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         も み の 木 歌 集   
                  2 0 0 4 年 度 
                   第三部




101  6/17
   農水路の流れ初めた道端に
           梅雨のひぬまに紫陽花を見る

通勤途中、桑原という畑作地域を通って行きます。最近、だんだん畑の面積も
少なくなってきました。ハウスの中では切花用の花が栽培されているので、
側にある六地蔵には、四季折々の花がいつも奉ってあります。今は、
グラジオラスや鶏頭です。
桑原を通り越し、熊野街道である小栗街道を横切って街なかに入って行きます。
そして浄土宗のお寺の前を通って行くのですが、お寺の掲示板には、
ご住職がいつも著名な方の俳句を書かれて貼っておられます。今書かれているのは、
     夏の夜の地より上がりし蝶々かな   耕衣


102

   生垣に梔子の花匂い立つ
           重き密度の大気に圧され


103  6/19
   あきらめてホーム歩めばドア開く
          戸惑うことは瞬時に起こる


JRのローカル線しか止まらない駅の階段を駆け降りたとたんに、電車のドアが
閉まってしまいました。「アー まにあわなかった」と思って電車に平行して2、3歩
あゆんだとき、電車のドアがまた開きました。えっ?と振り返ったのですが、
ホームには、私以外には誰もいません。飛び乗りました。

104

   「契るなら浅く契れ」と訓えあり
          濃き花々から実は結ぶものを

読売新聞の人生案内のコラムを切り抜いて数ケ月間手帳に挿んでいました。
久世光彦氏が回答されている中に、
<人と契るなら浅く契りて末遂げよ。花はまず濃きものから散るものを>
という昔の人が言われたセリフが書かれています。
一生懸命に感情のままに生きる人ならば、なかなか難しいことだと思います。
サイトで調べると、菊池寛の「藤十郎の恋」の中でもこのセリフがあるようです。
小唄「人と契るなら、薄く契りて末遂げよ。もみじ葉を見よ。薄きが散るか、
濃きが散るか、濃きが先ず散るものでそろ」
散れば終わりとの認識かもしれませんが、プラス思考で言うなら、花なら散れば
実を結ぶということも考えられます。(理屈っぽいですが)

105

   契るなら浅く契れと書いてある
          コラムを手帳に挿み置くなり

106
   内服を躊躇する子はアンパンマンの
          口で飲むなり眼差し受けて

2歳児にお薬を飲ませるとき、今日は、「かばさんのお口にする?ぞうさんの
お口にする?」
と尋ねましたら、「アンパンマンのお口にする」と答えました。
「みんな見ててね。アンパンのお口で飲むよ」
「ゆうなちゃん がんばれ!がんばれ!」側から応援もしてくれます。

107
 6/26
   ラベンダーの香りとともに贈られた
          ハンカチで拭く六月の雨        
     
108

   等質な紫の花エキザカム
          わたしのおもいもひらがなでかく


エキザカムはリンドウ科だそうです

109

   車椅子を押す人の背をまた押して
          夕陽が走るちぬの海より      


仁徳天皇御陵前の道を西に下ると、昔、ちぬの海と呼ばれていた海があります。
神武東征の戦いで、手に傷を負った兵士が手を洗った時、血で海の水が赤く
染まったので、血沼(ちぬ)の海となったそうです。

110

   旅に病み杖を預けてそのままに
          夢みて眠る南御堂に


6月5日、テレビ大阪で歴史SP「芭蕉の謎」という番組がありました。
芭蕉は西行にあこがれて、その足跡をたどり、西行を越えようと西行が
行かなかった九州へ向かっている途中、1ケ月間大阪で暮らしていたときに
亡くなりました。51歳という若さでした。51歳といえば、西行が四国の旅に
出かけた歳です。その最期は南御堂の前にあった花屋仁左右衛門の家で
遂げたと言われています。南御堂にお参りする時にお花を買う門前の花屋さん
でです。南御堂の前のグリーンゾーンには、「此附近芭蕉翁終焉之地ト伝フ」と
書かれた碑があるそうです。南御堂の前はよく通っていましたが、その前に
あるとは知りませんでした。

      旅に病んで夢は枯野をかけめぐる  芭蕉

はここで詠まれたそうです。この歌の意味が少し理解できるような気持になりました。
また、この番組の中で、

      数ならぬ身とな思ひそ玉祭     芭蕉

という句が紹介されました。芭蕉が愛したといわれる寿貞尼に送った句とのことです。
この句は、寿貞尼への芭蕉の熱烈な愛情表現、少なくとも芭蕉にとって寿貞尼は
絶対に「数ならぬ身」ではなかったということだそうです。

111  7/04

   高野には蛍がいっぱい飛んでたと
           聞きてメモとるメイクペンにて


112

   年旧れど日々に変わらぬ願いあり
           朝の大気に言霊
(ことだま)は充つ         

中西先生の講義の中に、山上憶良の「老い」についてのお話がありました。
<古代の人が老いについて詠んだ歌>

 1884  冬過ぎて春の来れば年月は新たなれども人は旧りゆく
 1885  物皆は新しき良しただしくも人は旧りにし宜しかるべし

<憶良はどのように老いを詠んだのか>
804の中で
人に憎まえ 老よし男は かくのみならし 玉きはる 命惜しけど 為むすべもなし
(あちらへ行けば人に嫌われ、こちらに行けば人に憎まれて、老人というのは
所詮こうしたものらしい。命は惜しいけれども、どうしようもない。)

<久松潜一氏(中西先生の恩師)> 
心よりつつ逢いえぬままに老いゆくを美しといわんかさびしけれども 
(この歌は、学生の頃に同人雑誌に載せるためにいただいた歌だそうです。
近年、この歌をまた読まれてはっと思われたそうです。)

113   

   稲のもと光となりて訪れる

         雷は夫(つま)稲夫
(いなづま)とよぶ 

中西先生の稲妻についてのお話の中に、
イナズマは「稲妻」と書きますが、もとは「稲の夫(つま)」という意味。電光が
稲に当たると、稲が妊娠して子を孕む。つまり電光は稲の夫であると
考えられていたそうです。
        

114  7/6
   七夕の歌もしらない子ども等は
         プラネタリウムで天の川見る  
        

「大伴家持」中西進著 角川書店 の本の中に家持と憶良の七夕の歌がいくつかあります。

織女(たなばた)し船乗りすらし真澄鏡(まそかがみ)清き月夜に雲立ち渡る  家持

(織女は今しも船に乗るらしい。真澄の鏡のように清らかな月夜だのに、雲が立ち渡るよ)

牽牛(ひこぼし)の嬬(つま)迎え舟漕ぎ出らし天の川原に霧の立てるは   憶良

これらの歌について、中西先生は下記のように書かれています。
家持の歌は、憶良の歌の発想によく似ている。しかし、この二つの歌の相違点は、
憶良の方は牽牛が船に乗る。家持の方は織女が船に乗る。当時の一般的な習慣から
いうと、恋愛関係にある男女は男性の方から出かけて行く。したがって憶良の方が
より自然である。しかし、中国の伝説では、織女が出かけて行く。牽牛が出かけるのは、
日本人の習慣に合わせて変えてしまったものである。中国の七夕伝説の格式を
守る格調の高さにおいては、家持の方が高い。家持は正統派だった。(略)

115
 7/7
   七夕(織姫)は宇宙に星のある限り
           未来永劫逢瀬楽しむ


友人とのメールのなかで、「年に一度だけの逢瀬だから仲がいいのかもしれませんよ」
等と皮肉って書いたのですが、よく考えれば、年に一度といっても巡ってくる年は悠久です。
幸せなことだと思います。


116
 7/12
   赤松の針葉の先に玉をなす
           夕立去りし木々の静けさ

117

   丹誠の玉蜀黍
(とうもろこし)を贈られて
           伝言どうりに丸齧りする

園庭で子どもたちが栽培している玉蜀黍が実り、大切そうに一本、持ってきてくれました。
「いつもありがとう。トウモロコシ、丸齧りにしてください。」 甘くて美味しかったです。

118

   「世界遺産登録記念完歩証」
           蟻族になり古道を歩く


7月11日(日)、ある旅行社の熊野古道ウォークに参加し、熊野発心門王子から
熊野本宮大社までの約7Kmを歩いてきました。炎天の下、蟻の熊野詣ででした。

119

   宮仕えもさぞやと苦労思いつつ
           発心門の定家の歌碑見る


いりがたきみのりのかどはけふすぎぬいまよりむつのみちにかへすな   定家

の歌碑が発心門王子にあります。
苦行の末、ようやく仏の国に入ったのだから、もはや六道苦の世界に後戻りはするまい
という決意を述べたものだとされています。
六道=地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界
藤原定家は「明月記」の中で建仁元年(1201)10月、発心門王子を出発し、
その後定家は発心門王子から来られる後鳥羽上皇の御一行を祓殿王子で
出迎えたと記録されています。

120

   いにしえの詣でしのびて歩く道
          蝶の飛び交う野の花も撮る



121

   炎天に柿の実護られ育つなり
          青き葉陰は胎内の如く


まだ青くて小さな柿の実がしっかりと育っていました。

122

   鮎を釣る人も霞みて神さぶる
          熊野河川でめはり寿司食む


熊野川の中洲にあった元の熊野本宮大社は、明治22年に流されて、今は鳥居だけ
残されています。河川の幅が広くて、目を凝らして見ないと、鮎を釣る人の姿にも
初めは気付かないくらいでした。


123 7/18

   園庭に星が輝くファイアーの
           残り火なれど永久に輝く    
          

7月17、18日は、5歳児の宿泊保育でした。皆でカレーライスを作り、夜は
キャンプファイアーをし、歌やダンスをしました。最後にはファイアーの残り火で
五角形の星の形を作り皆で静かに見つめました。子どもたちの心の中で
いつまでも輝き続けると思います。

124

   ひとひらの言の葉こぼれ幼子の
           傷み知るなり小さき心の


キャンプファイアーの残り火で作った星を囲んで、
「皆で、心の中で、何か一つ願い事を唱えてみましょう。」
と各自でお祈りをしたとき、1人の男の子が、
「お父さんとお母さんがけんかをしませんように!」
と大きな声を出して祈りました。
普段腕白な子どもの意外な面を感じて、はっとしました。
大人は知らず知らずのうちに子どもの心を傷つけています。


125
 7/25
   炎天のプラットホームに風は降り
           行き交い乗るなりその風の席


毎日暑い日がつづきます。先日、最高気温37.2℃を記録した日のプールサイドは
42℃ありました。

126

   近世の試験近づき西鶴も
           戻ってきそうな大阪の街

教科書で、「井原西鶴」「近松門左衛門」「松尾芭蕉」「上田秋成」等について
見ていますと、曽根崎村、天王寺村と昔の大坂の名前が出てきます。
試験前は、街を歩くと大阪ではなく大坂を感じます。

127

   秋成は助けてくれた認定試験
           見上げる空に遠雷ひびく


「近世の日本文学」の認定試験(放送大学)は終りました。
帰り道、
「上田秋成は助けてくれた」
「西鶴も近松門左衛門も助けてくれた」
「蕪村は助けてくれなかった」
などと思いながら帰ってきました。近世とは、桃山時代から江戸時代までの
約300年間です。畝を作るほどは、耕せませんでした。

128  8/01

   最小は心素の集まり情
(こころ)など
           「心の科学」と呼ぶ教科では


心理学は、“心の科学”とも呼ぶそうです。
心のこれ以上分析できない要素のことを「心素」。物理学は「元素」。
国語学は「音素」。それぞれに素があります。

129

   柵を超えロープが走る塊を解き
           台風支度のプールサイドに


面白い(?)経験をしました。
7月30日(金)、台風10号が近付いてきたので、プールサイドのシートが飛ばない
ように、数人の職員で、荷造り用の紐(ビニールの中心から紐を解いていくように
なっています)を持ってプールサイドへ行きました。突風が吹いていました。
シートを丸めてくくっている時、置きっ放しにしていたビニール紐の先がピュ―ッと
風に吹かれて手裏剣のように飛び出し、次々と幾らでも飛び出していって、
プールのフェンスに絡みつき羽ばたき始めました。すぐに走っていって紐を巻き
取ったのですが、また油断をしていると、もう一つの紐の塊からも紐の端が、
シューとまた手裏剣のように飛んでいきました。マジックを見ているようでした。
後で、子ども達にも見せたかったなあと思いました。決して遊んでいたわけ
ではありませんが、体験しようと思ってもなかなかできそうにない経験でした。

130

   形では表せないけど次世代に
           欠かせないから保健を語る


保育所に保健師、看護師を置くことは、厚生労働省では義務付けられていません。
全国の市町村を見ても、置かれている保育所は限られています。今年度は、
保育所保健の研究大会が大阪であります。「保育の指針」を作られたT先生が
大阪に来られていて、お話を伺うことが出来ました。

131
 8/06
   夏休み練習試合に行く子等の
           柔く輝くユニフォームの白


132

   過去現世
(かこげんせ)渡れぬ戻れぬ
           橋あれど君は掛けたり小説といふ橋


高校3年生の時のクラスメート森岡啓子さんが、第39回香川菊池寛賞を
受賞されました。「橋」という小説は、伝説の蓬莱橋や現世にある瀬戸の
大橋を登場させ、橋の持つイメージを背景に、人と人との心のつながりについて
考えさせられるストーリーです。
この小説を読ませていただいて、元来、橋は渡るものではあるけれど、
渡れない橋、戻れない橋もあるということを感じました。それだから、現世に
新しく出来た瀬戸の大橋は、人々の心を繋ぎ未来へ向かっての希望を
感じさせられる橋でもあります。物語の伏線もうまく敷かれていて、彼女は
これまで、よく勉強されたのだなあと感じました。彼女のこれからの
作品が楽しみです。
彼女は、小説ですが、私はと言えば、平成16年7月号の「保育と保健」
(日本保育園保健協議会)の中に、「保育所での水遊びに関する配慮」
という仕事関係の原稿が載りました。
 

133  8/16

   炎天の五条坂行く盂蘭盆会
          川面は青き竜胆の風


五条坂を歩いていくと、店先に飾ってある陶器の
青い模様が涼しく感じました。
献花の中にあった竜胆と同じ色です。

134

   六道の辻まで行けど篁
(たかむら)
          閻魔が座し居て井戸まで到れず


西大谷さんへお参りして六波羅蜜寺、六道珍皇寺へ寄りました。
初めて訪れたお寺でしたが、六波羅蜜寺には、
教科書などで見たことのある空也上人像(口から南無阿弥陀仏と
唱える言葉が六体の仏像になっている)や清盛の坐像、そして、
明恵上人が法然を批判して書かれた摧邪輪の写本がありました。
六道の辻にある六道珍皇寺も、本堂の裏には篁が通った地獄の
入り口であるという井戸があるので、ぜひ行ってみたいと思っていた
お寺でしたが、篁が彫ったといわれる閻魔大王像(見てきたもの
でないと彫れないといわれるリアルなもの)と、六尺二寸もあった
という篁の像には会えたものの、肝心の井戸は見せてもらえませ
んでした。お寺の行事の都合で8月中は見えないということでした。

百人一首十一番
わたのはら八十嶋かけて漕ぎ出ぬと人にはつげよあまのつりぶね  
                           小野篁(たかむら)

篁は、遣唐使を批判する内容の〔西道謡〕という歌を作ったため、
嵯峨天皇の怒りにふれ、隠岐へ流罪に処せられましたが、その時詠った歌です。
六道の辻というのは、あの世とこの世の境にあるので、
京都の人は、精霊さん(おしょらいさん=魂)を迎えに行き、
そして十六日には、この世に還ってきた祖先の魂を信仰の火で
冥界へと送るということです。

 135

   気がつけば鳴き疲れたる蝉の声
         六波羅蜜寺で摧邪輪に遇ふ 


思いもかけないところで、明恵上人に遇いました。

あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月 
                      明恵上人

【語釈】◇あかあか 月光の明るい様

136 8/20
   夏の山夕餉の支度するような
          白き霧立つ深き谷ごと


8月17日、伊吹山雲上ハイキングへ行ってきました。
お天気が悪く、霧が出て名前のとおりの雲上ハイキングでした。
一瞬の内に青い山々、霧が湧きあがる谷の景色が真っ白に
消されてしまいました。
古くは春秋とも霞とも霧とも言われた気層中の凝結した水蒸気を、
平安時代以降は、春立つものを霞、秋立つものを霧と呼び分けたと
広辞苑には書かれています。
山上には、イブキトラノオ、ルリトラノオ、コオニユリ、アザミなどが
咲いていました。
日本武尊の石像も、風に飛ばされないように頑強に建っていました。

137

   神仙境描きしキャンパスまた消して
          夏の山々霧渡りゆく


138
 8/24
   店先の夜のしじま(静寂)でふと触れた
         桜は毎年咲いてるだろか


10年ほど前になりますが、保健関係の学会が東京の
慈恵医大であったとき、「るるぶ東京」に載っていた
中華料理屋さんへ同僚と一緒に食事に行きました。
偶然でしたが、そのお店を出たところには、謂れのある
一本の桜がありました。
「浅野内匠頭終焉之(しゅうえんの)地」の石碑の横に、
その桜はありました。 

風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん 

辞世の句です。
桜の時期ではありませんが、ふと思い出しました。

139

   桜ちり別れも学ぶこととしる
         春くるごと春ゆくごとに


140

   生真面目な憶良の人生見とどけて
         万葉講座は無事閉講す


141
 9/04
   台風が夏の余波
(なごり)を吹き集め
           街にいつしか赤とんぼ飛ぶ


142

   手遊びをしてるみたいと胎動を
           伝える君は羽包
(はぐく)まれおり

育むとは、親鳥がその羽で雛をおおいつつむ、羽包むの意だそうです。

万葉集卷九 1791
旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子はぐくめ天の鶴群    
                       遣唐使随員の母

天平5年(733年)遣唐使が難波を出帆したおり、その母が詠んだ歌。
旅人が宿る野原に霜が降るようならば、空の鶴の群れよ私の子どもを
羽でくるんでやってくれ。

143

   有限の世界に生きる定めゆえか
            通勤バックに上代文学


「上代日本文学史」 中西進編 のなかに
「〜一体に人間は、有限な世界にしか生きられない。それでいて、有限な
物理的世界を超えようとする。まさにそれが、当面問題にしている表現では
なかろうか。文学が発生してくる基盤はそこにあったと思われる。〜」
と書かれています。今、私の通勤バックの中にこの本が入っているのも、
有限の世界から少しでも抜け出したいという志向からかもしれません。

144 9/07

   冷蔵庫に塩鯖があったと思いつつ
         講演を聴く秋の夕暮


9月4日(土)は、大阪小児保健研究会がありました。発表が予定より
延びて大分遅くなりました。秋の日は釣る瓶落としです。

145

   女郎花 蜻蛉飛び交い 蛙鳴き
         稲穂顔出す もう風は秋


MLの○△さんの掲示板で女郎花のことが話題になり、一面に咲いた
女郎花の写真を紹介してくださいました。女郎花は秋の七草です。
蜻蛉や蛙も国土の豊かさを示すものだそうです。十分にもう秋です。

146

   真緑の銀杏の実がなる御堂筋
         終焉の地を確かめに行く


6日、大阪の本町に用事があって出かけたのですが、仁徳天皇を
祭ってある難波神社と「旅に病んで夢は枯野をかけまわる」の芭蕉の
句碑のある南御堂(難波別院)へ行ってきました。南御堂の前にある
緑地帯には、「此付近芭蕉翁終焉ノ地ト傳フ」と書かれた句碑がありました。
「南御堂と芭蕉」というパンフレットがあったのでもらってきたのですが、
その中には、「旅に病んで〜」の吟は、芭蕉の辞世句とされていますが、
「病中吟」であって、「きのふの発句はけふの辞世、今日の発句は明日の
辞世、我、生涯言ひ捨てし句々、一句として辞世ならざるはなし。もしわが
辞世いかにと問ふ人あらば、此年頃いひ捨ておきし句、いずれなりとも
辞世なりと申したまはれかし」」と芭蕉は言われたそうで、
「平生則ち辞世なり」ということだそうです。
御堂筋の銀杏並木にはもう緑の銀杏の実がなっていました。

147

   何時も通る御陵の主を古の
           難波の宮へ漸く伺う


148  9/12

   大橋を渡れば淡路黄金の
           稲穂の秋の真ん中を行く


149

   本当に奇妙な山だとまた思ふ
           尖がり山はふるさとの山


何時も思うのですが、香川県の山は愛媛や徳島とはまた違います。お握り型の
三角形の山です。中でも讃岐富士と呼ばれる飯山(いいのやま)は大きい
三角形の山です。

150

   雲間より光射したるその下
(もと)
           祈り続ける我拝師山あり


西行の「山家集」にも書かれている弘法大師縁の我拝師山、筆の山が
見えました。

〜めぐり逢はん ことの契りぞ ありがたき 厳しき山の 誓ひ見るにも
 やがてそれが上は、大師の御師に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。
わがはいしさ、と、その山をば申すなり。その辺の人は、わがはいし、とぞ
申しならひたる。山も字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。〜


          以上、2004年9月12日まで

  2003年(5)   2004年(1)  2004年(2)  2004年(4)


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