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 とお〜  とお〜とき  とき〜とば  とま〜とり

 とき花・所えがほ・所がら・鳥羽田・鳥羽院・一院

       とき料→第198号「せき」参照  
       としたか→第196号「せが院・勢賀院」参照
       年たけて→第153号「さ夜の中山」参照
       としただ→第196号「せが院・勢賀院」参照
         俊成→第198号「せき」参照
     とちひろふ程→第175号「寂然 02 (贈答歌02)」参照
     杜鵑・杜宇(とけん・とう)→「ほととぎす」の項で記述予定  
     とめこかし→第64号「梅・むめ」参照
       ともし→第158号「しか・鹿・かせぎ・すがる(1)」参照
       ともろ→第90号「かこみのともろ」参照

【とき花】
    
「とき花」という固有名詞の花ではありません。
とても分かりにくい表現ですが「疾く咲く花」のことを「疾き花」
としています。「花」とは桜のことですから、ここでは他の桜に
先がけて開花する桜を言います。
ただし当時の吉野山では早咲きの品種があるわけではなくて山桜
だけしかなく、山桜の中でも早めに咲く樹ということでしょう。

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01 とき花や人よりさきにたづぬると吉野にゆきて山まつりせむ
         (岩波文庫山家集249P聞書集178番・夫木抄)

○吉野

大和の国の歌枕。地名。奈良県吉野郡吉野町。
青根が峯を主峰とする広い範囲を指します。
西行も吉野山に庵を構えて住んでいたとみられていて、奥の千本
には西行庵があります。
ただし、現在の西行庵のある場所に実際に西行の住んでいた庵が
あったかどうかは不詳のようです。
岩波文庫山家集には「吉野山」の名詞のある歌は59首あります。

○山まつり

山を生業とする猟師や木樵などがその年に山に初めて入る際に、
山の神を祀り安全などを祈願する習俗を「山祭り」というそうです。
その山祭りになぞらえて、真っ先に山桜を見ることの栄誉を味わい、
そして桜に対して敬虔とも言える思いを持ち続けようとする気持ちを
新たにすることを「山まつり」という言葉に込めています。

(01番歌の解釈)

「早咲きの花を人より先に尋ねると思って、吉野に行って
山祭をしょう。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【所えがほ】
    
その地位、場所を得て誇らしげな顔。得意顔。
            (講談社 「日本語大辞典」から抜粋)

自分の居場所はここだと得心しているような自信に満ちた顔のこと。

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      九月十三夜

01 こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露
          (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮379番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄) 

◎新潮版では「所えがほ」は「心得顔」となっています。
◎和歌文学大系21では「菊の白露」は「草の白露」となっています。

○九月十三夜

この詞書だけで「後の月」を指します。旧暦では7月から9月が秋
ですし、その真ん中の八月十五日の月が「仲秋の名月」として愛で
られています。九月十三日の月は第59代宇多天皇が「明月無双」と
言ったようで、それから9月は15夜の月ではなくて、13夜の月が愛で
られるようになりました。

(01番歌の解釈)

「九月十三夜である今夜こそ名月と、本領を発揮して美しく澄む
月光を、地上では秋草の白露が一面に煌めいて映発し合っている。」 
               (和歌文学大系21から抜粋)

【(がほ)歌について】

(がほ)のフレーズの入った歌は西行が好んで詠んだ歌とも言え
ます。
                  
いひがほ・恨みがほ・嬉しがほ・かけもちがほ・きかずがほ・
たより得がほ・つけがほ・告げがほ(2)・所えがほ・ぬるるがほ・
見がほ・見せがほ・もりがほ・わがものがほ、かこち顔。

以上15種類、16首あります。源氏物語にも「○○がほ」という記述
はたくさんありますから、西行の「がほ」歌はあるいは源氏物語の
影響なのかもしれません。

【所がら】
    
ある特定の場所が持っている性質、特徴などを言います。
01番歌は真言密教の聖地の高野山であり、02番歌は大峯修験道の聖地
の深仙であり、ともに神聖さのある場所柄ということ。

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01 嶺の上も同じ月こそてらすらめ所がらなるあはれなるべし
         (岩波文庫山家集121P羈旅歌・新潮1105番)

02 住むことは所がらぞといひながらかうやは物のあはれなるべき
          (岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮913番)

     みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関にとまりて、
     所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、
     秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、
     名残おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける

03 白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
    (岩波文庫山家集129P羈旅歌・新潮1126番・西行上人集・
         山家心中集・新拾遺集・後葉集・西行物語) 

○嶺の上

大峯修行の時の歌です。第38番宿の深仙宿のことであり、深仙は
大峯修行者にとっても特別の聖地であるようです。
「嶺の上」を山上ケ岳とする解釈もありますが、それは無理でしょう。

○あはれ

俗塵にまみれていない清らかさみたいなもの、神々しさみたいな
感覚を含めています。

○住むこと

多くの歌にある「住む」と同じように「澄む」を掛け合わせています。

○かうや

真言宗の聖地である高野山のこと。
西行は30年間ほどを生活の拠点にしていた山です。

○みちのくに

「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。

大化の改新の翌年に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島以北は陸奥の国と出羽の国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。
出羽の国は山形県と秋田県を指します。

○白川の関

白河の関はいつごろに置かれて関として軍事的に機能していたのか、
明確な記録がなくて不明のままです。
陸奥の白河の関、勿来の関、そして出羽の国の念珠が関を含めて
古代奥羽三関といいます。

「白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として勿来関(菊多関)
とともに4〜5世紀頃に設置されたものである。」
                (福島県の歴史散歩から抜粋)

ところが文献にある白河の関の初出は799年の桓武天皇の時代という
ことです。それ以前の奈良時代の728年には「白河軍団を置く」と
年表に見えますので、関自体も早くからあったものと思われます。

朝廷の東進政策、同化政策によって早くから住んでいた蝦夷と呼ば
れていた人々との対立が激化していきました。その過程で朝廷側
からすれば関は必要だったのですが、730年頃には多賀城が造られ、
800年代初めには胆沢城ができ、朝廷の直轄支配地は岩手県水沢市
付近にまで伸びていました。そうなると、白河の関は多賀城や胆沢城
に行くための単なる通過地点にしかすぎなくなります。前進基地と
しての軍事的な関の役割もなくなってしまって、いつごろか廃されて
関守りも不在となりました。

能因と西行では130年の隔たりがあります。西行の時代でも関の
建造物が残っていたということは奇跡的なことなのかも知れません。
あるいは能因の見た関の建物と、西行の見た関の建物は同一のもの
ではないのかも知れません。能因の時代以後に新たに関屋を建てる
可能性はほぼ考えられないので、同一のものであろうとは思います。

この関はどこにあるかよく分かりませんでしたが、白河藩主松平定信
(1758〜1829)が1800年に古代白河の関跡と同定して「古関蹟」という
碑を建てました。1959年からの発掘調査によってもさまざまな遺物が
発見され、「白河の関」として実証されています。
この関の前を東西に通る県道76号線が古代の東山道に比定されますから、
能因や西行もこの道をたどったものと断定して良いものと思います。

現在は関の森公園として整備されています。隣接して古刹の『白河神社』
があります。私が08年4月14日に行ったときはカタクリの花が群生して
いました。

○能因

中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(たちばなのながやす)。
若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
(高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
いたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。

(01番歌の解釈)

「大峯山の頂きをも同じ月が照らしていることであろうが、ここ深仙
に照る月が特にあわれに感じられるのは、場所がらゆえであろう。」
             (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

「都も聖地も月は同じなのだろうが、深仙の月がこんなに
美しいのは、神聖な土地柄によるのであろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「心の澄むことは場所がらゆえとはいうものの、住んでいるここ
高野の山は都と異なりあわれの感じられるところだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋) 

(03番歌の解釈)

「奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白河の関に
とどまったのであるが、白河の関は場所がらによるのであろうか
月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、能因が
「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と歌を
詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残
多く思われたので、関屋の柱に書きつけた、その歌」

「白河の関屋(関守のいる所)も荒れて、今は人でなく月がもる
(守ると洩るとをかける)のであるが、その月の光はそこを訪ね
る人を関守(月が)として人をとどめるように人の心に深い感動
をあたえて心をとめるのであったよ。(もる、とむる、関屋の縁語)
        (渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)

【鳥羽田】

現在の京都市伏見区鳥羽にある田のことです。「鳥羽田」という
地名ではありません。
鳥羽には白河院と鳥羽院が院政を執り行った鳥羽離宮がありました。
西行の鳥羽の邸宅も安楽寿院の東側にあったと伝えられています。
現在は「西行寺跡」として小さな祠のみがあります。
一説にはこの鳥羽にあった西行の邸宅が、西行の出家した場所で
あるとも言われています。

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01 なにとなくものがなしくぞ見え渡る鳥羽田の面の秋の夕暮
          (岩波文庫山家集62P秋歌・新潮292番・
            西行上人集・山家心中集・風雅集) 

○ものがなしくぞ見え渡る

西日が沈んでから、刻々と暗くなるまでの鳥羽田の情景は本当に
牧歌的でもの悲しくさせたであろうことは、非常に共感できます。

(01番歌の解釈)

「鳥羽の稲田に行き渡った秋の夕暮れは、どこまでも何ということ
なく何かしらもの悲しく見える。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
       
【鳥羽院・一院】

第74代天皇の鳥羽帝のこと。生没年は1103年〜1156年。54歳で崩御。
鳥羽帝の父は第73代の堀川天皇。1107年堀川天皇が没し、五歳で践祚。
中宮、藤原璋子との間に崇徳天皇、後白河天皇、上西門院などが
あり、藤原得子との間には近衛天皇や八条院(日+章)子内親王などが
あります。
1156年7月崩御。同年同月に保元の乱が勃発して、敗れた崇徳上皇は
讃岐に配流となりました。

山家集の中の、一院は鳥羽帝、新院は崇徳帝、院は後白河帝を
指します。たとえば「院の小侍従」といえば、後白河院に仕えて
いた女房の「小侍従」のことです。

「今宵こそ」歌は三首連作になっていて、たまたま都に来ていた
西行も鳥羽院の葬送の場に加わり、葬儀の翌日まで読経していた
ことがわかります。僧侶であったからこそ、それも可能でした。
西行と鳥羽院の関係が、この3首の歌と詞書から端的に見て取れます。
西行は鳥羽院の下北面の武士でしたから、鳥羽院とも密接な関係が
あったとも言えます。01番歌は西行が出家した時のものです。

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     鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる

01 をしむとて惜しまれぬべきこの世かは身をすててこそ身をもたすけめ
           (岩波文庫山家集181P雑歌・新潮欠番・
     西行上人集追而加書・玉葉集・万代集・拾遺風体集) 

     一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせ
     ける夜、高野より出であひて参りたりける、いと悲しかり
     けり。此後おはしますべき所御覽じはじめけるそのかみの
     御ともに、右大臣さねよし、大納言と申しけるさぶらはれ
     ける、しのばせおはしますことにて、又人さぶらはざりけり。
     其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ出でられて、折しも
     こよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけられてよみける

02 今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契のある身なりけり
          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮782番・
                   新拾遺集・西行物語) 
 
     をさめまゐらせける所へ渡しまゐらせけるに

03 道かはるみゆきかなしき今宵かな限のたびとみるにつけても
          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮783番・
         西行上人集・宮河歌合・玉葉集・西行物語) 
 
     納めまゐらせて後、御ともにさぶらはれし人々、たとへむ
     方なく悲しながら、限あることなりければ帰られにけり。
     はじめたることありて、明日までさぶらひてよめる

04 とはばやと思ひよりてぞ歎かまし昔ながらの我身なりせば
          (岩波文庫山家集203P哀傷歌・新潮784番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語) 

     京極太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしき
     ほどにしたてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりける、鳥羽の
     南殿の東おもてのつぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。
     公重少將、人々すすめて菊もてなさせけるに、くははる
     べきよしあれば

05 君が住むやどのつぼには菊ぞかざる仙の宮といふべかるらむ
           (岩波文庫山家集87P秋歌・新潮466番)

○出家のいとま

西行自身が出家するために、鳥羽院の下北面の武士を辞退する
ということ。
西行の出家は1140年10月15日、23歳の時と見られています。
NHK大河ドラマ「平清盛」にあった桜の花びらの舞う季節での出家と
いうのは演出過剰でしょう。ドラマを見た方が信じ込んでしまい
ますから、良くないことだと思います。

○一院かくれさせ

第74代天皇の鳥羽帝が死亡したということ。鳥羽上皇崩御は保元元年
(1156年)7月2日。鳥羽上皇54歳。この年、西行は39歳です。

○御所へ渡し

この場合の御所は鳥羽離宮内に造営された安楽寿院のことです。

○高野より出で

この頃は西行の生活の拠点は高野山にありました。しかし高野山
に閉じこもりきりの生活ではなくて、しばしば京都にも戻って
いたことが山家集からもわかります。1156年のこの時にも、京都
に滞在しており、たまたま鳥羽院葬送の場に遭遇し、僧侶として
読経しています。出家前に鳥羽院の北面の武士であった西行に
とって、特別の感慨があったものと思います。
安楽寿院は1137年に落慶供養が営まれていますが、まだ完成前に
徳大寺実能と西行は鳥羽上皇のお供をして、お忍びで見に行って
います。17年から19年ほど前の、そういう出来事も思い出して、
ひとしお感慨深いものを感じたのでしょう。出家してからさえも、
鳥羽院に対する西行の気持ちが変わらなかったことが分かります。

○此後おはしますべき所

「此後おはしますべき所」という記述によって、安楽寿院三重塔の
こととみなされます。三重塔は鳥羽院墓所として藤原家成の造進に
より、落慶供養は1139年でした。

○右大臣さねよし

正しくは左大臣です。左大臣は右大臣の上席であり、太政大臣が
いない場合は最高位の官職です。「さねよし」は藤原実能のこと。
西行は藤原実能の随身でもありました。藤原実能、1157年9月没。 

○大納言と申しける

藤原実能が大納言であった期間は保延二年(1136)から久安六年
(1150)の期間でした。

○其をりの御とも

安楽寿院の造営はいつごろからされたのか不明ですが、1137年には
創建されています。ついで三重塔の落慶供養は1139年。1145年
及び1147年にも新しく御所や堂塔が建てられていて、付属する子院
も含めるとたくさんの建物がありました。
「其をりの御とも」とは三重塔の落慶供養のあった1139年2月22日
以前のことだろうと解釈できます。
完成前の三重塔を鳥羽院がお忍びで見物に出かけることになった
ので、藤原(徳大寺)実能と、実能の随身で鳥羽院の下北面の武士
でもあった西行がお供をしたということです。この時の西行は22歳。
翌年の10月15日に出家しています。
尚、現在の安楽寿院は、当時の安楽寿院の子院の一つの(前松院)
が1600年前後の慶長年間に「安楽寿院」として再興されたものです。

○さぶらはれける・さぶらひける

「候ふ・侍ふ」という文字を用いて、(目上の人、地位の高い人
の側に控える、近侍する、参上する、伺う)ということを表す
言葉です。
(さぶらはれける)は藤原実能が鳥羽院に随行していることを西行
の立場で言い、(さぶらひける)は西行自身が随行していることを
自身の立場で言った言葉です。自他を区別するために言葉を変えて
使われています。
この言葉は鎌倉時代になってから(いる・ある)という意味をこめて
使われるようになりました。(さぶらふ)から(そうろう)に発音も
変化します。手紙文の言葉としても盛んに用いられましたが、現代
では(候=そうろう)と使うことはほぼ無いでしょう。

○君に契の

鳥羽天皇に対しての西行から見た運命的な関係を言います。

○をさめまゐらせける所

「此後おはしますべき所」と同義です。

○道かはる

現世で生活してきた道から、来世への道をたどるということ。

○限のたび

安楽寿院と五重塔はほんの少し離れています。物理的にはその
短い距離を「たび=旅」とみなしているものでしょう。

○昔ながらの我身

もし出家していなくて、昔のままの身分や鳥羽院との関係で
あったならば…という意味。

○京極太政大臣
                         
藤原氏。中御門宗輔のこと。生年1077年、没年1162年。86歳。
「中右記」の作者である中御門宗忠は兄にあたります。
菊やボタンの栽培に詳しく、また笛の名手ともいわれています。
宗輔が中納言であった期間は1130年から1140年ほどであり、西行で
言えば13歳から23歳頃までです。したがって01番歌は西行の出家前
の歌であると解釈されます。
宗輔は、保元の乱の時に死亡した藤原頼長とも親しかったようです
が、連座することはなくて1157年に太政大臣となりました。81歳と
いう高齢になってからです。
太政大臣と言っても、保元から平治にかけては藤原信西が独裁的に
政務を執っていましたから、お飾り的な太政大臣だったものでしょう。

○鳥羽院にまいらせ

ここでは鳥羽離宮のことです。城南(せいなん)離宮ともいい
ます。白河院と鳥羽院が院政を執った所です。
          
○鳥羽の南殿

白河天皇が造営した鳥羽離宮の南殿御所のことです。1087年に
初めて南殿御所に遷幸がありました。離宮の中でも最初に築造
されました。
鳥羽離宮には南殿のほかに泉殿、北殿、馬場殿、東殿が作られて
います。
鳥羽天皇は田中殿を作りました。院政を行った離宮です。
ちなみに、それぞれに配された侍の人数は北殿75人、南殿17人、
泉殿8人の合計100名です。1090年の記録ですから当然に佐藤義清
は入っていません。余談ですが平清盛が1179年の冬に後白河上皇
を幽閉したのもここでした

○公重少将

1117年か1118年出生。60歳か61歳で1178年没。   
徳大寺通季の子。徳大寺実能の猶子となっています。
この時の西行の年齢は19歳から22歳頃までの、まだ出家をして
いない時でした。
当時、公重は少将にはなっていないことが知られています。

 あたら夜の月をひとりぞながめつる おもはぬ磯に波枕して
(藤原公重 風雅和歌集911番)

○君が住む

鳥羽上皇が住むということ。第74代天皇。1103年生〜1156年没。
院政開始は1129年。

○やどのつぼ

鳥羽離宮南殿御所にある中庭のこと。

○仙の宮

「仙の宮」は、読みは(ひじりのみや)。退位した天皇が住む
ところを仙洞御所といい、菊の花の神仙の伝説とをかけている。

(01番歌の解釈)

「いくら惜しみ執着したとて、とうてい最後まで惜しみ通すことの
できるうき世であろうか、そうではない。そのような世にあっては
俗なこの身を捨てて出家してこそはじめてこの身を助けよう。
(助けることになるであろう。)」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

この独白めいた歌は、いくらなんでも鳥羽院に捧げるために詠った
わけではないでしょう。実際には奏上しなくて、自身のゆるぎない
出家の意志の再確認をするために詠んだ歌だと思います。
断定してしまう激しい語調の歌であればあるほど、意志の強固さと、
そして悲壮的な覚悟さえ思わせる歌です。

(02番歌の解釈)

「御葬送の今夜こそは実感されました。生前にも安楽寿院の検分
に供奉いたしましたが、実際にそこにお入りになるその日に上京
いたしましたのは、前世からの深い因縁を院との間にいただいて
いたのです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「たまたまご葬送にめぐりあえた今宵こそ、本当に思い知られた
ことである。亡き一院には前世からの浅からぬご縁のあるわが身
であった。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「冥界への御幸を今夜拝見するのが悲しい。最後には避けられない
旅路とわかってはいても。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

「最後の御幸としての葬送を歌っているが、西行としては在俗の
ころの供奉の数々が思い浮かべられるのであって、この一首のうち
には、10代からの歴史が受けとめられている。」
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)

(04番歌の解釈)

「お見舞をしたいと思い付いても何もできなくて嘆くばかりであった
だろう。院にお仕えした在俗の身のままであったならば。供養の
読経ができるだけでもありがたいことです。」
                (和歌文学大系21から抜粋)  
        
(05番歌の解釈)

「京極太政大臣、中御門宗輔が中納言であった頃に(1130〜1140)
多くの菊を鳥羽離宮に持ってきました。それを南殿の東の中庭
いっぱいに植えたのでした。
藤原公重少将が菊の歌を詠むようにと人々に勧めましたが、西行
にも加わるように言ったので・・・」以上が詞書の意味です。

「わが君(鳥羽院)がお住みになる宿の中庭を菊がいっぱい
かざっていることである。これこそまことに仙の宮、仙洞御所と
いうべきであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「鳥羽院関係年表」

1101年  待賢門院藤原璋子出生。父は藤原公実。母は藤原光子。

1103年  鳥羽院誕生。父は第73代堀川天皇。母は藤原苡子(いし)。
     鳥羽院誕生後に母の藤原苡子は死去。   

1007年  7月に堀川天皇逝去。第74代鳥羽天皇五歳で即位。 
     この年の12月に藤原公実死去。

1115年  この頃、白河院は藤原忠通と藤原璋子との縁談を画策するも、
     忠通の父の忠実に婉曲に拒絶される。
     原因は白河院と藤原璋子の公然とした男女関係、及び
     璋子の奔放な多情さにあるとされる。

1117年  12月に藤原璋子、白河院を代父として入内。
     従三位に叙される。

1118年  藤原璋子、鳥羽天皇の中宮となる。璋子は二歳年長。
     佐藤義清(西行)、平清盛生まれる。
     鳥羽天皇御願寺最勝寺建立。落慶供養。 

1119年  第一皇子、崇徳天皇誕生。

1122年  第一皇女、禧子内親王誕生。第29代斎院。

1123年  1月鳥羽天皇譲位。第75代崇徳天皇即位。

1124年  通仁親王誕生。1129年、五歳で没
     2月、白河院、鳥羽院、待賢門院、東山の白河南殿にて花見。
     藤原璋子、待賢門院の院号宣下。
                   
1125年  君仁親王誕生。1143年、18歳で没。

1126年  統子内親王誕生。第28代斎院。後の上西門院。

1127年  後白河天皇誕生。1155年7月、第77代天皇として即位。

1128年  待賢門院の御願寺円勝寺の建立。落慶供養。

1129年  本仁親王誕生。後の仁和寺総法務、覚性法親王。
     7月、白河院77歳で逝去。鳥羽院、院政を執る。

1130年  法金剛院落成。

1134年  藤原得子、入内する。

1135年  藤原得子、叡子内親王を産む。

1137年  西行、鳥羽離宮南殿で「菊の歌」を詠むか?
     藤原得子、「日+章」子内親王(八条院)を産む。
     
1138年  鳥羽院、翌年の正月明けにかけて、お忍びで安楽寿院
     三重塔の下検分に行く。随行は藤原実能と西行。

1139年  近衛天皇誕生。生母の得子は女御となる。

1140年  西行「出家のいとま」の歌を詠む。10月、23歳で出家。
 
1141年  12月、崇徳天皇譲位。第76代近衛天皇即位。

1142年  待賢門院、法金剛院にて落飾、出家。

1145年  8月、三条高倉第にて待賢門院崩御。45歳。

1149年  藤原得子、美福門院の院号宣下。

1155年  7月、近衛天皇逝去。第77代後白河天皇即位。

1156年  7月、鳥羽院崩御。保元の乱勃発。崇徳院讃岐に配流。
     西行、鳥羽院葬送の席に参列し読経する。後に「今宵こそ」
     からの歌を詠む。

1160年  美福門院死去。遺骨は高野山に埋葬され、西行、弔いの
     歌を詠む。
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