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かい〜かこ かさ〜かそ かた〜かほ かみ〜かん



かへり立→「かへり立」86号参照
鎌倉→「右衛門督」50号参照

【神垣】

神社の垣根のこと。神域を示すための垣のこと。

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01 神垣のあたりに咲くもたよりあれやゆふかけたりとみゆる卯花
            (岩波文庫山家集43P夏歌・新潮178番・
                  西行上人集・山家心中集)
      
○ゆふかけたり

 (ゆふ=木綿)は植物の楮(こうぞ)の皮を剥いで、その繊維を
 蒸したり水にさらしたりして白くして、それを細かく裂いて糸
 状にしたものです。
 襷(たすき)などにして、榊の木に懸けたり、神事を行うときに
 使われます。

 同じ字を用いても(もめん)は綿の木の種子から取る繊維を
 言います。

○卯花

 ウツギの花。ウツギはユキノシタ科の落葉潅木。初夏に白い五弁
 の花が穂状に群がり咲く。垣根などに使う。

 ○卯の花腐しー五月雨の別称。卯の花を腐らせるため。
 ○卯の花月ー陰暦四月の称。
 ○卯の花もどきー豆腐のから。おからのこと。
               (岩波書店 古語辞典から抜粋)

 ウツギは枝が成長すると枝の中心部の髄が中空になることに由来
 し、空木の意味。硬い材が木釘に使われたので打ち木にちなむと
 いう異説があります。
 花期は五月下旬から七月。枝先に細い円錐花序を出し、白色五弁
 花が密集して咲くが匂いはない。アジサイ科。
             (朝日新聞社 草木花歳時記を参考)

 ユキノシタ科とアジサイ科の違いがあります。これは分類学上の
 違いによるものであり、どちらでも良い物と思いますが、最近は
 ユキノシタ科はアジサイ科に含まれるようです。
 ○○ウツギと名の付くものは他にたくさんあり、科も違います。
                 (西行辞典62号から転載)

(01番歌の解釈)

 「神社の瑞垣の近くに咲くのも何かの縁なのだろう。ここに咲く
 卯の花は木綿をかけたように見える。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

神人→「かづら」102号参照  

【神風】

 神の威徳を表す風のこと。平安時代は伊勢神宮の枕詞です。
 鎌倉時代の二度に渡る蒙古襲来、そして第二次世界大戦という
 苦難に満ちた歴史をたどって、現在では「神風」の意味も変わって
 きたものと思います。
 
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01 流れたえぬ波にや世をばをさむらむ神風すずしみもすその岸
          (岩波文庫山家集279P補遺・西行上人集・
                  御裳濯河歌合・玄玉集)  

02 とくゆきて神風めぐむみ扉ひらけ天のみかげに世をてらしつつ
             (岩波文庫山家集261P聞書集258番)
     
03 神風にしきまくしでのなびくかな千木高知りてとりをさむべし
             (岩波文庫山家集261P聞書集259番)  

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○みもすそ

 御裳濯川のこと。伊勢神宮内宮を流れる五十鈴川の別名です。
 伝承上の第二代斎王の倭姫命が、五十鈴川で裳裾を濯いだという
 言い伝えから来ている川の名です。

○天のみかげ

 「あめ」は天(あま)の転化した読み方。
 「天のみかげ」は、「日のみかげ」と対をなしていて、大祓えの
 祝詞の中にもある用語です。「御蔭」の漢字をあてています。

 伊勢神宮内宮に祀られている「天照大神」を指して「天の御陰」
 というものなのでしよう。伊勢神宮は天皇家のものでもあり、
 同時に天皇家をも指して「天のみかげ」と言っているものと思い
 ます。「あめのみかげ」は、もう一首あります。

 世の中をあめのみかげのうちになせあらしほあみて八百合の神
         (岩波文庫山家集261P聞書集262番・夫木抄)
                
○しきまく

 (敷き渡す)などの(敷き)とは違って、この場合は(頻り)の
 (しき)です。(しきまし)(しきまき)などの用例があります
 ので、(しきりにまくれ上がる)という解釈で良いと思います。

○千木
 
 神社建築に見られる、屋根の上の両端の、屋根から突き出た形で
 交差している二本の木のことです。

○とりをさむべし

 物事を解決する。うまく収めるということ。
 ここでは源平の争乱が神威によってうまく解決するだろう・・・
 とも解釈できます。

(01番歌の解釈)

 「流れのたえることのない御裳濯河の波によって、この世を
 平らかに治め給うのであろう、神風も涼しく吹き渡る御裳濯河の
 岸辺よ。」
 (流れ絶えぬ川を神の力のあらわれと賛嘆しているのである。)
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「勅使よ、早く行って神風をお恵み下さる御戸を開け、そうすれ
 ば大神は神殿に鎮座しながら世を照らし続けるよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「頻りに吹き捲くられる幣が、神風によって一方へなびき寄る
 なあ。千木を高く構えて、その威力で取り収めるのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【神路山】

 伊勢神宮内宮の神苑から見える山を総称して神路山といいます。
 内宮の南方にある連山とも言われます。
 標高は150メータから400メータ程度。

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    高野山を住みうかれてのち、伊勢國二見浦の山寺に侍り
    けるに、太神宮の御山をば神路山と申す、大日の垂跡を
    おもひて、よみ侍りける

01 ふかく入りて神路のおくを尋ぬれば又うへもなき峰の松かぜ
         (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮欠番・
            御裳濯河歌合・千載集・西行物語)

    神路山にて

02 神路山月さやかなる誓ひありて天の下をばてらすなりけり
         (岩波文庫山家集125P羇旅歌・新潮欠番・
           御裳濯河歌合・新古今集・御裳濯集)  

03 神路山みしめにこもる花ざかりこらいかばかり嬉しかるらむ
            (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
      
04 神路山岩ねのつつじ咲きにけりこらがまそでの色にふりつつ
            (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
       
05 かみぢ山君がこころの色を見む下葉の藤の花しひらけば
       (岩波文庫山家集282P補遺・夫木抄・拾遺愚草) 

06 神路山松のこずゑにかかる藤の花のさかえを思ひこそやれ
(藤原定家歌)(岩波文庫山家集282P補遺・夫木抄・拾遺愚草)

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○伊勢國二見浦の山寺

 この草庵の位置は二見浦の海岸線からは少し離れていて、
 安養山(現在の豆石山)にあり、三河の伊良湖岬に近い神島まで
 が見えたとのことです。

○伊勢の二見

 三重県伊勢市(旧度会郡)にある地名。伊勢湾に臨んでおり、
 古くからの景勝地として著名です。伊勢志摩国立公園の一部で、
 あまりにも有名な夫婦岩もあります。日本で最初の公認海水浴場
 としても知られています。

○大日の垂跡

 後述。

○又うへもなき

 ここでは、尊いことがこれ以上にはない、ということ。
        
○みしめにこもる

 「御注連にこもる」で注連に込められている意味のこと。

○こらがまそで

 こら=物忌の子を(小良)という。
 物忌には大物忌、物忌父、小良があり、宮守、地祭りなどの
 御用を勤めるもので、童男女を用いた。
            (和田秀松著「官職要解」を参考)
 (こらがまそで)は(小良)の(真袖)のことです。

○下葉の藤の花

 「藤」とは藤原氏のことです。藤の花が咲くということは藤原氏
 が栄えることを意味します。
 下葉というのは藤原氏も天皇家の末葉という意味になります。

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(01番歌の解釈)

 「大日如来の本地垂跡のあとを思いつつ、神路山のおく深く
 たずね入ると、この上もなく尊い、また微妙な神韻を伝える
 峯の松風が吹くよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「神路山に出る月が明らかであるように、天照大神は、万民に
 恵みを与え給うという明らかなお誓いがあって、それで天下を
 照らしているのであるよ。」
 (仏の誓願を神にも及ぼし考えた本地垂跡思想のあらわれの
 一つ。)(かひは峡と甲斐とかけことば)
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「神路の神域にこもり咲いている桜の花ざかり、御こらご
 (大神宮の御供えのこと神楽などに奉仕する少女)たちも如何に
 うれしいことであろうか。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(04番歌の解釈)

 「神路の岩つつじの花が咲いた。大神宮に奉仕する少女らの着て
 いるあこめの衣の袖の赤い色に染まって。」

          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(05番歌の解釈)

 「神路山は君の心の姿、ありさまをごらんになるであろう。
 下葉の藤の花が開いたならば。(下葉の藤に花が咲くように
 わが拙い歌が上達したならば、の意か。)」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

 「05番歌は西行詠と定家詠の両説があります。窪田章一郎氏は
 西行詠として、藤原定家詠06番歌との贈答歌とみなしています。」

(06番歌の解釈)

 「大神宮の得られる神路山の松の木の梢にかかっている藤の
 花の、そのさかえをしみじみと思うことである。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

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(本地垂迹説のこと)

窪田章一郎氏「西行の研究」には01番歌を指して「詞書の筆者は
西行・俊成のいずれとも知られないが(後略)」とあり、歌は
千載集の歌稿ととして、西行から俊成に送られたものであると
書かれています。

 「本地垂跡の信仰を象徴の域にまで達して表現している。(略)
 日本に渡来した仏教も、神仏習合は早くから行われ、平安末期
 から鎌倉初期にかけて、神は仏の化現だとする思想が発達した。
 (略)「また上もなき峰の松風」は、詞書にいう大日如来の垂跡
 を、自然の相の中に認識しているのであって、西行の作品におけ 
 る自然が、生命をもって生き生きと活動する宗教的根拠をも、
 つきとめることのできる歌である。」
    (窪田章一郎氏著「西行の研究」328ページから抜粋)

(垂迹と垂跡は同義で、ともに「すいじゃく」と読みます。)

本地=本来のもの、本当のもの。垂迹=出現するということ。

仏や菩薩のことを本地といい、仏や菩薩が衆生を救うために仮に
日本神道の神の姿をして現れるということが本地垂迹説です。
大日の垂迹とは、神宮の天照大御神が仏教(密教)の大日如来の
垂迹であるという考え方です。

本地垂迹説は仏教側に立った思想であり、最澄や空海もこの思想
に立脚していたことが知られます。仏が主であり、神は仏に従属
しているという思想です。
源氏物語『明石』に「跡を垂れたまふ神・・・」という住吉神社に
ついての記述があり、紫式部の時代では本地垂迹説が広く信じら
れていたものでしょう。
ところがこういう一方に偏った考え方に対して、当然に神が主で
あり仏が従であるという考え方が発生します。伊勢神宮外宮の
渡会氏のとなえた「渡会神道」の神主仏従の思想は、北畠親房の
「神皇正統記」に結実して、多くの人に影響を与えました。

 伊勢にまかりたりけるに、太神宮にまゐりてよみける

 榊葉に心をかけんゆふしでて思えば神も佛なりけり
        (岩波文庫山家集125P羇旅歌・新潮1223番・
             西行上人集追而加書・西行物語)

1180年の伊勢移住より以前に詠まれたこの歌が、西行の本地垂迹
思想を端的に物語っています。同時に僧体でありながら伊勢神宮に
参詣したということをも詞書によって読み取れます。
天皇の宗教的権威の象徴でもある伊勢神宮に僧侶や尼僧が参詣する
ということはタブーでしたが、そのタブーがゆるくなり始めた頃
だったのかもしれません。内宮神官の荒木田氏との親密な関係が
なければ、参詣することはできなかったものとも思えます。
つまり、特別に参詣したとみなしていいのでしょう。
奈良東大寺の重源が700人の弟子を引き連れ、大般若経を携えて
参詣したのは、西行よりも遅れて1186年のことです。この時、一行
は外宮では夜陰にまぎれて参拝、内宮では白昼に神前に参拝したと
いう記録があります。

神仏習合とか混交ということ自体は本地垂迹思想よりも早く、七世紀
頃にはきわめて自然に広まっていきました。お寺の中に神社の性格を
持つ「神宮寺」が多く建てられていることからみても、それがわかり
ます。神の「八幡神」と仏の「菩薩」が合体して「八幡大菩薩」など
という言葉も生れます。神と仏を融合させて、より自然に素朴な形で
信じられてきたものだと思います。

尚、僧侶や尼の参拝が公式に許可されたのは明治5年のことです。
             (西行の京師第二部第07号から転載)

(二見浦の西行)

西行の二見浦の草庵について興味深い記述があります。荒木田満良
(蓮阿)の「西行上人談抄」から抜粋します。
荒木田満良は伊勢神宮内宮の禰宜の一族であり、240Pに西行との
「こよひしも・・・」の贈答歌のある神主氏良の弟にあたります。
氏良と満良の兄弟を中心にして伊勢における作歌グループがあり、
西行はそのグループの指導的な位置にいたものと思います。

「西行上人二見浦に草庵結びて、浜荻を折敷きたる様にて哀なる
すまひ、見るもいと心すむさま、大精進菩薩の草を座とし給へり
けるもかくやとおぼしき、硯は石の、わざとにはあらず、もとより
水入るゝ所くぼみたるを被置たり。和歌の文台は、花がたみ、扇
ようのものを用ゐき(後略)」

生き生きとしたリアリティのある言葉で草庵の情景が描かれて
います。西行の二見の庵での生活のありようが容易に想像できる
表現です。
この草庵の位置は二見浦の海岸線からは少し離れていて、安養山
(現在の豆石山)にあり、三河の伊良湖岬に近い神島までが見えた
とのことです。
1180年からの伊勢在住時代の多くは、西行はこの庵を拠点にして、
伊勢の国の美しい自然に触れ、そして荒木田氏を中心とする人々
との交流を深める日々をすごしていたことでしよう。

しかし不思議なことに、伊勢在住時代の伊勢の歌が極端に乏しいの
です。伊勢神宮の歌はありますが、二見の歌や島々の歌などの多く
が、1180年からの二見で庵を構えて住む以前の歌と解釈できるの
です。二見に住んでからも島々を巡ったであろうことは容易に推測
できますし、なぜ二見に住んで二見あたりの歌が少ないのか、詠ま
なかったのか、それが謎です。
後世になり書写した人の手によって伊勢二見時代の歌が山家集に
補筆転入されたという可能性も考えられますが、伊勢神宮の多くの
歌が山家集にはないという事実から見ても、その可能性は低いと
みて良いと思います。
西行歌は散逸しているものが多いらしいのですが、もしそれが事実
なら、散逸した歌の中に、この時代の伊勢神宮以外の伊勢の歌も
多いのではなかろうか、と思わせます。

  遠く修行しけるに人々まうで来て餞しけるによみ侍りける

 頼めおかむ君も心やなぐさむと帰らぬことはいつとなくとも
     (岩波文庫山家集280P補遺・西行上人集追而加書・
                  新古今集・西行物語)

280ページにあるこの歌が、歌の配列などからみて、西行が二度目の
奥州行脚に旅立つ前に伊勢の作歌グループとの惜別の歌会で詠んだ
歌と見られています。口語体の分かりやすい歌であり、高齢に
なって長途の旅をする西行の心境が凝縮されています。
           (西行の京師第二部第11号から転載)

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「この草庵の位置は二見浦の海岸線からは少し離れていて、安養山
(現在の豆石山)にあり、三河の伊良湖岬に近い神島までが見えた
とのことです。」
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これは、1186年に西行が陸奥への二度目の行脚に旅立ってから、ほど
なくして安養山を訪れた鴨長明の以下の詞書と歌が下敷きとしてあった
からです。

【西行法師住み侍りける安養山という所に、人歌よみ連歌などし
 侍りし時、海辺落葉と云ふことをよめる

 あきをゆく神嶋山はいろきえてあらしのすゑにあまのもしほ火】
                  (鴨長明 伊勢記)

鴨長明のこの詞書と歌から目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」
360ページに
「草庵の所在地は神島を眼のあたりにする二見の安養山なる所で
 あったことが知られる。」
と明記されています。

それゆえにこそ、「伊良湖岬に近い神島までが見えた・・・」と、
私は記述しました。

ところが二見在住の方から「安養山の西行の庵のあったと思える
場所からは神島は見えない」というご指摘をいただきました。
方角が違っていて、見えないそうです。
これはやはり現地の方が、実際に豆石山(安養山)に上がって検証
されたことが正しいことだと思われます。
とすると、安養山の西行の庵の位置が違うか、もしくは、長明の歌
は実際に即したものではなくて想像で詠んだものかとも思えます。
ともあれ「伊良湖岬に近い神島までが見えた・・・」という私の
記述は撤回いたします。

【神ろぎの宮】

 祝詞の中の言葉とのことです。「神ろぎ」と「神ろみ」の言葉が
 あり、「イザナギ」は男神、「イザナミ」は女神のように、
 「カムロギ」は男神、「カムロミ」は女神を指すようです。
 ただしこの歌の場合は女神ではあるけれども主祭神としての
 天照大神を指していて、天照大神の居る宮ということになります。

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01 千木たかく神ろぎの宮ふきてけり杉のもと木をいけはぎにして
              (岩波文庫山家集261P聞書集261番)
       
○千木

 神社建築に見られる、屋根の上の両端の屋根から突き出た形で
 交差している二本の木のことです。
 
○杉のもと木

 杉の原木の表皮を剥いだままの意味のようです。しかし神宮の
 正殿の屋根は萱や檜皮で葺いているようで、杉の皮で葺いては
 いないようです。なぜ「杉」なのかわかりません。

○いけはぎに

 杉の木を切り倒して、しばらく乾燥させてから剥いだ皮では
 なくて、乾燥させないままの生の皮を剥ぐということです。
 (いけはぎ)は大祓えの儀式における祝詞の文言にあるよう
 です。

(01番歌の解釈)

 「千木を高く構え、大神の神殿の屋根を葺いたよ。杉の原木の
 皮をはいで。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【亀井の水】 (山、108)

 摂津の国にある四天王寺境内から湧出する清水を言います。
 金堂の龍池より出ている水とのことです。
 聖徳太子が自身の姿を映したという伝説があって、この歌は
 その伝説をふまえたものです。

 余談ですが京都の松尾大社にも「亀井の水」があります。
 こちらは元号の「霊亀(715年〜717年)」のもととなりました。

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01   天王寺へまゐりて、亀井の水を見てよめる

  あさからぬ契の程ぞくまれぬる亀井の水に影うつしつつ
         (岩波文庫山家集108P羇旅歌・新潮863番)

○天王寺

 地名。大阪市の行政区の一つです。
 歌にある「天王寺へまゐり」というフレーズは、お寺の四天王寺を
 指しています。西行歌では、四天王寺と天王寺は同義です。
 四天王寺は国家で建立したお寺の第一号です。聖徳太子の創建と
 伝えられています。現在の堂宇は昭和になってからのものです。
 天王寺歌は他に六例があります。

○あさからぬ契

 仏教との宿縁が深いことを言います。自分を納得させ、そして
 勇気付けるための言葉なのでしょう。

(01番歌の解釈)

 「仏縁が決して浅くはないことが推察できた。亀井の水を汲むと
 そこに私が居るのが影に映ったので。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「西方極楽浄土に真直ぐに対する天王寺にお参りし、亀井の水に
 姿をうつして水を汲むことであるが、前世からの深い契りの
 ほどが思われるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

 天王寺の固有名詞が出てくる歌には他に以下があります。

01  天王寺へまゐりけるに、片野など申すわたり過ぎて、見はる
   かされたる所の侍りけるを問ひければ、天の川と申すを聞き
   て、宿からむといひけむこと思ひ出だされてよみける

 あくがれしあまのがはらと聞くからにむかしの波の袖にかかれる
          (岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮欠番・
                  御裳濯河歌合・雲葉集)

02  天王寺にまゐりけるに、雨のふりければ、江口と申す所に
   宿を借りけるに、かさざりければ

 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
          (岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮752番・
             西行上人集・新古今集・西行物語)

03  天王寺へまゐりたりけるに、松に鷺の居たりけるを、
   月の光に見て

 庭よりも鷺居る松のこずゑにぞ雪はつもれる夏のよの月
         (岩波文庫山家集108P羇旅歌・新潮1076番)

04  同行に侍りける上人、月の頃天王寺にこもりたりと聞きて、
   いひ遣しける

 いとどいかに西にかたぶく月影を常よりもけに君したふらむ
           (岩波文庫山家集174P雑歌・新潮853番)

05  中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、
   天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮など申す上人
   どもして見けるに、いとあはれにて、各述懷しけるに

 折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
     (岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

06  俊恵天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐり歌よみ
   けるに具して

 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
          (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1054番・
        西行上人集・山家心中集・続拾遺集・西行物語)

【亀山】

 京都市右京区にある山。保津川(大堰川)に架かる渡月橋の
 東詰めを少し上流に上がったところにあります。
 天龍寺の背後から西北にかけての低山です。

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01 萬代のためしにひかむ亀山の裾野の原にしげる小松を
       (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1179番・夫木抄)
         
○萬代のためし

 万代の先例となるが如くに・・・という意味。

(01番歌の解釈)

 「今上天皇の御代が永遠に続くことの先例に引きましょう。
 亀山の裾野に広がる野原に小松が生い茂るのを。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【加茂・賀茂】

 京都にある地名及び神社名です。
 左京区にある下鴨神社(賀茂御祖神社)と、北区にある上賀茂神社
 (賀茂別雷神社)を総称して加茂社と呼びます。
 古くからの由緒ある神社であり、5月15日に葵祭りが行われます。

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01   不尋聞子規といふことを、賀茂社にて人々よみけるに

  郭公卯月のいみにゐこもるを思ひ知りても来鳴くなるかな
         (岩波文庫山家集44P夏歌・新潮180番)

02   加茂の臨時の祭かへり立の御神楽、土御門内裏にて侍り
    けるに、竹のつぼに雪のふりたりけるを見て

  うらがへすをみの衣と見ゆるかな竹のうら葉にふれる白雪
     (岩波文庫山家集99P冬歌・新潮536番・西行上人集・
           西行上人集追而加書・言葉集・夫木抄)

03   御あれの頃、賀茂にまゐりたりけるに、さうじにはばかる
    恋といふことを、人々よみけるに

  ことづくるみあれのほどをすぐしても猶やう月の心なるべき
      (岩波文庫山家集145P恋歌・新潮614番・西行上人集)
 
04   賀茂のかたに、ささきと申す里に冬深く侍りけるに、人々
    まうで来て、山里の恋といふことを

  かけひにも君がつららや結ぶらむ心細くもたえぬなるかな
         (岩波文庫山家集146P恋歌・新潮609番)

05   そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのが
    れて後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四國のかた修行
    しけるに、又帰りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日
    の夜まゐりて幤まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、
    たなうの社にとりつぎてまゐらせ給へとて、こころざしける
    に、木間の月ほのぼのと常よりも神さび、あはれにおぼえて
    よみける

  かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に
(岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1095番・西行上人集・山家心中集・
    玉葉集・万代集・閑月集・拾遺風体集・夫木抄・西行物語)

06   月の夜賀茂にまゐりてよみ侍りける

  月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり
         (岩波文庫山家集222P神祇歌・新潮1402番)

07   北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて待た
    るる程に、使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがま
    るるまではさることにて、舞人のけしきふるまひ、見し世
    のことともおぼえず、あづま遊にことうつ、陪従もなかり
    けり。さこそ末の世ならめ、神いかに見給ふらむと、恥し
    きここちしてよみ侍りける

  神の代もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて
         (岩波文庫山家集224P神祇歌・新潮1221番)

08   賀茂ニ首

  みたらしにわかなすすぎて宮人のま手にささげてみと開くめる
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1525番)

09 長月の力あはせに勝ちにけりわがかたをかをつよく頼みて
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1526番)

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○卯月のいみ

 卯月の忌みのこと。
 賀茂社の葵祭りに加わる人は精進潔斎をしますが、そのことを
 指します。
         
 他に田植え祭りの前の物忌みをも言います。
 
○加茂の臨時の祭

 陰暦11月の下の酉の日に行われる賀茂社の祭りです。
 889年より始められて、899年には「賀茂社臨時祭永例たるべし」
 と定められています。
 応仁の乱により中絶、江戸時代に復興。明治3年廃絶しています。   

○土御門内裏

 鳥羽・崇徳・近衛三天皇の里内裏のこと。場所は現在の烏丸通り
 西、上長者町通り付近。1117年新造。1138年と1148年に火災に
 遭っています。1153年頃、方忌みにより廃絶しました。
 西行の歌は1148年までのものと解釈できます。おそらくは出家前
 の歌でしょう。

○竹のつぼ

 竹を植えた坪のこと。竹のある中庭のこと。

○おみの衣

 小忌の衣。神事用の衣服のこと。

○御あれ

 御生(みあれ)と表記します。

 「人間をはじめ森羅万象すべてに生命が存在し、人間が呼吸して
 いるように天地すべてが呼吸し、活動して相互に作用しあい、
 作用しあうところから生命が誕生する。それを御生という。」

 現在、5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われますが、それに先駆けて、
 5月12日に御蔭祭(御生神事)が行われています。 
     (賀茂御祖神社社務所発行「賀茂御祖神社」より抜粋)

○さうじにはばかる

 (さうじ)は精進のこと。
 一心に仏道修行を積むこと。心身を清めて行いを慎むこと。
 (はばかる)で精進に悪影響があるということ。

○ささきと申す里

 「ささき」という里名についてはわかりません。賀茂社の付近の
 里名を調べたのですが、どうしてもみつかりません。
 賀茂社が領有してきた里名としてもなく、現在の町名としても
 ありません。
 「山州名勝志」には上賀茂の北にあったとのことですが、私は
 未確認です。
 西行が出家した候補地の一つである「西念寺」も、この付近に
 あったものでしょう。都名所図会によると「西念寺」は上賀茂の
 堤の南にあり、西行の姉も住んでいたようです。

○仁和二年

 仁和二年とは886年のことですから記述ミスです。ここは仁安
 です。仁安ニ年は1167年、西行50歳の頃。西行法師歌集では
 仁安三年とあります。
 
○たなうの社

 上賀茂神社の棚尾社のこと。
 
○幣

 (へい・ぬさ・みてぐら)と読みます。緑の葉のある榊の枝に
 白地の布や紙を垂らしたものです。

○しで

 注連縄や玉ぐしにつける白地の紙。昔は白布も用いました。

○みおやがはら

 下鴨神社の側を流れる加茂川の河原のこと。賀茂川と高野川が
 合流して鴨川となりますが、下鴨神社のある周辺一帯を指すと
 解釈してよいでしょう。
 
○北まつり

 岩清水八幡宮の南祭に対して、賀茂社の祭りを北祭りといいます。
 
○はし殿

 賀茂両社に橋殿はあります。この詞書ではどちらの神社か特定
 できませんが、上賀茂神社だろうと思えます。
 
○へいふし

 新潮版では「つい伏し」となっています。
 膝をついて平伏している状態を指すようです。

○東遊び

 神楽舞の演目の一つです。現在も各所で演じられています。
 
○ことうつ陪従

 (陪従)は付き従う人と言う意味ですが。その陪従が神楽舞で
 琴を打つということです。
 しかしこの時には勅使に付き従ってくる琴の奏者である陪従も
 いなかったということになります。

○みと

 「御戸・御扉」のことです。

○力あはせ

 上賀茂神社で行われた9月9日の重陽の節句の神事として
 行われる相撲を指しています。
 
○かたおか

 片岡山のことです。古くは賀茂山とも言っていたそうです。
 「神山」と同様に賀茂社の神体山ともいえます。

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(01番歌の解釈)

 「時鳥よ。四月は祭りの潔斎でお前を聞きに出られないのが
 わかったから、お前の方から賀茂に来て鳴いてくれるのだね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「前栽の竹の末葉に降った白雪は、舞人が着ている小忌衣を
  ひるがえして舞っている、その袖のように見えるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(03番歌の解釈)

 「賀茂祭のための精進潔斎を口実にして、あなたは逢おうとして
 くれなかったが、御生を過ぎてもそのままなのは、まだ卯月だか
 ら、私に冷たい心のままだからだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「筧にも、恋しいあの人の心のようにつめたい水が結んだので
 あろうか。細々と流れていた水も心細いことに絶えてしまった。
 あの人との仲が絶えてしまったように。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(05番歌の詞書と歌の解釈)

 この詞書によって四国旅行に出発した時の西行の年齢が分かり
 ます。旅立ちに際して上賀茂社に参詣したのですが、「又帰り
 まゐらぬこともやとて」とあるように、自分で大変な旅になる
 かも知れないという覚悟があったことがわかります。
 「たなうの社」は現在は楼門の中の本殿の前にあるのですが、
 詞書から類推すると西行の時代は本殿と棚尾社は離れていたの
 かもしれません。僧侶の身では本殿の神前までは入られないから、
 幣を神前に奉納してくれるように、棚尾社に取り次いでもらった
 ということです。

 「かしこまり謹んで奉る幣に涙がかかるよ。四国行脚へ出かける
 自分はいつまたお参りできることか、もしかしたら出来ないのでは
 と思うと。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「月が美しく澄んでいる御祖川原に霜が冷たく凍り付いて、千鳥が
 遠くに飛び立つ鳴き声が聞えてくる。
                (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の詞書と歌の解釈)

 「賀茂祭の頃に賀茂社に参詣したのですが、具合良く、少し待った
 だけで朝廷からの奉幣の勅使が到着しました。勅使が橋殿に着いて
 平伏して拝礼されるところまでは、昔ながらのしきたりのままでした。
 ところが東遊びの神楽舞を舞っている舞人の舞い方は昔に見た
 ものと同じ舞とは思えないほどにお粗末で、舞に合わせて琴を打つ
 人さえいません。これはどうしたことでしょう。いくら末法の時代
 とはいえ、この事実を神はどのように御覧になっていることだろう。
 まったく、恥ずかしい気がします。」
 ということが詞書の意味です。下は歌の解釈です。

 「人の世のみならず、神の代もすっかり変わってしまったと見える
 ことだ。琴の陪従もいなくなり、祭のことわざ、舞人の振舞も昔の
 ようではなくなったことにつけても」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

 「正月七日には賀茂神社境内の御手洗川で若菜を洗い清め、神官
 が両手に捧げて本殿の御扉を開いて供えるように見えた。」

              (和歌文学大系21から抜粋)
(09番歌の解釈)

 「九月の相撲に勝ったことである。わがかたおか(賀茂の御力と
 自分の味方)を強く頼みとして。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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(賀茂社のこと) 

「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となった
のは794年のことです。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、
長岡京に遷都しました。しかし長岡京も藤原種継暗殺、早良親王
幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したために、わずか10年で
おわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と
改め、新京を平安京としました。
ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社
は784年に従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の
正一位の位階を授けられています。810年には斎院の制度も整い、
賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭にふさわしい儀式として、
形式が整えられました。
賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。
朝廷が騎射禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる
制度もあって鴨氏の女性が「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女
になっていたとのことです。
ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わり
して主催することになったわけです。別の言い方をするなら、大変
な人気のある祭りを朝廷が乗っ取って、主催することになりました。
この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。
以来、今日まで続いています。
ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。

(御手洗川)

「現在は明神川と称するが、古くは御手洗川の名で知られた。賀茂川
の分水で、柊原より別れて南流し、上賀茂神社の社殿の背を回って
楼門の南に至り、東より流れてくる御物忌川と合流、楢小川と名を
変える。境内より出て再び明神川となり、一部は賀茂川に合するが、
一部は上賀茂社家町の北を東流する。その名のとおり、上賀茂社の
御手洗の水である。(中略)
御手洗の名は、元来は神社の前にあって、参詣に際して手を清める
ための川の意で普通名詞であるが、歌枕としてはほとんど賀茂社の
御手洗川を意味し、他社の場合は特にその旨を断って詠んでいる。」

上記は上賀茂神社の御手洗川ですが下鴨神社は瀬見の小川をいいます。
尚、御手洗祭は7月の土用の丑の日に行われています。今年、22年は
は26日(月)になります。
 
御手洗団子は賀茂社の御手洗に由来しているもので、賀茂社発祥の
団子です。 

(04番歌について)

この詞書については、「人々まうで来て・・・」が新潮版の山家集
では「隆信など詣できて・・・」と変わっています。
「侍りけるに」とありますので、賀茂の近くにも庵があったのかも
しれません。
ただし、隆信との年齢差を考えると、西行は50歳過ぎの高齢になって
からです。西行50歳という年は、まだ高野山にこもっていた年代です。
下に窪田章一郎氏の「西行の研究」から抜粋します。

「山家恋の題詠は女性の立場のもので、山家の筧の垂氷ともなって、
君のつらい心は、固く凍っていることであろう。心細くも絶えて
しまったことかな、という歌意である。生まれたばかりの隆信を
残して出家した寂超を加賀の立場で詠んだと想像しても適切であり、
西行の場合を考えても、このような女性の立場はあったろう。
世捨人の山家の生活に入ったばかりの頃を作者はおもっているの
である。」

藤原隆信は大原三寂の一人、寂超の子供です。母の加賀は後に藤原
俊成と再婚して定家などを生みました。したがって隆信と定家は
同腹の兄弟です。
美福門院が1160年に崩御した時に、当時18歳の隆信は美福門院の
遺骨を持って高野山まで行っています。
隆信は能書家及び画家としても有名ですが、建礼門院右京大夫集
などを見ると、艶福家としても有名だったようです。
この歌は隆信に対する西行の気持ちが伝わってくる歌です。
  (平凡社刊「京都市の地名」・窪田章一郎氏著「西行の研究」
      賀茂御祖神社社務所刊「賀茂御祖神社」を参考)

【かもの入りくび】 (山、173)

1 もののふのならすすさびはおびただしあけとのしさりかもの入くび
               (岩波文庫山家集 173P 雑歌)

○もののふ=武士のこと。ここでは武芸家?

○すさび=心のおもむくままに物事をすること。

○あけとのしさり= 不明。武道の技の名称の可能性あり。

○かもの入くび=相撲の技の一つ。首を相手の脇の下に入れて
        反り返るように攻める技。

 新潮古典集成山家集では以下のようになっています。

 もののふの 馴らすすさみは 面立たし あちその退り 鴨の入首

◇すさみ=物事の勢いに乗ずること。
◇面立たし=名誉なこと。光栄なこと。
◇あちその退り 鴨の入首=意味不明であるが、馬の訓練の方法の
        呼称か。

  (歌の解釈)

 『武士が勢いに乗ってする訓練はまことに面目あることだ。
 「あちその退り」や「鴨の入首」など。』
              (新潮古典集成山家集から抜粋)

 『武士が訓練する術はおびただしくある。あげどのしさり、
  かもの入れくび、などはその一例である。』
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 『武芸家というものは普段から大変な技を手慰みのように
 こなしているものだ。あけとの退りとか鴨の入首とか、跳(と)
 んだり跳(は)ねたり、反り返ったり。』
                (和歌文学大系21から抜粋)

からな→「いそしく」32号参照
からなづな→「おふしたて」81号参照

からびつ→「いくの」27号参照

【唐衣】

 中国風または韓国風の衣服のこと。袖は大きく丈はくるぶしまで
 あり、左前と右前を深く打ち合わせて着用します。
 歌では美しい衣服の意味です。衣の美称として使われています。

 万葉集にも詠まれていて、「韓衣」とも表記されています。
 「裁つ」で「立田山」の枕詞にもなっていますが「きて、かへす、
 そで」などの縁語が多用されています。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 ひとりきて我が身にまとふ唐衣しほしほとこそ泣きぬらさるれ
          (岩波文庫山家集162P恋歌・新潮1328番)
                  
02 うちとけてまどろまばやは唐衣よなよなかへすかひもあるべき
          (岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1295番)
           
03 から衣たちはなれにしままならば重ねて物は思はざらまし
          (岩波文庫山家集145P恋歌・新潮593番・
              西行上人集追而加書・続後撰集)

04 みさをなる涙なりせばから衣かけても人に知られましやは
          (岩波文庫山家集157P恋歌・新潮1251番)
             
05 こぬ夜のみ床にかさねてから衣しもさえあかすひとりねの袖
             (岩波文庫山家集260P聞書集254番)

○しほしほと

 しとしとと濡れることを言います。涙や雨についていう言葉です。
 さめざめと・・・と同義。

○たちはなれにし

 衣が「裁ち離れる」ことと、恋人との縁が「立ち離れる」こと
 を掛けています。

○みさをなる

 貞操のこと。変わらずに二心のない気持のこと。

○しもさへあかす

 たくさんの涙を流したということ。霜は涙を暗示しています。

(01番歌の解釈)

 「あの人の衣と重ねることなく、私のからだだけを包む衣は、
 さめざめと泣いた私の涙だけで濡れることになる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「心うちとけてまどろむことができるならば、夢に恋しい人と
 逢うのを期待して、夜毎夜毎衣を裏返して寝る甲斐もあろうと
 いうものを。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「あなたとの縁が切れたままであったなら、またあなたのことで
 思い悩むことはなかったでしょうに。なまじ、復縁したり、また
 絶縁したり、ではつらいばかりです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「恋ゆえの苦しさにも堪えて落ちることのない涙であるならば、
 自分の恋も人に知られることがあろうか、決して知られること
 はあるまいものを。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「あの人の来ない夜だけを寝床に重ねて、唐衣に置く霜が
 冷えて夜を明かす独り寝の袖よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【唐錦】

 中国渡来の豪華な錦のこと。渡来品でなくても、豪華な絹織物を
 指して言います。
 紅葉の素晴らしさをいうために錦に例えている歌が多くあります。

 流れ来るもみぢ葉見れば唐錦滝の糸もて織れるなりけり
                  (紀貫之 拾遺集)

【から絵?】

「唐絵」であれば、中国渡来の絵ということです。
 また、大和絵に対して中国風な作風で描かれた作品も指します。

 この詞書の場合「たりけること、から絵に」と、読点があります
 から「唐絵」と解釈できますが「事柄絵に」とも読めますから、
 解釈に迷います。

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01 今日ぞ知るその江にあらふ唐錦萩さく野邊にありけるものを
           (岩波文庫山家集58P秋歌・新潮272番・
                 西行上人集・山家心中集) 

02   人に具して修学院にこもりたりけるに、小野殿見に人々
    まかりけるに具してまかりて見けり。その折までは釣殿
    かたばかりやぶれ残りて、池の橋わたされたりけること、
    から絵にかきたるやうに見ゆ。きせいが石たて瀧おとし
    たるところぞかしと思ひて、瀧おとしたりけるところ、
    目たてて見れば、皆うづもれたるやうになりて見わかれ
    ず。木高くなりたる松のおとのみぞ身にしみける

   瀧おちし水のながれもあとたえて昔かたるは松のかぜのみ
              (岩波文庫山家集267P残集20番)
             
○その江にあらふ

 古代中国の「蜀」の国を流れている川の名称。
 その川で織物を晒しており、それを「蜀江錦」と言います。

○修学院

 左京区にある地名及び寺社名。後述。

○小野殿

 小野宮のこと。丸太町烏丸あたりにあった惟喬親王の邸宅を
 いいます。

○釣殿

 寝殿造りで、東西の対の屋から南に延ばされた中門廊の端に、
 池にのぞんで建てられた建物のこと。
          (講談社「日本語大辞典」より引用)

○きせい

 庭園作製者名のはずですが、生没年や事歴については不明です。
 「基勢(其聖とも)と称された寛蓮、俗名橘良利のことか、
 宇多天皇の臣で、囲碁の名人とされる」と、和歌文学大系21には
 あります。

(01番歌の解釈)

 「今日初めて知った。蜀江の水で洗うという唐錦は、萩の咲く
 野辺にあったのになあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の詞書と歌の解釈)

 (詞書)
 「人と共に修学院にこもっていた頃のことです。人々が小野殿を
 見物に行こうと言うことですので、同行しました。小野殿の釣殿
 はその時までは形ばかり残っていました。
 池には橋が渡されているのですが、その様子などは唐絵に描いた
 ように、鮮やかに見えました。ここは、きせいという庭師が大きな
 石を立てて滝を作って水を流していた所です。しかし、注意して
 良く見てみても、すべてが埋もれたようになっていて、滝の跡も
 見分けがつきません。高く伸びた松の木を渡って行く風の音のみ
 聞こえることが、うら寂しくて身にしみます。
  
 (歌)
 「かつては滝があり流れていた水も、今では絶えてしまっていま
 す。この邸の昔のことを語るものは何もありません。ただ、松風
 のみが往時と同じに吹きすぎて行くばかりです。」
                    (以上、私の解釈)

(小野殿と惟喬親王)

文徳天皇の第一親王である惟喬親王(844〜897)は出家前に大炊
御門烏丸の邸宅に住んでいました。親王は生母が藤原氏では
なかったために事実上、皇位に就く道を閉ざされていました。
28歳の時に剃髪、出家。小野に隠棲しました。
ここでの小野は比叡山の麓の大原のことです。親王と親交のあった
在原業平が大原の山荘を訪ねて歌を詠んでいます。

 忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて君を見んとは
                 (在原業平 古今集) 

白州正子さんの「西行」では、西行達が修学院から見に行った
小野殿は、この大原の隠棲地だと解釈されていますが、ここは
やはり大炊御門烏丸の屋敷と解釈するほうが自然です。大原の
隠棲地に造園工事をして釣殿を建てるというのも不自然な話です。
惟喬親王が小野に隠棲したために、親王は小野宮と呼ばれ、同時に、
この烏丸の屋敷も小野宮とか小野殿と呼ばれました。
この小野殿は約110メートル四方の屋敷です。大鏡の右大臣実頼
「藤原忠平の長子(900〜970)」の項に実頼がこの屋敷を伝領した
ことが書かれています。
実頼は小野殿に住んだので「小野宮の右大臣」と呼ばれていました。
小野殿は914年、1057年、1121年、1144年、1167年に火災に遭って
いて、以後は記録に見えませんので再建されなかったものでしょう。
西行達は何年に小野殿を訪ねたのか、年代までは分かりません。
火災に遭って数年してからと考えれば1150年前後、もしくは1170年
前後でしょうか。ただし、1144年の被災後すぐに再建されていると
したら1170年頃ということでしょう。
それでも高野山にこもっている時代に、京都にきて修学院にも
こもったものかどうか疑問です。可能性としてはあるとは思います。

(修学院と修学院離宮)

叡山三千坊のひとつである修学院(修学寺)に由来する左京区に
ある地名です。
修学院は叡山の勝算僧正を開基とするとありますが何年の建立か
資料がありません。980年代に官寺となっているということです。
ここには兼好法師(1282頃〜1352頃)も庵を結んでいたことが知ら
れていますので、南北朝の頃まで、もしくは応仁の乱頃までは存続
していたものと思います。

現在の修学院離宮は後水尾院が1656年に造営に着手、1659年にほぼ
完成したものです。1615年の「禁中並公家諸法度」や、1627年の
「紫衣事件」で、幕府は朝廷を締め付けましたが、それを不満と
して後水尾天皇は1629年に退位しました。退位後、洛北で旗枝御所
(円通寺)という山荘を営みましたが、水回りの関係でそこには
満足できず、適地を修学院に求めたものでした。
完成した当時の離宮は上と下の茶屋のみでした。中の茶屋は明治に
なってからの造営です。
この離宮は西京区の桂離宮とともに江戸時代初期の代表的な書院
造りの建築物として高名です。自然の景観との調和美を優先した
様式は国内だけでなく海外でも著名です。

【唐国】

 (からくに)と読みます。古くは朝鮮半島南部を指す言葉ですが、
 転じて現在の中国を指す言葉になりました。
 私には、中国を中心として朝鮮半島を含めた一帯を指す言葉と
 しての認識があります。
 
【唐土】

 (もろこし)と読みます。原義的には中国の春秋戦国時代の
 「越」の国を指すようです。
 現在の中国と解釈して間違いありません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 から国や教えへうれしきつちはしもそのままをこそたがへざりけめ
         (岩波文庫山家集229P聞書集19番・夫木抄)

02 我ばかりもの思ふ人や又もあると唐土までも尋ねてしがな
      (岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1302番・万代集)

○つちはし

 土でできた橋のこと。

○たがへざり

 違約しないこと。間違わないこと。教えからはずれないこと。

○尋ねてしがな

 訪ねていきたいものだという願望を表します。

(01番歌の解釈)

 「漢土で、張良は兵法の嬉しい教えを得た、その土橋の上の
 教えもそのまま受けてそむかなかったのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「自分ほど恋のもの思いをする人がまたもあろうかと、遠く
 唐土までも尋ねてみたいものだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

からす貝→「おもほゆるかな」84号参照    
からす羽→「雁・雁がね」予定


【唐崎・から崎】

 琵琶湖西岸にある地名。滋賀県大津市唐崎のことです。
 02番歌の「から崎」は夫木抄では「かささき」となっています。
 西行上人集追而加書では「笠さき」です。
 地名ではなく「風先き」と解釈されています。

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01 風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎
    (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮564番・西行上人集・
             山家心中集・宮河歌合・続勅撰集) 

02 雪とくるしみみにしだくから崎の道行きにくきあしがらの山
          (岩波文庫山家集16P春歌・新潮975番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)
          
○雪とくる

 雪が溶ける、解かす、ということ。

○しみみにしだく

 強く踏みしめながら、ということ。

○あしがらの山

 神奈川県(相模)と静岡県(駿河)の県境にある足柄山のこと。
 箱根外輪山の金時山の北に位置します。更級日記に足柄山の
 遊女の記述がありますから、足柄山も賑わっていたものでしょう。
 
 新潮日本古典集成山家集の解説によると、松屋本山家集では
 「あしがらの山」は「信楽の山」となっているそうです。信楽山
 であれば、「から崎」とは同じ近江であり距離的に合いますから、
 歌意もなんとか通じます。

(01番歌の解釈)

 「志賀の唐崎では寒風が特に冴えて吹き、波が打ち寄せると
 そのまま凍ってしまい、かえる波はないことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「解けかかった雪をぎしぎしと踏み固めながら足柄峠を越えて
 行くが、風上に向かう道はとてもあるきにくい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌について)

ゆきとつるしみみにしたくかささきのみちゆきにくきあしからのやま
                   (夫木抄7298番)

雪解くる しみみに拉(しだ)く かざさきの 道行きにくき 足柄の山
                (新潮日本古典集成山家集)

2番歌は夫木抄にもある歌ですが、不可解な歌です。「から崎」を
滋賀県大津市の唐崎とすれば、神奈川県(相模の国)にある足柄山
とは距離的に整合しません。夫木抄にあるように「から崎」を
「風先」と解釈するのが自然かと思います。
「から崎」とするなら「しがらき(信楽)の山」が合いますが、しかし
唐崎と信楽も少し距離があります。
どちらにしても二つの地名を詠み込むことの必然なり、おもしろさ
なりを感じさせてくれません。

和歌文学大系21では「生涯に二度足柄越えをした可能性があるが、
これは現地詠ではない。」と記述されています。
箱根を往還するには、坂がきついけど近道である南の箱根路と、
ゆるやかだけど遠回りになる北の足柄路があります。
二度の陸奥旅行の往路は冬の季節ではないですし、帰路は東海道
ではなくて東山道をたどった可能性が高いと思いますので、やはり
冬に足柄越えをした可能性はほぼないだろうと思います。

【からすあふぎ】

 植物のヒオウギの別名。種子が黒色なので名付けられました。
 ヒオウギはアヤメ科のヒオウギ属です。ヒオウギのみの一種で
 一属となっています。
 平安時代、宮中の装いでヒノキの細い板で作られた扇、つまり
 ヒノキの扇から名付けられた植物名とのことです。
 花名の由来はヒオウギの茎の下の左右両側に広がる葉を檜扇に
 見立てたとのことです。
 六弁の橙黄色の花で赤色の濃い斑点があって、とてもきれいです。
 古くから観賞用に栽培されていたとのことですが山地でも自生
 しているのを見かけました。

 黒光りするこの種子が「うばたま・むばたま」として「黒」「夜」
 「闇」などを引き出すための枕詞になっています。
            (朝日新聞社刊、草木花歳時記「夏」・
           笠間書院刊、歌枕歌ことば辞典から引用)
 
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01 蓬生のさることなれや庭の面にからすあふぎのなぞしげるらむ
       (岩波文庫山家集53P夏歌・新潮1017番・夫木抄)
             
○さることなれや

 (さる)は「然る」で「そういう状態だなー」ということ。
 新潮版では「さまことなりや」となっています。
 その場合は様子が他と変わっていることを言います。
 
○なぞしげるらむ

 なぜ茂っているのかなーという意味。
 もちろんここではカラスオウギの名称に掛けている言葉遊びで
 あり、枯れるはずはないことを分り切った上での歌です。

(01番歌の解釈)

 「私の山家の庭の蓬生はちょつと変わっているようだ。「枯らす」
 という名のからすおうぎが、今を盛りと生い茂っている。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【からすざき】

 三重県一志郡香良洲町にある岬のこととみられています。
 一志郡香良洲町は松坂市の北に位置していて、伊勢湾の中ほど
 にあり、菅島とは離れています。

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01 からすざきの浜のこいしと思ふかな白もまじらぬすが嶋の黒
         (岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1384番・
               西行上人集追而加書・夫木抄) 
                     
○すが嶋の黒

 伊勢湾にあり答志島の西に位置する菅島のことです。鳥羽市に
 属しています。菅島の小石が黒色であることを言っています。

(01番歌の解釈)

 「烏の名を持つ香良洲崎の浜の小石かと思うよ。ひとつも白が
 混じらない菅島の黒い石は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 この歌は前後の歌とセットになっています。他の3首も紹介します。

「すが島やたふしの小石(こいし)わけかへて黒白まぜよ浦の浜風」
         (岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1382番)
        
「さぎじまのごいしの白をたか浪のたふしの浜に打寄せてける」
          (岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮138番)
 
「あはせばやさぎを烏と碁をうたばたふしすがしま黒白の浜」
      (岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1385番・夫木抄) 

【雁・雁がね】

 渡り鳥の雁のこと。カモ科の水鳥です。カモよりは大きく
 ハクチョウよりは小型です。
 マガン・ハクガン・ヒシクイ・カリガネなどに分類されます。

 雁の足に手紙を結び付けて送ったという古代中国の故事から、
 「雁の使い」「雁の便り」として、手紙や文章を表す「玉梓」と
 結びつけて詠まれることがあります。

 「雁がね」は本来は「雁が音」として雁の鳴き声のことですが、
 雁と同義でも詠まれるようになりました。
 山家集にある「雁がね」は狭義に「カリガネ」という種名を指す
 ものではなくて広義に雁全般を指しているものと思います。

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01 玉づさのはしがきかとも見ゆる哉とびおくれつつ帰る雁がね
           (岩波文庫山家集24P春歌・新潮48番・
         西行上人集・山家心中集・言葉集・夫木抄) 

02 何となくおぼつかなきは天の原かすみに消えて帰る雁がね
           (岩波文庫山家集24P春歌・新潮46番・
                 西行上人集・山家心中集)  

03 かりがねは帰る道にやまどふらむ越の中山かすみへだてて
            (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮47番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

04 あさかへるかりゐうなこのむら鳥ははらのをかやに声やしぬらむ
           (岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1012番)

05 よこ雲の風にわかるる東明に山とびこゆる初雁のこゑ
      (岩波文庫山家集66P秋歌・新潮420番・西行上人集・
         山家心中集・新古今集・御裳濯集・西行物語) 

06 沖かけて八重の潮路を行く船はほのかにぞ聞く初雁のこゑ
            (岩波文庫山家集66P秋歌・新潮419番)

07 からす羽にかく玉づさのここちして雁なき渡る夕やみの空
     (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮421番・西行上人集・
        山家心中集・宮河歌合・新拾遺集・御裳濯集) 

08 白雲を翅にかけて行く雁の門田のおもの友したふなり
     (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮422番・西行上人集・
   山家心中集・宮河歌合・新古今集・御裳濯集・西行物語) 

09 玉づさのつづきは見えで雁がねの声こそ霧にけたれざりけれ
           (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮423番) 

10 空色のこなたをうらに立つ霧のおもてに雁のかくる玉章
           (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮424番)

11 つらなりて風に乱れて鳴く雁のしどろに声のきこゆなるかな
           (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮959番)

12 くまもなき月のおもてに飛ぶ雁のかげを雲かと思ひけるかな
       (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮366番・夫木抄)

13 つれもなく絶えにし人を雁がねの帰る心とおもはましかば
           (岩波文庫山家集147P恋歌・新潮600番) 

14 人はこで風のけしきのふけぬるにあはれに雁のおとづれて行く
          (岩波文庫山家集156P恋歌・新潮欠番・
                新古今集・御裳濯河歌合) 

15 月はみやこ花のにほひは越の山とおもふよ雁のゆきかへりつつ
            (岩波文庫山家集258P聞書集241番)  

16 いかでわれ常世の花のさかり見てことわりしらむ帰るかりがね
          (岩波文庫山家集271P補遺・西行上人集)
       
17 帰る雁にちがふ雲路のつばくらめこまかにこれや書ける玉づさ
          (岩波文庫山家集271P補遺・西行上人集)

(参考歌)風さむみいせの浜荻分けゆけば衣かりがね浪に鳴くなり
  (大江匡房歌)  (岩波文庫山家集95P冬歌・新潮欠番・
                  西行上人集追而加書)

○玉づさ

 手紙のことです。
 伝言などを伝える時に、使者は梓の木で作った杖を用いたので、
 それから来た言葉です。

○はしがき

 本文の端に書き添えた言葉。手紙の余白などに書かれた添え
 書きのこと。

○越の中山

 「和歌文学大系21」によると、新潟県妙高市の妙高山説が有力
 とのことです。諸説あるものと思います。
 妙高山は新潟県南西部にある山で標高2446メートル。スキー場、
 温泉などで有名です。

 帰る雁の場合は越路の越前の国を指すのが通例とのことです。
 「越の中山」は越後の国であり、少しくおかしいなと思わせます。
 そのあたりのことは西行は知らないはずは無かったでしょうし、
 承知の上で「越の中山」としたものでしょう。

○かりゐうなこ

 不詳です。雁の子のことかと思われます。

○はらのをかや

 不詳です。書写した人のミスの可能性も考えられます。

○よこ雲

 横にたなびいている雲。

○東明

 「東雲=しののめ」のことです。明け方のことです。わずかに
 東の空が白む頃を言います。
 岩波文庫の「東明」は古語辞典にもなく、ミスだと思います。

○八重の潮路

 遠くはるかな所へ行く海路のこと。

○からす羽

 文字通り鳥の「烏の羽」のことです。

 日本書紀にありますが、第30代敏達天皇の時代に高麗から烏の羽
 に墨で書かれたものを献じてきたという記述があります。
 この烏の羽を湯気で蒸して紙に押しつけると、書かれた内容が
 読み取ることができたといわれます。

○けたれざりけれ

 新潮日本古典集成山家集では「消たれざりけれ」となっています。
 和歌文学大系21では「乱れざりけれ」となっています。
 平安時代においても「消たれ」という用法はあったようです。
 源氏物語の葵の帖に「おしけたれたる有様」とあります。

○こなたをうらに

 「こなた」はこちら側、こちらの方向という意味です。
 「あなた」「かなた」の対義語です。
 「うらに」は表裏の片方のことです。

○しどろに

 とりとめのない状態。秩序がなく乱れた状態をいいます。

○絶えにし人

 二人の関係が絶えたということ。仲が切れたということ。

○つばくらめ

 ツバメの異称です。

○いせの浜荻

 浜辺に生える荻のこと。
 「難波の葦は伊勢の浜荻」という言葉もあり、葦を指します。

(01番歌の解釈)

 「手紙の追記のようにみえた。群から何度も遅れて飛ぶ帰雁の
 孤影は。」
               (和歌文学大系21から抜粋)  

(04番歌の解釈)

 「今朝孵化したばかりの雁の子たちは、今頃原の岡屋で鳴いて
 いるのだろうか。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 「難解。朝帰ってゆく雁の(の子?)の群は、「はらのをか山」
 越えたことであろうか、の意か。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「横にたなびいた雲が風に吹き散らされる夜明け方、東山を北
 から飛び越えてくる初雁の声が聞える。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

 「烏の真黒な羽に墨で記した玉章は文字が判読し難いけれど、
 それと同じような気持になるよ。夕闇の空を鳴きながらわたって
 ゆく雁は、手紙の文字を思わせるその列(つら)なり飛ぶ姿も
 見えないで・・・。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(09番歌の解釈)

 「霧が濃くて、雁の群は見えず、列が乱れたように声が聞えて
 くる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
(13番歌の解釈)

 「無情にも仲の絶えてしまった人を、花を見捨てて帰る雁と同じ
 心だと思うことができれば心も慰められるだろうに・・・、そう
 は思えず、つらいことだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(14番歌の解釈)

 「待っても人は来ないで、今は風の様子までも夜更らしくなった
 のに、その上にいかにも悲しげに雁が鳴いてゆく。」
 (来ぬ人、夜更けの風、雁の鳴声とあわれの重なった歌である。)
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(16番歌の解釈)

 「帰る雁よ。何とかして私は常世の国の花盛りを見て、お前が
 帰ってゆく道理を知りたい。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(参考歌について)

 この歌は新古今和歌集945番に前中納言匡房の歌として出ています。
 西行の歌ではありません。

【かりの宿】

 原義的には一時的な宿のことです。
 仏教においては現世のことを指しています。
 それは承服できるのですが、現世を穢土として、仏教を信じ
 奉じなければならないとする感覚は、現在の人々からは共感を
 受けないだろうと思います。
  
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01 西にのみ心ぞかかるあやめ草この世はかりの宿と思へば
           (岩波文庫山家集48P夏歌・新潮205番)

02 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
          (岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮752番・
             西行上人集・新古今集・西行物語)  

03 家を出づる人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
   (江口の君歌)(岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮753番・
             西行上人集・新古今集・西行物語) 

04 いとふべきかりのやどりは出でぬなり今はまことの道を尋ねよ
   (西住法師歌) (岩波文庫山家集181P雑歌・新潮欠番・
           西行上人集追而加書・玉葉集・月詣集)

○西にのみ

 西方に浄土があるとする思想によって詠まれています。
 「西行」という法名自体が、西行の強い浄土観を表しています。

○かたからめ

 困難なことでしょう、難しいことでしょう、という多少の揶揄なり
 皮肉なりをこめた言葉になっています。

○ 江口の君

 新古今集では「遊女妙」の歌となっています。
 地名の江口は大阪市東淀川区にあります。

(01番歌の解釈)

 「端午の節句の今日の夜のためにあなたが贈って下さった
 邪気を払う菖蒲がかかっているこの山寺では、西方浄土の
 ことばかりが気にかかります。この世はほんの仮りの宿り
 にしか過ぎないと思うと。
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 (俗世を穢土と厭離して、現世の執着を捨て去ることはさすがに
 遊女のあなたには難しいでしょうが、一時の雨宿りを恵むこと
 までもあなたは惜しむのですか。ちょっと宿を貸して下さい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「あなたが出家の方とうかがってお断りしたまでです。現世の
 執着であれ、一時の雨宿りであれ、出家のあなたには仮のもの
 ならそのままご放念になるのがよろしいかと思ったまでです。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「俗世は厭うべき仮の住みかでありますから、現世から離脱して、
 仏道の正しい道に入りませんか?」
                       (私の解釈)

(04番歌について)

この歌は岩波文庫の底本である「山家集類題」にもありません。
佐佐木信綱博士が西行上人集追而加書から補入した歌です。
西行上人集追而加書の詞書でも、
「前大納言成通世をそむきぬと聞きて、遣しける」 
とあります。これは玉葉集にも西行の歌として出ていますが、
月詣集には「西住法師」としてありますので、それぞれの集の成立
年代から考えて、西住法師歌と解釈するのが自然だと思います。
久保田章一郎氏「西行の研究」、「新潮日本古典集成山家集」、
「和歌文学大系21」、「西行全集」にも採録されていません。
よってここでも西住法師の歌とみなします。  

【かるかや・苅萱】

 イネ科の多年草。刈る萱の意味で、屋根を葺く材料にもなります。
 メガルカヤ、オガルカヤ、メリケンカルカヤがあります。
 西行辞典08号も参照願います。

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01 籬あれて薄ならねどかるかやも繁き野辺とはなりけるものを
           (岩波文庫山家集61P秋歌・新潮275番)
    
02 あき風に穗ずゑ波よる苅萱の下葉に虫の聲乱るなり
           (岩波文庫山家集63P秋歌・新潮446番・
        西行上人集・山家心中集・続拾遺集・夫木抄) 

03 一方にみだるともなきわが恋や風さだまらぬ野辺の苅萱
           (岩波文庫山家集147P恋歌・新潮603番) 

○籬あれて

 垣が荒れているということ。
 垣は土地の占有地などを示すための境界の仕切りです。
 籬は特に目が荒いとでもいうか、空間を広く開けて作った垣で、
 柴の木や竹で作られるようです。

○一方に

 (ひとかたに)と読みます。一つの方向にということ。

(01番歌の解釈)

 「籬が荒れて、古歌にいう薄ではないが、苅萱も茂って
 (しげき野辺)になってしまったよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「秋風が吹くと刈萱の穂の先は乱れて波を打ったように
 片寄るが、下葉には虫が盛んに乱れ鳴いている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「あなたのことを思うと、心が様々に乱れてしまう。私の恋は、
 風向きの定まらない時の野原の刈萱のようで、どちらに倒れる
 かもわからず、何かにつけて苦しいばかりです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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山家集に登場するイネ科の植物は笹、竹、篠、稲、麦、蘆(芦、葦)
ヨシ、荻、茅、苅萱、薄などがあります。
このイネ科の植物については、どの植物がどういう名称なのか、
私には具体的によく分かりません。
それでも私の中ではススキとカヤは別物ですが、辞書によると
ススキはカヤの別名とのことです。秋の七草の一つです。

浅茅は万葉集にも詠まれていますが、多くの場合、秋が深くなって
チガヤの色の変わる頃に詠まれました。つまり、秋歌としてです。
秋とは関係なく、「浅茅原」「浅茅生」と詠まれる時は、荒れ果て
た、うら寂しい光景の意味で用いられ、「浅茅が露」では、細い葉
にかろうじて露が留まっていることの不安定さ、落ちやすく、消え
やすく、はかないものということで、人生のたとえとして詠まれて
います。
                (西行辞典08号から転載)

枯れたる木→「えだえだごと」69号参照
         
【河合】
  
 川と川の合流点を指す言葉です。

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01 河合やまきのすそ山石たてる杣人いかに凉しかるらむ
           (岩波文庫山家集166P雑歌・新潮974番・
            西行上人集追而加書・万代集・夫木抄)     

○まきのすそ山

 (まき)は真木と表記して、杉、ヒノキ、松などの建築用材を
 言います。
 そういう植物が生えている山裾のことです。

○石たてる

 何故に石を立てるのか不明のままです。石を立てたからと言って、
 涼しくなるとはどういうことなのか理解できないままです。
 ここは石を立てたことと、涼しいということはつながらず、別の
 ことを意味するものなのではないでしょうか。
 書写ミスの可能性も考えられると思います。

○杣人

 山を生業とする人々のこと。樵や木地師などを言います。

(01番歌の解釈)

 「川も二つが交わった。真木立つ山も裾が開けている。そんな
 立派な自然の庭に杣人は石を立てている。その涼しそうなこと。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「河の合流点、そこは真木の立つ山裾の所だが、そこに石を
 立てて休み、木樵はどんなに涼しいことであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【河やしろ】

 夏越の祓えの時に川のほとりに設置する仮の社のこと。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 しのにをるあたりもすずし河やしろ榊にかかる波のしらゆふ
      (岩波文庫山家集274P補遺・宮河歌合・夫木抄)
                 
○しのにをる

 「篠に折る」です。神楽歌に「篠に折り掛け・・・」とあります
 ので、神楽歌の言葉をそのまま借用しています。

○波のしらゆふ

 川の波を白木綿に見立てた言葉です。

(01番歌の解釈)

 「篠竹の生えているあたりも涼しい。六月の祓いに河社を立てて
 (河辺に棚をつくり、榊を立て神を祭ること)神楽を奏している
 時に、川波のたてる白波のように白木綿が榊にかかっていて
 まことにすずしい感じがする。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

◎ 河社しのに折はへほす衣いかにほせばか7日干ざらむ
                (紀貫之 貫之集)

【河やなぎ・川原柳】

 ヤナギ科の小潅木。ネコヤナギという別称の方が有名。早春に
 葉に先がけて黄白色の花を穂状につけます。花はネコの尻尾に
 似ています。水辺によく自生しています。

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01 水底にふかきみどりの色見えて風に浪よる河やなぎかな
           (岩波文庫山家集23P春歌・新潮55番)

02 なみたてる川原柳の青みどり凉しくわたる岸の夕風
       (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮欠番・夫木抄)

○なみたてる

 (波立てる)(並み立てる)のどちらでも通用する言葉です。

(01番歌の解釈)

 「水底に映ると川柳の緑色が深く見える。風が吹くと川波が押し
 寄せるように、一斉によじれて美しい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「並び立っている川原やなぎの青みどりよ。そこをすずしく渡る
 岸の夕風よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

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 以下に「柳の歌」を紹介しておきます。「柳」の項で詳述します。

01 吹みだる風になびくと見しほどは花ぞ結べる青柳の糸
           (岩波文庫山家集39P春歌・新潮1073番)  

02 風ふくと枝をはなれておつまじく花とぢつけよ青柳の糸
       (岩波文庫山家集33P春歌・新潮151番・夫木抄)   

03 なかなかに風のおすにぞ乱れける雨にぬれたる青柳のいと
            (岩波文庫山家集23P春歌・新潮53番)  

04 見渡せばさほの川原にくりかけて風によらるる青柳の糸
           (岩波文庫山家集23P春歌・新潮54番・
            西行上人集・山家心中集・新拾遺集)   

05 里にくむふるかはかみのかげになりて柳のえだも水むすびけり
               (岩波文庫山家集236P聞書72番)   

06 声せずと色こくなると思はまし柳の芽はむひわのむら鳥
           (岩波文庫山家集167P雑歌・新潮1399番)   

07 緑なる松にかさなる白雪は柳のきぬを山におほへる
           (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1430番)  

08 道の辺の清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ
          (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮欠番・
          新古今集・御裳濯集・玄玉集・西行物語)    

09 よられつる野もせの草のかげろひて凉しくくもる夕立の空
       (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮欠番・新古今集)   

10 柳はら河風ふかぬかげならばあつくやせみの声にならまし
           (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮1019番)
              
    櫻にならびてたてりける柳に、花の散りかかるを見て

11 山がつの片岡かけてしむる庵のさかひにたてる玉のを柳
     (岩波文庫山家集23P春歌・新潮52番・西行上人集・
 山家心中集・御裳濯河歌合・新古今集・御裳濯集・西行物語)
    
【川わた・河わだ】

 川が湾曲している場所を言います。そういう所はたいていは少し
 淀んでいます。

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01 川わたにおのおのつくるふし柴をひとつにくさる朝氷かな 
   (岩波文庫山家集94P冬歌・243P聞書集127番・新潮欠番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

02 河わだのよどみにとまる流木のうき橋わたす五月雨のころ
    (岩波文庫山家集50P夏歌・新潮228番・西行上人集・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

○つくる

 ひらがな表記では分りにくいですが、水に漬けることです。

○ふし柴

 植物の柴の異称です。柴も「ふし」と読んでいました。
 1番歌は「柴漬け=ふしづけ」のことを詠んだものです。
 柴漬けとは、冬に、束ねた柴の木を水中に漬けておき、そこに
 集まってきた魚を春になって獲る仕掛けのことです。
 以下の歌にある「ふしつけ」と同義です。

 泉川水のみわたのふしつけに柴間のこほる冬は来にけり
               (藤原仲実 千載集389番)

○ひとつにくさる

 (くさる)は(鎖る)のことで、つながることを言います。

○うき橋

 水面に船やいかだを浮かべ、その上に板などを渡した仮説の橋の
 ことです。

(01番歌の解釈)

 「川の曲がった所に人が各々に漬ける伏し柴をひとつにつなげる
 朝氷だなあ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「五月雨によって水量がまして、川べりの淀みに留まっていた
 流れ木が、あたかも浮橋を渡したようになっているよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【観音寺】

 九州大宰府の観世音寺説や滋賀県湖東の観音寺説などがありますが、
 京都東山の今熊野観音寺と考えて差し支えないと思います。
 今熊野観音寺は空海が800年代初期に開基したものと伝えられます。
 
 今熊野観音寺とは別に「新(いま)熊野神社」があります。場所は
 東大路通りに面していて三十三間堂の少し南にあたります。
 後白河上皇が紀伊の熊野本宮大社を勧請した分霊社として1160年に
 完成したものです。
 この「新熊野神社」と「今熊野観音寺」はとても近接しています。
 それで非常に微妙なのですが、定信入道の建てた一宇は後白河院
 勅願の新熊野神社ではなくて確実に今熊野観音寺のうちの一宇と
 思います。
 当時は観音寺大路などがあったことからみても、あるいは現存する
 地名などからみても今熊野観音寺は隆盛を誇っていたものでしょう。
 地勢的にも山裾にある今熊野観音寺であるとみなして良いと思い
 ます。
 今熊野観音寺も応仁の大乱で兵火にかかり灰燼に帰しました。
 それ以後は泉涌寺の一塔頭となっています。
 もちろん定信入道の建てた一宇も現在では全く分りません。 
 
【観音寺入道生光】

 俗名は藤原定信。生年1088年、没年は1156年。待賢門院中納言の
 局の兄弟。1151年出家。
 書道の家系である世尊寺家の第5代と言われます。書が非常に優れ
 ていたそうで、その作品は国宝や重文に指定されています。
 藤原定信の歌は1151年から1156年までに詠まれたものと推定でき
 ます。西行は34歳から39歳までの年齢です。

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    さだのぶ入道、観音寺に堂つくりに結縁すべきよし申し
    つかはすとて
                     観音寺入道生光

01 寺つくる此我が谷につちうめよ君ばかりこそ山もくずさめ
 (観音寺入道生光歌)(岩波文庫山家集215P釈教歌・新潮858番)

  贈答歌ですので西行の返歌も紹介します。

 山くづす其力ねはかたくとも心だくみを添へこそはせめ
           (岩波文庫山家集215P釈教歌・新潮859番)

○結縁
 
 仏道との縁を結ぶこと。仏道に入ったり、そのための機縁を得る
 こと。

○寺つくる

 観音寺の中に一宇を建てることを言うと思いますが、しかし断定
 するだけの資料がありません。

○君ばかりこそ

 この言葉がよく理解できません。定信入道がお寺を造るために
 西行に助力を願ったものですが、若年から壮年に向かいつつある
 西行がすでにある一定の力を持っているとする社会的な評価が
 定まっていたとは思えません。まだ高野山に移って数年しか
 立っていず、僧侶としての活動らしき活動もしていなかったもの
 と思われます。
 ですからここは西行への礼節を超えた賛辞、麗句のような気が
 します。真剣な協力依頼ではなくて社交辞令から出ていないもの
 と思います。

○其力ね

 (そのちからね)と読みます。
 (力ね)は(力根=ちからね)のこと。その力、そのための力
 の意味。

○かたくとも

 難しいこと。できにくいこと。
 文脈からみて(その力はない)ということ。
 
(01番歌の解釈)

 「今、定信入道が観音寺で寺を造っておいでですが、その寺を
 造るこのわが谷を土で埋めて下さい。あなたばかりは山をも
 崩す念力をお持ちですから。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(西行歌の解釈)

 「山を崩すだなんて、そんな腕力は持ち合わせませんが、何とか
 工夫して協力いたしましょう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

閑院→「赤染」03号参照
神主氏良→「氏良」57号参照

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