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 だい たいら たえ〜たが  たき〜たづ   たつ〜たら


  大覚寺・待賢門院・大師・醍醐・大乗院  

【大覚寺】

京都市右京区嵯峨にある真言宗大覚寺派の総本山です。
仁和寺と並び第一級の門跡寺院。
第50代桓武天皇の子で第52代嵯峨天皇の離宮として造営され、
嵯峨御所ともいわれました。嵯峨天皇は834年から842年まで
檀林皇后(橘嘉智子)と、ここで過ごしています。
876年にお寺となり、後宇多法皇はここで院政を執っています。
また、1392年の南北朝の講和はこの寺で行われました。
宸殿前庭には「左近の梅・右近の橘」があり、まだ「左近の桜」に
変わる前の様式を見ることができます。
庭湖としての大沢の池があり、月見の名所として有名です。

     同じこころを遍昭寺にて人々よみけるに

 やどしもつ月の光の大澤はいかにいづこもひろ澤の池
          (岩波文庫山家集72P秋歌・新潮321番)

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     大覚寺の、金岡がたてたる石を見て

01 庭の岩にめたつる人もなからましかどあるさまにたてしおかねば
          (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1424番)

     瀧のわたりの木立、あらぬことになりて、松ばかり
     なみ立ちたりけるを見て

02 ながれみし岸の木立もあせはてて松のみこそは昔なるらめ
           (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1425番)
 
     大覚寺の瀧殿の石ども、閑院にうつされて跡もなく
     なりたりと聞きて、見にまかりたりけるに、赤染が、
     今だにかかるとよみけん折おもひ出でられて、
     あはれとおもほえければよみける

03 今だにもかかりといひし瀧つせのその折までは昔なりけむ
         (岩波文庫山家集196P雑歌・新潮1048番・
           西行上人集・山家心中集・新拾遺集)

○金岡

「巨勢金岡」のことです。平安時代初期の絵師ですが生没年とも
に未詳です。
都名所図会では「光孝天皇の末葉にして姓は紀氏」とありますが、
宇多天皇の父である第58代天皇の光孝天皇(在位884〜887)の末葉
云々はどうしても信じられません。
神泉苑や大覚寺の作庭、清涼殿の襖絵を描いたようです。
平安時代の中期頃に絵師として巨勢弘高や巨勢公茂の名前が見え
ますから、あるいは一族で作庭、襖絵、仏画などを生業とする
家柄となっていたと考えられます。
宇治市木幡に金岡の家があったようです。
堺市金岡町に巨勢金岡を祀る金岡神社があります。

○めたつる人 

眼を立てる人のこと。特に気をつけて注視するということ。
人の眼を引きつけるということ。
                 
○かどあるさま 

才覚の(才)は(かど)とも読みます。石の(角)と掛け合わせた
言葉です。
才覚を感じさせる形、様子のことです。

○瀧のわたり

滝、および滝を中心としてその周囲のこと。

○なみ立ちたり

「波立つ」ではなくて「並立つ」という意味。

○瀧殿の石

大覚寺にある名古曽の滝の石のこと。「瀧殿」という建物の中に
あったものでしょう。
名古曽の滝は900年代終わり頃にはすでに水は枯渇していたようです。
現在は滝跡のみ残っています。

 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
                (藤原公任 千載集1035番)

○閑院

当時の二条大路南、西洞院大路西、現在の二条城の東あたりにあった
藤原氏北家流の邸宅のこと。
もともとは藤原冬嗣の私邸。冬嗣から公季、公成と続いた流れが
閑院流であり、三条、西園寺、徳大寺などの各家がこの流れをくみます。
閑院は後三条天皇、堀川天皇、高倉天皇などの里内裏として、臨時の
皇居になっていました。たびたびの火災にあっています。
1259年に放火のため焼亡してからは、再建されていません。
現在、京都御苑内に閑院がありますが、これは江戸時代中期に起こ
された閑院宮家のものであり、平安時代の閑院とは関係ありません。

○赤染=赤染衛門

平安時代中期の歌人で、生没年は未詳です。1041年曾孫の大江匡房
の誕生の時には生存していましたが、その後まもなく80歳以上で
没したものと見られています。 
藤原氏全盛期の道長時代に活躍した代表的な女流歌人で、中古
三十六歌仙の一人として知られています。家集に「赤染衛門集」
があり、また、「栄花物語」の作者と見られています。

「あせにけるいまだにかかる瀧つ瀬の早くぞ人は見るべかりける」
            (赤染衛門 後拾遺集 1058番)

○かかりといひし

瀧の縁語の「掛かる」と、「こうしてある」「かくある」という
意味の両方を掛けている言葉。

(01番歌の解釈)

「庭園の石になど注目する人もいなかっただろう。才気の感じら
れる立石を金岡が始めなかったならば」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「昔、滝の流れを見たその岸の木立も、流れがあせ果てたごとく、
なくなってしまい、松だけが昔通りに残っているようだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「今でさえもこんなに見事に滝がかかっている、と赤染が詠んだ
名こその滝は、もう今は立石に至るまで跡形もない。あの歌の頃
はまだ面影が残っていたんだな。全く惜しいことをした。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 
      
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【待賢門院】

藤原公実の娘の璋子のこと。1101年から1145年まで在世。藤原実能
の妹。白河天皇の猶子。鳥羽天皇中宮。崇徳天皇・後白河天皇・
上西門院などの母です。ほかには三親王、一内親王がありますので、
七人の母ということになります。
幼少から白河天皇の寵愛を受けていた彼女は1117年に入内して翌年、
鳥羽天皇の中宮となります。そして1119年に崇徳天皇を産んでいます。
末子の本仁親王(仁和寺の覚性法親王)が1129年の生まれですから、
ほぼ10年で七人の出産ということになります。このうち、崇徳天皇は
白河院の子供という風説が当時からあったとも言われ、それが1156年
の保元の乱の遠因となります。
白河院は1129年に崩御しました。それからは、鳥羽院が院政を始め
ました。1134年頃に藤原得子(美福門院)が入内すると、鳥羽院は得子を
溺愛します。得子は1139年に近衛天皇を産みます。鳥羽院は1141年に
崇徳天皇を退位させ、まだ幼い近衛天皇を皇位につけました。
この歴史の流れの中で鳥羽院の中宮、崇徳天皇の母であった待賢門院
の権威も失墜してしまって、1142年に法金剛院で落飾、出家しました。
同時に、女房の中納言の局と堀川の局も落飾しています。
1145年8月22日崩御。法金剛院の三昧堂の下に葬られ、現在は花園西陵
と呼ばれています。

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「待賢門院の女房達」

平安時代の「女房」という名称、その役職は現在の一夫一婦の婚姻
制度における(妻=女房)とは全く異なります。
平安時代の女房とは当時の貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に
仕えた奥向きの女性使用人を言います。使用人と言うよりはその家を
切り盛りし、維持するためのスタッフという感じです。
一応は行儀作法見習いという名目もあるものと思いますが、教養も
高く、外部との折衝力もあり、当時においての常識的な思考や行動力
が要求されたものと思われます。

女房となる女性の方が当時貨幣の代わりに流通していた絹であったり、
その他の物品を献上して仕えていたようです。
仕えたからといって原則的には何かしらの俸禄もなかったようです。
従何位などの位階を受けていれば朝廷から封土や俸禄もあったものと
思われますが、そうでなければ無収入のまま仕えていたのが実態だろう
と思われます。

あるいは女房制度は形を変えた「婚活方法」という面もあったのでは
ないかとも思います。仕える相手が高貴な男性の場合は誘われて夜伽
をした果てに男児でも産めば厚遇が確約されるでしょう。仕える相手
が女性の場合であっても、女主人の蔵人などの表向きの仕事をする
男性と親しくなって結婚するというケースは多かったものと思います。

○中納言の局

待賢門院の落飾(1142年)とともに出家、待賢門院卒(1145年)
の翌年に門院の服喪を終えた中納言の局は小倉に隠棲したとみな
されています。
西行が初度の陸奥行脚を終えて高野山に住み始めた31歳か32歳頃
には、中納言の局も天野に移住していたということになります。
待賢門院没後5年ほどの年数が経っているのに、西行は待賢門院の
女房達とは変わらぬ親交があったという証明にもなるでしよう。

中納言の局は215Pの観音寺入道生光(世尊寺藤原定信、1088年生)
の兄弟説があります。それが事実だとしたら西行よりも20歳から
30歳ほどは年配だったのではないかと思います。金葉集歌人です。

○堀川の局

村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。西行
とは最も親しい女性歌人とも言える兵衛の局は堀川の局の妹です。
二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇中宮)に
仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、
前斎院六条と称していました。
1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に
服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。
家集に「待賢門院堀川集」があります。

 長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝は物をこそ思へ
             (待賢門院堀川 百人一首第80番)

○兵衛の局

生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛のこと。
源顕仲の娘で堀川の局の妹。待賢門院の没後、娘の上西門院の女房と
なりました。
上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなった
ようで1184年頃に没したと見られています。没したときには80歳を
越えていたものと思われます。
西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
自選家集があったとのことですが、現存していません。

 かぎりあらむ道こそあらめ此の世にて別るべしとは思はざりしを
            (上西門院兵衛 千載和歌集484番)

○加賀の局

西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、
詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。
この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の
女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。
ただし、西行の歌は他の人の代作としてのものです。

寂超長門入道の妻から藤原俊成の妻となり藤原隆信や藤原定家の母も
加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人と
みられています。「ふし柴の加賀」と言われたようです。

 かねてより思ひしことぞふし柴の こるばかりなる歎きせんとは
            (待賢門院加賀 千載和歌集799番)

○安芸の局

生没年未詳。安芸の守藤原忠俊の娘と言われます。
若くして白河院皇女の郁芳門院に仕えたので「郁芳門院安芸」とも
言います。のちに待賢門院璋子に出仕し、晩年には崇徳院主催の久安
百首の作者に列しました。家集『郁芳門院安藝集』があります。
この人は藤原為忠の妻となって寂超や寂然を産んでいます。
西行が為忠の歌会に出席したり寂然と親しかったのも安芸の局の関係
が大きいと見るべきでしょう。寂然と西行は年齢差が殆どありません
から安芸の局は待賢門院に仕えた期間も短いはずですし、年齢は
西行よりは20歳以上は年長のはずです。
詞花集、新古今集、千載集に作品があります。

 桜麻(さくらあさ)のをふの下草しげれただ飽かで別れし花の名なれば
            (待賢門院安芸 新古和歌集185番)  

○帥の局

待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。
藤原季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、
次に建春門院平滋子の女房となっています。

○紀伊二位の局

紀伊守藤原兼永の娘の朝子のこと。父親の官職名で「紀伊」と
呼ばれます。
藤原通憲(入道信西)の後妻。藤原成範、脩範の母。待賢門院の
女房の紀伊の局のこと。
後白河院の乳母。従ニ位になり、紀伊ニ位、院の二位とも呼ばれ
ます。1166年1月に没して、船岡山に葬られました。
山家集には、この時の哀傷歌10首があります。

○新少将の局

源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

 うつりけむ昔の影やのこるとて見るに思ひのます鏡かな
             (新少将 新古今和歌集825番)

○尾張の局

「尾張の尼は兵衛の局らとともに待賢門院に仕えていた女房で、
「金葉集」初出の歌人であるが、待賢門院の世を去った後、出家
して大原にこもっていたのである。」        
         (窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)

「待賢門院に仕えて琵琶の名手とうたわれ、後に大原来迎院の良忍
に帰依して遁世した高階為遠女の尼尾張・・・」
      (目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」より抜粋)

 いとか山くる人もなき夕暮に心ぼそくもよぶこ鳥かな 
                  (前斉院尾張 金葉集)

瀬戸内寂聴氏の「百道」によると、他に、太夫典侍・小因幡など
数人の女性がいたようですが確証がありません。
いずれにしても才色兼備の女房達だっただろうと思わせます。

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「待賢門院と西行」

源平盛衰記に西行出家の原因について思わせぶりな記述があります。

「さても西行発心のおこりを尋ねれば、源は恋故とぞ承る。申すも
恐ある上臈女房を思懸け進みらせたりけるを、あこぎの浦ぞと云ふ
仰せ蒙りて、思ひ切り、官位は春の夜見はてぬ夢と思ひなし、楽み
栄は秋の夜の月西へと准えて、有為の世の契を逃れつつ、無為の
道にぞ入りにける」
              (源平盛衰記 巻八讃岐院事)

西行の出家の原因なんて特定できようはずもないことだと思います。
本人が明記しているわけでもなく、それ故に謎が謎を呼ぶとも言え
ますが、あれこれ詮索したところで、あくまでも他人の憶測にしか
過ぎません。原因は不明であり、それ以上の関心は今のところ私には
ありません。
これまでいろいろ言われてきた出家の原因の一つに待賢門院との
恋愛説があります。二人の間に何かあったとしても、こんにちの
我々の感覚でいう「恋愛」などであろうはずは無いのですが、源平
盛衰記の上記記述や西行歌の恋歌の一部などをを引き合いにして、
待賢門院との恋愛原因説がまことしやかに流布されてきました。

確かに1142年に待賢門院落飾の折に、法華経の一品の書写を28人の
貴顕に勧めた、などという行為は出家して一年少しの一介の若き
僧侶にできるものとも思えません。それは西行自身の発案であるのか
疑わしいものです。かつては徳大寺実能の随身でもあり、出家して
からも徳大寺家との交わりが続いていた西行にしてみれば、あるいは
実能の意を察しての自発的な行為であったのかもとも想像できます。
西行と徳大寺家との関わりは強いものがあるとはいえ、待賢門院の
女房達との贈答歌も西行出家後のことでもあり、待賢門院本人とも
直接話し合ったことはほとんどないだろうと思います。

西行17歳から23歳までは、待賢門院は34歳から40歳。
西行は徳大寺実能の随身であり、鳥羽院の北面にもなり、しかも
この間に妻帯して子供も二人、もしくは三人います。
白河院が1129年に崩御、それ以後には鳥羽院と待賢門院の関係は
疎遠になって行きます。女院は空閨をかこっていたと言える状況です。
それでも、いくら美女とはいえ17歳も年上の、しかも7人も出産した
女性に対して密かに恋心を抱くなどということは私の感覚ではありえ
無いことです。でもまあ男女のことは本人達でないと分かりません
から、それ以上追求したとしても意味のないことだと思います。

 しらざりき雲井のよそに見し月の 影を袂に宿すべしとは
     (岩波文庫山家集148P恋歌・新潮617番・西行上人集・
       山家心中集・御裳濯河歌合・千載集・西行物語)

上の恋歌などを読めば、必然として待賢門院との関係を想起させは
しますが、いずれにしても根拠のないものを断定などできるはずも
なく、西行出家の原因は不明のままにしておきたいと思います。

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「待賢門院関係年表」

1101年  藤原璋子出生。父は藤原公実。母は藤原光子。
     同腹の兄が3人(4人説あり)、姉も三人います。男子の内の
     一人が徳大寺家の祖となる実能です。

1006年  この頃までには「祇園女御」の猶子となっています。

1007年  7月に堀川天皇逝去。第74代鳥羽天皇五歳で即位。 
     この年の12月に父親の公実死去。

1115年  この頃、白河院は藤原忠通と藤原璋子との縁談を画策するも、
     忠通の父の忠実に婉曲に拒絶される。
     原因は白河院と藤原璋子の公然とした男女関係、及び
     璋子の奔放な多情さにあるとされています。

1117年  12月に藤原璋子、白河院を代父として入内。従三位に叙される。

1118年  藤原璋子、鳥羽天皇の中宮となる。璋子は二歳年長。
     佐藤義清(西行)、平清盛生まれる。

1119年  第一皇子、崇徳天皇誕生。

1122年  第一皇女、禧子内親王誕生。第29代斎院。

1123年  1月鳥羽天皇譲位。第75代崇徳天皇即位。

1124年  通仁親王誕生。1129年、五歳で没
     2月、白河院、鳥羽院、待賢門院、東山の白河南殿にて花見。
     藤原璋子、待賢門院の院号宣下。
                   
1125年  君仁親王誕生。1143年、18歳で没。

1126年  統子内親王誕生。第28代斎院。後の上西門院。

1127年  後白河天皇誕生。1155年7月、第77代天皇として即位。

1128年  待賢門院のご願寺円勝寺の建立。落慶供養。

1129年  本仁親王誕生。後の仁和寺総法務、覚性法親王。
     7月、白河院77歳で逝去。

1130年  法金剛院落成。

1139年  近衛天皇誕生。

1140年  10月、西行23歳で出家。
 
1141年  12月、崇徳天皇譲位。第76代近衛天皇即位。

1142年  待賢門院、法金剛院にて落飾、出家。

1145年  8月、三条高倉第にて待賢門院崩御。45歳。

1155年  7月、近衛天皇逝去。第77代後白河天皇即位。

1156年  7月、鳥羽院崩御。保元の乱勃発。崇徳院讃岐に配流。

本仁親王誕生以後、鳥羽院は別の女性との間に次々と皇子女をもう
けています。1137年に(日+章)子内親王「八条院」、1139年に近衛天皇、
1145年に頌子内親王「五辻の斎院」など10人以上に及びます。

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     待賢門院の中納言の局、世をそむきて小倉の麓に住み
     侍りける頃、まかりたりけるに、ことがらまことに
     優にあはれなりけり。風のけしきさへことにかなし
     かりければ、かきつけける

01 山おろす嵐の音のはげしきをいつならひける君がすみかぞ
     (西行歌)(岩波文庫山家集135P羈旅歌・新潮746番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)
 
     哀なるすみかをとひにまかりたりけるに、此歌を
     みてかきつけける

02 うき世をばあらしの風にさそはれて家を出でぬる栖とぞ見る
    (兵衛局歌)(岩波文庫山家集135P羈旅歌・新潮747番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)
 
     十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院
     おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出で
     られて、兵衛殿の局にさしおかせける

03 紅葉見て君がたもとやしぐるらむ昔の秋の色をしたひて
    (西行歌)(岩波文庫山家集194P雑歌・新潮797番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)

04 色深き梢を見てもしぐれつつふりにしことをかけぬ日ぞなき
    (兵衛の局歌)(岩波文庫山家集194P雑歌・新潮798番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)

     待賢門院かくれさせおはしましにける御跡に、人々、
     又の年の御はてまでさぶらはれけるに、南おもての
     花ちりける頃、堀河の女房のもとへ申し送りける

05 尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を
 (西行歌)(岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮779番・西行上人集)
       
06 吹く風の行方しらするものならば花とちるにもおくれざらまし
   (堀河の女房歌)(岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮780番・
                      西行上人集)

○世をそむきて

出家することです。在俗ではなくなったということ。
待賢門院は1142年に落飾していますが、それに殉じて堀川の局と
中納言の局は落飾して尼となり、待賢門院没後一年間は三条高倉第
で喪に服してから、その後に中納言の局は小倉山の麓に隠棲した
ものでしょう。

○小倉の麓

京都市右京区小倉山の麓のこと。

○まかりたり

尋ねて行くことです。

○優にあはれなり
 
痛ましいほどに哀感を誘い情趣が深いということ。

○嵐の音

強く吹く風の音。嵐山の嵐に掛けています。

○十月中の十日頃

新潮版では「十月中の頃」とあります。
十月も中旬になった十日頃という解釈で良いと思います。

○法金剛院

法金剛院のもともとの創建は右大臣、清原夏野が830年頃に山荘を
建てたのが始まりといわれています。夏野の死後、山荘はお寺に
改められ双丘寺と号しました。857年には伽藍も整えられて、元号
そのままの天安寺と改称。
しかし、壮観を誇っていた天安寺も974年に火災が起きてからは、
歴史から消えました。
この天安寺の跡地に、待賢門院が法金剛院を建てました。1130年の
ことです。この時代は浄土信仰が盛んな時代で、本尊は阿弥陀仏とし、
庭園も浄土思想に基づいて造られています。
待賢門院は1142年にここで落飾して、1145年に三条高倉第にて崩御。
遺骸は法金剛院の三昧堂の下に納められました。
その後の法金剛院は、娘の上西門院が伝領しました。1171年に南御堂、
1172年には東御堂も建てられています。
以後、衰退に向かいますが、円覚上人が再興。それも応仁の乱の
戦火や地震などにより荒廃に向かいます。
江戸時代初期に再建され、近世を通じて四宗兼学寺院として続いて
いました。
明治になって、山陰線の鉄道施設のために境内の真中で二分され、
1968年には丸太町通り拡幅のためにも寺域が削られています。
その時に本堂も移築しています。したがって法金剛院が現在の
寺観になったのは、わずか40年ほど前のことです。  

○上西門院

鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子(とうこ・
むねこ)内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に後白河天皇、
覚性法親王がいます。1189年7月、64歳で崩御。
幼少の頃(2歳)に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。
1145年に母の待賢門院が没すると、その遺領を伝領しています。
1158年8月に上西門院の一歳違いの弟の後白河天皇は、にわかに二条
天皇に譲位して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇の准母
となり、1159年2月に上西門院と名乗ります。
それを機にして、平清盛が上西門院の殿上人となり、源頼朝が蔵人
となっています。
同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と二条
天皇、そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束されています。
1160年1月に義朝は尾張の内海で殺され、3月には頼朝が伊豆に配流
されています。
上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係がある
のかも知れません。生涯、独身で過ごしています。
          
五辻斎院頌子内親王や八条院(日+章)子内親王は異母妹になります。
五辻斎院は高野山に蓮華乗院を建立しています。八条院は美福門院の
広大な遺領を伝領しました。

○又の年の御はて

待賢門院没後一年の忌明けを言います。

○きかじかし

聞くことはないでしよう…という意味。

○南おもて
 
三条高倉第の寝殿の南側にある庭のこと。

(01番歌の解釈)

「小倉山から吹きおろす嵐の音の激しさに堪え、いつの間に住み
慣れるようになったあなたのお住居なのでしょうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)
 
「憂きこの世には「あらじ」と、嵐の風の吹くままに誘われて
出家し、ここ嵐山の麓に結んだ庵と見ることです。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「上西門院のお供をして宝金剛院の紅葉をご覧になるにつけ、
待賢門院をお偲び申し上げて、紅葉を染めた時雨のごとく涙にかき
くれられることでしょう。女院御在世の折の秋の様子をお慕いに
なって。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

◎新潮版の詞書では以下のようになっています。とても大切なもの
として意図的に「宝」の文字を使ったという説もありますが、岩波
文庫山家集の底本である「山家集類題」でも「法」の文字です。
新潮版の陽明文庫蔵「山家集」の誤写の可能性があります。

「十月中の頃、宝金剛院の紅葉見けるに……」

(04番歌の解釈)

「女院をお慕い申し上げる涙の色のような紅葉の梢を見ても、その
色を一層濃くするために降り来る時雨のごとく、涙もとめどなく
流れ、女院御在世の昔のことを心にかけて思わない日はありません。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

「尋ねても風の便りにも聞くことはないでしょう。花のように
はかなく散ってしまった女院の行方については。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)
 
「もしも吹く風が女院の行方を知らせてくれるものなら、花の散る
ように亡くなられた女院にお供いたしましたものを。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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     待賢門院の女房堀川の局のもとより、いひ送られける

07 此世にてかたらひおかむ郭公しでの山路のしるべともなれ
   (堀河の女房歌)(岩波文庫山家集137P羈旅歌・新潮750番・
   西行上人集・山家心中集・新後撰集・玉葉集・西行物語)

08 時鳥なくなくこそは語らはめ死出の山路に君しかからば
     (西行歌)(岩波文庫山家集137P羈旅歌・新潮751番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)
 
     待賢門院の堀川の局、世を遁れて西山に住まると
     ききて尋ね参りたれば、すみ荒したるさまにて、
     人の影もせざりしかばあたりの人にかく申しおき
     たりしをききていひ送られたりし
                   (西行上人集詞書)

09 しほなれしとまやもあれてうき浪によるかたもなきあまとしらずや
   (堀河の女房歌)(岩波文庫山家集178P雑歌・新潮744番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)
 
10 苫のやに浪たちよらぬけしきにてあまりすみうき程は見えけり
      (西行歌)(岩波文庫山家集178P雑歌・新潮745番・
       西行上人集・山家心中集・夫木抄・西行物語)

    小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。
    おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、
    分けおはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へ
    まゐられけるに、御山よりいであひたりけるを、しるべ
    せよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、
    かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんと
    いふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へ
    おはしけり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。
    さりとてはとて、吹上に行きつきたりけれども、見所
    なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふにも似ざり
    けり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ伝へ
    られたるものをと思ひて、社にかきつけける

11 あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
         (岩波文庫山家集136P羈旅歌・新潮748番)
 
○しでの山路

死者がたどるという山道のこと。

○しほなれし

潮気が染み込んでいること。涙を暗示させます。
 
○苫屋

苫(スゲやカヤなどを編んだもの)で葺いただけの非常に粗末な
住家のこと。

○波立ちよらぬ

(人はおろか)波も立ち寄ることがない。

○あまり住みうき

いかにも住みづらそうな。苫の屋・波の縁語である(海人)(尼)を
言い掛ける。

○天野と申す山

和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
                 (和歌文学大系21を参考)

「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。

○おなじ院

ここは後白河院ではなくて待賢門院のことです。

○御山

高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
の場を移していたということになります。

○ぐし申して

「具し」で、共に、一緒にという意味。

○粉川

地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
の門前町として発達しました。
粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。

○吹上

紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
ようです。
天野から吹上までは単純計算でも30キロ以上あるのではないかと
思いますので、どこかで一泊した旅に西行は随行したものだろう
と思われます。
吹上の名詞は136ページの詞書、171ページの歌にもあります。

○能因

中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
(伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
入道とも自称していたようです。「数奇」を目指して諸国を行脚
する漂白の歌人として、西行にも多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。

「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
 
○あまくだる名

天界から降臨した神ということ。

天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神
(能因法師 金葉集雑下)

能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという
故事を踏まえての歌です。

(07番歌の解釈)

「この世に生きている間にお願いしておきましょう。時鳥よ。
私が死んだら西方浄土にどうか私を導いて下さい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(08番歌の解釈)

「時鳥が鳴くように、私も鳴きながらではありますが、あなたが
冥界に旅立たれる時には導師の役をお引け受けいたしましょう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(09番歌の解釈)

この歌は堀川の局の歌とは明記されていませんが、西行上人集
などによって堀川の局の歌とわかります。西行との贈答歌です。

「住み馴れた苫屋も荒れはててしまい、憂き波に寄るべもなく
漂う海女のように、心憂く住む尼とは御存じありませんか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

「お住まいと聞いておりました草庵には人の立ち寄った気配も
なくて、なんだかとっても住みにくそうな尼のお宅と拝見しま
した。同情を禁じえません。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(11番歌の解釈)

「天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
申しあげるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

◎各女房の詳説は今号では割愛します。202号を参照願います。
        
【大師】

弘法大師空海のこと。真言宗の開祖です。
774年讃岐国多度郡弘田郷「現、善通寺市」にて出生。父は佐伯氏、
母は阿刀氏。高野山の金剛峰寺にて835年入滅しました。
天台宗の伝教大師最澄とともに我が国の仏教界の礎となった人物です。
京都では東寺、神護寺などのたくさんのゆかりのお寺があります。
921年、没後80年以上してから醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が
授けられました。

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 同じ国に、大師のおはしましける御あたりの山に庵
むすびて住みけるに、月いとあかくて、海の方くもり
なく見え侍りければ

01 くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける
         (岩波文庫山家集111P羈旅歌・新潮1356番・
                 西行上人集・山家心中集)

     大師の生れさせ給ひたる所とて、めぐりしまはして、
     そのしるしの松のたてりけるを見て

02 あはれなり同じ野山にたてる木のかかるしるしの契ありけり
         (岩波文庫山家集112P羈旅歌・新潮1369番)

     まんだら寺の行道どころへのぼるは、よの大事にて、
     手をたてたるやうなり。大師の御経かきてうづませ
     おはしましたる山の嶺なり。ばうのそとは、一丈ばかり
     なるだんつきてたてられたり。それへ日毎にのぼらせ
     おはしまして、行道しおはしましけると申し伝へたり。
     めぐり行道すべきやうに、だんも二重につきまはされたり。
     登る程のあやふさ、ことに大事なり。かまへて、はひ
     まはりつきて

03 めぐりあはむことの契ぞたのもしききびしき山の誓見るにも
         (岩波文庫山家集113P羈旅歌・新潮1370番)

     やがてそれが上は、大師の御師にあひまゐらせさせおはし
     ましたる嶺なり。わかはいしさと、その山をば申すなり。
     その辺の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをば
     すてて申さず。また筆の山ともなづけたり。遠くて見れば
     筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなる
     を申しならはしたるなめり。行道所より、かまへてかき
     つき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしまし
     たる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の
     石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける
     塔の跡と見ゆ。苔は深くうづみたれども、石おほきにして
     あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて

04 筆の山にかきのぼりても見つるかな苔の下なる岩のけしきを
         (岩波文庫山家集114P羇旅歌・新潮1371番) 

     善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の
     御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはし
     ましき。四の門の額少々われて、大方はたがはずして
     侍りき。すゑにこそ、いかゞなりけんずらんと、
     おぼつかなくおぼえ侍りしか

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○同じ国

讃岐の国を指しています。崇徳院の白峰御陵の参詣後に善通寺に
行きました。

○おはしましける御あたりの山

善通寺周辺の山のことですが特定はできません。筆の山だと解釈
しても良いと思います。

○大師の生れさせ給ひたる所

善通寺のことで誕生院があります。「善通」とは大師の父親の
法名です。

○まんだら寺

善通寺市にある真言宗のお寺です。山号を「我拝師山」といいます。

○よの大事

「世の大事」ですが社会的政治的な意味ではありません。
登って行くのは大変に困難なこと、難儀することを言います。
あまりにも大変なことですから、「余の大事」かとも思いますが、
「余」は当時、そういう用い方をしていたかどうか私には不明です。

○てをたてたるよう

垂直に切り立った崖を表現しています。
藤原定家も熊野御幸に随行した時に、山の険しさについて同じ表現を
しています。「明月記」にあります。

○御経かきてうづませ

お経を書いた紙を土中に埋めることです。「経塚」と言いますが、
経塚が発見されたということは私は知りません。本当に埋めたの
だとしたら、未発見なのでしょう。

○ばうのそと

「坊の外」です。建物の外のこと。

○めぐりあはむ

大師が釈迦と出会ったという伝説から来ています。
釈迦は時空を超えて出現すると信じられていたようです。

○大師の御師

大師は空海、御師は仏教創始者のシャカ(仏陀)を指します。

○御師にあひまゐらせさせ

我拝師山の出釈迦寺では空海が釈迦に逢うために断崖から飛び降り
たという伝説があります。飛び降りて地中に激突する前に釈迦に
救われたとする伝説です。
空海を聖性化する過程で作られて、西行の時代には広く知られて
いたものでしょう。

○わかはいしさ

香川県善通寺市吉原町にある我拝師山のこと。五岳山の最高峰で、
標高は481メートル。麓に四国88か所霊場第73番札所の「出釈迦寺」
があり、その奥の院を「禅定寺」と言います。
山名を声にして言う時「わがはいしさ」と、最後に「ん」を付けずに
呼ぶこともあったようです。

○筆の山ともなづけ

香川県善通寺市には「五岳山」と言われている山があります。
我拝師山(481M)、中山(440M)、火上山(409M)、筆山(296M)、香色山
(153M)の五山を指します。
現在では我拝師山と筆山は別の山としてありますが、西行時代は
筆山は我拝師山や中山と一続きの山として見られていたものでしょう。

○なめり

断定の助動詞「なり」の連体形「なる」に、推量の助動詞「めり」が
接合したことば。「なるめり」の凝縮化されたもの。
「…のようだ」「…だろう」という意味です。

○行道所

「行道」とは読経しながら仏像や仏殿の回りを巡り歩く通路のことです。
場所は我拝師山の出釈迦寺の奥の院の禅定寺だと思われます。

○かきつき登り

「掻き付き登り」。しがみつくように、よろぼうように登ると
いう様を言います。筆の山の(筆)と(かき)は縁語です。

○塔の石ずゑ

(石ずゑ)は(礎=いしずえ)のことです。石を据えることが原意
であり、建物の基礎となる柱の下の土台の石のことをいいます。
転じて、物事の基礎となること、または、それ相当の人を指します。
西行歌にある(石ずゑ)は、建物にかかる基礎としての意味である
ことは確実です。

○高野の大塔

高野山金剛峰寺の中央にある宝塔のこと。
平安時代でも高さ48.5メートル、本壇回り102.4メートルという
巨大な規模の建物でした。現在の大塔は昭和12年の建築といわれます。

○善通寺

香川県善通寺市にある善通寺のことです。弘法大師空海は
善通寺市の出生です。
善通寺は空海が出生地に建立したお寺で、父親の法名をつけて
「善通寺」としたものです。
高野山、京都の東寺と並んで真言宗の三大聖地です。

○四の門の額

東西南北の四方に山門があったということです。大師自筆の
「善通之寺」という額があったようです。
この額は現存していません。

(01番歌の解釈)

「弘法大師がおいでになった穢れない山の聖地で、一点の曇りも
ない月に照らされる海を見ると、島はしきつめた氷の絶え間の
ようだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「深く感動してしまった。同じように野や山に生えている木で
ありながら、この松だけは大師誕生を記念して特別の目印が
付けられるとは、それ相応の仏縁がそもそもあったことになる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「大師が師と頼む釈迦にここでお逢いになったという仏縁が、今も
そのまま受け継がれていると頼もしく感じた。巡り行道の修行の
厳しさは、大師の捨身をさながら見るようである。」

(04番歌の解釈)

 「筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たこと
 だよ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎の様子を。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
         
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【醍醐】

京都市伏見区にある地名です。山科盆地にありますから山科区かとも
錯覚しますが、行政区分としては伏見区です。
醍醐山(別名は笠取山、標高450メートル)の西麓に開けた門前町です。
醍醐寺の総門に面して奈良街道が南北に貫いていて、天智天皇の
大津京と明日香との往還にも用いられた重要な街道です。

『醍醐寺』

醍醐には醍醐寺があります。山上にある湧水の味が「醍醐味」という
ことから名付けられた寺名ということです。
聖宝(理源大師)が874年に山上に草庵を造ったのが醍醐寺のはじめと
言われています。

山頂の上醍醐と奈良街道沿いの下醍醐に分かれていて、創建当初は
上醍醐に伽藍が造営されましたが、後に平地の下醍醐にも造られる
ようになりました。真言宗の著名な寺院で、大峰入峰では「当山派」
と言われています。
952年供養の五重塔は高さ47メートル。奇跡的に兵火に遭わずに創建
当初の威容を見せています。塔内には両界曼荼羅図やたくさんの壁画
が描かれています。
1598年、豊臣秀吉が没する5か月前に敢行した「醍醐の花見」で有名
です。現在でも京都の桜の名所の一つです。

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     醍醐に東安寺と申して、理性房の法眼の房にまかりたり
     けるに、にはかにれいならぬことありて、大事なりけれ
     ば、同行に侍りける上人たちまで来あひたりけるに、雪
     のふかく降りたりけるを見て、こころに思ふことありて
     よみける

01 たのもしな雪を見るにぞ知られぬるつもる思ひのふりにけりとは
         (西行歌)(岩波文庫山家集257P聞書集233番)

                      
02 さぞな君こころの月をみがくにはかつがつ四方にゆきぞしきける
       (西住上人歌)(岩波文庫山家集258P聞書集234番)

○東安寺

醍醐寺の中にあったお寺ですが、焼失してから再建されていません。
応仁、文明と続く乱で1470年に焼亡したようです。
場所は現在の三宝院と理性院の中間にあったとのことです。

○理性房の法眼の房

賢覚法眼のこと。1080年〜1156年在世。賢覚は下醍醐に理性院を
開き、真言密教小野六流の内の理性院流の祖となっています。
西住は賢覚法眼の弟子27人の内の一人です。
「房」とは賢覚法眼の住坊のことです。

○にはかにれいならぬこと

突然に病気になり、重症になったことを言います。

○同行に侍りける上人=西住上人

俗名は源季政。生没年未詳です。醍醐寺理性院に属していた僧です。
西行とは出家前から親しい交流があり、出家してからもしばしば
一緒に各地に赴いています。西行よりは少し年長のようですが、
何歳年上なのかはわかりません。
没年は1175年までにはとみられています。
千載和歌集歌人で4首が撰入しています。
同行に侍りける上人とは、すべて西住上人を指しています。
没後、西住法師は伝説化されて晩年に石川県山中温泉に住んだとも
言われています。現在、加賀市山中温泉西住町があります。

○上人たちまで来あひ

ここにある「まで」は時間的、空間的にある一定の範囲を示すための
言葉である「まで」ではありません。「詣で」の意味です。
病気見舞いに来て……ということです。

○さぞな君

副詞の「さぞ」に終助詞「な」が接続したことば。
本当に。いかにも。なるほど。というような意味になります。

○こころの月

仏教の信仰上のことで、比喩的に心の中にあるとする架空の月を
言います。仏教でいう悟りの境地を指すための比喩表現です。

(01番歌の解釈)

「頼もしいな。雪を見るにつけて知られたよ。今までに
積もる煩悩が過去のものとなり、清らかな雪となって降って
しまったとは。」
           (西行歌)(和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「その通りだ、君よ。心の月を磨くにつけては、ようやくその
かいが表れて、四方に清らかな雪が降り敷いたのだ。」
      (西住上人の返歌)(和歌文学体系21から抜粋)

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【大乗院】

比叡山にある無動寺を構成する一堂宇の名称です。
無動寺は比叡山東塔に属していて、無動寺谷にあります。滋賀県
坂本からのケーブルで、延暦寺駅に降りて、すぐ側の急峻な道の
無動寺坂を一キロメートルほど下った所にあります。
不動明王を祀る明王堂が本堂で、ほかに建立院・松林院・大乗院・
玉照院・弁天堂その他の堂宇を総称して無動寺といいます。
明王堂は千日回峰行の根本道場ともなっています。
慈円はこの無動寺の大乗院で何年から何年まで修行したのか私には
不明ですが、いずれにしても西行とは無動寺大乗院で逢っていると
いうことになります。
尚、親鸞聖人も10歳から29歳まで大乗院で過ごしたことが知られて
います。現在の大乗院はお寺としての建築様式ではなく、民家の
ような感じの建物です。もともと住坊だったものでしょう。

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     無動寺へ登りて大乗院のはなち出に湖を見やりて

01 鳰てるやなぎたる朝に見渡せばこぎゆくあとの波だにもなし
      (西行歌)(岩波文庫山家集278補遺・異本拾玉集)

     帰りなむとて朝のことにて程もありしに、今は歌と申す
     ことは思ひたちたれど、これに仕るべかりけれとてよみ
     たりしかばただにすぎ難くて和し侍りし         

02 ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとなきかたにゆく心かな
     (慈鎮歌)(岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集) 

○はなちで

出窓のこと。現在でいうベランダと解釈できます。

○鳰

(にお)と読み、鳥の名。カイツブリ科に属しています。

○帰りなむとて朝の

帰るようになって朝のことで・・・ということ。
大乗院に一晩泊まって翌朝に発ったことが分ります。大乗院から
見る琵琶湖は湖面が眼前に迫ってきて、素晴らしい景観です。

○程もありしに

時間にも余裕があるということ。

○思ひたちたれど

歌を詠むという思いを断ったということ。
白洲正子さんの「西行」におもしろい記述がありますので紹介
します。

『「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど」といっているのは、
勝手に止したわけではなく、起請文まで書いて絶ったという
ことが、同じく拾玉集にのっているが、ほかにもいくつか
詠んだ形跡はあり、数奇のためとあらば、神の誓いに背いて
罪を得ることも、まったく意に介さなかったところに、西行の
強さといさぎよさと、あえていうなら面白さも見ることが
できる。』
           (白州正子氏著「西行」より抜粋)

○ただにすぎ難く

何もしない状態で時間の過ぎゆくままに任せるのはどうかと
思って……。何もしないままであることの心残りの心情を言います。

(01番歌の解釈)

「琵琶湖のないでいる朝に湖面を見渡すと漕いでゆく船のあと
さえもない静けさであるよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

「ほのぼとした夜明け方、近江の湖を漕ぐ舟のあとが残らない
ところ、そこにひかれゆくわが心よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

『慈鎭和尚』

慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。
西行と知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、
まだ慈円とは名乗っていないと思いますが、ここでは慈円と記述
します。
慈円は、摂政関白藤原忠道を父として生まれました。藤原基房、
兼実などは兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事
して道快と名乗ります。
(覚快法親王が11181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を
積んだということが山家集からもわかります。このころの比叡山は、
それ自体が一大権力化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返し
たり、園城寺や南都の興福寺との争闘に明け暮れていました。
それは貴族社会から武家政権へという時代の大きなうねりの中で、
必然のあったことかもしれません。

このような時代に慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の
兼実の命によって1192年から1196年まで。兼実の失脚によって
辞任しました。
次は後鳥羽上皇の命で1201年2月から翌年の1202年7月まで。1212年
と1213年にも短期間勤めています。
西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人とも呼ば
れました。善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚号されました。
歴史書に「愚管抄」 家集に「拾玉集」などがあります。新古今集
では西行の九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
      (学藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)

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