もどる
京都写真集 マガジン14号 15号
伏見区西部 城南宮 鳥羽離宮跡 安楽寿院 西行寺
伏見区中部 御陵参道 藤森神社 伏見稲荷大社
伏見区東部 醍醐寺 上醍醐
(京極太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしきほどに
したてて、鳥羽院にまゐらせ給うひたりける、鳥羽の南殿の
東おもてのつぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。公重少将、
人々すすめて菊もてなさせけるに、くははるべきよしあれば)
◎ 君が住むやどのつぼには菊ぞかざる仙の宮といふべかるらむ」
(86ページ)
(近衛院の御墓に、人に具して参りたりけるに、露のふかかりければ)
◎ みがかれし玉の栖を露ふかき野邊にうつして見るぞ悲しき
(202ページ)
(一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせける
夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかりけり。此後
おはしますべき所御覽じはじめけるそのかみの御ともに、
右大臣さねよし、大納言と申しけるさぶらはれける、しのばせ
おはしますことにて、又人さぶらはざりけり。其をりの御ともに
さぶらひけることの思ひ出でられて、折しもこよひに参りあひ
たる、昔今のこと思ひつづけられてよみける)
◎ 今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契りのある身なりけり
(202ページ)
安楽寿院
上からこのお寺の由緒書の立て札、院政の地の石碑、安楽寿院の石碑です。
下の画像は安楽寿院にあるものです。
現在からは想像もできないことですが、鳥羽離宮は池を主体にした離宮でした。
中ほどのまっすぐに北に伸びている道は「鳥羽作道」といって、西大路通りに
つながっています。
藤原季綱の領地でしたが季綱が白河天皇に献上、白河天皇が退位後の院として
造営し、1087年に最初の遷幸があったとのことです。
白河天皇と鳥羽天皇の院政の地となりました。
平清盛が後白河天皇を幽閉したのもここです。
南北朝の内乱によって兵火にあうことも多く、急速に衰退したようです。
安楽寿院の近衛天皇陵です。この76代天皇は鳥羽天皇と美福門院(藤原得子)
の子です。17歳で夭折しました。75代が崇徳天皇で、76代が近衛天皇。
鳥羽天皇は強引に崇徳天皇を退位させて、2歳7ヵ月の近衛を天皇位につけました。
1155年の近衛天皇崩御後1156年に保元の乱が起きました。
近衛天皇は、はじめに洛北の知足院に葬られていましたが、遺骨を移して陵としました。
もともとは美福門院の陵として造られたようです。当初は二重でした。
鳥羽天皇陵です。もともとは三重の塔がありました。1139年に造られた
もののようです。その時に西行は鳥羽天皇のお供をして、徳大寺実能と
ここにきたものでしょう。
1152年頃に鳥羽院によって建立された鳥羽離宮御所の一つです。
この田中殿も広く、敷地内に金剛心院、阿弥陀堂、釈迦堂などがありました。
現在はごくささやかな公園になっていて、人々が憩っています。
この地で院政を始めた白河院の成菩提院陵です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
西行寺跡
白河院陵のすこし西北にあります。路地の中の遺蹟に見つけるのに
手間取りました。この西行寺は明治11年になくなったそうです。
下の石柱は江戸時代にもあったもののようです。この石碑は最後の画像にある
祠の東側にある石柱です。
西行はここで出家したという寺伝が伝わっているそうです。
前のページ 次のページ