあります。
静蓮法師とするなら、千載集1015番の作者であり、また、60ぺー
ジの「鹿の音や・・・」歌の忍西入道と同一人物の可能性も指摘
されています。(和歌文学大系21を参考)
○中院右大臣
源雅定。1094年〜1162年。村上源氏。雅実の子で右大臣。
1154年出家。法名は蓮如。
○奈良の僧、とがのことによりて
奈良の僧侶15名が悪僧として陸奥の国に配流となったのは1142年
のことのようです。西行26歳の年に当たります。
これにより「涙をば・・・」歌は初度の陸奥の旅の時の歌とする
説が殆どです。
「西行の研究」の窪田章一郎氏は詞書から受ける印象や山家集に
なくて西行上人集に採録されていることを挙げられて、再度の
陸奥の旅の時の歌であると推定されています。
○衣川
陸奥の国の歌枕。(衣)を掛けて詠われます。
平泉の中尊寺の北側を流れていて、北上川に合流します。
○実方の御こと
藤原実方。生年不詳、998年没。995年陸奥の守に赴任。
殿上で藤原行成と口論した果てに左遷されたと言われます。
任地先で客死。落馬して死亡したという説があります。
○前大僧正慈鎭
慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。
西行と知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、
まだ慈円とは名乗っていないと思いますが、ここでは慈円と記述
します。
慈円は、摂政関白藤原忠道を父として生まれました。藤原基房、
兼実などは兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事
して道快と名乗ります。
(覚快法親王が11181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を
積んだということが山家集からもわかります。このころの比叡山は、
それ自体が一大権力化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返し
たり、園城寺や南都の興福寺との争闘に明け暮れていました。
それは貴族社会から武家政権へという時代の大きなうねりの中で、
必然のあったことかもしれません。
このような時代に慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の
兼実の命によって1192年からですが1196年に兼実失脚によって辞任。
次は後鳥羽上皇の命で1201年2月から翌年の1202年7月まで。1212年
と1213年にも短期間勤めています。
西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人と呼ばれ
ました。善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚名されました。
歴史書に「愚管抄」 家集に「拾玉集」などがあります。新古今集
では西行の九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
(学藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)
○無動寺
無動寺は比叡山東塔に属していて、無動寺谷にあります。滋賀県
坂本からのケーブルで、延暦寺駅に降りて、すぐ側の無動寺坂を
一キロほど下った所にあります。
不動明王を祀る明王堂が本堂で、ほかに建立院・松林院・大乗院・
玉照院・弁天堂その他の堂宇を総称して無動寺といいます。
明王堂は千日回峰行の根本道場ともなっています。
慈円はこの無動寺の大乗院で何年から何年まで修行したのか私には
不明ですが、いずれにしても西行とは無動寺で逢っているという
ことになります。
尚、親鸞聖人も10歳から29歳まで大乗院で過ごしたことが知られ
ています。
○同行に侍りける上人
西住上人のことです。
(1番歌の解釈)
「その時その時につけて人の心も様々に変わってしまうので、
この世に生きていることも甲斐ないと思わせる渚の院だなあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(3番歌の解釈)
「新院が讃岐におうつりになり、和歌の道がすっかり衰えて
しまった時節に生きてめぐり逢うわが身こそ悲しいことです。」
(19番歌の解釈)
「天王寺の月は、いつもよりどんなにか見る者の心までも、西方
浄土へ引き込むように傾いてゆくのでしょうが、あなた自身も
いつもより殊更に月に心を惹かれておいででしょうね。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【糸鹿山・いとと山】
岩波文庫山家集では「いとと山」となっていますが、新潮版では
「糸鹿山」となっていますから、ここで取り上げます。
紀伊の国の歌枕です。和歌山県有田市の有田川の南に位置していて、
熊野街道の糸我王子があった所です。
糸鹿山の糸をかけて、糸の縁語である「織る」「染める」「繰る」
「錦」などの言葉を用いられて詠まれています。
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1 いとゝ山時雨に色を染めさせてかつがつ織れる錦なりけり
(岩波文庫山家集87P秋歌・新潮473番・夫木抄)
○時雨に色を
時雨にあうごとに紅葉は色を増すということは万葉集の時代から
信じられていました。何度となく時雨にあった紅葉を「千入
(ちしお)の紅」というそうです。
(歌の解釈)
「糸鹿山では時雨で木の葉が紅葉してきたけれど、全山紅葉する
までには至らず、辛うじて織りなした錦という状況だよ。」
(新潮日本古典集成(山家集」から抜粋)
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◎ 足代過ぎて糸鹿山の桜花散らずあらなむ帰り来るまで
(詠み人しらず 万葉集巻七)
◎ いとかやまくる人もなきゆふぐれに心ぼそくもよぶこどりかな
(前斎院尾張 金葉集)
◎ あおやぎのいとかのやまの桜花みやこのにしくたちかへりみん
(順徳院 順徳院集)
【一品経和歌懐紙】
1180年から1182年頃にかけての成立。国宝です。法華経廿八品の
一品及び述懐を詠じた2首からなる懐紙で、現存する和歌懐紙では
最も古いものと言われます。
作者は西行のほかに頼輔、有家、寂念、寂蓮、勝命、重保などが
います。
この和歌懐紙は西行自筆の歌稿として現存する唯一のものです。
京都国立博物館に平常展示されています。
西行の歌は以下の2首です。西行の家集などには収められていず、
この一品経和歌懐紙のみにあります。
1 二つなく三つなき法の雨なれど五つのうるひあまねかりけり
(岩波文庫山家集283P補遺・一品経和歌懐紙)
2 わたつみの深き誓ひのたのみあれば彼の岸べにも渡らざらめやは
(岩波文庫山家集283P補遺・一品経和歌懐紙)
【糸・糸すすき・糸水・いと世】
【糸】
動植物繊維や化学繊維を原料とし均一な太さ・連続した長さで
よりをかけて作った細くて長いもの。
歌では糸の例えとして、糸に似た細くて長いものを指しています。
【糸すすき】
イネ科の多年草。ススキの変種の一つでススキよりも葉、茎、
穂も細く小さい。観賞用、盆栽用に栽培される。
(日本語大辞典から抜粋)
【糸水】
水を糸に見立てていて、糸のように細い雨水が切れ間なく滴り
落ちてくる状態を表しています。
【いと世】
先号既出の「いと」に「世」が接続した形と、ささがにの「糸」
と「世」が接続した形の両方の意味が掛けられています。
「いと世」で、(本当に人生というものは)(まさに人生という
ものは)という意味になり、「糸世」で(糸のように細くはか
ない人生)という意味に解釈できます。
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1 さゝがにの糸に貫く露の玉をかけてかざれる世にこそありけれ
(岩波文庫山家集213P哀傷歌・新潮1514番)
2 ささがにのくもでにかけて引く糸やけふ棚機にかささぎの橋
(岩波文庫山家集57P秋歌・新潮263番)
3 ささがにのいと世をかくて過ぎにけり人の人なる手にもかからで
(岩波文庫山家集172P雑歌・新潮1552番)
4 天の川流れてくだる雨をうけて玉のあみはるささがにのいと
(岩波文庫山家集283P補遺・夫木抄)
5 吹みだる風になびくと見しほどは花ぞ結べる青柳の糸
(岩波文庫山家集39P春歌・新潮1073番)
6 風ふくと枝をはなれておつまじく花とぢつけよ青柳の糸
(岩波文庫山家集33P春歌・新潮151番・夫木抄)
7 見渡せばさほの川原にくりかけて風によらるる青柳の糸
(岩波文庫山家集23P春歌・新潮54番・西行上人集・
山家心中集・新拾遺集)
8 水上に水や氷をむすぶらんくるとも見えぬ瀧の白糸
(岩波文庫山家集94P冬歌・新潮555番・西行上人集)
9 こがらしに峯の紅葉やたぐふらむ村濃にみゆる瀧の白糸
(岩波文庫山家集91P冬歌・新潮500番)
10 雲消ゆる那智の高峯に月たけて光をぬける瀧のしら糸
(岩波文庫山家集72P秋歌・新潮382番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
11 五月雨に水まさるらし宇治橋やくもでにかかる波のしら糸
(岩波文庫山家集49P夏歌・新潮208番・西行上人集・
西行上人集追而加書・山家心中集・夫木抄)
12 糸すすきぬはれて鹿の伏す野べにほころびやすき藤袴かな
(岩波文庫山家集60P秋歌・新潮266番・夫木抄)
13 賤のめがすすくる糸にゆづりおきて思ふにたがふ恋もするかな
(岩波文庫山家集146P恋歌・新潮594番・夫木抄)
14 東屋のをがやが軒のいと水に玉ぬきかくるさみだれの頃
(岩波文庫山家集49P夏歌・新潮212番)
○ささがに
(ささがに)とは、蜘蛛のことです。(ささがに)の項で詳述
します。
○棚機
(たなばた)と読みます。たなばたとは、節句の七月七日の
イメージが強いかと思いますが、原意としては布を織る道具の
ことです。
1 織機。また、それで布を織ること。織る人。
2 はたを織る女性。
3 織女星。ベガ。
4 五節句の一つ。七月七日。また、その日の行事。
(日本語大辞典から抜粋)
とあるように本来は機織り(はたおり)の道具そのもの、そして
その道具を用いて、はたを織ること自体が棚機(たなばた)でした。
○かささぎの橋
かささぎはカラス科の鳥で、ハト程度の大きさです。日本には
1600年頃に朝鮮半島から入ってきて、北九州一帯に住み着いた
ものといわれています。
陰暦七月七日の牽牛星と織女星が一年に一度逢うという七夕伝説
があります。この時、天の川にかかる伝説上の橋が「かささぎの橋」
と言われます。翼を連ねて掛け渡すといわれています。
なお、壬生忠岑の歌によって、御所の階段をも「かささぎの橋」と
いうこともあったようです。
「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半に踏み分けことさらにこそ」
(壬生忠岑 大和物語)
○青柳(あおやぎ)の糸
万葉時代から「青柳の糸」という表現がされています。
「青柳の糸」は春を象徴する表現でもあって、古来、たくさんの
歌に詠まれてきました。
春になって芽吹いて、黄緑色に繁る糸のような枝先を垂らして
いるさまに生命力の旺盛さとか、強靭さ、しなやかさを感じる
ことができるでしょう。
○さほの川原
大和(奈良県)の佐保川の川原のことです。
大和には「佐保姫」と「立田姫」があり、佐保姫は春を象徴して
いて、対になっている立田姫は秋を象徴しています。
○瀧の白糸
瀧から落ちてくる細い水の筋を糸にたとえて表現したものです。
○那智の高峯
和歌山県南部の那智山のこと。
○賤のめ
「賤(しず)の女」のことで、身分の低い女性のこと。
○東屋
普通は部屋や壁や窓などはなくて、四隅に柱を立てて、雨を防ぐ
ために屋根をつけただけの簡素な建築物を言います。
歌では、粗末な造りの住処というほどの意味で個人の住居を指し
て「東屋」といっているのかもしれません。西行自身の庵のこと
だろうか?とも思わせます。
後世、「東屋」は東国の田舎風の建築物をも指していて、寄棟
造り(入母屋造り)で壁もあります。住居として十分に機能する
造りです。
○をがやが軒
雄茅ではなくて小茅と解釈するべきでしょう。雨を防ぐために
東屋に葺かれている茅という意味です。
○玉ぬきかくる
わかりにくい表現です。「ぬき」とは「貫き」で糸を玉に通す
こと、「かくる」とは通した玉に糸を垂らすこと、玉は水の
見立て・・・と和歌文学大系21にありますが、わかったような、
わからないような不可思議さを感じます。
(3番の歌の解釈)
「切れやすい蜘蛛の糸のようにはかないこの世を、人の中の人
ともいうべき権勢の人の引き立ても蒙らず、過ぎてしまった
ことである。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
「読者のみなさん、私はこんな風に生きてきました。一人前の
立派な人間としての待遇を受けることもなく。」
(和歌文学大系21から抜粋)
和歌文学大系21のの「山家集」の部は西澤美仁氏の校注になり
ます。この校注は大変なご労作であると思います。
3番歌における西澤氏の解釈は西行の歌にことよせて、ご自身の
偽らざる心情を披瀝したものなのでしょう。
国文学者のご苦労が偲ばれます。こういう方のご苦労があって、
その成果の恩恵に浴しているのが私などの読者です。
ありがたいことですし、ご苦労様と申し上げたいと思います。
(7番の歌の解釈)
「古都平城京を見渡すと、佐保川の河原に風が吹いて、青柳の
枝が糸のようにたぐられたり引っ掛かったりねじれたり、その
一体感はまったく見事に春の景色だ。」
「修辞を駆使して春景を賛美。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(11番の歌の解釈)
「五月雨のため水かさがまさったらしい。うち橋の蜘蛛手に川の
水が当たり、白糸をひいたごとくに白波をたてていることで
ある。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【いとふ】
いやだと思うものに対して、消極的に身を引いて避ける。転じて、
有害と思うものから身を守る意。
1 (いやなものとして)避ける。
2 隠遁する。出家する。
3 避けて身を守る。
4 かばう。いたわる。大事にする。
(岩波古語辞典から抜粋)
西行歌では(いとふ)に多様な言葉を接続させて用いられて
います。
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1 ぬしいかに風渡るとていとふらむよそにうれしき梅の匂を
(岩波文庫山家集20P春歌・新潮38番・西行上人集・
山家心中集・雲葉集)
2 嶺にちる花は谷なる木にぞ咲くいたくいとはじ春の山風
(岩波文庫山家集33P春歌・新潮155番・
西行上人集・山家心中集)
3 いかでわれ此世の外の思ひ出に風をいとはで花をながめむ
(岩波文庫山家集36P春歌・新潮108番)
4 もろともに我をも具してちりね花うき世をいとふ心ある身ぞ
(岩波文庫山家集36P春歌・新潮118番・西行上人集・
山家心中集・夫木抄)
5 心えつただ一すぢに今よりは花を惜しまで風をいとはむ
(岩波文庫山家集37P春歌・新潮131番)
6 かべに生ふる小草にわぶる蛬しぐるる庭の露いとふらし
(岩波文庫山家集65P秋歌・新潮461番・夫木抄)
7 いとふ世も月すむ秋になりぬれば長らへずばと思ふなるかな
(岩波文庫山家集77P秋歌・新潮403番・
西行上人集・山家心中集)
8 いとへどもさすがに雲のうちちりて月のあたりを離れざりけり
(岩波文庫山家集81P秋歌・新潮373番)
9 うき身こそいとひながらもあはれなれ月をながめて年をへぬれば
(岩波文庫山家集83P秋歌・西行上人集・御裳濯河歌合・
玉葉集・玄玉集・万代集・西行物語)
10 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
(岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮752番・西行上人集・
新古今集・三十六人歌合)
11 わたの原波にも月はかくれけり都の山を何いとひけむ
(岩波文庫山家集109P羇旅歌・新潮1102番・
西行上人集・山家心中集・玉葉集)
12 うたたねの夢をいとひし床の上の今朝いかばかり起きうかるらむ
(岩波文庫山家集157P恋歌・新潮1262番)
13 わりなしな袖に歎きのみつままに命をのみもいとふ心は
(岩波文庫山家集159P恋歌・新潮1282番)
14 身をもいとひ人のつらさも歎かれて思ひ数ある頃にもあるかな
(岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1293番)
15 我のみぞ我が心をばいとほしむあはれむ人のなきにつけても
(岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1305番・夫木抄)
16 いとほしやさらに心のをさなびてたまぎれらるる戀もするかな
(岩波文庫山家集162P恋歌・新潮1320番・夫木抄)
17 とにかくにいとはまほしき世なれども君が住むにもひかれぬるかな
(岩波文庫山家集164P恋歌・新潮1348番・
西行上人集・山家心中集・玉葉集)
18 くやしくもよしなく君に馴れそめていとふ都のしのばれぬべき
(岩波文庫山家集175P雑歌・新潮755番・
西行上人集・山家心中集・玉葉集)
19 何ごとにとまる心のありければ更にしも又世のいとはしき
(岩波文庫山家集187P雑歌・新潮729番・西行上人集・
山家心中集・新古今集・宮河歌合・西行物語)
20 ながらへむと思ふ心ぞつゆもなきいとふにだにも足らぬうき身は
(岩波文庫山家集191P雑歌・新潮718番)
21 山里にうき世いとはむ友もがなくやしく過ぎし昔かたらむ
(岩波文庫山家集196P雑歌・西行上人集・
新古今集・西行物語)
22 世をいとふ名をだにもさはとどめおきて數ならぬ身の思ひ出にせむ
(岩波文庫山家集19P春歌197P雑歌・新潮724番・
西行上人集追而加書・新古今集・西行物語)
23 いとへただつゆのことをも思ひおかで草の庵のかりそめの世ぞ
(岩波文庫山家集241P聞書集)
24 いとひいでて無漏の境に入りしより□□みることはさとりにぞなる
(岩波文庫山家集246P聞書集)
25 とぢそむる氷をいかにいとふらむあぢ群渡る諏訪のみづうみ
(岩波文庫山家集277P補遺・夫木抄)
○ぬしいかに
(主いかに)で、梅の木のある住居の「主はどんな気持なのだ
ろうか・・・」という意味になります。
○蛬
キリギリスと読みます。岩波文庫山家集にはキリギリス歌は10首
あります。
○わたの原
海原のこと、広々とした大海のことです。「わた」は海を表す
古語です。
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟
(古今集・百人一首 小野篁)
○ながらへむ
未然形の(ながらう)に、助動詞の(む)が接続した形と思い
ますが、よく分かりません。古語辞典では「(ながら)に動詞
(経る)の(へ)が複合した語か」とあります。
(存えよう・永らえよう)という意味になります。
○つゆのこと
少しのこと、という意味です。短くてはかない人生そのものをも
表しています。草の庵の(草)と縁語になります。
○無漏(むろ)
仏教用語で有漏の対語です。漏は煩悩のことであり、煩悩が一切
ない状態を無漏と言います。
○□□みることは
和歌文学大系21では□□は(聞き)としています。
○あぢ群
マガモより小さい「ともえ鴨」の群れのことです。
○諏訪のみづうみ
長野県の諏訪湖のことです。信濃一宮の諏訪大社下社が諏訪湖の
すぐ近くにあります。
(1番の歌の解釈)
「梅の庵主は風が吹くのを今頃どんなにいやがっているだろう。
私の山家は咲いてもいないのに散った梅の香が運ばれてうれしい
のだが。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(9番の歌の解釈)
「いつまでも月に執するうき身をこそ、厭いながらも、また
あわれにも思う。何しろ毎年毎年月に執して年を重ねて来たわが
身であるから。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
(17番の歌の解釈)
「とかく何かにつけ厭わしく遁れたいと思うこの世であるが、恋
しいあなたが住んでいると思うにつけても捨てきれず、心の惹か
れることであるよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(19番の歌の解釈)
「俗世の何に執着心が残っていたから、出家を断行してもそれ
でもなおこの世を厭いたくなるのだろう。」
「とまる心=俗世に対して持つ執着。」
(和歌文学大系21から抜粋)