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かい〜かこ かさ〜かそ かた〜かほ かみ〜かん


【貝合せ】 (山、171)
 
 貝合わせは「物合わせ」のひとつで平安時代に始まったといわれる
 上流階級の女性たちの遊戯のひとつです。
 二枚貝の殻を二つに分け、それぞれの殻の内側に絵や和歌を書き
 込んで、同じ図柄や、和歌の上句と下句を合わせます。ばらばら
 にした貝殻の中から、同じ貝の貝殻を取り合うという遊びです。
 この遊芸は廃れることなく続いてきました。
 鎌倉時代には伊勢のハマグリがよく用いられたということです。
 藤原定家の冷泉家に伝わる貝を見ましたが、貝殻の内側に描かれて
 いる図柄は芸術品としても見事なものだと思いました。

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   伊勢の二見の浦に、さるやうなる女(め)の童どものあつ
   まりて、わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめ
   けるを、いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきこと
   なりと申しければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、
   えりつつとるなりと申しけるに

1  今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
     (岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1386番・夫木抄)

2   内に貝合せむと、せさせ給ひけるに、人にかはりて

  風たちて波ををさむる浦々に小貝をむれてひろふなりけり
           (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1189番)

○伊勢の二見

 三重県伊勢市(旧度会郡)にある地名。伊勢湾に臨んでおり、
 古くからの景勝地として著名です。伊勢志摩国立公園の一部で、
 あまりにも有名な夫婦岩もあります。日本で最初の公認海水浴場
 としても知られています。

○さるようなる

 「何か特別の・・・」ということですが、ここでは貝を拾うと
 いう目的にかかる言葉ではなくして「女の童」にかかるもの
 です。
 漁師の娘とも違い、それなりに身分のある家の娘達、という
 ふうに解釈できます。

○わざとのこと

 特別の目的があってしているように思えて・・・ということ。

○いふかひなき

 伝わらないので言っても意味がないこと。
 身分を問われるようなこともない、ということ。

○うたてきこと

 不快だ、嘆かわしい、なさけないことだ、という意味のある言葉
 です。
 普通ではない状態、異様な状態も指しますから、西行の歌では
 ちょっとありえない不思議な光景を見た思いから出た言葉だろう
 と思います。

○おほふなりける

 覆うこと。あわせること。

(1番歌の解釈)

 「そうだったのか。都ではやりの貝合は、二見浦の蛤の蓋・身を
 合わせていたのだったか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「今はじめて分った。都では貝合わせといってこの二見の浦の
 蛤を合わせていたのだったよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「二条天皇治世では、どの浦に行っても風もなければ波も立た
 ないので、人々はのんびりと群がって小貝を拾っている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「風たちて」は新潮版では「風たたで」となっています。

この二条院での貝合わせの会は一説によると1162年のことといわれ
ます。西行45歳です。「人にかはりて」の「人」とは徳大寺実能の
娘で二条天皇の皇后となる藤原育子のことだとみられています。

【甲斐の白嶺】
 (山、242)
 
 山梨県、静岡県、長野県の県境付近にある連山のことです。
 北岳(3193)、間の岳(3189)、農鳥岳(3026)を指して
 白根三山といいます。南アルプスの中心となる連山です。 

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1 君すまば甲斐の白嶺のおくなりと雪ふみわけてゆかざらめやは
         (岩波文庫山家集242P聞書集120番)

(1番歌の解釈)

 「あなたが住むならば甲斐の白根山の、雪を踏み分けて行かない
 ことがあろうか、私は行くよ。」
 (難所もいとわない果敢な志を詠む。)
                (和歌文学大系21から抜粋)

(甲斐の白根)

前述の北岳、間の岳、農鳥岳という3000メートル以上ある連山を
指して「白根山」といいます。「白嶺山」「白峯山」とも表記され
ます。
甲斐の白根は甲斐の国の歌枕として「甲斐の白根」「甲斐が根の山」
という形で詠まれています。
「白」から深い雪、「根」から高く険しい、ということを共通認識
として詠まれる傾向にあります。

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◎しなのなるいなにはあらずかひがねにふりつも雪のとくるほどまて
                   (重之集 源重之)

◎おしなべて外山も雪はつもれどもかひのしらねはいふかひもなし
                  (壬二集 藤原家隆)

【がうけがましく】 (山、118)

 身分の高い家の人間のように、偉ぶって尊大な態度のこと。
 朝廷に献上する品物だということで、そのことを笠に着て、
 横柄な態度を取るということ。

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   筑紫に、はらかと申すいをの釣をば、十月一日におろすなり。
   しはすにひきあげて、京へはのぼせ侍る。その釣の縄はるか
   に遠く曳きわたして、通る船のその縄にあたりぬるをば
   かこちかかりて、がうけがましく申してむつかしく侍るなり。
   その心をよめる

1 はらか釣るおほわたさきのうけ縄に心かけつつ過ぎむとぞ思ふ
         (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1450番)

○筑紫

 広義には九州全域を指す言葉です。狭義には筑前・筑後の国を
 指します。

○はらか

 不明。「ニベ」もしくは「マス」の異名と言われます。
 毎年、元旦に「腹赤」を朝廷に献上していたようです。

○京へはのぼせ侍る

 朝廷で正月の食膳に供するために、筑紫から京都まで送り届け
 ること。

○かこちかかりて

 言いがかりをつけること。高飛車に文句をいうこと。

○おほわたさき

 和歌文学大系21では「大曲崎」の文字をあてています。
 固有名詞ではないと思います。
 普通名詞では「湾を作っている岬」のことです。入り江の突端の
 ことです。

○うけ縄

 「浮き」をつけた縄。長く張った縄を海中に入れて、その縄の
 端に「浮き」をつけます。「浮き」は海面を漂いますから、縄
 を引き上げる場合の目印になります。

○心かけつつ

 心しながら、ということ。気にかけ注意しながら、ということ。

(番歌の解釈)

 「大曲崎のあたりでは朝廷に献上する腹赤を釣っているので、
 浮子縄に気をつけて舟を進めようと思う。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【帰さ・帰るさ・かへり立】

「帰さ」

 「帰るさ」の変化した言葉。帰ること、帰り道のこと。

「帰るさ」

 帰る折、帰り道のこと。「さ」は接尾語。
 山家集には「帰るさ」「帰さ」、両方の用例があります。

「かへり立ち(還立ち)」

 帰路につくこと。他には以下の意味があります。

 「加茂社または男山の岩清水社や奈良の春日社などの臨時の祭りが
 終了したあと、祭りの舞人や楽人などの祭りの関係者が宮中に
 戻って、清涼殿の東庭に並んで神楽を演じ、宴を賜り、禄をいた
 だくこと。還り遊び、還饗(かえりあるじ)ともいう。」
                   (国語大辞典を参考)

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1   加茂の臨時の祭かへり立の御神楽、土御門内裏にて侍り
   けるに、竹のつぼに雪のふりたりけるを見て

 うらがへすをみの衣と見ゆるかな竹のうら葉にふれる白雪
          (岩波文庫山家集99P冬歌・新潮536番・
          西行上人集追而加書・言葉集・夫木抄)

2  斎院おはしまさぬ頃にて、祭の帰さもなかりければ、
紫野を通るとて

紫の色なきころの野邊なれやかたまほりにてかけぬ葵は
        (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1220番・
                  西行上人集追而加書)

3   小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ
   院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分けおは
   したりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へまゐられける
   に、御山よりいであひたりけるを、しるべせよとありければ、
   ぐし申して粉河へまゐりたりける、かかるついでは今はある
   まじきことなり、吹上みんといふこと、具せられたりける
   人々申し出でて、吹上へおはしけり。道より大雨風吹きて、
   興なくなりにけり。さりとてはとて、吹上に行きつきたり
   けれども、見所なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふ
   にも似ざりけり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ
   伝へられたるものをと思ひて、社にかきつけける

 あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
         (岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)
             
○加茂の臨時の祭

 陰暦11月の下の酉の日に行われる賀茂社の祭りです。
 889年より始められて、899年には「賀茂社臨時祭永例たるべし」
 と定められています。
 応仁の乱により中絶、江戸時代に復興。明治3年廃絶しています。
   
○土御門内裏

 鳥羽・崇徳・近衛三天皇の里内裏のこと。場所は現在の烏丸通り
 西、上長者町通り付近。1117年新造。1138年・1148年に火災に
 遭う。1153年頃、方忌みにより廃絶。西行の歌は1148年までの
 ものと解釈できます。

○竹のつぼ

 竹を植えた坪のこと。竹のある中庭のこと。

○をみの衣

 小忌の衣。神事用の衣服のこと。

○斎院おはしまさぬ頃

 賀茂祭のときに斎院がいなかったのは、1171年から1178年まで、
 次に1181年から1204年までということです。
 1140年から1170年の間は斎院はいました。
 したがって、この歌は西行の年齢を考えると、1171年から1178年
 までの可能性が強いと思います。1171年として西行54歳です。

○祭りの帰さもなかりければ

 賀茂祭が終われば斎院は賀茂社に一泊し、翌日、紫野の斎院
 御所に帰るのですが、その行列がないことを表しています。

○紫野

 現在の北大路通り以北、大徳寺、今宮神社あたり一帯を指します。
 今宮神社はかつては紫野社と言われていて、平安時代は紫野の
 中心地は今宮神社あたりだったそうです。江戸時代は大徳寺あたり
 が紫野の中心になっていたらしく、都名所図会には舟岡山は
 「紫野の西にあり」と説明がなされています。ともあれ、大徳寺、
 今宮神社あたりを指す古くからの地名です。
 
 平安時代は紫野は禁野でした。朝廷の狩猟とか遊覧の場でもあった
 ようです。
 西行の時代には大徳寺はありませんでした。しかしこの大徳寺が
 できる前に同じ土地に雲林院があって雲林院はまた紫野院とも
 呼ばれていたそうです。
 この紫野雲林院あたりでの朝廷の狩猟とか遊覧の記録が残って
 います。現在の紫野は京都の北部の繁華街となっています。

○かたまほりにて

 「かたまほり」で調べてみたのですが、古語辞典にもあり
 ません。新潮版では「片祭」となっていますので、
 「かたまほり」は「かたまつり」の書写ミスの可能性があると
 思います。

○かけぬ葵

 賀茂祭は葵祭ともいいます。行列の人々や牛車は葵の葉で飾り
 付けるのですが、斎院がいないときは飾り付けしなかったよう
 です。
 牛車などは飾り付けていたのかもしれません。
 この点については勉強不足で、よくわかりません。

○帥の局

 待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。藤原
 季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、次に
 建春門院平滋子の女房となっています。

○小倉

 京都市右京区の小倉山のこと。大堰川左岸にあります。

○高野の麓に天野と

 和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
 高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
 の僧達のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
 隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
                  (和歌文学大系21を参考)

 「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
 ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
 河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
 「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。

○御山

 高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
 の場を移していたということになります。

○粉河

 地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
 の門前町として発達しました。
 粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。

○吹上

 紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
 「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
 ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
 ようです。
 天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
 思いますので、どこかで一泊した旅に西行は随行したものだろう
 と思われます。
 吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。

○能因

 中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
 橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
 (伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
 入道とも自称していたようです。「数奇」を目指して諸国を行脚
 する漂白の歌人として、西行にも多くの影響を与えました。
 家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

 「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。

(1番歌の解釈)

 「前栽の竹の末葉に降った白雪は、舞人が着ている小忌衣をひる
 がえして舞っている、その袖のように見えるよ。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)
      
(2番歌の解釈)

 「斎館のある紫野とはいえ、斎院はおいでにならず、紫の色も
 ない紫野の野辺とでもいうべきだろうか、祭の帰途の行列もなく、
 葵のかづらをかけることもないことを思うと。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(3番歌の解釈)

 「天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
 申し上げるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

【かかる世」

 このようになった世の中。保元の乱が起こり、新院が敗北した
 状況を指します。月がかかるということも掛けています。

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 世の中に大事出できて、新院あらぬさまにならせおはしまして
 御ぐしおろして、仁和寺の北院におはしましけるに参りて、
 けんげんあざり出であひたり。月あかくてよみける

1 かかる世に影もかはらずすむ月をみる我が身さへ恨めしきかな
             (岩波文庫山家集 181P 雑歌)

○阿闍梨
 11号を参照願います。
 覚堅がいつごろ阿闍梨の官職名を許されたのかわかりません。

 「阿闍梨は宣旨をもって補せられたのであるが、師僧たちより
 解文(げふみ)といって推選する申文を上(たてまつ)った
 のが多い。」(松田英松氏著、官職要解)
 ということですから、師の僧の推挙によって阿闍梨という官職が
 許されたものでしょう。
 他に伝法阿闍梨と、一身阿闍梨があります。後白河院も一身
 阿闍梨となっています。

○兼堅(けんげんあざり)
 生没年、俗名不詳。「源賢」とも「兼賢」とも表記されていま
 すが、仁和寺の文章では「兼賢」です。
 藤原道隆の孫で顕兼の子供といわれます。
 1164年、崇徳院が讃岐で没した年に法橋に任ぜられたようです。
 87ページの「覚堅阿闍梨」とは別人です。

○仁和寺
 右京区御室仁和寺のこと。詳しくは西行の京師第一部の43号と
 44号に触れています。
 仁和寺の北院とは、現在もある「喜多院」のことです。

○新院
 崇徳院のこと。一院は鳥羽院、院は後白河院のことです。

○あらぬさま
 敗北してしまって、仁和寺に入ったこと。

○御ぐし
 (おぐし・みぐし)と読み、頭髪のこと。

 (歌の解釈)
「崇徳上皇御謀反御出家という大事件が起こるこの世の中に、いつもと
少しも変わらずに月が美しく澄んでいる。そんな月を美しいと見る私自身
までが恨めしい限りである。」
           (和歌文学大系21から抜粋)

【かきくらす】 (山、102)

 (掻き=かき)は接頭語。引っかく、掻き回すの意味がある。
 (くらす)は(暮らす)ではなく、「暗し」のこと。

 かき乱したようにあたり一面がくらくなること。
 心をかき乱すように暗くすること。

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01 かきくらす雪にきぎすは見えねども羽音に鈴をたぐへてぞやる
         (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮524番)
 
02 涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・新潮1087番)
             
03 かきくらす涙の雨のあししげみさかりに物のなげかしきかな
         (岩波文庫山家集152P恋歌・新潮670番・
                西行上人集・山家心中集)

04  同じ日、くれけるままに雨のかきくらし降りければ

  哀しる空も心のありければなみだに雨をそふるなりけり
         (岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮829番)

05 晴やらぬ去年の時雨の上に又かきくらさるる山めぐりかな
  (作者不詳歌)(岩波文庫山家集203P哀傷歌・新潮788番)
                            
○きぎす

 野鳥の「雉」のこと。

○鈴をたぐへて

 歌には名詞が出てきませんが、詞書で「鷹狩」とありますから、
 きぎす(雉)を獲るために鷹に鈴を付けて放つということです。
 そうでないと鷹の居場所も分らなくなりますから、鷹狩りで鷹の
 いる場所を知るために鷹に鈴をつけるということです。

○あししげみ

 雨の足が激しいので、という意味。悲しさ、寂しさが強いという
 表現です。

○さかりに物の

 (盛りに物の)ということで、自分の心の中が、いろいろな
 嘆かわしい思いで一杯になっているということ。

○哀しる

 遺族の悲しい心情を理解するという意味。

(1番歌の解釈)

 「辺りが暗くなるほど降る雪に雉子の姿は見えないけれど、その
 羽音が聞えるので、鷹に鈴をつけて雉子に向かわせることである。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「心が暗くかき乱されて涙の雨脚が激しいので、私の恋は何か
 とても嘆かわしい状況である。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(4番歌の解釈)

 「私たちがこんなに悲しいのが分るのでしょう。空にも人の心が
 あって、涙に合わせるように雨を降らせるのですね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 院の二位の局が死亡して中陰の法要の時(当時は77日)の歌です。
 院の少納言の局の返歌が続きます。

 哀知る空にはあらしわび人の涙ぞ今日は雨と降るらん
 (院の少納言の局歌)(岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮830番)

(5番歌の解釈)

 「昨年の時雨の季節に親を亡くしたその涙もかわかぬうちに、
 今年もまた親を失って、さらなる悲しみの涙にかきくれ、山々の
 寺巡りすることです。ちようど時雨が山巡りするように。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

【かきこめし】

 「かき」は接頭語。
 「こめし」は、こもる、包み込む、閉じこもる、引きこもる、など
 の意味があります。
 ここでは「取り込んだこと」という解釈で良いと思いますが、彼我
 の関係性が分りにくいです。
 薄が庵の周りに群生して庵を包み込んだ状態を「かきこめし」と
 言っています。

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1 かきこめし裾野の薄霜がれてさびしさまさる柴の庵かな
            (岩波文庫山家集93P冬歌・新潮505番・
              西行上人集・山家心中集・夫木抄)

○霜枯れて

 薄には人を招くという意味が仮託されています。
 人を招いていた薄も霜枯れてしまったので、なおさら人は来なく
 なって・・・という山里で、一人住む絶対的な弧独感を表して
 います。

(1番歌の解釈)

 「私の山家は、垣根に山麓の薄を取り込んで、来ない客を空しく
 招き続けたが、その薄も霜枯れて、秋の頃より一層寂しくなった。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【かき柴】 (山、22)

 (かき)は垣根のこと。柴の木を垣根に用いているということ。

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1 雨しのぐ身延の郷のかき柴に巣立はじむる鴬のこゑ
        (岩波文庫山家集22P春歌・新潮欠番・夫木抄) 

○雨しのぐ

 雨をしのぐものは(蓑)であり、(雨しのぐ)で身延の地名を
 想起させるように詠まれています。

○身延の郷

 身延は甲斐の国(山梨県)の地名。富士山の西側に位置します。

(歌の解釈)

 「身延の里(甲斐の国にあり)の垣根にしている柴の木に巣立ち
 はじめる鶯の声がきこえるよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

身延で有名なお寺として日蓮宗総本山の「身延山久遠寺」があります。
このお寺は日蓮(1222〜1282)が、配流先の佐渡から許されて帰った
1274年に身延山西谷に草庵を結んだのが起こりと言われます。
1475年に諸堂を移転して現在の久遠寺の原型ができたようです。
                (「山梨県の歴史散歩」を参考)

【かきつばた・杜若】

 植物名。アヤメ科の多年草。杜若、燕子花とも書きます。
 5月から6月頃にかけて、水際や湿原を埋め尽くすようにして
 咲きます。
 アヤメ科の中では最も古くから親しまれてきた花で、万葉集には
 七首の歌が詠まれています。

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1 沼水にしげる真菰のわかれぬを咲き隔てたるかきつばたかな
           (岩波文庫山家集41P春歌・新潮162番)
          
2 廣澤のみぎはにさけるかきつばたいく昔をかへだて来つらむ
            (岩波文庫山家集273P補遺・夫木抄)
            
3 つくりすて荒らしはてたる澤小田にさかりにさける杜若かな
      (岩波文庫山家集41P春歌・新潮欠番・西行上人集)

○真菰のわかれぬを

 真菰と杜若は葉が似ているので、どちらか特定できないという
 こと。葉の状態では見分けられないということ。

○廣澤

 広沢の池のこと。大覚寺の西、遍照寺山の麓にある人造池です。

○つくりすて

 田を手入れしなくて、放置したままということ。

○沢小田

 沢に近くにある田んぼのこと。

(1番歌の解釈)

 「沼に茂っている真菰とよく似ているので、どれがかきつばた
 なのか区別がつかなかった。でも今、花をつけることによって、
 かきつばたはその区別をはっきりさせたよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)     

 「広沢の池の水際に咲いているかきつばたよ、おまえはいく程
 の昔を終て咲き続けて来たのであろうか。」
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 「昔を終て」は「昔を経て」の間違いの可能性があります。

(3番歌の解釈)

 「耕作をやめてすっかり荒らしてしまった沢の小田に盛んに
 咲いているかきつばただなあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 この歌の「杜若」の読みは「うらわかみ」となっています。

【柿の衣】

 渋柿の渋で染めた衣です。茶色っぽい色になります。
 
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   はやくいかだはここに来にけり  (前句、空仁法師)

    薄らかなる柿の衣着て、かく申して立ちたりける。
    優に覚えけり

   大井川かみに井堰やなかりつる  (付句、西行)
         (岩波文庫山家集267P残集22番)

○空仁法師

生没年未詳。俗名は大中臣清長と言われます。
 
西行とはそれほどの年齢の隔たりはないものと思います。西行の
在俗時代、空仁は法輪寺の修行僧だったということが歌と詞書
からわかります。
空仁は藤原清輔家歌合(1160年)や、治承三十六人歌合(1179年)
の出詠者ですから、この頃までは生存していたものでしょう。
俊恵の歌林苑のメンバーでもあり、源頼政とも親交があったよう
ですから西行とも何度か顔を合わせている可能性はありますが、
空仁に関する記述は聞書残集に少しあるばかりです。
空仁の歌は千載集に4首入集しています。

 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになればかなしかりけり
                (空仁法師 千載集1119番)

○井堰

原意的には(塞き)のことであり、ある一定の方向へと動くもの
を通路を狭めて防ぐ、という意味を持ちます。
水の流れをせきとめたり、制限したり、流路を変えたりするため
に土や木材や石などで築いた施設を指します。現在のダムなども
井堰といえます。
今号の西行歌は、当時の大堰川で井堰の設備が施されていたこと
の証明となります。この当時の井堰が現在も渡月橋上流にあります。


(連歌の解釈)

 おやまあ、もう筏はここにやって来たよ。(前句)

 大堰川の川上にこの筏を堰く井堰はなかったのかね。(付句)

【覺雅僧都】 (山、93・260・278)

 六條右大臣源顕房の子。神祗伯源顕仲の弟。

 覺雅僧都は堀川局、兵衛の局、源忠季などの叔父にあたります。
 1146年の8月に57歳で没しています。1146年は西行29歳ですから、
 覺雅僧都の六條の房での歌会は西行の若い時代の歌であることは
 確実です。

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01  山家枯草といふ事を、覺雅僧都の坊にて人々詠けるに

  かきこめし裾野の薄霜がれてさびしさまさる柴の庵かな
         (岩波文庫山家集93P冬歌・新潮505番・
           西行上人集・山家心中集・夫木抄)

02  覺雅僧都の六條の房にて、忠季 宮内大輔 登蓮法師なむど
   歌よみけるにまかりあひて、里を隔てて雪をみるといふ
   ことをよみけるに

  篠むらや三上が嶽をみわたせばひとよのほどに雪のつもれる
            (岩波文庫山家集261P聞書集256番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

03 覺雅僧都の六條房にて心ざし深き事によせて花の歌よみ侍りけるに
          (岩波文庫山家集278P補遺・西行上人集)
                    
   花を惜しむ心のいろのにほひをば子をおもふ親の袖にかさねむ   

○六條の房

 平安京の六条に面した屋敷のはずですが、場所の特定は不可能です。

○忠季

 源顕仲の子。待賢門院堀川や兵衛局の兄弟。覺雅の甥。
 この歌会の時には宮内大輔であったのか確認できていません。
 最終官職が宮内大輔だったようです。
 父の源顕仲は1138年、75歳で没。忠季は1150年頃までには死亡した
 ものと思われます。

○登蓮法師

 出自、経歴は不明です。勅撰集に19首入首しています。

○篠むら

 不明。夫木抄に「しのはら」とあり、篠原の誤記説が有力です。
 篠原は滋賀県近江八幡市にある地名です。

○三上が嶽

 近江平野にある三上山のことです。標高432メーターで、その優美
 な山容から近江富士と呼ばれます。この山には藤原秀郷のムカデ
 伝説があります。

(01番歌の詞書と歌の解釈)

 この詞書は「六條の房」と明記していませんが、覺雅僧都の邸
 での歌会と解釈して差し支えないと考えます。尚、新潮版では
 「覚範僧都の房にて」となっています。「覚範僧都」とは不明
 です。
 また「房」と「坊」の文字が使われていますが、意味は同一です。

 「草庵をその繁みの中に閉じこめてしまった裾野の薄が、霜の
 ために枯れてしまった。薄に閉じ込められていた時にもまして、
 柴の庵は一層寂しくなったなあ。」
 「○かきこめし「かき」は接頭語。山家を、さらにはそこに住む
 人を薄が「こめ」るのである。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の詞書と歌の解釈)

 「歌の自然詠は、把握のしかたが新しくて強い。初句は「夫木抄」
 に「しのはらや」とあり、「三上が嶽」とともに近江であるから、
 「夫木抄」のほうがいいであろう。一夜は一節(よ)に音が通って
 篠の縁語、三上と一夜は、一と三の対照など、理知的な修辞が
 用いられていて、いかにも歌会むきの作品であるけれども、それを
 目立たぬまでに、強い調子で素朴に歌っているところに新しさが
 ある。」
           (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

 「篠むら」は「篠群(しのむら)」でも良いですし、夫木抄の
 「しのはら」でも差し支えないと思います。普通名詞として読めば、
 「しのはら」も「しのむら」も篠が群生している場所を指します
 ので、どちらであっても意味は通じます。「三上が嶽」があります
 から地名の「篠原」と解釈した方が、歌の収まり具合が良いかとは
 思います。
  
(03番歌の詞書と歌の解釈)

 「散る花を愛惜する心の色(気持)を亡くなった子を愛し惜しむ
 親のかなしみの涙の袖に重ねよう。」
          (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 01.02番歌と同様に覺雅僧都の六條の房での歌会の題詠歌です。
 窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で、「子を失った親の心であり、
 西行に子を失った体験があって詠まれたのではないかと想像されて
 いるが、よるべき資料はない。」と記述しています。

【覺堅阿闍梨】 西行辞典11号参照

【かくなむ・かくなん】

 (かく)は副詞。「かく語りき」と同様で、(このように)
 の意味。
 (なむ)は係助詞。「なん」と同義で、(かく)を強調する作用
 のある言葉です。

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01  ある人さまかへて仁和寺の奧なる所に住むと聞きて、まかり
   尋ねければ、あからさまに京にと聞きて帰りにけり。其のち
   人つかはして、かくなんまゐりたりしと申したる返りごとに

  立ちよりて柴の烟のあはれさをいかが思ひし冬の山里
(作者不詳歌)(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮736番・西行物語)

02  同じ折、つぼの櫻の散りけるを見て、かくなむおぼえ侍ると
   申しける

  此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて
         (岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1143番)

03  又の日、兵衞の局のもとへ、花の御幸おもひ出させ給ふらむ
   とおぼえて、かくなむ申さまほしかりし、とて遣しける

  見る人に花も昔を思ひ出でて恋しかるべし雨にしをるる
         (岩波文庫山家集27P春歌・新潮101番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)

○ある人さまかへて

 だれか個人名は不明です。名のわからない人が出家したという
 ことです。

○仁和寺の奥

 仁和寺は京都市の西北に位置します。仁和寺のさらに奥まった
 所に草庵を構えていたということです。

○つぼ

 建物の中庭のこと。

○兵衞の局

 生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛のこと。

 藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
 門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。
 西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
 自選家集があったとのことですが、現存していません。

○花の御幸おもひ出させ

  「花の御幸」とは、百錬抄の1124年2月12日条にある「両院、
 臨幸、法勝寺、覧、春花・・・於、白河南殿、被、講、和哥」
 とある花見を指しているもののようです。
 とするなら、1124年は西行6歳。上西門院の出生は1126年です
 から、この2年後に生まれたということです。1185年頃に死亡
 したとみられる兵衛の局は、この詞書と歌を信じるなら、すでに
 待賢門院には仕えていて、花の御幸に随行したということでしょう。
 1105年ほどの出生になるのでしょうか。
  
(01番歌の解釈)

 「私の草庵にお立ち寄りいただいたそうですが、冬になっても
 柴を煙らすばかりの寂しい風情をどのように御覧になりましたか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「この春は内親王様にお別れすることがまことに名残惜しゅう
 ございます。いつもでしたら散りゆく花に覚えます惜別の念も
 忘れてしまいまして。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「花見に来た人を見て、花もあなたと同様に白河院の花の御幸を
 思い出して恋しがっているのでしょう。雨に降られたそうですが、
 それは花の涙なのですよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【神楽・かぐら歌】

 神楽とは神を祀る神社などで神前に奏される舞楽のことです。
 現在でもたくさんの地域で神楽が行われています。九州の高千穂
 神楽などが有名です。
 神楽歌は神楽舞のときに奏でる音曲です。

 神楽歌は平安時代に発達したとのことです。
 現在でも90程度の歌が残されています。

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01 かぐら歌に草とりかふはいたけれど猶其駒になることはうし
         (岩波文庫山家集220P釈教歌・新潮899番)

    神楽二首

02  めづらしなあさくら山の雲井よりしたひ出でたるあか星の影
         (岩波文庫山家集224P神祇歌・新潮1523番)

03  名残りいかにかへすがへすも惜しからむ其駒にたつ神楽どねりは
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1524番)

   神楽に星を

04 ふけて出づるみ山も嶺のあか星は月待ち得たる心地こそすれ
           (岩波文庫山家集224P神祇歌・新潮欠番)

    加茂の臨時の祭かへり立の御神楽、土御門内裏にて侍り
    けるに、竹のつぼに雪のふりたりけるを見て

05 うらがへすをみの衣と見ゆるかな竹のうら葉にふれる白雪
           (岩波文庫山家集99P冬歌・新潮536番・
           西行上人集追而加書・言葉集・夫木抄)

○草とりかふ

 馬が草を食んでいるということ。

○猶其駒に

 ここでは「その駒ぞや我に我に草乞ふ草は取り飼はむ水は取り
 草は取り飼はむや」という神楽歌を指しているそうです。

○あさくら山

 筑前の国の歌枕。現在の福岡県朝倉市。

○雲井

 空のこと。雲のあるあたりという意味。

○したひ出で

 神楽歌を慕って金星が姿を見せたように。

○あか星

 あけの明星のこと。金星を指しています。

○神楽どねり

 神楽舞の舞人の長を指しています。
 神楽に奉仕する近衛府の舎人と言われます。

○加茂の臨時の祭

 陰暦11月の下の酉の日に行われる賀茂社の祭りです。
 889年より始められて、899年には「賀茂社臨時祭永例たるべし」
 と定められています。
 応仁の乱により中絶、江戸時代に復興。明治3年廃絶しています。
   
○土御門内裏

 鳥羽・崇徳・近衛三天皇の里内裏のこと。場所は現在の烏丸通り
 西、上長者町通り付近。1117年新造。1138年・1148年に火災に
 遭う。1153年頃、方忌みにより廃絶。西行の歌は1148年までの
 ものと解釈できます。

○竹のつぼ

 竹を植えた坪のこと。竹のある中庭のこと。

○をみの衣

 小忌の衣。神事用の衣服のこと。
 
(01番歌の解釈)

 「神楽歌に草取り飼う駒と詠まれているのはたいそう素晴らしい
 ことだけど、畜生道に堕ちてその駒になるのは憂いことである。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「珍しいな。朝倉山の雲の辺りから神楽歌を慕うように明けの明星
 が出てきた。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「楽曲を反復するにつけ、名残はどんなに惜しいことだろうか。
 神楽の最後の曲である「その駒」を奏するために立つ神楽舎人は。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(04番歌の解釈)

 「夜が更けてから深山の峰に金星が出る。いつもは暗い深山が
 明るく見えるほどで、待っていた月が出たのかと思い誤った。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「前栽の竹の末葉に降った白雪は、舞人が着ている小忌衣をひる
 がえして舞っている、その袖のように見えるよ。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

【かけぬ葵】 (山、223)

 賀茂祭は葵祭ともいいます。行列の人々や牛車は葵の葉で飾り
 付けるのですが、斎院がいないときは飾り付けしなかったよう
 です。
 牛車などは飾り付けていたのかもしれません。
 この点については勉強不足で、よくわかりません。

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 斎院おはしまさぬ頃にて、祭の帰さもなかりければ、
 紫野を通るとて

 紫の色なきころの野邊なれやかたまほりにてかけぬ葵は
        (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1220番・
                  西行上人集追而加書)

○紫野

 現在の北大路通り以北、大徳寺、今宮神社あたり一帯を指します。
 今宮神社はかつては紫野社と言われていて、平安時代は紫野の
 中心地は今宮神社あたりだったそうです。江戸時代は大徳寺あたり
 が紫野の中心になっていたらしく、都名所図会には舟岡山は
 「紫野の西にあり」と説明がなされています。ともあれ、大徳寺、
 今宮神社あたりを指す古くからの地名です。
 
 平安時代は紫野は禁野でした。朝廷の狩猟とか遊覧の場でもあった
 ようです。
 西行の時代には大徳寺はありませんでした。しかしこの大徳寺が
 できる前に同じ土地に雲林院があって雲林院はまた紫野院とも
 呼ばれていたそうです。
 この紫野雲林院あたりでの朝廷の狩猟とか遊覧の記録が残って
 います。現在の紫野は京都の北部の繁華街となっています。

○かたまほりにて

 「かたまほり」で調べてみたのですが、古語辞典にもあり
 ません。新潮版では「片祭」となっていますので、
 「かたまほり」は「かたまつり」の書写ミスの可能性があると
 思います。

(歌の解釈)

 「斎館のある紫野とはいえ、斎院はおいでにならず、紫の色も
 ない紫野の野辺とでもいうべきだろうか、祭の帰途の行列もなく、
 葵のかづらをかけることもないことを思うと。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

【かけもちがほ】

 新潮版では「かげもちがほ」となっています。
 自身を庇護してくれる存在(影)があることに安心して、その
 ことを自慢したそうな顔つきで・・・ということ。

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01 かり残すみづの真菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
       (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1018番・夫木抄)

○みづの真菰

 (みづ)を山城の地名である「美豆」とする説もあります。
 美豆は山城の歌枕です。朝廷の牧があった所なので「駒」がよく
 詠まれますが、淀があったので真菰も景物として詠まれています。

○かくろひて

 隠れること。隠れ続けること。
 「隠ろふ」は奈良時代は四段活用、平安時代には「隠ろへて」
 で、下二段活用に変化したようです。
                (和歌文学大系21から抜粋)
(01番歌の解釈)

 「刈り残したみづの真菰に隠れて、自分を守ってくれる陰を
 持つと得意そうに鳴く蛙であるよ。」

                (和歌文学大系21から抜粋)

 「(がほ)歌について」(西行辞典40号既出)

(がほ)のフレーズの入った歌は西行が好んで詠んだ歌とも言え
ます。
                  
いひがほ・恨みがほ・嬉しがほ・かけもちがほ・きかずがほ・
たより得がほ・つけがほ・告げがほ(2)・所えがほ・ぬるるがほ・
見がほ・見せがほ・もりがほ・わがものがほ、かこち顔。

以上15種類、16首あります。源氏物語にも「○○がほ」という記述
はありますから、西行の「がほ」歌はあるいは源氏物語の影響なの
かもしれません。
後深草院二条の「とはずがたり」にも「○○がほ」の言葉は頻繁に
出てきます。 

【かけるたくも】 (山、281)

 意味不明です。この歌の場合は(かける)も分らないですし、
 (たくも)も分りません。
 (炊く藻)かもしれません。古代の製塩法には、海草の藻を焼く
 (炊く)ことがありました。

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01 和歌の浦に汐木かさぬる契りをばかけるたくもの跡にてぞみる
       (岩波文庫山家集281P補遺・新勅撰集・長秋詠藻)

○和歌の浦

 紀伊の国の歌枕。和歌山市の紀の川河口の和歌の浦のこと。
 片男波の砂嘴に囲まれた一帯を指します。
 和歌の神と言われる「玉津島神社」が和歌の浦にあります。
 和歌に関しての歌では、よく詠まれる歌枕です。

(01番歌の解釈)

 「和歌の浦に汐木を重ねるその約束をかけりたくまの跡であった。
 (意不明)(新勅撰の本文によれば「かけり炊く藻の跡で見知った」
 となるが、これでも意味明らかでない。)」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【かげろひ】

 (かぎろい)のことです。
 陽光や火がゆらめいている状況を言います。陰がうつること、
 ひかりがほのめくことです。
 あるかなきかの、はかないものの比喩表現として使われることが
 多い言葉です。

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01 よられつる野もせの草のかげろひて凉しくくもる夕立の空
     (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮欠番、新古今集263番)

02  松の絶間よりわづかに月のかげろひて見えけるを見て

  かげうすみ松の絶間をもり来つつ心ぼそくや三日月の空
           (岩波文庫山家集70P秋歌・新潮1151番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)

03  松の木の間よりわづかに月のかげろひけるを見て、月を
   いただきて道を行くといふことを

  汲みてこそ心すむらめ賤の女がいただく水にやどる月影
            (岩波文庫山家集75P秋歌・新潮欠番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)

○よられつる

 捩られること。強い陽光のために萎えた草の状態を指します。

○野もせ

 (野も狭)と表記。野が狭いと感じるほど野面一面に草が茂って
 いるということ。

○賤の女

 身分的な意味で卑しい女性のこと。身分が低い女性。

(01番歌の解釈)

 「強い夏の日光のためにねじり、からみあわされ、ちぢかんだ
 野面の草は雲のためにかげって、空の方は涼しく曇ってきて夕立
 をするような様子になって来た。」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「三日月のこととて、松の葉の絶え間を洩れてくる光もたいそう
 かすかなので、三日月のかかる空は心細く思われることだよ。
 細い三日月のように。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「月が映った水を汲むからこそ、心のうちも月のように澄むので
 ある。身分低い女でも、頭上の桶の水には月が宿っている。
 月を押し戴いて道を行く姿には、心の美しさが見て取れるようだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 02番歌と03番歌の詞書は似通っていて、ほぼ同じ内容です。
 これまで伝わってくるうちに書写する人がミスを犯したのかも
 しれないと思います。
 
【かこち顔】 (山、149)

 (かこつ)は口実をもうけること。
 物事の原因や理由や責任を他人や他の物事に押し付けること。
 言い訳。かこつけること。

 (かこち顔)で、月のせいではないのに、あたかも月のせいで
 あるような、うらめしそうな顔付きのこと。

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01 なげけとて月やはものを思はするかこち顏なる我が涙かな
    (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮628番・西行上人集・
      山家心中集・・御裳濯河歌合・千載集・百人一首) 

○なげけとて

 月が人に嘆けと言っているということ。

○月やはものを

 月が物思いをさせているということだろうか。いや、決して
 そうではない、という意味。
 (やは)は反語として用いられます。

(01番歌の解釈)

 「嘆けといって月はもの思いにふけらせるのだろうか、そうでは
 なくて恋ゆえの涙なのに・・・。月のせいであるかのように恨み
 がましく流れる涙だな。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「嘆けと言って月が物思いをさせるのか。そうではないのに、
 月のせいにしたそうに私の涙はあふれ出る。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【かこみのともろ】

 左右に揃っていなくて片方だけにしか付いていない艫艪。
 艫とは舟の後尾のことです。小さな舟の艪は後尾に付けます。
 一丁艪ですから一人で操作する小さな舟です。
 (かこみ)とは普通は周囲、周りのことを言いますから、
 (かこみのともろ)は、釈然としないものを感じます。

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01 汐路行くかこみのともろ心せよまたうづ早きせと渡るなり
         (岩波文庫山家集168P雑歌・新潮1003番)

(01番歌の解釈)

 「艫艪が片方にしかない舟が海路を行くのが見える。気を付け
 なよ。その先にまた渦の早い瀬戸を渡るのだから。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「潮路を行くかこみの艫艪よ。十分注意せよ。また渦の早い
 瀬戸をわたるのだから。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【かこめにものを】

 (香込めにもの)の意味。香りと一緒にということ。

(用例歌)

 けふ桜しずくに我が身いざ濡れむ香ごめにさそふ風のこぬまに
                    (源融 後撰集)

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01 なげきよりしづる涙のつゆけきにかこめにものを思はずもがな
             (岩波文庫山家集260P聞書集253番)

○しづる涙

 (しづる)は(垂り)と書いて、滴り落ちること。
 本来は木から雪が落ちるという意味のようです。

(01番歌の解釈)

 「嘆きの木から垂れ落ちる涙が湿っぽいのにつけて、嘆きの
 香ごと物思いはしたくないなあ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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