もどる

いく〜いす いせ〜いそ いた〜いと いな〜いも いら〜いん


【いな舟・稲舟】

 稲を運ぶ舟のことです。
 (否=いな)は否定を表す言葉ですが、稲と否は発音が同じこと
 から(否=稲)として、掛けている詠み方もされます。
 「最上川を運行する舟がへさきを左右に振りながら進むゆえに、
 「否舟」というとする説もあったが、「いなぶねの」は「否」
 を導き出すための同音反復の序詞であり、実体は稲を運ぶ舟と
 見るのが自然である。」
     (片桐洋一氏著「歌枕歌ことば辞典増訂版」から抜粋)

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  ゆかりありける人の、新院の勘当なりけるをゆるし給ふべき
  よし申し入れたりける御返事に

1 最上川つなでひくともいな舟のしばしがほどはいかりおろさむ
                     (崇徳院の詠歌)
     (岩波文庫山家集183P春歌・新潮1163番・西行上人集・
                    山家心中集・夫木抄)
 御返りごとたてまつりけり

2 つよくひく綱手と見せよもがみ川その稲舟のいかりをさめて
                      (西行の返歌) 
     (岩波文庫山家集183P春歌・新潮11644番・西行上人集・
                    山家心中集・夫木抄)

○ゆかりありける人

 誰であるのか具体的な個人名は不明です。西行との共通の知人が
 崇徳上皇の怒りを買っていたということがあったものと思います。
 一説に藤原俊成説があるようです。

○新院

 崇徳上皇のこと。崇徳天皇が退位して新院となったのは1141年12月
 のことです。

○勘当

 当は古字の「當」です。現在は「当」の文字を使います。
 江戸時代以降は親が子と絶縁する意味で使われますが、ここでは
 「勘に障っている」という怒りの大きさを表しています。

○最上川

 山形県中部を貫流する河で長さは229キロ。山形、福島県境の
 吾妻山を源流として酒田市で日本海に注いでいます。日本有数の
 急流です。後年、この河を行き来する船頭たちの「最上川舟歌」
 が流行したそうです。

○つなでひく

 (綱手引く)の意味です。稲舟を引く綱のことですが、実際には
 崇徳院も西行も稲舟の綱を引くわけではありませんから、ここ
 では崇徳院の指導力なり徳の力なりを表すための言葉として用い
 られています。

○いかりおろさむ 

 (いかり)は舟に用いる碇と、人の感情の怒りを掛けている言葉
 です。
(おろさむ)は(くらさむ)(あかさむ)(あらはさむ)などの
 (む)の付く用法と同じで、(おろす)の活用形に助動詞(む)
 が付いた形です。
 (おろそう)という意味になります。下ろす、沈めるということ
 ですが、鎮める、納めるという意味にはならず、怒りを引き上げる
 ことなくそのまま持ち続けようということになります。ちょっと
 分かりにくい表現です。
 新潮版には(いかりおろさん)とありますが、異同の(む)と
 (ん)は同義です。

(1番の歌の解釈)

 「最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張って
 いることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこの
 ままでお前の願いも拒否しょう。舟が碇を下ろし動かないように」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番の歌の解釈)

 「最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒り
 をおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私
 の切なるお願いをおきき届け下さい。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
  
この二首は崇徳院と西行の贈答歌です。西行が、ある人に対しての
怒りを崇徳院の高徳を見せて解いて欲しいという願いを伝えていて、
その願いに歌で返したのが1番歌です。崇徳院の1番歌に対して、
西行は2番歌で院に意見をしていることになります。結果としては、
西行の思いを受け入れていることが詞書に見えます。

西行在世中の天皇は鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇、
二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇となります。
このうち、西行が知遇を得ていたのは鳥羽上皇と崇徳上皇です。
西行は在俗時代には鳥羽院の北面の武士でしたし、鳥羽上皇の葬送
の時にはたまたま京都にいて、葬儀の場で読経しています。
(岩波文庫山家集202ページ、哀傷歌)
崇徳上皇とは贈答の歌があるほどに親しい関係でした。一介の出家
者と院という立場の違いを超えて、驚くべきほどに親しくしていた
ものと思われます。保元の乱では敗れて仁和寺に籠もった崇徳上皇
の元に駆けつけましたし、その後に讃岐に配流された院との贈答の
歌もあります。崇徳院没後には讃岐の白峰陵にも詣でています。

【稲むしろ】

 稲の藁で作った筵のことです。一説に(寝「いね」むしろ)の
 こととも言われます。
 田の稲の実って乱れ伏したさまを、むしろにみなして言う言葉。
 西行歌は稲から作ったの筵そのものを言うのではなくて、稲の
 倒れ伏した様を言っています。

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1 夕露の玉しく小田の稲むしろかへす穗末に月ぞ宿れる
     (岩波文庫山家集75P秋歌・新潮396番・西行上人集・
                   山家心中集・夫木抄)

(1番の歌の解釈)

 「夕露が白玉のように美しく一面の稲田に敷き延べられ、露の
 重みで揺れ返した稲の穂先にきらりと月が光る。」
 「夕露の玉敷く小田=夕方の露が白玉のように美しく敷き詰めた
 田。
 稲筵=稲が筵のように一面に穂を実らせた様子。
 返す穂末に=露の重みで揺れ返した穂の先に。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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◎ 秋の田のかりねの床のいなむしろ月やどれともしける露かな
               (新古今集430番 大中臣定雅)

◎ 嵐吹く岸のやなぎのいなむしろ織りしく波にまかせてぞ見る
                 (新古今集71番 崇徳院) 

【命なりけり】

 (命)という名詞に(なり・けり)をつける用法には少しく疑問
 がありますが、こういう用い方が和歌的な用法かもしれません。
 
 (命が続いてきたからこそだなー)という詠嘆の言葉です。自身
 のこれまでの来し方を振り返っての個人に根ざしたさまざまな
 思いが凝縮している言葉です。必然として詠者は高齢である
 ことを証明しているともいえます。

【命に頼む】

 個体の命を永らえるために、特定のものに頼りきっているという
 こと。2番歌では水のことです。

【命をなぞや】

 (などや)は命にかかる言葉ではなくして、結句にかかる言葉
 です。
 (などや)は、どうしてか・・・という意味。疑問を表す言葉
 です。(などか)(などて)などとほぼ同じ意味合いです。

○ (命)という名詞の入った歌は岩波文庫山家集中に22首ありま
  すが、ここでは3首のみ取り上げます。
  ほかに松屋本山家集から1首紹介します。

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1 年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・西行上人集・
                    新古今集・西行物語)
                  
2 水ひたる池にうるほふしたたりを命に頼むいろくづやたれ
          (岩波文庫山家集213P哀傷歌・新潮1518番)

3 川の瀬によに消えぬべきうたかたの命をなぞや君がたのむる
           (岩波文庫山家集159P恋歌・新潮1290番)

4 のべの露草のはごとにすがれるは世にある人のいのちなりけり
                      (松屋本山家集)
             
○年たけて
 69歳という自身の年齢を言っています。「たけて」は高くなって
 ということ。高齢ということを意味します。

○又こゆべし
 再度、小夜の中山の急峻な峠道を越えるということ。このことに
 よって、初度の陸奥までの旅の帰途は東海道ではなくて東山道を
 たどったという、その可能性を思わせます。
 ちなみに小夜の中山の峠道は西行時代からはずいぶんと改変され
 ているらしくて、現在では難所という感じはしません。

○さやの中山

 東海道の難所の一つです。現在の静岡県掛川市にある坂路で、
 東海道の日坂と金谷を結んでいます。道は歩きやすく整備されて
 いて、現在では西行当時を偲べないようです。

○いろくづやたれ

 (いろくづ)とは原意は魚の鱗のことです。
 ここでは淡水に住む小魚を言いますが、海生の小魚も(いろくづ)
 と言っていたのかもしれません。
 たれは(誰)です。(たれ)は西行自身を卑小化させて(いろくづ)
 に例えています。自身が小さな魚のような存在であり、仏教という
 命と頼むものが無ければ死んでしまうということを言っています。

○よに消えぬべき

 (よ)は(世)ではなくて(非常に・とても)の意味です。
 (よに消えぬべき)で、すぐに消滅するという意味になります。

○君がたのむる

 頼りにするということの主体と客体がよく分からない歌ですが、
 これは恋歌ですから西行が(あるいは男性が)女性から頼られた
 というふうに解釈したいと思います。
 
(1番歌の解釈)

 「小夜の中山は歌枕として有名だが、その詠まれている多くの
 例歌からみると、難所で、荒涼として寂しい場所であり、旅の
 寂しさや苦痛が身にしみるところであった。
 西行の詠歌の発想は、しみじみと40年前の旅を想いださせるの
 に十分な孤独感を味わわせる、小夜の中山の風土にあったと思わ
 れる。そして「思ひきや」の表現によって、ふたたびこの地に
 くることができたという喜びが内包されている。しかし、この
 一首からうけるはげしい感動のみなもとは、「命なりけり」に
 凝集されたところにある。すなわち、西行自身、わが心をみつめ
 て、生きながらえているわが命を実感し、それを喜び感動して
 いる心と姿が、読者に強く訴えてくる迫力になっているのだと
 思われる。(中略)
 景物としての、伝統的な小夜の中山を詠んだだけのものでなく、
 伝統的な歌枕の地で、西行がわが命を直視した結果から生まれる
 喜びの、感動の詠出であったと理会したい。」
          (集英社刊 有吉保氏著「西行」から抜粋)

 「長い人生の時間を一瞬にちぢめてのはげしい詠嘆とともに、
 また、ここまで年輪を刻んできた自らの命をしみじみと見つめ
 いとおしんでいる沈潜した思いが、一首にはある。調べも、そう
 いう内容にふさわしく、反語を用いての三句切れの後、さらに第
 四句でもするどく切れるという、小刻みに強い調べによって激情
 を伝えた後、名詞止めの結句によって、そういう激情はしっかりと
 受け止められているのである。(中略)
 「命あればこそ」の感慨は50歳を過ぎた西行の心中でいよいよ深
 まりつつあったのだと思われるが、その後さらに十数年を経て、
 思い出の地を通ったとき、その思いはいっそう痛烈に沸いたので
 あった。「命なりけり」、この平凡ではあるが重い感慨を心に深く
 いだきつつ、老いたる西行は、すでにはるかに過ぎてきた自らの
 人生の旅路を思ったのである。」
         (彌生書房刊 安田章生氏著「西行」から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「水の乾涸らびた池にわずかに残った水滴を、生命の糧と頼る魚
 とは一体誰のことか。他ならぬ私である。」
                  (歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「つれないあなたの訪れを待ちかね、川瀬の早い流れに浮かぶ
 水泡のごときはかない私の命なのに、なぜあなたは私に期待を
 抱かせるのでしょうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「流れの速い川の瀬にすぐにも消えそうな水の泡の命。それが
 私なのに、どうしてあなたなどを頼りにしてしまったのだろう。」
                  (歌文学大系21から抜粋)

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○「命なりけり」歌について

「命なりけり」という言葉は西行が始めて使った言葉ではなくて
先例がいくつもあり、西行以後にも使われています。
このフレーズのある歌は合計31首あるそうです。そのうち30首は
結句に用いられ、それ以外の一首が西行の「年たけて」歌とのこと
です。

◎ 限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
                 (源氏物語・桐壺)

◎  春ごとに花のさかりはありなめどあひみんことは命なりけり
              (古今集97番 よみ人しらず)

◎ もみぢ葉を風にまかせて見るよりもはかなきものは命なりけり
               (古今集859番 大江千里)

【いはけなき身・いはけなかりし】 (山、218・226・249)

【いはけなき身】

 「いはけ」は、子供っぽくて、頼りないことを指します。
幼い身。幼児、子供の身、その時代ということ。
 「なき」は、(甚だしく)の意味で「いはけ」を強調しています。
 「いわけなき程より学問に心を入れて」など、源氏物語にも多く
 の用例があります。

【いはけなかりし】
 
 「いはけなき」と同義です。
 年端が行かず、分別とか道理の分からない子供だということ。
 
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1 乳もなくていはけなき身のあはれみはこの法みてぞ思ひしらるる
           (岩波文庫山家集226P聞書集・夫木抄)

2 いさぎよき玉を心にみがき出でていはけなき身に悟をぞえし
          (岩波文庫山家集218P釈教歌・新潮883番)

3 恋しきをたはぶれられしそのかみのいはけなかりし折のこころは 
               (岩波文庫山家集249P聞書集174番)

○乳もなくて

 赤ん坊、幼児の時に飲むべき乳が無い、つまりは母親がいないと
 いうことを表しています。

○この法みてぞ

 法華経二十八品のうちの譬喩品(ひゆぼん)を読んでみて、
 ということです。
 「三界はすべて仏のものであり、衆生はすべて仏の子である」
 ということが説かれています。
                (和歌文学大系21を参考)

 岩波文庫山家集218Pにも譬喩品からの歌があります。

 法しらぬ人をぞげにはうしとみる三の車にこころかけねば
          (岩波文庫山家集218P釈教歌・新潮880番)

○いさぎよき玉を

 「いさぎよき=潔き」は、大層清らかである、汚れがない、すが
 すがしい、という意味です。
 玉は宝珠ということですが、宝珠とはここでは法華経そのものの
 例えということです。法華経の真髄ということなのでしょう。

○そのかみ

 今よりは以前のこと。過去のこと。
 したがって過去の出来事を詠んだ懐旧の歌です。
 
○たはぶれられし

 真剣に受け止めてもらえず軽くあしらわれたということ。
 冗談ごととして面白がられたということ。

 (2番歌の解釈)

 「清らかな玉を心の中に磨き出して、龍女は幼い八歳の身で悟る
 ことができたのだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 詞書に「提婆品」とありますが詳しくは「提婆達多品」といいます。
 この経典からの歌は3首連作になっています。
 龍王の娘、八歳で死亡した龍女が女身でありながら仏身となった
 経緯が説かれています。成仏して後、龍女は男性に変化したと
 いうことですから、経典自体も男尊女卑の思想が根本から強い
 ものだった、ということでしょう。
 
 (3番歌の解釈)
 
 「恋しいのを冗談ごとにあしらわれた、その昔の幼かった時の
 心といったら・・・。少年の日の心の痛みを、老年に至って追想。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 この3番歌は聞書集に収められていて「たはぶれ歌」13首の中の
 1首です。西行の最晩年、再度の陸奥の旅から京都に戻ってきて、
 嵯峨の庵に住んだころに詠んだ歌だとみなされています。

【いはしろ】 (山、152)→岩代

【いはまくら】 (山、279)→岩枕

【いはれ野】 (山、58・63)→磐余野     

【いひがほ】

 「いひ」は言う、「がほ」は顔です。あわせて(ものを言いた
 そうな顔つき)という意味になります。
 「がほ」は西行が好んで使った言葉ともいえますが、なんだか
 散文的ですね。源氏物語にもたくさんの用例があります。

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1 あたりまであはれ知れともいひがほに萩の音する秋の夕風
            (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮288番)

○萩の音する

 なんとも読解のできかねるフレーズです。いくら吹きすさぶ風が
 強くても萩の音する・・・という表現は、無謀のようにも思い
 ます。それだけ印象的なものとも思えません。強風による木々の
 ざわめきなどと違って、萩という植物が風によって起こる音と
 いうのであればリアリティに乏しいと思います。
 この歌は誤植があるか、あるいは単純な情景歌ではなく、複雑な
 思い入れを込めた歌なのかも知れないとも思わせます。
 
(1番歌の解釈)

 「秋の夕暮の風が隣家の萩の上葉を吹き越し、あたり一帯にまで
 秋のあわれを知れと言わんばかりに、その葉ずれの音が自分の所
 まで聞こえてくることである。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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【(がほ)歌について】

(がほ)のフレーズの入った歌は西行が好んで詠んだ歌とも言え
ます。
                  
いひがほ・恨みがほ・嬉しがほ・かけもちがほ・きかずがほ・
たより得がほ・つけがほ・告げがほ(2)・所えがほ・ぬるるがほ・
見がほ・見せがほ・もりがほ・わがものがほ、かこち顔。

以上15種類、16首あります。源氏物語にも「○○がほ」という記述
はありますから、西行の「がほ」歌はあるいは源氏物語の影響なの
かもしれません。
以下に歌を記しておきます。歌意については順に説明します。

01 たちかはる春を知れとも見せがほに年をへだつる霞なりける
     (岩波文庫山家集14P春歌・新潮04番・西行上人集・
                山家心中集・御裳濯河歌合)

02 よしの山人に心をつけがほに花よりさきにかかる白雲
     (岩波文庫山家集32P春歌・新潮143番・西行上人集・
                  山家心中集・新後撰集)

03 ま菅おふる山田に水をまかすれば嬉しがほにも鳴く蛙かな
     (岩波文庫山家集39P春歌・新潮176番・西行上人集・
               山家心中集・風雅集・月詣集)

04 かり残すみづの眞菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
      (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1018番・夫木抄)

05 時鳥なかで明けぬと告げがほにまたれぬ鳥のねぞ聞ゆなる
          (岩波文庫山家集43P夏歌・新潮186番・
                 西行上人集・山家心中集)
  
06 里なるるたそがれどきの郭公きかずがほにて又なのらせむ
    (岩波文庫山家集44P秋歌・新潮181番・西行上人集・
               山家心中集・玉葉集・万代集)

07 をみなへし池のさ波に枝ひぢて物思ふ袖のぬるるがほなる
   (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮284番・万代集・夫木抄)

08 きりぎりす夜寒になるを告げがほに枕のもとに來つつ鳴くなり
           (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮455番)
                 
09 こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露
     (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮379番・西行上人集・
                   山家心中集・夫木抄) 

10 月を見る心のふしをとがにしてたより得がほにぬるる袖かな
           (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮625番) 

11 よもすがら月を見がほにもてなして心のやみにまよふ頃かな
           (岩波文庫山家集150P恋歌・新潮640番)
                   
12 身をしれば人のとがとは思はぬに恨みがほにもぬるる袖かな
     (岩波文庫山家集153P恋歌・新潮680番・西行上人集・
         山家心中集・宮河歌合・新古今集・西行物語) 

13 数ならぬ身をも心のもりがほにうかれては又帰り来にけり
            (岩波文庫山家集196P雑歌・新古今集)
                  
14 誰ならむ吉野の山のはつ花をわがものがほに折りてかへれる
                (岩波文庫山家集247P聞書集)

15 あたりまであはれ知れともいひがほに萩の音する秋の夕風
            (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮288番)

16 なげけとて月やはものを思はするかこ顔なる我が涙かな
     (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮628番・西行上人集・
        山家心中集・御裳濯河歌合・千載集・百人一首) 
                
【いひすさみて】

 「いひ」は(言い)です。
 「すさむ」は(ひどくなる、荒々しくなる、すさまじくなる)
 などの意味もありますが、ここでは(口ずさむ)と同じ意味に
 なります。
 心に思い浮かぶままに言葉を口にするということです。

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1  伊勢に人のまうで来て、「かかる連歌こそ、兵衛殿の局せら
   れたりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」と語りけるを
   聞きて

  こころきるてなる氷のかげのみか
                (岩波文庫山家集256P聞書集)
                   
○伊勢に人のまうで来て

 面識のある人が伊勢に詣で来て、ということ。

○兵衛殿の局

 生没年不詳です。
 藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
 門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。
 西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
 自選家集があったとのことですが、現存していません。

 この歌は連歌の付句ですから、これだけ取り上げても意味不明の
 ものになります。前の句と詞書も紹介します。

  上西門院にて、わかき殿上の人々、兵衛の局にあひ申して、
  武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて、月のころ、
  歌よみ、連歌つづけなんどせられけるに、武者のこといで
  来たりけるつづきの連歌に

  いくさを照らすゆみはりの月

○上西門院にて

 上西門院の住んでいる所という意味ですから、法金剛院だろうと
 思います。

○武者のことにまぎれて

 1180年からの源平の争乱を指しています。

○月のころ、歌よみ
 
 月の美しい頃。八月の十五夜か九月の十三夜の頃に上西門院御所
 で、昇殿を許された若い官人達と兵衛の局を交えての歌会が開か
 れたということです。

○ゆみはりの月

 弓形をしている月のこと。上弦と下弦の月のこと。
 弓は武者の象徴でもあり、戦の縁語です。

 (連歌の解釈)

 兵衛の局の前句

 「戦場を照らす弓張の月よ」

 西行の付け句

 「心を切る、手の中にある氷のような剣の刃ばかりか」
                (和歌文学大系21から抜粋)
    
【いぶき・伊吹】 (山、169)

 岐阜県と滋賀県の県境になる伊吹山のことです。伊吹山地の
 主峰が伊吹山。標高1377メートル。
 伊吹山には日本武尊受難の伝説があります。高山植物や薬草が
 多いこと、降雪の多さなどで知られています。
 山中のヨモギの葉から製造した「もぐさ」は(伊吹もぐさ)と
 して古くから有名です。
 行政区としての伊吹町は伊吹山西麓、滋賀県坂田郡にあります。

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1 くれ舟よあさづまわたり今朝なせそ伊吹のたけに雪しまくなり
       (岩波文庫山家集169P雑歌・新潮1006番・夫木抄)
             

2 おぼつかないぶきおろしの風さきにあさづま舟はあひやしぬらむ
          (岩波文庫山家集169P雑歌・新潮1005番・
              西行上人集・山家心中集・夫木抄)

(参考歌)
3 鳥邊野を心のうちに分け行けばいぶきの露に袖ぞそぼつる
          (岩波文庫山家集192P雑歌・新潮757番・
                山家心中集・西行上人集)

4 杣くたすまくにがおくの河上にたつきうつべしこけさ浪よる
   (岩波文庫山家集166P雑歌・西行上人集追而加書・夫木抄)

○くれ舟

 「榑=くれ」とは山出しの板材を指します。平安時代の規格では
 長さ十二尺、幅六寸、厚さ四寸と決まっていました。
 山から切り出したばかりの材木との説(新潮版山家集)もあります。
 その「くれ」を積んで運ぶ舟のことです。
                 (広辞苑 第二版を参考)

○あさづまわたり

 琵琶湖東岸の朝妻港を起点にして他の港に舟で渡るということ。

○今朝なせそ

 (今朝な寄せそ)の略で今朝は寄港したらダメです、という
 希望なり警告なりの言葉。

○雪しまく

 (しまく)は(風巻く)の文字をあてています。新潮版では(し)
 は(風)の古語とあります。「雪しまく」で雪と風が激しいさま
 を表し、吹雪のことです。

○いぶきおろし

 伊吹山地(主峰は伊吹山)から吹き降ろす風のこと。伊吹山の
 標高は1377メートル。滋賀県の北東部にあたります。

○あさづま舟

 朝妻舟。古代から近世初頭まで琵琶湖北東岸の朝妻港(現在の
 滋賀県米原町付近)と大津港を結んだ渡し舟をいう。東国と畿内
 を行き来した旅人が、陸路をとらない時に利用したもの。実際に
 遊女を乗せた朝妻舟もあったようです。
 「妻」という名詞があることによって、謡曲の「室君」では、
 遊女を乗せる舟とされています。

○あひやしぬらむ

 遭うのかも知れないなーという想像、推量の言葉。
 「・・・しぬらむ」は西行歌に四首あります。新潮版では
 「・・・しぬらん」です。

 (1番歌の解釈)

 「くれ舟よ(皮付きの材木、榑を積んだ舟)朝妻の渡りを今朝は
 渡るなよ。伊吹山に雪が激しく吹きまくるようだ。その風で航海
 は危険だよ。(くれ と あさ と対照させている。)
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 (2番歌の解釈)

 「気がかりなことだ。伊吹颪の吹いて行く方向に、朝妻舟は
 出会ったのではなかろうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (参考歌3番について)

 「陽明文庫版のみ(いぶき)となっています。板本の類題本では
 (いまき)西行法師家集では(いそぢ)と異同があります。
 (いぶき)であるとしても(息吹)では意味が通りません。
 和歌文学大系21では(伊吹)としています。
 ただし(伊吹)は伊吹地方の地名ではなくて植物の名詞としての
 伊吹(ヤマヨモギ)を指しているとのことです。
 百人一首51番藤原実方の(さしも草)と同義。そして伊吹を息吹
 に掛けていると解説されています。
 ヒノキカシワのことを(伊吹)といいますが、ヤマヨモギを
 (伊吹)とするのは初めて知りました。手持ちの辞書などには
 その記載がなく分かりませんでした。
 
 「葬地鳥辺野を生きながらに草葉を分けて入って行くと、伊吹に
 宿る露に袖がぐっしょりと濡れた。生気を感じさせる草の露も人
 の命と同じようにはかなく散ることに、私は涙していたようだ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
 (参考歌4番について)

 (まくにがおく)は西行法師家集追而加書では(いぶきがおく)
 となっています。(まくにがおく)は紀伊の国那賀郡という説が
 あります。伊吹山のことでしたら揖斐川が関係するようです。

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◎ かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを
            (藤原実方 百人一首51番・後拾遺集)

◎ 今日も又かくやいぶきのさしも草さらばわれのみ燃えや渡らむ
                (和泉式部 新古今集1012番)

◎ 逢ふ事はいつといぶきの嶺に生ふるさしも絶えせぬ思なりけり
                (藤原家房 新古今集1131番)

【いへづと】

 (づと)とは包んだもの、包みのことを言います。
 藁などを束ねて物を包んだものを(わらづと)、携えて持ち帰る
 お土産を(いえづと)といいます。
 (春のいへづと)は、春という季節がもたらせてくれるお土産と
 いう意味です。花のある世界を自分のみが心の中にしっかりと
 記憶にとどめておくべきもの・・・ということなのでしょう。

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1 山櫻かざしの花に折そへてかぎりの春のいへづとにせむ
          (岩波文庫山家集34P春歌・聞書集235P・
              西行上人集追而加書・宮河歌合)

○かざしの花

 頭髪に挿した生花や造花を指します。
 
○かぎりの春

 今年かぎりの春と解釈して良いと思います。高齢になると、一年
 一年が先が分からなくなりますし、自分の寿命も今年限りと常に
 思いながら月日を過ごすものです。
 老いの身の無常観が分かるフレーズです。

 この歌は伊達家所蔵の「聞書集」にある歌です。したがって、34
 ページ春歌にある歌は聞書集からの転載です。聞書集では以下の
 ようになっています。

 山ざくらかしらの花にをりそへてかぎりの春のいへづとにせむ

 (かしら)と(かざし)のフレーズの違いがあります。(かしら)
 が正しく(かざし)は校正ミスともいえます。

 (歌の解釈)

 「山桜を、私の頭の白い花に折り添えて挿し、今年限りの春の
 土産にしょう。」
                  (和歌文学大系21から抜粋)

【いませかし】

 (い・ませ・かし)が結びついた言葉です。
 (い)は(居る・居ない)の(い)、(ませ)は(まし)の未然
 形。(かし)は強く念をおす、強調する、という意味があります。
 「います」は(坐す=います=そこにある方に対しての尊敬語)。
 「いませかし」で「おられたらいいのだが」という意味となり、
 勅書を出す天皇がいればいいのに・・・という希望を述べた言葉
 となります。

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1 勅とかやくだす御門のいませかしさらば恐れて花やちらぬと
     (岩波文庫山家集36P春歌・新潮106番・西行上人集・
                   山家心中集・夫木抄)

○勅

 天皇の命令のことです。勅書といいます。

○御門

 (みかど)と読みます。特に皇居の門を指します。
 転じて、朝廷、皇室、天皇という意味も持ちます。
 
 白河天皇が、仏事の日に雨が降ったので、器に貯めた雨滴を獄舎に
 入れたという記述が古事談にあります。その先例を意識して詠んだ
 歌です。

 (歌の解釈)

 「桜の花に対して散ってはならぬと勅を下される帝がおいでに
 なってほしい。そうしたら桜も勅に背くことをおそれて散らない
 かと思われるから。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【いまき】 (山、192) →「伊吹」41号参照

【今だにかかる、いまだかけぬ】 (山、195)

(今だにかかる)

 (赤染衛門)の歌のフレーズを借用してのものです。大覚寺の
 「名古曽の滝」を詠んだ歌です。かかるは滝を流れ落ちる水に
 対してのものです。赤染衛門が歌を詠んだ頃は辛うじて滝の水
 があったようですが、西行の時代には水は枯れていて、滝の石
 なども閑院に移されていました。
 「名古曽の滝」は大覚寺の庭内、大沢の池の少し北にあります。
 下は赤染衛門の歌です。

 「あせにけるいまだにかかる瀧つ瀬の早くぞ人は見るべかりける」
               (赤染衛門 後拾遺集1058番)

(いまだかけぬ)

 (嶺にはいまだかけぬ白雲)が下句です。嶺にはまだまだ白雲が
 かかっていないが・・・という意味です。白雲は桜の比喩表現
 です。

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1  大覚寺の瀧殿の石ども、閑院にうつされて跡もなくなりたりと
  聞きて、見にまかりたりけるに、赤染が、今だにかかるとよみ
  けん折おもひ出でられて、あはれとおもほえければよみける

  今だにもかかりといひし瀧つせのその折までは昔なりけむ
           (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1048番・
             西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

2  おぼつかな谷は櫻のいかならむ嶺にはいまだかけぬ白雲
            (岩波文庫山家集32P春歌・新潮146番)
              
○大覚寺

 真言宗大覚寺派の総本山です。仁和寺と並び第一級の門跡寺院。
 第50代桓武天皇の子で52代嵯峨天皇の離宮として造営され、嵯峨
 御所ともいわれました。嵯峨天皇は834年から842年まで檀林皇后
 (橘嘉智子)と、ここで過ごしています。
 後にお寺となり、後宇多法皇はここで院政を行っています。
 また、1392年の南北朝の講和はこの寺で行われました。
 庭湖としての大沢の池があります。観月の名所です。

○閑院

 現在の二条城の東あたりにあった藤原氏北家流の邸宅のこと。
 もともとは藤原冬嗣の私邸。後三条天皇、堀川天皇、高倉天皇
 などの里内裏として、臨時の皇居になっていました。たびたびの
 火災にあっています。
 1259年に放火のため焼亡してからは、再建されていません。

○赤染=赤染衛門

 平安時代中期の女性歌人で、生没年は未詳です。1041年曾孫の大江
 匡房の誕生の時には生存していましたが、その後まもなく80歳以上
 で没したものと見られています。 
 藤原氏全盛期の道長時代に活躍した代表的な女流歌人で、中古
 三十六歌仙の一人として知られています。家集に「赤染衛門集」
 があり、また、「栄花物語」の作者と見られています。

○おぼつかな

 西行が好んで用いた言葉です。
 物事がはっきりとしない状態。はっきりしないことに対しての
 不安を表す言葉です。

○白雲

 桜の花を白雲に見立てています。
 (いまだかけぬ白雲)で桜はまだまだ開花していず、待ち遠しい
 気持を表しています。

(1番歌の解釈)

 「今でさえもこんなに見事に滝がかかっている、と赤染が詠んだ
 名こその滝は、もう今は立石に至るまで跡形もない。あの歌の頃
 はまだ面影が残っていたんだな。全く惜しいことをした。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

 この項は第3号「赤染」の項で記述済みですが再度載せます。

(2番歌の解釈)

 「いつ咲くことか心もとなく思われるよ。谷では桜はどうなって
 いるのだろう、峯にはまだ桜を思わせる白雲もかかっていないの
 だが。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【いみこし人・いむ姿】 (山、223)

(いみこし人)
 
 (忌み来し人)です。
 斎院制度はとりわけ神聖さが重要視されていた制度です。
 制度自体が僧体を忌避していたと言えます。
 
(いむ姿)

 僧体を指します。自発的な出家であり、西行自身ではむしろ薄墨
 の衣の姿は誇りだったはずです。決して忌む立場、忌む姿では
 ないはずです。
 ただし、伊勢神宮が僧侶の参拝を厳しく忌避していたように、
 斎院は神聖さを備えた立場です。その神聖さに対して相対的に
 僧侶は忌むべきものとなります。
 斎院であった内親王に対して謙譲的に、自身を一段低いものと
 して表現しているとも言えます。
    
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1  君すまぬ御うちは荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな
          (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1224番・
              西行上人集・山家心中集・夫木抄)

2  思ひきやいみこし人のつてにして馴れし御うちを聞かむものとは
                     (宣旨の局の返歌)
          (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1225番・
                  西行上人集・山家心中集)

○君すまぬ

 紫野の斎院御所に斎院が居られないということ。
 (君)とは、鳥羽天皇皇女頌子内親王のことといわれます。第33
 代斎院です。約1ヶ月半の短い斎院でした。病により退下。当時
 27歳でした。後に五辻の斎院と言われました。
 
 母は春日局といい、徳大寺実能の養女です。美福門院に仕えて
 いた女房ですが、鳥羽天皇の寵愛を得て、頌子内親王を産みま
 した。  
 頌子内親王は父の鳥羽天皇の菩提を弔うために、高野山に蓮華
 乗院を建立したのですが、それに西行が協力しています。その
 時の書状が今に残っています。「円位書状」と呼ばれています。

 しかし短い期間しか斎院ではなかったのに、宣旨の局の返歌に
 ある「馴れし」は少し不自然とも言えます。短い期間でありな
 がら「馴れし」と表現することによって、期間の短さの不運を
 強調し、西行の見舞い、誠意を感謝する表現との説もあります。
                 (和歌文学大系21を参考)

 頌子内親王の斎院退下は1171年8月。西行54歳の時で、宣旨の局
 とのこの贈答歌は1171年8月以降のこととみられています。

○御うち

 斎院御所を指します。斎院御所の中ということです。

○ありす川

 ここでいう「ありす川」は紫野の斎院御所内かその付近を流れて
 いた川のことです。
 「京都市の地名」によると、有栖川はかつては紫野、賀茂、嵯峨
 の3ヶ所にあったとの事ですが、現在は嵯峨の有栖川しかありま
 せん。
 ただし、本当に3ヶ所あったのかどうかは信用できない説のよう
 にも思います。長い歴史の中で、いつのまにか紫野の有栖川以外
 の川も「有栖川」として名付けられて、それが斎王と関連付け
 られて伝えられたりすることもあろうかと思います。

 嵯峨を流れる有栖川は斎川(いつきかわ)とも称されていたと
 いうことですから、嵯峨の野宮の斎王との関係があるのかもしれ
 ません。ただし右京区のこの川名の初出は吉田兼好の「徒然草」
 のようですから、平安時代にも「ありす川」と呼称していたか
 どうかは不明です。
 この小流は大覚寺の北、観空寺谷奥からの渓流と、広沢池から
 流れ出る水源が合流、嵯峨野を南流して桂川に注いでいます。

○思ひきや

 (思う)の連用形に助動詞(き)と反語助詞(や)の接続した
 もの。
 思ってきたことがあっただろうか・・・というほどの意味。

○つてにして

 伝えること。言い伝える言葉。
 西行から宣旨の局に伝えられたということを意味します。

○せんじの局

 斎院に仕えていた女官の官職のひとつです。現在風言葉でいうなら、
 斎院の広報官とも言えます。
 参考までに斎院御所に勤仕していた人たちの官職名を記します。

 (男性)
 別当・長官・次官・判官・主典・宮主・史生・使部・雑使・舎人
 (女性)
 女別当・内侍・宣旨・命婦・乳母・女蔵人・采女・女嬬

 (1番歌の解釈)

 「斎院が今はお住みになっていない本院の内はすっかり荒れて
 おり、かつて斎院が潔斎せられたお姿をうつした有栖川に、忌ま
 れる僧形のわが姿をうつしたことでありました。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
  
 (2番歌の解釈) 

 「思ってもみませんでした。斎院が忌み避けてきたはずの僧形の
 お方から、住み馴れたはずの斎院御所の様子をうかがうなんて、
 ありえないことばかりです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎ ちはやぶるいつきの宮の有栖川松とともにぞかげはすむべき
           (京極前太政大臣 藤原師実 千載集)

◎ 有栖川おなじながれはかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ
             (中院右大臣 源雅定 新古今集)
              
【妹がりゆきて】

(妹=いも)兄弟姉妹の妹という意味ではなくて、恋しい女性と
 いう意味です。万葉集で多く使われている言葉です。
(がり=許=もと)その人のいる場所という意味です。
(ゆきて=行きて)行くことです。
(妹がりゆきて)で、恋しい女性の元に行って・・・となります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1  わがおもふ妹がりゆきてほととぎす寢覚のそでのあはれつたへよ
          (岩波文庫山家集237P聞書集・西行上人集)
            
○寝覚めのそで

 恋の苦しみによる涙を暗示しています。恋の苦しみとはそんな
 ものだろうなーという共感を誘います。

 (歌の解釈)

 「私が恋しく思っている恋人のもとへ行って、郭公よ、寝覚めの
 袖のあわれを伝えてくれよ。
 参考「いとまなみ来まさぬ君にほととぎすあれかく恋ふと行きて
 告げこそ」(万葉・巻八・大伴坂上郎女)。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【いまゆら】 (山、249)→「いささめ」参照

 語意不明です。(まゆら)(ゆら)などを調べてみても分かり
 ません。和歌文学大系21では(たまゆら)に関係する言葉か?
 とあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1 いまゆらも小網にかかれるいささめのいさ又しらず恋ざめのよや
     (さで)        (岩波文庫山家集249P聞書集)

○いささめ

(いささめ)かりそめに・ふとしたこと・ひと時のこと、などを
       表す言葉。
(いささめ)スズキ目の淡水魚「イサザ」とも、シラウオの異名
       とも言われます。

この言葉自体が趣向を凝らした掛詞と言ってよく、いささめの
(め)は(女)の読みでもあり、真剣に向かい合う女性では
なくて(かりそめの女性)という意味も重ねています。

○いさ又しらず

 (いさ)は古語。(ええーと)、(さあーどうか)(うーん)
 などのように、会話の中で質問に対して明確に返答できない場合
 に、とりあえず言う言葉。否定的な気持ちで適当に受け流す状況
 下で、よく用いられます。
 (いさ又しらず)と、(知らず)という否定語と結びついて使わ
 れる場合の(また)は(同じことが再び)という意味よりも、
 あれもこれも・・・というニューアンスで用いられるようです。
 「さあ、どうだろうか。そのことについても私は全く知らない)
 と、いうほどの意味になります。

 「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」

 (いさ)については上記の百人一首35番の紀貫之の歌に、似た
 ような用例があります。

○恋ざめのよや
 (よや)は和歌文学大系21でも、渡部保氏の全注解でも(世や)
 としています。(夜や)とするなら、リアルさが伝わってきそう
 ですが、どうなのでしょう。難解な歌だと思います。
 (恋ざめの世や)で、(世)とすることによって、恋愛感情の
 終焉に至る彼我の関係を冷静に、そして客観的に見られる立ち
 位置にあることを示していると思います。実際にそういう体験が
 あったということを偲ばせてくれます。

(歌の解釈)

 「いまゆらも(語義不明)小さい網にかかっているいささめ
 (魚の名)のように(ここまでいさを言うための序)いさしらず
 (全く知らず)恋のさめてしまった世(男女の仲)よ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)