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おい〜おお おか〜おじ おつ〜おの おば〜おん

【姨捨】

 長野県更埴市にある「冠着山」のことだと言われています。
 標高1252メートル。
 月の名所であり、また、棄老伝説のある山です。
 4番歌は信濃ではなくて大和の大峯山中、川上村にある伯母が峰
 のことだと言われています。

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1 あらはさぬ我が心をぞうらむべき月やはうときをばすての山
          (岩波文庫山家集84P秋歌・西行上人集・
                 新勅撰集・御裳濯河歌合)

2 天雲のはるるみ空の月かげに恨なぐさむをばすての山
          (岩波文庫山家集219P釈教歌・新潮886番・
                 西行上人集・山家心中集)

3 くまもなき月のひかりをながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき
           (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮375番)

   をばすての嶺と申す所の見渡されて、思ひなしにや、
  月ことに見えければ

4 をば捨は信濃ならねどいづくにも月すむ嶺の名にこそありけれ
         (岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮1107番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)

○あらはさぬ我が心

 菩提心を現すことのできない自分の心のこと。
 菩提心とは、悟りを得たいと渇望する気持のこと。

○月やはうとき

 「やも・やは」(反語)
 (やも)は(や)に終助詞(も)が添った形で、活用語の未然形
 を承けて反語に使う。多くは奈良時代に使われ、平安時代になる
 と、(やは)がこれに代わって使われた。文末の(も)が用いら
 れなくなったので(やも)が衰亡し、(やは)が代わったもので
 ある。
                 (岩波古語辞典から抜粋)

 この場合は(やは)は(うとき)にかかっている反語表現になる
 ものでしょうか。私にはよくわかりませんが、違うのではないだ
 ろうかという思いが強くあります。
 姨捨山の月そのものが自身に疎いということではなくして、ここ
 にある「月」は真如の月と解釈するべきであり、真如の月が自身
 に疎いという意味ではなかろうかと思います。

 用例歌。

 春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる
                (凡河内躬恒 古今集41番)

秋深みよわるは虫の聲のみか聞く我とてもたのみやはある
           (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮457番・
               西行上人集追而加書・雲葉集)

○み空

 空のこと。(み)は空の美称・敬称として働く接頭語です。
 (御)の文字を当てます。

○月かげに

 月の光のこと。月光のこと。
 また、月の光の照射によって表れる物の影のこと。
 
○恨なぐさむ

 ここでは誰がどうして(恨み)を感じているのか、その主体も
 原因も判然としません。
 詞書の「勧持品」によって、釈迦の叔母たち6000人の尼僧の恨み
 ということがわかります。仏教では女性は成仏できにくいと言わ
 れていて、それが恨みに思っていた原因ですが、成仏するという
 約束をもらったために安堵した、慰められたということがこの
 歌の背景として有ります。

○くまもなき

 暗い所がない、光の届かない所がないということ。

(1番歌の解釈)

 「月を現出できない自身の心を恨むべきであろう。姨捨山に照る
 月はわたしに対して疎疎しくはないのだ。」
 (西行の京師第二部31号から転載)(和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「見捨てられたかと仏を一時は恨んだ叔母たち尼僧も、成仏の
 約束をもらって心が慰められたというが、それはまるで、雲が
 晴れて姨捨山の空一面を明るく照らす月光を見ているうちに、
 自分たちを見捨てた子供たちへの恨みが慰められたのに似て
 いる。」
 (西行の京師第二部31号から転載)(和歌文学大系21から抜粋)

 「雨雲が晴れた空の月の光のように真如の月を仰ぎ、成仏する
 との助言を得、悟ることができなかった今までの恨みも慰めら
 れる姨捨山よ。」
(西行の京師第二部31号から転載)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「隈なく照らす月の光を眺めると、まず姨捨山の月が恋しく思い
 出されることだ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)  

(4番歌の解釈)

 「姨捨山の月を見る、この姨捨は有名な信濃の歌枕ではなくても、
 全国どこにあっても、月が美しく澄む峰だから付けた名前だった
 のだなー。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(姨捨伝説について)

大和物語(950年頃)、今昔物語集(1060年頃)にほぼ同じ内容の
姨捨伝説があります。それまでのこの地方の古称は「小初瀬」が
なまって「オバステ」と呼ばれていたようです。「姨捨」の文字が
当てられたのは両物語が広まってからだろうと言われます。

上の物語では、実母のように仲良く暮らしていた伯母が年を重ねて
身体も弱り腰も曲がったので、甥は意地の悪い妻にそそのかされて
姥捨山に棄てて来るという話です。伯母を山に棄てては来たけれ
ども、姥捨山を照らす月が明るく見事でもあり、気になって終夜
寝ることができず、悲しく、恋しく思えて、再度、山に登って伯母
を連れて帰るという説話です。

生活に困窮した果てに生活能力の衰えた高齢者を棄てるという棄老
伝説は各地にあったようです。柳田國男も遠野物語で棄老の風習を
紹介しています。
棄老ではないのですが、生まれたばかりの子供、幼い子供を間引く
(殺すこと)ということも、これまでの長い歴史の中では盛んに
行われていたのが実情ですし、いずれにしても悲しい事実に違い
ありません。

この姥捨ての地はまた「田ごとの月」で有名です。水を張った棚田
に月の写る状態を言いますが、姨捨に棚田が形成されたのは江戸
時代とみられています。

JR姥捨駅は標高547メートルにあり、そこから見下ろす一帯は、
上杉謙信と武田信玄が戦った「川中島の戦い」が行われた場所です。
             (西行の京師第二部31号から転載)

【尾花】

 ススキの別称です。ススキに穂が出た花薄の状態を言います。
 ススキはイネ科の多年草。山野に自生し、高さは1〜2メートル。
 葉は線形。秋に茎の先に30センチ程度の花穂をつけます。
 秋の七草の一つです。

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1 おしなべてなびく尾花の穂なりけり月のいでつる峯の白雲
           (岩波文庫山家集275P補遺・夫木抄)

2 枯れはつるかやがうは葉に降る雪は更に尾花の心地こそすれ
          (岩波文庫山家集97P冬歌・新潮528番
              西行上人集追而加書・夫木抄)

3 あきの野の尾花が袖にまねかせていかなる人をまつ虫の声
          (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮453番)

(参考歌)

4 しげり行く芝の下草おはれ出て招くや誰をしたふなるらむ 
          (岩波文庫山家集61P秋歌・新潮273番)

 この歌は新潮版では以下のようになっています。

 茂りゆきし 原の下草 尾花出でて 招くは誰を 慕ふなるらん

○かやがうは葉

 茅の葉っぱの上の方のこと。

○尾花が袖に

 ススキの穂が風に揺れ、靡いている状態を、人が袖で他者を招い
 ているように見立てた表現。

(1番歌の解釈)

 「ひろびろと一面になびいている尾花の穂であったよ。月の出て
 いる峯にかかるさわやかな白雲のたなびいているけしきとともに
 見えているのは。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(3番歌の解釈)

「風になびく秋の野の花薄に人を招かせて、松虫は一体誰を待って
 鳴いているのだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【おひめより】

 このままでは意味不明の言葉ですが、和歌文学大系21では「帯目」
 としています。

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  北白河の基家の三位のもとに、行蓮法師に逢いにまかりたり
  けるに、心にかなはざる恋といふことを、人々よみけるに
  まかりあひて
                            
1 物思ひて結ぶたすきのおひめよりほどけやすなる君ならなくに
              (岩波文庫山家集270P残集30番)

 「和歌文学大系21」では下のようになっています。

 物思ひて結ぶ襷の帯目よわみほどけやすなる君ならなくに

○基家の三位

 藤原道長の子の頼宗を祖とする家系に連なります。後高倉院や
 後鳥羽院は基家の姪の子、後堀河院は孫に当たります。
 後に大覚寺統と争うことになる持明院等の祖となる人物です。
 
○行蓮法師

 不明です。法橋行遍のことだといわれています。後述。

(詞書の解釈)

 北白河の三位藤原基家の家に行蓮法師(法橋、行遍の誤りか?)
 が来ているとのことですので逢いに行きました。そのときに
 「心にかなわない恋」という題で人々が歌を詠んでいました。

(歌の解釈)

 あなたのことを思って、心の中で結ぶたすきの結び目はしっかり
 と固く結んでいるのですが、あなたの心は私につれなく、その
 結び目よりも固く閉じています。

 題詠歌の限界性ということもあると思いますが、この歌には躍動
 する作者の心情が込められていないと思います。
 それもそのはずで、題詠の場合は即興的に詠んで座興を高める
 ということが必要だったのでしょう。他の題詠の恋歌も読んで
 みると分かりますが、西行個人の内面性ということは想像さえ
 させない歌ばかりです。
 個人的な恋の感情を詠わないという約束事が恋の題詠歌には
 あったのかもしれません。
 作者本人の恋愛感情を素直に表現するという形ではなくして、
 より一般的な形で恋愛の歌を創作するということが当時の恋の
 題詠歌に求められていたものと思われます。
 恋の題詠の場合は、女性の立場を借りて詠んだ歌が多くあったと
 記憶しています。

 「恋の物思いをして神に祈ろうと結んだ襷の帯の結び目が弱い
 のでほどけやすい。しかし恋人の心はほどけやすくないよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(藤原基家)

藤原基家(1131〜1214)は藤原頼宗流に連なり、父は藤原通基、
母は待賢門院の女房だった一条という女性ということです。
この女性は上西門院の乳母とも言われていて、その関係で西行
とも親しかったようです。
基家の姉か妹の休子という女性が殖子という娘を産みました。
基家にとっては姪に当たります。この殖子が高倉天皇との間に
第82代後鳥羽天皇をもうけています。また、天皇にはなっていま
せんが後堀川天皇の父として院政を執った後高倉院(守貞親王)
も殖子を生母としています。
これとは別に基家の娘の陳子が後高倉院に嫁いで後堀川天皇の
生母となっています。基家の娘と、そして姪の子供との結婚です
から非常に近い血族間での結婚といえます。基家は後堀川天皇の
祖父に当たりますが、政治の中枢で活躍した人とはいえません。
基家が従三位であった期間は1172年から1176年までという説が
ありますので、西行55歳以降の歌であるといえます。
この基家の経歴については良く分からないというのが実情です。
従三位は(1172年から1176年)、正三位は(1176年から1187年)、
以後は従二位のようですが、確実な資料がなくて異説もあるよう
です。
それにしても娘と、姪の子供との結婚ということは、年代的に
見て可能なのかどうか疑問でしたが、後鳥羽院が1180年生まれ、
後堀川院が1212年生まれですから、かろうじて可能でした。
後堀川院の生母である藤原陳子は基家が60歳頃の子供だったもの
でしょう。
 
(行蓮法師)

ここに出てくる行蓮法師は法橋行遍のことだと言われています。
新古今集1548番(岩波文庫)の詞書に西行との関連性のある
記述があります。詞書と歌を転載します。作者は法橋行遍です。

『月明き夜、定家朝臣に逢ひ侍りけるに、「歌の道に志深き事は、
いつばかりよりのことにか」と尋ね侍りければ、若く侍りし時、
西行に久しく相伴ひて聞き習ひ侍りしよし申してそのかみ申し
し事など語り侍りて、朝に遣はしける』

『あやしくぞ帰さは月の曇りにし昔がたりに夜やふけにけむ』

定家と行遍はたがいに西行をよく知っていたというふうに解釈
できる詞書です。
この詞書により、山家集の行蓮法師は行遍のことと解釈された
ものでしょう。

行遍については「西行の研究」の窪田章一郎氏も「西行の思想史
的研究」の目崎徳衛氏も触れていません。日本古典全書の
伊藤嘉夫氏が「川田説」と注記した上で「行遍は勘解由次官藤原
顕能の子。仁和寺阿闍梨」としています。
渡部保氏の「西行山家集全注解」でも、この説に従っています。
仁和寺菩提院を住持し、東寺長者にもなっていた行遍は後に大僧正
にもなるのですが、西行死亡年にわずかに9歳です。1181年出生、
1264年死亡といわれています。そうすると、基家の三位の歌会の
年である1172年から1176年には出生さえしていません。
従ってこの行遍ということは確実にありえません。
ここにある行蓮法師は熊野別当行範の第六子の法橋行遍のことです。
同名異人です。西行が熊野に行った時に知遇を得たものだと思い
ます。
このことは川田順氏の昭和15年11月発行の「西行研究録」に記述
されています。
伊藤嘉夫氏が「川田説」として取り上げた書物は昭和14年11月
発行の「西行」であり、川田氏は翌年発行の「西行研究録」で
行遍についての記述ミスを認めて、訂正されています。
新古今集に採録されている法橋行遍の作品も仁和寺の僧の行遍
ではなくて、熊野の行遍の作品といえます。
行遍の作品は新古今集843番、1289番、1839番とあわせて四首が
あります。(番号は岩波文庫版新古今和歌集によります。)
           (以上は西行の京師第47号から加筆転載)

【おふしたて・おほし立つ】

 現代的な言葉ではありません。
 辞典によると、「おほ」は「生ひ=おひ」の連体形とのことです。
 「生ひ」は(生ひたち)(生ひ出で)などと用い、「生ほし」は
 「生ひ」の他動詞形。
 「生ほし立て」は(育て上げる)こととあります。
              (岩波古語辞典を参考)

 源氏物語、若紫の段に「生ほし立てて」と記述されています。
 新潮版では「おふし」は「おほし」となっています。
 「おふし」と「おほし」は同義です。

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1 ふるき妹がそのに植えたるからなづな誰なづさへとおほし立つらむ
          (岩波文庫山家集164P恋歌・新潮1493番)
             
2 かかる身におふしたてけむたらちねの親さへつらき恋もするかな
          (岩波文庫山家集152P恋歌・新潮677番・
                御裳濯河歌合26番・万代集) 

○ふるき妹

 年配の親しい女性ということ。 
 (ふるき)は古いこと。年を重ねているということ。
 (妹=いも)は恋人のこと。親しく、なじんでいる女性のこと。

○からなずな

 (からなずな)はナズナの美称との説があります。唐錦、唐衣、
 唐絵などのように唐から渡来したもの、唐風なものという意味
 以外に上等のもの、美しいものの総称としての意味を秘めて
 います。

 ナズナはどこにでも生えているペンペン草のことです。
 アブラナ科の越年草。葉は食用になります。春の七草の一つです。
 
 どこにでも自生している植物をわざわざ植栽するものなのか
 どうかという疑問があります。
 しかし、ナズナに見立てたことは多少不自然ですが、美しい少女
 を育てているという解釈をするなら理解できそうです。

 梁塵秘抄巻十二に

 「庭に生ふる 唐薺(からなずな)は よき菜なり はれ
 宮人の さぐる袋を おのれ懸けたり」とあります。

○誰なづさへと

 「なずさわる」ことです。慣れ親しむ、なじむ、ことです。
 誰になじむのか、誰を好きになるのだろうか・・・という
 行く末を案じている言葉です。

○かかる身

 つらい恋の悩みに懊悩する身のこと。

○たらちね

 「親」の言葉を引き出すための枕詞。
 主に母親を言いますが、両親をも指します。

(1番歌の解釈)

 「古女房が庭に美しいなずなを植えた。そのように美しい少女
 を、私以外の一体誰に馴れまつわれといって育て上げたので
 あろうか。」
 ○唐なずなー美しいなずな。ここは美しい少女の暗喩か。
               (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「恋の思いに悩みに悩む、そんな身に育てあげてくれた親さえ
 もが恨めしく思われるような、たいそうつらい恋をすることだ
 なあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【麻生の浦】

 所在地未詳です。
 志摩の国の麻生(おふ)の浦、現在の三重県鳥羽市浦村町に比定
 されています。菅島の少し南に位置します。
 
 和歌文学大系21では「生(おふ)の浦」としています。

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1 心やる山なしと見る麻生の浦はかすみばかりぞめにかかりける
             (岩波文庫山家集239P聞書集101番)

(1番歌の解釈)

 「心を送りやる山がないと見る生の浦は、霞ばかりが目に
 かかるよ。」
 ○心やるー心を晴らすの意も含む。花を待つ心か。
 ○山なしー「無し」に名物の「梨」を響かせる。
 ○霞ー立春を表す。
                (和歌文学大系21から抜粋)

【おぼつかな】

 「覚束無し」のこと。
 対象がぼんやりしていて、はっきりと知覚できない状態。また、
 そういう状態に対して抱くおぼろな不安、不満などの感情のこと。
 心もとなさを覚える感情のこと。
 「おぼつかな」は西行の愛用句とも言えます。

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01 おぼつかな春の日数のふるままに嵯峨野の雪は消えやしぬらむ
          (岩波文庫山家集15P春歌・新潮1066番)
                
02 何となくおぼつかなきは天の原かすみに消えて帰る雁がね
 (岩波文庫山家集24P春歌・新潮46番・西行上人集・山家心中集)
               
03 おぼつかな谷は櫻のいかならむ嶺にはいまだかけぬ白雲
          (岩波文庫山家集32P春歌・新潮146番)
                 
04 おぼつかな春は心の花にのみいづれの年かうかれそめけむ
          (岩波文庫山家集33P春歌・新潮149番・
                新続古今集・万代集) 

05 おぼつかな秋はいかなる故のあればすずろに物の悲しかるらむ
      (岩波文庫山家集62P秋歌・新潮290番・新古今集・
        西行上人集追而加書・御裳濯河歌合・西行物語) 

06 程ふれば同じ都のうちだにもおぼつかなさはとはまほしきに
          (岩波文庫山家集105P羇旅歌・新潮1091番・
           西行上人集・宮河歌合・続後撰・月詣集) 

07 おぼつかないかにも人のくれは鳥あやむるまでにぬるる袖かな
          (岩波文庫山家集143P恋歌・新潮580番)
                 
08 おぼつかな何のむくいのかえりきて心せたむるあたとなるらむ
          (岩波文庫山家集153P恋歌・新潮678番)
                 
09 おぼつかないぶきおろしの風さきにあさづま舟はあひやしぬらむ
          (岩波文庫山家集169P雑歌・新潮1005番・
              西行上人集・山家心中集・夫木抄) 

10 おぼつかないづれの山の峰よりか待たるる花の咲きはじむらむ
         (岩波文庫山家集25P春歌・新潮59番・玉葉集)

11 よそに聞くはおぼつかなきにほととぎすわが軒にさく橘に鳴け
              (岩波文庫山家集260P聞書集249番)

  筆の山にかきのぼりても見つるかな苔の下なる岩のけしきを
         (岩波文庫山家集114P羇旅歌・新潮1371番)
               
12  善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師
   かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。
   四の門の額少々われて、大方はたがはずして侍りき。すゑに
   こそ、いかがなりけんずらんと、おぼつかなくおぼえ侍りしか
                 
○すずろに

 「そぞろ」のこと。そわそわした気持のこと。
 心が、なんとなく訳もなく浮ついているような状態のこと。
 なんとなく心が引かれる状態、
 思いがけないこととか、むやみであるという意味も含まれます。
               
○程ふれば

 時間がある程度たってみれば・・・ということ。
 ある程度の日数のこと。

○とはまほしきに

 「とは」は問うこと。「まほし」は「・・・してほしい」という
 願望を表す助動詞です。

 「平安時代に現れた語で希求の助動詞。動詞の未然形を承け、
 形容詞シク活用と同じ活用をする。
 奈良時代にあった「まくほし」の転じたもの。平安時代に「まく
 ほし」は音便によって「まうほし」となり、さらに音がつまって
 「まほし」となった。
                  (岩波古語辞典を参考)

 何となく住ままほしくぞおもほゆる鹿のね絶えぬ秋の山里
 (岩波文庫山家集69P秋歌・新潮435番・西行上人集・山家心中集)

 上の歌のように「まほし」のある西行歌は6首、詞書は5回を
 数えます。

○くれは鳥

 中国の呉の国の織り方で織った織物のこと。
 鳥とありますが鳥の名詞ではありません。
 「呉織」と書いて「くれはとり」。「織」は「はたおり」の略で
 「はとり」と読みます。
 「綾=あや」を導き出す枕詞です。

○心せたむる 

 「責め」は「せため」と読みます。心を責めることです。
 ここでは自分で自分を責めるということです。
               
○あたとなるらむ

 「あた」は「仇」のこと。自分のしたことが結局は自分に返って
 来て、それが自分を責めさいなむ原因となっているということ。
 
○いぶきおろし

 伊吹山地(主峰は伊吹山)から吹き降ろす風のこと。伊吹山の
 標高は1377メートル。滋賀県の北東部にあたります。

○あさづま舟

 朝妻舟。古代から近世初頭まで琵琶湖北東岸の朝妻港(現在の
 滋賀県米原町付近)と大津港を結んだ渡し舟をいう。東国と畿内
 を行き来した旅人が、陸路をとらない時に利用したもの。実際に
 遊女を乗せた朝妻舟もあったようです。
 「妻」という名詞があることによって、謡曲の「室君」では、
 遊女を乗せる舟とされています。

○あひやしぬらむ

 遭うのかも知れないなーという想像、推量の言葉。
 「・・・しぬらむ」は西行歌に四首あります。新潮版では
 「・・・しぬらん」です。

○筆の山

 香川県善通寺市にある山。
 香色山・筆の山・我拝師山・中山・火上山を総称して五岳と
 言います。

○善通寺

 香川県善通寺市にある善通寺のことです。弘法大師空海は
 善通寺市の出生です。
 善通寺は空海が出生地に建立したお寺で、父親の法名をつけて
 「善通寺」としたものです。
 高野山、京都の東寺と並んで真言宗の三大聖地です。

○大師

 弘法大師空海のこと。真言宗の開祖。
 774年讃岐国多度郡にて出生。高野山奥の院にて835年入滅。
 天台宗の伝教大師最澄とともに我が国の仏教界の礎となった
 人物です。

○大師の御師 

 空海の師ということで釈迦のこと。

(02番歌の解釈)

 「春を見捨てて、北の国へ帰るべく大空の霞の中に消えてゆく
 雁は、一体どんな気持なのか、何ということなしに心もとなく
 思われることである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「よくわからない。一体いつからなのか。春になると花に心を
 奪われて落ち着かなくなったのは。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「はっきり何故と分らず心もとないことであるが、いつたい秋は
 どういうわけでむやみともの悲しいのだろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(07番歌の解釈)

「おかしいな、どうしたの、と人が不審に思うまで、あなた恋しい
 涙で袖が濡れてしまった。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
                 
(09番歌の解釈)

 「気がかりなことだ。伊吹颪の吹いて行く方向に、朝妻舟は
 出会ったのではなかろうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(11番歌の解釈)

 「離れた所に聞くので聞えたかどうかはっきりしないから、
 郭公よ、私の家の軒に咲く橘に来て鳴けよ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【おほ野】 (山、49)

どこかの固有名詞ではなくて、普通名詞という解釈で良いと思い
ます。広い野原のことです。

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 1 雲雀あがるおほ野の茅原夏くれば凉む木かげをねがひてぞ行く
            (岩波文庫山家集52P夏歌・新潮238番)

○雲雀あがる               

 (雲雀上がる)という情景は春から初夏のもので、夏というには
 ふさわしくありません。俳句でも雲雀は春の季語です。

 しかしながら雲雀は夏にも上がることがあるようです。あるいは
 西行も雲雀が夏に上がるという光景を実景として見たことがある
 のかもしれません。

 それにしてもこの歌から受ける季節は真夏という感じですし、
 夏歌として部分けもされています。
 「雲雀あがる」を出したことによって季節が模糊としてしまって、
 少し分りにくい歌だと思います。
 「雲雀あがる」はあくまでも春の実景としていい、春と夏の季節
 感の違いを言っている歌のようです。

○夏来れば

 夏という季節になったということではなく、夏の季節に西行が、
 この大野にやってきたという解釈が自然です。

(1番歌の解釈)

 「春には雲雀が上がる大野のちがやの原ーその大野を夏通ってくる
 と、暑さに堪えかねて涼しい木陰がないかと尋ね行くことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「春にはのどかに雲雀があがっていた大野の茅原に夏来てみると、
 一面の茅に日陰もなくて、涼をとる木陰を求めてさまよい歩く
 ことになる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 尚、新潮版では結句が「たづねてぞ行く」となっています。

【おぼろの清水】

 京都市左京区大原にある清水。

三千院から寂光院に向かう小道の傍らに「おぼろの清水」はあり
ます。歌枕として「八雲御抄」や「五代集歌枕」にもあげられ、
平安時代から多数の歌にも詠まれてきた有名な清水ですが、現在は
小さな水たまりという感じです。
寂光院に隠棲した建礼門院も親しんだ泉のようです。

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1 すみなれしおぼろの清水せく塵をかきながすにぞすゑはひきける
             (岩波文庫山家集246P聞書集149番)

2 ひとりすむおぼろの清水友とては月をぞすます大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1209番・玉葉集)

○ せく塵

 (せく)は(堰く・塞く)のことで、流れを堰きとめて塞ぐこと。
 流れを塵が堰きとめているという意味。
 この歌では世の汚濁のこと。また、煩悩のこと。

○すゑはひきける

 この歌の詞書は「引摂結縁楽」とあります。
 仏教用語で「引摂・引接=いんじょう」とは、人間の臨終の時に
 阿弥陀仏やその他の菩薩が現れて、念仏を唱える人を浄土に導き
 救いとる、ということを意味します。
 生存している時に仏道の縁を結んだ人々を導いて浄土の世界に
 引き取るということのようです。
 死後の行く末は浄土に導いてあげるという意味です。

○寂然

 2番歌は寂然の詠歌で、西行との贈答歌です。結句を「大原の里」
 として詠んだ十首のうちの一首です。
 寂然は常盤三寂の一人。藤原頼業のこと。西行ともっとも親しい
 歌人です。
 唯心房と号しました。家集に「唯心房集」「法門百首」があり
 ます。

(1番歌の解釈)

 「住み馴れた朧の清水の澄んだ水をせきとめている塵を払い流す
 ことで、流れの末は引けるのだよ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「見る人とてなくただ一人澄んでいる朧の清水と同じく、自分も
 大原の里に独り住み、友としては朧の清水が月かげを宿すと同様、
 月光を庵の中にさしこませることです。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
              
【おほわたさき】

 和歌文学大系21では「大曲崎」の文字をあてています。
 固有名詞ではないと思います。
 普通名詞では「湾を作っている岬」のことです。入り江の突端の
 ことです。

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   筑紫に、はらかと申すいをの釣をば、十月一日におろすなり。
   しはすにひきあげて、京へはのぼせ侍る。その釣の縄はるか
   に遠く曳きわたして、通る船のその縄にあたりぬるをば
   かこちかかりて、がうけがましく申してむつかしく侍るなり。
   その心をよめる

1 はらか釣るおほわたさきのうけ縄に心かけつつ過ぎむとぞ思ふ
         (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1450番)

○筑紫

 広義には九州全域を指す言葉です。狭義には筑前・筑後の国を
 指します。

○はらか

 不明。「ニベ」もしくは「マス」の異名と言われます。
 毎年、元旦に「腹赤」を朝廷に献上していたようです。

○京へはのぼせ侍る

 朝廷で正月の食膳に供するために、筑紫から京都まで送り届け
 ること。

○かこちかかりて

 言いがかりをつけること。高飛車に文句をいうこと。

○がうけがましく

 身分の高い家の人間のように、偉ぶって尊大な態度のこと。
 朝廷に献上する品物だということで、そのことを笠に着て、
 横柄な態度を取るということ。

○うけ縄

 「浮き」をつけた縄。長く張った縄を海中に入れて、その縄の
 端に「浮き」をつけます。「浮き」は海面を漂いますから、縄
 を引き上げる場合の目印になります。

○心かけつつ

 心しながら、ということ。気にかけ注意しながら、ということ。

(1番歌の解釈)

 「大曲崎のあたりでは朝廷に献上する腹赤を釣っているので、
 浮子縄に気をつけて舟を進めようと思う。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【御室】

 京都市右京区にある仁和寺周辺の地名。
 仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所(室)を建てた事から
 御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室という地名になりました。

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1   仁和寺の御室にて、山家閑居見雪といふことをよませ
   給ひけるに

 降りつもる雪を友にて春までは日を送るべきみ山べの里
           (岩波文庫山家集98P冬歌・新潮568番)

 新潮版では以下のようになっています。

 降りうづむ 雪を友にて 春来ては 日を送るべき み山辺の里
           
○仁和寺

 双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊を
 本尊とする真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも
 呼ばれます。
 第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成
 しました。初めての門跡寺院として知られています。
 以来、仁和寺は代々、皇族が住持してきました。
 鳥羽天皇と待賢門院の五男である覚性法親王は7歳の時に仁和寺
 に入り、1153年に第五世として住持しています。
 1156年に保元の乱が起こり、敗れた崇徳上皇は弟の覚性法親王の
 いる仁和寺に入りました。その時に西行は仁和寺に駈けつけて
 います。
 この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院
 があったと伝えられています。法金剛院や遍照寺も仁和寺の子院
 でした。
 1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の
 乱では山名氏によって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。本格的
 な復興は、徳川家光の援助により1646年に成されました。
 ニ王門(仁和寺の場合は「仁王門」と表記しません)や五重の塔は
 この時のものです。
 1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺
 となりました。
 仁和寺には有名な御室桜があります。樹高の低い桜で、お多福桜
 とも呼ばれています。
               (西行の京師第43号から転載)
 
(1番歌の解釈)

 「冬の間はあたり一面埋めつくしてしまう雪を友として閑居を
 楽しみ、春がやって来たら花の日日を送るべき、み山辺の里の
 御室であるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【おもはくの橋】

 どこにあったか不明です。順路からみれば「武隈の松」を見て
 から岩沼市を北上して、名取川の川幅の狭いところにかかる橋
 (おもはくの橋)を渡って名取市に入ったものと思われます。
 
 ところが芭蕉の「おくのほそ道」の曾良随行日記では
 「末の松山・興井・野田玉川・おもハく□の橋、浮嶋等ヲ見廻帰」
 とあります。
 ここでは塩釜市の野田玉川にかかる橋と解釈されますので、西行
 の歌にある橋とは位置が明らかに違います。
 平安末期から江戸初期の間に「おもはくの橋」の架かる場所が
 変わったものとも考えられます。

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   ふりたるたな橋を、紅葉のうづみたりける、渡りにくくて
   やすらはれて、人に尋ねければ、おもはくの橋と申すはこれ
   なりと申しけるを聞きて

1 ふままうき紅葉の錦散りしきて人も通はぬおもはくの橋

  しのぶの里より奧に、二日ばかり入りてある橋なり
      (岩波文庫山家集130P羇旅歌・新潮1129番・夫木抄)

○ふりたるたな橋

 板を棚のように架け渡しただけの簡便な橋のことを言います。
 「ふりたる」は、古いことです。

○やすらはれて

 ためらうこと、躊躇すること。「いさよう」という言葉とほぼ
 同義です。
 ほかに、休むこと、休憩すること、という意味もあります。

○ふままうき

 踏みしめて進んで行くことが辛い・・・という気持のことです。

○しのぶの里

 福島県福島市信夫山を中心とする一帯。信夫山には羽黒神社が
 あります。

(1番歌の解釈)

 「豪華絢爛な錦のような紅葉が橋板全体に散り敷いているので、
 踏むのがもったいなくて渡れないまま、思惑の橋には人通りが
 絶えてしまったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 【おみなへし・女郎花】

 植物名。オミナエシ科の多年草。高さは1メートル程度。
 夏から秋に淡黄色の小花を傘状にたくさんつけます。秋の七草の
 一つです。オミナメシの別称もあります。
 
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01 をみなへし分けつる袖と思はばやおなじ露にもぬると知れれば
           (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮276番)

02 女郎花色めく野邊にふれはらふ袂に露やこぼれかかると
       (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮277番・夫木抄)

03 池の面にかげをさやかにうつしもて水かがみ見る女郎花かな
       (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮282番・夫木抄)

04 たぐひなき花のすがたを女郎花池のかがみにうつしてぞ見る
 (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮283番・西行上人集・山家心中集)
 
05 をみなへし池のさ波に枝ひぢて物思ふ袖のぬるるがほなる
   (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮284番・万代集・夫木抄)

06 花の枝に露のしら玉ぬきかけて折る袖ぬらす女郎花かな
    (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮280番・西行上人集・
              山家心中集・宮河歌合・玄玉集)

07 折らぬより袖ぞぬれける女郎花露むすぼれて立てるけしきに
           (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮281番)

08 けさみれば露のすがるに折れふして起きもあがらぬ女郎花かな
           (岩波文庫山家集60P秋歌・新潮278番)

09 大方の野邊の露にはしをるれど我が涙なきをみなへしかな
       (岩波文庫山家集60P秋歌・新潮279番・夫木抄)

10 宵のまの露にしをれてをみなへし有明の月の影にたはるる
           (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮391番)
 
11 庭さゆる月なりけりなをみなへし霜にあひぬる花と見たれば
           (岩波文庫山家集74P秋歌・新潮392番・
                 西行上人集・山家心中集)

12 穗に出でてしののを薄まねく野にたはれてたてる女郎花かな
           (岩波文庫山家集61P秋歌・新潮297番)

13 月の色を花にかさねて女郎花うは裳のしたに露をかけたる
       (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮390番・夫木抄)

14 玉かけし花のかつらもおとろへて霜をいただく女郎花かな
          (岩波文庫山家集92P冬歌・新潮511番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

15 秋きぬと風にいはせてくちなしの色そめ初むる女郎花かな
           (岩波文庫山家集276P補遺・宮河歌合)

○分けつる袖

 女郎花に宿る露は、他の植物に宿る露とは別物である、という
 意味です。あるいは涙の露と女郎花の露とは同じ露であるという
 ふうにも読めます。
 女性との関係性を女郎花という言葉に見立てて、格別の思い入れ
 を仮託させていると思います。

○枝ひじて

 枝が水に浸かること。びっしょり濡れること。
 「ひち=漬ち」。室町時代まで(ヒチ)と清音。奈良時代から
 平安時代初期には四段活用。平安時代中頃から上二段活用。
     (岩波古語辞典から抜粋)(西行辞典69号から転載)
 
○ぬるるがほ

 濡れているような顔のこと。

○露のすがるに

 自動詞の「縋る」のことです。露の玉がすがり付いているという
 こと。
 「すがる」は鹿の異名でもありますが、ここでは「縋る」です。

○しののを薄

 篠の小薄のこと。女郎花の(女)との対比で、を薄の(を)は
 (男)を掛け合わせていて、そこにドラマ性を出しています。

○たはれてたてる

 (たはれて)は、(戯れて)のこと。
 戯人(たわれひと)、 戯寝(たわらね)、戯女(たわれめ)
 などと用いられます。
 (たてる)は、立っているということ。
 戯れに立っているように見える情景を指します。

○花のかつら

 きらびやかな鬘のこと。立派な造りの髪飾りのこと。

 新潮版では「花のすがた」となっています。

○くちなしの色

 夏に開花する花は純白です。秋になって結実する実は黄色の染料
 として用いられてきました。(くちなしの色)とは、女郎花の
 花色でもある黄色を指しています。
 クチナシの実はそれ自体では閉じたままですので、それゆえに
 「クチナシ」の名がついたようです。

(01番歌の解釈)

 「涙の露に濡れた袖ではあるが、それは女郎花の咲く野辺を分け
 たその時の露によって濡れたのだと思いたい。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「比類なく花やかな艶姿を女郎花は池を鏡にして映し見ている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「女郎花は、枝に美しい露の白玉を貫くようにいっぱいつけて
 いて、折ろうとする袖を濡らしてしまうことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(12番歌の解釈)

 「穂の出ない篠薄が風になびくと、恋しい心もあらわな手招きに
 見える。なぜならその野には女郎花が戯れて男に媚びるように
 立っているから。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(14番歌の解釈)

 「秋には夜露に濡れた様子が宝玉で荘厳した花の髪飾りのように
 美しかった女郎花も、冬にはすっかり衰えて、まるで白髪の老婆
 のようだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(15番歌の解釈)

 「秋が来たということは風にいはせて、くちなし色に、色をそめ
 はじめるおみなえしの花よ。」
 (いはせて(言わせて)とくちなし(口無し)は縁語。
 くちなしは口無しと木のくちなしとかけことば。)
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【おもほゆるかな】

「思う」の活用形に、受身・自発の助動詞「ゆ」が接合した言葉
 が「おもほゆ」です。
 「る」は動詞の未然形につく助動詞。
 「かな」は係助詞「か」の文末用法に、詠嘆の終助詞「な」が
 ついてできた言葉。
 「おもほゆーるーかな」で、漠然として、思う、考える、願う、
 望む、感じるなどのことごとを表します。
           (岩波古語辞典、その他の辞書を参考)

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1 山吹の花咲く里に成ぬればここにもゐでとおもほゆるかな
         (岩波文庫山家集41P春歌・新潮166番・
               西行上人集・山家心中集)

2 何となく住ままほしくぞおもほゆる鹿のね絶えぬ秋の山里
         (岩波文庫山家集69P秋歌・新潮435番・
               西行上人集・山家心中集)

3 松がねの岩田の岸の夕すずみ君があれなとおもほゆるかな
       (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1077番・
       西行上人集・山家心中集、玉葉集・夫木抄)

4 常よりも心ぼそくぞおもほゆる旅の空にて年の暮れぬる
   (岩波文庫山家集131P羇旅歌・新潮572番・西行物語)


5 なみよするしららの濱のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな
    (岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1196番・夫木抄)

○ここにもゐで

 京都府綴喜郡井手町は古来、山吹と蛙の名所でした。
 山吹がたくさん咲いているので、山吹で有名な井手がここにも
 あるのかと錯覚するくらいである、ということです。

○住ままほしくぞ

 住んでみたいと願う気持のこと。

○岩田

 紀伊の国にある地名。和歌山県西牟婁郡上富田町岩田。
 白浜町で紀伊水道に注ぐ富田川の中流に位置します。中辺路経由
 で熊野本宮に詣でる時の途中にあり、水垢離場があったそうです。
 岩田では富田川を指して(岩田川)とも呼ぶようです。

○松がね

 松の木の根のことです。
 この歌の場合は「松がね」という言葉は、岩田という名詞を導き
 出すための枕詞的用法として用いられています。
 西行歌には「松がね」は4首ありますが、この歌のみが「岩田」
 の名詞を導き出す形で詠まれています。
 他の「松がね」歌は以下です。

 波ちかき磯の松がね枕にてうらがなしきは今宵のみかは
          (岩波文庫山家集140P羇旅歌・新潮1053番)
 
 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
         (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1054番・
        西行上人集・山家心中集・続拾遺集・西行物語)

 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
          (岩波文庫山家集260P聞書集・夫木抄)

○しららの濱

 紀伊の国の歌枕。和歌山県西牟婁郡白浜町にある海岸です。
 「しららの濱」の歌はもう一首あります。

 はなれたるしららの濱の沖の石をくだかで洗ふ月の白浪
         (岩波文庫山家集84P秋歌・新潮1476番)

○からす貝

 1 イシガイ科の淡水に住む二枚貝。殻長2センチ前後。
  殻色はやや黒い。

 2 海生の胎貝(イガイ)科の二枚貝。黒褐色で楔形をしている。

 ここでは2番の海産のイガイではなかろうかと思います。

(1番歌の解釈)

「山吹の花咲く里となったので、ここにも山吹の名所である井手が
 出現したかと思われるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「松の根が岩を抱える岩田川の川岸で水垢離を取った。身も清め
 られたが、暑気を払う夕涼みとしても心地よかった。君も一緒
 だったら、と思ってしまいましたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(5番歌の解釈)

 「波が打ち寄せる白良の浜にずらり並んだ烏貝を見つけた。白い
 砂浜に黒い貝だからとっても拾いやすいと思った。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 【折櫃】

 ヒノキなどの薄板を折り曲げて作った箱のこと。菓子、肴などを
 盛る。形は四角や六角など、いろいろある。おりうず、ともいう。
                   (広辞苑から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   五葉の下に二葉なる小松どもの侍りけるを、子日にあたり
   ける日、折櫃にひきそへて遣わすとて

1 君が為ごえふの子日しつるかなたびたび千代をふべきしるしに
           (岩波文庫山家集17P春歌・新潮1184番)
               
   みやだてと申しけるはしたものの、年たかくなりて、さま
   かへなどして、ゆかりにつきて吉野に住み侍りけり。思ひ
   かけぬやうなれども、供養をのべむ料にとて、くだ物を
   高野の御山へつかはしたりけるに、花と申すくだ物侍り
   けるを見て、申しつかはしける

2 をりびつに花のくだ物つみてけり吉野の人のみやだてにして
     (岩波文庫山家集133P羇旅歌・新潮1071番・夫木抄)

 新潮版は以下のようになっています。

  思ひつつ花のくだものつみてけり吉野の人のみやだてにして

(参考歌)
  錦をばいくのへこゆるからびつに收めて秋は行くにかあるらむ
        (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮欠番・夫木抄)
               
○五葉の下に二葉なる小松

 松の針のような葉っぱのこと。普通は二本の葉っぱですが、五本
 が一緒についている松を「五葉の松」といいます。
 この五葉の松の葉っぱの下に、二葉の松も一緒に添えたという
 ことです。「二葉の松」は、幼いこと、若いこと、未来に富んで
 いることなどを表します。

○子日

 正月の最初の子の日にする祝い(遊び)の行事のこと。屋外に
 出て小松を引き、若菜を摘んだりしていました。
 中国に倣って聖武天皇が内裏で祝宴をしたのが初めといいます。
 平安時代でも北野あたりで小松を引いていたようです。
 子の日に小松をひくことは、長寿の意味合いがあります。

○ごえふ

 (五葉=ごえふ)葉が五枚あること。
              
○ふべき

 「経べき=へべき」の漢字をあてています。
 「経る=へる」を「ふる」とも読んでいました。

○みやだて

 召使いの女性の名前。吉野に住んでいて、高野山の西行に贈り物
 をしたということです。

○はしたもの

 身分の低い人。雑用をする召使いの女性のこと。

○くだ物

 花弁状した餅菓子の名前。吉野の蔵王権現では正月に供えていた
 餅を二月に砕いて僧俗多数に配ったとのことです。

 鎌倉時代のことですが、東寺領の荘園の領民に課している様々な
 年貢のうちの一つに「菓子(果物)八十合(はこ)」とあります。
 ですから果物という菓子については、案外、知られていたものと
 思います。
              
○花と申すくだ物

 不明です。上記の「くだ物=餅菓子」の一種だろうと思います。
 あるいは花で有名な吉野からの贈り物だから、「花の吉野から
 の果物」という意味合いがあるのかもしれません。

○からびつ

 衣類などを収納する櫃のことです。足の付けられた櫃を「唐櫃」
 といいます。

(1番歌の解釈)

 「あなたのために五葉の松の二葉を引いて子日をしました。幾
 千代の時を過ごされるその前兆として。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「自分の桜の花を愛する心を知って花という名の菓子を送って
 下さったあなたを思いながら、供養の料としての花の菓子を仏様
 の前に積みお供えしましたよ。吉野の人であるみやたてにふさ
 わしいお供えものとして。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 参考歌については27号を参照願います。

【をはりの尼上】

「尾張の尼は兵衛の局らとともに待賢門院に仕えていた女房で、
「金葉集」初出の歌人であるが、待賢門院の世を去った後、出家
して大原にこもっていたのである。」        
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

「待賢門院に仕えて琵琶の名手とうたわれ、後に大原来迎院の良忍
に帰依して遁世した高階為遠女の尼尾張・・・」
       (目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」より抜粋)

目崎氏説と窪田氏説は待賢門院に仕えていたことは同じですが、
少しの異同があります。目崎氏説の良忍に帰依していたということ
が疑問です。

待賢門院出家が1142年、死亡が1145年。大原来迎院の良忍死亡が
1132年。良忍は待賢門院より13年も早く死亡していますので、
目崎氏説は間違いかもしれません。

 いとか山くる人もなき夕暮に心ぼそくもよぶこ鳥かな 
                  (金葉集 前斉院尾張)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1    大原にをはりの尼上と申す智者のもとにまかりて、両三
    日物語申して帰りけるに、寂然庭に立ちいでて、名残多
    かる由申しければ、やすらはれて

   帰る身にそはで心のとまるかな(西行)

    まことに今度の名残はさおぼゆと申して  

   おくる思ひにかふるなるべし(寂然)
  (前句は西行、付句は寂然)(岩波文庫山家集266P残集18番)

○寂然

 大原(常盤)三寂の一人。藤原頼業のこと。西行とはもっとも
 親しい歌人。

○やすらはれて

 ためらうこと、躊躇すること。「いさよう」という言葉とほぼ
 同義です。
 ほかに、休むこと、休憩すること、という意味もあります。

○さおぼゆ

 そのように覚えて、そのように感じて、という意味。

○かふるなるべし

 「思いが」代わるということ。

(詞書の解釈)

 大原の里に尾張の尼という仏道の先達の知者がいる。その尼上の
 所に寂然とともに訪ねていって足掛け三日ほど話し合いました。
 いざ帰ることになると、寂然は庭に下り立ちて「名残が多い」と
 いうので、私も尼上と別れて帰るのがためらわれました。

(連歌の解釈)

 (前句)
 「いざ帰ろうとすると、心は帰る身に添わないで残りとどまろう
 とするなあ。」

 (付句)
 「尼上の身は庵にあっても心は私たちと一緒に行こうとされて
 いるのだろう。私たちは逆に身は帰るけれども心はこの庵に
 留まろうとしていて、それは送る尼上の思いと引き替えになって
 いるのだろう。」
                       (阿部の解釈)

【女西行】

いつごろ、誰が言い出したのか分りませんが「女西行」なる人物が
います。
「とはずがたり」の作者で、後深草院二条と呼ばれていた女性です。
後深草院二条は1258年の生まれのようです。幼少の四歳頃から御所
で生活してきました。
長じて、後深草院の寵愛を受ける一方、数人の男性との恋愛を重ね
ました。父親の違う子が複数人いるようです。
31歳の時に御所を出て、出家してから諸国遍歴に旅立ちました。
当時の東海道の諸国を初め、伊勢、紀伊、大和、摂津、播磨、備前、
備中、安芸、讃岐などですが、西行の足跡をたどるという明確な
意志は無かったようです。

「とはずがたり」は五巻に別れていて、前半の三巻は後深草院を
中心とした朝廷での生活の記述です。
さまざまな男性との交渉が赤裸々に記述されていて、愛欲編とも
いわれているようです。
後の二巻は墨染めの衣をまとっての諸国行脚が中心になっています。
西行関連の記述を抜き出してみます。

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「巻一」

「九つの年にや西行が修行の記といふ絵を見しに、片方に深き山を
描きて、前には河の流れを描きて、花の散りかかるに居て眺むると」

 風吹けば花の白波岩越えて
  渡りわづらふ山川の水 「西行」

「巻四」

「程なく小夜中山に至りぬ。西行が「命なりけり」と詠みける、
思ひ出でられて」

 越え行くも苦しかりけり命ありと
  また訪はましや小夜中山 「二条」

巻五

 「(かからん後は)と西行が詠みけるも思ひ出でられて」

「巻五」

「修行の心ざしも、西行が修行の式、羨ましくおほえてこそ思ひ
立ちしかば、その思ひを空しくなさじばかりに」 
        (新潮日本古典集成「とはずがたり」から抜粋)

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上記のように書かれていて、西行追慕とも受け取れます。
二条が九歳の年は1266年。西行没が1190年ですから西行没後70年
ほどまでには西行絵巻が作られていて、宮廷人にも知られていたと
いうことになります。

巻五の「かからん後は」の記述は後深草院二条が讃岐の白峰に詣でた
時のものです。西行の下の歌を指しています。

 よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ
        (岩波文庫山家集111P羇旅歌・新潮1355番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語) 

芭蕉の「野ざらし紀行」に伊勢の西行谷の記述があり、

 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ

の句があります。この句の「女西行」が、後深草院二条を指すので
あれば、芭蕉の時代には後深草院二条は女西行として認知されて
いたものと思います。しかしこれは後深草院二条を指すのではなくて、
「芋洗う女、西行なら歌よまむ」であるはずです。