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いく〜いす いせ〜いそ いた〜いと いな〜いも いら〜いん

【いらご・伊良胡が崎】

○いらご
現在表記は「伊良湖」です。愛知県の渥美半島の先端にある地名。

○伊良胡が崎
 愛知県渥美半島の突端にある岬の名称。伊勢湾を隔てて対岸の
 三重県鳥羽市とは海上約20キロメートルほどの距離があります。

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1  いらごへ渡りたりけるに、ゐがひと申すはまぐりに、あこやの
  むねと侍るなり、それをとりたるからを、高く積みおきたり
  けるを見て

 あこやとるゐがひのからを積み置きて宝の跡を見するなりけり
           (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1387番)
             
2  二つありける鷹の、いらごわたりすると申しけるが、一つの
  鷹はとどまりて、木の末にかかりて侍ると申しけるを聞きて

 すたか渡るいらごが崎をうたがひてなほきにかくる山帰りかな
       (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1389番・夫木抄)
            

3  いらご崎にかつをつり舟ならび浮きてはかちの浪にうかびてぞよる
          (岩波文庫山家集127P羇旅歌・新潮1388番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)
 
4  波もなし伊良胡が崎にこぎいでてわれからつけるわかめかれ海士
             (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
            
○ゐがひと申すはまぐり

 胎貝。イガイ科の二枚貝。
 (い貝)と(はまぐり)は別種の貝ですが、西行は(い貝)
 も(はまぐり)と同種のものと認識していたものでしょう。

○あこやとる

 真珠を貝から取り出すことです。
 真珠のことを古くは「阿古屋玉」とか「白玉」と言っていたそう
 です。万葉集にも「白玉」の歌は多くあります。
 古事記編纂者の太安万侶の墓から真珠4個が発見されましたが、
 鑑定の結果、鳥羽産の阿古屋真珠とのことでした。
 聖武天皇の愛用品にもたくさんの真珠が用いられていて、古代
 から真珠は「宝」として珍重されていたことがわかります。
 西行歌にも「白玉」歌は多くありますが、露とか涙にかかる言葉と
 して用いられていて、真珠を表す「白玉」歌はありません。

○あこやのむね

 阿古屋の宗。阿古屋とはウグイスガイ科の二枚貝のアコヤガイの
 ことで、真珠の母貝となります。
 宗とは主の意味で、本体とか中心を表します。したがって「あこ
 やのむね」とは、真珠そのものを指します。
 真珠は主として阿古屋貝から採れるという意味も含みます。

○わかめかれ
 (わかめ=若布)は海草の一つで食用。(かれ)は(刈れ)
 ということ。わかめを刈りなさい、という意味。
 
○かつをと申すいを
 魚のカツオのこと。

○はかちの浪
 西北から吹いてくる風に立つ浪のこと。

○二つありける鷹
 「巣鷹」と「山帰り」の鷹を言います。

○すたか
 「巣鷹」。巣の中の鷹の雛のこと。また鷹狩り用に巣の中の雛を
 捕獲して飼育すること。飼育された鷹自体も「巣鷹」といいます。

○山帰り
 年を越えて山で羽毛をかえた鷹のこと。その鷹を鷹狩り用に捕獲
 して飼育しているもの。

○一つの鷹
 「山帰り」の鷹のこと。

○われから
 「割殻虫」という海生の虫の名前。海藻などに付着している甲殻
 類節足動物の一種で体長は3〜4センチ。4番歌は伊勢物語の下の歌
 を参考にして詠んだ歌ではないかと思います。

 恋ひわびぬ海人の刈る藻にやどるてふ我から身をもくだきつるかな
               (伊勢物語 第五十七段)

○いらごわたり
 愛知県渥美半島伊良湖から、伊勢湾を超えて伊勢の鳥羽まで、
 もしくはそれよりも遠くに鷹が飛び渡ること。伊勢湾は渡り
 鳥のルートになっています。

 4番歌の場合は飼育されている鷹ですから、渡り鳥の場合とは別
 に解釈されます。訓練のために伊勢から伊良湖へ渡らせたもので
 しょう。

 (1番歌の詞書と歌の解釈)
 
 「伊良湖に渡った時に(い貝)というはまぐりにあこやが主と
 してあるのである。その真珠をとった後の貝殻を高く積んで
 おいてあるのを見て」

 「真珠をとるい貝の、真珠をとったあとの貝殻を高く積んで
 おいて、宝のあとを見せるのであったよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 (3番歌の解釈)

 「伊良湖崎の沖の方から、風が悪いというので、鰹を釣る舟が
 一斉に並んで、西北からの風に立つ波に揺られ浜辺をさして
 近寄ってくることだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (4番歌の解釈)

 「巣鷹は疑うことなく伊良湖へ渡るけれど、山帰りは自信が
 ないのか臆病なことにいったん飛び立ってもまた木に戻って
 しまうよ。」
 「鷹の生態を聞き取った二見浦での体験を詠むか。成人してから
 の出家者としての自身を「山帰り」に重ねているが、最晩年と
 いうより「鈴鹿山憂き世・・・」歌の詠出時期に近いか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (伊良湖の渡り鳥)

芭蕉に「鷹一つ見付てうれし伊良湖崎」という句があります。
(笈の小文)の旅の時の伊良湖での句です。尾張鳴海まで来てから、
引き返して渥美半島先端の伊良湖に向かったと記述されています。

この句や西行の歌にあるように伊良湖と鷹は関係が深く、古代から
「鷹渡り」の中継地点として知られていたようです。

冬渡りする鳥たちは10月頃に方々の生息地から伊良湖岬に集合します。
そして何百羽、何千羽という規模で、上昇気流に乗って飛び立ちます。
伊良湖から各地を経ながら、あるいは一気に南方を目指して日本を
離れます。そしてまた次の年の春には日本にやってきます。
鷹などの猛禽類だけでなく、ツバメ、ヒヨドリ、メジロなどの小型
の鳥なども伊良湖渡りをするようです。

今号の4番歌の場合は鷹狩り用に飼育されている鷹であり、渡り鳥
としての鷹ではありません。ですから「伊良湖渡り」と言っても、
渡り鳥の場合とは意味が違ってきます。伊勢の鷹匠が訓練の一環と
して伊勢から伊良湖まで飛ばしたものと解釈して良いでしょう。

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◎ ひきすゑよいらごのたかのやまがへりまだひはたかしこころそらなり
                    (藤原家隆 壬二集)

◎ しまひびくいらごがさきのしほさゐにわたる千鳥はこゑのぼるなり
                    (藤原家隆 壬二集)

◎ ふきおくるいらごがさきのしほかぜにやすくとわたるあまのつりぶね
                  (寂身法師 寂身法師集)

◎ 玉藻刈るいらごが崎の岩根松幾世までにか年の経ぬらん
                   (藤原顕季 堀川百首)
 
◎ うつせみの命を惜しみ波に濡れいらごの島の玉藻刈り食む
                   (万葉集巻一 麻積王)  

◎ 汐さいにいらごの島べこぐ舟に妹のるらむか荒き島みを
                  (万葉集巻一 柿本人麿)

 万葉集では伊良湖は伊勢の国としています。

【入相・入相の鐘】

入相(いりあい)とは日没とか夕暮れのことです。特に定まった
時刻のことではありません。
入相の鐘は夕暮れ時、日没時にお寺などが撞く鐘のこと、鐘の音の
ことを言います。

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1  入相のおとのみならず山でらはふみよむ聲もあはれなりけり
           (岩波文庫山家集248P聞書集・夫木抄)
             
2  またれつる入相のかねの音すなり明日もやあらば聞かむとすらむ
     (岩波文庫山家集170P雑歌・新潮939番・西行上人集・
              山家心中集・新古今集・宮河歌合)

3  嶺おろす松のあらしの音に又ひびきをそふる入相の鐘
           (岩波文庫山家集166P雑歌・新潮1051番)
            
4  旅へまかりけるに入相をききて

  思へただ暮れぬとききし鐘の音は都にてだに悲しきものを
          (岩波文庫山家集106P羇旅歌・新潮1081番)
            
○ふみよむ聲
 
 経典を読む子供たちの声のこと。幼くして仏門に入って修行して
 いる子供たちを思わせます。
 この歌は聞書集にある「たはぶれ歌」13首の中にあります。

○明日もやあらば

 明日の命があったならばということ。若くてもいつ命が絶えるかも
 しれないという、人生の無常観を表しています。

○松のあらし

 松の木に激しく吹きつける風の音のこと。

 (2番歌の解釈)

 「鳴るのを待っていた入相の鐘の音が聞こえる。明日もまたここに
 生きていられたら、やはり待って聞くのだろうな。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 (4番歌の解釈)

 「ひたすらにただ思ってもみよ。今日もここで暮れたかと聞きつづ
 けてきた入相の鐘の音は、都にあっても悲しかったのに・・・。
 旅にあって聞くときは、心の底から悲しみがこみあげてくる
 ことだ。」(中略)
 「歌材は平俗な実際だけれど、そのことに即して、心の底の真実を
 素直に示してゆく歌境なのである。誰人の胸中にも住む感慨を、
 こういうふうに自在に詠むところ、それも西行の世界である。」
             (宮柊二氏著「西行の歌」から抜粋)

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◎ 山寺の入相の鐘の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき
                  (詠み人しらず 拾遺集)

◎ 山里の春の夕ぐれ来て見ればいりあひのかねに花そ散りける
                 (能因法師 新古今集116番) 

【いりとりのあま】

 分かりません。(入り取りの海人?)とは?
 (網の中に入って腹赤という魚を取り上げる海人)と解釈する
 べきなのでしょうか。

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1 いせじまやいるるつきてすまうなみにけことおぼゆるいりとりのあま
       (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1451番・夫木抄)
            
○いせじまや

 伊勢の国にある島々を総称して「伊勢嶋」と言っているものです。
 他国の特定の島ではないようです。伊勢嶋の歌は二首あります。

○いるる

 この「伊勢嶋や・・・」の歌は書写した人のミスがあるとしか
 思えません、「伊勢嶋」の初句は「はらかつる」という伝も
 あるとのことですので、もともとは「筑紫に腹赤と・・・」の
 詞書につづく三首連作のものなのでしょう。
 和歌文学大系21では「いるるつきて」を「入るる継ぎて・・・」
 として「(次々に入ってくる)意か?」ともしていますが、
 私には判断ができません。

○けことおぼゆる

 (けごと)であれば、晴れの事の対語の(け)を表し、(けごと)
 とは(け事)として普通のこと、日常のことという意味を持ちます。
 (けことおぼゆる」は、日常の生活を繰り返す中で覚えたこと、
 という意味なのかもしれません。
 また(けごと)は食事のことをも意味します。

○すまうなみに

 「すまーひ」は抵抗すること、拒むことと古語辞典にあります。
 相撲のこととも出ています。
 「抵抗する波」という解釈では分かりにくいですから、ここでは
 「荒れた波」という解釈で良いと思います。

(歌の解釈)

 「難解。伊勢の島では湾内に先を争って流れ入ろうとする波
 (あるいは湾内に入ろうとする海士と争うように見える波か)
 に、そこへ入って魚貝を漁ろうとする海士は、平穏な海の時とは
 異なり緊張することだ、の意か。なお、1.2句は底本「はらかつる
 おし□つきて」、板本により改めた。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【いるさ】 (山、206)

(いるさ)は「入り際」とか「入る時」という意味です。

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1 いるさにはひろふかたみも残りけり帰る山路の友は涙か
                     (寂然)
          (岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮807番・
             西行上人集・山家心中集・寂然集)

 この歌は寂然の詠歌です。西住上人の臨終後のことを詠った、
 西行との贈答の4首連作のうちの一首です。4首ともに紹介します。

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  同行に侍りける上人、をはりよく思ふさまなりと聞きて
  申し送ける
                      (寂然)
 乱れずと終り聞くこそ嬉しけれさても別はなぐさまねども
 
 かへし                  (西行)
 此世にて又あふまじき悲しさにすすめし人ぞ心みだれし
 
 とかくのわざ果てて、跡のことどもひろひて、高野へ参りて
 帰りたりけるに
                      (寂然)
 いるさにはひろふかたみも残りけり帰る山路の友は涙か
 
 返事                   (西行)
 いかでとも思ひわかでぞ過ぎにける夢に山路を行く心地して

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○同行に侍りける上人

 西住上人を指します。西行の良き友人、良きパートナーとして
 しばしば一緒に旅をしています。
 詳しくは「西住」の項にしたためます。

○をはりよく
 
 臨終の際に取り乱したりしないで、うまくあの世に旅立ったと
 いうことです。

○すすめし人

 (すすめし人)とは西行自身をさしています。寂然との贈答歌
 4首からみれば、西行は西住の最後を看取ったものと思われます。

○とかくのわざ

 没後の一連の儀式を指しています。

○跡のことども

 火葬後の遺骨を拾うということ。底本の山家集類題では(ことども)
 を(こつカ)と傍記しています。
         
○ひろふかたみ

 (ひろふ)とありますから、(かたみ)とは遺骨のことです。

○夢に山路を行く

 高野山からの帰路の山路も、なにがなにかわからない、信じられ
 ないような夢の中の出来事のような感じで・・・歩いたことでした。

 (歌の解釈)

 「高野の山へ西住上人の納骨に入られた折は、拾われた骨が形見
 として残っていました。でも、帰途の山路では、友の上人は
 もはやなく、友となさったのは涙だけでしたか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 この贈答歌のうち寂然詠歌は西行の立場に立って、西行の気持を
 慮って詠んでいます。

【入野】

 (いるの)と読みます。山城(京都)の歌枕とも言われています。
 現在の西京区大原野上羽町に入野神社があります。
 「五代集歌枕」では歌枕の国名不明となっています。
 
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1 さよ衣いづこの里にうつならむ遠くきこゆるつちの音かな
           (岩波文庫山家集86P秋歌・新潮443番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

 この歌には「入野」という名詞がありません。西行上人集追而加書
 と夫木抄に(いづこの里)が(いるのの里)となっていますから
 ここで紹介します。

○さよ衣
 
 夜に着用する衣服のこと。夜着のこと。寝間着のこと。

○ つちの音かな
 
 衣服は植物の繊維を用いて作ります。随分早くから秦氏などが養蚕
 や衣服の作り方を広めました。
 植物の繊維を糸状にしてそれを機織して生地を作り、生地を縫い
 合わせて衣服を作ります。
 砧というのは布地を槌でたたくための台です。一応は衣服の形に
 なっているものを槌でたたいて滑らかにするのか、それとも採って
 きた植物そのものを槌で叩くのかは私にはわかりません。
 いずれにしても衣服となるものを砧という台の上に置いて、それを
 槌で叩くということです。
 この場合は木槌のはずですが、その音が遠くまで聞こえるという
 ことです。
 
 西行の歌には「砧」という名詞は出てきません。ですが(砧)と
 (衣を打つ)ということとは不可分のものです。
 砧の出てくる歌の多くは秋の歌ですし、砧という言葉自体に冬の
 寒さに備えての衣服を製作するという意味もあるのでしょう。
 かつ、人のためにひたすらに砧を打つという行為、秋の夜長に
 響く槌の音にいいようのない哀感がこめられていることがわかり
 ます。

 尚、砧という言葉が使われ出したのは平安時代末頃からです。

 (歌の解釈)

 「夜が更けて、近くで聞えていた砧の音が聞えなくなっても、
 なお遠くの里から聞こえてくる砧の音は、どこの里で衣を打って
 いるのだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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◎ さを鹿のいる野のすすき初尾花いつしか妹が手枕にせむ
          (柿本人麻呂 新古今集346番・万葉集巻十)  

◎ さを鹿のいるのの薄露しげみ誰が手枕に月やどるらむ
                  (後鳥羽院 後鳥羽院集)

【いろくづ】 (山、199・213・231)

 原意は魚の鱗(うろこ)のことです。転じて魚類全般、魚の総称
 としての言葉です。
 1番歌と3番歌の場合は淡水の小魚を指していると解釈できますが、
 2番歌では海生の魚類全般をも指していると解釈できます。
 ただし、はっきりと断言できません。

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1 水ひたる池にうるほふしたたりを命に頼むいろくづやたれ
           (岩波文庫山家集213P哀傷歌・新潮1518番)
           
2 いろくづも網のひとめにかかりてぞ罪もなぎさへみちびかるべき
                 (岩波文庫山家集231P聞書集)
            
3 見るもうきは鵜繩ににぐるいろくづをのがらかさでもしたむもち網
            (岩波文庫山家集199P雑歌・新潮1395番)

○水ひたる

 水が涸れていること。

○命に頼む
 
 個体の命を永らえるために、特定のものに頼りきっているという
 こと。1番歌では水のことですが、ここでは精神の世界の飢餓で
 あり、人が生きていくための大切なものの渇望を言っています。

○網のひとめ

 網の目のことです。魚を見る(人の目)ということも同時にかけて
 います。
 私の感覚ではこういう掛け方は好きではありません。論理的に少し
 無理のある掛け方だと思います。

○罪もなぎさへ

 分かりにくい言葉ですが、掛詞として機能しています。本来、魚類
 などに罪などあろうはずは無いのですが、あるものとして見立てて、
 「罪もなき」と「なぎさ」を掛けています。

○鵜縄

 鵜飼の時に鵜につけて鵜匠が持つ縄のことです。
 ここでは、鵜の羽を縄にくくりつけて、魚を驚かせて網に追い込む
 漁具のことであり、漁法のことのようです。

○したむ

 しずくをしたたらせること。しずくが垂れるほどに水などを布類に
 しみこませること。

○もち網

 四方の形の網の四隅に竹をしばりつけていて、その三方を閉じて
 魚を追い込み、魚がかかっていると手で手繰り上げて魚を取り込む
 漁法です。こういう漁法が平安時代にも行われていたことが驚き
 です。
            
 (2番歌の解釈)

 「魚類とても一たび阿弥陀仏を念じれば、人に見かけられ網の
 一目にかかって、罪もなくなる浄土の渚へ導かれるに違いない。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 (3番歌の解釈)

 「見ていても憂くつらく思われるのは、鵜縄に驚いて逃げようと
 する魚を逃すことなく、しずくを滴らせながらすくいあげて捕え
 てしまう持網だよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【色の浜】 (山、171)

 越前「現在の福井県」敦賀市にある地名です。敦賀湾に面した
 「色が浜」のことです。

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1 しほそむるますをのこ貝ひろふとて色の浜とはいふにやあるらむ
           (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1194番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)  

○しほそむる

 (赤い貝が海水を染めているように海の色が赤く見える)という
 ことと、(海水の作用によって貝は赤く染め上げられる)という
 解釈が成立するようです。
 海水の色が部分的に赤く見えるという説の方が自然で説得力が
 あると思います。

○ますほ

 真赭(まそほ)の転化した言葉と言われます。真赭は辰砂
 (水銀と硫黄の化合物)と関係があるという説も見えます。
 いずれにしても赤い土のこと、赤い色のことを指しています。
 赤色染料として用いられた植物の蘇芳(すおう)は、真赭と何か
 しらの関係があるのか分かりかねています。蘇芳は今昔物語にも
 記載されている植物です。しかし(赤い土)に関係するとは思え
 ません。
 最近よく見かける春先にピンク色の小弁花をつけるハナズオウは
 江戸時代に日本に入ってきて、蘇芳と良く似ているのでハナズオウ
 と名付けられたものであり、ここでは関係のない植物です。

○いふにやあるらむ

 ・・・というのであろうか、という意味です。
 西行歌では「いふにやあるらむ」は4首あります。

(歌の解釈)

 「潮の色まで染めるほどの真っ赤な貝を拾うことができるから、
 ここを色の浜と言うのであろうか。」 
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【岩井】

 岩間から自然に湧き出る泉のこと。岩で囲まれた泉のこと。
 わざわざ深く掘っている井戸とは違って、自然に湧き出てくる
 泉という意味合いで使われている言葉です。

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1 山おろしの木のもとうづむ花の雪は岩井にうくも氷とぞみる
           (岩波文庫山家集36P春歌・新潮112番)
             
2 濁るべき岩井の水にあらねども汲まばやどれる月やさわがむ
           (岩波文庫山家集82P秋歌・新潮947番)
             
3 何となく汲むたびにすむ心から岩井の水に影うつしつつ
           (岩波文庫山家集170P雑歌・新潮943番・
                 西行上人集・山家心中集)

○花の雪

 実態は、散ってしまった桜の花弁です。それを雪に見立てています。

○氷とぞみる

 泉に浮かんだ花弁が、氷のように見えるということです。

○月やさわがむ

 水面にきれいに投影されていた月が乱れる、ということを言って
 います。

○影うつしつつ

 泉に自身の姿形を映しながらという意味です。
 (たび・つつ)などの言葉によって、一回性のものではないことを
 表しています。ずっと継続して繰り返されている行為ということ
 であり、そこには単なる日常の習慣とは違う、仏道修行という
 意味を持たせている言葉です。

(1番歌の解釈)

 「山から強い風が吹き下して木の下を花が埋めると雪が積もった
 ように見えるが、岩間の清水に花が浮かべは氷が張ったように
 見える。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「何ということなしに、汲むたびに澄む心だなあ。岩間から湧き
 出る水に姿をうつしながら。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【岩かげ草】

 岩の影に生えている草という意味で、特定の植物を指していま
 せん。
 ただし、和歌文学大系21では(菅=すげ)の可能性もあるそう
 です。

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1 わけ入りて誰かは人の尋ぬべき岩かげ草のしげる山路を
           (岩波文庫山家集166P雑歌・新潮956番)
           
○誰かは人の

 不特定の誰かが西行を訪ねてきて欲しいという願望を表して
 います。
 ところが新潮版では「誰かは人の」が「誰かは人を」になって
 います。この場合は「人」は西行自身を指します。

 (歌の解釈)

 「こんな奥山に分け入ってまで一体誰が訪ねてくるものか。
 山路はじめじめしていて、岩陰に生えるすがが生い茂っている。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「岩陰に草がおい茂る山路を分け入って、一体誰が自分を訪れ
 ようか、そんな人はいない。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)   

【岩かげの露】 (山、212)

  (岩かげ=岩陰・石影)は京都市にあった地名ですが、江戸時代
 初期には消滅してしまいました。
 金閣寺の東北、左大文字山の東麓付近を指していた地名です。
 現在の京都市北区衣笠鏡石町にあたります。
 このあたりには一条天皇と三条天皇の火葬塚もあります。蓮台野
 の西方にありますので、平安時代には葬送の場として位置付け
 られていたようです。
 「露」は普通は「露のようにはかなく消えていく人間の命」その
 ものを表す言葉ですが、ここではそれとともに「陽の射さない岩
 の影の露はなかなか消えなくて、人にも気づかれない」という
 意味も含んでいるようです。
 
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1 しにてふさむ苔の莚を思ふよりかねてしらるる岩かげの露
           (岩波文庫山家集212P哀傷歌・新潮850番・
             西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

○苔の筵

 自生している苔を筵にみたてています。行き倒れ、野垂れ死に
 ということを暗示しています。

○かねてしらるる

 「一般的に広く知られている事柄」と解釈してしまいました。
 でもそれでは微妙に歌の真意にたどりつけないようです。
 ここでは、自分の死のその時を何度も思い浮かべたこと、自分で
 考えたこと、そのものを指しているようです。

 (歌の解釈)

 「死んでから伏すであろう苔の筵のことを思うと、生きている
 今から、その倒れ伏す岩陰の露が思い知られるよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「死んだらふかふかの苔の上に倒れ込みたいと思うが、人目に
 つかない岩陰でいつまでも朽ち果てずに遺骸のままいるような
 気もする。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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◎ 身を知れば哀とぞ思ふ照日疎き岩陰山に咲ける卯花
                  (藤原俊成 長秋詠藻) 

◎ 岩陰の烟を霧にわきかねて其夕くれの心地せし哉
                   (藤原資業 玉葉集)

【岩倉】

 京都市左京区にある地名です。
 岩倉の地名は平安京遷都の年にできたようです。平安京造営の
 時に国家鎮護の為に京域の四方の山上に一切経を納めました。
 そして、東西南北の名を冠した四個の岩倉が造られました。
 その時から岩倉という地名で呼ばれ出したそうです。
 磐自体を神の依り代と考えて崇拝の対象とする古代神道による
 磐座信仰も、この地では見られたようです。岩倉では山住神社の
 巨石がこれにあたり、神石として崇拝されたということです。
 いつごろの時代からの信仰なのかよく分かりません。880年には
 石自体が従五位下の位階を受けているという記録があります。
  
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  いはくらにまかりてやしほの紅葉見侍りけるに、あやなく
  河の色に染みうつしけるを見て

 岩倉や八入染めたるくれなゐを長谷川におしひたしつる
               (松屋本山家集冬歌・夫木抄)

○やしほの紅葉

 何度も紅の染料につけて深紅に染め上げたような色の紅葉。

○あやなく

 ひどく・・・ということ。

○八入

 (やしお)と読みます。地名として「八塩」があります。
 八塩とは「八入(やしお)=布を幾度も染め上げるという意味」から
 きた地名です。岩倉の瓢箪崩山の西南麓にある岡と説明されていま
 すが、歩いてみても、私にはどこなのか、分かりませんでした。
 八塩と言われるほどに紅葉はみごとで「紅を以って染むるに等し」
 とまで言われた紅葉の名所として知られていたところです。
 現在は紅葉の名所ではありません。

○長谷川

 左京区の瓢箪崩山の西南麓にある岩倉長谷町を流れている小川です。
 長谷町は藤原公任が出家後に隠棲した所です。公任の「和漢朗詠集」
 から取った「朗詠谷」という地名があり、そこが公任の山荘の跡だと
 いわれています。しかしながら、公任はここで「和漢朗詠集」を編ん
 だものではなく、出家前に完成させています。

○おしひたしつる

 押して浸すこと。押して水などに浸けること。

 (歌の解釈)

 「いわくらに来てみると、折角、山で色深く染めている紅葉を
  ながたに川に惜しげもなくおしひたしていることよ」
          (渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

 「岩倉の紅葉は幾度も染め汁につけた紅の布を長谷川に浸した
  ようだ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

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◎ うごきなきいはくらやまにきみがよをはこびおきつつちよをこそつめ
                  (詠み人知らず 拾遺集)

◎ のりのためいとど深くぞおもほゆる水も心もすめるながたに
                  (藤原公任 藤原公任集)

◎ 色ふかきやしほのをかのもみぢばに心をさへもそめてけるかな
                  (藤原頼輔 藤原頼輔集)

【岩代】

 紀伊の国の歌枕。地名です。現在の和歌山県日高郡南部町岩代です。
 万葉集巻二にある有馬皇子の歌で有名になった地名です。

 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む
               (有馬皇子 万葉集巻二0141番)

 真幸は(まさき)、亦は(また)と読みます。
 この歌を本歌として、「結ぶ」「松」などの言葉を用いて多くの
 歌が詠まれました。
              
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1 いはしろの松風きけば物を思ふ人も心はむすぼほれけり
           (岩波文庫山家集152P恋歌・新潮612番・
             西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

○むすぼほれ

(結「むす」ぼる)と同義。
 1 むすばれて解けにくくなる。
 2 露などがおく、凝る、かたまる。
 3 気がふさいではればれしくない。ふさぐ。
 4 関係をつける。縁をつなぐ。
            (岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)
 
 心が鬱屈して晴れない。「岩代の松」の縁語。結んだ松が解け
 ないように、心も絡まり合ってわけがわからなくなる。
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (歌の解釈)

 「幸いを祈る結び松で有名な、また有馬皇子の結び松のことが
 思われる磐代の松―その松風の音を聞くと、恋しい人を待ちこが
 れてもの思う人も、松の枝を結んで幸いを祈ろうとしつつも、
 心は一層乱れ、晴れぬ思いのつのることだよ。」
            「新潮日本古典集成山家集から抜粋」

 「岩代の松風を聞くと、そのあまりの寂しさに、恋の物思いに
 沈んでいた人も一層心が思い乱れて晴れることがない。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

 (有馬皇子)

 640年〜658年。第36代孝徳天皇皇子。謀叛の罪で19歳にて刑死。
 645年に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は蘇我氏を滅ぼ
 して、大化の改新がなされました。そして同年に孝徳天皇が即位
 しました。
 中大兄皇子は舒明天皇の皇子であり、有馬皇子とは従兄弟の関係
 に当たります。
 653年、中大兄皇子は孝徳天皇とは不仲になりました。難波宮に
 天皇を置き、皇極上皇 姉で孝徳帝の皇后である間人皇女などと
 共に飛鳥に戻りました。孝徳天皇崩御はその翌年、654年10月。
 中大兄皇子にとっては、皇位継承の有力皇子である有馬皇子が
 目障りのはずでしたから、廷臣の蘇我赤兄と図って、有馬皇子に
 謀叛の罪があるようにでっち上げて殺した・・・というのが真相
 でしょう。現在の海南市藤白で絞首されたとのことです。
 
 (有馬皇子の歌の解釈)

 「自分はかかる身の上で磐代まで来たが、いま浜の松の枝を結ん
 で幸を祈って行く。幸に無事であることが出来たら、二たびこの
 結び松をかえりみよう。」
               (斉藤茂吉 万葉秀歌から抜粋)

 万葉集巻一に下の歌があります。

 君が代も我が代も知れや磐代の岡の萱根をいざ結びてな
          (中皇命(間人皇女) 万葉集巻一0010番)

 この歌は有馬皇子に対しての挽歌ともいえます。
 作者は中皇命とありますが、これには間人皇女と斉明天皇の両説
 があります。有馬皇子にとっては斉明天皇(皇極天皇が重祚して
 斉明天皇となります)は伯母、間人皇女は従兄弟にあたり、かつ、
 父の孝徳帝の皇后です。そういう立場の二人が挽歌めいた歌を
 詠むものだろうか・・・という疑問も私にはありますが、どちら
 かが儀礼的に詠んだとしても不思議ではないと思います。
 尚、舒明天皇と斉明天皇の子が古人大兄皇子、中大兄皇子、間人
 皇女、大海人皇子です。
 
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◎ つばさなす あり通ひつつ 見らめども 人こそしらね 松は知るらむ
               (山上憶良 万葉集巻二145番)

◎ 藤白の み坂をこゆと 白たへの わがころも手は ぬれにけるかも
             (詠み人知らず 万葉集巻九1675番)    

◎ のち見むと 君がむすべる 岩しろの 小松がうれを また見けむかも
                    (柿本人麿 人麿集)

◎ かくとだにまだいはしろのむすびまつむすぼほれたるわが心かな
                   (源顕国 金葉集401番)

◎ 恋しともまだいはしろのむすびまつとけぬおもひをしる人ぞなき
                      (慈円 拾玉集)

◎ 行末は今いく夜とかいはしろの岡のかや根にまくら結ばむ
                (式子内親王 新古今集947番)

【岩田】 (山、119)

 紀伊の国にある地名。和歌山県西牟婁郡上富田町岩田。
 白浜町で紀伊水道に注ぐ富田川の中流に位置します。中辺路経由
 で熊野本宮に詣でる時の途中にあり、水垢離場があったそうです。
 岩田では富田川を指して(岩田川)とも呼ぶようです。

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 夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所にすずみて、下向
 しける人につけて、京へ同行に侍りける上人のもとへ遣しける

1 松がねの岩田の岸の夕すずみ君があれなとおもほゆるかな
         (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1077番・
          西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

○熊野

 広義には和歌山県と三重県にわたる東西南北の牟婁郡の総称です。
 この歌の「熊野」とは、熊野本宮大社を指しています。

○下向

 普通は都から地方に行くことを下向といいます。
 ここでは高いところから低い所に向かうことを言いますが、
 熊野本宮、熊野権現に参詣した人たちの帰りという意味も重ねて
 いるものと解釈できます。

○同行に侍りける上人

 しばしば一緒に旅をしている西住上人のことです。
 新潮版での詞書は「同行に侍りける上人」ではなくて「西住上人
 の許へ」となっています。

○松がね

 松の木の根のことです。
 この歌の場合は「松が根」という言葉は、岩田という名詞を導き
 出すための枕詞的用法として用いられています。
 西行歌には「松が根」は4首ありますが、この歌のみが「岩田」
 の名詞を導き出す形で詠まれています。
 他の「松が根」歌は以下です。

 波ちかき磯の松がね枕にてうらがなしきは今宵のみかは
          (岩波文庫山家集140P羇旅歌・新潮1053番)
 
 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
         (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1054番・
        西行上人集・山家心中集・続拾遺集・西行物語)

 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
          (岩波文庫山家集260P聞書集・夫木抄)

○おもほゆるかな

 思われること。思える、ということ。
          
 (歌の解釈)

 「熊野詣での途中、岩田の岸で夕涼みをして、あなたと一緒で
 あったらなあと、しきりに思われることですよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「松の根が岩を抱える岩田川の川岸で水垢離を取った。身も清め
 られたが、暑気を払う夕涼みとしても心地よかった。君も一緒
 だったら、と思ってしまいましたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 この中辺路ルートを通っての熊野詣では下の歌にもあります。
 下の歌は春の桜の頃ですので、同じルートを通って少なくとも
 二度は熊野本宮に行ったということになります。

  熊野へまゐりけるに、やかみの王子の花面白かりければ、
  社に書きつける

 待ちきつるやかみの櫻咲きにけりあらくおろすなみすの山風
         (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮98番・
        西行上人集・山家心中集・夫木抄・西行物語)

【岩根】

 岩の根元のこと。不動の根のように大地にしっかりと納まって
 安定している岩。土から盛り上がっている、どっしりとした岩。
 「岩根踏み」「岩根松」という形で多くの歌が詠まれています。
 「岩根松」は常盤木の松としっかりとした岩との組み合わせに
 より、万代を寿ぐ賀歌として詠まれています。
 「岩根」の「根」は接尾語とも言われます。

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1 宮ばしらしたつ岩ねにしきたててつゆもくもらぬ日の御影かな
           (岩波文庫山家集124P羇旅歌261P聞書集・
              西行上人集・新古今集・西行物語)

2 山高み岩ねをしむる柴の戸にしばしもさらば世をのがればや
      (岩波文庫山家集128P羇旅歌・西行上人集追而加書)

3 みもすその岸の岩根によをこめてかためたてたる宮柱かな
          (岩波文庫山家集225P紳祇歌・新潮1532番)
            
4 いかでわれ谷の岩根のつゆけきに雲ふむ山のみねにのぼらむ
                (岩波文庫山家集244P聞書集)
             
5 谷のまも峯のつづきも吉野山はなゆゑ踏まぬ岩根あらじを
                (岩波文庫山家集249P聞書集)
             
6 いまもされなむかしのことを問ひてまし豊葦原の岩根このたち 
                (岩波文庫山家集261P聞書集)
          
7 神路山岩ねのつつじ咲きにけりこらがまそでの色にふりつつ
             (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
             
8 岩のねにかたおもむきに波うきてあはびをかづく海人のむらぎみ 
                  (岩波文庫山家集116P羇旅歌・新潮1377番)
             
9 苔うづむゆるがぬ岩の深き根は君が千年をかためたるべし
           (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1172番・
                   西行上人集・続古今集)

○宮ばしら

 皇居の柱、宮殿の柱、神殿の柱などをいいます。

○したつ岩ね

 (下つ)のことで(つ)は格助詞です。(の)と同様の働きを
 しますが、(の)よりも用法が狭く、多くは場所を示す名詞の
 下に付きます。
 (したつ岩ね)で、下の方の岩、底の方の岩になります。
 岩盤のことです。

○つゆもくもらぬ

 少しも曇りの無いこと。伊勢神宮の御威光をいいます。

○岩ねをしむる

 助動詞(しむ)の活用形では無理がありますので、(占める)の
 活用形という解釈で良いと思います。
 庵の一部分に岩をそのまま用いているということかと解釈でき
 ますが、よく分かりません。

○みもすそ川

 御裳濯川。内宮の五十鈴川の別名。
 伝承上の第二代斎王の倭姫命が、五十鈴川で裳裾を濯いだという
 言い伝えから来ている川の名です。

○つゆけきに

 露を含んでいること。露に濡れていること。

○豊葦原

 記紀神話にある日本の国名の美称。「豊葦原瑞穂の国」と言い
 ます。
     
○神路山

 伊勢神宮内宮の神苑から見える山を総称して神路山といいます。
 標高は150メータから400メータ程度。

○こらがまそで

 こら=物忌の子を(小良)という。
 (物忌)物忌には大物忌、物忌父、小良があり、宮守、地祭り
 などの御用を勤めるもので、童男女を用いた。
            (和田秀松著「官職要解」を参考)
(こらがまそで)は(小良)の(真袖)のことです。

○かたおもむき

 心を一方にばかり傾けて他を顧みないということ。
 ここでは海人達が一方向だけを向いている様子。
 
○海人のむらぎみ

 群れている海人達、複数の海人達の意味。

○苔うずむ

 苔が岩を覆い尽くしている状態。悠久という時間的な概念を
 指しています。

 (1番歌の解釈)

 「宮柱を地下の岩根にしっかりと立てて、少しも曇らない日の
 光が射す、神宮の御威光よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (3番歌の解釈)

 「御裳濯川の岸の岩根に、君の千代八千代をかけて祈願し、
 しっかりと固め立てた宮柱であるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (6番歌の解釈)

 「今もそうであろうよ。昔の通りであろうか、昔のことも問うて
 みたいものだ。大昔から存在するこの日本の国の岩や木などに。」
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

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◎ 岩ねふみ重なる山にあらねども逢はぬ日おほく恋ひわたるかな
               (在原業平 伊勢物語第74段)

◎ かすがやまいはねの松はきみがためちとせのみかはよろずよぞへむ
                (能因法師 御拾遺集452番)   

【岩枕】

 岩を枕とすることです。旅の途上での野宿を意味しています。
 岩枕はこの一首しかありません。同じく野宿を意味する「草枕」
 歌は4首あります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1 波とみる花のしづ枝のいはまくら瀧の宮にやおとよどむらむ
           (岩波文庫山家集279P補遺・夫木抄)

○しづ枝

 植物の下枝のことです。上枝を(ほつえ)、中枝を(なかつえ)
 といいます。

○瀧の宮

 この歌は「伊勢にて」との詞書があります。
 内宮の別宮で、宮川の上流の三重県度会郡大宮町にある滝原宮の
 ことだと言われます。滝原宮そのものを「瀧の宮」と呼ぶよう
 です。   
 目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」では「瀧の宮」と「滝原宮」
 を同義とされています。(395ページ)

 (歌の解釈)

 「波のように白く見えている桜の花の下枝のあたりの岩に沈して
 旅寝している、その滝の宮では、はげしい滝の音もよどみ静まる
 ことであろう。(この歌の解不十分、後考を待つ。)」
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
       
【いはれ野】

大和の国の歌枕。奈良県磯城郡、高市郡、桜井市にわたる地域の
 古名。現在の桜井市西部から橿原市東部にかけての範囲を指し
 ます。
 多くの歌は(磐余=いわれ)と(言われ)にかけており、萩、荻
 女郎花、薄などの植物が詠み込まれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1 いはれ野の萩が絶間のひまひまにこの手がしはの花咲きにけり
        (岩波文庫山家集58P秋歌・新潮970番・夫木抄)
            
2 ねざめつつ長き夜かなといはれ野に幾秋までも我が身へぬらむ
            (岩波文庫山家集63P秋歌・新潮293番)
            
○絶間のひまひま

 萩が連なって咲いているのではなくて、間を空けて咲いていて、
 その萩と萩の間あいだに、児の手柏の花が咲いているということ。

○この手がしは

 和歌文学大系21によると万葉集所収歌にある「児の手柏」は、
 (おおどち「オトコエシ=男郎花」の古名)の異名とのことです。
 ネットや辞書で調べてみましたが、児の手柏がオトコエシである
 という資料には行き当たりませんでした。
 (おおどち)とは無論、トチノキのことではないでしょう。

 ここでは「この手がしは」の花が咲いているのは萩と同時期と
 いうことであり、春に開花する児の手柏とは異なります。
 児の手柏の歌はもう一首ありますが、西行歌にある児の手柏は
 現在言われている児の手柏と同一ではなくて、別種の植物である
 と解釈できます。しかしそれがどの植物なのか実体は不明という
 しかありません。
 
 いちごもるうばめ媼のかさねもつこのて柏におもてならべむ
           (岩波文庫山家集260P聞書集・夫木抄)

(オトコエシ)
オミナエシ科の多年草。山地に広く自生しオミナエシに似るが、花
は白く、茎、葉に毛が多い。花期は夏から秋。おとこめし。漢名、
敗しょう。
            (岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)

(コノテガシワ)
ヒノキ科の常緑潅木、または小喬木。中国・朝鮮に自生し、古く
から庭木とする。高さ2〜6メートル。
葉はヒノキに似て鱗片状で表裏の別なく枝が直立、扁平で掌を立て
たようである。花は春開き単性で雌雄同株。種鱗の先端が外方に
巻いた球果を結ぶ。
種子を滋養強壮剤とする。
            (岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)

ヒノキ科の常緑小喬木。小枝全体が平たいてのひら状になる。葉は
うろこ状で、表裏の区別がないところから二心あるもののたとえと
された。一説、コナラ・カシワの若葉。またトチノキともいう。
                 (岩波古語辞典から抜粋)

 (1番歌の解釈)

 「磐余野には古来有名な萩が咲き誇るが、その間隙を埋め尽す
 のは、へつらいへつらい揉み手をするように咲く、無名の
 おとこえしの白い花である。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 (2番歌の解釈)

 「年をとり老いの寝覚をするようになって、思わず長い秋の夜
 だなあと言われるが、それにしても幾秋わが身はこの「いはれ野」
 で経たことであろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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◎ 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨をけふのみ見てや雲かくりなむ
            (大津皇子 万葉集巻三416番)

◎ なき名のみ磐余の池のみぎはかなよにもあらしの風もふかなん
                 (柿本人麿 人麿集)

◎ なきなのみいはれののべの女郎花露の濡衣きぬはあらじな
                  (源頼政 頼政集)

【院】

 山家集の中の、一院は鳥羽帝、新院は崇徳帝、院は後白河帝を
 指します。「院の小侍従」といえば「後白河院の小侍従」のこと
 であり、後白河院に仕えていた女房の「小侍従」を言います。

 ただし110ページにある
 「讃岐にまうでて、松山と申す所に、院おはしましけむ」の院は
 崇徳上皇を指しています。

 (後白河天皇)

 第77代天皇。1127年〜1192年。66歳で崩御。
 父は鳥羽天皇、母は待賢門院璋子。兄に崇徳天皇、姉に統子
 内親王、弟に覚性法親王、義弟に近衛天皇など。
 子に二条天皇、高倉天皇、以仁王、亮子内親王、式子内親王
 などがいます。
 夭折した近衛天皇の後を継いで1155年に即位しました。立太子を
 経ていませんでしたから、本人も予想だにしなかった天皇位に
 ついたものでしょう。1158年には二条天皇に譲位して、以後は
 後鳥羽帝の時代まで長く院政を執りました。
 後白河の存命中は激動の時代でした。
 1156年保元の乱。1159年平治の乱。以後の平家の専横。源平争乱。
 鎌倉幕府成立。
 このような厳しい時代にあって、たとえば源平争乱時の右顧左眄
 と見られる姿勢が多かったのも、なんとかして新しい勢力を操縦
 しょうと腐心したからに他ならないでしょう。老獪であったとも
 言えます。
 今様歌謡集の「梁塵秘抄」を編んでいます。

 「遊びをせんとや生まれけむ
  戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声聞けば
  我が身さへこそゆるがるれ」
 
 この歌は梁塵秘抄歌のうち、最も知られている歌だといえます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

  承安元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひけるついでに、住吉
  に御幸ありけり。修行しまはりて二日かの社に参りたりけるに、
  住の江あたらしくしたてたりけるを見て、後三條院の御幸、
  神も思ひ出で給ふらむと覚えてよめる

1 絶えたりし君が御幸を待ちつけて神いかばかり嬉しかるらむ
         (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1218番・
                 西行上人集・山家心中集)

○承安元年

 1171年のことです。この年、嘉応の元号は1171年4月21日まで、
 同年同日から承安元年となります。第80代高倉天皇の治世に
 あたります。高倉天皇は後白河天皇の皇子です。
 後白河院は5月29日に京都を立ち、6月1日に住吉大社に詣で、
 熊野に向かい、京都に帰りついたのは6月21日ということです。
 西行は1171年6月2日に住吉大社に参詣したことになります。

○住吉

 摂津の国の歌枕。住吉大社をいいます。摂津の国の一宮です。
 西行の時代は海に面していたものと思われます。

○あたらしくしたてたり

 社殿が新しく造りかえられたことをいいます。

○後三條院

 第71代天皇。1034年〜1073年。40歳で崩御。
 後三條院の1073年2月。母の陽明門院と岩清水・住吉・天王寺に
 御幸しています。同年5月、後三條院没。

 (1番歌の解釈)

 「後三條院の親拝以来絶えていたが、この度の後白河院の御幸を
 待ち迎えられ、住吉明神はどんなに嬉しく思っておいでのこと
 だろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【院の小侍従】 (山、200)

 岩清水八幡宮別当の紀光清の娘。生没年未詳。1122年頃の誕生、
 1200年頃に没したと見られています。80歳以上の高齢ということ
 ですから、当時とすれば長く生存した女性です。
 1160年、二条天皇に仕え、その後は二条天皇と六条天皇の后で
 あった藤原多子(まさるこ)に出仕し、太皇太后宮小侍従となって
 います。後には高倉天皇の女房として仕えたようです。

 小侍従と後白河院との関係は分かりませんが、後白河天皇が譲位
 して後白河上皇になる以前に、後白河帝の寵愛を受けたということ
 をネットで散見しました。「院の小侍従」という表記は、そういう
 関係からきているものでしょう。
 西行との贈答歌のある時代ははっきりとは分かりませんが、二条
 天皇に仕える前の30歳代後半だろうと思われます。
 以後、院の小侍従は頻繁に歌会などにも参加していますので健康
 を取り戻したものと思われます。琴の名手でもあり、歌によって
 「待宵の小侍従」とも評されました。

 新古今集や千載集の勅撰集歌人であり、家集に小侍従集があり
 ます。西行の入寂を悼んでの挽歌らしき歌も詠まれています。

 ちらぬまはいざこのもとに旅寝して花になれにしみとも偲ばむ
                  (小侍従 360番歌合)
          (主に有吉保著「和歌文学辞典」を参考)

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  院の小侍従、例ならぬこと、大事にふし沈みて年月へにけりと
  聞きて、とひにまかりたりけるに、このほど少しよろしきよし
  申して、人にもきかせぬ和琴の手ひきならしけるを聞きて

 琴の音に涙をそへてながすかな絶えなましかばと思ふあはれに
          (岩波文庫山家集200P哀傷歌・新潮922番・
                   西行上人集・玉葉集)

  かへし(院の小侍従の歌)

 頼むべきこともなき身を今日までも何にかかれる玉の緒ならむ
    (岩波文庫山家集200P哀傷歌・新潮923番・西行上人集)
             
○例ならぬこと

 病気ということです。特に重篤な病気を指します。
 
○ふし沈みて年月へにけり

 病に伏して一年以上は経っているということ。
 玉葉集では「月頃へにけり」とありますので、数ヶ月間、病床に
 あったのかもしれません。
 小侍従はこの後は元気になって長生きしています。

○とひにまかりたり
 
 病床をお見舞いしたということ。

○人にも聞かせぬ

 琴の名手といわれた小侍従が西行にだけ秘曲を聞かせたという
 ことです。

○玉の緒ならむ

 魂を身体につないでおく緒という意味で人の命そのものを指して
 います。

 (歌の解釈)

 「あなたの和琴を聞いておりますと、感激のあまり涙までが曲に
 合わせて流れ出るようです。あなたにもしものことがあって、この
 秘曲を弾く人がいなくなったらどうしょうかと思いましたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (かへし歌の解釈)

 「もう長くはない命と思っておりましたが、あなたの前で琴が
 弾けるなんて、今日まで生きていただけのことがありました。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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◎ 待つ宵に更けゆく鐘の聲聞けばあかぬわかれの鳥はものかは
                (小侍従 新古今集1191番)

◎ 思ひやれ八十ぢの年の暮れなればいかばかりかはものは悲しき
                 (小侍従 新古今集696番)

◎ 君恋ふとうきぬる魂のさ夜ふけていかなる棲にむすばれぬらん
             (太皇太后宮小侍従 千載集924番)

【院の少納言の局】 (山、180・209)

 少納言信西の女。建春門院(後白河天皇女御)に出仕。「建春門院
 中納言日記」によれば阿闍梨覚堅の妹。
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 生没年未詳。建春門院少納言。この時点では後白河院女房。少納言
 藤原実明(季仲男)女。「言葉集」に左京太夫修範とのと恋の贈答
 があり、紀伊二位没時には修範室として服喪したか。但し、保延
 元年(1135)より待賢門院女房であり、紀伊二位と同世代か。祖父
 と推定される季仲と夫(恋人)の修範とは生年に百年ほどの差が
 ある。一説に少納言通憲(信西)女ともいう。
                  (和歌文学大系21から抜粋)

 「西行の研究」の窪田章一郎氏も院の少納言の局は藤原信西と
 二位の局の間に生まれたとしています。
 ところがここに一つ疑問がでてきます。後述します。

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   同じ日、くれけるままに雨のかきくらし降りければ

1 哀しる空も心のありければなみだに雨をそふるなりけり 
        (岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮829番)

2 哀しる空にはあらじわび人の涙ぞ今日は雨とふるらむ
                     (院少納言局)
         (岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮830番)
 
 此集を見て返しけるに
                    
3 卷ごとに玉の聲せし玉章のたぐひは又もありけるものを
                     (院少納言局)
         (岩波文庫山家集180P雑歌・新潮1351番)

4 よしさらば光りなくとも玉と云ひて言葉のちりは君みがかなむ
         (岩波文庫山家集180P雑歌・新潮1352番)

○かきくらし
 
 空いっぱいが雲や雪に覆われていて、かき乱されたように暗く
 なっている状態のこと。

 (掻き暗らさるる)こと。空を暗くするとか、心が悲しみで
 暗くなる、という意味があります。
 古典的な用い方ではないはずですが、日本語大辞典では
 「掻き暮れる」「掻き昏れる」ともあって、「掻き暗す」とほぼ
 同義です。
                 
○空にはあらじ

 空ではない・・・という意味。

○此集
 
 岩波文庫山家集156Pからの「恋百十首」歌を指しているという
 解釈と山家集そのものを指しているという解釈の両方があります。
 「巻ごと」とある以上は山家集を指しているように思います。
 
○巻ごと

 山家集の各巻を指しているものと思います。

○玉の聲

 美しく、大切な言葉であり、すばらしい歌であるということ。

○玉章

 (たまずさ)と読みます。優れた文章のこと。ここでは西行の
 歌を言います。

○言葉のちり

 一首のなかにおける言葉の欠点を指しています。不要な言葉、
 ふさわしくない言葉ということです。

 (1番歌の解釈)

 「空もあわれを知る心があるので、別れの涙に添えて雨まで降ら
 せることであるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (2番歌の解釈)

 「あわれを知る空が雨を降らせたとのことですが、そうではあり
 ますまい。亡き人を偲び嘆きに沈んだ私達の涙が、今日の雨と
 なって降ったのでありましょう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (3番歌の解釈)

 「拝見した山家集はどの巻からも金玉の如き美しい和歌が見出さ
 れます。現代にもこんな素晴らしい歌集があったのですね。もっと
 早く気付くべきでした。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 (4番歌の解釈)

 「拙い私の歌をご覧になられ、光りなどありませんのに玉とお褒め
 いただけるのでしたら、いっそのこと、拙い所々をあなたの手で
 お直しになり、本当の光になるように磨いていただけませんか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 (巻ごとに・・・歌の詞書について)

 岩波文庫山家集では「此集を見て返しけるに」という簡単な詞書
 ですが、新潮版では以下のように長い詞書です。

 「この歌、題もまた人にかはりたることどもも、ありげなれども、
 書かず
 この歌ども、山里なる人の語るにしたがひて、書きたるなり。
 されば僻事どもや、むかしいまの事とり集めたれば、時折節たが
 ひたることども」

 ただし岩波文庫山家集では同じ意味の詞書が164ページの恋歌中
 にあります。「あふとみし・・・」歌の次にこの詞書があること
 は岩波文庫山家集の底本である類題本も同様です。
 類題本では松本柳斉の添え書きと見られる以下の文言があります。

 「コノ注雑下恋百十首ト云ニ書ソヘタリ ヨテソレニシタカヒテ
 ココニイタス愚考大本再出ニクハシク云ヘシ」

 この詞書だけを見るなら、詞書の置かれている位置などを考えると
 「恋百十首歌」を指していると言うしかないと思います。
 新潮版ではこの詞書の次に「巻ごとに・・・」歌があって、それ
 ゆえに山家集を指すか、恋百十首を指すのか断定できずに、混乱
 するのだろうと思います。
 「巻ごとに・・・」歌とは関係のない詞書であろうと思います。

 (院の少納言の局について)

 院の少納言の局は1159年平治の乱で没した藤原通憲と院の二位の
 局との間の娘といわれます。兄弟に藤原茂範(しげのり)、藤原
 修範(ながのり)、阿闍梨覚堅などがいます。仁和寺の明遍や
 建礼門院に仕えた阿波内侍などもそうです。

 これが正しいとするなら、なぜに「院」としたのか疑問が残り
 ます。少納言の局は後白河院に仕えたことがあるのかどうか、
 私には分かりません。
 後白河院女御である建春門院に仕えて建春門院少納言の局となる
 のですが、その場合の表記は「建春門院少納言」若しくは単に
 「少納言の局」とするべきだと思います。「院」とする以上は、
 後白河院にも仕えたことがあるのではなかろうかと思います。
 
 たとえば「慈円」が後世の人の手によって「慈鎮」と改められた
 ように、少納言の局もなんらかの理由で後の人によって「院」が
 書き加えられたという可能性も排除できないように思います。
 この件について詳しくご存知の方はご教示していただきますと
 大変嬉しいことです。
 
【院の二位の局】 (山、208)

 紀伊守藤原兼永の娘の朝子のこと。父親の官職名で「紀伊」と
 呼ばれます。
 藤原通憲(入道信西)の後妻。藤原成範、脩範の母。待賢門院の
 女房の紀伊の局のこと。
 後白河院の乳母。従ニ位になり、紀伊ニ位、院の二位とも呼ばれ
 ます。1166年1月に没して、船岡山に葬られました。

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   院の二位の局身まかりける跡に、十の歌、人々よみけるに

1 流れゆく水に玉なすうたかたのあはれあだなる此世なりけり
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮817番・
               西行上人集追而加書・玉葉集)

2 きえぬめるもとの雫を思ふにも誰かは末の露の身ならぬ
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮818番・
                  西行上人集・西行物語)

3 送りおきて帰りし道の朝露を袖にうつすは涙なりけり
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮819番・
        西行上人集・山家心中集・新千載集・万代集)

4 船岡のすそ野の塚の数そへて昔の人に君をなしつる
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮820番・
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

5 あらぬよの別はげにぞうかりける浅ぢが原を見るにつけても
     (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮821番・西行物語)
                 
6 後の世をとへと契りし言の葉や忘らるまじき形見なるらむ
         (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮822P・
                 西行上人集・山家心中集)

7 おくれゐて涙にしづむ古里を玉のかげにも哀とやみる
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮823番)
                 
8 あとをとふ道にや君は入りぬらむ苦しき死出の山へかからで
          (岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮824番)
                 
9 名残さへ程なく過ぎばかなしきに七日の数を重ねずもがな
          (岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮825番)                         
10 跡しのぶ人にさへまた別るべきその日をかねて知る涙かな
          (岩波文庫山家集209P哀傷歌・新潮826番)
                
○もとの雫

 死亡した二位の局を指しています。根本の雫(露)という意味
 であり、(末の露)という言葉と対比させています。
 親子としての親を(もとの雫)と言っているものです。

○送りおきて

 葬送して・・・ということ。野辺の送りを済ましたということ。

○船岡

 京都市にある船岡山のことです。平安時代は遊興と葬送の地で
 した。現在も荼毘に付されたとおぼしき所が西の斜面に点々と
 残っています。

○七日の数

 仏教では死者は7日ごとに77日まで、次の世を得る事ができると
 言われてます。
 一般的には死後49日間を指し、中陰とか中有と言われます。

 (1番歌の解釈)

 「流れて行く水に玉となって浮ぶ泡がすぐ消えてしまうように、
 あわれではかないこの世であることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (4番歌の解釈)

 「船岡山の裾野の墓地に新しい墓を一つ加えて、故人の列にあな
 たを入れることになってしまった。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (7番歌の解釈)

 「あなたに先立たれた遺族が泣き暮らす旧宅を、霊になったあな
 たも悲しみのうちに見守っていらっしゃるのでしょう。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 近衛天皇が1155年に崩御して、次に後白河天皇が即位しています。
 この新天皇即位の時に後白河院の乳母であった二位の局は裏で
 活躍したとみられています。
 次の年、1156年に鳥羽帝が崩御すると保元の乱が起きました。
 結果、白川北殿に拠っていた崇徳上皇は敗れて、仁和寺に入り、
 次に讃岐に配流となりました。乱後の一連の処理が二位の局の夫
 である信西入道の主導によって進められました。
 後白河天皇の信任を得て、平清盛とも結びついた信西は実権を
 掌握し専制的な政治を行いました。
 1159年に起こった平治の乱は保元の乱の戦後処理に端を発して
 いるともいえます。

 反信西の勢力が強くなって、その葛藤が平治の乱につながって
 いきます。
 藤原信頼や源義朝らの勢力の起こした反清盛、反信西という性格
 の強い平治の乱は1159年12月に起きました。結果だけ言えば、
 信西は宇治田原の山奥で自害、藤原信頼は六條河原で斬首、義朝
 は尾張内海で斬殺され、ひとり清盛だけが、権力を手中にする
 ことになり以後は平氏の天下となります。
 この激動の時代を、二位の局は生き抜いたことになります。
 崇徳天皇と親しかった西行とは立場が違いますが、それでも立場
 の違いを超えて、二人は親しい関係を保っていたものでしょう。
 そうでないと二位の局に対しての十首歌など、西行は詠まなかった
 だろうと思います。

【殷富門院】

 後白河院第一皇女。亮子(あきこ)内親王のこと。1147年〜1216年。
 母は藤原成子。同母弟に以仁王、妹に式子内親王がいます。
 安徳天皇及び後鳥羽天皇の准母となったために皇后宮に冊立された
 のは1182年。1187年には殷富門院の院号宣下がなされました。
 山家集には殷富門院その人の記述はありません。

【殷富門院大輔】

 生没年未詳。1200年頃、70歳ほどで没したと見られています。
 1150年代には亮子内親王に出仕していたと思われます。
 西行と同時代の歌人であり、俊恵の歌林苑のメンバーとして、
 寂蓮、頼政、隆信、小侍従などとも親交があったようです。
 家集に「殷富門院大輔集」があります。

 西行が下の歌を殷富門院大輔に贈ったのは、1182年以後のことと
 みなしていいと思います。

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  伊勢より、小貝を拾ひて、箱に入れてつつみこめて、皇太后宮
  大夫の局へ遣すとて、かきつけ侍りける
 
1 浦島がこは何ものと人問はばあけてかひある箱とこたへよ
         (岩波文庫山家集184P雑歌・西行上人集・
                    殷富門院大輔集)

○皇太后宮

 天皇の后が皇后、先帝の后が皇太后です。皇太后の住む所が
 皇太后宮。そこの事務などの一切を統率するのが皇太后宮太夫。
 この場合は(だいぶ)と読みます。
 この時、藤原多子(まさるこ=1142〜1201)が1158年から皇太后、
 藤原忻子(よしこ=1155〜1209)も1172年に皇太后となっています。

○皇太后宮太夫の局

 皇太后宮太夫は誤りで、正しくは皇后宮太夫です。
 殷富門院大輔集に西行の(浦島が・・・)歌と、殷富門院大輔
 の返歌があります。亮子内親王は皇太后になってはいませんから
 (皇后宮)で間違いありません。

○浦島

 浦島太郎が亀を助けて竜宮城に行ったという説話のこと。西行の
 時代にはすでに浦島太郎のお話はできていました。浦島の物語は
 日本書紀や万葉集にも記述があるそうですから、古いお話です。
 原典は「丹後国風土記」ではなかったかと思います。

 (1番歌の解釈)

「浦島がこは(これはと籠とをかける)何ですかと(これは何が
 入っているのですか)人が聞いたならば、開けてみて、浦島の
 もらった玉手箱とはちがって、開けがいのある(かひに貝と甲斐
 をかける)(貝の入っている)箱だとこたえてくださいよ。」
          (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 いつしかもあけてかひあるはこみればよはひものぶる心ちこそすれ
               (殷富門院大輔 殷富門院大輔集)

 殷富門院大輔の返歌ですが、この時、殷富門院大輔は相当の高齢
 であったことが歌からも伺えます。

【陰陽頭】 (山、164)

 正確な読みは「おんようのかみ」ですが、この「い」の項で取り
 上げます。
 陰陽頭は陰陽寮の長官のことです。天文暦数を司ることを任務と
 しています。
 飛鳥時代の安倍倉梯麿の家系の安倍家(土御門)、そして吉備真備
 の家系の賀茂家(幸徳井)が、代々世襲してきました。
             (和田英松氏著 「官職要解」を参考)

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  陰陽頭に侍りける者に、ある所のはした者、もの申しけり。
  いと思ふやうにもなかりければ、六月晦日に遣しけるに
  かはりて

1 我がためにつらき心をみな月のてづからやがてはらへすてなむ
           (岩波文庫山家集164P恋歌・新潮1162番)

○侍りける者

 陰陽寮の長官を指すという解釈も可能ですが、ここでは陰陽寮の
 長官に仕える男という解釈が自然です。

○はした者

 身分のない女性のこと。雑用係などをしている女性のこと。

○六月晦日

 6月の最後の日のこと。この日には「六月祓」とか「夏越祓」と
 言われる重要な神事が行われます。すべての罪や穢れを祓うと
 いう意味を持つ神事です。

○かはりて

 歌を代作したということ。

○みな月

(水無月)ということと、(心を見る)ということを掛け合わ
 せて使っている言葉です。

○てづから

  自分の手で。自分から・・・ということ。

 (歌の解釈)             

 「私に冷たくなさるそのあなた自身のお心を、六月祓の今日の
 この日に、ご自身でそっくり祓い浄めて下さいませんか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
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