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おい〜おお おか〜おじ おつ〜おの おば〜おん

【老木】 (山、235)

 年古りた木のことですが、年齢が高くなった人、老いた人という
 解釈で間違いありません。私も老木となりました。

 1番歌の場合は「老木」と書いて「ふるき」のルビが和歌文学大系
 21にあります。ですが、ここではすべて「おいき」とします。

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1 いにしへの人の心のなさけをば老木の花のこずゑにぞ知る
          (岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)
     
2 花の色にかしらの髪しさきぬれば身は老木にぞなりはてにける
               (岩波文庫山家集235P聞書集)

3 昔みし松は老木になりにけり我がとしへたる程も知られて
         (岩波文庫山家集117P羇旅歌・新潮1145番)
       
   老木の櫻のところどころに咲きたるを見て

4 わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春にあふべき
     (岩波文庫山家集26P春歌・新潮94番・西行上人集・
             山家心中集・続古今集・西行物語) 

○かしらの髪

 頭髪のこと。
 僧侶は頭を剃っていますので、西行自身のことである歌なら、
 少しそぐわない気もします。

○昔みし

 昔、見たということ。松は常盤木と言われますが若い頃に見た
 松の木を再び見て、年の隔たりを思っての述懐の歌です。
 詞書によれば、現在の岡山県児島での歌です。
 この歌を上賀茂神社に参詣してからの旅立ちである四国旅行の
 時の歌と解釈するなら、この歌が詠まれた時代(西行50歳)より
 もはるか前の若い頃にも、一度は山陽方面への旅をしたことが
 あったということがわかります。

○わきて見む

 「とりわけ」という意味です。心に思い留めるように格別に
 しっかりと見たいということです。
 「わきて今日」「わきてなほ」などの使い方をしている歌があり
 ます。

(1番歌の解釈)

 「昔の人の風雅な心情を、老木の花の梢を見ることによって
 知るよ。」
 △ 桜の老木が梢に花を咲かせているのを見て、その木を植えた
   昔の人の風雅な心を偲んだか。
                (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「白い花の色に頭の髪が咲いてしまったので、身はすっかり老木
 に成り果てたよ。」
 ○花の色にー白髪になったの意。
                (和歌文学大系21から抜粋)

(4番歌の解釈)

 「桜の老木は格別目をとどめて賞でよう。花をつけることの
 少ない木はわが身同様これから先幾度春にめぐりあえるかと
 あわれ深く感じられるから。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【近江】 (山、124・278)

 現在の滋賀県のこと。静岡県の浜名湖を表す言葉が、都から見て
 「遠つ淡海」で遠江(とおとうみ)、琵琶湖が「近つ淡海」で近江
 (おうみ・あふみ)です。それぞれ旧国名となっています。

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1 近江路や野ぢの旅人急がなむやすかはらとて遠からぬかは
     (岩波文庫山家集124P羇旅歌・新潮1007番・夫木抄) 

1 ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとなきかたにゆく心かな
     (慈円歌)(岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集)

○やすかはら

 琵琶湖東岸の「野洲」の河原と、行き易いという意味を掛けて
 います。それと「遠からぬ」の「遠い」と「近江」の「近い」の
 対照の妙を重ねている歌です。

○近江のうみ

 琵琶湖のこと。日本最大の淡水湖で面積は672平方キロメートル。
 最深度103メートル。湖の形が楽器の琵琶に似ている所から、
 この名称になったようです。

○あとなきかたにゆく心

 朝日を浴びて、一艘の小船が過ぎて行く。航跡もやがては消えて
 いく静かな湖面。そこに人の一生という人生行路を暗示させ、
 そして、澄明な静謐、心の平安というものについてまで想起させ
 ている示唆に富むフレーズです。

(1番歌の解釈)

 「近江路の野路を行く旅人よ。急げ。野洲が原は行きやすそう
 でも遠いよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「ほのぼのとした夜明け方、近江の湖を漕ぐ舟のあとが残らない
 ところ、そこにひかれてゆくわが心よ。」
 (無常にひかれてゆく心の意か。)
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

 ほのぼのとした朝日の中、琵琶湖を漕いで過ぎていく舟の、航跡
 も次第にあとかたもなく消えて行く静かな湖面。
 その光景にわけもなく安らぎを感じて、私の心は無性に惹かれて
 いきます。         (59号から転載、阿部の解釈)

この歌は比叡山の無動寺に慈円を訪ねていった折の贈答の歌です。
下は西行の歌です。

 鳰てるやなぎたる朝に見渡せばこぎゆくあとの波だにもなし
          (岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集)

(慈円)

 慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。
 西行と知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、
 まだ慈円とは名乗っていないと思いますが、ここでは慈円と記述
 します。
 慈円は、摂政関白藤原忠道を父として生まれました。藤原基房、
 兼実などは兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事
 して道快と名乗ります。
 (覚快法親王が1181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
 比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を
 積んだということが山家集からもわかります。このころの比叡山は、
 それ自体が一大権力化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返し
 たり、園城寺や南都の興福寺との争闘に明け暮れていました。
 それは貴族社会から武家政権へという時代の大きなうねりの中で、
 必然のあったことかもしれません。

 このような時代に慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の
 兼実の命によって1192年からですが1196年に兼実失脚によって辞任。
 次は後鳥羽上皇の命で1201年2月から翌年の1202年7月まで。1212年
 と1213年にも短期間勤めています。
 西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人とも呼ば
 れました。善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
 1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚名されました。
 歴史書に「愚管抄」 家集に「拾玉集」などがあります。新古今集
 では西行の九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
      (學藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)
 
 37歳差という年齢の違いを超えて、西行とも親しい関係でした。
 贈答歌も2度あります。西行の歌を最も早く知りえる位置にいた
 歌人の一人です。西行没後、3首の追悼の歌を詠んでいます。

 君知るやその二月(きさらぎ)と言ひ置きて言葉におへる人の後の世

 風になびく富士の煙にたぐひにし人の行方は空に知られて

 ちはやぶる神に手向くる藻塩草かき集めつつ見るぞ悲しき
                     (慈円 拾玉集)

【大井河・大井の淀】

 京都市西部を流れる川です。丹波山地に源流を発し、亀岡市、
 京都市西部を流れ、八幡市で宇治川と木津川と合流し、そこから
 淀川と名を変えて大阪湾に注いでいます。現在ではこのうち、
 京都市の嵐山までを(保津川)、嵐山付近を(大堰川)、渡月橋
 下流を桂川と言います。

 「大井の淀」は、大堰川の淀みのことです。
 西行の時代には、川の水があまり動かない岸近くの淀みには氷が
 張ったのかもしれないと思わせる歌です。

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1 大井河をぐらの山の子規ゐせぎに声のとまらましかば
          (岩波文庫山家集45P夏歌・新潮191番)

2 大井河ゐせぎによどむ水の色に秋ふかくなるほどぞ知らるる
          (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮484番)

3 大井川君が名残のしたはれて井堰の波のそでにかかれる
             (岩波文庫山家集268P残集24番)

4 よもすがら嵐の山は風さえて大井のよどに氷をぞしく
         (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮561番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄) 

5 つつめども人しる恋や大井川ゐせぎのひまをくぐる白波
         (岩波文庫山家集158P恋歌・新潮1268番)

6  はやく筏はここに来にけり
  大井川かみに井堰やなかりつる
         (連歌。前句は空仁法師、付句は西行)
              (岩波文庫山家集267P残集)

7  大井川舟にのりえてわたるかな
流れに棹さす心地して
         (連歌。前句は西行、付句は西住法師)
              (岩波文庫山家集268P残集)

○ ゐせぎ・井堰

 原意的には(塞き)のことであり、ある一定の方向へと動くもの
 を通路を狭めて防ぐ、という意味を持ちます。
 水の流れをせきとめたり、制限したり、流路を変えたりするため
 に土や木材や石などで築いた施設を指します。現在のダムなども
 井堰といえます。
 今号の西行歌は、当時の大井川で井堰の設備が施されていたこと
 の証明となります。この当時の井堰が現在も渡月橋上流にあります。

○をぐらの山

 京都市右京区嵯峨野にある小倉山のことです。山としての嵐山の
 対岸に位置します。麓に二尊院、常寂光寺などがあります。
 二尊院院内付近に西行の庵があったものとみられています。
 小倉山の歌は8首、詞書では3回記述されています。

○子規

 鳥の名前で「ほととぎす」と読みます。春から初夏に南方から
 渡来して、鶯の巣に托卵することで知られています。鳴き声は
(テッペンカケタカ)というふうに聞こえます。
 岩波文庫山家集の(ほととぎす)の漢字表記は以下の種類があり
 ます。 
 
 郭公・時鳥・子規・杜鵙・杜宇・蜀魂

 別称として「呼子鳥」「死出の田長」があります。

(1番歌の解釈)
 
 「大堰川のほとりの小倉山で鳴く郭公ーーその声が井堰でせき
 とめられたらどんなに嬉しいことであろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「あなたとお別れするのがなごり惜しく、あなたのことが慕わ
 しく思われて、大堰川の井堰の波のように涙が袖に懸かりました。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(5番歌の解釈)

 「人目につかないようにいくら隠しても、自分の恋が人に知ら
 れることは多い。ちょうど大堰川の井堰の隙間を白波がくぐり
 ぬけるように。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(7番連歌の解釈)

 前句
 「船に乗ることができてこの大堰川を渡るよ(仏の法を得て
 彼岸に到達するよ)」

 付句
 「流れに棹さす心で(この機会を逃すことなく世を背こうと
 いう心で。)」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(連歌)

 「詩歌の表現形態の一つです。古くは万葉集巻八の大伴家持と尼に
 よる連歌が始原とみられています。平安時代の「俊頼髄脳」では
 連歌論も書かれています。
 以後の詩歌の歴史で5.7.5.7.7調の短歌が、どちらかというと停滞
 気味であるのに対して、連歌は一般の民衆にも広まって、それが
 賭け事の対象ともなり爆発的な隆盛をみます。
 貴族、公家も連歌の会を催し、あらゆる物品のほかに金銭も賭け
 られたということです。
 「連歌師」という人たちまで出て、白川の法勝寺、東山の地主神社、
 正法寺、清閑寺、洛西の西芳寺、天龍寺、法輪寺などでも盛んに
 連歌の興行がされました。
              (學藝書林刊「京都の歴史」を参考)

 後にこの連歌の形式が変化して、芭蕉や蕪村の俳諧、そして正岡
 子規によって名付けられた俳句にと引き継がれます。

(空仁法師)

 生没年未詳。俗名は大中臣清長と言われます。
 西行とはそれほどの年齢の隔たりはないものと思います。西行の
 在俗時代、空仁は法輪寺の修行僧だったということが歌と詞書
 からわかります。
 空仁は藤原清輔家歌合(1160年)や、治承三十六人歌合(1179年)
 の出詠者ですから、この頃までは生存していたものでしょう。
 俊恵の歌林苑のメンバーでもあり、源頼政とも親交があったよう
 ですから西行とも何度か顔を合わせている可能性はありますが、
 空仁に関する記述は聞書残集に少しあるばかりです。
 空仁の歌は千載集に4首入集しています。

 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになればかなしかりけり
                (空仁法師 千載集1119番)
 
 【扇を仏にまゐらせける】

 扇は古い読み方では「あふぎ」と言いますが、ここでは「おうぎ」
 と読んで「お」の項とします。「あふぎ」の「あふ」は仏に逢う
 の「あふ」ということを掛け合わせていますから「おうぎ」では
 歌の味わいが乏しくなります。
 この歌は崇徳院の歌です。
 扇を仏に供養すれば功徳があると思われていたようです。

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1   心ざすことありて、扇を仏にまゐらせけるに、新院より
   給ひけるに、女房承りて、つつみ紙にかきつけられける

ありがたき法にあふぎの風ならば心の塵をはらへとぞ思ふ
  (崇徳院歌)(岩波文庫山家集214P釈教歌・新潮864番)

○心ざすこと

 仏法に結縁のための祈願ということ。仏法にできるだけ近づき、
 心の平安を得たいという、その心情のこと。

○新院

 何度も出てきますが「新院」は崇徳院のことです。山家集では
 ほかに「一院=鳥羽院」「院=後白河院」があります。

○心の塵

 誰もが持つ「煩悩」のことです。煩悩こそが、人が清らかな境地
 にたどりつくための障害であり、悩み苦労することの元凶と見ら
 れていたものでしよう。
 煩悩は人生に彩りを与え、豊かにするものの一つという解釈は
 成立していなかった時代だと思います。

(1番歌の解釈)

 「この扇を供えることで、なかなか逢えないという仏法に逢える
 のならば、扇の風で私の心に積もった煩悩の塵を払って欲しい
 ものだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 この歌に、西行の返歌があります。

 ちりばかりうたがふ心なからなむ心の塵をはらへとぞ思ふ
         (岩波文庫山家集214P釈教歌・新潮865番)

【逢坂山】 (山、14)

 滋賀県と京都市の境にある山です。標高325メートル。
 古来、京都と東国を結ぶ交通の要衝でした。ここに古代三関の
 ひとつである「逢坂関」が置かれていました。他の二箇所は
 鈴鹿の関と不破の関です。
 
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1 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
        (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1127番・
             西行上人集・山家心中・西行物語)

2 わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
       (岩波文庫山家集14P春歌・新潮9番・宮河歌合)

3 春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に具して
 まかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て
       (岩波文庫山家集14P春歌・新潮9番・宮河歌合)

○白河の関

 現在の福島県白河市に設置されていた関所です。勿来(なこそ)の関、
 念珠(ねず)の関と合わせて、奥羽三関のひとつです。古代に蝦夷
 対策のために設置されたものです。

○わきて今日

 いつもと違ってとりわけ今日は・・・ということ。

○方たがへ

「方違え(かたたがえ)。陰陽道でいう凶方に向かうさいに行われる
習俗。前夜、別の方角に泊まるなどして、方角を変えてから目的地
に向かう。」
               「講談社 日本語大辞典より抜粋」 

方たがえの基準はさまざまであって、節分の方たがえとか、年単位、
三年単位のものまであります。天一神の60日周期、太白神の10日周期
などもあって、一定の法則で動いています。それらのいるところに
凶事があるということですから、凶のある方向を忌むこと、(方忌=
かたいみ)、その方向と合わさることを避けるために回避行動をしま
した。それが「方たがえ」です。
源氏物語にも、この方たがえのことが、何度も描かれています。節分
の夜は、自邸ではなくほかの家で過ごすことによって、自邸には方忌
が及ばないと信じられていたそうです。
      (朝日新聞社刊 (平安の都) 角田文衛 編著を参考)
                  (西行の京師21号から転載)

○志賀の里

 滋賀県大津市。琵琶湖西岸にある地名。

(1番歌の解釈)

 「都を出立し逢坂山を越えて東国への旅路に付いた頃には、白河
 の関はまだ霞の向こうで、漠然とした印象しかなかったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「とりわけ今日逢坂山が霞んで見えるのは、春が山越えで手間
 どっているからだろうか。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番の詞書について)

 この詞書は2番歌の前にあるものです。「春になる」とは立春の
 こと。したがって方たがえは、節分の方たがえと分ります。
 方たがえのために京都から志賀の里に行く人に同道して行くと、
 逢坂山が霞んでいる光景を見たということです。

(逢坂山について)

逢坂山は近江と山城の国境の山であり、関の設置は大化の改新の
翌年の646年。改新の詔りによって、関所が置かれました。平安
遷都の翌年の795年に廃止。857年に再び設置。
795年の廃止は完全な廃止ではなかったらしく、以後も固関使
(こかんし)が派遣されて関を守っていたと記録にあります。
尚、古代三関として有名な鈴鹿の関、不破の関、愛発の関は
長岡京時代の789年に廃止されています。
平安時代前期からの三関とは愛発の関に変えて逢坂関を入れた
三関をいいます。
逢坂の関の場所については不明。現在国道一号線沿いに「逢坂の
関跡」の石碑がありますが、これは昭和七年に建立されたものです。
実際の関の場所は大津市寄りの逢坂一丁目付近とも言われ、
また、京都の山科側にあったとの説もあります。         

逢坂山は通行の利便の良くなるように何度か掘り下げ工事がされ
ています。平安時代は、現在より険しい峠でした。

万葉集以来、逢坂山は多くの歌に詠みこまれています。逢坂の関を
越えれば都を離れるということでもあり、都に住んでいた人々に
すれば格別の感慨を覚えたことでしょう。そういう地理的条件が
離別歌を生み、他方、逢坂という名詞にかけて、男女の機微に触れ
ての恋歌がたくさん詠まれています。
                (西行の京師21号から転載)

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◎ 夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ
          清少納言(百人一首・定家八代抄・後拾遺集)

◎ これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関
             蝉丸(百人一首・定家八代抄・後撰集)

◎ 我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
                 中臣宅守(万葉集 巻一五)

【大澤】

 京都市右京区にある大覚寺の大沢の池のことです。広沢の池と
 同様に月の名所と言われています。月見の日には龍頭船を
 浮かべたりのイベントが行われています。

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 1 やどしもつ月の光の大澤はいかにいづこもひろ澤の池
           (岩波文庫山家集72P秋歌・新潮321番) 

 新潮日本古典集成山家集では「大澤」ではなくて「おおしさ」と
 なっています。月に「おおしさ」はふさわしい形容とは言えない
 ので、「大澤」が正しいものと思います。

 宿しもつ 月の光の ををしさは いかにいへども 広沢の池
             (新潮日本古典集成山家集321番)

○やどしもつ

 月が水面に映っているということ。水に月が宿っている光景。

○ひろ澤の池

 大覚寺の東、遍照寺の南にあった人造の池です。遍照寺は仁和寺
 の子院として広沢の池の北側にある大寺でしたが、現在は移転
 して広沢池の南にあります。小宇です。

(1番歌の解釈)

 「月光を宿す池は大沢池など他にいくらもあるが、どんなに
 美しく月が出ても地面に映る大きさでは、広々とした広沢池に
 まさるものはない。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「水の面に宿している月の光りの雄大さは、何といっても広々と
 した広沢池なればこそだなあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【大ぬさの空】

 大幣が空に漂うような光景。御幣が風に翻弄されるように、人々
 の心が安定せず、あちこち揺れ動く状態を形容することば。

【大ぬさ小ぬさ】

 里人の作った様々な大きさの御幣ということ。

【ぬさ】

 「ぬさ=幣」とは、神社でお祓いなどに用いるために紙や布で
 作ったもの。へいはく、ごへい、みてぐらなどの呼び方があり
 ます。

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1 みそぎしてぬさとりながす河の瀬にやがて秋めく風ぞ凉しき
          (岩波文庫山家集55P夏歌・新潮253番)

2 はとしまんと思ひも見えぬ世にしあれば末にさこそは大ぬさの空
         (岩波文庫山家集191P雑歌・新潮1510番)

3 里人の大ぬさ小ぬさ立てなめてむなかた結ぶ野辺になりけり
        (岩波文庫山家集222P神祇歌・新潮1008番
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

○みそぎして

 沐浴、水垢離のことです。神事に携わる前や神社に参詣する前
 などに水で身体を清める儀式です。ここでは六月晦日の夏越の
 祓えの時の禊です。
 西行は仏教徒ですから自身のことではなくして、神人が夏越の
 祓えの儀式の最後に川に入って幣を流している光景を見ての
 歌だと思われます。

○とりながす

 新潮版では「きりながす」とあります。
 夏越の祓いを終えて、古い御幣を水に漬けて流す行事です。

○はとしまん

 新潮では「ひとしまん」とあります。「はとしまん」の「は」は
 どなたかの記述ミスだと思います。
 「等しいこと」という意味です。

○むなかた結ぶ

 「むまかた=馬形」のこと。木や神で馬形のものを作って神馬の
 変わりとして神前などに奉納していました。

(1番歌の解釈)

 「夏越の禊をして幣を供物として川に流すと、川瀬にすぐにも
 秋を思わせる風が吹き始めた。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「他人と一緒にやっていこうという協調性の見られない世の中に
 生きていたら、将来はさだめし人心が乱れてしまうだろう。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「人が自分の思いに染まるだろうとはとても思えない世の中で
 あるから、あげくのはては、さぞ心があれこれ乱れることだろう。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「里の秋。里人が大小とりどりの幣を手向け、中には馬形も奉納
 している。そんなふうに見える豪華な錦秋。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【大原】 (山、23・69・100・101)

 京都市左京区にある地名です。京都市の北東部に位置し、市街
 地とは離れています。
 
 「平安時代初期に慈覚大師円仁が天台声明の根本道場として、
 魚山大原寺を開いて以来、比叡山を取り囲む天台仏教の中心地の
 ひとつとなった。男女を問わずこの地に出家隠棲する人々は多く、
 また比叡山の修行僧が遁世する地ともなった。」
          (三千院発行「三千院の名宝」から抜粋)

 寂光院、三千院、来迎院、勝林院などの古刹があります。

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「西行歌」
 
01 大原はせれうを雪の道にあけて四方には人も通はざりけり
         (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1489番)

    入道寂然大原に住み侍りけるに、高野より遣しける 

02 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
   (岩波文庫山家集101P冬歌・新潮1155番・御裳濯河歌合・
 西行上人集追而加書・新勅撰集・玄玉集・西行物語・唯心房集)

03 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・新潮1133番)

    大原に良暹がすみける所に、人々まかりて述懐の歌よみて、
   つま戸に書きつけける

04 大原やまだすみがまもならはずといひけん人を今あらせばや
 (岩波文庫山家集190P雑歌・266P残集・西行上人集・西行物語)

05 年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原のさと
         (岩波文庫山家集179P雑歌・新潮930番)

06   山里の春雨といふことを、大原にて人々よみけるに

  春雨の軒たれこむるつれづれに人に知られぬ人のすみかか
            (岩波文庫山家集23P春歌・新潮45番)

07   寂然入道大原に住みけるに遣しける

  山ふかみさこそあらめときこえつつ音あはれなる谷川の水
     (岩波文庫山家集138P羇旅歌・新潮1198番・玄玉集)

08   同じさまに世をのがれて大原にすみ侍りけるいもうとの、
    はかなく成にける哀とぶらひけるに

  いかばかり君思はまし道にいらでたのもしからぬ別なりせば
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮815番)

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「寂然歌」
                    
09  あはれさはかうやと君も思ひ知れ秋暮れがたの大原の里
          (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1208番)

10 ひとりすむおぼろの清水友とては月をぞすます大原の里
      (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1209番・玉葉集)

11 炭がまのたなびくけぶりひとすぢに心ぼそきは大原の里
          (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1210番)

12 何となく露ぞこぼるる秋の田のひた引きならす大原の里
      (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1211番・夫木抄)

13 水の音は枕に落つるここちしてねざめがちなる大原の里
         (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1212番・
                西行上人集追而加書・夫木抄)

14 あだにふく草のいほりのあはれより袖に露おく大原の里
      (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1213番・玄玉集)

15 山かぜに嶺のささぐりはらはらと庭に落ちしく大原の里
  (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1214番・玄玉集・夫木抄)

16 ますらをが爪木に通草さしそへて暮るれば帰る大原の里
          (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1215番)

17 むぐらはふ門は木の葉に埋もれて人もさしこぬ大原の里
  (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1216番・玄玉集・夫木抄)

18 もろともに秋も山路も深ければしかぞかなしき大原の里
          (岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1217番)

19   寂然高野にまうでて、立ち帰りりて大原より遣しける

  へだて来しその年月もあるものを名残多かる嶺の朝霧
         (岩波文庫山家集70P秋歌・新潮1055番)

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「寂超歌」

    新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、
    ためただが歌の侍りけるをかきあつめて参らせける、
    大原より見せにつかはすとて
                     寂超長門入道
20 木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな
         (岩波文庫山家集179P雑歌・新潮929番)
(新潮版)
 もろともに散る言の葉をかくほどにやがても袖のそぼちぬるかな

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「連歌」

   大原にをはりの尼上と申す智者のもとにまかりて、両三日
   物語申して帰りけるに、寂然庭に立ちいでて、名残多かる
   由申しければ、やすらはれて

(前句)  帰る身にそはで心のとまるかな

       まことに今度の名残はさおぼゆと申して 
        
(付句)  おくる思ひにかふるなるべし
           (岩波文庫山家集265P残集18番)

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○せれう

大原草生町にあった里名です。ただし現在の大原草生町に「芹生」
と表記する地名はみつかりません。
この大原の芹生とは別に、京都府北桑田郡京北町に芹生があります。

◇ 渡部保氏著「西行山家集全註解」では(大原の西、貴船の奥)

◇ 後藤重郎氏校注の「新潮日本古典集成山家集」では(大原の西、
  貴船の奥。丹波の国(京都府)北桑山郡)
  *「北桑山郡」の「山」は原文のまま。正しくは「北桑田郡」。

◇ 大原の里は冬になると、南西にあたる芹生の方向だけを雪道として
  開いて、それ以外は雪が閉ざすので人は行き来することができない。
  (芹生の方向に平安京がある。)「和歌文学大系21から抜粋」
 
「都名所図会」では「芹生の里」大原郷にあり。むかし和歌に多く
詠ず。とあります。
だから「せれうの里」は貴船の奥の北桑田郡の「芹生」とは違い、
確実に大原の内にあったといえます。
和歌文学大系21でも大原のうちの芹生として解釈されていて、この解釈が
納得できます。 

○寂然

生没年未詳。西行とは一番親しい歌人でした。大原三寂の一人の
藤原頼業のことです。藤原為忠の子。寂念、寂超の弟。出家して
大原に住みました。家集に「唯心房集」「法家百首」があります。

○比良の高嶺

滋賀県滋賀郡にある地名。近江の国の歌枕。JR湖西線に比良駅が
あります。
駅は比叡山の北東の湖岸に位置し、比良の山は比叡山の北側に連なる
連山を指します。
この山に吹く風の激しさは有名で、ことに春先の比良おろしの風を
「比良の八講荒れ」といいます。
                 (西行の京師53号から転載)

○良暹

良暹法師は後拾遺集初出歌人ですが、その経歴については詳らかで
はありません。後拾遺集に十四首が入っています。そのうちの一首
が百人一首第七十番に採られている下の歌です。

 さびしさに宿をたち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮

生没年未詳。川村晃生氏校註の後拾遺和歌集によると、998年頃から
1064年頃まで存命。67歳頃に没したと見られています。叡山の僧で、
祇園の別当職に就任したこともあるようです。
後拾遺集のほかに金葉集・詞花集・新古今集などの作者です。
                 (西行の京師52号から転載)

○大原にすみ侍りけるいもうと

寂然法師の妹のことです。出家して大原に隠棲していた尼ですが、
寂然より早く亡くなったので、その弔いの歌を西行が寂然に贈った
ものです。

○かうや

西行の生活の拠点であった「高野山」と「こうです」という意味を
掛け合わせています。 

○おぼろの清水

三千院から寂光院に向かう小道の傍らに「おぼろの清水」はあり
ます。歌枕として「八雲御抄」や「五代集歌枕」にもあげられ、
平安時代から多数の歌にも詠まれてきた有名な清水ですが、現在は
小さな水たまりという感じです。

建礼門院が朧月夜に自身の姿をこの清水に写したということが、
この清水の名の由来との説もあるそうですが、建礼門院よりも
百数十年ほど前の良暹法師や素意法師の歌にも「おぼろの清水」と
あります。

○秋の田のひた

「ひた」とは「引板」と表記します。田んぼの稲が実った頃に、
稲を食いに来るスズメなどから稲を守るために作られた用具です。
縄を引っ張るとずっと付け渡している板が鳴る仕掛けのことです。

○ささぐり

シバグリのこと。栗の野生種で実は小さいけど味は良いといいます。

○爪木に通草

爪木(つまき)は薪用に折り取った枝のことです。通草の読みは
食用になる甘い果実の「あけび」のこと。薪用の細い枝にアケビを
刺して家路への道をたどったということです。

○新院

崇徳院(1119〜1164)のこと。第75代天皇。鳥羽帝と待賢門院の長子。

○歌あつめ

久安百首のこととも詞花集のこととも言われますが、1144年の詞花集
のことと断定していいかと思います。

○ときはに

地名。京都市右京区常盤のこと。常盤に藤原為忠の屋敷がありま
した。

○ためただ

藤原為忠。大原三寂の父です。1136年没。

○寂超長門入道

俗名は藤原為隆(為経とも)。1143年出家。為忠の子で寂然の兄。
美福門院加賀との間に隆信がいます。加賀は後に俊成に嫁して定家
を産んでいます。    

○をはりの尼上

「尾張の尼は兵衛の局らとともに待賢門院に仕えていた女房で、
「金葉集」初出の歌人であるが、待賢門院の世を去った後、出家
して大原にこもっていたのである。」        
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

「待賢門院に仕えて琵琶の名手とうたわれ、後に大原来迎院の良忍
に帰依して遁世した高階為遠女の尼尾張・・・」
       (目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」より抜粋)

目崎氏説と窪田氏説は待賢門院に仕えていたことは同じですが、
少しの異同があります。時代が整合しませんから、あるいは両者の
いう尾張の尼は別人の可能性が強いと思います。

待賢門院出家が1142年、死亡が1145年。大原来迎院の良忍死亡が
1132年。良忍は待賢門院より13年も早く死亡していますので、
目崎氏説は間違いかもしれません。

 いとか山くる人もなき夕暮に心ぼそくもよぶこ鳥かな 
                  (金葉集 前斉院尾張)

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(02番歌の解釈)

 「大原は比良の高嶺が近いので、雪が降る時はどんなに大変かと
 思いやることですよ。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 高野山の西行が大原の寂然に贈った歌です。寂然の返しの歌が
 あります。

 思へただ都にてだに袖さえしひらの高嶺の雪のけしきは
 (寂然歌)(岩波文庫山家集101P冬歌・新潮1156番・唯心房集)
           
(03番歌の解釈)

 「都に近い山里である小野大原を思い出してしまった。柴を焚く
 煙が懐かしくも物悲しいよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 (詞書の解釈)
 良暹法師が住んでいて、「大原やまだすみがまもならはず・・・」
 という歌を詠った住処の跡を見に行こうという話になって、人々と
 共に行って、それぞれに思いを歌にして、つま戸に書き付けました。

 (歌の解釈)
 「大原やまだすみがまもならはず・・・」という歌を詠んだ良暹
 法師が、今、ここにいて下さったらなあー。

 下は詞花集巻十にある良暹法師の歌です。

 おおはらやまたすみがまもならはねば我やどのみぞ煙たえたる
              (良暹法師 詞花和歌集363番) 

(05番歌の解釈)

 「亡くなられてもう随分になりますが、父君の歌は少しも古びて
 いないので、出家なさって常盤から大原に移られても、さぞ懐か
 しいことでしょう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 この歌は20番の寂超長門入道との贈答の歌です。

(07番歌の解釈)

 「高野も大原も山が深いので、あなたの住処でもきっとそう
 だろうと思いながら、しみじみとあわれを感じさせる谷川の
 音を聞くことです。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 この歌は大原の寂然に贈った「山深み」で始まる10首歌の一番
 初めにあります。
 対して寂然からは「大原の里」で終わる09番から18番までの10首
 歌が高野山の西行に贈られています。

(08番歌の解釈)

 「あなたの妹が仏道に入ることなく死なれ、後世の頼みもない
 死別であったとしたら、どんなにあなたは遺憾に思われたこと
 でしょう。(出家しての往生は何よりの慰めと思います。)
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 寂然の妹が死亡したときに西行が寂然に贈った歌です。寂然
 からの返歌があります。

 たのもしき道には入りて行きしかど我が身をつめばいかがとぞ思ふ
      (寂然歌)(岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮816番)

(11番歌の解釈)

 「炭を焼く炭窯の煙が細く一筋になびき流れていますが、その
 ようにひたすら心細いのは、大原の里であることです。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(19番歌の解釈)

 「遠く隔たり長く逢わないで過ごして来たのに、ゆっくり語らう
 こともできずすぐ帰り、その上別れては高野の峯の秋霧に隔て
 られてしまい、まことに名残多く心の晴れやらぬことでした。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(連歌の解釈)

 (前句)
 「心は帰る身に添わないで残りとどまるなあ。」

 (付句)
 「送る人の思いと引き替えになるのだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【大峰のしんせん】 (山、121)

 奈良県の大峯山中にある地名及び靡名。修験道の聖地で、奥駆道
 第38番靡(なびき)の深仙宿のこと。奈良県吉野郡下北山村に
 あります。
 本山派(天台宗系)の根本道場となっています。

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  大峯のしんせんと申す所にて、月を見てよみける

1 深き山にすみける月を見ざりせば思ひ出もなき我が身ならまし
  (岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮1104番・西行上人集・
              山家心中集・風雅集・西行物語) 

(1番歌の解釈)

 「深い山、ここ深仙にかかる澄んだ月を見なかったならば、何の
 思い出もないわが身であったことだろう。一生の思い出となる
 月を見ることができたよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【大宮の家】

藤原俊成が葉室顕廣と名乗っていた時代に住んでいた家のことです。
俊成は1167年12月に葉室顕廣から藤原俊成にと改名しています。
大宮の家は俊成の家ではなくて葉室家の邸宅のあった場所ではない
かとも思えます。歌も1167年12月以前のものと考えられます。

俊成の家としては「五条京極第」が知られています。五条とは現在
の松原通りのこと。京極とは東京極で今の寺町通りのことです。
だから五条京極第は寺町松原あたりにあったとみるのが妥当です。
大宮とは離れています。
現在、烏丸松原下る東側に「俊成社」という小さな祠があります。
このあたりが三位入道時代の俊成の住居があった所です。

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    五條の三位入道、そのかみ大宮の家にすまれけるをり、
    寂然・西住なんどまかりあひて、後世のものがたり申し
    けるついでに、向花念浄土と申すことを詠みけるに
 
1 心をぞやがてはちすにさかせつるいまみる花の散るにたぐへて
             (岩波文庫山家集259P聞書集244番)

○五條三位入道

 藤原俊成のこと。1176年に出家して釈阿と号します。
 五条は五条東京極に住んでいたため、三位は最終の官位を指して
 います。

○寂然

 大原三寂の一人。藤原頼業のこと。西行ともっとも親しい歌人。

○西住

 西行の親しい友人。しばしば旅を一緒にしています。

○後世のものがたり

 死後のことを話し合ったということ。極楽浄土の話題のこと。

○はちすにさかせつる

 浄土の蓮華のように心の花を咲かせるということ。

○いまみる花の散る

 無常感からの開放をいう。死を賛辞しているようにも取れます。

(1番歌の解釈)

 「私の心をそのまま浄土の蓮に咲かせたことだよ。今見る花が
 散るのに連れ添い行かせて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【大宮の女房加賀】

 生没年未詳。加賀は待賢門院にも仕えたようで待賢門院加賀と
 して千載和歌集に一首撰入しています。799番。
 「伏柴の加賀」として有名だったようです。
 待賢門院没後に、二条天皇と六条天皇の二人の天皇の后であった
 藤原多子(まさるこ)に仕えたものとみられています。

 藤原為経(寂超)の妻であり、藤原隆信を産んだ後に藤原俊成に
 嫁いで藤原定家を産んだ美福門院加賀とは別人です。
 
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   しほ湯にまかりたりけるに、具したりける人、九月晦日に
   さきへのぼりければ、つかはしける。人にかはりて

1 秋は暮れ君は都へ帰りなばあはれなるべき旅のそらかな
         (岩波文庫山家集140P羇旅歌・新潮1122番)

2 君をおきて立ち出づる空の露けさは秋さへくるる旅の悲しさ
 (大宮の女房加賀歌)(岩波文庫山家集141P羇旅歌・新潮1123番)

   しほ湯出でて京へ帰りまうで来て、古郷の花霜がれにける、
   あはれなりけり。いそぎ帰りし人のもとへ又かはりて

3 露おきし庭の小萩も枯れにけりいづち都に秋とまるらむ
         (岩波文庫山家集141P羇旅歌・新潮1124番)

4 したふ秋は露もとまらぬ都へとなどて急ぎし舟出なるらむ
 (大宮の女房加賀歌)(岩波文庫山家集141P羇旅歌・新潮1125番)

○しほ湯

 神戸市北区にある有馬温泉のことと見られています。

○さきへのぼりければ

 都から地方に行くことを下るといいます。上がるは京都に行くと
 いうこと。ここでは都から下って有馬に来たので、先に都に帰る
 ということを意味しています。

(1番歌の解釈)

 「秋は終り、あなたは都へ帰ってしまうとしたら、しみじみと
 あわれの催される旅の空といえましょうよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「あなたを後に残し、都へと出発しますその空も時雨がちで、
 私も涙がちとなり、その上、秋までも終わろうとしている旅立ち
 は悲しいことです。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「都を出るときは露を置いていた小萩が、戻ってくると冬の霜で
 枯れてしまった。都のどこに秋は留まっているのだろう。早く
 帰ったあなたは秋の名残をご覧になりましたか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(4番歌の解釈)

 「私も秋の名残見たさに、一足先に帰ってきたのですが、もう
 どこにも残っていませんでした。なぜあんなに急いで船出した
 のか、むなしくなりますわ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
  
2番と4番歌は大宮の女房加賀の歌。1番と3番歌は他の人に代わって
西行が詠んだものです。西行も同道して有馬に行ったものでしょう。

この贈答歌は、いつ頃の歌か不明です。昭和15年発行の川田順氏の
「西行研究録」によれば、治承4年(1180)年頃か?と推定されて
います。

【大淀三千風】

 1639年〜1707年の人。69才没。俳人。伊勢松坂の出身。
 宮城県松島を出発点にして、全国を巡遊し「日本行脚全集」を
 著したそうです。
 芭蕉とも知り合っていたらしく、「奥の細道」の「曽良随行日記」
 にも名前が見えます。
 長く松島、仙台に住み、晩年には相模国の大磯に鴫立庵を再興して
 居住しました。鴫立庵には1695年から10年間程住んだということ
 です。
 「今西行」と自他共に認めていたようです。
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