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         も み の 木 歌 集   
                   2 0 0 5 年 度 
                   第 三 部

  
       2004年(4)  2004年(5)  2005年(1)  2005年(2)


101  7/14
   玄関の「創都・堺」のポスターに
            中西先生微笑みてあり


7月26日(火)午後、開庁記念式典の記念講演会で、中西進先生が「創都・堺」を
テーマに堺の歴史の魅力をお話くださいます。

102

   蜂供養プールサイドで行ないます
            プール終いのすぐ翌日に


プールサイドに蜂がよく飛んできます。毎年、蜂に刺される子がいて、飛んできた
蜂を網で捕まえて殺してしまうことがあります。
「元気な働き蜂、ちっとも悪くないのに、ここへ飛んできたばっかりに、ごめんね。」

103

   西陽背に足どり重く帰る日は
            白玉ぜんざい買って帰ろう


通勤途上のお寺の掲示板には、最近、寺山修司の歌が書かれています。
最近書かれていた歌です。

        夏の井戸故郷(くに)の少女は海知らず
        肉体は死してびっしり書庫に夏
104
 7/23

   家持の万葉の歌「海行かば〜」
            鎮魂歌と聞く時経てれば


7月18日の朝日新聞に太平洋戦争のとき、政府が推奨したという「うみゆかば〜」の
歌のことが書かれていました。この歌は、もともとは、万葉集に出てくる大伴家持の
長歌です。当時、国内には、大仏に貼る金箔がなく困っていたが、東北で金が発掘
され、聖武天皇が喜ばれ、家臣達に手紙を書いた。その時、家持は、大伴家に伝わる
歌から(大伴家は武力で皇室を守ってきた)その感謝の気持を歌にして表し聖武天皇
に送った。それがこの長歌とのこと。

陸奥国金を出だす詔吾を賀く歌一首

(前略)

大伴の遠つ神祖の その名をば大久米主と 負い待ちて仕えし官
海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君のへにこそ死なめ
顧みはせじと言い立つ ますらをの清きその名をいにしへよ
今の現つに流さへる
(後略)
戦後60年の今、この歌をしみじみと歌えば、鎮魂歌のような思いになります。

同じく、近年、新聞に載っていた記事のことですが、
「君が代元は挽歌?」大経大講師・藤田さん新説
という見出しで、「君が代」について書かれていました。

「君が代」の歌詞の元となった古今集の「我が君は千代にましませさざれ石の巌を
となりて苔のむすまで」は万葉集の挽歌(人の死を悼む歌)を本歌取りしたもの
だった――とする説を大阪経済大講師で、歴史・哲学研究所(岬町)の所長をして
いる藤田友治さんが、共著「『君が代』
起源〜『君が代』の本歌は挽歌だった」
(明石書店)で発表した。
と書かれていました。
万葉集にある本歌は、卷2にある

妹が名は千代に流れむ姫嶋の小松が末(うれ)にこけ生すまでに

で、「千代に」と「こけ生すまでに」の部分が採り入れられた。
と書かれています。
また、余談になりますが、先日、中西進先生の万葉集の講座で、
万葉集1429

嬢子(おとめ)らが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)が 蘰(かづら)のため
にと 敷(し)き坐(ま)せる 国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはも
あなに(少女たちがかざしにするように、また風流の士がかずらにするように、
大君の統治なさる国の果てまで咲いている桜の花の、美しさよ、ああ。)

現在の国歌が少し暗いというのなら、皆さん、この歌などどうですか?と言われて
いました。桜は、咲く時期が短く、儚いものの象徴のように言われることがありますが、
実は、桜は非時(ときじく)の花なのだそうです。
サクラの花は履中紀3年(402)11月6日条にみえます。十一月の初め、履中帝は
皇后を伴い舟遊びをされたが、冬の季節であるのに、
桜の花びらが舞い落ちてきた。
詔(みことのり)してのたまはく、「この花、非時(ときじく)にして来たれり。
それ何処(いずこ)の花ならむ。汝、みずから求むべし。」とのたまふ。
左近の桜、右近の橘、非時(ときじく)の花なのだそうです。

105

   炎天の街で見つけたマクワ瓜の
            その涼少しおすそ分けする


106

   遠き道日傘に時雨れる蝉の声


107  8/01
   後朝(きぬぎぬ)の歌なる晶子のみだれ髪も
           「創都・堺」とあらためて聞く   

7月26日の堺市役所開庁記念講演会で中西進先生の「創都・堺」についての
お話がありました。先生は、創都には、大きく分けて三つのクリエーションが
あったということで、第三に、堺で生まれ育った与謝野晶子の「みだれ髪」の
歌(1901年、20C.の初め)をもってこられました。

<お話の中から>

黒髪の千すじの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる  晶子

与謝野晶子は人間讃歌を唱えた。みだれ髪というのは、寝みだれ髪のことである。
愛のために寝乱れた髪。大衆の前で言っていいのかどうか、とためらうような
言葉であった。性を詠う大胆なものであった。クレームのついた性でない。
性は尊いものなのだと詠った。「せい」と発音する言葉は「成」「生」「性」。
性=生きていく心。気高かった。
それまで貶めていった性をそうではないとした。

その他、晶子の人権運動や女性解放運動についても話されました。

<参考>
みだれ髪と言えば、

長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
            待賢門院堀河(80) 『千載集』恋三・802

の歌がよく知られています。この歌は、男女が共に寝た翌朝、すなわち
「後朝(きぬぎぬ)」の歌です。

108

   岩間より西行水にも沸きいずる
            花咲く水なり醒ヶ井の水


天智天皇の大津京を訪ねたいと思っていました。7、8月には、醒ヶ井
(西行水のある)には、梅花藻という水中花が咲くと聞き、この時期を選んで
近江へ行ってきました。
米原にある昔の中山道の醒ヶ井の宿には「居醒めの泉」があります。この泉は、
昔大和武尊が伊吹山の大神を攻めた時、毒にあたって気を失い、この水を飲んで
正気を取り戻したと伝えられています。この清水を水源とする地蔵川には、
梅花藻(ばいかも)が咲いていました。この川の水温は、年中14℃前後の
清流だそうです。 この水域は,鈴鹿山系・霊仙山(1084m)の伏流水と考え
られています。 梅花藻は清流に咲くキンポウゲ科多年草の水草で,梅の花に
似た小さな白い花をつけていました。

109

   朝妻に見送る影は今はなく
          淡海
(あふみ)の海は波静かなり

朝妻湊には、西行の歌碑がありました。朝妻は古代から中世にかけて
栄えた港町です。往時は船客相手の遊女、いわゆる一夜妻が多く、
朝になると別れたので朝妻の名が出たのだと言われています。歌碑の歌です。

おほつかな伊吹おろしの風先にあさ妻舟のあひやしぬらん  西行

110

   蒲生野の万葉の森訪ね行けば
          あかねという名の保育園あり


額田王と大海人皇子の歌が詠まれた蒲生野は、滋賀県東近江市市辺町に
あります。船岡山にある歌碑と神社の境内にある壁画、そして、もう枯れ
かかった紫草を見てきました。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る  額田王(卷一の20)

あかね保育園という名前の保育園がありました。
車の中から俵藤太秀郷の百足退治で有名な三上山(近江富士)が見えました。

しのはらやみかみのたけを見渡せば一夜の程に雪は降りけり   西行

西行は、俵藤太(藤原秀郷)の流れをくむ武門の家柄で、西行(佐藤義清)は
俵藤太秀郷の九代の裔にあたります。

111

   主無くも大津の宮に今もなお
           流れ続ける漏刻の水


大津では、天智天皇が祭られている近江神宮へ行き、わが国最初の時計である
漏刻(水時計)も見てきました。壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗れた
大友皇子(弘文天皇)陵へも行ってきました。陵は、大津市役所に隣接した
一角に静かにありました。
近江神宮の近くには、柿本人麻呂が歌に詠んだ唐崎がありました。

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ  
          柿本人麻呂(卷一の30)

近江神宮から弘文天皇陵、逢坂の関跡、関蝉丸神社を巡ってきました。
今回は、日本武尊、天智天皇、天武天皇、弘文天皇、額田王、柿本人麻呂、
俵藤太秀郷、西行、蝉丸等の縁の場所を訪ねた旅でした。

112  8/10

   夏雲は山の後に仁王立ち
           緑の道に風渉りゆく 


8月7日から島根に行ってきました。中国道を通って行きますが、山より数倍の
入道雲が聳え立っていました。山に囲まれたところは八雲が立つのかもしれません。

113

   古に京に上りし人のこと
           語りて行かむ美作の里


行く途中、美作という地名が見えました。浄土宗を開いた法然上人の生まれた
所です。
浄土宗宗歌・月影
「月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」  法然上人
(阿弥陀様のすべての人を漏らさず救うというお誓い(本願)は、月の光のように
誰にもどんな里にも平等にふり注いでいます。しかし眺めた人にしか月の光の存在が
分からないように、南無阿弥陀仏と念仏を称えた人だけが阿弥陀様の本願によって
極楽浄土に生まれること(往生)ができるのです。)
法然上人は長承2年(1133年)4月7日、美作の国にお生まれになった。
保延7年(1141年)、父である漆間時国は日頃より反目していた敵の源内武者
明石定明の夜襲にあい、非業の死を遂げます。時国は臨終間際、少年の法然上人を
呼び寄せ「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなく
なってしまう。それならばどうか、全ての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの
人々を救って欲しい」という遺言を残し、息を引きとった。当時9歳の勢至丸
(法然の幼名)は、その後、比叡山へ登ります。
法然上人絵巻はよく知られています。

114

   乳母車押す手の甲に立秋の
           陽射しは熱し幼
(おさな)眠りて

立秋(8月7日)といえども、まだまだ残暑きびしい日が続きます。

115

   比婆山は他にもあれど「保存す」と
           島根で見付けしイザナミ御陵


八重垣神社などもある島根市内で「岩坂陵墓参考地」という御陵を見つけました。
説明書きを見ると、「古事記にある比婆山は、この地でイザナミの命の御神陵と
伝えられている。」と書かれていました。全国には、十数か所イザナミ命御神陵伝説が
あるそうですが、この御陵は、保存すべきものと認定されたそうです。

116

   指吸って嫌いな一匙拒否をする
           赤ちゃん語だね「解ったほのちゃん」


10ケ月の子に離乳食を食べさせるとき、自分が欲しいものなら、「アー」「アー」と声を
出して要求するのですが、先にお茶が欲しいときや嫌いなもののときは、手を口に
持っていって、お匙を入れさせないようにします。食べさせる側も、だんだんと要領が
わかってきます。赤ちゃん語というかサインがあります。

117   8/18

   鏡池に今年も揺れる頃となる
           大仏殿の廻廊の灯よ 

118

   控えめに だけど確かに得意げに
         マラカスを打つ「見てるよ ほのちゃん」


「カチカチして」と言うと、両手にマラカスを持ってカチカチ鳴らします。
落ち着いた表情ですが、その視線は得意げです。「上手、上手」とほめると、
今度は仰向けに寝ているとき、自分の両手で両足首を持って、足の裏をカチカチ
し始めました。
「こんなことも出来るよ!」と言った得意そうな視線です。
十か月の乳児でも、自分を評価してもらうことはうれしいこと。
年配者でも変わりません。

119

   秋立ちてプールで遊ぶ子等の間を
           トンボ一匹水面
(みなも)をよぎる

120  8/28

   風戦ぎ稲穂が揺れるその波に
           翅
(はね)煌かせ蜻蛉騒(ざわ)めく 

秋が蜻蛉を連れてきたのか、蜻蛉が秋を連れてきたのか、街に、園庭に、そして
稲穂の上に蜻蛉が飛び交っています。
蜻蛉や蛙は五穀豊穣を表すものであるということを聞いたことがあります。
稲穂の波の上を、豊穣を喜ぶように、はしゃいで飛んでいました。

121

   玉葱に涙をしてもコンニャクを
          千切って甘き肉じゃが作ろう


こんにゃくがあったので、肉じゃがに入れることにしました。手でコリコリ、クリクリ
千切りました。「ちぎる」を漢字で書くと「千切る」になりました。なるほど!と
思いました。

122

  夏の日の終わりに思ふ この青で
         幾人救いし朝顔の花 


保育所のフェンスに普通の朝顔とは少し違う、一回り大きな花の深いブルーの朝顔が
咲いています。琉球朝顔と言うのだそうです。心にシャワー浴びさせてくれるような、
爽やかな色です。
昨日、毎朝手入れをしてくださっている早朝勤務の保育士さんが、私に話してくれました。
朝、いつものように手入れをしていると、あるご婦人が、
「いつも、この朝顔を見させていただいて、心が和んでいます。ありがとうございます。
先日、主人が亡くなって、二週間経ちますが、この朝顔を見ると安らぎます。」
と言われたそうです。
この朝顔はこの夏、幾人の道行く人の心を救ったのかと思いました。


123  9/13

   秋来たり窓辺に虫の声聞きて
           だんじり囃子は静寂
(しじま)に響

9月14、15日は、岸和田のだんじり祭りです。
私の住む町は、岸和田より1か月遅い10月ですが、もうお盆過ぎから、体力づくりの
ために毎晩走る練習をしていて、遠くの方からかけ声が聞こえてきます。(車に綱を
つけて、皆で綱を持って走ったりしています。)
岸和田でも、大分前から練習をしていました。実物のだんじりを出して試験曳きする
日は決められていて、交通安全上、警察の許可がいるのですが、町によっては、
時々内緒で試験曳きするそうです。これを、盗人曳きと呼ぶそうです。遣り回しを
した跡の形が、道路にはっきりついているのでわかるそうです。警察に見つかって、
本番の試験曳きの時間が削られたと話されていました。

124

   宍道湖畔 琵琶を奏でる芳一像
            その音幽
(かすか)に風と戯むる

125

   店頭にシジミや海の幸並ぶ
            松江は遠き町の香漂う


8月も9月も松江へ行ってきました。
松江のスーパーには、やはり関西とは違う雰囲気があります。宍道湖のシジミの粒も
大きいし、なんといっても海の幸が豊富です。今は、大きな二十世紀の梨が箱入りで
売られていました。シジミのみそ汁も梨も、とても美味しかったです。

126
 
9/22

   「西行」読む待合室にリーンリーンと
             奏でる音あり鈴虫の声

                  
なるべく軽い本を一冊カバンに入れて出かけるのですが、クリニックの待合室で、
風呂で読む「西行」 三村晃功著 を読んでいると、鈴虫が金色の声で
鳴いていました。
(この、風呂で読むという本は、湯水に耐える合成樹脂が使われています。)
鈴の奏といえば、この本の中にも書かれていました。

ふりにけり君が行幸の鈴の奏はいかなる世にも絶えず聞こえむ   西行
(これは崇徳天皇の在位が長く続くことを願っての歌です。)

127

   この月も西行仰ぎし月なのかと
             この月の月出でて見るなり 


9月18日は、その名のとおり「中秋の名月」でした。

知らざりき雲居のよそに見し月の影を袂(たもと)に宿すべしとは 
        西行(山家集・恋)

恋いの気持を「月ニ寄スル恋」のごとく月に結びつけた趣向で詠んでいます。
「月の影を袂(たもと)に宿す」というのは、袂が涙で濡れているからですね。

   
128

   かばい合い石段降りる老夫婦を
             秋の陽射と見つめていたり         


129  11/27

   あゆの風吹く二上
(ふたがみ)の山に立ち
            詠
(なが)める家持まだ三十路なり
      
11月の初め、富山県高岡市へ行くことができた。高岡では、海から吹く
北東の風を「あゆの風」と呼ぶそうである。万葉集には、越中国守だった
大伴家持が詠んだ

    東風(あゆのかぜ)のいたく吹くらし奈呉の海人(あま)の
      釣りする小船こぎ隠る見ゆ        大伴家持
                   
の歌がある。
今からおよそ1260年前、家持は越中に5年間滞在し、万葉集全4516首の
うち家持の歌は479首あるが、そのうち220余首が越中で詠まれている。
高岡には、大和とおなじ名前の二上山があり、二上山の上には、右手に筆、
左手に筆記用紙を持った家持像が立っている。今回訪ねてみて、越中時代は、
彼の人生の中でも一番充実していた頃であっただろうと感じた


130

   雨晴
(あまはらし)岩屋を出でて義経が
             見上げた山あり立山の峰


JR高岡からJR氷見線が出ている。氷見線にある越中国庁跡のある
伏木は、昔は北前船の寄港地であった。伏木より二つ目の駅が
雨晴(あまはらし)の駅である。雨晴には義経が奥州落ちの時に、
雨宿りをしたという義経岩がある。晴れた日には、この海岸から
富山湾越しに3000m級の立山が見えるということであったが、
訪れた日には残念ながら見ることができなかった。

立山に降りおける雪を常夏に見れども飽かず神からならし  家持
馬並めていざ打ち行かな渋渓(しぶたに)の清き磯廻(いそみ)に寄する波見に 家持
 
131
   遥かなる朝日の下のあの山は
             大和の里では寛いでいた


11月20日は、恒例の西行オフ会があり、山辺の道(桜井から長岳寺まで)を
歩きました。
前もって、Aさんが下見に行ってくださり、当日は、Kさんに万葉集の歌碑の
説明をしていただきながらゆっくりと散策することができました。何度も
歩いた道ですが、また違った雰囲気でした。

132

   額田王の山辺の歌碑 三輪山と
             一視野に撮る心あらばと 

三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや  額田王

133
   寺門の放哉の歌に立ち止まり
             ふふふと笑って急ぎ行く朝


咳をしても一人    放哉

通勤途上のお寺の掲示板に書かれていました。

134  11/30

   生きることは一人と思う朝の空 
            路上の鳩が一羽飛び立つ  


135

   朝の畝に集う鳥たち我が母には
            小芋の具飯を炊きて出で来し


136

   落ち葉ふり黄色い道や赤い道 
            狐山古墳はその辻辺り


仁徳御陵前には、狐山古墳という小さな古墳があります。
イチョウの黄色い葉や桜の葉の落ち葉など、並木道に沿って色とりどりです。


137

   「インターネット解約します」
           突然に 現世拾うメール飛び込む


「現世捨てる」にしようかと思いましたが、「現世拾う」としました。
早速、返事を書きました。
「インターネットのない世界も、自分の世界を楽しむことが出来て、
自由でいいかもしれませんね。私も、時々、考えます。現在の
ネット生活を見直さないといけないかもしれません。便利が実際は
不便、自由が実際は不自由かもしれないですね。」

「捨てるということは、拾うことかもしれない。」西行の歌を思い出しました。

身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ   西行

138  12/13

   青鷺が陶器となりて立ちて居る
            冬のお堀は凄まじきかな


仁徳御陵付近には、小さな古墳がたくさんあります。先日の寒い朝、
お堀の冷たい水の中に青鷺が片足を上げて立っていました。

139

   一言もしゃべらない日が続くと語る
            友よりディナーの招待があり 
140
   夜遅く帰って脱いだそのままの
            息子の足跡われは揃えし

141

   人生に休止宣言わが友は
            インターネットの柵
(しがらみ)を解く

142 12/25

   カラカラと枯葉走る日雪舞う日
            ふと想うなり病室の友


救急病院のない夜の病院は、あまりにも静かすぎます。
読書家の友の枕元には、図書館から借りてきた本が積んでありました。

143

   木枯らしが吹く夕 蕪
(かぶら)のそぼろ煮を
            ふっくら煮るなりまた年の暮


子どもの頭ほどもある大きな蕪をいただきました。
そぼろ煮にしていただきました。

144

   古本屋に大西民子の歌集ありき
            置いて帰しこと心に残これり


三国ヶ丘の古本屋さんにあったのですが、迷ったのですが置いてきました。

かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は    
             大西民子 

145
 12/30
   君癒えて山邊の道歩む日には
            采女に吹きし風も吹くらむ


采女の袖吹き返す明日香風都を遠みいたずらに吹く   
     志貴皇子 万葉集巻1-51 

146

   ふっくらのほのちゃんみたいなスズメの子 
            屯
(たむろ)しており冬麗の朝 

147

   保育部が児童福祉部、子ども部と
            名称変える模索するように 

148

   喪中というはがきに愁ふ年の暮 
            幼子残して逝きし女
(ひと)ありて


         以上、  2005年12月30日まで

    2004年(4)   2004年(5)  2005年4(1)  2005年(2)


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