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も み の 木 歌 集
2 0 0 3 年 度
第五部
201 9/26
情(こころ)なく霧が隠せし三輪山の
和(こた)ふる歌を君は知らずや
額田王は、近江へ下る時に雲で隠れた三輪山に向かって歌を詠みました。
山をほめ、いつまでも見ていたいし、最期まで離れたくないのに離れざるを得ない
という残念な気持ちが込められています。相手を見ることはほめることであった
そうです。
反歌 額田王
三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなむ隠さふべしや
202 10/01
千年の闇の中から蘇える
謎多くても晴明といふ
2003年9月28日(日)聖神社(信太大明神)のある和泉市で、「安倍晴明千年祭・
プレフォーラム」がありました。晴明は1005年に亡くなりましたので、もうすぐ没
1000年です。ゲストは中西進氏(国文学者)、阪口弘之氏(国文学者)、小松和彦氏
(民俗学者)、夢枕獏氏(作家)、岡野玲子氏(漫画家)の皆様でした。中西先生は、
「晴明の虚像と実像 説話の中の晴明像」というテーマで「謎を明らかにしては
ならない」と話されました。そして、「謎が多くても名前は晴明。パラドックスです。」
と言われました。晴明ブームで、若い女の子の参加者が多かったです。
203
葛の葉は誰をうらむか裏見れば
ただ白くあり時世(とき)に吹かれて
語り継がれる葛葉伝説は有名です。
恋しくばたずね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
何故「うらみ葛の葉」? 何を恨むのか? と今まで思っていたのですが、
このフォーラムでやっとわかりました。葛の葉の裏側は白っぽくて、風に揺れると
その裏が見えて、印象深いのだそうです。「恨み」と「裏見(うらみ)」は、掛詞なの
だそうです。やっと、納得しました。信太の森の歌はたくさん詠まれています。
もの思へばちえに心ぞくだけぬる信太の森の数ならねども 西行(山家集)
わが恋は信太の森のしのべども袖の雫にあらはれにけり 後鳥羽院(御集)
秋風はすこし吹くとも葛の葉のうらみ顔には見えしとぞ思ふ 和泉式部
204
明らかにしてはならない謎もある
五芒(ごぼう)の星が輝くためには
晴明と言えば、魔除けのシンボルである五芒星(晴明桔梗とも言われる)が見られ
ますが、この星について中西先生からお話がありました。
五芒星を語れば五角形の話になります。五角形に対角線をひいていくと、中に
星ができます。五芒星です。そして、その中にも五角形が出来ています。また線を
ひくと、その中にも五芒星。五芒星は無限に出来ます。五角形は無限の象徴です。
205 10/7
紅く咲きしコスモスの花点すなり
泣沢の神社(もり)あまりに冥くて
イザナミが最後に火の神を生んだとき、身体を焼いて死んでしまいました。妻の死を
悲しんだイザナギは涙を流し、その涙から生まれた女神が香具山の畝尾の都多本
(つたもの)に坐す泣沢女の神だと言われています。泣沢女神社。御神体は井戸です。
地元の人に尋ねても、「この辺りは神社が多いですからねえ」と言われ、なかなか
場所がわからなくて探すのに苦労しました。小さな境内ですが、木々に囲まれて
鬱蒼としていました。生命の回復を信じて貴ばれる泣沢の泉です。
十市皇女によせた高市皇子の挽歌に
山振の立ち儀(よそ)ひたる山清水酌みに行かめど道の知らなく
(卷二・一五八)
がありますが、この神社の境内には、その高市皇子が亡くなった時に檜隈女王に
よって詠まれた歌碑がありました。
泣沢の神社(もり)に神酒(みわ)すゑ祈れどもわご大君は高日知らしぬ
(卷二・二0二)
206 10/12
噴水の飛沫(しぶき)の中で踊ってる
光りと人と群れ飛ぶ鳩と
10月9日は、堺市にある大泉緑地へ遠足に行きました。大きな噴水の広場には、
鳩が群れ飛び、たくさんの人がどこからかやってきて光の粒子を浴び、幸せな顔で
どこかへ去って行きました。私も一瞬、群れ飛ぶ鳩の気持ちになりました。
207
作られる泪の場所とその理由(わけ)を
子どもに話す眼の愛護デー
10月10日は「目の愛護デー」でした。今年は、涙の作られる場所や、流れのルート
(泣くと鼻水が出てきます)、その大切さを話しました。
208
秋祭りの鉦の音とほくひびくなり
明日も照らせよ山の端の月
11、12日は泉州(和泉市、岸和田の山の手など)のお祭りでした。
だんじりの鉦の音が聞こえてきます。
今日は、和泉市にある信太の森神社(葛の葉神社)へ行ってきました。ちょうど、
お祭りでした。この境内には和泉式部の歌碑もあります。
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
〔拾遺1342〕 和泉式部
この歌は、空海の
「生れ生れ生れ生れて生の初めに暗く死に死に死に死んで死の終わりに冥し」
(秘蔵宝鑰)
に拠ると、また、山の端の月とは、この歌をおくった性空上人ではなかったかと
言われています。
209 10/16
学生の君が通いしこの駅を
通り過ぎ行く尋常(よのつね)に日々
210
秋風とはこんな寂しい風なのか
自転車置き場の夕闇に立てば
秋の夕暮という三夕の歌がありますが、このような秋風が吹いていたのだろうかと、
ふと感じる風が吹いてきました。
ですが、秋風にもうれしい歌もあります。
秋風の吹きにし日よりいつしかとわが待ち恋ひし君そ来ませる
これは山上憶良が織姫になった気持で詠まれた歌です。
211 10/22
メトロより上れば博多の空を背に
迎える人あり黒田武士像
保育所保健研修会が今年は10月18、19日に福岡の国際会議場でありました。
18日は福岡ドームでプロ野球日本シリーズの開催日。大阪〜福岡までの飛行機は
満席でした。空港から地下鉄で博多駅に着き、階段を上れば、駅前広場に黒田
武士像が建っていました。「ああ、ここはあの黒田藩だ」と思いました。18日夜に
開かれた親睦会では黒田武士の舞を見せていただきました。呑み取ったと言われる
日の本一の槍と酒盃を持っての力強い踊でした。
212
研修という波高くこのたびは
越えずに帰る志賀島(しかのしま)へは
博多湾には万葉集の歌の中に詠まれている志賀島があります。
今回は研修のため、行く時間がありませんでした。いつか行ってみたいと思っています。
志賀の海人の煙焼き立て焼く塩の辛き恋をも我れはするかも
万葉集 2742
213 10/28
夕空にピンクの雲ありビルの間を
玩具のような電車が抜ける
放送大学の大阪教育大学天王寺キャンパスは六階にあります。窓から
夕映えの中にある街を眺めました。
214
宥(なだ)めつつ寝かしつけたる日もありし
我が家の櫃(ひつ)の恋の奴は
今、「万葉の華」小説坂上郎女 三枝和子著 読売新聞社 を読んでいます。
その中に、穂積皇子が、郎女に会ったとき、あの有名な歌を大声で誦じられた。
と書かれています。
家にありし 櫃に鍵刺し 蔵(おさ)めてし 恋の奴の つかみかかりて
穂積皇子 万葉集 卷十六の三八一六
この歌は、この小説の中では、穂積皇子は、宴飲の日、酒酣になるとき、好んで
自作の歌を誦じて、一座の雰囲気を盛り上げたと書かれています。また、
穂積皇子の孫女の歌に、
恋は今は あらじと我は 思へるを いづくの恋ぞ つかみかかれる
広河女王 万葉集 卷四の六九五
深刻な恋の歌というより、皆で楽しんだような歌だと思います。
215
さまざまな薄紅色のコスモスを
手に持ち道説く六地蔵に会ふ
薄紅色のコスモスの花といっても、濃淡、さまざまな色があります。そして、
どの色もきれいです。
216
青空と秋の実りを見るだけで
優(ゆたか)になれる大和路へ行く
職場の同僚九名で大和路を歩いてきました。稲刈り、柿や蜜柑の採りいれの時期でした。秋の実りを見ることが出来ただけで満足だったと、皆で語りました。
217 11/04
まな板に五芒の星が溢れたり
オクラよ今日は吉(よ)い日かもしれぬ
オクラをさっと湯がいて輪切りにしますと、まな板の上に五角形の五芒星が
ひろがりました。晴明の星ではありませんか。
218
秋空に宝輪の鎌鎮かなり
千余年間不可思議遺し
11日3日文化の日に、小雨決行で友人と竜田川、龍田神社、法隆寺へ行ってきました。
法隆寺の五重塔の宝輪には、何故鎌が突き刺さっているのでしょうか。不思議な
気持で見上げてきました。
219
未だ秋の女神は舞わず龍田山
紅き着物を夜毎仕立てて
古来、奈良の都の東に位置する山を佐保山、西方の山を竜田山と呼んでいました。
五行説では、東は春の方角、西は秋の方角にあたり、佐保山には春を司る女神・
佐保姫が、竜田山には秋の女神・竜田姫が宿っているとされました。その竜田山を
流れる川が、竜田川です。
ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは
在原業平
の歌碑がありました。
220 11/20
日暮れには辿る道ありしがらみを
求めて行く人断ちて行く人
先日、他市の保育所に勤めている友人から電話をいただいた時、定年を待たないで
今年かぎりで退職して九州の田舎へ帰ると言われました。「田舎には、親戚縁者が
いるからね。」と言われていました。以前退職された同僚は、親類縁者から離れて
田舎へ引越されました。
221
深川の万年橋下に富士仰ぐ
平成の世の湯源卿にて
お風呂屋さんの壁には昔から富士山の絵がよく描かれています。先日行った近くの
温泉にも橋桁の下から仰ぎ見る角度で富士山がありました。視覚による癒しですね。
222
アベマリア奏でしあとの深淵な
沈黙の間に天使は行きたり
11月13〜16日まで、第50回日本小児保健学会があり、鹿児島へ行ってきました。
招待講演「突然の視力障害を乗り越えヴァイオリンニストへ」川畠正雄氏のお話も
ありました。8歳で病気のため視力障害になったご長男成道氏をヴァイオリン奏者に
するために歩んでこられた悪戦苦闘。そのお話の後、聴かせていただいた成道氏の
演奏。感動しました。
223
錦江に月の雫の道続き
背後の闇に桜島眠る
宿泊したホテルも研修があった文化ホールも、鹿児島市与次郎の海岸沿いにあり、
4日間、桜島を見て過ごしました。13日の夜の錦江湾には、月が高くあり、暗い湾に
1本の光の道が出来ていました。その闇の中に、目を凝らしてみると桜島がありました。
肉眼では見えても写真では写らない桜島です。
224
桜島の光と影の表情を
観ながら語る小春日和に
西行のMLが約3年前にTさんのおかげで始まり、その最初から一緒に参加させて
いただいている○△さん、それから歌の機関紙を毎月出され、今西行を勉強中の
momoさんと、鹿児島でお会いすることができました。気がつくと約6時間もお話し
していました。真上にあった太陽が西に傾き、光で輝いていた桜島は、落ち着いた色
に変わってゆきました。
桜島の表情と共に、この日の出会いも心に残ると思います。
225
振り向けばかがやく笑顔の桜島
特急霧島車窓より撮る
○△さんは、大隈半島から鹿児島までフェリーに乗って来られたのですが、その間、
桜島を南側から撮り続けたそうです。初めは三角に近かった山が、鹿児島市に
近づくにつれ横幅が広くなり男性的になっていました。写真を見せていただきました。
その後、私も、特急霧島4号に乗って霧島へ向かったのですが、車窓から桜島を
北側から見ることが出来ました。
226 11/27
十一面千手観音像に託された
祷りを思へばまだまだ足りぬ手
11月22日は、林和清先生とご一緒に「風雅の会」「西行ML」の皆様との合同で広隆寺、
嵐山へ行ってきました。知らなかったとはいえ、広隆寺はたいへんな(感激の意味で)
お寺でした。ゆったりと足を半跏にして静かに瞑想しておられる宝冠弥勒菩薩像、
聖徳太子半跏像、そして聖徳太子立像、泣き弥勒半跏像、千手観音立像、その他
たくさんの仏像がありました。今まで工事中で見えなかった桂宮院も見ることができ
ました。また、ゆっくり訪ねてみたいお寺でした。
227
半跏なる弥勒菩薩と太子像の
心意気聴く広隆寺にて
林先生のお話の中に、「半跏」という姿勢についての説明がありました。「半跏」とは、
何か用事ができたら、すぐに立ち上がって歩いていける姿勢だそうです。弥勒菩薩は、
衆生の為に、聖徳太子は、父親の用明天皇を看病されておられる時に、用事があれば
すぐに行ける姿勢だったそうです。
228
今もなお父の声待つ太子像は
十六歳なり幼さ残して
聖徳太子半跏像は、聖徳太子が16歳のとき、父用明天皇の病気平癒を日夜祈られた
時の姿だそうです。
229
三十年昔はこうではなかったと
友が呟く嵯峨野の里行く
嵐山、嵯峨野は、人の波でした。二尊院へ行く途中、一緒に行ったKさんが、30年前
はあんな家などはなかった、この辺は何にもなかったと何度も言われていました。
ニ尊院から小倉山の百人一首縁の時雨亭跡へ行ってきました。
京都の晩秋はやっぱり寒さが手足に凍みました。
230 12/01
四国路へ一緒に行かむと思へども
放って置きし山家集はなし
所用が重なって四国へ帰ってきました。いつも四国へ行くときには西行縁の五色台の
白峰寺へ寄るのですが、新訂「山家集」佐々木信綱校訂の岩波文庫がみつかりません
でした。帰ってからゆっくり探すと、ちゃんと本棚にありました。
231
瀬戸内を覆い隠せし霧晴れて
「島ぞ氷の絶間(たえま)」見るなり
くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける 西行
単なる叙景歌とは思われませんが、西行は、月に照らされた海を凍っている様子に
見て、また、浮んでいる島を氷の絶間と見て詠まれたのでしょうか?
四国に帰ると、五色台にある国民休暇村に宿泊し、瀬戸内海の景色と讃岐平野を
眺めるのが好きですが、日の出前(午前7時前)の景色は、海の色が灰色に光って
見えました。月に照らされた海でなくても「島ぞ氷の絶間なりけり」という雰囲気が
ありました。
讃岐平野を見ると、讃岐富士(飯野山)、象頭山(金毘羅様)、弘法大師縁の筆の山、
我拝師山(西行庵が近くにあります)が見えました。
232
白峰の西行像は五十路なれば
毛糸の帽子の冬の出立ち
白峰寺には小さな西行像があります。行く度に、いろいろな出立ちをされておられます。
11月30日の西行は、白い毛糸の帽子を被っていました。周りの人の心遣いだと
思われます。
233 12/07
カサカサと枯葉の声する秋の夜の
月は清けく深呼吸する
234
我もせし予防接種を啓発す
媒介者より壁になろうと
11月に鹿児島で日本小児保健協会の会議があった時、隣に座っておられた予防
接種研究班の女医さんが、「以前、学校でインフルエンザの予防接種を集団接種
していたときは、学生が壁になっていたから、ひろがるのを防ぐことができたの
ですよ。」と話されておられました。私も壁になるために接種しました。
235
年長けた心も良しと思ふなり
涙も汗も拭き取り易くて
「使い古したタオルの方が吸収しやすい」と思ったとき、「心もそうかもしれない」と
思いました。
236
ぬばたまの夜の大地に吹く風は
心染めにし紅葉を散らす
初時雨あはれ知らせて過ぎぬなり昔に心の色を染めにし 西行
立田やま時雨しぬべく曇る空に心の色を染めはじめつる 西行
「心の色」は「昔に空に紅葉etc.」で、いろいろと染められます。
237 12/15
来講座は和泉式部と伊勢大輔(いせたいふ)
紫式部がご対面といふ
林和清先生の百人一首の講座を受講しています。現在、56番和泉式部です。
あらざらむこの世のほかの思い出にいまひとたびの逢ふこともがな
彼女ほど自己を偽らず詠じた歌人はいないと言われています。
敦道親王が亡くなった後、百二十余首の挽歌を詠じ、これが「和泉式部集」の中核を
なしていますが、そこへ、救いの手をさしのべたのが藤原道長で、娘彰子中宮のもとへ、女房として仕えることになります。この同僚が、紫式部や伊勢大輔でした。
238
新(あらた)しき年を迎える讃歌なり
門戸で歌う年賀を描く
旧い年から新しい年へ、その節を乗り越えるための、励ますための葉書のように
思います。
239
冬の色をたとえてみれば風のおと
月のひかりも彩れば冬
240 12/19
むばたまの黒き真珠は生命(いのち)なり
クラッカーの上のキャビアといふ物
外国旅行のお土産にキャビアをいただきました。「このクラッカーの上に、何匹のチョウザメの命が乗っているのだろう」と思いました。
むばたま(ぬばたまに同じ) (枕詞)
(1)「黒」にかかる。
「―黒き御衣(みけし)をまつぶさに取り装ひ/古事記(上)」
(2)「黒」に関係深いものとして、「夜」「夕」「こよひ」「昨夜(きそ)」「髪」にかかる。
いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣を返してぞ着る 小野小町
241 12/22
ふりむけばひかりのなかへきみはゆく
かいさつぐちへむかふしゅんかん
息子に駅まで車で送ってもらって、振り返れば朝日の中へ車が帰って行く
のが見えました。
242
木枯らしが木の葉を揺する冬のあさ
午後は雪との重き空あり
19日は風も強く、午後は雪が降るとの予報が出ていました。
243
突然の来訪者あり外見れば
雪の朝(あした)にコスモスの花
20日の朝、Aさんが雪をかぶったコスモスの写真をHPにアップされました。
白と赤、コスモスの健気さ、清潔感、季節的なアンバランスを感じました。
244 12/25
故郷の山をあなたに贈ります
年賀一枚絵葉書にして
友人の故郷が讃岐だったことを思い出しました。一枚刷りなおしました。
245
年の暮れ網くぐりゆく住所録
去り行く空へ思い出送る
246
温かきお茶が心に沁みわたる
憶良の歌を栗食み読めば
大宰府で大伴旅人の部下として仕えていたことがある山上憶良は、
旅人とはまた違った現実を見る目、やさしさがあるように思います。
稚ければ道行き知らじ幣はせむ黄泉の使負ひて通らせ
(この子はまだ幼くて、あの世への道を知りません。黄泉の使者よ、お礼はしますから、
どうか背負って連れて行ってやってください。)
瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めば まして思はゆ〜
銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝れる宝子に及(し)かめやも
山上憶良
247 12/31
紫の空を二つに斬るような
冴えた月あり子等の声なく
夕暮の始まりの空は紫色です。もう外で遊んでいる子どもの姿は見えなくなりました。
248
ほんとうに終わりでいいねと風が言う
憎まれ愚痴ももう出てこない
249
振り返りおさな児の顔見つめたり
「あっとう」ってもう言えるんだねえ
1歳児に「あっとうー」と言われれば、顔がほころんできます。
250
電線の鳩が小さく見える朝
巧く貼れない雲の壁あり
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2003年(3) 2003年(4)
以上、2003年12.31まで
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