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おい〜おお おか〜おじ おつ〜おの おば〜おん


【落合のはた】 (山、98) →「えぶな」参照

 二つの川の合流地点を「落合」といいます。「はた」は水の作用
 によって地形が湾曲した、入江のようになっている部分を指し
 ます。「わだ」と言う呼称が普通のようです。
 
【えぶな】

 (江鮒)の文字を当てます。鮒の大きさのことを指し、だいたい
 20センチ弱までの鮒を言います。
 後に関東では簀走(すばしり)と呼ばれたようです。関西は江鮒。
 魚類の場合は同じものでも地域によって呼び方が変わるものが
 多くあります。
                (岩波古語辞典を参考)

 「腹の赤いふな。またはぼらの幼魚。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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1 たねつくるつぼ井の水のひく末にえぶなあつまる落合のはた
          (岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1393番)
       
○たねつくる

 ひらがな表記では何のことかわかりにくいです。
 新潮版では「種漬くる」となっています。植物の種を保存の
 ために漬けておくことのようです。何という植物の種なのか
 皆目わかりません。

○つぼい

「壷井」と資料ではありますが、この言葉も今日ではわからない
 言葉ではないかと思います。
 「開口部が狭くて中央部が広く、壷のような形をした井戸」と
 言うことですが、井戸にさえ、わざわざそんな名称をつけていた
 ということだろうと思います。

○えぶな

 (江鮒)の文字を当てます。鮒の大きさのことを指し、だいたい
 20センチ弱までの鮒を言います。
 後に関東では簀走(すばしり)と呼ばれたようです。関西は江鮒。
 魚類の場合は同じものでも地域によって呼び方が変わるものが
 多くあります。
                (岩波古語辞典を参考)

 「腹の赤いふな。またはぼらの幼魚。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
 
(歌の解釈)

 「種を漬ける壷のように、口細の井戸の水を引く末の、江鮒が
 集まっている河水の落ち合う淵よ。」
 ◇種漬くる=「壷」をいうための枕詞のごとき働きをする。
 ◇落合のわだ=「落合」は河川の落ち合う所。「わだ」は「曲」、
        地形の湾曲している所。入江。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「植物の種を漬けてある壺井の水が、引かれて川に合流する
 あたりには入江ができて、赤い鮒がたくさん集まっている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

良く分からない歌ですが、要するに、井戸の水を引いた小さな流れ
と、近くの川が合流する地点に江鮒が集まっている、という情景の
歌です。

【おつまじく】

 上二段活用「落つ」に、助動詞連用形の「まじく」が接合した
 言葉です。
 落ちないように・・・という意味です。

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1 風ふくと枝をはなれておつまじく花とぢつけよ青柳の糸
      (岩波文庫山家集33P春歌・新潮151番・夫木抄)

○花

 ここでいう「花」とは「花の歌十五首よみけるに」という詞書に
 よって桜の花ということがわかります。
            
○青柳(あおやぎ)の糸

 柳の葉の細さを糸に見立てています。
 柳も梅や桜とともに春を代表する植物の一つです。

(1番歌の解釈)

 「風が吹くというので枝から離れて散ることのないように、青柳
 の糸よ、桜の花を枝にとじつけてくれ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(その他の青柳歌)

1 なかなかに風のおすにぞ乱れける雨にぬれたる青柳のいと
          (岩波文庫山家集23P春歌・新潮53番)

2 見渡せばさほの川原にくりかけて風によらるる青柳の糸
         (岩波文庫山家集23P春歌・新潮54番・
           西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

3 吹みだる風になびくと見しほどは花ぞ結べる青柳の糸
         (岩波文庫山家集39P春歌・新潮1073番)

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◎ あおやぎの糸よりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける
                (紀貫之 古今集26番)

◎ 花見にはむれてゆけども青柳の糸のもとにはくる人もなし
               (よみ人しらず 拾遺集)

◎ しら雲のたえまになびくあおやぎの葛城山に春風ぞ吹く
               (藤原雅経 新古今集74番)

【男山】

 京都府八幡市にある標高143メートルの山。山頂には859年勧請の
 岩清水八幡宮があります。
 この山は神域として保護されてきたため、照葉樹林中心の天然林
 となっています。
 男山の西北には宇治川、木津川、桂川の三川が合流していて、淀川
 と名称を変えて大阪湾に注いでいます。

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   男山ニ首

1 今日の駒はみつのさうぶをおひてこそかたきをらちにかけて通らめ
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1527番)
 
2 みこしをさの声さきだてて降りますをとかしこまる神の宮人
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1528番)

○みつのさうぶ

 美豆の菖蒲。美豆は男山の少し北に位置する地名。男山にある
 岩清水八幡宮の五月節句の日の行事に競馬があって、片方の馬は
 背に美豆産の菖蒲を付けているということ。菖蒲は勝負に掛けて
 います。

○かたきをらちにかけて

 (かたき)は勝負の相手方のこと。(らち)は競馬用の馬場の
 柵のことです。相手を柵のあたりに押し付けるようにして・・・
 立ち往生させるようにして・・・一方的にということを意味
 しています。

○みこしをさ
  
 神輿長のことです。祭りで神輿の運行を管轄する責任者です。   

(1番歌の解釈)

 「今日5月5日の岩清水の競馬に出場する馬は、美豆野の菖蒲を
 背に負っているので、相手の馬を馬場の柵に立ち往生させる
 くらい颯爽と駆け抜けて、勝利した。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「神輿長の警蹕(けいひつ)の声を先立てて神輿が下りられると
 「おう」と答えて神官はかしこまることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「警蹕」とは、昔、天皇の出入りなどに先払いが声をかけて人々
 に注意したこと。その声。現在も、神事のとき神官が行う。
                  (日本語大辞典を参考)

 (岩清水八幡宮)

 859年、九州の宇佐八幡宮に参詣した奈良の大安寺の僧の行教が
 平安京の近辺に八幡宮を移座して国家鎮護の役目をになわせる
 ために、朝廷に奏上したのが岩清水八幡宮の起こりといいます。
 宇佐八幡宮の神官が都に進出したいための策謀という説もあり
 ますが、そんなものだろうと思います。

 天皇・貴族の崇敬もきわめて厚く、この八幡宮で三月の午の日に
 行われていた臨時祭は朝廷の管掌する「南祭り」として、加茂社の
 「北祭り」と対をなすものです。

 また弓矢の神としての武門源氏との関係も深く、源義家はここで
 元服して八幡太郎義家と名乗りました。
 河内源氏の祖である源頼信「?〜1048」が晩年に岩清水八幡宮に
 願文を奉納してから八幡神が源氏の氏神となりました。
 それで代々の源氏の崇敬を受けていたため、源頼朝もしばしば
 ここに参詣しています。
 源氏足利氏の六代将軍のくじ引きもここで行われ、義教(よしのり)
 が室町幕府第六代征夷大将軍になってもいます。

 岩清水八幡宮は応仁の乱で衰退しましたが、信長、秀吉、秀頼、
 家康、家光などが復興に尽力しました。明治維新の廃仏毀釈運動
 で壊滅状態になり、多くの仏像や仏具が破壊されてしまったのは
 残念としかいえません。

 尚、源頼信の「岩清水願文」では源満仲、頼信と続く系統の源氏
 は第56代清和天皇ではなくて清和天皇の子の第57代陽成天皇の
 源氏であるとしています。

 (西行と院の小侍従)「48号 院の小侍従に既出」

 岩清水八幡宮別当大僧都、紀光清のむすめに院の小侍従がいます。
 院の小侍従と西行の間に贈答歌がありますから、それなりに親し
 かったものと思います。

   院の小侍従、例ならぬこと、大事にふし沈みて年月へにけりと
   聞きて、とひにまかりたりけるに、このほど少しよろしき
   よし申して、人にもきかせぬ和琴の手ひきならしけるを聞きて

 琴の音に涙をそへてながすかな絶えなましかばと思ふあはれに
         (岩波文庫山家集200P哀傷歌・新潮922番・
               西行上人集追而加書・玉葉集)

 頼むべきこともなき身を今日までも何にかかれる玉の緒ならむ
  (院の小侍従歌)(岩波文庫山家集200P哀傷歌・新潮923番)


 生没年未詳。1122年頃の誕生、1200年頃に没したと見られて
 います。80歳以上の高齢ということですから、当時とすれば長く
 生存した女性です。
 1160年、二条天皇に仕え、その後は二条天皇と六条天皇の后で
 あった藤原多子(まさるこ)に出仕し、太皇太后宮小侍従となって
 います。後には高倉天皇の女房として仕えたようです。

 小侍従と後白河院との関係は分かりませんが、後白河天皇が譲位
 して後白河上皇になる以前に、後白河帝の寵愛を受けたということ
 をネットで散見しました。「院の小侍従」という表記は、そういう
 関係からきているものでしょう。
 西行との贈答歌のある時代ははっきりとは分かりませんが、二条
 天皇に仕える前の30歳代後半だろうと思われます。
 以後、院の小侍従は頻繁に歌会などにも参加していますので健康
 を取り戻したものと思われます。琴の名手でもあり、歌によって
 「待宵の小侍従」とも評されました。

 まつ宵にふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは
               (院の小侍従 新古今集1191番)

 新古今集や千載集の勅撰集歌人であり、家集に小侍従集があり
 ます。西行の入寂を悼んでの挽歌らしき歌も詠まれています。

 ちらぬまはいざこのもとに旅寝して花になれにしみとも偲ばむ
                  (小侍従 360番歌合)
          (主に有吉保著「和歌文学辞典」を参考)

【おとなしの滝】

「八雲御抄」「能因歌枕」ともに紀伊の国の歌枕としています。
 「おとなし」は音沙汰がない、音信が無いという意味を含ませて
 使われます。

 西行の歌の場合は「小野山」の名詞が詠みこまれていることに
 よって、京都の大原にある「音無の滝」とみなされます。
 「音無の滝」は律川の上流にあたり、大原来迎院を超えて300
 メートルほど山に登るとあります。大きい滝ではありません。

 「都名所図会」では下のように説明しています。

 「来迎院の東四町にあり。飛泉(ひせん)二丈余にして翠岩
 (すいがん)に傍(そ)ふて南へ落つる。蒼樹蓊鬱(そうじゅ
 おううつ)として陰涼こころに徹し、毛骨悚然(もうこつしょう
 ぜん)として近づきがたし。」

 西行の伝承歌に下の歌があるようです。出典は不明です。

 「音無の滝とは聞けども昔より世に声高き大原の滝」
         (山と渓谷社「比叡山を歩く」より抜粋)
  
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1 小野山のうへより落つる瀧の名のおとなしにのみぬるる袖かな
            (岩波文庫山家集277P補遺・夫木抄)

○小野山

 小野山とは今号の西行の歌からも分かるように、比叡山の西麓に
 ある三千院や来迎院の背後の山を指しています。
 古い時代はこの小野山を特定しつつ、同時に左京区小野郷にある
 他の山々をも漠然と小野山と呼んでいたそうです。

 北区と山科区、宇治市にも小野の郷名があります。しかし山と
 しての小野山は左京区と北区のみです。
 この歌の場合は左京区の小野山と断定できます。

(1番歌の解釈)

 「小野(京都比叡山の麓)の山から落ちている滝、それは音無し
 の滝というのであるが、その名のように音無しに(人に知られずに)
 恋に泣く涙にぬれるわが袖よ。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【音羽・音羽山】

 京都市山科区にある山。京都府と滋賀県の府県境の山です。
 京都市では他に、清水寺の背後の山、及び比叡山西麓に音羽山が
 あります。
 
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1 春たつと思ひもあへぬ朝とでにいつしか霞む音羽山かな
          (岩波文庫山家集14P春歌・新潮0004番)

2 音羽山いつしかみねのかすむかなまたるる春は関こえにけり
                   (松屋本山家集01番)

3 春たちて音羽のさとのかげの雪にしたの清水のとくるまちける
                   (松屋本山家集03番)

4 いつしかにおとはの瀧のうぐいすぞまづみやこには初音なくべき
                   (松屋本山家集04番)

○春立つ

 二十四節季のひとつで、立春のこと。陰暦では年によって立春が
 新年より早いこともあります。
           
○思ひもあへぬ

 思いもかけないこと。思いもよらぬこと。

○朝とでに

 朝戸出=朝、戸外に出るということ。

○したの清水

 固有名詞ではなくて普通名詞。雪の下の清水ということ。
 ただし雪が溶けないことには清水の状態は見えないですから、
 清水が雪の解けるのを待っているということ。擬人化表現。

○おとはの瀧

 山科区の音羽山にある音羽の滝を指します。
 音羽の滝は他に清水寺にもあります。左京区の雲母坂の近くにも
 ありましたが、この比叡山西麓の滝は現在は消滅しています。

(1番歌の解釈)

 「立春の日を迎えても、とても春とは思えない朝の寒い外出だが、
 それでもいつのまにか霞のかかっている音羽山だ。」
             (宮柊ニ氏著「西行の歌」より抜粋)

 「昨日までと特に変わった様子もなく、立春とは思いもよらな
 かったが、朝外へ出てみると、春がやって来るといわれる東の方
 に見える音羽山にいつの間にか霞がかかり、春になったことを
 告げている」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(4番歌の解釈)

 「早くも春になったとばかり、音羽の滝のほとりに棲む鶯はまず
 都で初音を鳴くのであろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「音羽山」

 山科盆地の東にあり、京都府と滋賀県の境界をなす山です。北は
 逢坂山、南は醍醐山に連なっています。海抜593メートル。
 音羽山は「名所都鳥」に

 《をとは山、をとにきく所三ところにあり。清水のをとはと、
 相坂の関より南にあたる山と、ひえの西、きらら坂の中程となり、
 又の説には清水のをとはと牛尾のをとはと白川のをとはと三つ也。》

 とあるように三ヶ所が知られる。(中略)
 山科の音羽山は歌枕である。郭公・紅葉・秋風などと詠合わせら
 れることが多い。「能因歌枕」が山城と近江にそれぞれ入れて
 いるのは、この山が国境をなすからであろう。     
          (上記は平凡社「京都市の地名」より抜粋)

【小野】

 京都には著名な「小野」の地名は3カ所あります。

 山科区の随心院あたり。
 左京区の三宅八幡あたりから大原にかけて。
 右京区の周山街道沿い。

 西行歌の殆どは左京区の大原近辺を詠んだ歌と見ていいでしょう。

【小野殿】

 惟喬親王の住居のことと言われています。後述。

【小野山】

 左京区の小野と区別するために、北区の小野10郷は(小野山)と
 呼びならわされてきました。
 この北区の小野郷は古代・中世は主殿寮領、近世は仙洞御所領と
 して朝廷との結びつきを保ったままだった、ということです。

 5番の西行歌にある小野山は大原来迎院や三千院のある背後の山を
 指しています。来迎院から300メートルほど山を登ると「音無の滝」
 があります。

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1 こ笹しく古里小野の道のあとを又さはになす五月雨のころ
       (岩波文庫山家集49P夏歌・新潮210番・夫木抄)

2 ゆふ露をはらへば袖に玉消えて道分けかぬる小野の萩原
          (岩波文庫山家集60P秋歌・新潮264番・
                 西行上人集・山家心中集)

3 宿ごとにさびしからじとはげむべし煙こめたる小野の山里
           (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮566番)

4 雪わけて外山をいでしここちして卯の花しげき小野のほそみち
             (岩波文庫山家集236P聞書集70番)

5 小野山のうへより落つる瀧の名のおとなしにのみぬるる袖かな
            (岩波文庫山家集277P補遺・夫木抄)

   人を尋ねて小野にまかりけるに、鹿の鳴きければ

6 鹿の音を聞くにつけても住む人の心しらるる小野の山里
  (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮441番・新後撰集・夫木抄)
            
   下野の國にて、柴の煙を見てよみける

7 都近き小野大原を思ひ出づる柴の煙のあはれなるかな
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・新潮1133番)
             
   人に具して修学院にこもりたりけるに、小野殿見に人々
   まかりけるに具してまかりて見けり。その折までは釣殿
   かたばかりやぶれ残りて、池の橋わたされたりけること、
   から絵にかきたるやうに見ゆ。きせいが石たて瀧おとし
   たるところぞかしと思ひて、瀧おとしたりけるところ、
   目たてて見れば、皆うづもれたるやうになりて見わかれず。
   木高くなりたる松のおとのみぞ身にしみける

8 瀧おちし水のながれもあとたえて昔かたるは松のかぜのみ
               (岩波文庫山家集267P残集20番)
       
○古里小野

 実際に生まれた土地、出身地ということを意味していません。
 以前は名のあった土地だけど、そこは少し寂れて古い里になった
 という事実に、哀感を託した言葉です。同時に、雨の「降る里」
 ということをもかけ合わせています。
 おもしろい事に京都バスの大原行きの停留所名に「ふるさと」が
 あります。西行歌の「古里」と何か関係があるのかもしれません。

○又、さはになす

 雨が降り続いているために、小道だったところも水が激しく流れ
 て、またしても沢の状態になっているということ。

○小野の萩原

 この小野は固有名詞ではなくて普通名詞と思います。
 萩の群生する野原という解釈で良いと考えます。

○煙こめたる

 炭を作るための煙が立ち込めている情景のこと。

○外山

 人里に近い山のこと。里山・端山のこと。

○小野山

 ここでは大原来迎院の背後の山を指しています。

○修学院

 左京区にある地名及び寺社名。後述します。

○釣殿

 寝殿造りで、東西の対の屋から南に延ばされた中門廊の端に、
 池にのぞんで建てられた建物。
         (講談社「日本語大辞典」より引用)

○きせい

 不明です。庭園を作る人だったのでしょう。
 宇多帝の臣で囲碁の名人といわれた基勢(橘良利)のことかと
 いう説(和歌文学大系21)があります。
 
○目たてて

 注意して物を見ること。関心を持って見る事。

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(1番歌の解釈)

 かつてはもう少し賑わいを見せていた小野の里も、今では少し
 寂れてきています。小道には小笹が生い茂っていて、道の跡と
 しか見えません。
 その道のあった所を、降り続いている五月雨は奔流となってほと
 ばしり、雨水が勢いよく流れて沢になることでしょう。

 歌にある全体の言葉の調子、統一感というものから見ると悪くは
 ない歌だと思います。むしろ良い歌の部類だろうと私は思います。
 分かりやすい歌ともいえます。
 しかし歌に込められた詠み手の情動そのものが読み手と響きあい、
 絡み合うという傾向の歌などから見ると、情景を詠った歌である
 ことの弱さみたいなものを禁じ得ません。
                      (阿部の感想)

(2番歌の解釈)

 《「しとどに降りた夕べの露を払いながら行くとわが袖にふれて
 白露の玉が消え失せるので、それが惜しくて、狭い道を分けて
 行くのもためらわれる。この野の萩の花の原よ。」
  ○小野ー地名でなく「小」は接頭語で「野」のこと。》
    (《 》内は渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)

(3番歌の解釈)

 「どの家も寂しくなるのはごめんだとばかり炭焼きに励んでいる
 のであろう。おかげで小野大原は山里全体に煙が立ち込めて
 しまった。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(7番歌の解釈)

 「ここ下野国で炭を焼く煙を見ると、都に近い小野大原の炭を
 焼く煙が思い出され、しみじみと感慨がもよおされるなあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(8番の詞書と歌の解釈)

 (詞書)
 人と共に修学院にこもっていた頃のことです。人々が小野殿を
 見物に行くと言うことですので、同行しました。
 小野殿の釣殿はその時まではわずかに形ばかり残っていました。
 池には橋が渡されているのですが、その様子などは唐絵に描いた
 ように、鮮やかに見えました。ここは、きせいという庭師が大き
 な石を立てて滝を作って水を流していた所です。しかし、注意
 して良く見てみても、すべてが埋もれたようになっていて、滝の
 跡も見分けがつきません。
 高く伸びた松の木を渡って行く風の音のみ聞こえることが、うら
 寂しくて身にしみます。
  
 (歌)
 かつては滝があり流れていた水も、今では絶えてしまっています。
 この邸の昔のことを語るものは何もありません。ただ、松風のみ
 が往時と同じに吹きすぎて行くばかりです。
                   (以上は阿部の感想)
 
 (小野・小野郷について)

 930年代に成立した「和名抄」によると、山城の国には宇治郡の
 小野郷と愛宕郡(おたぎぐん)小野郷が見えます。それとは別に
 北区にも小野の地があります。

 1 宇治郡の小野郷は現在の山科区小野あたりを指しています。

 2 愛宕郡小野郷は現在の左京区松ヶ崎、上高野、大原一帯を
  指していました。
   
 3 葛野郡小野郷は現在の高雄からの周山街道沿いの山間部に
  あたります。

 以上すべての小野の地は古代豪族の小野氏にゆかりのある場所
 だと何かで読んだ記憶がありますが、定かではありません。
 愛宕郡小野郷(左京区)以外は、小野氏ゆかりの地というその
 確証に欠けるのかもしれません。

 山科区の小野には小野小町ゆかりの随心院があります。
 北区小野には平安三蹟の一人である小野道風ゆかりの小野道風社
 があります。しかし、小野道風と小野の地及び小野道風社との
 関係ははっきりしていません。
 左京区の小野は小野氏との関係が最も濃厚な所です。小野毛人
 (えみし)の墓からは国宝の「金銅小野毛人墓誌」も出土して
 います。初代遣隋使を勤めた小野妹子ゆかりの「三宅八幡神社」
 もあります。

 山家集にある小野歌は左京区小野と山科区小野の二ヶ所の歌が
 混在しているものと考えられます。北区の小野を特定する歌、
 あるいは想定させる歌はないと思われますので、北区以外の
 二ヶ所の歌とみていいでしょう。
 小野の地は三ヵ所所全てが炭の生産をしていましたから、3番歌や
 6番歌は大原小野と特定することもないと思います。
 
 (小野殿と惟喬親王)

 文徳天皇の第一親王である惟喬親王(844〜897)は出家前に大炊
 御門烏丸の邸宅に住んでいました。この邸宅も小野殿と言われます。
 親王は生母が藤原氏ではなかったために事実上、皇位に就く道を
 閉ざされていました。
 28歳の時に剃髪、出家。小野に隠棲しました。
 ここでの小野は比叡山西麓の大原のことです。親王と親交の
 あった在原業平が大原の山荘を訪ねて歌を詠んでいます。

 「これたかのみこのもとにまかり通ひけるを、かしらおろして、
 小野といふ所に侍りけるに、正月にとぶらはむとてまかりたり
 けるに、比叡の山のふもとなりければ、雪いとふかかりけり。
 しひてかのむろにまかりいたりて、をがみけるに、つれづれと
 して、いとものがなしくて、かへりまうできてよみておくりける 」

 忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや 雪ふみわけて君を見んとは
                (在原業平 古今集970番) 
 
 業平のこの詞書と歌からは、小野殿は雪深い山中にある小さな
 草庵を連想させるような、うらぶれた寂しい印象を受けます。

 ところが西行の詞書にある小野殿は、釣殿や人工の滝も備えて
 いる豪壮な邸宅といえます。業平の詞書から受ける印象とは
 著しく異なっています。
 大原に出家、遁世してから釣殿や滝などのある豪壮な邸宅を建て
 て住むというのは、あまりにも不自然なことですから、8番歌に
 ある小野殿とは大炊御門烏丸にある屋敷だとばかりに私は長く
 解釈していました。

 西行達が修学院から訪ねて行った小野殿は、洛外大原の小野殿か、
 それとも洛中烏丸の小野殿かということについて記述してみます。
 これについては説が分かれていて、洛外説と洛中説とがあります。
 私の手持ちの資料から紹介します。

 大原説  目崎徳衛氏「西行」
      白州正子氏「西行」

 洛中説  渡部保氏「西行山家集全注解」
      伊藤嘉夫氏「日本古典全書山家集」

 惟喬親王が小野に隠棲したために、親王は小野宮と呼ばれ、同時
 に、大炊御門烏丸の屋敷も小野宮とか小野殿と呼ばれました。
 烏丸の小野殿は約110メータ四方の屋敷です。
 大鏡の右大臣実頼「藤原忠平の長子(900〜970)」の項に実頼が
 この屋敷を伝領したことが書かれています。
 実頼は小野殿に住んだので「小野宮の右大臣」と呼ばれていま
 した。この小野殿は914年、1057年、1121年、1144年、1167年に
 火災に遭っていて、以後は記録に見えませんので消滅したもので
 しょう。
 西行達が訪ねて行ったのが、大炊御門烏丸の小野殿であるとする
 なら、何年に小野殿を訪ねたのでしょう。年代までは分かりません。
 火災に遭って数年してからと考えれば1150年前後、もしくは1170
 年前後でしょうか。ただし、1144年の被災後すぐに再建されて
 いるとしたら1170年頃ということでしょう。
 それでも西行は高野山にこもっている時代に、京都にきて修学院
 にもこもったものかどうか疑問です。数日間ということなら可能性
 としてはあるとは思います。
 
 ところが、その後の調べで大原の小野殿は惟喬親王が出家した
 872年より10年も前の862年に創建されているという記事に出合い
 ました。歴史読本1989年4月号の佐治芳彦氏の「惟喬親王ー木地師
 の権力幻想」文中です。
 これが事実とするなら、大原にある小野殿が豪壮な邸宅であったと
 いうことも理解できます。そして惟喬親王没後に小野殿は放置されて
 いたものであるとするなら、山家集にある小野殿のさびれ具合など
 は納得できることです。
 ゆえに西行達が訪ねた小野殿は洛中ではなく、大原の小野殿で
 あろうと、考えを改めました。業平の詞書と歌から受ける印象とは
 合致しないことに少しく違和感は抱いたままですが。

 (修学院と修学院離宮)

 叡山三千坊のひとつである修学院(修学寺)に由来する左京区に
 ある地名です。
 修学院は叡山の勝算僧正を開基とするとありますが何年の建立か
 資料がありません。980年代に官寺となっているということです。
 ここには兼好法師(1282頃〜1352頃)も庵を結んでいたことが
 知られていますので、南北朝の頃まで、もしくは応仁の乱頃まで
 は存続していたものと思います。

 現在の修学院離宮は後水尾院が1656年に造営に着手、1659年に
 ほぼ完成したものです。
 1615年の「禁中並公家諸法度」や、1627年の「紫衣事件」で、
 幕府は朝廷を締め付けましたが、それを不満として後水尾天皇は
 1629年に退位しました。
 退位後、洛北で旗枝御所(円通寺)という山荘を営みましたが、
 水回りの関係でそこには満足できず、適地を修学院に求めたもの
 でした。
 ここは第一皇女の梅宮の山荘(円照寺)でしたが、円照寺は奈良
 に移転させて、離宮を完成させたものです。
 当時の離宮は上と下の茶屋のみでした。中の茶屋は明治になって
 からの造営になります。
 この離宮は西京区の桂離宮とともに江戸時代初期の代表的な書院
 造りの建築物として高名です。自然の景観との調和美を優先した
 様式は国内だけでなく海外でも著名です。
          (主に平凡社の「京都市の地名」を参考)

 【尾上】

 山の上のこと。山の高い所。山頂のこと。
 「尾上の塚」は山の高いところにあるお墓。
 「尾上のくき」は山の上のほうにある洞窟。

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1 思ひいでし尾上の塚のみちたえて松風かなし秋のゆふやみ
            (岩波文庫山家集241P聞書集110番)
              
2 杜鵑さつきの雨をわづらひて尾上のくきの杉に鳴くなり
              (岩波文庫山家集263P残集8番)

○杜鵑

 杜鵑(とけん)と表記してホトトギスと読みます。

○さつきの雨

 五月雨のこと。梅雨のこと。

(1番歌の解釈)

 「思い出した山の上の墓への道は参る人もなく途絶えて、松風が
 悲しい秋の夕闇よ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(1番歌の解釈)

 「ほととぎすは毎日降りつづく雨をいやがって、山の頂にある
 洞穴のように入りこんだ窪地にある杉の木にこもって鳴いて
 いるよ。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

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