西行ゆかりの地 一覧

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忠盛の八條邸   下京区西大路八条

   平忠盛の私邸。1153年忠盛没後、清盛が伝領して、歴史の主要な舞台の一つとなる。
   現在の大宮八條から西大路にかけての一帯。平氏は西国に落ちるときにここに火を
   かけたことが知られる。現在、若一神社がある。                    

法金剛院     右京区花園扇野町

   奈良の唐招提寺に属する律宗のお寺。もともとは清原夏野の山荘。1130年に待賢門院が
   「仁和寺の御堂」として完成させて、落飾して住んだ。

仁和寺       右京区御室

   886年、光孝天皇の勅願、888年、宇多天皇が完成させる。門跡寺院の第一といわれるも、
   たびたびの火災にあう。歴史の流れとともに衰退する。

菩提院       右京区御室

   仁和寺の一支院です。仁和寺は一番初めの門跡寺院として隆盛を極め、資料によっては
   100寺院ほどの支院があったようです。

三昧堂

   現存せず。僧侶がこもって念仏三昧をする堂のことです。ここでは徳大寺の一堂宇の
   三昧堂を指していると思います。ここでは法華三昧を修法する堂のことです。
   別に、三昧所とは墓所、葬送地としての意味があります。

竜安寺       右京区竜安寺御陵の下町

   もともとは円融寺。次いで徳大寺実能の山荘、それを細川勝元が1450年に譲り受けて、
   竜安寺としたものとのことです。西行もここで歌を詠んでいます。

二条天皇陵    北区平野

   正確には二条天皇香隆寺陵といいます。後白河天皇の第一皇子です。23歳で夭折。
   この葬儀の件で延暦寺と興福寺が大げんかをしています。

岩蔭        北区衣笠

   鏡石町岩陰の地名は現在は消滅しています。一条天皇と三条天皇の火葬地と言われます。
   金閣寺の東北にあたる一帯をさしていたようです。

平野        北区平野

   平野神社あたりを指します。平野神社は平安遷都とともに建立されました。985年に
   花山天皇が桜を植えてから、桜の名所になったようです。

北野        上京区御前通り今出川

   北野天満宮あたりを指します。天神信仰の菅原道真のゆかりの天満宮です。当時から
   学問の神様として、歌人達も門前で歌会をたびたび開いています。

北山寺       不明

   北山あたりにあったお寺と言う事で、個別のお寺を指すものではないようです。
   源氏物語にある「北山寺」は岩倉にあるお寺を指していたようです。

賀茂社はし殿   北区賀茂本山町

   上賀茂神社にあります。境内の「ならの小川」にかかるようにして建てられています。

賀茂社たなうの社   北区賀茂本山町

   上賀茂神社にある一摂社の棚尾社のことです。

賀茂ささきと申す里  不明

   賀茂にあった地名ですが、現在、賀茂にささきと発音する町名はありません。

みたらし川       賀茂、上賀茂

   下鴨神社の境内を流れる川です。付近の明神川も御手洗川のことです。普通名詞と
   しては多くの神社にありますが、歌枕としては賀茂社のことです。

みおやが原    左京区賀茂

   高野川と賀茂川の合流点に糺の森があります。合流点あたりを「御祖河原」と言うようです。
   下鴨神社は賀茂御祖神社といいます。

片岡        北区賀茂

   上賀茂神社本殿の東にある丘陵を指します。片山、賀茂山、二葉山、日陰山とも
   言われていたそうです。上賀茂神社の歌枕です。

西念寺

   現存せず。上賀茂神社の関連寺院のようです。明治初年の廃仏毀釈で廃寺となりました。
   西行の姉が尼として住んでいて「とめこかしの梅」はこの寺でのものとのこと。この寺の
   寺宝は西向寺に移されました。

西行水

   現存せず。江戸時代には残っていて「都名所図会」にも(洛中の名水なり、西行上人ここに
   住居し)とあります。中京区室町御池あたりにあったそうです。

雲林寺      北区紫野

   雲林院のことです。僧正遍照が住持していました。もともとは清和天皇の紫野離宮で
   あって、現在の大徳寺はすべて雲林寺でした。今は小さな堂宇のみです。

蓮台野      北区

   船岡山の西から紙屋川にかけての一帯を指す。古書に香隆寺の丑寅に蓮台野とあって、
   上品蓮台寺は香隆寺とも称していました。この寺は貴顕の葬送地。

船岡山      北区船岡山

   高さ112メーターの小高い丘。遊宴の地及び平安後期からは葬送の地でした。応仁の乱では
   戦場となっています。東麓に織田信長を祀る建勲神社があります。

紫野       北区紫野

   北大路通り以北の大徳寺あたりを指す地名です。平安時代は現在より広い範囲を紫野と
   いい、禁野としてあったということが藤原爲家の歌からも分かります。

有栖川     

   北区上賀茂・北区紫野・右京区嵯峨斎院のあった場所を流れる川を言っていたようです。
   紫野及び上賀茂では現在は有栖川は無くて、右京区嵯峨にのみあります。

せが院の斎院  上京区

   西行の時代のせか院、つまり清和院は現在の御所の東、仙洞御所の北にあたります。
   清和天皇が退位後に住んでいたという記述があります。

前斎院      上京区

   同上。斎院は官子内親王を指すようです。上の清和院に住んでいたものと思います。

五条三位入道の大宮の家  不明。現在の烏丸五條あたり。

   藤原俊成が出家して釈阿という法名になってからのことと思います。俊成が出家したのは
   1176年、それよりも早くに西住は死亡していると見られます。住居付近に俊成社があります。

覺雅僧都の六条の坊    不明。

   六条通りに面していたものでしようが、場所の特定はできません。

御所       上京区

   平安建都時の御所は現在の御所より西に位置し、千本丸太町あたりに大内裏がありました。
   たびたび焼けて、里内裏が御所でしたが、1332年から現在地にあります。光厳天皇から、
   今の御所です。

法勝寺     左京区法勝寺町

   現存せず。京都市動物園あたりにあったお寺。勝の文字の入った六つのお寺の一つ。
   白河天皇によって1075年に築造。1185年に地震により崩壊。九重の塔がありました。

白河殿     左京区

   南殿と北殿があるのは東部で記述しました。1156年、保元の乱の時に崇徳上皇がこもったのは、
   白河南殿です。源義朝らに攻められて、仁和寺に逃れました。

土御門の内裏  上京区

   鳥羽、崇徳、近衛三天皇の里内裏のことです。崇徳から近衛への譲位はここで行われました。
   東洞院と土御門大路の交差するあたりにありました。


以上。
注 白河殿については東部と重複しています。
  実際は中心部のほうがふさわしいと思います。

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