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 とお〜  とお〜とき  とき〜とば  とま〜とり

 苫・とまり・外山・取りさして・とりどころ・とり所・とりわきて・とりわき・鳥部山・鳥部野

        豊葦原→第47号「岩根」参照
       とりをさむべし→第164号「しで」参照
     とりかふ(草とりかふ)→第89号「神楽・かぐら歌」参照
       とり具→第176号「想空歌」参照
   とりながす→第72号「大ぬさの空・大ぬさ小ぬさ・ぬさ」参照
      とりのくし→第17号「あなくしたかの」参照

【苫】

菅や茅などを荒く束ねて、雨露を防ぐ目的で小屋の屋根の覆い
などに利用するための莚のようなもの。
(苫ふきたる庵)(苫やかた)(苫のや)は苫葺きの粗末な住処のこと。
とてもよく似たものに真菰を荒く編んで作った「菰」があります。  

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01 みなと川苫に雪ふく友舟はむやひつつこそ夜をあかしけれ
          (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1486番)

     志することありて、あきの一宮へ詣でけるに、
     たかとみの浦と申す所に、風に吹きとめられて
     ほど経けり。苫ふきたる庵より月のもるを見て

02 波のおとを心にかけてあかすかな苫もる月の影を友にて
          (岩波文庫山家集117P羈旅歌・新潮414番・
             西行上人集・山家心中集・玉葉集) 

     おなじ絵に、苫のうちにねおどろきたる所

03 磯による浪に心のあらはれてねざめがちなる苫やかたかな
          (岩波文庫山家集168P雑歌・新潮1166番) 

     ある所の女房、世をのがれて西山に住むと聞きて
     尋ねければ、住みあらしたるさまして、人の影も
     せざりけり。あたりの人にかくと申し置きたりけるを
     聞きて、いひ送りける

04 しほなれし苫屋もあれてうき波に寄るかたもなきあまと知らずや
      (堀川局歌)(岩波文庫山家集178P雑歌・新潮744番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語) 

05 苫のやに波立ちよらぬけしきにてあまり住みうき程は見えけり
       (西行歌)(岩波文庫山家集178P雑歌・新潮745番・
        西行上人集・山家心中集・夫木抄・西行物語) 

○みなと川

固有名詞というよりも普通名詞の感じを受けます。港に近い川の
河口付近、という意味で用いられている言葉なのでしょう。

固有名詞としては摂津の国の歌枕です。現在の兵庫県神戸市を流れて
いる小流です。
ただし西行の時代と比べたら、洪水などで流路も変わっていますし、
また治水のために大幅な改変がなされています。
現在の川名は「新湊川」です。
楠正成と足利尊氏の「湊川の戦い」で有名です。楠正成はこの戦いで
敗死しました。1336年、後醍醐天皇の治世下の出来事でした。
1872年(明治5年)に楠正成を祀る「湊川神社」が創建されました。

「みなと川」の歌は松屋本山家集にもあります。

 河に流す涙湛はむ湊川 蘆分けなして舟を通さむ
                (松屋本山家集)

○友舟

一緒に行動する舟のこと。

○むやひつつ

(もやう)こと。(もやう)とは舟を岸壁や他の舟につなぎとめること。
互いにつなぎとめている舟を(もやい舟)、もやうための綱を(もやい綱)
と言います。
(むやひつつ)で、もやったままの状態で…ということ。

○志すこと

どういう目的なり願望があったのか不明です。

○あきの一宮

広島県の厳島神社のことです。後述。

○たかとみの浦

広島県賀茂郡内海付近、現在の高飛の浦か。
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」)

安芸の国(広島県)賀茂郡、高飛の浦か。(新潮古典集成山家集)
                   
広島県豊田郡安浦町大泊。(和歌文学大系21)

地名が異なっています。これは合併などを機会に住所名改変、地名
変更されたことが原因ではないかと思います。いずれも現在の
呉市安浦町のようです。
それにしても、呉市安浦町は宮島と随分と離れた位置にあります。
そのことから考えると、この時の旅は船旅が中心だったのだろう
と思えます。

○苫もる月

苫の隙間から月光が差し込んでいるという状況です。

○おなじ絵

前歌の1165番の詞書に「屏風の絵を人々よみけるに…」とあります。

○ある所の女房

ここでは個人名まではわかりません。しかし山家心中集や西行上人集
によって、待賢門院堀川の事だと分かります。
よってこの贈答歌は堀川と西行の間で交わされたものです。

○西山

京都の西山の事です。しかし、ここからここまでの山が西山であると
いう、明確な区分指定はありません。固有名詞としての「西山」も
ありません。東の方の山に対する西の方の山というほどの意味です。
西行の時代は衣笠山(金閣寺がある)辺りでも西山といわれていた
ようです。現在では普通は嵯峨及び桂川以西の山を指しますが、
狭義には西京区大原野から天王山までの丘陵を特に西山と言うようです。 

○しほなれし

潮に馴れるということ。潮気が染み込んでいること。涙を暗示させる
言葉です。
 
○うき波

二重三重の意味を込めた言葉です。(うき)は「浮き」と「憂き」を
掛け合わせていて両方の意味で解釈されます。
世俗から隔絶した、どこにも頼るべき者のない尼という身分の寂しさ、
わびしさが伝わってきます。

○あまと知らずや

堀川自身が自分の現況や覚悟を再確認するための言葉なのでしょう。
自身の存在確認の言葉とも言えます。韜晦の気持ちなどが少しでも
あれは、こんな言葉は使わないものだと思います。

○波立ちよらぬ

人はもちろんのこと、波も立ち寄ることがない状況。世情にも疎く
なり、孤絶感を深めているということ。

○あまり住みうき

(あまり)は歌のことばとしては疑問にも思いますが、(余り)に(尼)
や(海女)を掛け合わせるために使われています。
いかにも住みづらそうな…という同意し同情する言葉です。

(01番歌の解釈)

「湊川では、舟の苫屋根に雪が積もって、あたかも雪で屋根を葺いた
ように見えるが、友舟どうし舟をつなぎ合わせ、身を寄せ合って
寒さをしのぐようにして雪の夜を明かしたことだ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋) 

(02番歌の解釈)

「波の音を聞きながら、月の光を友として旅の一夜を明かしている
様子が、素直に表現されている。第一句が一字字余りになっている
が、それも一首の調べをしずかなものとする上に利いている。」
          (安田章生氏著「西行」87ページから抜粋)

「波の音が心配で眠れずに夜を明かした。浦の苫屋を漏れ入る
月の光を友として。」
                (和歌文学大系21から抜粋)  

(03番歌の解釈)

「磯に寄せる波の音に心がすっかり洗い浄められるようである。
苫葺きの粗末な漁師小屋にいると、波の音で目覚めがちになるよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)  

(04番歌の解釈)
 
「お住まいと聞いておりました草庵には人の立ち寄った気配も
なくて、なんだかとっても住みにくそうな尼のお宅と拝見しま
した。同情を禁じえません。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「住み馴れた苫屋も荒れはててしまい、憂き波に寄るべもなく
漂う海女のように、心憂く住む尼とは御存じありませんか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【厳島神社】

広島県佐伯群の厳島(宮島)にある旧官幣中社。福岡県の宗像
大社と同じく、海の神様である宗像三神を祀ります。
京都府の「天の橋立」、宮城県の「松島」とともに日本三景の
一つです。社殿は海中に建ち、丹塗りの鳥居で有名です。

平清盛と厳島の関わりの端緒については良く分かりません。
平清盛は1146年に安芸の守に任ぜられていますが、厳島神社に
初めて参詣したのは文献上では1160年のことです。以後、清盛の
厳島神社崇敬が強くなります。
1152年、清盛による厳島神社社殿修復、次いで1168年にも修築が
なされています。この時に社殿は現在とほぼ同じ配置になった
そうです。有名な平家納経は前年の1167年。納経は金銀の金具を
つけた法華経二十八巻、その他四巻、及び願文一巻からなります。
1175年10月には萬燈会、そして千僧供養が行われています。

前述の西行の旅は何年に行われたのか不明です。1152年から1155年
までの間だろうという説が(尾山氏、川田氏説)ありますが、
清盛の厳島神社初参詣よりも西行の参詣のほうが早かったという
ことになり、これでは少し不自然な気もします。四国への旅と
関係があり、1167年かその翌年のことと解釈したほうが良いよう
に思います。窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で1168年の可能性
を示唆しています。(241ページ)

【とまり】
    
「止まる、留まる、泊まる」の活用形のある歌はたくさん詠まれて
います。30首を越えます。殆どの歌に「止まる、留まる、泊まる」
の重層的な意味が込められていて、たとえば「止まる」のみに意味が
限定されている歌は無いともいえます。

30首ほどのすべてを紹介するだけの意味もありませんから、任意で
少しのみ記述します。固有名詞については以下を参照願います。

○をざさのとまり→第194号「墨染めの袖」参照
○竹の泊→第193号「雀・すずめ貝・雀弓」参照
○ちごのとまり→第218号「ちご・ちごのとまり」参照

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01 風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり
          (岩波文庫山家集37P春歌・新潮134番・
                西行上人集・山家心中集) 

 ◎西行上人集・山家心中集は以下のようになっています。

 かぜにちる花のゆくへはしらねどもをしむ心は身にとまりけり

02 波高き世をこぎこぎて人はみな舟岡山をとまりにぞする
         (岩波文庫山家集212P哀傷歌・新潮849番)

03 人しらでつひのすみかにたのむべき山の奧にもとまりそめぬる
     (岩波文庫山家集197P雑歌・新潮欠番・西行上人集) 

04 とまりなきこのごろの世は舟なれや波にもつかず磯もはなれぬ
             (岩波文庫山家集258P聞書集239番)

05 道の邊の清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ
          (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮欠番・
          新古今集・御裳濯集・玄玉集・西行物語) 

06 灯のかかげぢからもなくなりてとまる光を待つ我が身かな
         (岩波文庫山家集213P哀傷歌・新潮1517番)

       旅にまかりけるにとまりて

07 あかずのみ都にて見し影よりも旅こそ月はあはれなりけれ
          (岩波文庫山家集107P羈旅歌・新潮411番)

○とまりけり

(止まる、留まる、泊まる)の全ての意味が込められている言葉です。

○波高き世

「舟岡」の「舟」の縁語として、人生航路を(波高き世)という
言葉で表しています。

○こぎこぎて

人生を舟に例えています。自分の人生は自分で漕いで渡って行か
なくてはならないということです。

○舟岡山

京都市北区紫野にある船岡山のことです。山の形が船に似ているから
船岡山と名付けられたようです。高さは112メートル。
 
船岡山は遊宴の地であり、刑場の地であり、葬送の地です。戦国時代
には戦場にもなっています。古くは985年に円融上皇の催した子の日
の遊行が記録されています。
保元の乱で敗れた源為義はここで斬首され、ニ條天皇も院の二位の
局もここで葬儀が行われました。応仁の乱では西軍が船岡山に城砦を
築いて篭もり、戦場となりました。近くの西陣の地名は西軍が陣を
置いたということから来ています。

「都の中におほき人、死なざる日はあるべからず。1日に一人、二人
のみならむや。鳥部野・舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日は
あれど、送らぬ日はなし」
                  (徒然草137段から抜粋)

現在も船岡山の西麓には荼毘に付したと思える所に小さな石仏が置か
れており、五基ほどで固まったそれらが場所を点々と替えて、たくさん
あります。
山家集には他に船岡の地名のある歌と詞書があります。

01 船岡のすそ野の塚の数そへて昔の人に君をなしつる
          (岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮820番・
        西行上人集・山家心中集・・玉葉集・夫木抄) 

      七月十五日月あかかりけるに、舟岡と申す所にて

02 いかでわれこよひの月を身にそへてしでの山路の人を照らさむ
           (岩波文庫山家集191P雑歌・新潮774番・
      西行上人集追而加書・新千載集・万代・西行物語) 

○とまりにぞする

人生の最終地点を指します。人の死をもって一代限りの終焉であり、
行先はもうないということ。人生の行き止まりであり永遠の宿泊
場所であるということ。

○とまりそめぬる

(そめぬる)は(初めぬる)で泊り始めたこと。

○とまりなき

この歌の(とまり)は理解に苦しみます。人心や世情の不安定さを
批判的に表している言葉ですが、批判の言葉として効いている
ようには思えません。あるいは誤写があるのかもしれません。

○波にもつかず

世の中の大きなうねりが(波)であるとするなら、就かないことは
波に加わらない、流れに染まらない、加担しない…とうことのはず
です。それを指して第一句の「とまりなき」という言葉がありますが、
調べも整っていず意味も良くわからないものになっています。

○灯の

ここにある(灯=ともしび)は暗い場所を照らす人工的な光(火)を
指してはいません。自分が生きて行こうとする体力や気力のこと
を言い、それが「かかげ力もなくなる」ということで、体力や気力、
生命力そのものの減退を言っています。命の灯が弱くなっている
ということです。
詞書は「無常十首」という題詠であり、無常観を詠った諦観が感じ
られます。歌は何歳代の歌なのか分かりませんが、西行の自身詠で
あろうはずはなく、従って西行最晩年の歌であるとは思えません。

○とまる光

生命体としての発光を終えるということ。(とまる)は(止まる)こと
であり、死亡することを意味しています。

○あかずのみ

飽きることがない、ということ。

(01番歌の解釈)

「風が誘って散らす花がどこへ行ってしまうのかそのゆくえは知ら
ないけれど、散るのを惜しむ心は花とともにどこかへ消え去ったり
しないで、いつまでもわが身に留まっているよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(02番歌の解釈)

「いろいろつらいことの多く波瀾に富む世を、人は一生懸命に漕いで
わたり、最後には船岡山を泊りとして、皆そこに葬られることだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

(03番歌の解釈)

「他人に知られないで最後の住みかとあてにしている山の奥に
泊まり始めたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「行き着く所を知らないこの頃の世の中は泊まりを定めない舟
だろうか。波にもつかず、磯も離れないことよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「道のほとりにある冷たい清水の流れている柳の木かげ、そこに
ほんのちょっと休んで清水を飲み、身を休めようとして立ち寄り
立ち止まったのであるが、あまりの気持よさのために、つい長居
をしてしまったよ。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(06番歌の解釈)

「人生という灯火をかき立てて明るくする気力もなくなって、
光が消えて死を待つだけの私である。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

「あきることなくいつも都で仰いでいた月よりも、旅の空で
眺める月影こそ、この上なくあわれ深く思われるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)

【外山】
 
人里に近い山のこと。里山、端山のこと。奥山、深山の対語。
現在は「里山」という言葉がよく用いられます。   
01番歌の「外山が谷」とは、里の近くにある小山と小山の間の窪地、
谷間を言います。

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01 雪分けて外山が谷のうぐひすは麓の里に春や告ぐらむ
          (岩波文庫山家集22P春歌・新潮1065番)

02 時鳥ふかき嶺より出でにけり外山のすそに聲のおちくる
     (岩波文庫山家集47P夏歌・新潮欠番・西行上人集・
      御裳濯河歌合・新古今集・御裳濯集・西行物語)

03 松にはふまさきのかづらちりぬなり外山の秋は風すさぶらむ
           (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮欠番・
       御裳濯河歌合・新古今集・御裳濯集・玄玉集)

04 秋しのや外山の里や時雨るらむ生駒のたけに雲のかかれる
           (岩波文庫山家集90P冬歌・新潮欠番・
         宮河歌合・新古今集・玄玉集・西行物語)
 
05 雪わけて外山をいでしここちして卯の花しげき小野のほそみち
             (岩波文庫山家集236P聞書集70番)

○うぐひす

鴬のこと。鴬は西行歌に31首あります。
ヒタキ科の小鳥。スズメよりやや小さく、翼長16センチメートル。
雌雄同色。山地の疎林を好み、冬は低地に下りる。昆虫や果実を
食べる。東アジアにのみ分布し日本全土で繁殖。
春鳥、春告鳥、歌詠鳥、匂鳥、人来鳥、百千鳥、花見鳥、黄鳥
など異名が多い。
            (講談社「日本語大辞典」から抜粋)

ホトトギスがウグイスの巣に卵を産みつけてウグイスに育て
させる「託卵」でも知られています。

○春や告ぐらむ

鴬は「春告げ鳥」とも言われています。

○時鳥

鳥の名前で「ほととぎす」と読みます。春から初夏に南方から
渡来して、鶯の巣に托卵することで知られています。鳴き声は
(テッペンカケタカ)というふうに聞こえるようです。
岩波文庫山家集の(ほととぎす)の漢字表記は以下の種類があります。 
 
郭公・時鳥・子規・杜鵙・杜宇・蜀魂・呼子鳥・死出の田長。

○まさきのかづら

「まさきのかずら」の古名は蔦蔓(蔦。ブドウ科の落葉植物)です。
和歌文学大系21では蔦蔓の一種の「サンカクヅル」としています。
サンカクヅルは「行者の水」という別名があります。
一説にテイカカズラのことを指すとも言われています。しかし
キョウチクトウ科のテイカカズラは紅葉する葉もありますが、ほぼ
紅葉しませんからテイカカズラではないと思います。

この歌にある「ちりぬなり」という表現などから見て、葉はある
程度大型のものを思わせます。テイカカズラなどのごく小さな葉を
言うには、ふさわしくない言葉でしよう。

○秋しの(秋篠)
 
奈良市にある地名です。秋篠寺があります。
西大寺の山号も「秋篠山」といいます。

この歌は山家集からは欠落しています。初出は宮川歌合。
山家集成立時には無く、晩年になってから詠んだ歌であると解釈
できます。
窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で
「松にはふ正木のかづら散りにけり外山の秋は風すさぶらむ」
の歌と合わせた評の中で、

「外山の里人を、荒い秋風や時雨につけて偲ぶ心が対象となって
いて、そのような主観を通して、自然そのものの相もまた、現実感
がゆたかに表現されている。」

と記述されています。
それに違いはないのですが、情景表現に終始した描写から、もう
少し作者の心情を直裁に表す言葉が組み込まれていれば、ドラマ
チックな歌になったのではなかろうかと思います。
しかしこの歌のように、作者個人の存在感の希薄な歌も、また西行
歌らしいのかも知れません。

○卯の花

卯の花を雪に例えることは常態化しています。

卯の花はウツギの花のこと。ウツギはユキノシタ科の落葉潅木。
初夏に白い五弁の花が穂状に群がり咲く。垣根などに使う。

 ○卯の花腐しー五月雨の別称。卯の花を腐らせるため。
 ○卯の花月ー陰暦四月の称。
 ○卯の花もどきー豆腐のから。おからのこと。
             (岩波書店「古語辞典」から抜粋)

ウツギは枝が成長すると枝の中心部の髄が中空になることに由来し、
空木の意味。
硬い材が木釘に使われたので打ち木にちなむという異説があります。
花期は五月下旬から七月。枝先に細い円錐花序を出し、白色五弁
花が密集して咲くが匂いはない。アジサイ科。
           (朝日新聞社「草木花歳時記」を参考)

ユキノシタ科とアジサイ科の違いがあります。これは分類学上の
違いによるものであり、どちらでも良い物と思いますが、最近は
ユキノシタ科はアジサイ科に含まれるようです。
○○ウツギと名の付くものは他にたくさんあり、科も違います。
 
○小野

山科区の随心院あたり。
左京区の三宅八幡あたりから大原にかけて。
右京区の周山街道沿い。京都には著名な「小野」の地名は以上の
3か所あります。
西行歌の殆どは左京区の大原近辺を詠んだ歌と見て良いでしょう。

(01番歌の解釈)

「里近い山の谷の鴬は、雪を分けて麓の里に春を告げている
ことだろうかなあ。自分の住む深山ではなお雪深く、春の訪れも
知らないのに。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「時鳥は深い峰から出て来たのだな。里近い山の山裾に
空からその声が落ちて来るよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「松の木に這いかかっている正木のかづらの葉は散ってしまったよ。
もう秋も終りだから、さだめし里近い山の秋のこのごろは、風が
吹き荒れることであろう。」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(04番歌の解釈)

「秋篠の外山の近くの里は今時雨が降っているのであろうか。
向こうの生駒のたけには雲がかかっているよ。」
        (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(05番歌の解釈)

「雪を分けて外山を出て来た心地がして、卯の花が繁っている
小野の細道よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【取りさして】
    
(取り)は取ること。ここでは早苗を手に持つ行為を指します。
(さして)は「さす」の活用形で、しかけてやめること、行為を
中断することを意味します。
(取りさして)で、早苗を手に取って田に植えるという行為を
一時的に中断して…ということになります。
似た歌に下の歌があります。

     早苗をとりて時鳥を聞くといふことを

 ほととぎす聲に植女のはやされて山田のさなへたゆまでぞとる
          (岩波文庫山家集264P残集10番・夫木抄)

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01 ほとときすいそくさなへを取りさしてなきつるかたへこころをそやる
                     (松屋本山家集)

○いそくさなへを

早苗を田に植えることに専心している状態。

○なきつるかた

ほととぎすの声のする方角のこと。
拙宅近辺の田では田植えは梅雨頃に行われます。今年の入梅は6月10日。
旧暦では4月21日となります。ホトトギスは勧農の鳥とも言われて
いますから、田植えの頃に鳴くのも「なるほど」と思わせます。

(01番歌の解釈)

「田植えを急いで早苗を取るのをやめて、ほととぎすが鳴いた
方角へ心をやるよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【とり所・とりどころ】
    
捕りどころ、盗りどころ、取り場所、取り得などの重層的な意味を
こめている言葉。

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01 はひつたひ折らでつつじを手にぞとるさかしき山のとり所には
       (岩波文庫山家集40P春歌・新潮163番・夫木抄)

02 降る雪にとだちも見えず埋もれてとり所なきみかり野の原
           (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮525番)

03 心をば見る人ごとにくるしめて何かは月のとりどころなる
         (岩波文庫山家集110P羈旅歌・新潮1410番)

04 ふりず名を鈴鹿になるる山賊は聞えたかきもとりどころかな
             (岩波文庫山家集250P聞書集197番)

○折らで

つつじの木を折らないこと。観賞用には手折らないけれども、
険しい山を登る時にツツジの枝に掴まるようにして登るということ。

○さかしき山

険しいということ。山の勾配がきついということ。
危ないということ。
岩波文庫版では「さかし」の「か」は濁点が付いていませんが、
古語辞典では「さがし」と、濁っています。

○とだち

「鳥立」としています。鳥が飛び立つことを言います。

○みかり野の原

朝廷が狩りをするために定めている野のこと。朝廷の狩場であり、
禁野地です。

○ふりず名

古りず名か?。「名」では文法として誤りという指摘が和歌文学
大系21にあります。
名声とか評判が衰えることなく今も有名である・・・という
ほどの意味。

○山賊

読みは「やまだち」。山を本拠として、街道を通行する人々に危害を
及ぼす悪党達のこと。鈴鹿峠の山賊は大和の奈良坂などとともに有名。
似たような言葉に「山賎「がつ)」がありますが、山賎は山辺に
住んで、きこりなどを生業とする人たちのことを言います。

記録を見ると鈴鹿峠には古くから山賊による被害があって、906年にも
「鈴鹿山の群盗16人を捕える」と歴史年表にあります。頻繁に往来して
いた水銀商人などはもちろんのこと、伊勢神宮に向かう勅使さえもが
襲われています。
鎌倉時代北条氏の治世になっても、鈴鹿山の山賊は盛んに活動して
いたようで襲われる旅人が多くて、北条氏はそのための対策を地頭に
命じています。旅人は鈴鹿峠を越えるのも命がけだったでしよう。
 
(01番歌の解釈)

「岩を這い伝うような険しい山を登る時には、生えている躑躅を
力草にする。美しい躑躅を手折ることなく手に取れる、それが
険しい山路のいい所。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「降りしきる雪のために、鳥立も見えないほどあたり一面は
埋もれて、どうしょうもないみ狩野の原だよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「見る人ごとにその心を苦しめて、何が月のとりえと
いうのであろう。何もありはしない。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「(ふり)(なる)(聞え高き)(とりどころ)などの語を
すべて鈴の縁語としているため、ユーモアが生じ、(略)山賊を
揶揄するかたちになっている。」
           (窪田章一郎氏著「西行の研究」336P)

「古くから有名であったが、今もなお高名な鈴鹿山の山賊は
その有名なのも一つのとりどころ(とりえ)なのであろう。」
        (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【とりわき】
    
格別に。特別にということ。

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      十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり
      嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣川
      見まほしくてまかりむかひて見けり。河の岸につきて、
      衣川の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを
      見るここちしけり。汀氷りてとりわけさびしければ

01 とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣川見にきたる今日しも
         (岩波文庫山家集131P羈旅歌・新潮1131番)

     とりわきつくべきよしありければ
 
02 やさしことになほひかれつつ
       (下句、西行)(岩波文庫山家集259P聞書集245番)

◎ 02番の句の前に俊成の上句があります。 

     かくてものがたり申しつつ連歌しけるに、扇にさくらを
     おきてさしやりたるを見て     家主 顕 廣

   あづさ弓はるのまとゐに花ぞみる 
      (前句、顕廣)(岩波文庫山家集259P聞書集245番)

○十月十二日

この歌は始めての奥州行脚の時の歌だとほぼ断定できます。
京都を花の頃に旅立って、平泉に着いたのは10月12日。半年以上
を費やして平泉に行っています。何箇所かに逗留して、ゆっくりと
した旅程だったはずです。

○平泉と中尊寺

現在の岩手県西磐井郡平泉町のこと。清原(藤原)清衡が1100年
頃に岩手県江刺郡から平泉に本拠を移して建設された仏教都市
です。清衡が建立した中尊寺の金色堂は1124年に完成した時の
ままで、一度も焼失していません。奇跡的に残りました。
金色堂には清衡・基衡・秀衡の三代の遺体(ミイラ)があります。

○見まほしくて

「あらまほし」などと同様の用い方です。
「見」「まく」「ほし」が接合して、縮めて使われている言葉
です。
「見」は見ること。「ま」は推量の助動詞「む」の未然形。
「く」は接尾語。「ほし」は欲しい、のことで形容詞。
(強く見たいと思って)というほどの意味です。
 
○衣川の城  

藤原氏の衣川の館のこと。もともとは奥州豪族の安倍氏の柵(城)
がありました。古くは「衣の関」でしたが、関跡に奥羽六郡の覇者
であった安倍氏が柵を築いていたものです。この柵は前九年の役で
源頼義と清原氏の連合軍が1062年に勝利してから清原氏(藤原氏)が
治めていました。
後に藤原秀衡のプレーンでもあり藤原泰衡の祖父でもあった藤原
基成の居住していた館だといわれます。

余談ですが、義経の衣川の館は最後に平泉に落ち延びて以後に
建てられた高館のことです。(義経記から)
ここが源義経の最後の地と言われます。現在は「高館義経堂」と
呼ばれています。小高い丘にあり、中尊寺からも衣川からも少し
離れています。
義経は1187年2月ころには平泉に着いていましたので、その頃に
建てられたものでしょう。当然に西行は京都に戻っていると
考えられますので、義経のこの館は見ていないはずです。

○しまはしたる

衣川の館は城構えのため、館の外側を垣などで囲んでいる設備や
その状態を指しています。

○ことがらようかはりて

「事柄、様変わりて」のことです。
この歌自体が初度の旅の時のものとみなされますので、再度の
旅の時に初度の旅のことを振り返って・・・という意味ではない
はずです。
事柄とは、自身で見たことはないけど、かねて聞き及んでいた
安倍氏の衣川の柵(衣川の城)の状況と対比させているものと
思われます。

○今日しも

「しも」は十月十二日という「今日」を特に強調する言葉です。

○連歌

詩歌表現形式のひとつ。万葉集巻八の「尼と大伴家持」の作品が
連歌の起源ともいわれています。 

  佐保河の水を塞き上げて殖ゑし田を (尼)
  苅る早飯(わさいひ)は独りなるべし (家持)

連歌は室町時代に流行し、江戸時代の俳諧にと発展しました。
数人で詠み合うのが普通ですが、一人での独吟、二人での両吟、
三人での三吟などもあります。

○顕廣

藤原俊成が1167年に改名するまでの名前。葉室顕頼の養子と
なって、葉室顕廣(広)と名乗っていました。
葉室家ももとは藤原氏です。

○あづさ弓

梓の木で作った弓のこと。カバノキ科の植物である梓は古来、
呪力のある植物として信じられていて、武具としてよりも神事
に主に用いられたようです。「梓の弓をはじきながら、死霊や
生霊を呼び出して行う口寄せ」のことを「梓」ともいい、それを
執り行う巫女を「梓巫女」という、と古語辞典にもあります。
古代の素朴な民族宗教と密接に関係していた弓です。
和歌においては枕詞的に用いられ、音、末、引く、張る、射る
などに掛けて詠まれています。
万葉集にも多くの「梓弓」の歌があります。
 
○はるのまとゐ

(円居・団居) 一家の者が楽しく集まること。だんらん。
車座になること。(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
春の日に友人たちが寄り集まって歓談する状況を指しています。
53ページ「水の音に・・・」歌にも(まとゐ)の言葉があり
ます。(まと)は的であり、弓の縁語です。

○とりわきつくべき
 
特に西行を名指しして、あとの句をつけるように…という意味。

○やさしことに

底本では(やさし)と(ことに)の間に(き)が入っています。
岩波文庫版では(マヽ)と傍記されていて(やさししことに)と
読めます。
「やさしことに」は字足らずなのですが、梓弓の縁語仕立てに
するために意図的に(き)を傍記したものでしょう。
従ってここでは(矢差しことに・・・)の意味だと思います。

(01番歌の解釈)

「平泉に着いたその日、折りから雪降り嵐がはげしく吹いたので
あったが、早く衣川の城が見たくて出かけ、川の岸に着いて、
その城が立派に築かれているのを見、寒気のなかに立ちつくし
ながら詠んだ・・・(略)
衣川の城を見に来た今日は、とりわけ心もこごえて冴えわたった
ことだ、というのである。寒い冬の一日、はるばると来て、歌枕
であり、また、古戦場でもある衣川を初めて見た西行の感慨が
出ている歌である。」
             (安田章生氏著「西行」から抜粋)

「衣河を見に来た今日は今日とて、雪が降って格別寒い上、とり
わけ心にまでもしみて寒いことである。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番連歌の解釈)

こうして物語をしながら連歌を詠んでいる時に、扇の上に桜の
花弁をおいて、差し出したのを見て

春の団欒に、弓張りの形の扇の的の上に、射られた矢ではなく、
花を見ることだ。                 (顕廣)

特に西行にあとの句をつけるように言れたので

風雅なことには出家後もなを変わらずに引かれている (西行)
    (和歌文学大系21及び渡部保氏著「山家集全注解」を
       参考にしています。) 

【鳥部野・鳥部山・鳥辺野】

固有名詞としての鳥部山は京都東山三十六峰の一つである「阿弥陀が峰」
の古称です。「阿弥陀が峰」の麓辺りを「鳥部野」と言います。
「阿弥陀が峰」は現在の七条通りの東の突き当たりの山です。

現在では、鳥辺野墓地とは東山五条にある大谷本廟を指し、ここは
古代は六道珍皇寺が管理していたようですが、江戸時代になって
からは西本願寺が管理しています。大谷本廟の鳥辺野墓地は驚嘆
すべき規模の墓地で、親鸞や司馬遼太郎氏もここで眠っています。

古代の葬送地としていう「鳥部野」は清水寺以南あたりから泉涌寺
以北あたりまでを指しています。
鳥辺野は、西の仇野、北の蓮台野とともに、京都の三大葬送地の
ひとつでした。平安京発足の時代は鴨川以東はまだまだ未開地が
多く、遺体は鴨川以東にも遺棄していたともいうことです。
埋葬されないままに遺棄されていたという、野ざらしの風葬が実態
だったものでしょう。火葬が普及したのは八世紀の初頭あたりからの
ようです。
羅城門の上で女の死体から髪の毛を抜く老婆の話が「今昔物語集」
に記載されているように、庶民の場合は火葬とか埋葬とかされずに
遺棄されていたものが殆どだったようです。とくに飢饉や疫病が
原因の時は、都大路にもたくさんの死体が捨てられたままになって
いたようです。
吉田兼好の「徒然草」第七段に

「あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつる
ならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は、定めなきこそ
いみじけれ」

とあり、鳥辺野は人の世の無常を表す代名詞です。王朝時代に栄華を
極めた藤原道長も鳥部山で火葬されています。
鳥辺野と一くくりにして言いますが、皇室や公卿などの貴顕の場合は
阿弥陀が峰の南西の今熊野観音寺とか泉涌寺あたり、庶民の場合は
阿弥陀が峰の北西というよりも清水寺の南西の山の斜面で荼毘に付
されました。

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01 鳥邊野を心のうちに分け行けばいまきの露に袖ぞそぼつる
          (岩波文庫山家集192P雑歌・新潮757番・
                西行上人集・山家心中集)

02 なき跡を誰としらねど鳥部山おのおのすごき塚の夕ぐれ
         (岩波文庫山家集212P哀傷歌・新潮848番)

03 なき人をかぞふる秋の夜もすがらしをるる袖や鳥邊野の露
     (岩波文庫山家集282P補遺・西行上人集・宮河歌合)

     ゆかりありける人はかなくなりにける、とかくの
     わざに鳥部山へまかりて、帰るに

04 かぎりなく悲しかりけりとりべ山なきを送りて帰る心は
          (岩波文庫山家集204P哀傷歌・新潮790番・
                 西行上人集・山家心中集)

     鳥部野にてとかくのわざしける煙のうちより出づる
     月あはれに見えければ

05 鳥部山わしの高嶺のすゑならむ煙を分けて出づる月かげ
          (岩波文庫山家集211P哀傷歌・新潮776番)

○いまきの露

新潮版は(いぶき)、板本の類題本では(いまき)、西行法師家集
では(いそぢ)、和歌文学大系21では(伊吹)としています。
(いぶき)であるとしても(息吹)では意味が通りません。

(伊吹)は伊吹山のことではなくて植物の名詞としての伊吹
(ヤマヨモギ)を指しているとのことです。(和歌文学大系21)
百人一首51番藤原実方の(さしも草)と同義。そして伊吹を息吹
に掛けていると解説されています。
ヒノキカシワのことを(伊吹)といいますが、ヤマヨモギを
(伊吹)とするのは知りませんでした。

○なき跡

死者が葬られている現場のこと。墓地のことです。 

○ゆかりありける人

西行自身とゆかりのある人と思いますが、誰をさしているのか特定
できません。

伊藤嘉夫氏は「日本古典全書山家集」の中で、「ゆかりありける人」
とは西行の妻だと予想しています。西行の妻は出家して高野山山麓の
天野に住んだと伝えられますが、出身地の京都に帰って、最後を迎えた
のかもしれません。その場合は、西行が葬儀を執行したものかもしれ
ません。この歌にあるダイレクトな表現、痛切な階調から考えて、
私も、西行が妻を見送ったというふうに思えてきます。

○はかなくなりにける 

人が死亡するということ。

○とかくのわざ

葬送の儀式を意味します。

○わしの高嶺 

インドにあって、釈迦が無量寿経、法華経などを説いた山とされています。
鷲の形をした山で原名「グリゾラ・クーター(鷲の峰)」と呼ばれていた
そうです。そこから、霊鷲山(りょうじゅせん)とも言われます。
ブッダ(釈迦)が創始した仏教は、インドでは13世紀にほぼ消滅しました。
以来、霊鷲山も風化、荒廃して、その所在地さえも分からなくなっていま
した。
1903年に日本の本願寺の大谷探検隊がジャングルに埋もれていた山を発見
して、その山を釈迦が説法していた霊鷲山と断定したものだそうです。

比叡山も鷲峰の別称がありますが、これもインドの霊鷲山から名付けたもの
でしょう。また、東山三十六峰の27番「霊鷲山」は、インドの霊鷲山をその
まま山号にしています。山の名前からでさえも仏教的な背景を感じとること
ができます。日本という国に住む我々は、やはり宗教的な要素が強い国に
住んでいると言ってよいようです。
「わしの山」の歌は山家集に10首ほどあります。
  
(01番歌の解釈)

「無常の世を思いながら鳥辺野の道を分けてゆくと、嘆きの息吹が
露になったのだろうか、しとどに袖の濡れそぼつことであるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「葬地鳥辺野を生きながらに草葉を分けて入って行くと、伊吹に
宿る露に袖がぐっしょりと濡れた。生気を感じさせる草の露も人
の命と同じようにはかなく散ることに、私は涙していたようだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「誰を葬ったのかも分からないが、それぞれに荒涼として無常を
思わせる鳥辺山の墓所の夕暮れであることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

当時の墓地は現在のように戒名を彫った墓石が立てられているわけ
ではなく、小塚を築いて、その上に石や木の卒塔婆を立てる程度の
ものだったようです。当然に誰の墓ともわかりません。
そういう塚が当時から無数にあったはずです。       
鳥辺野とは、その場所だけで、あるいは、その地名だけで人生の
無常感を表しています。生前には名前を持ち、その人なりの活動も
してきましたが、死して鳥辺野に葬られてしまえば、もう、誰とも
見分けがつかなくなってしまいます。死者達の塚がたくさんある
鳥辺野は、ことに夕暮れの鳥辺野の光景は、ことさらに無常感を
覚えます。ということが歌の意味なのでしよう。

(03番歌の解釈)

「なくなった人の数を数える秋の夜どおし、しおれたわたしの袖の
涙は、鳥辺野に置く露だろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

「ゆかりの人(西行の近しい親族か、あるいは極めて親しい友人)が亡く
なって、東山の鳥辺野で葬儀が行われました。死者を荼毘に付して
(火葬して)から、帰りました」

「亡くなったゆかりある人を鳥部山で見送って、そして家に向かって
帰る私の心は、これ以上もなく悲しいものだよ」
                     (筆者の解釈)

上が詞書、下が歌の解釈ですが、ともに死者を見送るということの
悲しみを直截的に表現しています。技巧を用いず、気持ちを直情的に、
そのまま詠っていて、少しの説明も要しないと思います。西行の時代
であれ、現在であれ、個人にゆかりのある人を見送るのは悲しいもの
です。この哀切の感情は誰にも響きあい、そして共有することのできる
極めて人間的な感情であるはずです。

(05番歌の解釈)

「鳥辺野は釈迦が説法なさった霊鷲山の流れをくんだ末の山なので
あろうか。火葬の煙を分けて美しい月の姿が現れたよ」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

鳥辺野の歌は以上の五首があります。鳥辺野は歌枕ですが「八雲御抄」
には「憚り有り」と注記しているそうです。鳥部野はいわゆるハレの
場ではありませんから、憚りがあるということも理解できます。

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