もどる

 とお〜  とお〜とき  とき〜とば  とま〜とり

   遠く修行
 
        東安寺→第204号「醍醐」参照
     堂供養→第178号「寂念(為業)・三河内侍」参照
    同行に侍りける上人→第146号「西住・同行に侍りける上人」参照 
        塔の石ずえ→第204号「大師」参照
         東明→第167号「しののめ・東明」参照
         登蓮法師→第88号「覚雅僧都」参照
      とかくのわざ→第174号「寂然 01 (贈答歌01)」参照
     砥上原→第160号「しか・鹿・かせぎ・すがる(3)」参照
        時忠→第207号「平時忠(中宮太夫)」参照
      徳大寺の左大臣の堂→第154号「さること」参照
      とくゆきて→第118号「公卿勅使」参照
        所を霜のおけ→第172号「霜」参照

【遠く修行】

この時代にあって「修行」という言葉は「旅」とほぼ同義であった
ようです。旅を続ける中では交通、衣料、食料、宿泊所、医療などの
困難は常に付きまといますし、その困難の中に積極的に身を置く
ことは都にとどまったままの生活から見れば、修行そのものだったと
言えるでしょう。
旅を続けながら、あるいは行きついた一定の場所での仏道修行という
こともあったはずですが、あえて目的を持たずに苦しい旅を続けて
見聞を広めることは、「人生修行」「仏道修行」などという言葉の
上での違いを越えて、単に「修行」という言葉の中に集約されていた
はずです。
08番歌以外は「遠く修行」の場所が詞書や歌からは判明しません。
08番歌は西行詠ではない可能性が強い歌ですから、「遠く修行」は、
おおむね明白に行き先や目的を持たない旅だったものでしょう。

「遠く修行」に比して単なる「修行」の場合は、ほぼ行き先や目的が
詞書に明示されています。そのことが不思議な気もします。
あるいは意図的な記述なのかもしれません。
山家集には「修行」「遠く修行」の言葉のない場合でも、たくさんの
場所に行っての歌が多くあります。

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     年頃申しなれたりける人に、遠く修行するよし申して
     まかりたりける、名残おほくて立ちけるに、紅葉の
     したりけるを見せまほしくて侍りつるかひなく、
     いかに、と申しければ、木のもとに立ちよりてよみける

01 心をば深きもみぢの色にそめて別れて行くやちるになるらむ
          (岩波文庫山家集105P離別歌・新潮1086番) 
 
     遠く修行に思ひ立ち侍りけるに、遠行別といふことを
     人々まで来てよみ侍りしに

02 程ふれば同じ都のうちだにもおぼつかなさはとはまほしきに
         (岩波文庫山家集105P羈旅歌・新潮1091番・ 
         西行上人集・宮河歌合・続後撰集・月詣集) 

     年ひさしく相頼みたりける同行にはなれて、遠く修行
     して帰らずもやと思ひけるに、何となくあはれにて
     よみける

03 さだめなしいくとせ君になれなれて別をけふは思ふなるらむ
         (岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1092番) 

     修行して遠くまかりける折、人の思ひ隔てたる
     やうなる事の侍りければ

04 よしさらば幾重ともなく山こえてやがても人に隔てられなむ 
         (岩波文庫山家集133P羈旅歌・新潮1120番) 

○年頃申しなれたりける人

長い間懇意にしていた人のこと。人名も性別も不明です。

○見せまほしくて

見て欲しいと思う気持ちのこと。

「平安時代に現れた語で希求の助動詞。動詞の未然形を承け、
形容詞シク活用と同じ活用をする。
奈良時代にあった「まくほし」の転じたもの。平安時代に「まく
ほし」は音便によって「まうほし」となり、さらに音がつまって
「まほし」となった。
                 (岩波古語辞典を参考)

上の歌のように「まほし」のある西行歌は6首、詞書は5回、合計
11回あります。

○ちるになるらむ

紅に染まった紅葉が散るということに、離れて行くこと、さらには
自分の人生が終わりになるかも知れないという、その可能性を匂わ
せている言葉です。

○人々まで来て

(まで)は「詣で」の意味です。人々が訪ねて来た事を言います。
(まうで)の(う)の欠落の可能性が強いと思います。

○程ふれば

時間がある程度たってみれば・・・ということ。
ある程度の日数のこと。

○とはまほしきに

(とは)は「訪う」のこと。「まほし」は「・・・してほしい」という
願望を表す助動詞です。
尋ねて行きたいという気持ちのことを客観視して、他動詞気味に
用いています。

○同行にはなれて

(同行)は西住上人のこと。何らかの事情があって、西住上人とは
別行動をして…ということです。

○君になれなれて

(君)は西住上人を指しています。
ずっと長く交流があり、馴れ親しんでいる間柄のこと。

○修行して遠く

「修行して遠く」ですが、同じ文脈の歌として「遠く修行」の
項目に含めます。意味は同じです。

○人の思ひ隔てたる

人と自分との感覚や感情のずれのために、相互理解ができなくて、
仲たがいしたような隔絶した関係性を言います。

○よしさらば

(よし、そうであるなら)という意味なのですが、これは感情を直截に
吐露した言葉のように感じます。自分の覚悟を示した言葉ですが、
感情性が勝ちすぎていて、若い時代の歌のようにも思わせます。

(01番歌の解釈)

「あなたが私のことを思って下さる深いお心を、濃い紅葉の色の
ようにわが心に染めて、別れて行くのは、紅葉でいえば散る
ことになるでしょうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「長く逢わないで時が経つと、同じ都の内に住んでいてさえ気に
かかり安否をたずねたくなるのに、遠い修行の旅に出たらなおさら
のことだろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「世の中はまことに定めないことである。幾年もの長い間あなたに
馴れ親しんできたのに、どうして今日は別れを思うことになるので
あろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「よしそれならば幾重ともなく多くの山を越えて遠い所に隠棲し、
そのまま人に疎んじられてしまおう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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     遠く修行しけるに人々まうで来て餞しけるに
     よみ侍りける

05 頼めおかむ君も心やなぐさむと帰らむことはいつとなくとも
          (岩波文庫山家集280P補遺・西行上人集・ 
                   新古今集・西行物語)

     遠く修行することありけるに、□□院の前の斎宮に
     まゐりたりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに

06 さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
          (岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1142番・ 
              西行上人集・新古今集・西行物語) 

     秋、遠く修行し侍りけるほどに、ほど経ける所より、
     侍従大納言成道のもとへ遣しける

07 あらし吹く峰の木葉にともなひていづちうかるる心なるらむ
          (岩波文庫山家集133P羈旅歌・新潮1082番・ 
      西行上人集・続拾遺集・万代集・雲葉集・西行物語) 

     遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて

08 松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
   (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮欠番・西行上人集追而加書) 

○餞しけるに

(はなむけしけるに)と読みます。
長途旅立つ人に、別れを惜しんで金品を贈ったり、宴席を設けて
語りあったりすることです。
手持ちの古語辞典では「餞別」の言葉はありませんから、あるいは
「餞別」はもっと時代が下がってからの言葉なのかもしれません。

○頼めおかむ

(頼む)という言葉は「頼りにすること、当てにすること」ですが、
他動詞としては「あてにさせること、頼みに思わせること、期待
させること」などの意味を含んでいます。
「期待して待っておいて下さい」というほどの意味です。

○□□院

岩波文庫106ページにカタカナの「サ」を下に二文字重ねたような
文字があります。これは「抄物書き」といい、合字です。「ササ菩薩」
と言われます。仏教関係の書籍では菩薩などという言葉は頻繁に出て
くる言葉なのですが、仏典などを書写する人は何度も書き写す文字を
略して記述するようになりました。それが「抄物書き」です。
ところが「菩薩院」では明らかに変な名詞と思います。他の多くの
資料では当該箇所は「菩提院」となっています。
仁和寺には実際に「菩提院」という支院がありました。

○前の斎宮

伊勢神宮ではなくて賀茂社ですから、斎宮はミスであり正しくは
「斎院」です。

【前斎院】

賀茂斎院であった女性の退下後の呼称です。
06番歌は待賢門院所生の統子内親王とその御所を意味します。
菩提院は仁和寺にありました。
これとは別に下の歌の場合は「清和院の前斎院」の官子内親王
御所を指しています。詳しくは143号を参照願います。

   夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに

◎ 春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
      (西行歌)(岩波文庫山家集38P春歌・新潮139番)

【菩提院の前斎院】

「菩提院の前斎院」の前斎院については久保田淳氏監修の「和歌文学
大系21」に『あるいは後白河院皇女亮子内親王(殷富門院)か。』
とあります。そこで、二人の内親王について比較してみます。

      統子内親王       亮子内親王

父     鳥羽天皇        後白河天皇   
母     待賢門院        藤原成子
生年    1126年         1147年
没年    1189年         1216年
斎院卜定  1127年(第28代賀茂斎院)1156年(第61代伊勢斎宮)
斎院退下  1132年         1157年
院号    上西門院(1157年)   殷富門院(1187年)

西行法師が京都から陸奥に旅立ったのは初度の旅の時だけであり、
それは1147年頃、西行30歳頃の年と見られています。二度目の
旅は伊勢から旅立ったものと見られています。西行69歳の時です。
1147年といえば亮子内親王は生れたばかりです。亮子内親王が伊勢の
斎宮となったのは1156年のこと。統子内親王は1132年から前斎院です。
したがって、亮子内親王が初度の旅の時の「菩提院の前斎宮」と
いうことはありえないことでしょう。西行40歳前の陸奥行脚になり
ますので年代が下がりすぎます。

目崎徳衛氏の「西行の思想史的研究」によれば、1126年に出生した統子
内親王が第28代賀茂の斎院となったのが1127年、斎院退下が1132年、
入内が1157年。この内、斎院退下から入内までの25年間が「菩提院の
前斎院」と呼ばれていた期間だと、考察されています。

(主に学藝書林「京都の歴史」・平凡社「京都市の地名」を参考)

○さりともと

「さ、ありとも」の約。しかしながら・それにしても・
それでも・そうであっても・・・などの意味。

○侍従大納言成道

藤原成通は1097年誕生。1162年66歳で没。権大納言藤原宗通の子。
侍従・蔵人・左中将を経て1143年に正二位。1156年に大納言。
1159年に出家。法名は栖蓮。家集に成通集があります。
詩歌、蹴鞠に秀でていたことが「今鏡」に記述されています。
蹴鞠は「鞠聖」とも言われ「成通卿口伝日記」に蹴鞠のことが
書かれているそうです。蹴鞠の名手と言われた西行も成通から
蹴鞠を習っており、以後、親交のあったことがわかります。
成通は1160年に藤原隆信とともに美福門院の遺骨を高野山に
持って行って納めています。その時に西行も立ち会ったことが、
204ページの哀傷歌からもわかります。

成通と西行には二度の贈答の歌が残されており、作歌年代は両作
ともに成通が大納言となった1156年以降のものです。

○いづち

どちらの方角、どちらの方向・・・という意味です。
方角における不定称で副詞的に用いられ(いづく)よりも漠然と
方角を指す言葉です。
                 (岩波古語辞典を参考)

○象潟

出羽の国の歌枕。秋田県由利郡象潟町。現在は、にかほ市象潟。
海沿いの町です。

世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして
             (能因法師 後拾遺和歌集519番)

象潟は上記歌によって有名となりましたが、1804年の地震に
より、風景は一変してしまいました。
能因法師の歌、及び芭蕉の「奥の細道」によって有名になった
名所です。能因法師が住んだという島は1804年の地震によって
地続きになったようです。

○松島

宮城県にある松島湾を中心とする一帯の名称。安芸の「宮島」、
丹後の「天の橋立」とともに日本三景の一つです
西行は松島まで行ったのかどうか分かりません。芭蕉も義経も
多賀城→塩釜→松島→平泉のルートを採っていますので、ある
いは初度の旅の時に同じルートをたどった可能性があります。
 
○雄島

松島にある島の名称。松島海岸から近く、古くから仏道修行の
地として有名でした。
現在は橋がありますから渡渉できます。

(05番歌の解釈)

「では必ず帰って来るとあてにさせておこう。あなたも心が慰む
かと思って。たとえ私が帰るのはいつとわからなくても。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

「遠い修行の旅に出かけるので、むずかしいとは思われますが、
それでもやはり再会を期待することです。
死出の山路を越える別れではないから。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番の詞書と歌の解釈)

遠い所に旅に出るので、その前に統子内親王の住んでおられる
菩提院に挨拶に行きました。そして内親王に仕える女房達と
別れの歌を詠みあいました。
遠く旅をしますので、どのようになるか分かりませんが、旅から
帰りつけば、是非ともまたお会いしたいものです。今度の旅は
死亡後にたどる旅路の別れではありませんから・・・

次に続く「同じ折、つぼの桜の散りけるを見て〜」という詞書に
よって、この旅は桜の散る頃にはじめられたことが分かります。
1145年8月に崩御した待賢門院の喪に服するために、ゆかりの
女性達は一年間を三条高倉第で過ごしました。この詞書と歌は
喪のあけた次の年の春ということと解釈できますので、1147年の春、
西行30歳の時ではないかと思います。
                      (筆者の解釈)

(07番歌の解釈)

「峰の木の葉が嵐に吹かれて飛んで行く。そのように私の心も
どことあてもなくさまよい出て行くようです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(08番歌について)

この歌は西行上人集追而加書中の一首です。この集のみにしかない
歌です。
この集は他者の歌を西行歌として、あるいは他人詠の伝承歌を
多く含んでいますので信用できないものです。
「新潮日本古典集成山家集」「和歌文学大系21」「西行山家集全注解」
にも収録されていません。
窪田章一郎氏の「西行の研究」をはじめとして、いくつかの研究
書・解説書にも記載がありません。無視されています。
安田章生氏著「西行」のように、歌が取り上げられていたとして
も「西行作とは信用できない」ということが明記されています。
佐佐木信綱氏が岩波文庫山家集に採録したのは、西行歌である
確証は無いと認めた上で、この歌が西行歌として広く人口に流布
していたという、そのことによってのみでしょう。

     ◆ その他の「修行」歌について(1) ◆

その内実において岩波文庫山家集にある「遠く修行」と「修行」を
分け隔てることは殆ど意味を持ちません。しかし「遠く修行」を
項目化しましたから、ここでは「修行」という言葉のある詞書と
歌も紹介しておきます。
山家集には「遠く修行」や「修行」の言葉が無くても多くの場所に
行き、旅先で詠んだ歌がたくさんあります。

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     そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世を
     のがれて後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四國の
     かた修行しけるに、又帰りまゐらぬこともやとて、
     仁和二年十月十日の夜まゐりて幤まゐらせけり。内へも
     まゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎてまゐらせ
     給へとて、こころざしけるに、木間の月ほのぼのと常
     よりも神さび、あはれにおぼえてよみける

01 かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に
           (岩波文庫山家集198P雑歌・新潮1095番・ 
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・万代集・
          閑月集・拾遺風体集・夫木抄・西行物語) 

     播磨書写へまゐるとて、野中の清水を見けること、
     一むかしになりにける、年へて後修行すとて通りけるに、
     同じさまにてかはらざりければ

02 昔見し野中の清水かはらねば我が影をもや思ひ出づらむ
          (岩波文庫山家集109P羈旅歌・新潮1096番・ 
         西行上人集・山家心中集・続後撰集・夫木抄) 

○そのかみ

まだ出家していない頃。在俗の頃。

○こころざしつかうまつりけるならひ

幣を奉ることです。
まだ僧侶には成っていなかったので、何度も加茂社に行く機会が
あって奉幣したものと思います。
当時、加茂社は京都で一番の神社であり葵祭も勅祭でしたから、
徳大寺家の随身としても、また鳥羽院の北面としても加茂社に
参詣する機会は多かったものと思います。
出家後は、僧侶は普通は神域に入ることはできませんでした。

○帰りまゐらぬことも

ある程度の長い旅になりますから、再び都に帰ってこれるかどうか
という不安もあったということを表しています。

この詞書によって四国旅行に出発した時の西行の年齢が分かります。
旅立ちに際して上賀茂社に参詣したのですが、「又帰りまゐらぬ
こともやとて」とあるように、自分で再び帰ることのできない
大変な旅になるかも知れないという覚悟があったことがわかります。

○仁和二年

仁和二年とは886年です。西行は出生していない年ですから誤りです。
誤写でしょう。ここは仁安です。仁安ニ年は1167年、西行50歳の頃。
西行法師歌集では仁安三年とあります。

○たなうの社

上賀茂神社の末社の棚尾社のこと。

「たなうの社」は現在は楼門の中の本殿の前にあるのですが、詞書
から類推すると西行の時代は本殿と棚尾社は離れていたのかもしれ
ません。僧侶の身では本殿の神前までは入られないから、幣を
神前に奉納してくれるように、棚尾社に取り次いでもらったと
いうことです。

○幣

へい・ぬさ=緑の葉のある榊に白地の布や紙を垂らしたもの。

○しで

四手=注連縄や玉ぐしにつける白地の紙。昔は白布も用いました。

○播磨

旧国名の播磨の国のこと。摂津の国の西になります。
現在の兵庫県南西部に相当します。国府は姫路市にありました。

○野中の清水

固有名詞ではなくて、普通名詞としても理解できます。
歌枕としては播磨国印南野(いなみの)「現在の神戸市西区岩岡町
野中」にあった清水を指していると見られています。

◎ 印南野や野中の清水むすぶ手の たまゆら涼し篠の上露
                 (最勝四天王院障子歌)

◎ 古の野中の清水ぬるけれど もとの心を知る人ぞ汲む
              (詠み人しらず 古今集887番)
 
○書写

播磨の国にある書写山円教寺のこと。書写山は現在の姫路市北方に
位置します。
966年、性空上人創建のこのお寺は天台宗寺院で、西の比叡山とも
称されています。山内の広い寺域に多くの堂宇が建立されていて、
その点でも比叡山と酷似しています。

姫路駅から書写山ロープウェイ乗り場までバスで25分ほどかかります。
ロープウェイは山麓駅から山上駅を4分ほどで結んでいます。

○一むかし

「一むかし」の厳密な年数は不明です。ですから、以前にはいつ頃
書写山に行ったのか不明です。
以前は書写山を目的として行ったのですが、この歌にある時は、
書写山に行くのが目的ではなくて、西国への通りすがりに「野中の
清水」を見たということです。

○我が影

昔に野中の清水に映った自分の容貌のこと。若かった頃を思い出すと
いうことです。時間の隔たりを意味します。

(01番歌の解釈)

「かしこまり謹んで奉る幣に涙がかかるよ。四国行脚へ出かける
自分はいつまたお参りできることか、もしかしたら出来ないの
ではと思うと。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「野中の清水は昔見たまま少しも変っていないので、汲むときに
映ったまだ若かった頃の私の姿を思い出してくれるだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     西の國のかたへ修行してまかり侍るとて、みつのと申す
     所にぐしならひたる同行の侍りけるに、したしき者の
     例ならぬこと侍るとて具せざりければ

03 山城のみづのみくさにつながれてこまものうげに見ゆるたびかな
     (岩波文庫山家集117P羈旅歌・新潮1103番・新千載集) 

     西國へ修行してまかりける折、小嶋と申す所に、八幡の
     いははれ給ひたりけるにこもりたりけり。年へて又その
     社を見けるに、松どものふる木になりたりけるを見て

04 昔みし松は老木になりにけり我がとしへたる程も知られて
          (岩波文庫山家集117P羈旅歌・新潮1145番) 

○みつの

現在の京都市伏見区淀三豆町のことと見られます。
宇治川、桂川、木津川の三川合流地点の少し上にあり、宇治川と
桂川に挟まれています。
豊臣氏の築いた淀城の南側に位置します。
宇治川を超えて東に「御牧」という地名が現在も残っています。
そのことからみて平安時代の三豆は現在よりもはるかに広い範囲
を指していたものと思われます。

 かり残すみづの真菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
       (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1018番・夫木抄)

上の歌のように「三豆」と解釈できる歌が山家集に4首あります。
新潮版で言うと、221、1018、1103、1527番です。

○したしき者の例ならぬこと侍る

いつも同行していた西住上人の親しい人が重篤な病気になり、その
ために一緒に行けないということ。

◯みくさ

若文学大系21では、水草として解釈されています。馬が食べる
草ですから、水生の植物ではないようにも思いますが、よく
わかりません。「御草」の可能性もあります。
西住法師を馬に例えての歌ですから、「みくさにつなぐ」という
ことは、実際に馬の食用の草に馬を繋ぐということではありません。

○小嶋と申す所

現在の岡山県倉敷市の児島です。

○八幡のいははれ給ひたりける

児島にある八幡宮なのですが、どこか特定不可のようです。

○昔みし

昔、見たということ。松は常盤木と言われますが若い頃に見た
松の木を再び見て、年の隔たりを思っての述懐の歌です。
詞書によれば、現在の岡山県児島にある八幡宮での歌です。

この歌を上賀茂神社に参詣してからの旅立ちである四国旅行の
時の歌と解釈するなら、この歌が詠まれた時代(西行50歳)より
もはるか前の若い頃にも、一度は山陽方面への旅をしたことが
あったということがわかります。

○老木

年古りた木のことですが、年齢が高くなった人、老いた人という 
解釈で間違いありません。私(阿部)も老木となりました。

(03番歌の解釈)

「美豆野に住む家族が心配で一緒に行けないという西住を見て
いると、美豆野の景物真菰の魅力で離れられない馬が、旅と
家族との板挟みで困っているかのようだ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「昔この八幡宮の社殿に参籠した折に見た松は、今度見るとすっ
かり老木になってしまっている。それにつけ、自分がいかに年を
とったかも知られて……。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「昔ここ児島の八幡に参籠した時に見た松はすっかり老木に
なった。私もそれだけ年を取ったということが知られる。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     承安元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひけるついでに、
     住吉に御幸ありけり。修行しまはりて二日かの社に参り
     たりけるに、住の江あたらしくしたてたりけるを見て、
     後三條院の御幸、神も思ひ出で給ふらむと覚えてよめる

05 絶えたりし君が御幸を待ちつけて神いかばかり嬉しかるらむ
          (岩波文庫山家集118P羈旅歌・新潮1218番・ 
                  西行上人集・山家心中集) 

     修行して伊勢にまかりたりけるに、月の頃都
     思ひ出でられてよみける

06 都にも旅なる月の影をこそおなじ雲井の空に見るらめ
          (岩波文庫山家集125P羈旅歌・新潮1094番) 

○承安元年

1171年のことです。この年、嘉応の元号は1171年4月21日まで。
同年同日から承安元年となります。第80代高倉天皇の治世に
あたります。高倉天皇は後白河天皇の皇子です。
後白河院は5月29日に京都を立ち、6月1日に住吉大社に詣で、
熊野に向かい、京都に帰りついたのは6月21日ということです。
すごいというしかない強行軍です。
西行は1171年6月2日に住吉大社に参詣したことになります。
西行54歳の年です。

○院

後白河院のこと。

○住吉に御幸

後白河院が1171年6月1日に住吉大社に詣でたことを指します。

○あたらしくしたてたり

社殿が新しく造りかえられたことをいいます。

○後三條院

第71代天皇。1034年〜1073年。40歳で崩御。
後三條院の1073年2月。母の陽明門院と岩清水・住吉・天王寺に
御幸しています。同年5月、後三條院没。

○絶えたりし

1073年の後三條院の御幸以来、天皇や院は住吉大社に参詣して
いなかったようです。ほぼ100年ぶりの参詣ということです。

○伊勢

伊勢の国のこと。孝徳天皇の大化の時代から明治時代までの国名。
現在の三重県。
明治に入って、それまでの伊賀の国・伊勢の国・志摩の国は渡会県
と安濃津県とに変わり、安濃津県は明治五年に三重県と改称。
三重県は明治九年に渡会県を吸収合併して現在の三重県となります。

現在の三重県伊勢市に伊勢神宮があります。伊勢神宮とは内宮の
皇大神宮と外宮の豊受太神宮を合わせた呼称です。

(05番歌の解釈)

「後三條院の親拝以来絶えていたが、この度の後白河院の御幸を
待ち迎えられ、住吉明神はどんなに嬉しく思っておいでのこと
だろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

「旅先の伊勢において空を旅行く月を自分が今仰いでいるように、
都でも同じ雲井の月をながめていることであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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     あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

07 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
          (岩波文庫山家集128P羈旅歌・新潮欠番・ 
         西行上人集・新古今集・拾玉集・西行物語) 

     修行し侍るに、花おもしろかりける所にて

08 ながむるに花の名だての身ならずばこのもとにてや春を暮らさむ
          (岩波文庫山家集132P羈旅歌・新潮97番・ 
               西行上人集追而加書・玉葉集) 

○あづまの方

普通は関東・東北地方の総称として言います。箱根より東の地域
を指しますが、都から見た時、逢坂の関より東を指してもいます。

○富士の山

日本の最高峰である富士山のこと。

○名だて

名が有名になっていること。評価されていること。評判が良いこと。
自分はいまだ立派な僧ではなくて修行中の身であることを確認する
現状認識や自己省察の意識から詠まれた歌でしょう。

(07番歌の解釈)

「前略「空に消えて」という第三句は、一首の中心にあって、重大な
働きをしている。それは、富士の煙の姿であるとともに、一切は空
(くう)であることを深く観じるに至った西行の晩年の心境の匂っ
ている詩句ともなっているものである。かくて、富士の煙と西行の
思いとは一つに溶け合って、美しいイメージを描き、「行方も知ら
ぬわが思ひかな」の詩句は、不安がそのまま平安につながっている
ような趣を帯びるに至る。後略。」
             (安田章生氏著「西行」から抜粋)

「風になびく富士山の噴煙は空に消えて行方もわからない。
その煙にも似て行方のわからない私の思いよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(08番歌の解釈)

「じっと見ていても花の評判を落とさないような身だったら、
今春の修行はこの木の下でするのだが。」
               (和歌文学大系21から抜粋)
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