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おい〜おお おか〜おじ おつ〜おの おば〜おん


【岡の屋】 (山、198)

 山城の国の地名。現在の宇治市五ヶ庄。宇治川の東に位置します。

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1 ふしみ過ぎぬをかのやに猶とどまらじ日野まで行きて駒こころみむ
          (岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1438番・
                西行上人集追而加書・夫木抄) 

○ふしみ

 山城の国。現在の京都市南部にあたり伏見区のこと。

○日野

 岡屋から見れば北方に位置します。木幡の東北、醍醐の南になり
 ます。親鸞の誕生地とされる「日野誕生院」などがあります。

○駒こころみむ

 乗馬を楽しむこと。
 馬の乗り心地、耐久性などを試してみること。

(1番歌の解釈)

 「馬に乗って、伏見を通り過ぎたよ。でも岡屋にもなおとどま
 らず、日野までも走らせて、馬の耐久力を試してみよう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

この歌は歌の内容からみて、まだ出家していない在俗時代のものと
みられています。

【荻】

 イネ科の大形多年草。湿地に群生。高さ約二メートル。ススキに
 似るが、より豪壮。葉は扁平な線形。秋に銀白色・穂状の花序を
 つける。」
                (日本語大辞典から抜粋)
 
 草の名もところによりてかはるなり難波の芦は伊勢の浜荻
                      (つくば集)

 オギとアシの区別は難しい。アシの茎は中空、葉は下からほぼ
 均等に開き、花時の穂は紫褐色をおびているのに対し、オギの
 茎は中空でなく、葉は下方寄りに出て、穂は真っ白であること。
 ススキの仲間だが、ススキは株立ちになるし、小穂から長い芒
 (のぎ)が出る。
          (朝日新聞社刊「草木花歳時記」を参考)

 薄に似た感じもするが、葉が大きく広く、下部はサヤとなって
 棹(かん)をつける。万葉集にもよまれているが、平安時代にも、
 その大きな葉に風を感じ、その葉ずれによって秋を知るという
 把握が多かった。
 いずれにせよ、荻は風に関連してよまれることが圧倒的に多い。
        (片桐洋一氏著「歌枕歌ことば辞典」を参考)

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01 霜がれてもろくくだくる荻の葉を荒らく吹くなる風の色かな
         (岩波文庫山家集93P冬歌・新潮509番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

02 身にしみし荻の音にはかはれども柴吹く風もあはれなりけり
         (岩波文庫山家集103P冬歌・新潮983番)

03 あはれとてなどとふ人のなかるらむもの思ふやどの荻の上風
    (岩波文庫山家集154P恋歌・新潮705番・西行上人集・
       山家心中集・新古今集 宮河歌合・西行物語)

04 待ちかねて夢に見ゆやとまどろめば寢覚すすむる荻の上風
         (岩波文庫山家集158P恋歌・新潮1267番)

05 荻の音はもの思ふ我になになればこぼるる露に袖のしをるる
         (岩波文庫山家集158P恋歌・新潮1274番)

06 荻の葉を吹き過ぎて行く風の音に心みだるる秋の夕ぐれ
     (岩波文庫山家集62P秋歌・新潮299番・新後撰集)

07 塩風にいせの浜荻ふせばまづ穗ずゑに波のあらたむるかな
        (岩波文庫山家集168P雑歌・新潮999番・
              西行上人集・山家心中集)

08 をじか伏す萩咲く野辺の夕露をしばしもためぬ荻の上風
         (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮287番)

09 思ふにも過ぎてあはれにきこゆるは荻の葉みだる秋の夕風
    (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮285番・西行上人集・
            山家心中集・新続古今集・万代集)

10 月すむと荻植ゑざらむ宿ならばあはれすくなき秋にやあらまし
          (岩波文庫山家集74P秋歌・新潮387番)

   隣の夕べの荻の風

11 あたりまであはれ知れともいひがほに荻の音する秋の夕風
         (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮288番)

   山里にまかりて侍りけるに、竹の風の、荻にまがひて
   きこえければ

12 竹の音も荻吹く風のすくなきにくはえて聞けばやさしかりけり
         (岩波文庫山家集169P雑歌・新潮1146番)

13  八月、月の頃夜ふけて北白河へまかりける、よしある様なる
   家の侍りけるに、琴の音のしければ、立ちとまりてききけり。
   折あはれに秋風楽と申す楽なりけり。庭を見入れければ、
   浅茅の露に月のやどれるけしき、あはれなり。垣にそひたる
   荻の風身にしむらんとおぼえて、申し入れて通りけり

  秋風のことに身にしむ今宵かな月さへすめる宿のけしきに
          (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮1042番)

 「14番歌は誤入の可能性あり。西行歌ではなく大江匡房歌として
 新古今集945番にあります。」

14 風さむみいせの浜荻分けゆけば衣かりがね浪に鳴くなり
       (岩波文庫山家集95P冬歌・西行上人集追而加書)

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○いせの浜荻

 歌の場合、「伊勢の浜荻」は芦の異名と見られています。

○をじか

 牡の鹿のこと。

○荻植ゑざらむ

 平安時代から荻と風との取り合わせの妙が好まれていたもの
 であり、西行歌のうち荻の名詞のある13首中の11首に風のことば
 が詠みこまれています。

○北白河

 現在の白川通り以東、今出川通り以北の一帯を指す地名。

○よしある様

 由緒のありそうな感じの家。

○秋風楽と申す楽

 雅楽の曲名。雅楽とは中国伝来の音楽で鉦、笛、ひちりき、和琴
 などで演奏するもの。ほかに千秋楽、太平楽などがある。
 秋風楽は曲に合わせての舞があり、これを舞楽といいます。
            (主に講談社の「国語大辞典」を参考)

(02番歌の解釈)

 「秋の、身にしみてしみじみ感じられた荻の上風の音とはかわった
 けれども、冬の烈しく吹く風こそまことにもの憂いことだよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「可哀想だと同情して訪ねてくれる人はどうしていないのだろう。
 あなたのことを思っていると庭の荻の上葉に風の音がしてとても
 寂しい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「秋の夕暮、風になびき乱れる荻の葉ずれの音に、心は千々に
 乱れることだ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
          
(07番歌の解釈)

 「潮風が吹いて伊勢の浜荻が折れ伏すと、すぐさま穂先に波が
 打ち寄せて、生き返らせるのである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(10番歌の解釈)

 「月の澄んだ光がさやかにあたりを照らし出していても、荻が
 植えてない宿であったら、あわれ少ない秋であったろうに。
 (月光をあびた荻、そしてその葉ずれの音に秋のあわれが一段と
 まさることだ。)」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(13番歌の解釈)

 (詞書)
 『「秋風」には秋風楽をかけている。「ことに」は「殊に」と
 「琴」に、「すめる」は「澄める」と「住める」をかけている。
 秋風楽は雅楽の曲名。詞書のなかに「垣にそひたる荻の風身に
 しむらん」うんぬんとあるが、秋風に荻の葉を配するのは白楽天
 の琵琶行などから早く流行したようである。(中略)
 この配合は「更級日記」にも「かたはらなる所に先おふ車とまりて
 荻の葉、荻の葉とよばすれど答へざるなり。呼びわづらひて笛を
 いとをかしく吹きすまして、過ぎぬなり。

 <笛のねのただ秋風と聞ゆるになど荻の葉のそよと答へぬ>

 といひたれば、げにとて

 <おぎの葉の答ふるまでも吹きよらでただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き>

 などとあって知られる。ここの荻の葉は女、外から呼んだが返事が
 なかったというのである。つまり、秋風が吹けば荻の葉はそよぐ
 ものと決められていた。
 そして靡(なび)かない、返事がないということにもなる。

 「こむとたのめて侍りける友だちの待てど来ざりければ秋風の
 涼しかりける夜ひとりうちいて侍りける

 <荻の葉に人だのめなる風の音をわが身にしめて明かしつるかな>
             (後拾遺集巻四・僧都実誓)

 <荻の葉にそそや秋風吹きぬなりこぼれもしぬる露の白玉>
             (詞花集巻三・和泉式部)

 など無数にある。つまり一種の固定化した伝統発想であってこの
 詞書の西行の行動は当時の風流であり、この場面に来合っては
 黙して通り過ぎてはならない。
 家の主人に歌を詠んで挨拶を入れたというわけである。』 
 
 (歌)
 『「秋風が今夜は格別身にしむことだ。それは琴の秋風楽のせい
 なのだが、また月までが澄んで照らすような住み方の庭を見た
 ゆえに。」』
         (『』内は宮柊二氏著「西行の歌」から引用)

【おきふし】

 起きたり伏したりすること。転じて毎日の生活ということ、
 日常ということをも意味します。

 良く似た言葉に(うきふし)がありますが、それは(憂き節)の
 ことであり、(起き伏し)とは意味が異なります。

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1 我なれや風を煩らふしの竹はおきふし物の心ぼそくて
      (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1039番・夫木抄)

2 くれ竹の今いくよかはおきふしていほりの窓をあけおろすべき
          (岩波文庫山家集193P雑歌・新潮1428番)

○風を煩らふ

 自身が風邪を患って起きたり臥したりしていることと、細い
 篠竹が吹き過ぎて行く風に煩わされているということを掛け
 あわせています。

○しの竹

 全体に細く小さい竹のことです。笹なども篠竹になるようです。

○くれ竹

 淡竹(はちく)・真竹の異称と言われます。古代中国の呉の国
 から渡来したことから、この言葉があります。

 枕詞です。竹には節があり、節(ふし)と節の間を節(よ)と
 いうことから、(伏し夜、伏し世)などにかかります。

(1番歌の解釈)

 「吹く風に悩まされている篠竹は、風のまにまに起き伏しする
 様がいかにも心細そうで、まるで風邪をわずらって心細い自分と
 同じようだよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「この無常の世の中で遁世生活に踏み切ったとて、これから
 いくつの夜を眠り、いくつの朝に山家の窓を上げ下ろしできる
 だろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【御ぐし】 (山、181)→「みぐし」参照

【をぐら・小倉山】

 歌に詠われた小倉山は、大和の国と山城の国にあります。
 他に大和の国には(小倉の峰)という形で詠まれている山があり
 ます。
 西行歌にある小倉山は全て京都の小倉山とみなして良いでしょう。
 西行は山城の小倉山の麓に一時期庵を結んでいたことでもあり、
 かつ、平安時代になってからの小倉山の歌はほぼ全て山城の小倉
 山を指していると解釈してさしつかえないためです。
 
 小倉の名詞に掛けて「お暗し」という形で詠まれるのが一般的
 です。また景物としての鹿も詠みこまれることが多くあります。

 (山城の国の小倉山)
 京都市右京区。標高283メートル。大堰川の東側にあり、嵐山と
 向かい合っている山。麓に二尊院、常寂光寺などがあります。
 二尊院境内には「西行法師庵跡」の碑も建てられています。

◎ 小倉山峰立ち鳴らしなく鹿のへにけむ秋をしる人ぞなき
                 (紀貫之 古今集439番)

 この歌は「おみなへし」が詠みこまれています。

◎ おほゐ川うかべる船のかがりびにをぐらのやまもなのみなりけり
                (在原業平 後撰集1232番)

 (大和の国の小倉山)
 山の場所は不詳。現在の奈良県桜井市にあるという山のようです。

◎ 夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝宿(いね)にけらしも 
             (舒明天皇 万葉集巻八1511番)

◎ おく露の光をだにも宿さまし小倉の山になに求めけむ
                      (竹取物語)

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01 をぐら山麓に秋の色はあれや梢のにしき風にたたれて
          (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮485番)

02 をぐら山ふもとをこむる秋霧にたちもらさるるさを鹿の声
        (岩波文庫山家集276P補遺・西行上人集・
                  宮河歌合・新勅撰集)

03 小倉山ふもとの里に木葉ちれば梢にはるる月を見るかな
    (岩波文庫山家集95P冬歌・西行上人集・宮河歌合・
                  新古今集・西行物語)

04 わがものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家ゐせしより
          (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮486番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

05 躑躅咲く山の岩かげ夕ばえてをぐらはよその名のみなりけり
          (岩波文庫山家集40P春歌・新潮164番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

06 大井河をぐらの山の子規ゐせぎに声のとまらましかば
          (岩波文庫山家集45P夏歌・新潮191番)

07 限あればいかがは色もまさるべきをあかずしぐるる小倉山かな
      (岩波文庫山家集88P秋歌・新潮478番・新勅撰集)

08  小倉の麓に住み侍りけるに、鹿の鳴きけるを聞きて

  をじか鳴く小倉の山の裾ちかみただひとりすむ我が心かな
           (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮436番)

09  小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。おなじ
   院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、分けおは
   したりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へまゐられける
   に、御山よりいであひたりけるを、しるべせよとありければ、
   ぐし申して粉河へまゐりたりける、かかるついでは今はある
   まじきことなり、吹上みんといふこと、具せられたりける
   人々申し出でて、吹上へおはしけり。道より大雨風吹きて、
   興なくなりにけり。さりとてはとて、吹上に行きつきたり
   けれども、見所なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふ
   にも似ざりけり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ
   伝へられたるものをと思ひて、社にかきつけける

  あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
         (岩波文庫山家集136P羇旅歌・新潮748番)

10  待賢門院の中納言の局、世をそむきて小倉の麓に住み侍り
   ける頃、まかりたりけるに、ことがらまことに優にあはれ
   なりけり。風のけしきさへことにかなしかりければ、
   かきつけける

  山おろす嵐の音のはげしきをいつならひける君がすみかぞ
         (岩波文庫山家集135P羇旅歌・新潮746番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)

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○風にたたれて

 錦を織りなし裁断する縁語として「裁つ」を響かせています。

○をじか

 雄の鹿のこと。

○天野

 和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
 高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
 の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
 隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
                  (和歌文学大系21を参考)

 「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
 ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
 河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
 「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。
                 (西行辞典19号から転載)

○帥の局
 待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。藤原
 季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、次に
 建春門院平滋子の女房となっています。

○御山

 高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
 の場を移していたということになります。

○粉川

 地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
 の門前町として発達しました。
 粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。

○吹上

 紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
 「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
 ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
 ようです。
 天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
 思いますので、どこかで一泊した旅に西行は随行したものだろう
 と思われます。
 吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。

○能因

 中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
 橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
 (伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
 入道とも自称していたようです。「数奇」を目指して諸国を行脚
 する漂白の歌人として、西行にも多くの影響を与えました。
 家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

 「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
 
○待賢門院の中納言の局

 待賢門院の落飾(1142年)とともに出家、待賢門院卒(1145年)
 の翌年に門院の服喪を終えた中納言の局は小倉に隠棲したとみな
 されています。
 西行が初度の陸奥行脚を終えて高野山に住み始めた31歳か32歳頃
 には、中納言の局も天野に移住していたということになります。
 待賢門院卒後5年ほどの年数が経っているのに、西行は待賢門院の
 女房達とは変わらぬ親交があったという証明にもなるでしよう。

 中納言の局は215Pの観音寺入道生光(世尊寺藤原定信、1088年生)
 の兄弟説があります。それが事実だとしたら西行よりも20歳から
 30歳ほどは年配だったのではないかと思います。金葉集歌人です。

(01番歌の解釈)

 「小倉山の山上の梢の錦は風に断ち切られてしまって、秋の紅葉
 の色は、今や麓に移ってしまったことであろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「小倉山の麓の里に木の葉が散ると、葉を落とした木々の梢に
 晴れた月を見るようになるよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「つつじが真赤に咲く小倉山の岩かげは、夕日の色に照りはえて
 いっそうつつじの色に明るくなり、おぐらという名前は他所の
 名前に過ぎないことだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(07番歌の解釈)

 「人の命と同じように紅葉にも限度があるから、もうこれ以上
 濃くは染まりようがないのに、小倉山では紅葉をもっと濃く美し
 くしようと時雨がまた降っている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【小笹・笹】

 小笹は(おざさ)とも(こざさ)とも読まれます。少し乱暴かも
 しれませんが、ここでは笹の項も含めて(おざさ)に集約して
 記述します。
 笹とはイネ科の多年生植物で、山野に自生する小型の竹類のうち、
 竹の子の皮の剥がれ落ちないものの総称です。

 小笹(おざざ)=(お)は言葉の調子を整えるための接頭語と
         して用いられています。

 小笹(こざざ)=笹のうち、丈の低い、小さい笹を指します。

 とはいえ(おざさ)と(こざさ)は厳格に分類できるものとは
 思えません。両方の意味を合わせ持つものとして解釈して良い
 のではないでしょうか。(おざさ)と(こざさ)のどちらでの
 読み方でも差し支えないものと思います。

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1 夕されや玉うごく露の小ざさ生に声まづならす蛬かな
          (岩波文庫山家集63P秋歌・新潮445番)

2 なつの夜も小笹が原に霜ぞおく月の光のさえしわたれば
          (岩波文庫山家集51P夏歌・新潮245番)

3 小笹原葉ずゑの露の玉に似てはしなき山を行く心地する
      (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮972番・夫木抄)

4 こ笹しく古里小野の道のあとを又さはになす五月雨のころ
      (岩波文庫山家集49P夏歌・新潮210番・夫木抄)

5 五月雨は行くべき道のあてもなしを笹が原もうきに流れて
         (岩波文庫山家集50P夏歌・新潮226番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

6 笹ふかみきりこすくきを朝立ちてなびきわづらふありのとわたり
        (岩波文庫山家集123P羇旅歌・新潮1116番・
             西行上人集追而加書・西行物語)

7 いほりさす草の枕にともなひてささの露にも宿る月かな
        (岩波文庫山家集122P羇旅歌・新潮1109番・
                西行上人集・山家心中集)

8 もろともに影を並ぶる人もあれや月のもりくるささのいほりに
          (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮369番)

○小ざさ生に

 小笹が群生している原のこと。

○夕されや

 (夕然れや)で、夕方になれば、という意味。

○はしなき山

 新潮版では(石なき山)としています。
 和歌文学大系21でも(石のない山)としています。石のない山
 とは崑崙山を指し、仏道修行に関係する歌とみなしています。

○古里小野

 (古里)及び(小野)は京都の大原の小野のこととみられて
 います。
 大原近くのバス停留所名に「ふるさと」がありますが、地名との
 関係は不明です。

○きりこすくき

 霧が越すということ。山中なので霧が深く立ち込めたまま移動
 している情景が想像できます。
 (くき)は、山中の洞穴のある場所のこと。
 また、峰や山の頂のことも(くき)といいます。

○なびきわづらふ

 なびく事。根本はしっかりと保っておきながら、先端にかけて、
 たおやかに、しなやかに揺れる様が靡くということです。

 「笹と霧とに悩まされつつ通ってゆくさまを地名に重ねて
 詠むか。」
 「靡は路の義、一里をもいい、やがて行場の称となる」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

○ありのとわたり

 山の尾根の両側が切り立った崖となっている狭い尾根道のこと。
 山岳修験者の修行の場として利用されてきました。長野県
 戸隠山の「ありのとわたり」が有名です。
                (日本語大辞典を参考)
 
 ここでは大峯山中にある行場の(ありのとわたり)を指します。

(1番歌の解釈)

 「夕方になると露が玉と置く小笹原に、こおろぎが初めて鳴いて
 玉のような声を響かせるよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「夏の夜であるが、小笹が原に霜が置いたごとく見えるよ。月の
 光が冴え渡っているので。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(4番歌の解釈)

 「古人が通った小野の里の古道は茂った小笹で見分けられる程度
 であったが、梅雨時にはまたもとの沢に戻ってしまう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(7番歌の解釈)

 「篠の宿に仮寝をすると、庵に漏る月が笹原一面の夜露にも
 宿って、一緒に旅寝をしているようである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 【をざさのとまり】

 奈良県吉野郡天川村にあります。大峰奥駆道の75靡(なびき)中
 の第66番の小篠宿のことです。
 ここは醍醐寺派(当山派)の本拠地で、往時には三十六軒の坊舎
 が軒を並べていたそうです。現在は二坪程度の本堂と護摩道場
 のみとのことです。
     (山と渓谷社刊「吉野・大峯の古道を歩く」を参考)

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   をざさのとまりと申す所に、露のしげかりければ

1 分けきつるをざさの露にそぼちつつほしぞわづらふ墨染の袖
         (岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮918番)

○そぼちつつ

 濡(そぼ)つこと。ぐっしょりと濡れること。

○ほしぞわづらふ

 濡れた衣類を、干して乾かすことが難しいということ。

(1番歌の解釈)

 「小篠の泊りでは、小笹を分けて来てその露に濡れそぼちながら
 墨染の袖を干しわずらうよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【おしてるや】

 おしてるや難波の御津にやく塩のからくも我は老いにけるかな
               (よみ人しらず 古今集894番) 

 おしてるやなにはのあしのしたがくれかりねもる鴨の霜になく声
                 (後鳥羽院 後鳥羽院集)

 「おしてる」には普通は(照り渡る)という意味があります。
 上の二首などは難波にかかる枕詞ともみられますが、余りにも
 用例が乏しくて断定できません。

 和歌文学大系21によると「おしてるや」は「海の異名」とのこと
 です。下の西行歌の詞書は以下のようになっています。

   普門品

  弘  誓深  如海 歴 劫不思議  

 詞書は漢文の素養のない私にはよく分らないですが、(おしてる)
 が海そのものか、もしくは海の縁語として機能していることは
 理解できます。

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1 おしてるや深きちかひの大網にひかれむことのたのもしきかな
         (岩波文庫山家集230P聞書集26番・夫木抄)

○深きちかひ

 仏道信仰の深さということ。疑いの少しも無い、絶対的な信仰心
 を指すのでしょう。

○ひかれむこと

 信仰を通じて仏の慈悲という大網に引かれて、救い上げられると
 いうこと。

(1番歌の解釈)

 「観音の海のように深い誓いの大網に引かれることの頼もしい
 ことだなー。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「おしてる(難波の枕詞)難波の海の深いように、仏の深い誓い
 によって、すくいの大網に、あたかも魚のかかるように、悟りの
 道にひかれてゆくことは、仏の大慈悲につつまれることで、まこ
 とに心たのもしいことであるよ。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【雄島の磯】

 松島にある島の名称。松島海岸から近く、古くから仏道修行の
 聖地として有名でした。その島の磯のことです。
 「地続きで海に出でたる島なり」と「奥の細道」にあります。

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   遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて

1 松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
  (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮欠番・西行上人集追而加書)

○松島

 宮城県にある松島湾を中心とする一帯の名称。安芸の「宮島」、
 丹後の「天の橋立」とともに日本三景の一つです
 西行は松島まで行ったのかどうか分かりません。芭蕉も義経も
 多賀城→塩釜→松島→平泉のルートを採っていますので、ある
 いは初度の旅の時に同じルートをたどった可能性があります。
 おもしろいことに松島には伝承を元にした「西行戻しの松公園」
 があります。
 
○きさがた

 出羽の国の歌枕。現在の秋田県由利郡象潟町。

 世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして
           (能因法師 後拾遺和歌集519番)

 能因法師の上の歌によって象潟は有名な歌枕になったといわれ
 ます。しかし、西行は象潟まで行ったという確証はありません。

 芭蕉も「奥の細道」の旅で象潟まで行っています。
 しかも「(花の上漕ぐ)とよまれし桜の老い木、西行法師の記念
 を残す」とさえ書きしるしています。「花の上漕ぐ」とは下の
 歌です。

 象潟の桜は波にうづもれて花の上漕ぐ海士の釣舟(継尾集)

 芭蕉が信じているように、この歌も当時は西行歌として読まれて
 いたものでしょう。西行は象潟まで足を伸ばしたものと、芭蕉は
 当然のように信じ込んでいたものと思います。

(1番歌の解釈)

 「松島の雄島の磯から見る月もそれなりに良かったのだが、この
 象潟から見るすばらしい月と比べたら何ほどのこともないことだ。
 それほどに象潟の月はみごとなものである。」
                     (阿部の解釈)

 (松島や)歌について

 「松島や」歌は西行上人集追而加書中の一首です。この集のみに
 しかない歌です。
 この集は他者の歌を西行歌として、あるいは他人詠の伝承歌を
 多く含んでいますので信用できないものです。
 窪田章一郎氏の「西行の研究」をはじめとして、いくつかの研究
 書・解説書にも記載がありません。安田章生氏著「西行」のよう
 に、歌が取り上げられていたとしても「西行作とは信用できない」
 ということが明記されています。
 佐佐木信綱氏が岩波文庫山家集に採録したのは、西行歌である
 確証は無いと認めた上で、この歌が西行歌として広く人口に流布
 していたという、そのことによってのみでしょう。