とお〜 | とお〜とき | とき〜とば | とま〜とり |
遠山ばた・ときは・常盤
◆ その他の「修行」歌について(2) ◆
その内実において岩波文庫山家集にある「遠く修行」と「修行」を
分け隔てることは殆ど意味を持ちません。しかし「遠く修行」を
項目化しましたから、ここでは「修行」という言葉のある詞書と
歌も紹介しておきます。
山家集には「遠く修行」や「修行」の言葉が無くても多くの場所に
行き、旅先で詠んだ歌がたくさんあります。
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みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関に
とまりて、所がらにや常よりも月おもしろくあはれ
にて、能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折、いつなり
けむと思ひ出でられて、名残おほくおぼえければ、
関屋の柱に書き付けける
09 白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
(岩波文庫山家集129P羈旅歌・新潮1126番・西行上人集・
山家心中集・新拾遺集・後葉集・西行物語)
宮の法印高野にこもらせ給ひて、おぼろけにては
出でじと思ふに、修行せまほしきよし、語らせ給ひ
けり。千日果てて御嶽にまゐらせ給ひて、いひ
つかはしける
10 あくがれし心を道のしるべにて雲にともなふ身とぞ成りぬる
(岩波文庫山家集135P羈旅歌・新潮1084番)
○みちのくに
「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。
大化の改新の翌年に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島県以北は陸奥の国と出羽の国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。
出羽の国は山形県と秋田県を指します。
○白河の関
現在の福島県白河市に設置されていた関所です。勿来(なこそ)の関、
念珠(ねず)の関と合わせて、奥羽三関のひとつです。古代に蝦夷
対策のために設置されたものです。
白河の関はいつごろに置かれて関として軍事的に機能していたのか、
明確な記録がなくて不明のままです。
「白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として勿来関(菊多関)
とともに4〜5世紀頃に設置されたものである。」
(福島県の歴史散歩から抜粋)
ところが文献にある白河の関の初出は799年の桓武天皇の時代という
ことです。それ以前の奈良時代の728年には「白河軍団を置く」と
年表に見えますので、関自体も早くからあったものと思われます。
この関はどこにあるかよく分かりませんでしたが、江戸時代の白河
藩主松平定信(1758〜1829)が1800年に古代白河の関跡と同定して
「古関蹟」という碑を建てました。1959年からの発掘調査によって
さまざまな遺物が発見され、「白河の関」として実証されています。
この関の前を東西に通る県道76号線が古代の東山道に比定されますから、
能因や西行もこの道をたどったものと断定して良いものと思います。
現在は関の森公園として整備されています。隣接して古刹の『白河神社』
があります。私が08年4月14日に行ったときはカタクリの花が群生して
いました。
◎ 白川の関路のあとを尋ぬれば今も昔の秋風ぞ吹く
(松平定信詠 歴史春秋社刊「歴史文学紀行」から抜粋)
○能因
中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(たちばなのながやす)。
若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
(高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
いたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。
「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
○宮の法印
宮の法印とは元性法印のこと。崇徳天皇第二皇子のため、この
ように呼びます。兄に重仁親王がいますが1162年に病没しました。
1151年から1184年の存命。母は源師経の娘。
初めは仁和寺で修行、1169年以降に高野山に入ったそうです。
岩波文庫山家集ではこの返歌の前にも宮の法印に贈った歌があり
ます。西行とは親しかったともいえます。
10番歌の次に宮法印の返しの歌があります。
山の端に月すむまじと知られにき心の空になると見しより
(宮法印歌)(岩波文庫山家集135P羈旅歌・新潮1085番)
○おぼろけにては出でじ
修行の成果が自分ではっきりと確認できる、自分で納得できる
までは大峯から下山しないということ。
○千日果てて御嶽にまゐらせ
金峯山参詣の時に行う精進潔斎を「御嶽精進」というそうです。
当時は普通で50日から100日間の精進期間だったようです。
宮の法印の場合は千日、約3年間の精進潔斎を果たしたという
ことになります。
天台宗の千日回峰行の荒行は有名ですし大峰にもすさまじい荒行の
千日回峰行があったとのことですが、宮の法印の場合はこの荒行
とは関係ないようです。
御嶽とは大峰修験道の聖地で、大峰山「山上ヶ岳」のことです。
金峯山とも言い、大峰山寺があります。
(09番歌の解釈)
「奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白河の関に
とどまったのであるが、白河の関は場所がらによるのであろうか
月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、能因が
「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と歌を
詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残
多く思われたので、関屋の柱に書きつけた、その歌」
「白河の関屋(関守のいる所)も荒れて、今は人でなく月がもる
(守ると洩るとをかける)のであるが、その月の光はそこを訪ね
る人を関守(月が)として人をとどめるように人の心に深い感動
をあたえて心をとめるのであったよ。(もる、とむる、関屋の縁語)
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
「白河の関守の住む家に漏れ入る月の光は、能因の昔を思い出させ、
旅人の心をひきとめて立ち去り難くさせることだよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(10番歌の解釈)
「金峯山への憧れを道しるべにして、大峯山中を雲とともに
さまよい歩く修行の日々を送っています。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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隨喜品 如説而修行 其福不可限
11 から國やヘへうれしきつちはしもそのままをこそたがへざりけめ
(岩波文庫山家集229P聞書集19番・夫木抄)
若心決定如教修行 不趣于坐三摩地現前
12 わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山
(岩波文庫山家集245P聞書集142番)
(参考歌)
東國修行の時、ある山寺にしばらく侍りて
13 山高み岩ねをしむる柴の戸にしばしもさらば世をのがればや
(岩波文庫山家集128P羈旅歌・新潮欠番・
西行上人集追而加書)
○から國
(からくに)と読みます。古くは朝鮮半島南部を指す言葉ですが、
転じて現在の中国を指す言葉になりました。
私には、中国を中心として朝鮮半島を含めた一帯を指す言葉と
しての認識があります。
歌は中国の有名な故事を踏まえてのものです。
○つちはし
土でできた橋のこと。
○たがへさりけめ
動詞の「違ふ=たがふ」。自動詞ハ行四段活用。他動詞ハ行下二段
活用。
叛くこと、逆らうこと、食い違うこと、誤ること、間違えること、
違約すること、教えからはずれること、などの意味を持ちます。
「違ふ=たがふ」に終助詞の「な」が接続することによって、強い
禁止や願望を表します。
○不趣
仏典の「菩提心論」にある文言です。
岩波文庫版にある「趣」の文字は誤植です。また「聞書集」でも
「不越」となっていて、これも誤りのようです。
正しくは「不起」とのことです。
○三摩地
「さんまじ」と読み、「三昧」の別称とのこと。
三昧とは
【心を静めて一つの対象に集中して、心を散らさず乱さず動揺する
ことのない状態。あるいは、その状態に至る修練のこと。雑念を取り
去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。】と、
仏教辞典にあります。
大乗経典では種々の名称を付けられた数多くの『三昧』が説かれて
いるとのことです。
○月のかげしく
月光があまねく照らしているという幻想的な光景を言います。
仏道修行が修行者本人にもたらす境地を言うものでしょう。
詞書は「煩悩が原因で修行を中断したり再開したりするのではなくて、
自分の心が決めたように覚悟して、動揺することなく一念のままに
必死な修行を怠らなければ、悟りの世界に到達できるだろう」という
意味かと思います。
○しら山
普通名詞ではなく固有名詞で、越の国の歌枕である白山のことと
解釈して良いと思います。「白山」は能因歌枕は越前、五代集歌枕
は越中としています。普通は「ハクサン」と呼ばれます。
白山は石川県・岐阜県・福井県にまたがり、最高峰の標高2702
メートルの御前峰を中心とする付近の山々の総称です。
石川県石川郡鶴来町に鎮座する白山比刀iひめ)神社が全国白山
神社の総本山。白山の御前峰に白山比盗_社の奥宮社があります。
◎ しらやまやなほ雪ふかきこしぢにはかへる雁にや春をしるらん
(藤原俊成 長秋詠藻)
◎ 面影におもふもさびしうづもれぬほかだに月の雪の白山
(藤原定家 拾遺愚草)
○岩ねをしむる
助動詞(しむ)の活用形では無理がありますので、(占める)の
活用形という解釈で良いと思います。
庵の一部分に岩をそのまま用いているということかと解釈でき
ますが、よく分かりません。
(11番歌の解釈)
「漢土で、張良は兵法の嬉しい教えを得た、その土橋の上の
教えもそのまま受けてそむかなかったのだろう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【張良】
紀元前200年前後に活躍した中国史上高名な軍師。前漢の高祖劉邦が
始皇帝の秦を滅ぼして漢帝国を築いた時、劉邦を補佐した軍師として、
つとに有名です。
(12番歌の解釈)
「修行を志して山に分け入ると、そのまま悟りの世界が現れる、
月の光が敷きつめたように覆う雪の白山よ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(13番歌の解釈)
「頑丈で大きな岩によっている高い山のその高みに、柴で葺いた
粗末な庵を作って、汚濁に満ちた俗世間とは隔たって住みたい
ものである。」
(筆者の解釈)
【13番歌について】
13番の「山高み…」歌は西行上人集追而加書のみにしかなく、同書
から岩波文庫山家集校訂者の佐佐木信綱博士が補入したものです。
西行上人集追而加書は西行作ではない歌も西行作として含んでおり、
信用には値しない書物です。
「山高み…」歌も西行の歌であるかどうかは不明です。仮に他者詠で
あったとしても、その作者名も不明なままです。
【遠山ばた】
和歌文学大系21では「遠山畑」と解釈しています。「遠くにある
山の中の畑」という意味です。
しかし「遠山端」という解釈も成立するでしょう。遠くにある山の
端という意味です。しかし山の端だろうが中だろうが同時期に等しく
秋になり、かつ秋は去るでしょうから、「遠山畑」の方が自然な
表現のようにも思います。
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01 雲かかる遠山ばたの秋されば思ひやるだにかなしきものを
(岩波文庫山家集63P秋歌・新潮欠番・
西行上人集・新古今集・西行物語)
○秋されば
(されば)は「去れば」と「然(さ)れば」を掛け合わせていると解釈
できます。
「然(さ)れば」は「秋になったので…」という意味になり、「去れば」
は「秋も終わったので…」という意味になります。
○かなしきものを
もの悲しさを誘う晩秋の光景そのものと、人里離れて遠山畑に住む
人の悲しみということを掛け合わせて表現しています。
(01番歌の解釈)
「雲の懸かる遠くの山畑に秋がやってくると、そこに住む人のもの
悲しさはどうだろうか。こちらから思いやるだけでも悲しいのに。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「秋されば、は秋になることだが、西行の積りでは、秋が去りゆく
事にしてゐる。「雲かかる遠山の端に秋ゆかば」といふことである。
下句いかにも西行流で、平凡至極な言葉を連ねてゐながら魅力と
なっている。」
(尾山篤二郎氏著「西行法師名歌評釈」を参考)
【ときは・常磐】
(ときは=常盤)の原意は(永遠に、しっかりと同一の性状を保って
いる磐)のことです。それから転じて永久に不変のものを指します。
02番歌の「ときは山」は「常盤山」という特定の山ではありません。
一年中葉の茂っている常緑樹の山をいいます。この歌では椎の木です。
常緑樹の松も常盤木と言います。
地名としての「常盤」は、京都市右京区常盤のことです。
山城の歌枕の一つです。藤原為忠の屋敷がありました。
07番歌からの「常盤」は地名の常盤を指しています。
為忠の子である藤原為業(寂念)、藤原為経(寂超)、藤原頼業(寂然)
の三人は大原三寂とも常盤三寂とも言われます。
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01 雪つみて木も分かず咲く花なればときはの松も見えぬなりけり
(岩波文庫山家集112P羈旅歌・新潮1361番)
02 ときは山しひの下柴かり捨てむかくれて思ふかひのなきかと
(岩波文庫山家集151P恋歌・新潮656番・
西行上人集・夫木抄)
03 松風はいつもときはに身にしめどわきて寂しき夕ぐれの空
(岩波文庫山家集170P雑歌・新潮1090番)
04 ときはなる花もやあると吉野山おくなく入りてなほたづねみむ
(岩波文庫山家集249P聞書集186番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
05 ときはなるみ山に深く入りにしを花さきなばと思ひけるかな
(岩波文庫山家集283P補遺・西行上人集)
あづまへまかりけるに、しのぶの奧にはべりける
社の紅葉を
06 ときはなる松の緑も神さびて紅葉ぞ秋はあけの玉垣
(岩波文庫山家集130P羈旅歌・新潮482番)
○木も分かず咲く花
雪を花に見立てていて、全ての木を覆い尽くすように白い花(雪)
が咲き誇っている状態。豪雪をいいます。
○ときは山
固有名詞ではなくて、常緑樹がたくさん繁っている山のこと。
○しひの下柴
椎の木の下の方の小枝のこと。椎は常緑樹なので秋に落葉しません。
○ときはなる花
いつでも咲いていて散らない花があればという、希望的な言葉です。
○おくなく入りて
奥の奥まで入るということ。それ以上は行き止まりになっている
最奥まで入るということ。
○ときはなるみ山
常緑樹ばかりが繁茂している山のことです。
○しのぶの奥にはべりける社
福島県福島市信夫山に鎮座する羽黒神社とみられています。
この神社まで参詣したことがあります。境内には巨大な草履が
飾られています。
○あけの玉垣
神社の神域を表すために設置された朱色の垣根のことです。
(玉)は美称です。
常磐木は紅葉しませんから(紅葉ぞ秋は)は蔦紅葉と解釈するしか
ないように思います。多少強引な解釈をするなら、丹塗りの玉垣を
紅葉にみたててのものかもしれません。
(01番歌の解釈)
「どの木にも雪が積もって区別なく花が咲いたようになったので、
常緑の松も見分けがつかなくなってしまった。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「常盤山の椎の木の下に繁る柴草を思い切って刈り捨てて明るく
しよう。そして同じようにあの人への恋心を明るみに出してみよう。
隠れて一人慕いつづけている甲斐はないかと思って……。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「松風の音はいつ聞いても身に染みる感動を覚えるが、格別に寂しく
感じるのは、夕暮れの空に聞いた時である。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「いつまでも散らない花もあるかと、吉野山のこれ以上奥がない
所までわけ入って、なお尋ねてみよう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05番歌の解釈)
「常磐木の茂る山に深く入ってしまったが、花が咲いたならばと
思っていたなあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「いつも常盤の色を見せる松の緑に、秋は紅葉した蔓草がからまっ
て、あたかも朱の玉垣を思わせ、一層神々しく見えることだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
この歌は新潮版では「秋歌」として採られています。
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ときはの里にて初秋月といふことを人々よみけるに
07 秋立つと思ふに空もただならでわれて光を分けむ三日月
(岩波文庫山家集56P秋歌・新潮256番・夫木抄)
為忠がときはに為業侍りけるに、西住・寂為まかりて、
太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、まかり
たりけり。有明と申す題をよみけるに
08 こよひこそ心のくまは知られぬれ入らで明けぬる月をながめて
(岩波文庫山家集264P残集13番)
故郷述懐といふことを、常磐の家にてためなり
よみけるにまかりあひて
09 しげき野をいく一むらに分けなして更にむかしをしのびかへさむ
(岩波文庫山家集190P雑歌・新潮796番・西行上人集・
山家心中集・御裳濯河歌合・新古今集・玄玉集・西行物語)
○ときはの里
現在の右京区常盤。藤原為忠の屋敷が右京区常盤にありました。
為忠を中心としたグループの歌会の折の詠歌です。
○ただならで
ただ事ではないこと。普通ではないこと。
○われて光を
月の形は本来は常に丸くありますが、三日月などの場合は見えない
側の月の光は他の部分を照らしているものと解釈しての歌です。
半月であるなら輝いている半分はこちら側を照らし、もう一方は
別の方を照らしているという半分割された月光を言います。
○為忠
藤原為忠。生年未詳。没年1136年。三河守、安芸守、丹後守など
を歴任して正四位下。右京区常盤に住みました。
頼業(寂然)、為経(寂超)、為業(寂念)などの、常盤三寂
(大原三寂とも)の父です。親しい人達と歌のグループを作って
いて、為忠没後も歌会は為忠邸で開かれていたことがわかります。
○為業
山家集に「寂念」名の人物は登場しませんが、藤原為業のことです。
為業は大原三寂とか常盤三寂と呼ばれる内の一人ですが、ここでは
寂念とします。
藤原為忠の長兄か、もしくは次男です。生没年は未詳。1182年頃に
弟の寂然と前後して没したものと思われます。
1158年から1166年までの間に剃髪、出家しています。
1172年「広田社歌合」、1175年「右大臣家(兼実)歌合」、1178年
「別雷社歌合」などに寂然とともに出席しています。
岩波文庫版の205ページにある二条院内侍三河は寂然の娘です。
○西住
俗名は源季政。生没年未詳です。醍醐寺理性院に属していた僧です。
西行とは出家前から親しい交流があり、出家してからもしばしば
一緒に各地に赴いています。西行よりは少し年上のようですが、
何歳年上なのかはわかりません。
没年は1175年までにはとみられています。
千載集歌人で4首が撰入しています。
「同行に侍りける上人」とは、すべて西住上人を指しています。
没後、西住法師は伝説化されて晩年に石川県山中温泉に住んだとも
言われています。現在、加賀市山中温泉西住町があります。
○寂為
寂然の誤記と考えられます。
○太秦
太秦は現在の京都市右京区にある地名です。古代は秦氏の本拠地
でした。太秦には広隆寺などがあります。
広隆寺は前身を蜂岡寺といい、聖徳太子の命により秦河勝の創建
と言われます。同寺には国宝第一号指定の「弥勒菩薩像」があり
ます。
「太秦に籠もりたりける」で、西行は広隆寺に籠もっていたことが
わかります。
広隆寺に籠ることは「更級日記」などにも記述があります。
○かくと申したり
(かくある)ということで、「このようにする、そのようにする」
という意味を持ち、ここでは為忠の屋敷で歌会を行う…ことを
言います。
○有明
まだ明けきらぬ夜明けがたのこと。月がまだ空にありながら、
夜が明けてくる頃。月齢16日以後の夜明けを言います。
○心のくま
心の奥底に秘めている大切な思いのこと。
○ためなり
前述の「為業」のこと。
○しげき野
雑草の繁茂した野原。
○いく一むら
(行く一群)では意味がつながりません。ここは、いくつかある区画の
内の一つとしての(幾一群)と解釈できます。
(07番歌の解釈)
「秋になったと思って見ると、空のたたずまいもなみなみならぬ趣で、
三日月もあのように(われて)の姿ながら、秋を告げ顔に光を分けて
照らすことだ。」
(新潮日本古典集成山家集より抜粋)
(08番歌の解釈)
「今宵こそ心に秘めていたことはわかったよ。西の空に入らない
うちに夜が明けてしまった有明の月をじっと見つめて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(09番歌の解釈)
「草が深く生い繁っていずれの跡とも見分け難い古里の野を、幾つ
かの群に区切って、あそこは何の跡、ここは何の跡と、改めて
昔を思いかえそう。」
(新潮日本古典集成山家集より抜粋)
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為なり、ときはに堂供養しけるに、世をのがれて
山寺に住み侍りける親しき人々まうできたりと聞きて、
いひつかはしける
10 いにしへにかはらぬ君が姿こそ今日はときはの形見なるらめ
(西行歌)(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮734番・
西行上人集・山家心中集・月詣集・西行物語)
11 色かへで独のこれるときは木はいつをまつとか人の見るらむ
(藤原為業歌)(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮735番・
西行上人集・山家心中集・月詣集・西行物語)
新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、
ためただが歌の侍りけるをかきあつめて参らせける、
大原より見せにつかはすとて
12 木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな
(寂超長門入道)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮929番)
13 年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原のさと
(西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮930番)
○為なり
前述。
○堂供養
仏堂を建築して法会をすることです。
現在でいえば新築祝いになるのでしょう。
○かはらぬ君が姿
昔と変わらずに在俗で活躍している為業を指します。
常盤の家を伝領した為業をねぎらっているようにも解釈できます。
○形見なるらめ
為業が常盤の家、為忠の形見を体現しているということです。
○色かへで
衣の色を墨染めのものに変えないことです。在俗を表します。
○独のこれるときは木
兄弟の内で一人だけ出家していないことを言います。あるいは
寂念には在俗のままでいることに対して罪悪感みたいなもの、
うしろめたさみたいな感情があったのかもしれません。
○新院、歌あつめさせ
新院とは崇徳院のこと。勅撰の詞花集のための歌稿を集めると
いうことです。
崇徳院には久安百首歌がありますが、こちらは当時に活躍して
いた歌人14名の百首歌集ですから、「歌あつめさせ」は詞花集の
ことであるのは間違いありません。
ところが寂超が父親の為忠の歌を清書して西行に見せましたが、
詞花集には為忠や三寂の歌は入集しませんでした。
そこで、寂超は1155年に「後葉和歌集」を編んでいます。詞花集に
対しての少なからぬ不満があったものと思います。
為忠の歌は詞花集より早い金葉集に入集しています。
○かく程に
(言の葉)を掻き集めると言うことと、書き集めて(清書する)と
いうことを掛け合わせています。
○そぼちぬる
涙でびっしょりと濡れること。
(10番歌の解釈)
「昔に変わることのない在俗のお姿こそ、堂供養の今日は、
常盤のあなたのお邸に集まった人々の中で、常盤にかわらぬ
形見でしたでしょうよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(11番歌の解釈)
「常盤木の松のように衣の色も変ることなく、一人出家せず
残っている自分は、一体いつを待って出家することかと、
人々は見ていることでしょう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(12番歌の解釈)
「父が書いておいた歌稿を、再び自分が進覧すべく清書するうちに、
感に堪えずそのまま袖が涙に濡れてしまったことでありますよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(13番歌の解釈)
「時を経ても常盤の里の常盤木のように、朽ちることのない和歌を
集められ、大原の里であなたはさぞ亡き父君のことを偲んで
おいででしょう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【西行存命中の勅撰集】
◎ 金葉和歌集。
第五番目の勅撰集。1124年、白河院の院宣。撰者は源俊頼。
第一、第二の奏覧本は拒絶され、1126年の第三奏覧本が認めら
れる。1125年の第二奏覧本が金葉集として流布しています。
◎ 詞花和歌集。
第六番目の勅撰集。1144年、崇徳院の院宣。撰者は藤原顕輔。
第一次本の完成は1151年。評価の定まっていた後拾遺集歌人が
優遇されて当代歌人は冷遇されたとも言われます。
第二次本も奏上されました。崇徳院はさらに改撰希望のよう
でしたが、顕輔の死去によってなされませんでした。
寂超長門入道はこれを不満として1155年頃に「後葉集」を編纂
しています。
◎ 千載和歌集。
第七番目の勅撰集。1183年、後白河院の院宣。撰者は藤原俊成。
1188年の奏覧。その後も改訂作業が続いたようです。
詞花集と比較すると明らかに当代の歌人が重視されていて西行の
歌も円位法師名で18首入集しています。
保元、平治、それに続く源平争乱というこの時代の社会的な変化、
飢饉、疫病の流行、地震などの現象も反映しての、無常な世の中
を見据えての述懐的な歌が多いとも言えます。
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